第一次世界大戦期ドイツにおける - 広島大学 学術情報リポジトリ · 2015....

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第一次世 世襲財産の - プルタレス伯爵家のグル (490) 70 一はじめに ポール・ドゥ・プルタレス伯爵Graf Pau は,パリに住むフランス人貴族である。フランス軍予備役騎兵 大尉Rittmeisterder Reserveのか 期にあって'プロイセンのシュレ-ジエンSchlesien州 約二二〇〇ヘクタール規模のグルムボヴィツ所債Herrscha Glumbowitzを所有しているOこの所領は「世襲財産」F kommiBである0したがって、かれは'いわば「フランス人貴 族のドイツ世襲財産所有者」であるへといってよいOこの惟襲 財産は'1九世紀の六〇年代に'ポールの伯父にあたるプロイ セン国人カール・フォン・プルタレスKarlvonPourtales伯 爵によって設立され'その後カールの息子ジェームスJames伯 範の手を経たが'1九〇八年以来は'寄 :eサ: て'ポール伯爵の「所有と管理」Bes 下に移った。しかし'法解釈上の複雑な問題が絡ん 第l次世界大戦期ドイツ=プロイセン政府の経済政策・ の政治的配慮から'この他襲財産にはまだへ「プロイセン国 の認可」die landesherrliche <GE いない。 他方、ジェームスとかれの母アグネスAgnesとの完全私有 遺産Allodialnachlasseを受け継いだ「ジェームス・ :gサ: ・プルタレス伯爵の内地植民振興基金」(以下「ジェームス基 金」 またはたんに「基金」と略記〕die Graf James von Pourtales'sche Stiftung zur FOrd Kolonisation が'そして、マ-ーMarie をはじめとするア

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第一次世界大戦期ドイツにおける

世襲財産の清算

- プルタレス伯爵家のグルムボヴィツ所領 -

藤  房  雄

(490) 70

一 は じ め に

ポール・ドゥ・プルタレス伯爵Graf Paul de Pourtales

は,パリに住むフランス人貴族である。フランス軍予備役騎兵

大尉Rittmeisterder Reserveのかれは、第一次世界大戦

期にあって'プロイセンのシュレ-ジエンSchlesien州にも

約二二〇〇ヘクタール規模のグルムボヴィツ所債Herrschaft

Glumbowitzを所有しているOこの所領は「世襲財産」Fidei-

kommiBである0したがって、かれは'いわば「フランス人貴

族のドイツ世襲財産所有者」であるへといってよいOこの惟襲

財産は'1九世紀の六〇年代に'ポールの伯父にあたるプロイ

セン国人カール・フォン・プルタレスKarlvonPourtales伯

爵によって設立され'その後カールの息子ジェームスJames伯

範の手を経たが'1九〇八年以来は'寄付行為書の定めに従っ

:eサ:

て'ポール伯爵の「所有と管理」BesitzundVerwaltungの

下に移った。しかし'法解釈上の複雑な問題が絡んだうえ把へ

第l次世界大戦期ドイツ=プロイセン政府の経済政策・国策上

の政治的配慮から'この他襲財産にはまだへ「プロイセン国王

の認可」die landesherrliche Genehmigungは与えられて

<GE

いない。

他方、ジェームスとかれの母アグネスAgnesとの完全私有

遺産Allodialnachlasseを受け継いだ「ジェームス・フォン

:gサ:

・プルタレス伯爵の内地植民振興基金」(以下「ジェームス基

金」 またはたんに「基金」と略記〕die Graf James von

Pourtales'sche Stiftung zur FOrderung der inneren

Kolonisation が'そして、マ-ーMarie をはじめとするア

第一次世界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

RenouaHd

Edmund

Hubert Pau-Jacques

(群)  ‥  罷帯薗Bq匁o・

(サS)DZA Merseburg,

Nr.5790,B1.109.

潤-図-fflsf¥s7-舛爵湘EZl

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Wilhelm Malte zu Putbus

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Wanda Margot Viktoria Asta Marie

-  罷jl事Bg覇o

Hist.Abt.ll,2.5.1,Nr.5789,Bl.30f-,66f.、141;DZA Merseburg,Hist.Abt.ll,2.5.1,

汁6yF熟o

グネスの五人の姪達(第一図参願)が'それぞれの立場から、

このグルムボヴィツ所領の所有権を主張するO こうして'ポー

ル伯爵を含む上述の三者間において'所領相続の帰趨をめぐる

厳しい係争状態が形づ-られることになる。

さらに'以下の事実がこれに加わる。それは'一九一八年三

月l二日へ時のドイツ帝国宰相Reichskanzler へルト-ング

Georgvon Hertlingが、グルムポヴィツ所領の「清算」Li・

(4)

quidatioロを命じるという事態であった。ことここに至り、罪

一次他界大戦期にあって'ドイツのプルタレス伯爵家は'フラ

ンス在の同門家族を直接巻き込みながら'惟襲財産の「認可・

相続・清算」のいずれの側面から見てもきわめて複雑な問題を

fir,]

抱え込むこととなったのである。

そこで以下においては'第1次位界大戦期におけるこうした

問題状況へとりわけへ惟襲財産清算の歴史的意味を明らかにす

るためにへ次の順序で考察を進める。最初に'惟襲財産清算の

実証的分析を果すうえで欠-ことのできぬtつの基礎作業とし

て'所領相続をめぐるプルタレス伯爵家内の係争状態を概観す

る(二 「ジェームス基金」の立場 三 アグネス伯爵夫人の

姪達)。つづいて'算l次位界大戦末期に行なわれた所債清算の

実態を跡づけ(四 清算の実際)へ最後に'「算l次他界大戦期

ドイツの憧襲財産清算問題」ともいうべき当該の問題状況全体

の総括にかえるさし.あたっての認識を提示して'本稿の検討を

終える(五 結びにかえて)。なお、本稿は'メルゼブルクMer-

seburgの『ドイツ中央文書館』DeutschesZentralarchiv所

:cs凡

蔵文書を基礎としたへ ドイツ健襲財産にかんする実証研究の1

:<s凸

環である。

注0

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71 (491)

sches Zentralarchiv,Dienststelle Merseburg,Histo-

rischeAbteilung(以下t DZAMe.rseburg,Hist.Abt.

と略記)II,2.5.1,Nr.5790,DasGlumbowitzerGr監ich

Karl vonPourtales'scheFamilienfideikommiB,1914-

1921 B1.148.

(2) ドイツ系プルタレス家の世襲財産が設定された後へ フ

ランス人ポール伯爵の手にそれが移る経緯へ そしてへ認可

をめぐるプロイセン中央諸官庁間での厳しい議論のやりと

り等の諸点については'拙稿「ドイツ世襲財産の『認可』

Genehmigung問題~『ドイツ中央文書館』Deutsches

Zentralarchiv所蔵文書による事例分析~」『修道商学』

第二四巻へ第二号へ l九八三年へ所収へ参照。本稿は'こ

れの続稿にあたるものである。

(co) DZAMerseburg,Hist.Abt.ll,2.5.1,Nr.5790,B1.

園pJJP

O) Vgi.ebenda.B1.111.

(5) 本稿では、「認可・相続・清算」の三側面のうちへ最

初の「認可」問題には主要な力点はおかれていない。その

基本的な問題点は'前掲拙稿で検討した。なお'ここでへ

プルタレス家の由来と家系を瞥見しておきたい。同家の祖

は'南フランスに住むユグノーHugenotteであった。一

族は'「ナントの勅令」Edikt von Nantesの廃止(1六

八五年)後へスイスに移る。その後へ一七五〇年にFried・

rich大王からプロイセンの伯爵位を得た大商人Jeremias

の息子JacobLudwigのときにt l家は'現スイス領の

Neuenburg(フランス名Neuchatel)に居を構える。

JacobLudwigの三人の息子達は、FriedrichWi-he-m

三世によって伯爵に列せられる。その三男Friedrich(

七七九Il八六一年)は'皇帝の主馬頭Stallmeister等

を経た後、T八四二年ベル-ンで式部長Oberzeremoni・

enmeisterの伊につ- Friedrichの息子がAlbertC

八一二-六一年)である。かれは、国務大臣を務めたM?

ritz August von Bethmann-Hollweg(一七九五1一

八七七年)の娘婿で'プロイセンのKonstantmope-駐

在大使等の要職を歴任した。そしてへAlbertの甥Fried-

rich(一八五三-一九二八年) もまたドイツの外交官だ

った。このフ--ド-ヒは'グルムボヴィツ所領の清算の

際に'ある重要な役割を果すことになる(後述)-Vgl

Allgemeine DeutscheBiographie,Bd.26,N.eudruck

der 1.Auflagevon1888,Berlin1970,S.492ff.;K.Bosl

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terbuch zur Deutschen Geschichte、Bd.2,Miinchen

1973,S.2205.ただしへ この人名辞典によっては'本稿の

一方の主人公Paul・James達と上記Friedrichらとの

家系上のつながりは、判明しなかった。

(6) 本稿のおもな使用史料は'注.iに挙げたものと、DZA

Merseburg,Hist.Abt.II,2:5.1,Nr.5789,Das Glum-

bowitzerGrsflichKarl vonPourtales'sche Familien-

(492) 72

第-次位界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

fideikommiB,1894-1913;DZAMerseburg,Hist.Abt.

II2.2.1,Nr,31036,Pourtales,1917-1918.の計三つであ

る。なお,DZA Merseburg,Hist.Abt.II,2.5.1.とし

て整理されている史料は'旧プロイセン法務省Justizmi-

nisterium所蔵の文書類であり'同じ-2.2.1.は、旧

プロイセン農林省MinisteriumfiirLandwirtschaft,

DomSnen und Forsten関係の諸文書である。

(7) 世襲財産にかんする実証研究の研究史的・理論的意義

については,さしあたり、吉岡昭彦氏の示唆に富む問題提

起「帝国主義論と土地所有論」『社会科学の方法』第l六

巻,第二号,一九八三年、所収へ参照。なお、ここでは、紙

数の制約上、内外の研究史に詳し-触れる余裕はない。わ

が国の代表的な業績としては、とりあえず'畢氷泰子「プ

ロイセン惟襲財産問題-帝制期ドイツにおける土地政策

の一動向1」『西洋史学』第六八号、一九六五年へ所収、の

みを挙げておきたい。国外に眼を転じると'筆者の知るか

ぎり,近時にあっては'東西両ドイツともにへまだ最新の

本格的成果を生み出してはいない(一九世紀末の。ンラー

トJohannesConradに始まりへヴェ-バーMaxWeber

を経て,一九二〇年代に至る研究史上の業績については'

さしあたり,FranzHorsten,DieFamilien-Fideikom-

miB=Politik inPreuBen inbesonderer Berticksich-

tigungderparteipolitischenStellungnahme、GieBen

1924,S.5f.の文献目録参照)。このように見てくると'

「二〇世紀初頭の最初の十年間を含むl九位紀農業史の全

分野-農業生産・農業制度・階級状況・農村における階

級闘争Iにわたる'なお新たに発見され充分検討される

べき一次史料Quelleの宝庫」たる『ドイツ中央文書館』

所蔵文書の分析が,惟襲財産研究にとっても'是非とも果

されなければならぬ基礎作業の一つとされざるをえないよ

うに思われる Vg1.UdoDrager,DerB'estandPreu-

Bisches Ministerium fiir Landwirtschaft,Domanen

und Forsten im Deutschen Zentralarchiv,Histori・

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wirtschaftsgeschichte,1970III,S.263.

