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合理的個人 VS.経営人 ~どちらの力が強いのか?合理性について考える~ 権丈善一研究会 第3期 石井真理香 - 1 -

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合理的個人 VS.経営人

~どちらの力が強いのか?合理性について考える~

権丈善一研究会 第3期

石井真理香

- 1 -

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はじめに

人間行動について考えてみたい、というわたくしの思いは無謀すぎたように

思う。正直に言って、経済学の定義として確固とした位置に立つ合理的個人に

疑問を感じたのは、自殺行為だったのかもしれないと感じている。それゆえ、

合理性について論文を書くことは、なかなか難しい作業だった。まとめ上げら

れたかどうか不安である。それでも、わたくし自身を含め、日常生活では人々

が経済学で捉えない行動をも行っているのには興味があったのだ。 わたくし自身の行動を振り返ってみても、わたくしは無償のボランティアは

進んで行うし(利他的に行動する)、過去のことに後悔したり(サンクコスト

と考えていない)、洋服を衝動買いしてタンスの肥やしを増やしたり(選好を

きちんと認識していない)等々、一見、非合理な行動を行っていることに気付

く。この事実を無視してしまってももちろんかまわないのだが、わたくしには、

合理的個人の陰に潜む、非合理的な行動を行う人間の姿を暴いてゆきたいと思

ったのである。合理的個人と非合理的な行動をとる人間を把握できれば、人間

の行動をよく知ることができるだろう、とも思ったのである。 わたくしの研究の最終目的は、人間行動を知るということである。その手が

かりとして、わたくしはこの論文において、経営人は合理的経済人を打ち負か

すことができるほどの力があるのだろうか、ということについて考えてゆきた

いと思う。つまり、今後の経済学にとって、合理的個人に代わる人間像として

経営人が存在するのか、それともやはり合理的個人にはかなわないのかを考え

てゆきたいのだ。そして最終的には、わたくしは人間の意思決定とはどのよう

なものなのか、人間を一言で表せるのならば、どのようにいえるのかを考えて

ゆきたい。 そのため、今回の研究では、合理的個人と経営人の概観することが主になっ

ている。 論文の構成を以下に示そう。 1章では経済合理性について説明を行う。経済学の定義は何であるのか、ど

のような合理性を仮定しているのかについて述べてゆく。合理的個人の説明で

- 2 -

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あるといえる。 2章では、合理的個人に対して批判を行った研究を概観してゆく。非合理的

な事象を見つけ出し、それが一貫したパターンを持っていることを示した研究

である。たとえば、Simon の限定合理性と Khaneman,Tversky のプロスペク

ト理論について説明を行ってゆく。 そして、3章では、2章で取り上げた合理的個人の批判論議から、はたして

経営人は合理的個人よりも説明力が高いのかどうか検証してゆくことにする。

いわば、まとめの章でもある。また、補論のページを最後に置いて、卒論に必

要と思われる項目や卒論を理解する手助けになる項目について説明を加えて

いる。参考にしていただければ幸いである。

最後になったが、この論文を書くために多くの人の協力を得たことを記して

おきたい。いらぬ心配をさせてしまったかもしれない、権丈ゼミのメンバーと

なによりも、権丈先生には非常に感謝している。ありがとうございます。権丈

ゼミで学んだことは、たったの 2 年間であったけれども、よく勉強してよく遊

んだ、充実した時期であったと思う。わたくしはこれから前を向いて歩みつづ

けて行きたいと思いながらも、この2年間はかけがえのない時間だったといい

切ることができる。

平成 15 年 1 月 権丈善一研究会 第 3 期

石井真理香

- 3 -

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目次

はじめに............................................................................................................2

第一章 経済合理性とは...................................................................................5

1-1均衡原理と最適化 ...............................................................................6 1-2合理性とは何か.................................................................................14 1-3利己的なのか利他的なのか ...............................................................16 1-4まとめ ...............................................................................................17

第二章 全知全能モデルの批判 ......................................................................18

2-1SIMON の主張:「最適化は適切ではない」~満足化の提唱~ ..........19 なぜ Simon は限定合理性、経営人を提唱したのか....................................... 28 限定合理性の史的展開 .................................................................................... 37

2-2KHANEMAN=TVERSKY の主張:~「プロスペクト理論」~...........44 Khaneman=Tversky の研究の意義.............................................................. 50

2-3DE BONDT=THALER の主張:~金融市場の過剰反応~ ..................52 2-4SEN の主張:合理的な愚か者たちへ~共感とコミットメントの提唱~

.....................................................................................................................58 公共財供給における経済実験 ......................................................................... 60

第三章 人間行動とは(まとめ)...................................................................63

補論 .................................................................................................................67

行動経済学とは何か ....................................................................................67 実験経済学について ....................................................................................69 日本の金融市場における過剰反応 ...............................................................72 2002 年度ノーベル経済学賞者の経歴..........................................................78

おわりに..........................................................................................................80

参考文献 参考 URL ......................................................................................82

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第一章 経済合理性とは

「経済を分析するために経済学者は最適化原理と均衡原理とを採用す

る。各経済主体が自らにとって最善であるとみなすものを選択すること

を最適化原理といい、需要と供給とが等しくなるまで価格が調整される

ことを均衡原理という」 上の文は、経済学1の教科書である Varian(2000)pp.22 からの引用であり、

最適化原理と均衡原理という2つの原理が、人間行動を記述できるフレームワ

ークだと定義している。今回、人間行動の合理性について論文を進めるにあた

って、わたくしはこの最適化原理と均衡原理を経済学での定義とし、そこで捉

えられている人間、特に最適化原理にもとづいて行動する人間を合理的個人と

したいと思う。そうすることによって、経済学における非合理性の姿を浮かび

上がらせたいと考えているのだ。 この章では、最適化原理と均衡原理についてその公理を中心に説明し、そこ

から導き出される合理性の概念について述べていこうと思う。

1 ここでの経済学は、新古典派経済学としている。

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1-1均衡原理と最適化

初めに、均衡原理について説明したい。均衡原理は価格の決定について定義

しているもので、需要量と供給量が一致したときに価格が決まることを指して

いる(図1)。

図1 均衡原理:需要曲線と供給曲線

価格 供給曲線

需要曲線

0 均衡価格 数量 現実には、「任意の時点において需要と供給とが一致するとは限らない」とい

われることがあるが、均衡原理においてこのことは「通常では起こりそうにな

い」とみなされている2。というのも、経済学では均衡価格のみを問題としてい

るので、「市場がどのようにしてこの均衡へ到達するかとか、均衡が長時間にわ

たってどのように変化するかという問題には当面関心がない」からである3。過

程よりもその結果に重点をおいているのだ。これは経済学が比較静学分析を行

っていることにもつながる概念である。 次に、最適化原理の説明に移ろう。最適化原理はいたって単純な原理で、人

間は望ましくないものよりも望ましいものを選択するということである。たと

2 Varian(2000)pp.5 3 Varian(2000)pp.5

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えば、( )21 , xx f )( 21 , yy かつ同時に ( )21 , yy f )( 21 , xx となるような状況は、矛

盾とはいえないにしても非合理的だとしている。桃よりみかんが好きといって

いる人間が、数秒後にはみかんより桃が好きだと支離滅裂に話し出すことは「お

かしい」とみなすのである。というのも、経済学は整合性を保っていると仮定

しているからだ。よって最適化原理では、消費者は強い意味でベクトル X をベ

クトル Y より選好し、しかも同時に逆が成立しなければならないと仮定してい

る。この整合性にもとづいて、消費者選好理論では3つの「公理」が設定され

ている。これをまとめたのが下の表である。

表 1 消費者選好における3つの定理4

完全性 どのような2つのベクトルについても、両者の比較が可能

であると仮定する。すなわち、任意のベクトル X とベクト

ル Y とが与えられると、 (ⅰ) )( 21 , xx f )( 21 , yy 、または (ⅱ) )( 21 , yy f )( 21 , xx 、または (ⅲ) )( 21 , xx f )( 21 , yy 、 )( 21 , yy f )( 21 , xx 両方ともが成

り立つ とする。 (ⅲ)の場合、消費者にとって2つのベクトルは無差別と

なる。 反射性 どのようなベクトルでも少なくともそれ自身同程度に望ま

しいと仮定していること。 )( 21 , xx f )( 21 , xx となる状態。 推移律 )( 21 , xx f )( 21 , yy か つ )( 21 , yy f )( 21 , zz な ら ば 、

)( 21 , xx f )( 21 , zz となると仮定する。言い換えると、消費

者がXを少なくともYと同程度に望ましいとみなし、かつ

Yを少なくともZと同程度に望ましいとみなすならば、こ

の消費者はXを少なくともZと同程度に望ましいとみなし

ている。

4 Varian(2000)pp.38 を参考に作成。

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これら3つの公理のうち、完全性、反射性は明らかに妥当性を持っているた

めに「深く議論する余地はない5」とされている。ただ推移律については、いさ

さか問題が残っているという。「選好関係が選好の推移律を満たさなければなら

ない必然的な....

性質であるかどうか明確ではない6」からだ。たとえば、もし、Xが Y より望ましいと捉えて、Z より Y が望ましいとしているとき、Z が X より

も望ましいとするならば、選好関係が推移律を満たすことはなくなってしまい

(アローの一般不可能性定理)、人間の選択問題を正確に記述することができな

い可能性が現れてくるのである。しかしいずれにしろ、これらの定理は、人間

が意思決定を行う際に矛盾がないこと、つまり、整合性が存在することを定め

ている。 そして、経済学では、選好を記述する方法として効用という概念を定義して

いる。Varian(2000)によると、「効用関数(utility function)とは、より選

好される財ベクトルにはあまり選好されない財ベクトルよりも大きな数値を割

り当てるという要領で、すべての可能な消費財ベクトルに数値を割り当てる方

法である」と定義している。「ベクトル )( 21 , xx がベクトル )( 21 , yy よりも選好

されるのは、( の効用が)21 , xx )( 21 , yy の効用よりも大きいとき、そしてそのと

きのみである7」としている。 この効用関数によって、人間は意思決定において相対費用や相対的価値を判

断できるようになるので、効用関数は選好を記述する方法と呼ばれるのだ。効

用関数を式で表すと次のようになる。ここでは、一般的に利用されているコブ・

ダグラス型の効用関数を挙げてみよう。コブ・ダグラス型の効用関数は、

)( dc xxxxu 2121 , = c,d:消費者の選考を表すプラスの数値

5 Varian(2000)pp.39 6 Varian(2000)pp.39 7 記号を用いれば、 )( 21 , xx f )( 21 , yy であるのは )( 21 , xxu > )( 21 , yyu のとき、

そしてそのときのみ、と表すことができる。

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と表される。 また効用は、序数的効用(ordinal utility)と基数的効用(cardinal utility)と

