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学科共通科目(2010年度) 比較思想研究 第11回 善と悪とは何か その1:近現代哲学における善と悪(1) カントにおける善と悪

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学科共通科目(2010年度)

比較思想研究

第11回 善と悪とは何かその1:近現代哲学における善と悪(1)

カントにおける善と悪

1.1 カントにおける善と悪

カントにおける善と悪の問題を『道徳形而上

学原論』、『実践理性批判』、『単なる理性の限界内における宗教』に即して論じる。

1.1.1 道徳法則と善悪

• 善悪は、理性(実践理性)や道徳法則との関

連で考えられる。

• 善悪は実践理性の対象であり、道徳法則によって規定されるものである。

善と悪は、実践理性の唯一の対象である。

善は欲求能力の必然的対象を意味し、また悪は嫌忌能力の必然的対象を意味する。

善の概念および悪の概念は、道徳的法則に先立つのではなくて、道徳的法則のあとにあり、この法則によって規定せられねばならな

い。

善意志としての善―『道徳形而上学原論』より

• 世界において無制限に善と見なされ得るものは、善意志のほかにはまったく考えることができない。

• 悟性や機知や判断力や、そのほか一般に精神の才能と呼ばれるもの、あるいは勇気や果断さや根気づよさといった気質の諸特質は、疑いもなく多くの点で善く、望ましいものである。しかしこれらのものは、意志が善くなければ、つまりこれらの自然の恵みを使用し、したがってその独特の性質が性格とよばれる意志が善くなければ、きわめて悪く有害になることもある。

• 善意志は、それが遂行しあるいは成就するところのものによって善なのではない、また何によらず所期の目的を達成するに役立つから善なのではない。

• 善意志は実に意欲そのものによってのみ、換言すれば、それ自体として善なのである 。

善悪と選択意志―『宗教論』より

人間が道徳的意味において何であるか、もしくは何になるべきか、すなわち善か悪かは、人間が自分自身でそうなる、もしくはそうなったのでなければならない。両者はともに人間の自由な選択意志の結果でなければならない。人間は善であるように創造されている、と言われる場合、人間は善に向かうように創造されており、人間における根源的素質が善である、ということが意味されている。しかし人間は、この素質が含む諸動機を自らの格率*のうちに採用するか否か(このことは彼の自由な選択にまったく委ねられている)に従って、彼は実際に善になったり悪になったりする。

• 道徳法則は、理性の判断においてはそれ自身動機であって、この道徳法則を自らの格率*とする者は誰でも道徳的に善なのである。

• ある人間が悪と呼ばれるのは、その人間が悪しき(法則に反した)行為をなすからではなくて、それらの

行為がその人間のうちの悪しき格率*を推定させるような性質をそなえているからである。したがって、悪の根拠は、選択意志を傾向性によって規定する客体のうちにではなく、つまり自然衝動のうちにではなく、選択意志が自らの自由を使用するために自己自身に設ける規則のうちにのみ、すなわち格率*のうちにのみ、存することができる。

※格率

• 格率とは、個人的な行為の規則のことである。

• 法則は、すべての理性的存在者に妥当する客観的原理であり、また主観が行為に際して則るべき原則すなわち命法(→定言命法)であ

る。

※傾向性

人間がもつ欲望や感情のこと。

※定言〔的〕命法

• 君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格率が普遍的法則となることを、当の格率によって〔その格率と〕同時に欲しうるような格率に従ってのみ行為せよ。

• 道徳法則の定式化

1.1.2 善悪と幸福および快・不快

善悪は幸福や快・不快から切り離される。

• 幸い〔幸福〕あるいは禍い〔禍悪〕は、つねに快適あるいは不快適、快楽あるいは苦痛という、われわれの状態に対する関係を意味する。

• 善もしくは悪は、意志が理性の法則によって規定されて何か或るものを意志の客観とする限りで、この意志に対する関係を意味する。意志は、意志の対象やその対象の表象によって直接に規定されるのではなく、理性の規則を自分の行為の動因とする能力である。善もしくは悪は、もともと人格による行為に関係するのであって、人格における感覚的状態に関係するのではない。