こ 「ジェームス基金」の立場

一九一七年一〇月二九日へ当地の世襲財産監督庁たるプレス

ラウ高等裁判所Oberlandesgericht inBreslauは'グルム

ボヴィツ所儀の相続問題をめぐる利害関係者を同所に召喚す

る。それは,法務大臣の指令に従ってへ所層諸省の担当官と私

的関係者との協議を行なうためであ置。本節の課題は,「ジ

ェームス基金」の代理人である弁護士・法律顧問官Justizrat

フリードレンダーLudwigFriedlsnderがへこの召喚後にし

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たためた法務大臣宛文書(一九一七年二月l七日付)を基と

して、「基金」の主張点を整理することであるがへその前に、当

73 .」493)

:cz爪

該の所債経営の実務に通じた「農場支配人」Guterdirektor

ヴィルナ-Dr.Gotthard Willner の見解に'後論の展開に

とり必要なかぎりで簡単に触れておきたい。

(4)

- ヴィルナ-案

(m>

ヴィルナIは'ポール伯爵の「使用人」Beainterである。か

'

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)

れは、「ジェームス基金」の「副理事」stellvertretendesVor-

standsmitgliedでもあるが、後にみる訴訟の際、ポールの「総

(7)

代理人」Generalbevollm阿chtigteとなっているので'「基金」

の立場ではな-'むしろへ ポールのそれを代表しなければなら

ない人物である'といってよい。

さて'一九丁七年一一月五日付の文書において'内地植民問

題とかかわらせてヴィルナーが説-グルムポヴィツ所領の有効

利用法は'およそ以下のとおりである。最初にかれは'内地植

民向きの土地を確定することから始めている。「ジェームス基

金」により入植地用とされた土地は当初は'約六二・五ヘクタ

ールであった。これ以外にもっと入植地をつ-るべきであると

するならばへさしあたりへ大経営向きの耕地が農場として維持

m爪

されつつへ「農場群」Gutshofから離れた'大経営に不向きな

(oj

土地が植民用に供される場合に'「最大限農業生産の利益」が実

現される、といってよい。このことばへ所儀内のLeube-農場

(第一表参照)にとりわけてよくあてはまる。けだしへ同農場

にはすでに分農場VorwerkのTschipkei入植地がありへさ

らにへ この農場は他農場との場所的つながりのないところに位

置しているからである。だが'同時に他方で同農場は'蒸気翠

・自動翠・軽便鉄道・役畜等の利用の点で'またへ排水事情の

点から見てへ大塔営向きの側面を多々兼ね備えた農場であるこ

とにも注意しなければならない。こうしたことを勘案するとt

Leube-農場はその約半分の土地が'入植地として使われるの

に適している、と見なすことができるPそれは約二五〇ヘクタ

ールである。

さらに、このほかになおもっと大規模な植民事業が展開され

るべきであるとするならば、別の三七五ヘクタールはどの土地

が入植地に振り向けられよう。しかし'これはへ「最大限農業

生産の利益」を顧みず'いわば「自立的農夫selbst晋dige

CS)

Landwirte最多数入植」の利益のみを追求してよい場合の数

CS)

値であることが忘れられてはならない。ともあれ、入植のため

に用いられてよい所領の土地は'結局へ最大限で合計六八七・

五ヘクタールに達することになる。この面積は'所領の三割強

に相当する。

このように入植用地を確定した後、ヴィルナ-は、かれの考

(494) 74

第一次惟界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

第一表 グルムポヴィツ所領の土地所有一覧

(A) 1. Rittergut Glumbowitz

2. Rittergut GroB-Strenz

3. Rittergut Klein-Strenz

4. Rittergut Exau

5. Rittergut GroB-Baulwie mit Tschepline

6. Rittergut Leubel mit Tschipkei

7. Grundstuck Glumbowitz  (1)

8.

9.

10.

II

12.

13. Grundsttick Grot3-Strenz

14.

.15.

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18.

HI.

20.

2¥.

22. Grundstuck Exau

'23.

24. Grundstuck Leube1

25. Grundstuck Klein-Strenz

26.

小  計(A)(B) 27. Grundstuck Glumbowitz

28. GrundstUck GrOB-Strenz

29. Grundsttick Klein-Strenz

30.

31. Rittergut Siegda

32. Rittergut Wiersebenne小  計(B)合  計

(2)

(3)

(4)

(5)

(6)

(1)

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(3)

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(5)

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(8)

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(2)

仙物

冊㈹㈱㈲

241. 2920ha

144. 1700

268. 9920

476. 4928

320. 6622

479. 0328

0. 2200

0. 6740

0. 0970

0. 0840

0. 0740

0. 0410

14. 9970

2. 8700

5. 6680

1. 5500

2. 5730

0. 2600

0. 0380

0. 0560

4. 3740

0. 0310

7. 9560

0. 1610

5. 3840

1. 6370

1979. 3868

0. 2220

0. 0970

2. 6110

5. 9930

150. 4734

103. 5150

262. 9114

2242. 2982

(注3 CA)はKarlの遺産に由来するもの、 (B)はJamesの自由財産freies

vermogenから仕襲財産に付け加えられたもの。

(資料) DZA Merseburg,Hist.Abt.II,2.5.1,Nr.5789,Bl.55a--.より作成o

75 C495)

ぇる最善の内地植民振興策を提示している。それは二言にし

て、「ジェームス基金」によるグルムボヴィツ所領全体の引き

取りであった。少し-詳し-いうと,植民実施中は「基金」が

所領の全体を管理して'農場を含む土地の貸出を行なう。「基

金」により指名される入植用地の借地人または管理人Admi-

nistratorは'1定期間の経過後へ良-手入れした状態で土地

を入植者に引き渡す。そして、入植終了後,「基金」は残った

土地(主として大経営用地)・館等を'プルタレス伯爵家の人

に売却する。ヴィルナIは、このようにすることにより'植民

事業に向いている土地のすべてが余すところなく最大限有効に

利用される「最良の艶」が与えられる,と主張している。

ポール伯爵の代理人ヴィルナIは'ポールのことなどおくび

にも出さなかった。かれは'事実上「ジェームス基金」の側に

立つ内地植民振興策を展開して能事終れりとしたのであった。

以下では'フ--ドレンダー文書を検討する。

2 「基金」設立者の遺志

「基金」の設立者ジェームス伯爵は二九〇〇年四月二二日に

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したためた遺言書の「共同執行人LMittestamentsvollstrek-

kerであると同時に「基金」の理事でもあるヴァルンビエラー

男爵FreiherrAxel von varnbuler宛の書簡(l九〇四年

7月とt九〇九年四月の二種類)において'グルムボヴィツ所

領がたどるやもしれぬ運命について、その仕襲財産固定Fidei-

kommifi-Bindung からの解除の可能性をすでに予見してい

た。かれは'所債が家族性襲財産でなくなったときのためにへ

以下の望みを言明していた。すなわちへ「この世襲地Majorat

が性襲財産としての属性を'私の父方の血族により解消させら

れる場合には'私は'それが他人の手に渡らないで、ジェーム

ス基金によって買い取られることを嬉しいと感じるであろう。

あるいはまた、人手に渡りさえしなければよいのであるから'

私の父方の血族が'適当な価格でそれを買い取るというのも悪

CS)

-ないだろう」へと。

さて'7--ドレンダーはいう。ジェームス伯爵のこの言明

がその前半部分について実現し'「基金」がグルムポヴィツ所領

の獲得に成功すれば'内地植民事業の振興にかんする「基金」

の努力は'おおむね、さきのヴィルナIの考えの筋道に従って

行なわれることになろう。ただしへ「基金」としては'所領のど

の部分が入植地向きであるかという点についてヘヴィルナIの

計画とは別個に再検討する権限を留保するものであることは,

いうまでもない。

では、所領の入植地への分割にかんする「基金」の判断基準

(496) 76

第-次位界大戦期ドイツにおける健襲財産の清算

はなにか。この点についてへ フ--ドレンダーは次.のような見

解を披摩している。すなわち'小経営として使えば比較的大き

な農業収益を約束するであろう土地だけが入植地用に供される

べきなのか'それとも'大経営で期待される収益を切り詰めて

でもへ入植地用の土地を工面すべきなのかどうか - この点は

CS)

要するに、「最大の農業純収益」と「自立的農夫のできうるか

CS)

ぎりの定住化」との二者択lにおいてへそのどちらを達成すれ

ば'公共の利益に資するところがより大であるかtということ

に左右される。

次に、入植地を売却すべきか'それともその貸出を選ぶべき

であるかどうかという点についてへ「基金」は'後者へそれも'