に分けられている。序数的効用は、任意の2つのベクトルに対する効用の差の

大きさを問題にするのではなく、順序付けを重要視したものである。たとえば、

3人の人たちが食事を和食・洋食・中華料理の中から決めようとしたとき、全

員が洋食より和食を選好していて、また中華料理より洋食を選好していた場合、

結局は和食 洋食 中華料理となる選好順序なので、これを大切にするという

ことである。3人それぞれがどの程度料理を食べたいと示したのか、たとえば、

和食が望ましいとなっても、何が何でも和食を食べたいのか、ほんのわずかな

差で和食を食べたいと選択したのか、という点までは考慮しないのである。効

用の順位付けを重視することが序数的効用なのである。

f f

その一方、基数的効用とは、効用の順位付けではなくて、その大きさに意味

を持たせるものであり、基数的効用理論として知られている。序数的効用の考

え方とは逆の方向性を持つものであろう。つまり、基数的効用理論では「2つ

のベクトル間の効用の差異の大きさはある種の意味を持つ」8と捉えられている

のだ。しかしながら、あるベクトル A が他のベクトル B よりも2倍大きいと示

されたとしても、選択行動を知る際には、A が B よりも大きい効用であること

がわかれば十分であるため、意思決定を記述するのには重要ではないとされて

いる9からだ。よって、基数的効用理論を省き序数的効用に焦点を絞っても、効

用関数は選好順序を表現したり要約する方法であることに変わりはないといえ

る。 効用関数は情報が不確実なときでも適用できる概念である。不確実性の場合

には、「異なる状況のもとで得られる金額を異なる財とみなす10」ことを行って

いるからである。これは、不確実性がある場合――例えば医療保険の契約をし

ようとする場合――人間は、将来病気にかかったりけがをするという状態と、

8 Varian(2000)pp.59 9 また、基数的効用理論には、基数的効用を割り当てる説得方法が存在しない

という。Varian(2000)pp.60 10 Varian(2000)pp.196

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けがや病気もしないという2つの状態を確率から導き出し、それぞれの状態で

必要とされる金額を財とみなして意思決定を行うことを表している。Varian(2000)では、ある確率事象の異なる結果を異なる状態とみなし、選好はそれ

ぞれの状態において消費できるものを特定化した条件付き11消費計画を用いて

11 Varian(2000)pp 196 条件付きとは、まだ確実ではないものに依存していることを表している。よっ

て条件付き消費計画は、ある確立事象の結果に依存する計画を指す。たとえば、

保険の場合、条件付き消費は保険契約のことを指しているし、株の投資の場合

では、それぞれの株の値動きに応じてどの株を消費するかということになる。

このことについて、Varian(2000)では、保険の購入について説明している。

これを抜粋することしよう。 「悪い状態」における条件付き消費は、25000 ドルであり、「良い状態」

におけるそれは 35000 ドルである。保険をかけると、この所与の消費パ

ターンを替えることができる。もし K ドル保険を買えば、良い状態での

消費を Kγ ドルあきらめる代わりに、悪い状態における消費を K- Kγ ド

ル増やすことができる。したがって、良い状態において失う消費を悪い

状態に得られる追加的消費で割ると、次のようになる。

.1 γγ

γγ

−−=

−−=

KKK

CC

b

g

これは、初期保有点を通る予算線の傾きである。すなわち、良い状態

での消費の価格が1-γで、悪い状態でのそれはγであるかのようにみ

なせる。 さらに、条件付き消費に関する消費者の無差別曲線を描くことができ

る。ここでも、無差別曲線が原点に対して凸であると仮定するのが自然

である。この仮定は、消費者はある状態の消費を大きくし、もう一方の

状態の消費を小さくするよりは、それぞれをほどほどに消費するのを好

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行われる、と述べている。 よって、もし条件付き消費計画を通常の消費財のベクトルとみなせば、完全

情報の場合と同じように、合理的個人は自分自身の制約のもとで最善の消費計

画を選ぶと仮定できるのである。不確実情報の下でも、人間が最適化を行って

いることに変わりはない。それゆえ、不確実性下での選好は、効用関数によっ

て表すことができるが、先に述べたように、不確実性のもとでの選択を考える

際には、状態が生じる確率に依存しているので、効用関数は「消費水準だけで

はなく、確率の関数12」にもなる。 記号で表してみると、

( )21,2,1 ,ππccu

1c :第1事象の消費

2c :第2事象の消費

1π :第1事象が生じる確率

2π:第2事象が生じる確率2つの事象が完全に排他的であれば、どちらか一

方のみが実際に起こるので、π =1-π 2 1

となる13。

むことを意味している。 それぞれの状態における消費の無差別曲線が与えられると、保険をど

れだけ買うべきかを調べることができる。今まで通り、これは接線の条

件によって特徴づけられる。すなわち、2つの状態における消費の間の

限界代替率は、2つの状態での消費の価格比に等しくしなければならな

い」。 12 Varian(2000)pp.198 13 これをもとに不確実性下の効用関数は 3 種類に分けられる。 ① 2つの財が完全代替の場合

( ) 221121,2,1 , ccccu ππππ +=

それぞれの財が消費される確率でウエイトをつけており、これは期待値

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まとめると、確率に依存することが不確実性の場合での意思決定となる。こ

れを公理では独立性と呼んでいる。ある状態のもとで消費者の行う選択は、別

の状態のもとでの選択と独立でなければならない、ということだ。この仮定に

よって、効用関数は条件付き消費に対する効用関数を加えた形になる。異なる

状態における消費を , , とし、それらの状態が生じる確率をそれぞれ

,π ,π とすると、独立性がある不確実性下での効用関数は、 1c 2c 3c

1π 2 3

( ) ( ) ( ) ( )3322113,2,1 cucucucccU πππ ++=

という形になり、期待効用関数になる。期待効用関数は、2つの財の間の限

界代替率がもう一方の財の量には依存しないので、第1財と第2財の間の限界

代替率は、

(expected value)を表している。期待値は消費者の平均消費量である。 ② コブ・ダグラス型の効用関数の場合

( ) ππππ −+=− 1211,2,1 1, ccccu

消費の組み合わせがもたらす効用は、各財の消費量と非線形の関係にある。 ③ フォン・ノイマン-モルゲンシュテルン型効用関数(期待効用関数)の

場合

( ) ( ) ( )221121,2,1 , cvcvccu ππππ +=

効用は各事象における消費のある関数 v と の加重平均であり、その

ウエイトは各事象が生じる確率である。π + は、( )21 ,cc という消

費パターンがもたらす効用の平均値を表しており、これが期待効用と呼ばれる。

( )1c ( )2cv( ) ( )2211 cvcv π

また、この効用関数において、 = cとした場合は完全代替のケースとな

り、①の効用関数とおなじである。また、対数をとり、 =In とおけば、

②のコブ・ダグラス型の効用関数となる。

( )cv( )cv c

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( )( )

( )( ) 222

111

2321

132112 ,,

,,ccuccu

ccccUccccU

MRS⊿⊿π

⊿⊿π

⊿⊿

⊿⊿==

となる。これは MRS が第1財と第2財の量のみに依存し、第3財の量には関

係がないことを示している。

表 2 不確実性があるときの公理

独立性 ある状態のもとで消費者が行う選択は、別の状態のもと

での選択と独立でなければならない。 以上、選好と効用から最適化について述べてきた。選好における整合性と選

好を記述する効用関数が最適化を表しているといえる。これは、完全情報の場

合でも不完全情報の場合でも変わることない。不完全情報の場合には独立性と

いう公理が適用され、個人は確率にもとづいた意思決定を行うと定めているか

らだ。 以上のことから、最適化とは、完全性、反射性、推移律、独立性という公理

のもと、人間の選好が効用を用いて記述されこの効用を目的に沿って最大化す

るように意思決定を行うこと、と定義できるだろう。 また、最適化は意思決定を行う主体によって変化するので、消費者理論(個

人の場合)では効用最大化、企業の場合では利潤最大化や費用最小化といった

ものに置き換えることができる。つまり、経済活動における担い手を主体と捉

えたとき、主体の行動を何らかの目的関数によって表すことが最適化なのであ

る。

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1-2合理性とは何か

さて、ここから経済学における合理性の概念に移ってゆこうと思う。わたく

しはすでに、経済学で捉えられている人間、特に最適化原理にもとづく人間を

合理的個人と定義することにした14。最適化原理にもとづく人間が合理的個人

であるため、合理的個人の持つ合理性は、最適化原理とつながるはずだ。よっ

て、わたくしは前節で最適化原理を説明しているとき、整合性と目的関数の最

大化が最適化だと述べたが、これこそが合理的個人の合理性になるだろう。表

3に示したのが合理性概念である。つまり、最適化=合理性ということである。

整合性を持ち自身の目的関数を最大化することが合理性なのであり、この合理

性を用いて合理的に行動する人間が合理的個人なのである。

表 3 合理性概念

最適化

整合性:完全性、反射性、

推移律、独立性

目的関数の最大化

合理的個人

の合理性

14 この定義は、論文の中で合理的個人を表すために設定したものであり、わた

くしが新たに作り上げたものではないことに注意されたい。経済学の教科書で

定めている公理をおさらいして設定したものであるので、経済学が仮定してい

る合理的個人と特に変わりがないと思う。 たとえば、Sen(1986)は、合理性を内的一貫性(internal consistency)と私

益追求(self-interest pursuit)と呼んでいる。また、友野(1992)は、「合理

性の仮定は、選好の一貫性(無矛盾姓)とある目的関数の最大化の2つの部分

からなる」といっている。

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Simon(1965)は、合理的個人を客観的経済人として次のように定義している。