カントの道徳論は幸福論の立場をとらない。

• 幸福論では経験的諸原理がその基礎の全体をなしているが、道徳論はそのようなものを含まない。

• 幸福の認識はまったく経験的事実に基づき、幸福に関する判断は各人の臆見に左右され、そのうえこの臆見なるものが極めて変わりやすい。幸福の原理は、一般的な規則を与えることはできるが、普遍的規則を与えることはできない。大体において極めてしばしば当てはまるような規則を与えることはできるが、しかしいかなる時にも必然的に妥当せねばならないような規則を与えることはできない。したがって、実践的法則を、幸福の原理のうえに確立するわけにはいかない。

幸福の原理と道徳法則

• 幸福の原理は、すべての理性的存在者に同一の実践的規則を指定するものではない。これに反して道徳的法則は、およそ理性と意志とを具えているほどの人になら、例外なく妥当すべきであるからこそ、客観的に必然的と見なされるのである。

1.1.3 最高善

• 理性は、それが認識に関して理論的に働く場合だけでなく、純粋な実践的理性として働く場合にも、無条件的なもの〔無制約的なもの〕を求める。しかも、意志の規定根拠としてではなく、純粋実践理性の対象の無条件的全体性を「最高善」という名のもとに求める。

道徳法則と最高善

• 道徳法則は、純粋意志の唯一の規定根拠である。しかし、この法則はまったく形式的であり、意志の規定根拠として一切の実質を、したがってまた意欲の一切の客観を無視する。

• 最高善は、純粋実践理性すなわち純粋意志の対象の全部であるが、だからといってこの最高善を意志の規定根拠と見なしてはならない。意志の規定根拠は道徳法則だけであり、この法則のみが最高善とその実現あるいは促進を、自己の対象〔目的〕たらしめる根拠と見なさねばならない。もし道徳法則に先立って、善の名のもとに何らかの客観を意志の規定根拠と見なし、最高の実践的原理をかかる客観から導き出すならば、そのようなことは意志の他律を招来して、道徳的原理を押しのけるであろう。

最高善とその要素◆最高善によって、幸福は新たな意味で回復される。

• 「最高のもの」は「最上のもの」と「完成せるもの」という二つの要素を含む。最上のものは、それ自身が無条件的である条件、換言すれば、自分が従属すべきいかなる条件をも自分の上にもたないような条件であり、また完成せるものはより大なる全体の部分でないような全体である。徳(幸福を受けるに値することとしての)は「最上善」と見なされる。しかし、徳はまだ有限な理性的存在者の欲求能力の対象としての、完成された全体的な善ではなく、このような善であるためには、幸福も必要とされる。しかもこの幸福は、自分自身を目的とするような個人の片寄った目だけが幸福と見なすようなものではなくて、およそこの世界における人格一般を目的自体と見なすような、えこひいきのない公平な理性が幸福と判断したものでなければならない。

徳+幸福→最高善

• 徳と幸福とは、相まって人格に最高善の所有を可能ならしめる。この場合、徳は「道徳性」とも呼ばれ、幸福は道徳性の結果である。それゆえ、幸福が道徳性に従属するという関係においてのみ、最高善は純粋実践理性の全体的対象をなす。

最高善の実現

• この世界において最高善を実現することは、道徳法則によって規定可能な意志の必然的対象である。意志が道徳法則に完全に一致することは神聖性と呼ばれる。しかし、神聖性は、感性界に属する理性的存在者としては、彼の現実的存在のいかなる時点においても、達成しえないような完全性である。にもかかわらず意志と道徳法則との完全な一致が、実践的に必然的として要求されるとすれば、それは完全な一致を目指す無限の進行のうちにのみ見出されうる。(続く)

最高善は心の不死を要請する

• しかし、このような無限の進行は、同一の理性的存在者の実在と人格性とが無限に存続すること(心の不死)を前提にしてのみ可能で

ある。最高善は「心の不死」を前提にしてのみ実践的に可能となる。したがってまた、心の不死は、道徳的法則と不可分離的に結びついているものとして、「純粋実践理性の要請」である。