入植地の長期的(三〇年間)貸出を行なうべきであるとした設

立者ジェームスと同じ見地に立っているOけだしへ戦傷者が鯵

しく存在する現下の状況にあっては'かれらが'自らの出費で

各種備品を調達することのできる農業家として'入植地の賃借

に進んで応じるであろうからである。しかも「基金」は、これ

ら借地人の備品調達を援助するために、特別資金の低利貸付の

道を開いてもいるのである。とはいえへ内地植民を促進すると

いう「基金」の本来的課題が'こうした仕方では充分達成され

えないと判明したそのあかつきには'入植地の貸出かlらその売

却に移るにやぶさかではない。

他万へグルムボヴィツ所領の入植地向きでない部分へ換言す

れば'大経営として利用されるのに適した土地部分の処理につ

いてであるが'この点にかんしても'「基金」の考えはヘヴィル

ナIのそれと大筋において一致している。すなわちへ「基金」が

そうした土地を一定期間管理・保持することがそれである。な

ぜなら、このことによってへ「基金」は'入植地に隣接した大

経営において入植者達の経営にとっての適切な模範を与えるこ

とができへまたへ 入植地に利用されるべき土地をへ その譲渡の

前に改善してお-ことができるからである。

しかし'「基金」としてはう所領の維持はあくまでも経過的・

暫時的な措置と考えている。すなわちへ「基金」は、設立者ジ

ュームJtの意図に添いへプルタレス家の名前を末永-この土地

O

O

o

O

所有に結びつけてお-ためにへこの所領を同伯爵家のドイツ系

の一家族にいずれそのうちに売却することを企図しているので

ある(傍点筆者)。この場合へ所懐を引き取る用意のあるドイ

ツ系のプルタレス家に事欠-ことは決してあるまい。また'館

(5)

一庭園・狩猟地についてであるが、「基金」は'「債主的別荘L

henschaftlicher Ruhesitzを求める高級軍人・官僚へ そし

て元農業家が少なからずいるのであるから'賃借人を見つける

77 (4975

のは決して難し-ないであろうとの考えに立って'賃貸による

その利用を目論んでいる。

3 認可問題

次にへ T九l二年以来かねて係争中の認可問題についてであ

るが'グルムボヴィツ所領を家族性襲財産と認定する国王の決

定が下されない場合には'いったいどうなるか。この点にかん

する「基金」の理解は'おおむね以下のとおりである。こうし

た事態が意味するところは'要するにへカール伯爵の遺言が'

当該の所領の世襲財産化にかんするかぎり'実現されないこと

である。したがってへ この場合へ所領は'自由なungebunden

所有地として'カールの遺産相続権者(ジェームス)の手中に

帰すことになる。グルムボヴィツ所領は世襲財産ではなくへカ

ールの遺言は法的に無効となる。それ故'この所領は'カール

の息子が子孫を残さずに死去した際の跡継ぎにカールにより指

定された'カールの甥ポールのものには決してならない。認可

が与えられなかった場合どのようになるかという点にかんする

「基金」の見解は'以上の点に集約される。

一方へグルムボヴィツ所領を得ようとしてアグネスの姪達が

主張したジェームスとアグネスとの遺言の取消(後述)につい

てであるが'「基金」としては'こうしたことはまった-の問

題外であるというはかない。なぜなら'ジェームスは'所飯に

世襲財産としての認可が与えられないときには'かれの完全私

有財産だけでな-'所領そのものをも'単独相続権者としての

「基金」に与えていたに相違ないからである。このことは'ジ

ェームスがヴァルンビエラーに宛てた前述の手紙に示されてい

るとおりである。ともあれへ怪童財産設定の認可が附与されな

いのであれば'「ジェームス基金」としては、グルムボヴィツ

所領それ自体の所有を'たとえ暫時的・経過的にすぎないとし

ても'成功裡に請求することができるへと確信しているのであ

る。4

 戦時法規の内容

(1)

さて次にへ l九一七年三月1四日の「フランス企業清算令L

Bekanntmachung,betreffend Liquidation franzssischer

Unternehmungeロに基づいて'グルムボヴィツ所領の清算が

開始される場合には'「基金」にとって、はたしていかなる状

況が生じるのであろうか。いまこの点の検討に進む前にへ当該

の法令の内容を見ておきたい。

「l九l六年七月三一日の『イギ-ス企業清算令』Bekannt-

machung,betreffend Liquidation britischer Unterneh-

(3)

mungen第一二条に基づき'以下のとおり決する。

(498) 78

第一次世界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

鐸一条一九l六年七月二二日の『イギ-ス企業清算令』の

諸規定は、報復の手段としてへその資本の大部分がフランス国

人のものである企業に、またへフランス領からの管理・監督を

受けているか、大戦の勃発に至るまでそうであった企業に'そ

して,そのような企業へのフランス人の資本参加の場合に適用

されると宣する。

第二条 本令は'布告の日(一九1七年三月l四日)をもっ

て発効する。帝国宰相代理 Dr.Karl HelfferichLo

この「イギリス・フランス企業清算令」についてここでは'

後論とのかかわりで'以下の三点を指摘してお-だけで充分で

あろう。第一にへ清算の対象には土地所有も含まれていたこ

(S)と,墾正'清算担当官Liquidatorにはその対象を売却す

CS)

る権限が与えられていたこと'そして第三に、企業の売却代金

等の清算収得金Liquidationserlssが清算の費用にあてられ

cァサ

るとされていたこと、この三点である。

5 所領清算問題

最後に'清算問題にたいする「基金」の立場は'フリードレ

ンダーによればおよそ次のとおりである。かれはいう。容易に

推察されるように'もしもへ「フランス企業清算令」に基づい

て,グルムボヴィツ所領の清算が始まれば'所領にたいする

「基金」の要求を貰徹することは著し-困難となろう。いやへ

それどころではない。ことによるとへこの要求そのものが挫折

させられることになるかもしれぬのである。ともあれ、当「基

金」が'カール伯爵自身の相続権者としての資格で'グルムポ

ヴィツ所領を要求してもよいのかどうかという点について、法

律上最終的にはっきりしないかぎり'換言すれば、認可問題に

決着がつかないかぎり、「基金」としては'清算が決定されれ

ばへこの所髄を人手に渡らせないために'たとえ法外に高い言

い値Gebot であってもちこれに応じるはかないということに

なろう。さもなければ、清算担当官が'この所領を墾二者に売

り渡してしまうかもしれないからである。この一事のみをもっ

てしても、清算が「基金」にとってきわめて不利な事態である

ことは'明らかである。

それ故へ「基金」は'法務大臣に'清算の開始を思いとどま

って頂きたいと請願せざるをえない。またへこの請願を実現す

るための前提条件が'当該の値襲財産にたいしてへ国王の認可

が附与されないことであり'同時にへこのことによりただちに

問題となを次の点へすなわちへグルムボヴィツ所領ははたして

「基金」のものなのか、それとも'ポールの所有に帰するもの

なのかとの問題を'法廷闘争に打って出てでも即座に解決する

79 (499)

ことであるとするならば、「基金」としては'こうした条件に

全面的に応じるにやぶさかではない。事実へ「基金」はすでにへ

国王の認可が与えられない場合には時を移さず'上の所有帰属

問題の解決を法廷にもちこもうと意を決しているのである。1

方の当事者であるポール伯爵の事情を見ても'このようなすば

やい訴訟の実現可能性は充分にあるへといってよい。けだしヘ

ヴィルナ-博士が'ブルムボヴィツ惟襲財産にかんするすべて

の案件についてへさらには'法廷での代理という点にかんして

も'ポールによって一九〇八年二月二七日以降へ全権を委任さ

れておりへ こうしてヴィルナIは'ポールにかわって'ドイツ

の法延に立つことができるであろうからである。

フ-IドレンダIはこのように述べている。以上へ要する

に、かれが語る「ジェームス基金」の立場は'グルムボヴィツ

所領を当面「基金」の所有に移すためへ認可と清算の双方に反

対するというものであった。

注(-) Vg1.DZA Merseburg、Hist.Abt.IL2.5.1.Nr.

5790,B1.76.これは'ブレスラウ高等裁判所長官がt l九

l七年一〇月1八日付で法律顧問官Dr.Riemann(後述)

に宛てた召喚状である。

(<nO Ebenda.B1.59-65.

Cm) Ebenda,B1.109.

(4) ここでの叙述は'ebenda,B1.66-70.によっている。

この文書は一九l七年二月五日付でWohlau郡会Land-

rat宛にヴィルナIが提出した報告書である Vg1.eben-

da,B1.60f.なおへ本稿では、煩境を避けるためへ出典の

注記と説明の補足は必要最小限度にとどめていることを'

ここであらかじめ断っておきたい。

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0) Ebenda,B1.109.

(8) グルムボヴィツ所領の農用地は以下の四つの農場群

に分けられている。すなわちへ一Glumbowitz GrOB-

Strenz 農場群(Glumbowitz・GroB-Strenz・Klein-

Strenz農場)へ 二 Exau農場群(Exau・Siegda農場)へ

三 Tschepline 農場群(GroB-Baulwie mit Tschep-

1ine・Wiersebenne農場)へそしてへ四 Leubel農場群

(Leubel mit Tschipkei農場)がそれであり'第一の農

場群がへ所領全体の管理中枢Zentralverwaltungを成し

ている。これらの農場群のうち最後のLeubelを除く一二つ

の群は'ほぼひとかたまりになっていて'おおむねへTra・

cheロberg-㌍errnstadt鉄道路線の南側にありへLeube-

騎士農場だけがその北側に位置している Vg1.ebenda、

B1.66f.

O) Ebenda,B1.(

CS) Ebenda,Bl,69.

(500)

第一次他界大戦期ドイツにおける也襲財産の清算

0=0 グルムボヴィツ所債のGroB-Strenz地域には古-て

大きな「修道院所属会堂」Klosterkircheがある。所領所

有者はt GroB-Strenz騎士農場に付随する「教会保護者

権」Patronatsrechtに基づいてへ この「会堂および付属

建造物修理費負担の義務」BauFst を負わなければなら

ない。かれがこの義務を果して、なおかつ館と庭園を維持

してゆくためには、実入りのよい農用地の充分な面積が'

かれの手許に残されることが必要であろう。ヴィルナ-は

このように述べている。それ故'かれ自身は'最後の三七

五ヘクタールの土地まで入植地に振り向けることには必ず

しも積極的ではない Vg1.ebenda,B1.67f.

(2) Ebenda、Bl.69.

3) Ebenda,B1.60.ヴァルンビユラー以外になお二人の

「共同執行人」がいた。すなわち'AlfonsvonPourtales

伯爵(Laasow在)とブレスラウの枢密法律顧問官Gehei-

mer Justizrat,Dr.Ludwig Cohn-かれらは皆「ジェー

ムス基金」の理事でもある Vg1.DZAMerseburg,Hist.

Abt.II,2.5.1,Nr.5789,B1.66.

(3) DZA Merseburg,Hist.Abt.II、2.5.1,Nr,5790,

B.60.

(」)へ(S) Ebenda,B1.61.これはへさきに挙げたヴィル

ナIの言葉(注㈲・㈹参凧)の言い換えにすぎない。フ-

-ドレンダIはヴィルナIの報告書に眼を通していたにち

がいない。

(」O Ebenda,Bl,62.