「客観的合理性とは以下のことをさしている。行動している主体が、(a)意思

決定にさきだって、パノラマのように代替的選択肢を概観すること、(b)各選

択肢によって生じる複雑な諸結果の全部を考慮すること、(c)全代替的選択肢

から一つの行動を選択できる基準としての価値体系をもっていること、これら

のことによって自分の行動すべてを統合されたパターンへとつくりあげること

である15」 合理的性をまとめると以下のようになるだろう。そしてこの合理性を持って

いる人間が、経済学における合理的個人となるのだ。

合理的個人 ○人間がそこから選択すべき整合的に定義された選択肢の集合に直面

していると仮定していること ○人間がある整合的に定義された効用関数を持っており、したがって彼

は、将来にわたっての事象に関する何らかの特定のシナリオについて、

彼の好みの尺度として、ある基数を割り当てることができると仮定し

ていること ○人間がすべての将来の事象の集合に対して矛盾のない同時確率分布

を割り当てることができるものと仮定していること ○人間は、その戦略から生じる事象の集合のなかから、彼の効用関数に

照らし合わせて、期待値を最大化するような選択肢や戦略を選択する

こと

15 Simon(1965) pp.102

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1-3利己的なのか利他的なのか

合理的個人の合理性についてさらに深く検証してみたい。これまでは、人間

の動機にではないにしても、その行為に関して人間が合理性を持っていれば合

理的であるとみなしてきた。したがって、その動機――合理的個人が利己的な

のか利他的なのか、それとも利己的であり利他的もあるのか――といった議論

は控えてきた。しかしわたくしは、動機をも人々の意思決定に影響を与えるも

のだと考えるので、経済学が人間の動機をどのように捉えているかもみてゆき

たいと思う。 この問いに、答えを導き出すのは難しいようだが、合理的個人は利己的であ

るというのが一般の経済学者が捉えている概念だと思う。というのも、アダ

ム・スミスの時代から、人間は利己的なものであると捉えて検証が行われてき

たことと、「人が何をしていようとも、あらゆる孤立した選択の行為において

その人は自分自身の利益を押し進めようとしている、と見ることができるよう

な仕方で、個人の利益を定義してやることは可能である16」からである。人間

行動を判断する際においても、利己的に行動すると定義したほうが便利である

ということなのだ。これは功利主義と呼ばれるが、ここでは功利主義とは何で

あるかという詳細な検討は避けておこう。 しかしながら、合理的個人が利己的に行動すると仮定した場合、個人個人を

すべて足し合わせた社会が最適化の状態になるかは不明瞭である。この集団的

意思決定が社会厚生の最大化を生み出すのかという加重定理問題は、ブキャナ

ンやアローによって検証され、必ずしもそうではないという結論が導き出され

ている。 いずれにしろ、この論文においては、合理的個人の合理性は利己的な動機づ

けによるものとしよう。合理的個人は、自己利益の最大化を行うのだ。

16 Sen(1989)pp.128

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1-4まとめ

ここで、ひとまず合理的個人の姿が浮かび上がっただろう。つまり、整合性

にもとづき、利己的に目的関数の最大化によって意思決定を行うのが合理的個

人である。合理的個人はあたかも全知全能の人間である。能力の高さ、鮮明さ

においては1点の曇りもない存在である。合理的個人は、自らの選好を矛盾な

く表すことができ、将来の事象に対してもすべての選択肢とその選好を導くこ

とができる。かつ、合理的個人は効用関数を用いて自らの期待値を最大化させ

ることが可能なのだ。合理的個人は日常生活の単純で些細なことまでも、たと

えば、今日何を着ようかといったことや、どうやって 1 日を過ごそうかといっ

たことに対しても、常に最適な答えを用意しているとみなされるのだ。 次章からは、この合理的個人に欠陥があること、現実の人間行動を記述する

のには脆さを持っていることを示してゆきたいと思う。

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第二章 全知全能モデルの批判

経済学が掲げる合理的個人は、実によく人々の行動を記述・予測するのに適

している。合理的個人が現実社会の人間を抽象化しているモデルであるため、

ある程度の説明できない事象があっても優れたツールであるのは否めない。し

かしながら、現在、合理的個人を用いる経済学に対する批判は強い。研究が数

学の精緻さに固執し、理論と現実との差が開きすぎているとさえいわれている

のだ。たとえば、N. McCloskey は、①経済学における統計的検定の使い方の

問題、② 数学重視の傾向の弊害、③ 社会工学の不可能さ、を提唱して、経済

学を批判している。 合理的個人を批判することは今になって始まったことではない。1978 年に

ノーベル経済学賞を受賞した Herbert A. Simon は、企業の組織行動の研究を

行う過程で合理的個人の限界を見出し、限定合理性を提唱しているし、認知心

理学の研究者である Daniel Khaneman=Amos Tversky は実験を行うことで、

人間は合理的に選択を行うのではなく、ヒューリスティックスや主観によって

バイアスを持っていると唱えた。彼らの提唱したプロスペクト理論は、金融市

場での人間行動を説明するのに役立ち、Daniel Khaneman は 2002 年度のノ

ーベル賞経済学賞を受賞している17。 この章では1章で定義した経済学の合理性について意義を唱えている研究

を概観する。合理的個人を否定する研究は、経済学のどの分野から沸き起こっ

てきたものなのか、その研究は今現在、どの程度まで理論化されているのか、

反対論者はなぜ合理的個人に疑問を抱くようになったのか、について説明して

ゆこう。

17 Amos Tversky は故人であるため候補の対象外となった。

- 18 -

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2-1Simon の主張:「最適化は適切ではない」~満足化の提唱~

あるときは経済学者、あるときは政治学者、あるときはコンピューター・サ

イエンスの科学者と、Simon は非常に学際的な研究を行う学者である。彼は、

人間の意思決定、問題解決の理論をテーマに掲げ研究を行った。その中で、彼

は限定合理性を提唱し、また合理的個人に代わるものとして経営人を提唱した。 この節では、Simon が合理的個人を批判し、限定合理性・満足化という概念

の主張を行ったことを明らかにしてゆこうと思う。 Simon(1984)は、全知全能の合理的個人、つまり主観的期待効用理論(SEU

理論)にもとづく人間の意思決定を真っ向から批判している。主観的期待効用

理論は、1章で述べた期待効用理論と同じものであると考えてよい。この主観

的期待効用理論は、整合的に定義された効用関数を持っている人間がある意思

決定に直面しているとき、将来の事象に対して矛盾のない同時確率分布を割り

当て、そこから期待値を最大化するように選択を行うことと仮定している。 Simon は、この主観的期待効用理論を現実社会に適用しようとしても、決し

て適用されないと述べているのだ。たとえば、工場における生産レベル・在庫・

作業要員についての最適な意思決定を行おうと主観的効用理論を適用する場合、

理論では効用関数とすでにある情報の結果について同時確率分布を持っている

と仮定しているため、あらかじめ答えは出されているし、また、生産レベル・

在庫・作業要員という意思決定の集合は、経営者がしなければならない決定の

中の一部であって、他の意思決定あるいは現実世界のほかの側面についての情

報とは、完全に独立して記述するものと規定される、と主張している。具体的

に彼の意見をここで記しておきたい。Simon は、「(現実社会に適用するとき、

主観的期待効用理論は)効用関数とすでに与えられていると仮定されている結

果についての同時確率分布を持った、いくつかの等式と変数に単純化された世

界における高度に抽象化された問題にすり返られてしまっているか、大いなる

現実世界の実態から切り取られた極く微細な、注意深く規定され制約された状

- 19 -

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況に関する極く小さな問題のいずれかが前提にされている18」と断言している

のだ。よって主観的期待効用理論は、現実の問題に対して最適な解決を与える

かもしれないし、与えないかもしれない、どちらかはよくわからない、という

説得力のない理論に落ちてしまうと主張しているのである。 この主観的期待効用理論の批判に対して、Simon は限定合理性を掲げた。 限定合理性とは、「環境の複雑さが適応システムの計算能力よりもはるかに大

きい状況下での合理性の意味19」を指している。限定合理性における限定とは、

①人間はすべての代替案を知ることはできないこと(予測の困難性)、②外生的

な事象についての不確実性があること(情報・知識の不完全性)、③人は結果を

計算できないこと(計算能力の限界)という3つに分けられる。 この3つの限定について詳しく述べてゆこう。 ①「人間はすべての代替案を知ることはできないこと」、について Simon

(1967)は、(人間は)「結果そのものの予測が困難であるという事実に加え、

(意思決定による)ある結果が「完全に記述されているときでさえも、その結

果の予測が、実際の経験と同じような強さでもって感情に働きかけることはほ

とんどありえない」と言い、そのため「人間の持つ性向との関連でより複雑な

問題が出てくる」と述べている。つまり、これは個々人の経験値(ヒューリス

ティックス)が意思決定に影響を与えていることを示している。たとえば、「過

去に株投機で大きな損失を被った経験のある投資家は、その時と似たような状

況に遭遇する場合、客観的な確率とはほとんど関係なく、株の売買を避けよう

とする20」ような状況のことを指している。これが予測の困難性を表している。

予測の困難性という概念は、Khaneman=Tversky が人間を使った意思決定の

実験を通して実証分析を行い、理論化した「プロスペクト理論」に当てはまる

事象である。(Khaneman=Tversky の詳しい研究は、次節で行う)人間はた

とえ完全情報を持っていたとしても、自分自身が行う予測とその結果には感情

という要素があるために、個々人によって捉える重みが違ってくるということ

18 Simon(1984)pp.15~16 19 Simon(1984)pp.200 20 高巌(1995)pp.29

- 20 -

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だ。これが、Simon の言う能力の限界の1つ、「人間はすべての代替案を知る

ことはできないこと」である。 予測の困難性は、1章で述べた経済学の定理と比較してみると「独立性」の

公理に反する事例にあたる。不確実性がある状況において、客観的な確率に依

存して意思決定を行うのではなく自らの過去の経験に依存して意思決定を行っ

てしまうこと(期待効用理論からの逸脱)が、「独立性」の仮定を逸脱している

と判断できるだろう。 ②の「外生的な現象について不確実性があること」とは、情報・知識の不完

全性だといえる。「実際には、人間は、彼の行為を取り巻く状態について部分的

な知識以上のものは持っていないし、また、現在の環境について持っている知

識から将来の結果を導きだすことを可能にする規則性とか法則についても、わ

ずかばかりの洞察以上のものは持っていない21」と Simon(1967)は述べてい

る。たとえば、もし、医者が自分の担当患者について完全な情報を持ちえてい

て、いつ亡くなるか、または退院するかを知っているという合理的個人の医者

ならば瞬時に適切な治療を施すことができるが、現実には医者は必ずしもこの

ような態度をとらず、これまでの経験や知識をもとにして治療方法を導き出す

だけに過ぎないことを指している。内科を専門とする医者は外科についての知

識はないし、治療法もすべてを導き出すことはできないというのだ。 情報・知識の不完全性は、予測の困難性とも似ているようにみえるが、予測

の困難性とは同一ではない。その違いは、予測の困難性はすべての代替案を知

っていたとしても、過去の経験や感情に依存して意思決定を行う傾向があるこ

とを示しているのに対し、ここでの情報・知識の不完全性は、人間がそもそも

すべての代替案を見つけえないことを述べているのである。 そのため、Simon(1967)は、「合理性を求めるがその知識の限界内に制約

されている人間」は、「限られた数の変数と限られた範囲の結果のみを含んでい

る閉鎖された体系を、ほかの世界から分離すること」によって、この困難を部

分的に克服し主観的に合理的な決定を下すに過ぎないと述べている。医者の例

でいうと、医者は最適な治療法を導き出すのに、すべての選択肢をみつけるこ

21 Simon(1967)pp.103

- 21 -

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とはできないために、「これまでの経験や知識をもとにして治療方法」を導き出

すと考えられるのだ。組織において必要な知識が、意思決定のなされる点の近

くに設定されている事実は、――例えば、マーケティング部署の意思決定が、

消費者の需要の予測と市場価格に依存している場合に、消費者と市場の近くに

意思決定場所を持つこと――は、情報・知識の不完全性による結果であると

Simon はいう。というのも、意思決定者自らがすべての情報や知識を獲得する

ことはできないと判断しているからである。これが情報・知識の不完全性とな

る。 合理的個人が、確率を求めて意思決定を行おうとするのに対し、ここで登場

する人間は確率を計算しない。それよりも、複雑な社会を単純化することによ

って意思決定を行いやすくしようと試みるのだ。人は情報の不完全性を取り除

くために、組織を形成する、という Simon の主張はこの点にある。 よって、情報・知識の不完全性もまた、経済学の公理にある「独立性」から

逸脱している事象であることが言えるだろう。つまり、1章で述べた期待効用

理論に沿って人間は行動していない、という主張になるのだ。また、すべての

代替案を導き出すことはしないので、結局は、最適化から逸脱しているともい

える。 最後に③「人は結果を計算できないこと」について説明したい。これは、た

とえ人間が完全情報を持ち、膨大な数の代替的選択肢を知っていたとしても、

一時点に脳が処理できる容量が限られているため、それらをすべて一度に比較

検討して意思決定を行うことは不可能だと示しているものだ。そのため、人間

が代替的選択を思い起こすのは「いつなんどきでもほんのわずかにすぎない22」

と Simon はいう。②の情報・知識の不完全性は、この計算能力の限界に由来す

るといえる。また、計算能力の限界を経済学での定義と比較してみると、計算

能力の限界は人が最適化を行っていないことを示していると考えられる。整合

性にもとづき目的関数の最大化を行うのが、最適化だと1章で定義したが、

Simon のいうとおり人間がすべての代替案を思いつくことができないのなら

ば、最適化の逸脱事例となるだろう。特に、目的関数の最大化が行われていな

22 Simon(1967)pp.105

- 22 -

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いことを示している。 以上、3つの能力の限界により、人間は意思決定の際において、必ずしも最