幸福と神の実在の要請

• 道徳的法則は、さらに進んで最高善を形成する第二の要素、すなわちこの道徳性に相応する幸福の可能性に達しなければならない。このことは、あくまで公平な理性にもとづいて、かかる結果〔幸福〕に対応する原因の現実的存在の前提へと至らねばならない。すなわち、「神」の実在を、最高善の可能性へ必然的に属するものとして要請しなければならない。

道徳から宗教へ

• 道徳的法則は、純粋実践理性の対象および究極目的としての最高善の概念を通じて、宗教に到達する。宗教は、一切の義務を神の命令として認識する。

2.1.4根本悪

• 人間の本性のうちには善への三つの根源的素質がある。

• 1)生物としての人間の動物性の素質

• 2)生物であると同時に理性的な存在者として

の人間性の素質

• 3)理性的であると同時に引責能力のある存在者としての人格性の素質

• 人間には善への素質がありながらも、悪へと向かう傾向がある。

• 「人間が悪である」ということは、「人間が道徳法則を自ら意識しながらも、なお道徳法則からその違反を自らの格率のうちに採用している」ということである。

• 「人間は生来悪である」ということは、このことが類として見られた人間について妥当する、ということである。

• まず人間本性のうちには「悪への性癖[傾き]

がある。この悪への性癖は、選択意志の道徳的能力にのみ付着しうる。この性癖とは、人間性一般にとって偶然的である限りでの傾向性(習性的欲望)を可能にする主観的根拠の

ことである。

悪への性癖

• 悪への性癖は三段階に分かれる。

• 第一は、採用された格率一般の遵守に際しての「人間の心情の弱さ」、いいかえれば「人間本性の脆さ」である。

• 第二は、道徳的動機と非道徳的動機とを混同する性癖、すなわち「不純」である。

• 第三は、悪しき格率を採用する性癖、すなわち人間本性もしくは人間の心情の悪性である。この人間の心情の悪性は人間の心情の「腐敗」とも言われ、道徳法則から発する動機を他の(道徳的ではない)動機よりも軽視するという格率へむかう選択意志の性癖である。これは人間の心情の倒錯とも呼ばれる。というのは、これは自由な選択意志の動機に関してその道徳的秩序を転倒させるからである。

悪への自然的性癖

• 人間のうちには悪への自然的性癖がある。この性癖そのものは、結局は自由な選択意志のうちに求められ、それには責任が帰せられうるから、道徳的に悪である。この悪は根本的と呼ばれる。なぜなら、それがあらゆる格率の根拠を腐敗させるからであり、同時にまたこれは自然的性癖として、人間の力によっては根絶できないからである。

• この性癖は自由に行為する存在者としての人間のうちに見出されるから、これに打ち克つ[圧倒する]ことは可能でなければならない。

人間本性の悪性

• 人間本性の悪性は、悪を悪として自らの格率のうちに動機として採用する心術[心の持ち方](悪魔的な心術)ではない。それは心情の

倒錯であって、こうした心情は結果に関して悪しき心情とも呼ばれる。この悪しき心情は一般の善き意志と両立しうるし、これは自分が採用した諸原則を遵守するのに十分なほど強くないという人間本性の脆さから生じる。

善へ立ち帰る「改善の能力」

• 人間には悪から再び善へ立ち帰る「改善の能力」がある。心情が腐敗しているにもかかわらず、なお依然として善き意志をもつ人間には、彼がいったん背き出た善に復帰する希望が残されている。

善への根源的素質の回復

• 善への根源的素質を回復することは、道徳法則の純粋性の回復である。この回復によって道徳法則そのまったき純粋性において、それだけで選択意志を規定するのに十分な動機として格率のうちに採用されることになる。根源的な善は、自らの義務を遵守することにおける格率の神聖性である。

• 善の素質の回復を、格率の基礎が不純である限りは漸次的な改革によっては実現することはできないのであり、それは人間における「心術の革命」によって実現されねばならない。そして彼は、新たな創造にも似た一種の再生と心情の変化とによってのみ、「新しい人間」となることができる。