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CS) 「・・・帝層宰相は'報復の手段として'本命の諸規定を

他の敵国にも適用すると宣することができる」。Reichs=

Gesetzblatt,Jg.1916,Berlin,S.874.全文1三条から成

る「イギ-ス企業清算令L Cebenda、S.871-874)は'1九

一四年八月四日の「戦時経済措置連邦参議院授権と戦時手

形・小切手取引期間延長とにかんする法律」Gesetz iiber

die Ermachtigung des Bundesrats zu wirtschaftli-

chen Ma冒ahmen und iiber die Verlangerung der

Fristen des Wechsel=undScheckrechts im Falle

kriegerischer Ereignisse (Reichs=Gesetzblatt,Jg.

1914,Berlin,S.327f.)に基づいて発令されたものであるO

(ァ) 「-本法令のいう企業には'企業の支店・遺産Nach-

1aBmasseへ そして土地も含まれる-」。「イギ-ス企業清

算令」第1条 Reichs=Gesetzblatt,Jg.1916,Berlin,S.

招hi

W) 「企業清算の任を与えられた清算担当官は-問題の企

業をそっくりそのまま売却することができる-」。同法令

欝三条 Ebenda,S.871.

「清算の費用は'清算収得金から支弁される-」。同法

令第七条 Ebenda、S.873.

81 (501)

(1)

三 アグネス伯爵夫人の姪達

弁護士兼法律顧問官--マンDr.Riemannは'故プ-ウ

ブス侯爵Fiirst Wilhelm Make zu Putbusの娘達五人の

:<s凸

「指定代理人」Bevollm細chtigterである。五人の娘達とは'

Marie zu Putbus侯爵令嬢・AstavonRiepenhausen式部

官Kammerherr夫人・Viktoria von Veltheim男爵夫人

Baronin・Margot Wurmb von Zink男爵夫人へ そして、

WandazuLowenstein侯爵夫人であり'彼女らは全員へカー

ル伯爵の妻アグネスの姪にあたる(第1図参腰).-Iマンは'

(3)

マ--以下五人の「訴訟代理人」Prozeftbevollm細chtigterと

して、アグネスとジェームスとの遺言書に見られる単独相続権

者指定の取消を求めてへブレスラウ地方裁判所 Landgericht

にたいする異議申立を行なう。本筋では'この間の事情を明ら

かにしてみたい。

(4)

1 ジェームスとアグネスとの遺言

「内地植民振興基金」は'1九〇八年三月一三日に開封され

たジェームスの遺言書に基づいて設立された基金である。かれ

は'自分の完全私有財産の単独相続権者としてこの基金を制定

したのだった。一方へジェームスの母親アグネスは、彼女の死

後一九〇九年六月七日と三〇日に開封された遺言書において'

先述の基金を自分の単独相続権者に指定していた。しかし'同

:0

時に他方で彼女は'つどう八人にのぼる親族を「予備相続人」

Ersatzerbeに指名してもいた。その親族とは'前述のマ--

以下五人の姪へ甥のAlfons von Pourtales伯爵へ姪の Au・

guste Maltza伯爵夫人へ そして同じ-姪でパ-在のAgnes

de Loys Chaudien侯爵夫人(Marquise)の計八人であっ

た。マ

--以下五人の姪達が'「ジェームス基金」とポール伯爵

の双方を向こうにまわして、グルムボヴィツ所億の相続権を争

おうとしたときへ彼女らの主張の法的淵源は'アグネスによる

この予備相続人指名にあったのである。以下の叙述は'ブレス

ラウ高裁の召喚(一九一七年一〇月二九日)後にへ マ-ーらに

かわって--マンがしたためた法務大臣宛文書(一九1七年一

一月二〇日付)のあらましにかんするものである。

2 認可問題

:e爪

--マンはいう。「純民族的L vOlkisch見地からすれば'お

よそへ寄付行為書の規定に従って永続的にフランス国籍所有者

に相続されてゆ-健襲財産の存続ほどへ ドイツにとり有害なも

のはない。この状態は、ドイツの土地所有が自由財産freies

(502) 82

第一次位界大戦期ドイツにおける健襲財産の清算

Eigentumとしてフランス人の手中にある場合に比べてもt

より有害でさえあるといってよい。なぜなら、自由財産であれ

:q:

ばへその「公開市場売り」freihsndiger Verkaufの可能性が

あるのだが、世婁財産のような制限的財産gebundenerBesitz

の場合にはへ この可能性は皆無だからである。したがって'フ

ランス人ポール伯爵のドイツ世襲財産相続権は認められるべき

でな-'またへ それを追認することになる国王の認可も当然拒

否されてしかるべきなのである。

性襲財産の認可を拒絶する線での国王の決定がすみやかに下

されることを望む理由としては'もう一つある。それは'国王

の決定が公示された後になって初めてへ--マンの依頼人は、

相続財産をめぐる争いに'法廷での決着をつけることができる

であろうことで濁る。ポール伯爵と「ジェームス基金」へそれ

:e凸

にへアグネスの姪達 - この一二者は'「現在の法的鐙載状態」

の下では、互いに1致することのとうていできぬ立場にあるの

であるから'事態の解決のためには'やはり、法廷闘争以外に

はないであろう。-ーマンは'さしあたってこのように述べて

いる。3

 相続権要求の根拠

マ--らの所領要求権を正当化するための根拠は'-ーマン

によればおよそこうである。グルムボヴィツ所領の大部分は'

大土地所有として維持することに'そして残余部分は、「軍人

:ca内

入植自作農場」Kriegerheimstatte・農民的所有地・農業労働

者用農地等の入植地へ分割することに適した所領である。そし

て∵マ--らはへこの両面で所領を最大限有効に利用すること

のできる最適任者にはかならない。大土地所有としての維持と

いう側面についてはへ自明の理であり'説明は不要であろう。

問題は後者である。

さて'依頼人の一人であるアスクの夫'式部官-ーペンハウ

ゼン von Riepenhausenは'一九〇四年帝国議会に提出され

(S)

た「ドイツ帝国家産法草案」 Entwurf eines Reichsheim-

stattengesetzes fiir DeutscheReichの起草者としてよく知

られた人物なのだが'かれの存在によってへ小規模入植に適切

な関心と理解が示されるであろうことの大きな保証が与えられ

るtということができるのである。かれは'プロイセン下院

Abgeoraneteロhausと帝国議会とにおける永年の議員活劫を

とおして'生涯の目的の一つであった「家産法」の成立に全力

(3)

を傾注した。1八九〇年かれが「家産法運動」を開始したと

きへかれは'ビスマルク Otto von Bismarck とモルトケ

HelmuthvonMoltkeの支持を受ける。すなわちへ前者は、ド

83 (503)

イツの所有関係の健全化をはかる一方策としての意義をここに

認めへ これにたいする人々の注意を喚起し'また元帥モル-ケ

は'この法律草案に提案者の一人として署名することに同意し

たのであった。モルトケがこのような署名に応じたのは'かれ

の生涯(l八〇〇-九l牛)において唯一この時だけだった。

また、一九〇四年帝国議会に提出された法案は'保守党・自由

保守党・中央党・国民自由党から成る当時の帝国議会多数派の

C3)

賛成を得て'同議会を通過することができたのであった。

--マンは'このような事実を指摘したうえで次のようにい

う。小規模入植地創設事業の推進という点での所領の有効利用

をはかるにあたり、この--ペンハウゼンの存在は限りな-大

きい。かれがわが方にいることは、われわれにとっての絶大な

利点にほかならぬ。これにたいして、「ジェームス基金」はど

うか。事情はまるで逆であるというはかない。この「基金」はへ

その名称において内地植民の振興をはっきりと誇っているとは

いえへその実へ植民のために寄与したところはきわめて少ない

のである。すなわちへ一九1七年10月二九日の召喚時におけ

る「基金」の代理人フ--ドレンダーの説明によれば'「ジェー

ムス基金」は'国王の認可を得た一九二年四月二二日以後へ

すでに六年半の永吾にわたって存続しているにもかかわらずへ

加えてt l七五万マルクを下らぬ多額の財産を自由に処理でき

るのに'これまでにその数わずか十の入植地向き農用地の貸出

を行なったにすぎない。いま'貸出地の数の少なさはひとまず

拷-としてもうそれでもやはり以下の事実が絶対に見逃されて

はならない。すなわちへ そもそも'この貸出ということ自体

が'内地植民の振興には全然そぐわない性質のものだというこ

とである。内地植民の目的は'ひとえにへ入植地所有者が自分

の土地で自由に経営できるということによってのみ実現されう

る。小作人が'土地所有者と同じように'小作地の改良に腐心

することはまった-ないといってよい。それにもかかわらずへ

「ジェームス基金」がその定款Satzungにおいて規定してい

ることは、農用地の貸出のみにすぎない。しかし'内地植民に

C3)

とっては、「土着性」 Bodenst那ndigkeitこそが決定的に重要

な契機にはかならないのである。たとえへ「基金」が行なった

ように'約七・五ヘクタールほどの大いさの土地を'長期(≡

〇年間)にわたって入植者に貸し出したとしても'それは'土

着性の契機を生み出すものではいささかもない。

リーマンはつづける。この点において、--ペンハウゼンの

法案は、その理念においても社会的意義の点でも、無限に高-

評価されてしかるべきものである。けだしへ「家産法」が施行さ

48

ヽノ

4nU

5~._\

第一次位界大戦期ドイツにおける健襲財産の清算

れたあかつきには、自分達の所有地に定住する土着の住民が生

<3)

まれるからである。われわれは'人間の「所有欲想念」Eigen-

tumsgedankeをあま-見てはいけない。またへこうした想念を

無視ないし軽視する社会的方策はすべて誤りなのである。「所

cs>

有欲想念」とは'まさに「生存欲想念L Existenzgedankeと

ならぶ'人間の最も強烈で基本的な願望のlつであることが忘

れられてはならない。しかし'「ジェームス基金」はへこの「所

有欲想念」に敵対的な姿勢を示すものへ いやへというよりもむ

しろへ それを露骨に排除しようとさえするものなのである。そ

の証拠に「基金」は'グルムボヴィツ仕襲財産の内部に現存す

る農民的所有地を'まずもって入植地に変えようとしているの

CS)