適化を行っているのではなく、意思決定者を行う人間の予測の困難性、情報・

知識の不完全性、計算能力の限界、を抱えているため、人間は最適化に近い選

択肢を選択しているだけにすぎないのだ。Simon の唱えた、この3つの限定合

理性を持った人(以下、経営人23)は、まとめると次のような人である。

自分の行った意思決定は合理的に導き出されたと認識しているが、

最適化を行って選択する合理的個人と比べると非合理の行動をし

ている人 これをモデル化すると以下のようになる。 ひとつの意思決定前提がある個人に与えられるとする。意志決定前提とは、

他の意思決定者による決定結果を指しており、意思決定者が意思決定を行うと

きに手助けになるものである。これは、事実前提と価値前提に分かれ、どのよ

うになっているのか、という事実を表すものを事実前提と呼び、~すべきであ

るというような、倫理的側面が強いものを価値前提と呼んでいる。たとえば、

「今日は雨が降るでしょう」という天気予報が流れたとき、雨が降るという情

報が事実前提を表している。また、もしそのとき、お天気お姉さんが「傘を持

ってゆきましょう」といっていた場合、これが価値前提となるのだ。どちらの

前提も、人間が意思決定を行うとき、どの選択肢を選択することが望ましいか

というヒントを提供するものである。よって、一つの意思決定前提が与えられ

たとき、意思決定者の決定パターンを固定的なものと仮定するならば、彼の意

思決定結果は次のように表現される。

( ) yxT = x:意思決定前提

23 あるところで満足する―満足できる、あるいは「十分良いと思う」行為を探

し求める人 Simon(1967)pp.30

- 23 -

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T:オペレータおよび意思決定者自身 y:決定結果

もし、意思決定前提の数をn個に増やすと、決定結果は改善されるかもしれ

ないが、その数が非常に大きな場合、決定 y′を得るには、膨大な時間とエネル

ギーを費やすことになる。それゆえ、一般に人は適度な数の意思決定諸前提を

もとに検討すべき対象を限定し、その枠内で満足解を導き出そうとする。

( ) yxnxxxT ′=,,3,2,1 L :yy ≥′ y′そのものは、 と同じか よりも望ましい決定結果 y y

Simon が主張した合理的個人への批判と、それに続く経営人の提唱をみてみ

ると、経営人は、自分では合理的な意思決定だと思っているが、実際は非合理

的な行動を行う、一見間抜けな人間であることがわかる。また、合理的個人が

最新のコンピュータであるとすれば、経営人は、1世代前のコンピュータであ

るようにも感じられる(使用するには問題はないものの、機能(能力)に差が

ある)。しかし、経営人のほうが、合理的個人よりも現実社会の人間像に近いよ

うに思う。 ここで注意しておきたいのは、経営人もまた利己的な動機づけで行動するこ

とである。自分にとって利益を得られる行動を選択する点において合理的個人

との違いはない。動機づけが同じであっても、人間の持つ限界によってその選

択を導き出す過程が合理的個人と異なるのである。

表 3 Simon の唱える能力の限界

① 予測の困難性 「独立性」の逸脱 ② 情報・知識の不完全性 、「独立性」「目的関数最大化」

の逸脱 ③ 計算能力の限界 「目的関数最大化」の逸脱

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それでは、最適化で意思決定を行うのではないのならば、経営人は果して何

を基準に意思決定を行っているのだろうか。Simon はこの点についても明確に

答えている。彼によると、経営人は探索(search)と満足化(satisfying)に

よって意思決定を行っているという。探索とは、選択を行う際に選択肢の代替

案を探すことを表している。たとえば、渋谷からキャンパスのある三田までで

きるだけ早く着きたいと考えるとき、わたくしたちは、バスで行くのか、電車

で行くのか、それともタクシーを使うのか、またまた別の方法で・・・・とさ

まざまな選択肢を見つけ出そうとする。これが探索である。 この探索という考え方は、新古典派経済学においても、George Stigler が

効用最大化の概念を使って説明している。George Stigler は、中古車市場や

求職活動の研究によって、探索が探索の限界費用と探索の限界収入とが等しい

ときに行われることを示唆している。George Stigler の研究からは、探索の

概念はまったく、新古典派経済学の定義に沿って議論されえるものだと考えら

れる。最適化で説明することに、何の問題もないように思えるのだ。実際に、

Simon も「家の販売過程を例としてそれ(探索)をダイナミック・プログラミ

ングで定式化することによって示し24」、George Stigler と同じ結果を導き出

した論文を 1965 年に上梓しているのだ。 これでは、探索の概念は経済学と何ら変わりがないと感じられる。それでは、

Simon が提唱した探索の違いはどこにあるのだろうか。 Simon は、「効用最大化は探索図式に不可欠の物ではない25」と断言し、経済

学では、「あまりに複雑で大域的な合理性を行使できないような決定場面で、意

思決定者が探索の限界費用と限界収入を推定しうること26」を要請しているに

過ぎないと言っている。つまり経済学では、周囲の状況が複雑である場合にお

いても効用最大化を行って探索を行っており、これは既に述べた能力の限界の

観点から適用できないといっているのである。ここに、Simon と George Stigler に探索の違いが現れてくる。Simon は能力の限界があるために、限界

24 Simon(1987)pp.281 25 Simon(1987)pp.281 26 Simon(1987)pp.281

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費用と限界収入が等しくなる点まで探索を行うということに対して、非現実的

だといっているのだ。無理やりに、限界費用と限界収入が一致しているところ

で探索を行っていると判断するのはおかしいといっているのである。探索がど

の程度まで行われるかということに対して、Simon は George Stigler の唱え

るような考えをもたず、別の考えをもっていたのである。 それゆえ、ここにいたって Simon が探索と一緒に提唱した「満足化」という

概念が現れてくる。Simon は、満足化を「意思決定者がある代替案をみつけた

とき、それがどの程度望ましいものであるかについて彼はある「要求」をもっ

ていると想定すること27」とした。つまり、意思決定において、人間は選択に

際し、要求水準を満たすような代替案がみつかればただちに探索活動をやめ、

その代替案を選択すると考えたのである。意思決定での基準が、経済学の合理

性のように常に整合性を保った静的なものではなく、日々変化する経験や感情

によって、上昇したり下降することを示しているのだ。たとえば、意思決定を

行う際、人間が考えている要求水準よりも代替案が多い場合は、要求水準は上

昇し、反対に少ない場合の要求水準は下降することを表している。これが満足

化である。 以上のことから、Simon の唱える探索と満足化は、人間はすべての代替案を

導き出して最適化を行うというような面倒なことをせずに、「妥当と思われる計

算量ときわめて不完全な情報のもとで、選択が実際にどのように行われるかを

示したこと28」なのである。 Simon の一連の主張を表にすると以下のようになる。合理的個人と比較して

みた。

27 Simon(1987)pp.281 28 Simon(1987)pp.281

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表 4 経営人と合理的個人

合理的経済人 経営人動機づけ 利己的 利己的

人間の能力 全知全能 能力の限界意思決定基準 最適化 探索、満足化

最後に、Simon 自身の言葉で、経営人と満足化について記述しておこう。

「1.経済人が最高限を追求する――利用しうる限りの選択肢のなかかか

ら最良のものを選び出す――のに対して、われわれが経営人と呼ぶ彼の徒

弟はあるところで満足する――満足できる、あるいは「十分よいと思う」

行為を探し求める。 2.経済人は混雑したままの「現実の世界」を扱う。経営人は、彼の知覚

する世界が、現実の世界を構成する、さわがしいはなやかな混乱を、思い

切って単純化したモデルであることを認める。彼は、現実の世界が概して

意味がないこと――現実世界の事実の大部分は、彼が直面している特定の

状況には、たいして関連をもたないこと、原因と結果のもっとも重要な連

鎖は、短くて単純であること――を信じているので、このようなあらっぽ

い単純化で満足する。それゆえ、彼は、与えられた時点において実質的に

無関係であるような、現実の諸側面――そのようなことはたいていの.....

側面

がそうであることを意味するが――を考慮に入れないで満足する。彼は、

もっとも関連があり重要であると考えるごく少数の要因だけを考慮に入

れた状況の簡単な描写によって、選択を行う29」。

29 Simon(1989)pp.30

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なぜ Simon は限定合理性、経営人を提唱したのか

Simon が既存の合理的個人に疑問を抱き、限定合理性および経営人を提示し、

これらは満足化によって意思決定を行うと述べたのは前節で記した。ここでは

限定合理性に関して理解を深めたものの、わたくしには新たな疑問が生まれた。

なぜ Simon は合理的個人に疑問を抱くようになったのだろうか、と。経済学を

専攻している人々にとって経済学の公理に疑問を持ち、それを覆すような研究

を行うのは、なかなか勇気がいることだと思う。経済学の土台となっている公

理をはずしてしまえば、経済学は無用の産物に成り果ててしまうし、合理的個

人は、ツールとして非常に便利なものであるからだ。合理的個人を批判する行

為は、病気でもない人に無理やり手術を受けさせるような印象を持つことは否

めないだろう。 しかし、批判する側は批判する側として確固とした信念があるに違いない。

Simon は合理的個人のどこに欠陥があると判断したのだろうか。 よって、この節では、Simon がなぜ限定合理性を提唱するに至ったのかとい

う疑問を、彼のこれまでの研究を概観することによって検証してゆきたいと思

う。特に彼の初期の研究で、合理性に関する研究の発端となった「ミルウォー

キーにおける公共レクエーション施設の行政」(以下、ミルウォーキー論文)と

いう研究の説明を中心にしてゆくことにする。 Simon がミルウォーキー論文を書いたのは 1935 年のことで、Simon がシ

カゴ大学の学生だった時期である。Simon は 1934 年から 1935 年にかけてウ

ィスコンシン州ミルウォーキーという街での公共レクリエーション施設30管理

の実態調査を行っており、その成果がミルウォーキー論文となる。 ミルウォーキー論文は、直接に合理性の問題を取り扱っているわけではない。

しかし、Simon は当時の「「選択の合理性を説明すべき諸理論」が現実の組織

30 レクリエーション施設とは主に運動場のことを指す。また、ミルウォーキー

論文の中で公共レクリエーションとは、社交センター・プログラムと運動場プ

ログラムのことを指している。

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現象をうまく説明できないことに強い不満を感じていた31」といい、「この新し

い一群の問題に、よりよい回答を見つけることができないので、私は、合理的

な意思決定の理論の再検討を始めた32」と語っている。ミルウォーキーの研究

において、Simon が抱いた疑問を具体的に記すと以下のようになる。 「ミルウォーキーの公共レクリエーション施設の管理の実態調査をして

いたとき、私は頭をひねらされるような現象にぶつかった。なお、当時同

施設は、教育委員会と市の公共土木部門とが共同で管理していた。2つの

機関の長は公共レクリエーション活動の目的について意見が一致してい

るようであり、また、それぞれ自己の勢力圏の拡大を目指して競いあって

いるようには見えなかったのであるが、それにもかかわらず一方施設の維

持と他方管理業務との間の資金配分をめぐってたえず意見の不一致と緊

張とが存在していた。いったいなぜ彼らは、経済学の教科書が示唆するご

とく、一方の活動の限界成果を他方の活動のそれと単純に均衡させなかっ

たのであろうか33」 そもそも、Simon が公共レクリエーションの実態調査を行ったのは、環境の

変化によって行政組織が硬直化したことにある。ミルウォーキーでは、1920年代から 30 年代にかけて公共レクリエーションの需要が拡大し、それらの施

設の建設・維持・管理が行政組織の大きな課題となっており、その対策のため

複数のプログラムが計画されたのにもかかわらず、公共レクリエーション施設

の整備が遅々として進まなかったのである。そこで、Simon は、レクリエーシ

ョン施設に関する組織過程を経済学的、組織論的に解明しようとしたのだ。

31 Simon(1991)pp.86 32 Simon(1976)pp.86 33 Simon(1999)pp.274

- 29 -

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表 5 ミルウォーキーでの行政レクリエーション組織の構造

教育委員会 市長・一般審議会

下 位 組

学校公開部門 公共事業部 公園委員評議会

カウンティ

監督者評議

任期 6年 4年 2年

構成 市民によって選出された

15 人のメンバー

54人の常勤の労働者と約886

人の社交センター・スタッフ

と運動場スタッフ

各区より選出される 27

人の市会議員

一般審議会の同意を持って市長が任命

ウィスコンシン州法に従

って、社交センターのよう

なレクリエーション施設

を維持運営する

市の運動競技プログラムに

関する運営

レ ク リ

エ ー シ

ョ ン 行

政 に 関

割・権限

レクリエーション施設を

維持するため他部門と協

力する

運動場の監督・維持

ミルウォーキー市政の要

となり、市長の役割を直

接的に補佐する

公共事業部の日常的な機能に加え、権限

の範囲内で市の水道事業を行う(同部門

の水道課は、汲上施設と貯水場との関係

で二つの公園を管理し、職場主任がそこ

での責任を負っている)

運動可能な空間を市

民に提供するという

目的の下に運営

州法によって割り当てら

れるミル税の範囲内で自

らの予算を決定する

社交センターの管理 ウィスコンシン州法によ

りレクリエーションとい

う目的のために課税する

水道事業などからの収入を除いて、同事

業部は財政的に一般審議会に依存し、同

部門の官吏も公務員規定に従っている

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教育委員会を除く市のす

べての公共部門に対する

年間予算を決める

一般審議会から独立 負債を負うこと、公債を

発行すること

特定の事務職以外の人事

について決定権を持ち、審

議会から独立

土地を入手すること 建

他部門からの援助を受け

るが、施設の設置および監

督は教育委員会が行う

路上店舗に関する規制

「財産没収申し渡し」(収

容宣告)によって公園と

運動場を確保すること

公園用地の取得や公

園建設(1880 年代末よ

り)

- 31 -

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ミルウォーキー論文で要となっている問題は、「(1)「なぜ組織現象は既存の

経済原則や経営原則で説明できないのか、(2)「なぜ組織の計画は流動的で可

塑的なのか」、(3)「どのように熟達者たちは仕事の効率を改善するのか、また

なぜある特定分野の経験者はその分野とかかわる問題に注意を払うのか」」34で

あった。これらの問いが、彼を人間の意思決定に興味を持つきっかけを与えた

のである。 (1)について説明したい。きっかけとして、公共レクリエーション施設を

管理する運動場プログラムの履行において、学校所有の運動場を管理する教育

委員会と公園を管理する市・一般審議会の下位組織である公園委員評議会との

間で、最適な資源分配がなされなかったという事実があった。どちらの組織も、

似たような役割を担っているので、統合され教育委員会が大部分を管理するよ

うになったのだが、教育委員会に運動場建設の権限が移行されることはなかっ

た。そして、公園委員評議会が財政的な問題で公園外の運動場建設から手を引

いたとき、運動場建設の権限がない教育委員会だけでは運動場プログラムを行

うことができなくなり、運動場プログラムが頓挫してしまったのだ。財政は教

育委員会、公園委員評議会それぞれ独立している。 この場合、行政は公園委員評議会に予算を多く配分するか、教育委員会に運

動場建設の権限を与えればよかったのとみなされるであろう。しかし、それは

前述のように実行されることはなく、最終的には、公開部門、市の不動産局、

公共事業部、公園委員評議会という4つの組織によって運営されるシステムが

作られるまで解決することはなかったのだ。

34 高巌(1995)pp.7

- 32 -

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表 6 運動場プログラムの変遷

運動場プログラム

1911 年:教育委員会

が学校所有の運動場

を公開してゆく

何を運動場とするかで、複雑化した。

運動場プログラム 1910 年代:両組織の活動を

運動場プログラム 1912 年~1914 年

教育委員会

8つの運動場の監督権を教育委員会の

- 33 -

1880 年末~:公園評議会

が公園を運動場として公

調整する動きが始まる。

教育委員会:ある特定の

運動場を管理する

公園評議会:敷地や機材

の提供を行う

公園委員評議会

手に移す。

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運動場プログラム 1914 年~1923 年

教育委員会 公園委員評議会

公園委員評議会は公園外の運動場建設から手を引いた。 しかしながら、教育委員会(学校公開部門)には、運

動場建設の権限がなく、しかも公園委員評議会に代わ

って建設に着手する委員会はなかったので、運動場プ

ログラムは頓挫した。

援助

運動場プログラム 1923 年以降 学校公開部門:運動

場の利用における

リーダーシップ

公 園 委 員 評 議

会:運動場建設の

市の不動産局:土地

の取得 公共事業部:運動

場の建設

運動場システムの青写真からそれぞれの役割が決定された35

35 しかし、それでも問題がなくなったわけではない。たとえば、当時、公共事

業部の労働者は運動場建設の経験をほとんどもっておらず、また、公園委員評

議会もそれ独自で運動場関連の仕事をやったことがなかったため、公有地委員

会は、包括的なプログラムを現場レベルの計画にまで具体化できるフィール

ド・エンジニアーに大きな権限を与えようとした。ところが、関連する部門は

この種の調整に激しく抵抗し、1925 年には、フィールド・エンジニアーたちが

仕事を放棄してしまうという事件が起こった。よって、運動場建設は、一時的

- 34 -

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Simon は「なぜ組織現象は既存の経済原則や経営原則で説明できないのか」

という疑問に対して、具体的には、なぜ行政組織は限界単位で支出額を均等に

しなかったのかという問いを提示した。その理由として、「彼らにはそれができ

なかったから」であると考えたのだ。彼は以下のように述べている。「限界生産

性を定量的にそこから引き出せるような、測定可能な生産関数は存在しなかっ

たし、また双方の責任者が持っているような生産関数の量的概念は、互いに両

立しうるものではなかったのである。公共土木事業の管理者にとってみれば、

遊び場は、交雑した灰色の都市にある緑のオアシスとして役立つ物的施設なの

であった。またレクリエーション担当の管理者によっては、遊び場は、子供た

ちが大人たちの保護のもとみんなで一生に遊ぶ社会施設なのである36」。このよ

うにして、何をすべきかという目的が明確であるにもかかわらず、組織によっ

て捉え方が違うことでプログラムが頓挫した、というミルウォーキーで観察さ

れた事象は、Simon に人間の合理的意思決定について関心を持つことになった

のである。 また、Simon は理論と逸脱している事例として、組織がなぜ経営原則に沿っ

て動いていなかったのか、という点を挙げた。具体的に彼は、一般に相対する

ものと考えられている「命令一元化の法則」と「分業化の法則」が同時に使わ

れていることに着目した。というのも、「分業は専門性の進展とともに起こって

くる組織現象であるが、その場合、権限の委譲を伴わずして分業の利益を享受

することはできない。これに対し、命令一元化は、あくまでも権限をある一点

に集中させようとするいわば逆の働き37」だからだ。

にも政治的、財政的に挫折してしまったのだ。1926 年になって、この状況を打

開するため、市長が関連諸委員会と公聴会を開き、さらに、市職員、利害関係

市民団体、教育委員会・公園評議会と会談し、それにしたがって運動場プログ

ラムにかかわる諸組織が再編された。あわせて、辞職していたフィールド・エ

ンジニアーたちも運動場エンジニアーとして公共事業部門に再び採用され、以

後、このエンジニアーを中心に運動場の建設が進められた。 36 Simon(1999)pp.274 37 高巌(1995)pp.19

- 35 -

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またミルウォーキーの行政組織は、合理的な官僚制モデル38とかけ離れてい

たものだったという点を Simon は指摘している。 Simon はこれら理論と現実の違いを、現実的場面において環境を所与として

扱えないという点を挙げている。安定した環境下にあれば、組織は、環境の多

様性に応じて、また蓄積された組織内情報にしたがって自らを専門化・複雑化

させ、もっとも適合的な構造を作り上げることができるが、環境が変わってし

まえばそうはいかないということなのだ。 ミルウォーキー論文後、Simon は、自分が抱いた理論と現実のギャップを埋

めるために、1940 年代には組織現象を説明する理論として、意思決定理論を提

示した。その成果として『経営行動』の出版が挙げられるだろう。この本の内

容は、「意思決定理論を構築し、次に組織の影響過程及び影響過程に関る問題を

意思決定という視点から記述する39」ものであり、簡単に言えば、組織におけ

る意思決定が 1 個人によるものではなく、数多くの意思決定主体による決定プ

ロセスと影響過程を通して展開されることを著しているのだ。 さて、ミルウォーキー論文で要となっている3つの問題のうち、残りの2つ

問題の説明に移って行こう。 Simon は、(2)「なぜ組織の計画は流動的で可塑的なのか」の疑問に対して、

1970 年代初頭までに人工システム40科学や問題解決理論を展開することで答

えを出していった。つまり、組織の計画が流動的であったり可塑的であったり

するのは、人工システムの情報処理能力が構造的に限定されているために、ヒ

ューリスティックスによって試行錯誤しながら環境へ適応してゆく、としたの

である。 Simon が抱いた最後の問題、(3)「どのように熟達者たちは仕事の効率を改

善するのか、またなぜある特定分野の経験者はその分野とかかわる問題に注意

38 理論上、官僚制はもっとも合理的に設計された組織であり、その内部におけ

る分業と命令系統には何ら矛盾は存在しないものだ。加えて、長期計画を策定

しそれに則って厳密に運営されているので運営にも支障をきたすことはないし、

部門間の権限と役割に非常に明確な規定が設けられているため効率的である。 39 高巌(1995)pp.42 40 人口システムとは、社会、人間、組織、生物、情報処理システムを指す。

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を払うのか」について彼は、1970 年代中盤以降の直感研究や科学的発見のシミ

ュレーションを通じて答えを導き出していった。「熟達者は、短期記憶の容量が

限定されていたとしても、チャンク(刺激)の内容を豊かにすることで情報能

力を大きく改善する。また、長期記憶に蓄えられたデータやプログラムゆえに、

熟達者はほとんど直感的に注目すべき対象を限定する41」と考えたのである。 Simon は、これら(1)から(3)の問いに対する疑問を見つけようとして、

研究領域を組織論・経済学から認知科学にシフトしてゆくことになった。Simonが学際的な研究を行っているとみられるのはこのためである。自分自身の問い

を解決してくれる分野で研究を行っていたということだ。まったく、彼の執念

には驚かされる。 以上、Simon が、限定合理性に関心を持つようになった背景について述べて

きた。きっかけとなったのは、ミルウォーキーという街の行政組織の研究を行

ったときであり、フィールドをよく検証したことによって、理論と現実の差異

――既存の理論で説明されない事象があること――に気がついたのである。そ

して、そこで得られた3つの疑問を核として、人間の意思決定についての研究

を行っていったのである。

限定合理性の史的展開

ところで、Simon が提唱してきた限定合理性は、現在どの程度まで分析され

てきたのだろうか。彼が初めに限定合理性・満足化を提唱したのは、1950 年代

から 60 年代にかけてである。この時期、Simon は「人間は如何に論理的に問

題状況を把握しそれをといていくのか」という点に研究を集中していた。現在

からさかのぼること、約 50 年前には、すでに限定合理性・満足化は存在して

いたのである。限定合理性はどのように議論の対象となったのであろうか。ま

た、Simon 以外の人々は、合理的個人に疑問をもたなかったのだろうか、そう

41 高巌(1995)pp.414

- 37 -

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ではないのか。 この節では、現在にいたる約 50 年間の限定合理性研究の発展を述べてゆく