である。換言すれば'これはへ現に存在する「農民を追放する」

Bauern legenことによる小作人導入措置以外のなにものでも

ないのである。

このようにへリーマンは'主として、--ペンハウゼンの

「家産法草案」に依拠しながらへ依頼人が所領を入手した際の

メ-ットを根拠づけようとしたのであった。

4 所領清算問題

次に'清算問題にかんする-ーマンの見解は'以下のとおり

である。すなわちへグルムボヴィツ所領の清算は'現行の億規

定からすれば'なるほど形式的には許されよう。しかし'それ

は二九l七年三月1四日に発令された「フランス企業清算令」

の本旨に添うものでは決してない。なぜならへ この種の処置に

よっては、この所債の相続権者たりうる依頼人マ--らの利益

が台無しにされるかぎりにおいては'フランス人の利益ではな

く'まさに、ドイツ人の利益こそが損なわれるであろうからで

ある。われわれは'所領の清算に賛成することはできないへ

と。さ

らに'--マンはつづける。清算が'自分の関知しない理

由から万1行なわれる事態となった場合には、「ジェームス基

金」を代表するか'もし-は'これと関係の深い人物を清算担

当官に任ずることだけは避けて頂菖たい。というのはこうであ

る。さきのl〇月二九日の召喚時に、「基金」の一理事7--

ドレンダーは、清算が行なわれれば'「基金」は所嶺の買手と

なるであろうへと言明したのであるがへ この場合へ「基金」は

できるだけの低価格を求めるtということになろう。それ故へ

高価格の実現に努力すべき売手として行動しなければならぬ清

算担当官が'もしも「基金」害の人物であれば'公正な売買を

行なうことがおぼっかな-なるであろう0 こうして-Iマン

はt.万一清算が行なわれることになるのなら、清算担当官の人

85 (505)

選について提案する機会が与えられるよう諸原しっつ'かれの

論述を終えている。

このようにへ リーマンと「ジェームス基金」とは'認可と清

算の両方に反対する点では'立場と主張点の違いこそあれへと

もに基本的な一致を見ていたのだった。それは要するにへ両者

とも'ポール伯爵の所有権を否定したうえで'自らの相続権を

主張するためのものであった。

C」)

5 裁判の概要

一九一八年二月二五日へ アグネスの姪達が起こした裁判の判

決が下る。場所は'ブレスラウ地裁の第六民事部diesechste

Zivilkammerであった。以下では'この裁判とその帰趨の概

略を示して'本節の結びとしたい。

(i) 原告‥Marie,Asta,Viktoria、Margot、Wandaの五

人。(訴訟代理人はRiemann)0

(‥1 1) 民事被告人‥

イ'Wiirttemberg王国大使・法学博士Axel von Varn-

buler男爵へ ベル-ン在O

ロ'Calau郡郡長(Landrat)Alfons von Pourtales伯

爵へ Laasow在。

ハ'法律顧問官Ludwig Friedlsnder ブレスラウ在。

ニ'ジェームス伯爵の内地植民振興基金(プレステウ在)へ代

表者は「基金」の理事(被告人イ・ロ・ハ)0

ホ'ポール伯爵(パ-荏)へ総代理人は農場監督のヴィルナ

-博士(グルムポヴィツ在)0

(一a) 被告人の訴訟代理人‥

イ・ロ・ニt にとってはL.Friedl抑nder

ハt にとっては弁護士・法律顧問官Bendix

ホtにと~つては弁護士・法律顧問官Friedenthal

(三人ともブレスラウ在)0

(.川〕 申立の内容

一九一八年二月二五日の判決に先立って'同年二月一一日へ

口頭弁論が行なわれるOここでの原告の主張はt l九一七年1

二月二九日にかれらがプレスラウ地裁に提出した訴状の内容と

基本的に同じである。ただしへ原告の一人マ-Iが口頭弁論の

前にその訴えを取り下げたので'原告はアスクらの四人に減

るO以下では'この申立の内容を見る.

イ'原告が'一九〇八年二月l四日に死去したジェームス伯

爵の遺産の五分の四を相続する権限を有することが、被告全員

にたいして確認されること。

ロ、ヴァルンビユラーから「基金」までの四被告にたいして

(506) 86

罪-次位界大戦期ドイツにおける性襲財産の清算

は、ジェームスの遺産に基づ-かれらの所有対象の内容にかん

する這見表の提出が申し渡されなければならないO

ハ'ポール伯爵にたいしては'以下の判決が下されるべきで

ある。

at これまで、グルムポヴィツのカール・フォン・プルタ

レス伯爵家家族世襲財産として取り扱われてきた不動産をへそ

のすべての従物Zubehorとともに'アスタ以下四人の原告と

マ--・ツゥ-・プ-ウブス侯爵令嬢とに引き渡すこと。

bt ジェームス・アグネスの相続人たる四人の原告とマ-

-とがへ前述の不動産の所有者として登記されることを'承諾

すること。

ct収支表と手許にあるかぎりでの領収証を用意したうえ

で'前述の不動産の管理について原告に報告すること。

ニ'被告人が訴訟費用を負担すること。

ホ'本件は'判決があり次算へ仮執行されなければならな

い。以

上が'申立の概要である。加えてへ原告は'グルムボヴイ

ツ世襲財産の設立に国王の認可が附与されないという近々に生

じうる事態に構えてへ その場合にも'原告の主要な要求はすべ

て認められるべLへと周到にも付言するのを忘れなかった。

(Ⅴ) 判決

では'はたしてどのような判決が言い渡されたのであろう

か。それは'一言にして'訴えの棄却、つまりは原告の敗訴で

CS)

あった。いまその理由を'判決文の抜琴にすぎぬという限界を

もつ当該の史料からうかがい知ることができるかぎので'アグ

ネスの遺言の取消問題に即して簡単に記すと、以下のとおりで

ある。すなわちへ アグネスが遺言書において「ジェームス基

金」を彼女の完全私有財産の相続権者に指定したのは'グルム

ボヴィツ所領は法律上有効な仕方で世襲財産になったと誤って

想定していたからである、と原告はいう。要するにへ原告が主

張するところによれば'相続権者指定の主因はへ この誤りの想

定というl点に還元される。原告は'この点の指摘に、アグネ

スの遺言を取り消すための主要な拠り所をおいたのだった。し

かし'これはへ取消を正当化するのに適切な主張では決してな

い。けだしへ アグネスの遺志を決定したのは'上述の誤りの想

定ではなくへ「基金」を相続権者に指定しようとの息子ジェーム

スに与えた約束だったからである。彼女の心を捉えて離さなか

った決定的な放念は、まさにこの点だけであった。それ故、グ

ルムボヴィツ健襲財産の法的有効性の思いこみが'彼女の決心

にたいしてなんらかの影響を及ぼしたと推定する余地はまった

87 C507J

くない。アグネスの指定を取り消すことはできず、したがってへ

この世襲財産が法的効力を得る得ないに関係なくへ原告がアグ

ネスの相蔵人であるとは認められえないのであるへと。

こうして裁判は終った。アグネスの姪達のグルムボヴィツ所

領相続権は認められず'本判決の約二週間後(一九一八年三月

l二日)には'ついにへ所儀の清算が帝国宰相により命じられ

ることになる。「ジェームス基金」とアグネスの姪達がともに

反対した清算がこうして始まった。

注(1) 本節の叙述はtと-に断らないかぎりは主としてへ

DZA Merseburg,Hist.Abt,II,2.5.1,Nr.5790,B1.70-

76.に依拠している。当該の文書は、--マンによるl九

1七年1 1月二〇日付の法務大臣宛報告書である。

(<m) Ebenda、B-.叫0.

0) Ebenda,B1.109.

(4) ここでの叙述は'DZAMerseburg,Hist.Abt.II,2.

5.1,Nr.5789Bl.66f.による。これはへ l九1二年五月

三1日付の法務大臣文書の1部である。この文書の内容に

ついてはへ前掲拙稿を参願されたい。

(m) DZA Merseburg、Hist.Abt.ll,2.5.1,Nr.5789,

B1.66.

(to) DZA Merseburg.Hist.Abt.II,2.5.1,Nr.5790,

Bl.70.

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(-0 Ebenda、Bl.73.

CS) この法案についてはへさしあたりへ津村康『中欧諸国

の土地制度及び土地政策』改造杜'一九三〇年、一一五六1

二六lページ参照。「凡ての独逸国民は満二十四歳に達し

たるときは家産を設定する資格を有する」(同右へ 二五八

ページ)。同法案によりへ 二四歳以上の全ドイツ国民には

小作地ではなくへ自作農場をもつ展望が与えられた。

ォ) 同右へ 二五七ページ。

(2) しかし'同法案はへ このときは連邦参議院の否決にあ

った。その成立のためには'一九二〇年五月一〇日を待た

ねばならなかった。同右'二六〇へ 二六四-二七七ページ

・:蝣.肘。

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2.5.1,Nr.5790,BL74.

CJO この叙述はt ebenda,B1.109ff.によっている。これ

はも一九l八年二月二五日の地裁判決文の抜琴である。

(3) 判決を下したのは'プレスラウ地裁長官・枢密法律顧

問官Davidならびに同地裁判事の Thielisch と Reh-

metであった Vg1.ebenda,B1.109.