ことにする。経済学の中で、限定合理性・経営人がどのように位置付けられて

きたかを述べてゆこう。 Simon が限定合理性・経営人を提唱したちょうど同じ時代、経済学で「一般

均衡理論」が勢力を拡大してきた。そのために、Simon の唱える限定合理性・

経営人は、必ずしも温かく迎えられるようではなかったらしい。限定合理性・

経営人という彼の主張は、なかなかその浸透が遅れたらだ。 「一般均衡理論」はローザンヌ学派の創始者であるワルラスによって作り上

げられたもので、すべての市場で需要と供給が同時に均衡することが可能かど

うかを数学的な手法を用いて検討する理論である。第2次世界大戦後、「一般均

衡理論」は「一般均衡解の「存在」と「安定性」のより厳密な証明が試みられ

ていた42」という。一般均衡解が「存在」するかどうかについては、1950 年代

に「K.J. アロー、G.ドブリュ―、L.W. マッケンジー、二階堂副包、D. ゲー

ルらによって、角谷=ブラウアーの「不動点定理」を用いて43」その証明が行

われた。また、「安定性」の議論においても、1950 年代に「K.J. アロー、L. ハーヴィッチ、F.H. ハーン、根岸隆らが、租代替性を仮定することによって均衡

解に収束することを証明し44」、その後はより一般的な前提条件のもとで研究が

行われたという。つまり、1950 年代は「一般均衡理論」の議論が一番盛り上が

った時期なのだ。それゆえ、経済学の関心も「一般均衡理論」に偏っており、

Simon の主張がすんなりと議論されるには至らなかったのだ。「一般均衡理論」

の隆盛が、Simon が限定合理性・経営人を提唱した時期と重なってしまってい

るのは彼にとって残念な話である。 よって、「一般均衡理論」の陰に隠れた Simon の限定合理性・経営人は、1950

年代以降も経済学の批判を通して、自らの概念を訴え続けることになったので

ある。彼の主張は 1950 年代から一貫しているが、1970 年代から 90 年代は、経

42 中村他(2001)pp.150 43 中村他(2001)pp.150 44 中村他(2001)pp.150

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済学の新たな流れを取り上げることによって、彼の見解を示そうとしていたと

いう。 というのも、1970 年代になると経済学において3つの変化が起こり、彼にと

って良い転機が訪れてきた45からだ。経済学における3つの変化とは、 ① 経済学者による現場体験 ② マネジメント・サイエンスの台頭 ③ 競争の不完全性

である。どれも結果よりも結果が導き出される過程を重視する視点を持ったも

のであった。 ①経済学者による現場体験とは、経済学者が机上での研究を飛び越えて、企

業の中で研究を行ったことである。たとえば、Hall=Hitch は、実際の企業が

製品価格をどのように決定しているのかを観察し、「フルコスト原則」という概

念を発表した。彼らは、ほとんどの企業は限界収益と限界費用が一致している

ところで価格を決めるのではなく、生産物1単位あたりの可変費用と生産物1

単位あたりの粗利潤(固定費用と目標利潤の合計)の加算(フルコスト)によ

って価格が決定する、ということや、価格決定にはそれぞれの産業の歴史とい

う観点からしか理解できないような諸要素が働いていること等、経済学では説

明しにくい5つの点を提唱した。また、アメリカでは、第2次世界大戦後の約

10 年間に、経営のインターンとして多くの経済学者たちが企業に招き入れられ

た。また、経済学者が政府の財政政策や金融政策に意見を求められることも多

くなり、経済学者が分析だけではなく、実際に経済の中に足を踏み入れる機会

が多くなったのだ。これらの活動によって、経済学者は最適化では説明できな

い事象を認識する機会を持ったのである。 次に、②マネジメント・サイエンスの台頭の説明に移ろう。マネジメント・

サイエンスは、軍事用に開発されたオペレーションズ・リサーチの方法が、第

2次世界大戦の終わりと共に企業や政府で利用されるようになったことで生み

45 高巌(1995)pp.427

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出され、発展していった学問の領域である。特に、妥当な計算費用で意思決定

を行うマネジメント・サイエンスのアプローチは Simon の唱える満足化の原理

と酷似しており、Simon の主張に沿った研究がなされてきたことを示している

のだ。 ③競争の不完全性とは、経済学が不完全競争を研究対象として扱い始めたこ

とを指している。競争の不完全性は、市場の不完全性の場合と競争者が少数で

ある場合の2つを検証することで行われたという。このことが Simon にとって

プラスであったのは、競争の不完全性を分析する際に買い手の心理傾向や知識、

企業の戦略や意思決定などが重視されるようになったことである。これまで結

果を重視していた経済学が、結果を導き出す過程にも目を向けることになった

ことが、Simon が行っていた提唱とつながっていたのである。 さらに、この時期、詳しくいうと 1978 年、Simon は人間が意思決定を下す

過程を研究したことが評価され、ノーベル経済学賞を受賞している。 しかしながら、以上のように経済学の力点が変化したといっても、これだけ

で経済学の定義である合理的個人が覆されたわけではないのは明らかだ。当時

も、経済学では依然として最適化が重視されており、この枠組みの中で新たな

研究分野である不確実性の問題が取り込まれていったといえる。不確実性の問

題とは、たとえば、情報の経済学、合理的期待理論、ゲームの理論、統計学的

決定論、エージェンシー理論などが挙げられる。これらの理論は、合理的個人

の概念で説明可能であることを示し一定の成果をあげてきたが、また合理的個

人の論理だけでは説明できない事象があることも露呈することになったのだ。 Simon は、不確実性の問題にかかわるさまざまな理論について、それぞれ別

個に批判を行い、自らの限定合理性・満足化の重要性を訴え続けてきた。たと

えば情報の経済学について、既存の理論が、探索はその限界費用と限界便益が

一致するまで行われると述べているのに対して、Simon は、計算能力の限界が

あることから、現実的ではないと主張している。また、合理的期待理論に関し

て Simon は、期合理的期待理論が効用最大化に加えて、人が将来に対する期待

を形成する場合にも、経済システムがどのように運営されるかについてモデル

を描く場合にも、常に合理的であると仮定することは非現実的であり、理論に

限界があることを自ら示していると述べている。

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それでも、経済学が不確実性を扱うようになり、そこには、合理的個人の概

念では説明しきれない事象があることが提示されてきたことは、Simon の唱え

た、限定合理性の構成要素である3つの能力の限界が研究されるきっかけにな

ったと考えられる。 たとえば、予測の困難性と情報・知識の不完全性という能力の限界、ないし

公理の侵犯が実際に存在すると明らかにしたのは、統計学的決定理論の分野で

の研究だった。統計学的決定理論は、べイズの定理46にもとづいて解決が図ら

れており、期待効用理論によって説明されうるとしてきたが、Khaneman=Tversky による実験研究は、期待効用理論の妥当性を覆す結果を導き出したか

らだ。Khaneman=Tversky の研究については、次節において詳細に説明を行

うが、人間は将来のことに対する意思決定において、必ずしも確率に依存して

選択を行うのではないと主張したのである。べイズの定理は、「1763 年、べイ

ズがそれを公にして以来、200 年の長きにわたって、人間の「信念」を変更す

る上での「合理的ルール」であるとみなされていた47」が、Khaneman=Tverskyの研究は、これを根底から揺さぶったのである。 また、Khaneman=Tversky の研究を応用して、金融市場を検証した経済学

46 2 つの事象 A,B があるとき,

{ } { }{ }

{ } { }{ } { } { } { }BABBAB

BABA

BAABPrPrPrPr

PrPrPr

PrPr×+×

×==

I

をべイズの定理という。 与えられた情報に基づいて、事前確率と事後確率に改

定してゆくこと。 一般的には、B が r 個の排反事象に分かれるとき、観察された事象 A の原因が

Biである確率は、

{ } { }{ }

{ } { }{ } { }∑

=

×

×== r

jBjABj

BiABiA

BiAABi

1PrPr

PrPrPr

PrPr I

Pr{Bi}は事前確率、Pr{Bi | A}は事後確率と呼ばれる。 47 高巌(1995)pp.442

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者に De Bondt=Thaler がいる。彼らの研究もまた、予測の困難性と情報・知

識の不完全性という能力の限界が存在することを実証したと捉えられる。彼ら

の研究も別の節で詳しく説明したいと思う。 最後に、Simon が経営人の中で捉えた計算能力の限界について触れてゆきた

いと思う。計算能力の限界に関する研究は、計算量の理論によって展開されて

きた。計算量の理論では、最大化問題の解を計算によって導き出すことは、理

論的には無理ではないが、実際に計算すると考えれば不可能であるといってい

るのである。効用最大化を計算するときには、「あるサブルーティンを2の n乗回走らせること48」によって求められるために、n に関して2の n 乗が非常

に早く増大するというのだ。たとえば、サブルーティンに1マイクロ秒(万100

1

秒)かかると仮定すると、n の数が 80 になると 3.57 百億年かかる計算になっ

てしまう。これだと、財・サービスの数がせいぜい 30 未満でなければ、効用

最大化の計算はできないことになる。しかも、サブルーティンに1マイクロ秒

(万100

1秒)という最高速度のコンピュータの計算速度に合わせても、意思決

定に長い時間かかってしまうのである。この計算結果を見ると、簡単な意思決

定、たとえば、コンビニで昼食を買おうとすることや、どのテレビ番組を見よ

うかといった些細な意思決定さえままならない状況が出てくるのだ。

表 7 2の累乗に比例する計算時間49

問題のサイズn 10 20 30 40 50 60 70 80

計算に要する時間0.001秒

1秒 17分 12日 35年3.57万年

3.66千万年

3.57百億年

48 サブルーティンとは、任意の購入計画について、判断し計算する行為のこと

を指す。塩沢(1997)pp.78 49 塩沢(1997)pp.79

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また、計算能力の限界を主張している分野として複雑系経済学があげられる。

複雑系経済学は、合理性の限界と収穫逓増を仮定して経済現象を複雑なまま捉

えようとする学問で、Simon が創始者の一人とされている。複雑系経済学は計

算量の理論を使って、効用最大化での計算時間は、問題のサイズが大きくなる

ほど膨大な時間になるため、効用最大化はできないと主張している50。

以上、Simon の唱える限定合理性・最適化についてその史的展開をみてきた。

限定合理性・最適化の議論は、Simon が主張し始めた当初、経済学で「一般均

衡理論」の議論が隆盛をきわめていたために、注目されたとは言い切れなかっ

た。しかしその後、経済学が不確実性の分野を研究するようになってから、限

定合理性・最適化の概念が実証ないし分析されるようになったと考えられる。

また、Simon の唱えた限定合理性の3つの能力の限界は、それぞれ個別に別の

分野の専門家によって議論されてきたといえるだろう。

50上記の最大化問題は、計算量の理論において「ナップザック問題」とよばれ

るものである。ナップザック問題とは、ナップザックにいろいろなものを詰め

込んで、荷物の総重量は一定以下に抑えつつ、その総価額を最大化せよという

問題である。

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2-2Khaneman=Tversky の主張:~「プロスペクト理論」~