C508) 88

第一次世界大戦期ドイツにおける惟襲財産の清算

四 清算の実廃

(1)

1 清算の決定

l九l八年三月l二日へ時のドイツ帝国宰相へルト-ング

は二九一七年三月一四日の・「フランス企業清算令」に基づき'

00 0

「フランス国籍所有者ポール・ドゥ・プルタレス伯爵が所有す

O)

るグルムボヴィツ所領の清算」(傍点筆者)を農林・法務両大

臣に命令する。これを受けて'農林大臣Eisenhart・Rotheは'

ただちにへWohlau郡郡長のエンゲルマンEngelmannを港

算担当官に任命する。同時にへ大臣は'かれの部下である農林

省の枢密下級事務官Geheimer Regierungsrat、Articusに'

所債の視察後へエンゲルマンならびに農場監督ヴィルナIとこ

の件について協議することを委託する。この協議は三月二五日

に行なわれることが予定された。農林大臣は'三月1六日に、

これらのことをブレスラウ県知事に通知している。

叫EcK

法務大臣Miigelと「外国企業清算のための政府特別委員」

(氏名不詳)Reichskommissar fur die Liquidation aus-

ISndischer Unternehmungenは'同日へ この件を了承す

る。なお、三月二五日の協議には'法務省からは'法務大臣代

行として、法務省局長・一等枢密法律顧問官Ministerialdi-

rektor,WirklicherGeheimerOberjustizratのKiiblerが'

枢密法律顧問官ゼ-ルマン Dr.Seelmann を伴って参加する

ことになった。

(4)

2 協議の内容

上述の法務省局長らはもとよりとして、シュレ-ジエン州庁

の下級事務官Regierungsrat、KoellnerとMilitsch-Tra-

chenberg郡の次期郡長Stolberg伯爵の両名も加わって'所

領の視察と協議は予定どおり行なわれた。このとき討議された

諸点は、ゼ-ルマンによれば'およそ以下のとおりである。第

1に、内地植民のためには'なによりもまずt Leubel貸出農

場が問題となる。それは、ヴィルナIがつとに指摘していると

おりである。この農場が残余財産 Restgutとして所債内に維

持されるべきであるならば話は別だがへ そうでないかぎり'こ

れを地代農場Rentengutに分割する義務がへ その取得者に課

されなければならない。この義務は'国Staatsregierungに

たいする義務である。国はへ この履行についての監督権をも

つ。またへ この農場以外に'別のまとまった耕地(約五百ヘク

タール)が'なおへ 所領に隣接する農村Landgemeindeの

発展のために用立てられるべきか否かについてはへ にわかに即

断することはできない。この点にかんしてはさらに議論を積み

89 (509)

重ねる必要がある。

第二に'館の備品は売却されるべきでない。これにたいしそ.、

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所領の土地所有は、「ジェームス基金」とドイツ系プルタレス伯

°

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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爵家の成員若干名とに限って'競売に付されるべきである。プ

トウブス侯爵の娘達(マ-I・アスタら) への供給は不可であ

る(傍点筆者)0

第三に、その際へ土地所有は'カール伯爵によって性襲財産

化されたものであるのか、それともへジェームス伯爵により健

襲財産に加えられたものだったのかへあるいはまた'ポール伯

爵の完全私有地であるのかという事情に応じて個々別々に査定

されへそれぞれ違った価格を定めたうえで売却されなければな

∴・f'第

四に'清算収得金の管理については、Winzig簡易裁判所

Amtsgerichtがその任にあたる。清算収得金を受領すること

のできる有資格者の審査・確認も'当該裁判所の職務である。

しかしへ この収得金の裁判所への供託は、まず必要なかろう。

当面は'清算担当官に預からせておけばそれでよい。ゼ-ルマ

ンは'三月二五日に行なわれた協議の要点を、四月四日に書い

(5)

た「グルムボザィツ旅行覚え書き」として'このようにまとめ

ている。ここには'所領清算の基本線ないしはその基本的なね

らいが端的に語られている。では'清算の決定は'問題になっ

て久しい認可附与の是非という点になんらかの影響を及ぼすも

のだったのかどうか。この点が次に検討されなければならな

い。

(6)

3 法務大臣見解

清算決定の約一か月後(一九一八年四月1一二日)に'ドイツ

3D

帝国皇帝ヴィルヘルム二世の勅令が、法務大臣宛に下る。それ

は'プルタレス家の家族世襲財産にたいするプロイセン国王の

認可を与えぬ旨の最終的決定であった。かねてからの認可問題

には'このようにして終止符が打たれた。ところで、皇帝の勅

令は、同年四月六日の法務大臣報告を受けて下されたものであ

る。そこで、以下においては'皇帝の意志決定の下敷きになっ

た同報告の内容を見ることにより'ここでの検討課題にせまる

ことにしたい。

法務大臣は'認可問題についてへ清算問題との関連で次のよ

うにいう。所領の清算が実行されれば'性襲財産化された土地

所有のすべてが'清算担当官によって売却されることになろ

う。フランス人ポールの求めるプロイセン国王の認可が附与さ

れるという条件がこれに加わると'したがってへ世襲財産的制

限fideikommissarische Gebundenheitから離れた-土地所

(510) 90

第一次健界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

有のかわりにへその売却の際に得られた清算収得金が仕襲財産

結合FideikommiBverbandにはいるという事態が生じるこ

(8)

とになる。すなわちへ この仕事財産は、「土地所有世襲財産」

:o:

Grundfideikom.miB としてではもはやなくへ「貨幣世襲財産L

GeldfideikommiBとして存続するにすぎな-なる。しかし'

フランス人の手のなかでこうした貨幣の世襲財産化を行なうこ

とは'フランス人家族が世襲財産を設立することに対立する自

明の疑問点をまった-度外視するとしても'やはりへドイツ人

の利害関係者がもつ権利を著し-扱なうものにはかならないで

あろう。ともあれ、このような「貨幣世襲財産」の成立を促進

することには'ドイツにとっての公的利益はなにもないと断ず

るはかない。

反対に'国王の認可が与えられない場合には'カール伯爵が

最初に寄贈した財産も'後にジェームス伯爵が世襲財産に付け

加えた土地も、ともに、完全私有地A〓odとしてとどまりつ

づけることが法的に確定するOこのときへ二つの問題が生じよ

う。すなわち、第一に、カールに由来する財産の継承者はだれ

か。そして第二に、だれかジェームスの相続人となることがで

きるのかtという二つの相続問題がそれである。第一の問題に

かんしては'要するにへ当該の所領が依然として'「世襲財産の

(.S)

後順位相続人決定」fideikommissarischeSubstitutionの法

的手続きによって相続されてい-ものなのか否かtにかかって

いる。然りの場合には、ポール伯爵がカール伯爵の相続人とな

る。逆に否の場合、カールの財産は息子のジェームスによって

のみ相続されるのであるから'カールの遺産を継ぐことができ

る人は'結局へジェームスの相続人であるということになる。

したがってへ この世襲財産の設立が'国王の認可を欠-が故に

無効に帰すときには'後者の場合が実現することになる。

では'ジェームスの相続人はだれかという第二の問題につい

てはどうか。この点は現在係争中で'まだ結論を見ていない。

すなわちへプ-ウブス侯爵のアスクら四人の娘達と「ジェーム

ス基金」とのあいだでへ この相続問題をめぐる訴訟が争われて

いるのである。アスクらは'算一審では敗訴した。だが'控訴

(3)

審がまだ残っている。したがってこうである。すなわちへ この

法的係争問題にどのような最後的決着がつくのであれへ当該の

僅襲財産への国王の認可が与えられさえしなければ'ジェーム

スの相続権者に襲われてしかるべき財産は'いずれにしても'

o

o

o

o

ドイツ人の手に帰すことへ これである。逆に'世襲財産の認可

によって、清算収得金が「貨幣健襲財産」としてフランス人の

手許に拘束されるような事態にでも万一なれば、ドイツの利益

91 (511)

は重大な侵害をこうむろう。それ故へ利害関係の点で相対立す

る立場にある「基金」の幹部と'プトウブス侯爵の娘達の代理

人も、この問題にかんするかぎりは1致して'ともにへ認可を

認めぬ旨の国王のすみやかな決定を願い出ているのである(傍

点筆者)0

法務大臣が展開する認可反対論は'ほぼ以上のようなもので

あった。それは、清算という新しい事態に直面して新たに練り

(2)

直された認可反対論であった。

4 清算の結果

一九一八年四月1三日、認可が附与されないことが最終的に

決まる。フランス人貴族ポール・ドゥ・プルタレス伯爵のドイ

ッ世襲財産所有・相続権は'ついに認められなく終った。その

結果へポールは、所領(土地所有)を失っただけでなくへ清算

収得金(貨幣)を手にすることもできなかった。三月一二日の

宰相命令によって、ポール伯爵の土地所有がかれから奪われた

とするならばへ一方、四月一三日の勅令においてはそれにたい

する貨幣での補償さえ与えられないことが決したのである。で

は、事実上、フランス人貴族からいわば強権的に「奪還・没収」

された土地所有であるといってよい当該の所領を、当時のドイ

ツ国家権力は'いったいどのように処理したのであろうか。こ

の点が次の間題となる。

ブレスラウ県知事に宛てたl九一八年四月二三日の農林大臣

(.SI

文書によれば'大臣が賛成した清算プランの基本線は'要する

に、当該の所領を、可及的すみやかに以下の人々のあいだで競

売に付すということであった(ただしへ邸宅内にあるポール伯

(3)

爵所有の家財類は除-。これは、清算後へ「特別強制管理」

besondere zwangsweise Verwaltungの下におかれる)0

James von Pourtales伯爵の内地植民振興基金へ

‥1 1 帝国待命大使KaiserlicherBotschafterz.D.,Fried-

(S)

rich von Pourtales伯爵 ベル-ン在へ

一2 Niederlausitz 辺境伯 Markgrafschaft,Wilhelm

von Pourtales伯爵 Liibben在へ

.川 Calau郡郡長Alfons von Pourtales伯爵。

売却の条件は次のとおりである。第一に、だれが購買者に決

まっても'当人は'フランスとの講和条約締結後十年以内に'

ブレスラウの総務委員会Geロera-kommissionの指導と仲介

の下で'合計五〇〇~七五〇ヘクタールはどの土地を、ドイツ

人の入植希望者に、かれらの所有する分割地として提供しなけ

ればならない(入植用の土地は農林大臣が選択する)。第二に'

上記の四名は、四月二三日より八日以内に'言い値を清算担当

921

2

1-I5/

第一次他界大戦期ドイツにおける憶襲財産の清算

官に書留便で申し込まなければならない。そしてへ第三に、こ

れらの入札者のなかから、もしも「ジェームス基金」に落札さ

O

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O

れれば'さらに以下の条件が加わる。すなわち、ドイツ系のプ

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ルタレス伯爵家に所領を維持させるという目的を果すためにへ

「基金」は'入植地を除-所領を'若干の値上げ AufscEag

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を待ってただちに、7--ド-ヒ・ラォン・プルクレス伯爵に

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転売しなければならぬ義務を負うこと'これである。以上が'

清算計画の概略であった(傍点筆者)0

そしてへ実際に'当該の土地所有は'いったん「ジェームス

基金」の手を経てから'したがってへ当「基金」が主張したグ

ルムボヴィツ所領相続権をl時的・経過的に認める形をとった

うえで'最終的には'ドイツ系のフ-ード-ヒ伯爵の所有に帰

着することになるのである。「基金」とフ--ド-ヒとの売買

(S)

契約は'一九l八年l〇月二・三日にとり結ばれる。フ-ード

リヒの購買価格は'計一八八六七二四・二三マルクに達した。

CS)

その内訳は第二表に明らかであるO この契約は'一九一八年1

(S)

〇月三〇日へ農林大臣の認可を受ける。所領の売買は完了し

た。法務大臣が事実を承知した旨農林大臣に通知したのは'首

都ベル-ンにおける革命勃発の前々夜二月七日のことであっ

(S)

i

t

'

第二表 所領の購買価格内訳

(資料) DZA Merseburg, Hist. Abt. II,2. 5; 1,

Nr.5790,Bl.145f.より作成。

総じて、「第一次世界大戦期

ドイツの世襲財産清算問題」と

でもいうべきプルクレス伯爵家

の性襲財産をめぐる事態の結末

は'まず第lに、グルムボヴィ

ツ所領には性襲財産としての認

可が与えられずへ そのかぎりで

は'「ジェームス基金」とアグ

ネスの姪達との言い分が通った

もののへ清算に反対した両者の

主張は認められずに終ったこ

とへ第二に、所鎖の清算が強行

された結果,フランス人のポール伯爵はおろか'所領譲渡の仲

立ちとしての役割を担った「ジェームス基金」にたいしても'

そしてアグネスの姪達にも'グルムボヴィツ所領は与えられ

ず,結局'ドイツ系のフ-Iド-ヒ伯爵が問題の所領の入手に

成功したこと1以上であった。

なおへ以下の二点を指摘しておかなければならない。第一

は、ドイツ人による世襲財産の復興という点である。すなわち、

フリードリヒ伯爵は'ヨーロッパ諸列強との講和条約締結後五

93 (513)

年以内に所轄官庁に通達されるべき寄付行為書によってへかれ

が金で買った土地所有を'家族世襲財産化すべき義務を売り手

にたいしてと同時にプロイセン政府にたいしても負ったのであ

CS)る。第二に'われわれは'購買価格約7九〇万マルクのうち'

(3)

その七〇パーセント近-もの大部分が'「戦時公債」Kriegs-

an-eiheの引き受けによるものだったことを見逃してはならな

闇堪丸

い。フ-Iド-ヒは'この相当額をしかるべき「金融機関」

Zahlungsstattに払い込むことによりへ売買契約上の義務を

<P,J

果したのであった。

注(-) ここでの叙述はt ebendn、B1.111ff.による。史料は'

l九1八年三月l二日の帝国宰相命令と同年三月一六日の

農林省文書である。

(n) Ebenda、B1.111.

0) Ebenda,B1.113.

(4) 叙述はt ebend.a、B1.115f.によっている。これはへ

一九一八年四月四日にゼールマンが書いた覚え書きであ

ss

(m) Ebenda、B1.115.

(6) ここでの叙述は'DZA Merseburg.Hist.Abt.II,

2.2.1,Nr.31036,B1.22-26.に依拠している。これはへ 1

九1八年四月六日の皇帝宛法務大臣文書である。

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2

5

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C3) アスクらは'控訴審においては'清算担当官による所

債の売却を考慮にいれて'かれらの主張を'第l審におけ

る土地所有の返還ではもはやな-'清算収得金の受領を求

める点に変更した Vg1.DZA Merseburg、Hist.Abt.

11,2.5.1,Nr.5790,B1.150.

CS) 清算問題が生じる前の時期における法務大臣の〓貝し

た認可反対論については、前掲拙稿参照。

(S3) DZA Merseburg,Hist.Abt.II,2.5.1 Nr.5790,

B1.150f.

(3) Ebenda,B1.150.

かれは'第一次世界大戦勃発期(一九〇七-一四年)

にPetersburg駐在ドイツ大使を務めた人物である。かれ

の活動のあとは'フィッシャーFritz Fischer の『世界

強国への道IIドイツの挑戦t l九一四-1九一八年

- 』〔一九六七年〕からも、うかがい知ることができる。

さしあたりへ村瀬興雄監訳書へ岩波書店へ一九七二年へ 八

l t 八六へ八八へ九八へ一五二ページの記述参照。

CS) Vg1.DZA Merseburg、Hist.Abt.II,2.5.1,Nr.

5790,B1.152. 九一八年l〇月三〇日の農林大臣文書に

よる。なお'7-Iド-ヒと「基金」との最初の契約日は

一九1八年七月八日だった。契約が二回にわたったのは'

価格の点での折り合いがつかなかったからである。当初予

(514) 94

第一次世界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

定された二四六三〇五〇・三五マルクはt Siegda農場の

1部(約二・五ヘクタール)が売買から除外される等の理

由で、いったん二三五六七二四・二三マルクまで下がりへ

そこからさらに四七〇〇〇〇マルクの支払が猶予されて1

八八六七二四・二三マルクに落ち着いたのだった Vg1.

ebenda.B1.145f.

〔17) 史料(ebenda,B1.143-146)は、ベル-ン大学法学

部教授・枢密法律顧問官Dr.TheodorKippによるグル

ムポヴィツ所領の鑑定書(一九l八年とあるのみで月日は

不詳) である。

(S) Vg1.ebenda、B1.152.

CS) Vg1.ebenda.B1.153.

(ァ) Vg1.ebenda,Bl.143f.

CS)、(S3) Ebenda.B1.145.

(S3) ドイツの敗戦は'所債売買の文字どおりの直後であっ

た。この結果へ戦時公債相当分の貨幣額は'「敵国財産」

feindliches VermOgen「管財官」Treuhanderの手許

に残されることになる。それは、戦費として使われること

なく終った。プルタレス家においては新たな係争問題が'

ポール・「基金」・アグネスの姪達のあいだで'土地所有

の帰属ではなく今度は清算収得金の配分をめぐって'再

燃することになる(本節の注(3)と互へ結び.にかえての最

後の注ォ)に記したエピローグとを参凧)0

五 結びにかえて

ポール・ドゥ・プルタレス伯爵が'一九〇八年以来'仕襲財

盛のlつにほかならぬグルムポヴィツ所嶺の事実上公認の所有

者であったことは、明らかである。それは、ポールが一九〇八

年三月一四日に'惟襲財産監督庁であるブレスラウ高等裁判所

(1)

から'「世襲財産継承者」FideikommiBfolgerと認める「証

'.")

明書」Bescheiロlgungを得たという一事のみをもってして

も'充分証明されるところである。事実へ この世襲財産の認可

に終始〓艮絶対反対の立場を貫いた所轄のプロイセン法務省当

局でさえ、大臣見解において折にふれて、あるいは「世襲財産

(ォ)

のために寄贈された諸農場の所有は'ポール伯爵に移行した」

といいへ また別のときには'ブルムボヴィツ所領は「一九〇八

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年以来へ確かに tats師chlich一フランス国籍所有者の所有と

ooooC-O

管理の下にあった」、といわざるをえなかったのである。それ

故へ ドイツ帝国宰相による一九1八年三月一二日のあの清算決

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定命令は、「ポール伯爵が所有する所領の清算を命ずる」となっ

ていたのである(傍点筆者)0

したがってへ一九一七年三月一四日の戦時法規「フランス企

業清算令」に基づ-所領清算命令によって敢行されたことへ そ

95 (515)

れは'フランス人貴族がドイツの地にもつ世襲財産の所有権・

相続権を'強権的にかれの手から剥奪すること以外のなにもの

でもなかったtといわなければならない。所領清算の内実は、

00

その収用にはかならなかった。ことこの点にかんするかぎり'

O

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.

「フランス企業清算令」は'実際上はまさし-'1種の土地収

00

用法的役割を果したのである。再びプロイセン法務大臣の言を

<eサ:

借りるならばへ本件「本来の目的」は'実に、「元々のせ襲財

産所有をドイツ人の手許へ'それも'当該伯爵家のドイツ系の

:o凡

所有に移す」 ことだったのである。この目的は'ドイツの外交

官フ--ド-ヒ・フォン・プルタレス伯爵が所領を買い上げ、

その所有者となることによりへ ドイツ-プロイセン政府の目論

見どおりへ見事に達成される運びとなる。

このときへ フ--ド-ヒが最終的に負担した価額はへ さきに

見たとおり、約一九〇万マルクに達した。かれはへ この巨額の

貨幣とひきかえに所領を入手する。すなわちへ かれは'ヴュー

バーMax Weberの口吻を借りるならばへ貨幣の「土地所有

(7)

・世襲財産形成へのメタモルフォーゼ」を果し'ドイツの国家

権力が'事実上へ フランス人の手から無償で「没収」した土地

所有であるといってよいこの惟襲財産の所有者に鮮やかになり

おおせたのである。こうして'ドイツの国家権力は'フランス

人ポールの世襲財産所有権を奪い'自国民フ-ード-ヒをその

所有者としたのであった。

同時に他方においては'「ジェームス基金」にたいしてへ 内

地植民推進のための1定の便宜がはかられた点が見逃されては

ならない。所領を構成するSiegda騎士農場の一部(約二・

五ヘクタール)が「基金」の手に渡ったのもその一例である

(前節の注(」)参照)。ドイツ-プロイセン政府は'あの-ーペ

ンハウゼンが成立に努力した「軍人入植自作農場」等の入植地

創設のためにへ大経営向きでない所嶺のl部を利用しようとも

したのである。このかぎりにおいて'政府は'当該の所領の処

o

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理にあたりへ l定の戦後対策(帰郷軍人への土地供与)をも念

頭においていたtということができる。一言にして'大経営向

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きの土地を中心とした所領の大部分は、「基金」を介して'ド

イツ人貴族フ-Iド-ーヒへへ そして、内地植民のための一部の

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(

8

)

小経営用地は'再び「基金」を介して、ドイツ人入植者達へ

(.撃一図参照)。これは、政府にとってはまさにへ一石二鳥の所

領処理法だった'ということができようO第l次世界大戦末期

におけるグルムボヴィツ所領をめぐる事態の赦末は'さしあた

りへ 以上である。

しかし'事柄の意味はこればかりではない。その一半は'な

C516) 96

第一次世界大戦期ドイツにおける性襲財産の清算

第二図 所領処理と「基金」の仲介

一に孟孟^M霊賢

→胤霊お別のところにもあったことが看過

されてはならない。すなわち'約一

三〇万マルクに達した戦時公債引き

受けの問題がそれである。すでに見

ジェームス基金一たように'フ--ド-ヒが支払った

フランス人貴族

第三園 国とフリードリヒとの関係

フリードリヒ

貨幣額の実に三分の二以上(六七・五二パーセント)がへ この公

債相当額だった。事態のこの側面に着目して'これを略図で示

すと第三図のようになろう。7--ド-ヒは'国に貨幣を支払

って'公債と土地所有の双方を得たのである。事柄の意味は'

ここではしたがってこうである。すなわち、第一にへ 国は戦時

公債を発行し'これを7--ド-ヒに引き受けさせることによ

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0

り'約l三〇万マルクもの多額の戦費を調達したことへ 第二

にへ ことこの点にかんするかぎり'グルムポヴィツ所領-健襲

°

0

0

財産としての土地所有は'国により'実際上へ一種の「担保物」

的役割を担わされたといいうることである。これはへ フ--ド

-ヒにとっては'決して扱な取り引きではなかった。なぜな

o

o

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らへかれはへ たんなる擬制価値としての債券だけではな-'客

00

観的には'一種の「抵当」としての現実的役割を担わされた土

地所有をも取得したからである。

以上総じてへ ドイツ第二帝政の命運が尽きようとする算l次

世界大戦の最終盤期に敵国フランスから「奪還」されたドイツ

の惟襲財産は'プルタレス家のそれにかんするかぎり'ドイツ

o

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帝国主義にとっては'まさにへ戦争(目的)完遂のための資金

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°

調達の一手段たる実践的意義を与えられたものでもあったので

ある。「ドイツ帝国主義と世襲財産」問題展開の基礎となる系統

CS)

的実証分析が'帝国主義論と土地所有論の「連繋」とも密接に

かかわって'今後'さらに積み重ねられていかなければならな

(S3

いように思われる。

注(

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5789,-B1.34.これは、一九l二年1月二五日付法務大臣宛

97 (517)

ブレスラウ高裁報告書の1部に見られる記述である。

Cm.)..DZA Merseburg/-Hist.Abt.II,2.2.1,Nr.31036,

Bl..24.(一九l八年四月六白)0

O) DZA Merseburg.Hist.Abt.II,2.5.1,Nr.5790,

B1.148.(;九1八年l〇月九日)0

(5)、O) Ebenda,B1.150.(一.九一八年l〇月九日)0

(t-) Max Weber, 'Agrarstatistische und sozialpoli-

tische Betrachtungen zur FideikommiBfrage in

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-

10gie und Sozialpolitik,Tubingen1924,S.367Anm.

1).

(8) このようにへ「基金」が担ったいわば仲介者的な役割

[・^m*.

は二重である。そして、ドイツ-プロイセン政府がへ この

:

^

b

%

「基金」を仲介者として利用したやり口もまた二重の意味

で巧妙なものなのであったOすなわちへ第lに'フ--ド

-ヒヘの転売の前に'この「基金」を所領の仲立ち的な購

買者に選定し'「基金」の所領相続権を一時的・経過的に

ではあれ1応認める形をとることによってへ所領相続の帰

趨をめぐるポールら三者間の永年の係争にさしあたっての

法的決着をつけようとした点で'そして第二に'所領収用

後へ 国家はただちに後景に退き'「基金」を前面に押し立

ててこれを利用し'収用問題を'「基金」 とフ--ド-ヒ

との自国民間の私法的売買契約の関係に転化することによ

りへ フランスの一私人ボール伯爵にたいするむきだしの強

権発動を結果的に隠蔽しようとした点で、それは'二重の

意味で巧妙なやり口なのであった。

(9) 「一九一八年六月l日、ドイツ垂工業界は・・・ロシアと

ウクライナへの経済進出を目的とするシンジケ1-の設立

を提案した」。フィッシャーの前掲書『世界強国への道』

が教えて-れるこの事実はへ戦時公債の使途を見きわめる

うえできわめて興味深い。「対ロシア経済侵略の大計画」

のかなめとして提案されたこのシンジケートの設立には'

総額二〇億マルクの資本が必要であった。経済界~・銀行業

界はようやく1億マルクを用意したもののへ残りの一九億

Ol

マルクについてはへ 公債か政府資金の直接的授助かによる

確保が予定されたのである。そこでへ国は、「国民の広汎

な層の支援を動員」する一環として'フ-Iド-ヒ伯爵の

問題の約三一〇万マルクをもへ このシンジケートの設立資

金に振り向けようと企図したのではないか。時期的符合の

点から見てへ上の推定もあながち不可能ではないように思

われる。村瀬興雄監訳書へ Ⅱ、岩波書店、一九八三年へ 三

六八-三七一ページの記述参照。

CS) 吉岡昭彦へ前掲論文へ一六ページ。

C=i)一つのエピローグとして'グルムボヴィツ所嶺をめぐ

る戦後の経緯に触れておきたい。さて'終戦後ただちに清

算収得金受領権者の確定が問題となる。この未決問題につ

いてへ所轄のプロイセン法務省は、敵国財産管財官・復興

大臣Reichsminister fur Wiederaufbauそして農林

(518) 98

第一次他界大戦期ドイツにおける世襲財産の清算

大臣らの再三にわたる強い要請にもかかわらずへ確答を避

けて'責任逃れの姿勢に終始したためへ案件の解決は結

局へ裁判所にもちこまれざるをえなくなる。そしてへ どう

やらへポール伯爵の清算収得金受債権だけは認められた模

様である。フランス人ポールは'土地所有は失ったもの

のへ それにたいする貨幣での補償のみはからくも得ること

がで重た。かれの土地所有は貨幣に変わった。ポールが'

いったん収用された土地所有の補償を手にするためには'

ドイツの敗戦という事態を閲しなければならなかったので

ある Vg1.DZA Merseburg,Hist.Abt.ll,2.5.1Nr.

5790,B1.153f.,162ff.史料はt l九一九年四月一五日付敵

国財産管財官の法務大臣宛文書へ同年四月二八日の法務大

臣の返事へ 1九二一年八月九日付農林大臣宛復興大臣文

書、そして'同年九月一目の法務大臣宛農林大臣文書であ

る。

99 (519)

gained the physical and economic freedoi-i as paid servants, based on the

contract of employment and gradually raised tbeir positions as wage earners.

Those changes appeared丘rst in the case of the men servants and then of the

women, though quite slowly. But the substantial differences between the

men and the women became larger and larger.

工n the case of the day laborers,we can see from the start theemployment

from in which they had a higher position as wage earners and the trend

did not change in "Kasei", when women day laborers increased. But their

debt-owing relations to、 the employer before the contract of employment are

con丘rmed, which after HKansei" played parts in building up and丘xing the

landlord-tenant farmer relationship.

The changes of employed labor in Kanto dry丘eld farming villages were

not simply and directly from indentured servants to day laborers and further

to the modern employment relation. After this it will be necessary to see

the changes in employed labor from HKinsei" to the modern era, including

examinations of employed labor and the landlord-tenant farmer sy・stem of

that period.

Uber die Liquidation des Fideikommisses in Deutschland

am Ende des Ersten Weltkriegs

Eusao Ka-t.o

Der Reserverittmeister der franzosischen Armee, Graf Paul de PourtalとS,

war ein franzosischer Adeliger in Paris. Vor dem Ausbruch des Ersten

Weltkriegs erbte er die etwa 2,200 ha groBe Herrschaft Glumbowitz in der

preuBischen Provinz Schlesien. Diese Herrschaft war ein Familienfideikom-

miB. Also kann man sagen, daB Graf Paul de Pourtalとs e-in franzfisischer

Staatsangehoriger war. der ein deutsches FideikommiB besaB.

Am 12. M邑rz 1918 0rdnete der damalige Reichskanzler Graf Georg von Hert-

ling die Liquidation der im Besitz des Grafen Pえul de PourtalもS- be丘ndli-

chen Herrschaft Glumbowitz an. Und zwar auf Grund eines Bekanntmachung

vom 14.M8rz v.J., die besagte,daB franzosische Unternehmungen zu liquidie-

ren seien. Infolgedessen ging der Besitz dieser FideikommiB-Herrschaft auf

den deutschen Staatsangehorigen, den Kaiserliehen、 Botschafter z.D., Grafen

Friedrich von Pourtalとs, uber. Die Kosten, welche Graf Friedrich fur den

C584) 5

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Erwerb der Herrもchaft zu tragen hatte, betrngen ungef芝hr 1,900,000 Mark.

Dieser Betrag enthielt den Ubernahmepreis von Kriegsanleihen im Werte

v。n etwa 1,300,000 Mark. Dabei占pielte ,;die Graf James von Pourtalとs'sche

stiftung zur FOrderung der inneren Kolonisation in Breslau・ eine gewisse

vermittlerrolle zwischen dem staatlichen Liquidator (Verk邑uferj und dem

Grafen Friedr'ich von PourtalとS (Kaufer). Graf James war der deutsche

vetter des Grafen Paul,

uber solch eine FideikommiBfrage w邑re wohl das Folgeiide zu sagen: die

Liquidation der Herrschaft Glumbowitz nach der Anordnung vom 12. M邑rz

1918 bedeutete nichts anderes, als daB dem Grafen Paul de Pourtal占s sein

Fideikommi肋esitzrecht in Deutschland entzogen wurde.-- Soweit es sich um

diesen Punkt handelt,spielte die Bekanntmachung bezuglich der Liquidation

fran云Bsieher Unternehmungen (s. O.) tats邑chlich eine Art Landenteignungs-

gesetz.

A-ndererseits wurde aber ,,die Graf James von Pourtalとs'sche Stiftung

もevorzugt,urn die innere KOlonisation in. Schlesien zu f批dern. Damit beab-

iichtigte die deutsche Regierung, zur Grundung einigen Siedlungsgelandes,

wie zum Beispiel sogenannter KriegerheimstStten,auch die fllr GroBbetriebe

ungeeigneten Teile der Herrschaft zu verwerten.

AuBerdem dilrfen wir die historische Bedeutung der Ausgabe von Kriegs-

anleihen nicht ilbersehen. Die deutsche Regierung erwarb eine groBe Summe

filr ihre imperialistischen Kriegskosten, indem sie die Kriegsanleihe ausgab

und durch den Grafen Friedrich von Pourtalとs diese Anleihe ubernehmen

lieB. Das deutsche FideikommiB (das Pourtalとs'sche FideikommiB}, welches

am Ende des Ersten Weltkriegs aus dem Besitz des feindlichen Frankreich

zurllckgenommen wurde,hatte filr den deutschen Imperialismus recht eigent-

lich erne praktische Bedeutung als Mittel der Kapitalbesdhaffung des eigent-

lichen Kii噌sziels.

Irish Agriculture and Agricultural Labourers in the

Second Quarter of the Nineteenth Century

KOJIRO ISHII

The traditional interpretation of the Irish history in the nineteenth cen-

tury has been revised- since 1960s. The `Famine Q845-48) water-shed theory

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