Khaneman=Tversky の研究は、前節で述べた不確実性下の問題において、

期待効用理論の概念では説明できない事象を明らかにしたものとして捉えられ

る。Simon の提唱する能力の限界という概念であてはめると、予測の困難性と

情報・知識の不完全性を実証したといえるだろう。彼らの研究分野の古い例で

は、Allais が提唱した Allais のパラドックス、Ellsberg による Ellsberg の壷

と呼ばれる研究が挙げられる。いずれも人間の認知能力の限界を、実験を用い

て実証した研究だ。Khaneman=Tversky が評価されるのは、これら期待効用

理論を逸脱する事例を「プロスペクト理論」として理論化したからであろう。

Khaneman=Tversky は、人間を被験者として実験を行い、期待効用理論の反

例を提示していった。ここでは「プロスペクト理論」を中心に、Khaneman=Tversky が行った研究について説明してゆこう。

「プロスペクト理論」は、選択肢の価値(効用)が、価値関数と重みづけ関

数の積によって表されるという理論であり、価値の大きい選択肢が選好される

としたものである。これを式で、

( ) (∑=n

i

xivpiV π )

)

i :その選択肢のi番目の要素

(piπ :i番目の要素の重みづけされた確率 ( )xiv :i番目の要素の結果 x の価値

と表すことができる。 (piπ )が重みづけ関数と呼ばれるものであり、 ( )xiv が価値関数である。重み

づけ関数とは、確率に重みづけがされることを示す、下に凹の曲線である。重

みづけ関数は、小さい確率が大きく重みづけられる一方で、中位から大きな確

率は重みづけが小さくなる。期待効用理論においては、50%の確率はそのまま

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50%として捉えられる一方、プロスペクト理論においては、確率を客観的な数

字ではなく、人それぞれで 50%を捉える度合いが変化するといえる。下に示し

ている重みづけ関数の図を見ると分かりやすいと思う。つまりこの関数のもと

では、提示された確率の大部分は過小評価される傾向にあり(実線が 45 度線

よりも下にくる)、確率の値が非常に低い場合には、重みづけされた確率は提示

された確率よりも高い価値を示し、(呈示された確率は過大評価される)、確率

が0及び1の場合には重みづけされた確率は提示された確率と変わらなくなる

ことを表しているのだ。 よって、50%は本来の確率よりも幾分過小評価されていると捉えられるだろ

う。これは、日常場面でも見られる事象だと思われる。たとえば、わたくした

ちがたぶん当たるだろうと淡い期待を寄せて年末ジャンボ宝くじを買ってしま

うのは、自らが思う3億円が当たる確率を、計算によって導かれる3億円が当

たる確率より高く見積もってしまうからといえるだろう。実際、3億円が当た

る確率は非常に小さい値である。

図 2 重みづけ関数

1.0 決定の

重みづけ 0 呈示された確率 1.0

次に、価値関数について説明しよう。

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図 3 価値関数

主観価値

V(X)

損失 利得(X)

参照点

価値関数とは、人間が効用の代わりに価値という基準を用いて、参照点と呼

ばれる点からの距離で価値を測ることを示している。これを表したのが上の図

3である。価値関数からは、問題がどのような枠組みで提供されているかで選

好が変わることを示しており、もしも得られる結果が意思決定者にとって利得

として判断されれば、価値関数は凸に該当しリスク回避行動をとると示される。

そして損失という枠組みで考えれば凹となり、リスク選好行動をとると考えら

れるのだ。また、Khaneman=Tversky は自ら行った実験によって、座標平面

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上の傾きは、利得が小さいかあるいはまずまず妥当であることを示す領域と損

失を表す領域において、原点を境にほぼ2対1となることを示している。これ

は損失回避傾向を表すものであり、たとえば、多くの意思決定者は、(x,0.5;-y,0.5)のような利得と損失が混在したくじには、xとyの比率が2:1以

上にならなければ応じないことを表している。得られるかもしれないxの獲得

から生ずる感情よりも、失うかもしれないyの損失感のほうが大きく捉えられ

るということなのだ。 また、価値関数の考え方を拡大してリスクのない選択にまで適用すると、売

り買いその他の取引において選択肢を選んだ理由にも、参照点から見た利得と

損失として評価できるのだ。これを表したのが図8である。意思決定を行う人

間は、図の A 点と D 点のどちらかを選ぶことができる。点 A は保有する財貨

Y は多く、財貨 X が少ない状態を示す。点 D はその反対で、財貨 X が多く、

財貨Yは少ない状態である。また図には、4つの異なる参照点が示されており、

もし、参照点を C ととると、いずれも利得の大きい A、D2つの点のどちらか

を選ぶことになり、参照点を B とすると、A、D どちらも損失を被る点となり、

どちらかを選択する。また、参照点が A ないし D の場合には、利得を増やすか

損失を減らすか、どちらかにするか選択を迫られることになるのだ。

図 4 A―D 間の選択におけるさまざまな参照基準点

A’ ● 財貨 Y A ● ● B C ● D ● D’ ● 財貨x

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Khaneman=Tversky は、「プロスペクト理論」を導くために、人間の意思

決定を調べる実験を行った。その実験過程についても述べてゆこう。 彼らが行った実験において、被験者に課した選択状況のいくつかは次のよう

なものであった。下に記した%は、被験者がその選択肢を実際に選好した割合

であり、n は被験者数を指している。なお単に(x, p)と書いた場合には、確

率 p でxを獲得し、確率1-p で何も獲得しないくじ、つまり、(x, p)=(0, 1-p)を表している。

A:(4000,0.8) B:(3000) 20% 80% n=95 C:(4000,0.2) D:(3000,0.25) 65% 35% n=95 E:(-4000,0.8) F:(-3000) 92% 8% n=95

下記のくじは、2段階から成り立っていて、被験者の 25%だけが第2段階へ

と進めるようになっている。第2段階では、次のようなくじを選択することに

なり、この選択は、第1段階の結果が判明する前に行われなければならないと

した。

G:(4000,0.8) H:(3000) 22% 78% n=141

まず、結果をみてみると、AB どちらかを選択すると求められた場合は B が

選好され、CD 間においては C が選好されたことがわかる。しかし、「C と Dはそれぞれ(A,0.25)、(B,0.25)と書くことができ、もし、問題3の状況で Bが A よりも選択されるのであれば、任意の確率 p に対して、やはり、(B,p)は

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(A,p)よりも選択されなければならない。ここで、その選択が行われなかっ

たことは、A から C のように 0.8 から 0.2 へ確率が減少したことよりも、B か

ら D のように 1.0 から 0.25 へ確率が減少したことのほうが、たとえ減少した

比率はともに41であったとしても大きな影響を与えたことを意味する51」。これ

は、被験者の多くが、確率1、つまり、確実的にもらえる利得を相対的により

大きく評価する傾向のあることを意味している。Khaneman=Tversky は、こ

れを「確実性効果」と呼んだ。 AB 間の選択と EF 間の選択をみてみよう。この2つはちょうど利得と損失

とで対照的になっている。その選択結果をみると、利得に関するくじにおいて

は多くの被験者がリスク回避的な行動をとるのに対して、損失に関するくじで

は、多くの被験者がリスク志向的な行動をとることがわかるだろう。このよう

に、0を軸として選好順序が逆転することは「反射効果」と呼ばれている。 また、GH 間のような選択は、全体の 25%しかその選択に参加できないこと

になっていたので、そこで与えられた確率は、実際には 0.25 をかけるものにな

る。したがって、G は C と、H は D と実際には同じになる。しかし、結果を

みてみると、同じであるにもかかわらず異なった選好傾向が現れている。これ

は被験者が問題全体を統合できず、問題がどのように分離されるかによって異

なる選好を持ってしまう表れであるといえる。このような効果は「分離効果」

と呼んだ。 以上「プロスペクト理論」を説明してきた。この理論からは、人間の意思決

定が期待効用理論にみられる経済学の独立性の公理に沿って行われるのではな

く、自ら確率を客観的に判断しないで、利得か損失かで価値(効用)を変化す

ることを示している。特に、意思決定者が利得よりも損失のほうを敏感に受け

止めることを、「喪失嫌い」と呼んでいる。そして、「喪失嫌い」が起こると「授

かり効果」と呼ばれる感情が生まれることも示唆している。これは、自分の所

有物をそうでない物よりも価値ある物として扱うという行動である。

51 上田(1997)pp.165

- 49 -

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「プロスペクト理論」は、それ以前に提唱されていた Allais のパラドックス

や Ellsberg の壷のような期待効用理論の逸脱事例を説明することが可能とな

った。また不確実性下の意思決定に関する研究は、これまでの公理を緩和する

方向に進んでおり、これは期待効用理論の一般化と呼ばれている。一般化され

た理論においては、効用関数が確率に対して線形であると仮定するのではなく、

加重をつけた、

( ) ( ) ( )∑= jijji VcUaU π

という非線形凡関数の形で表される。この効用関数を用いれば、整合性が保

たれるのだ。

Khaneman=Tversky の研究の意義

Khaneman=Tversky の研究は、合理的個人の合理性から逸脱する事例にパ

ターンを見つけ出し、理論化していったことに意義があると考えられる。また、

「従来はパーソナリティ要因として注目されてきたリスク態度といった問題が、

実は、意思決定者の課業に対する情報処理に大きく依存することを明らかにし

た52」こともあてはまるだろう。人間のリスク感度が、参照点によって変わっ

てくると提唱したのは評価すべきだと思う。Khaneman=Tversky の研究は、

賦与財産が与える効果や、公平性の認知にも応用することができ、金融市場で

みられた不可思議な現象――たとえば、ナンピン買い――を説明することがで

きた。ほかにも、Khaneman=Tversky の研究が、期待効用理論では人間の意

思決定を説明できない部分もあると提唱したのは、衝撃を与えるに十分だった

ろうと思う。行動経済学や行動ファイナンスという学問が登場してきたのも、

彼らの研究の影響だ。以上のような理由によって――正しくは不確実性の下で

52 上田(1997)pp.163

- 50 -

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の人間の判断など心理学的研究を経済学に導入した――という理由によって、

Khaneman は 2002 年度のノーベル経済学賞を受賞することになったのである。

- 51 -

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2-3De Bondt=Thaler の主張:~金融市場の過剰反応~

De Bondt=Thaler は、Khaneman=Tversky らの研究から、人間はヒュー

リスティックスや先入観によって物事を判断し、意思決定を行うということを

金融市場に応用して研究を行った。具体的には、人間は最近の証拠に重きを置

き過ぎ、長期的な傾向を軽く見る嫌いがあるのではないかと仮説をたてて、株

式市場の値動きを検証したのである。彼らは、株価は企業の直近の情報を反映

し、基準となる企業の長期的な配当支払能力といった情報を軽視してしまって

いると考えたのだ。この直近の情報に過度に反応してしまうことは過剰反応と

呼ばれている。 過剰反応をとる投資家は、以下のような行動をとることが考えられた。つま

り、直近の情報が過去と比較して極端に良かったならば、将来もずっと続いて

ゆくと考えるのだ。それでも、最終的に投資家は直近の情報が一時的に高かっ

ただけであると気付くので、株価はファンダメンタルな価値に近づいてゆく。

投資家は過剰反応を示していても、最終的には平均値の方向に連動するような

行動をとることになるのだ。 De Bondt=Thaler の実証分析の概要は以下のようになっている。まず、す

べてのニューヨーク証券取引所の上場株式を対象として、1926 年1月から

1982 年 12 月の期間の株価の値動きを調べた。そして、ある一定期間(検証で

は5年間)の中で、上場株の等加重平均よりも非常に高い超過投資収益率を獲

得した上位 35 株(勝者株)からなるポートフォリオと、低い超過投資収益率

を示した下位 35 株(敗者株)からなるポートフォリオを形成し、各ポートフ

ォリオのその後の3年間の投資収益率の推移を観察していった。同様に、ポー

トフォリオ形成時点を3年ごとにずらし 16 回繰り返して、投資収益率の推移

を観察していった。 その結果、3つの点が明らかにされたという。 ① 過剰反応が発見された:

勝者株のポートフォリオは年間の平均よりも低い平均超過投資収益率を

せたのに対し、敗者株のポートフォリオは平均超過投資収益率よりも高

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いパフォーマンスを示す結果が得られた。ただし株価の反転の程度は、

敗者株のほうが大きかった。敗者株ポートフォリオは、ポートフォリオ

形成後3年間で平均して市場ポートフォリオよりも 19.6%高い累積平

均超過投資収益率が得られた。その一方、勝者株ポートフォリオは、市

場ポートフォリオよりも5%低い累積平均超過投資収益率を得た。また、

敗者株と勝者株の累積月次超過投資収益率の差は 24.6%で統計的に有

意であった。 ② 敗者株の超過投資収益率の多くは 1 月に生じる ③ 過剰反応の大部分は、検証期間2年度と3年度に生じている この結果は、効率的市場仮説から導き出される事象を逸脱している事例であ

る。そもそも合理的個人で捉える金融市場は、効率的市場仮説によって説明さ

れてきた。この仮説は、金融市場は効率的であるから、このような効率的市場

においては株や債権といった有価証券の価格は、常にそれ自身に内在する本質

的な価値に等しいという説である。この仮説のもとでは、株価は将来の配当金

に対する現在価値の合理的な予想が反映されていると考えられている。よって、

株をはじめとする有価証券の将来の価格変動は予測不可能であると捉えている。

というのも、もし株価が予測可能であったとしたら、賢い人は安い株を買って

高く売ってしまうからである。金融市場はすぐに取引が成立するため、過去や

現在の情報はすぐに株価に反映されてしまうとされているのだ。 そのため効率的市場仮説においては、株価は予測不可能であるとされてきた。

しかし、これに異を唱えたのが、De Bondt=Thaler なのである。彼らは、株

価の値動きに対して過剰反応が見られることは、株価の予測可能性を表してい

ると主張しているのだ。この現象は、しばしば金融市場で「逆張り戦略」と呼

ばれていたものだった。 De Bondt=Thaler の分析結果の妥当性は、追試を行った研究によっても明

らかにされたが2つの反論がなされた。それは敗者企業は平均して企業規模が

小さい傾向にあることと、敗者株ポートフォリオは、財務的に厳しいときにも

形成されているためリスク変動が大きい、という反論である。過去の実証結果

によれば、小規模企業は高い超過投資収益率を示しており、また勝者株ポート

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フォリオと敗者株ポートフォリオのリスク計算を検証期間中に行った研究によ

ると、敗者株ポートフォリオの超過投資収益率は、高いリスク水準下の正常投

資収益率になったということが示されたためだ。 De Bondt=Thaler はこの反論に対して、さらに反論を行った。彼らはニュ

ーヨーク証券取引所上場企業とアメリカン証券取引所上場企業を使って、1996年から 1983 年までの期間を検証した。はじめに、過去4年間で累積平均超過

投資収益率が最も低いポートフォリオから最も高いポートフォリオまで5つに

分類し、その後4年間で累積平均超過投資収益率を観察した(検証期間)。その

結果、過去最も低い累積平均超過投資収益率のポートフォリオは、その後4年

間で 24.6%の累積平均超過投資収益率を獲得した。また、ポートフォリオの平

均市場価値(株価×発行済み株式数)は、3 億 400 万ドルであったという。 つぎに、標本企業の中から、市場価値が小さいポートフォリオから市場価値

が大きいポートフォリオまで、5つに分類し、その後4年間の累積平均超過投

資収益率を観察した。もっとも小さな企業からなるポートフォリオの平均市場

価値はわずか 900 万ドルであった。これら企業はポートフォリオ形成以降4年

間で 29.9%の累積平均超過投資収益率を獲得した。これらの企業はポートフォ

リオ育成期間中、株価が下落しているから敗者企業である。 以上の結果から、De Bondt=Thaler は、小規模企業と敗者企業間に関連性

があることについて肯定した。しかし、彼らは実証を通して企業規模がさほど

小さくない敗者企業でも高い超過収益率を獲得したことから、規模効果を取り

除いた後でも過剰反応は存在すると主張している。 De Bondt=Thaler に突きつけられた2つめの反証をもう一度記すと、敗者

株ポートフォリオの超過投資収益率は、検証期間中のリスクで調整した後に消

滅するということである。De Bondt=Thaler は、ポートフォリオ形成期間中

にリスクを計算した。すると、敗者株ポートフォリオのβ53は、勝者株ポート

53 城下(1994)pp.195 リスク(β)は、資本資産価格形成モデル(CAPM)を使って計算できる。

)( itftmtftit eRRRR β++ −=

itR =t 期における企業 I の投資収益率

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フォリオのβよりも低かった。もし、CAPMβが適切なリスク測度であるのな

らば、勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオの超過投資収益率の差は

リスクの差に帰属できない。しかし、敗者株ポートフォリオのリスクが検証期

間中に計測されたならば、勝者株ポートフォリオのそれよりも大きくなるかも

しれないのだ。その結果、2つのポートフォリオの超過投資収益率の差が消滅

するかもしれないと考えられる。検証期間中に De Bondt=Thaler はβを検証

した。検証期間中のβはわずかに勝者株ポートフォリオよりも敗者株ポートフ

ォリオのほうが高いという結論を導き出した。 しかし、この推定リスクの差をもってしても2つのポートフォリオの超過投

資収益率の差は説明できなかったのだ。De Bondt=Thaler は、上記の2つの

反証では過剰反応を説明できないことを明らかにした後、利益情報で株式市場

の過剰反応を説明できると主張した。すなわち、過去の極端な株価の上昇(下

落)は、その後の企業利益の増加(減少)の予測値になることを実証によって

明らかにしたのである。 この研究における反証もやはり行われた。手順としては、はじめに、勝者株

ポートフォリオと敗者株ポートフォリオを過去の累積超過投資収益率ではなく、

過去の公表利益の大きさによって分類を行った。そして、β=1と仮定した場

合、過去と比較して極端に公表利益が高かった勝者株ポートフォリオと極端に

公表利益が低かったポートフォリオが、その後3年間でどの程度累積超過投資

収益率を獲得したか検証したのである。結果は、敗者株ポートフォリオと勝者

株ポートフォリオの 36 ヶ月間の累積超過投資収益率の差は 16.6%で統計的に

有意であったという。 そして、β値を検証期間中に推定した後、敗者株ポートフォリオ、勝者株ポ

ートフォリオそれぞれの累積超過投資収益率を計算した。すると、2年目、3

年目それぞれの累積超過投資収益率の差は 9.4%、8.5%であり、統計的に有意

ftR

mtR

ite

=t 期における無危険利子率

=t 期における市場ポートフォリオmの投資収益率 =t 期における残差項

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であったのだ。これは過剰反応がリスクの変動によって説明できないことを意

味している。 最後に、公表利益の大きさが同じ勝者株ポートフォリオ(敗者株ポートフォ

リオ)でありながら企業規模が異なるポートフォリオの超過投資収益率の比較

と、企業規模は同じである勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオのそ

れとの比較を行った。企業規模が小さい小型勝者株ポートフォリオと小型敗者

株ポートフォリオの比較では、超過投資収益率の差は3年間のうち、1年度を

除き統計的に有意ではなかったという。企業規模が大きい大型勝者株ポートフ

ォリオと大型敗者株ポートフォリオの比較でも、すべての年度において統計的

に有意ではなかった。小型敗者株ポートフォリオと大型敗者株ポートフォリオ

の比較では2年度、3年度において、小型勝者ポートフォリオと大型勝者ポー

トフォリオではすべての年度において超過投資収益率の差が統計的に有意であ

ったのだ。 また、小型勝者株ポートフォリオと大型敗者株ポートフォリオとの比較では、

前者のほうが後者よりも高い超過投資収益率を獲得し、1年度、3年度におい

て統計的に有意であった。これらの結果は、過剰反応が規模効果によって説明

されることを意味している。 以上、これまでの内容をまとめると、過剰反応が起きているという実証分析

に対して、敗者株ポートフォリオはその企業が小さいからであるという反論と、

リスク変動が大きいという反論がなされた。これに対しさらなる分析を行った

結果、前者の反論は確かに存在しているけれども、この効果を排除しても過剰

反応は行われるとされ、また、リスクにおいても、分析からは、過剰反応が起

こることを示したのである。 過剰反応は、日本の株式市場でも過剰反応が起きているかどうか検証されて

いる。複数の研究者によって行われた実証分析からは、日本の株式市場も確か

に、過剰反応が起きていることが示されている。吉原(1990)の分析結果によ

ると、過剰反応は、5月と6月に顕著に認められるという。というのも、3月

期の決算発表が終わると、投資家が企業のファンダメンタルに注目するため、

株価が修復されると考えられるからだ。ただし、リスクを調整した場合、「日本

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の金融市場においては利益情報に対する過剰反応よりも規模効果のほうが強い

影響を持つ54」とされているのだ。 いずれにしろ、効率的市場仮説に逸脱する過剰反応は存在し、効率的市場仮

説が唱えるような、金融市場には効率であるという予測は逸脱するのである。

過剰反応が起こる理由について、心理学的からの仮説の提示――たとえば、投

資家が自信過剰になっている――はなされているが、まだ分析が行われている

段階であり、はっきりしたことがわかっていないのが現状である。

54 城下(1994)pp.194

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2-4Sen の主張:合理的な愚か者たちへ~共感とコミットメントの提唱~

Simon の唱えた経営人という概念は、最適化の問題に疑問を投げかけたもの

である。経営人は、限定合理性を持って行動する人間であり、満足化を行う。

経営人は合理的個人と相対するものであるが、唯一同じ概念を持っている。そ

れは、人間の動機づけを利己的だとしていることだ。それでは、人間は利他的

であると考えた学者はいなかったのであろうか。この節では、功利主義に疑問

を投げかけ規範的な研究を展開した経済学者として、Sen を取り上げ、彼の主

張を概観してゆく。また利他的な行動が重要になってくる公共財供給の実験を

説明してゆこう。

Sen は開発経済学を専門とする学者であり、倫理学と経済学の融合を図ろう

と尽力している学者である。彼はその著書「合理的な愚か者」で、共感とコミ

ットメントという概念を提唱した。共感とは、「他人の苦悩を知ったことによっ

てあなた自身が具合悪くなる55」ことであり、他者と同じ気持ちを共有するこ

とである。この共感の概念は、利己的なものであると判断される。というのも、

人間の効用が共感という行為によってもたらさせるからである。 その一方で、コミットメントという概念は、「他人の苦悩を知ったことによっ

てあなたの個人的な境遇が悪化したとは感じられないけれども、しかしあなた

は他人が苦しむのを不正なことと考え、それをやめさせるために何かをする用

意がある56」ことを意味する。つまり、意思決定を行う人間は、手の届く他の

選択肢よりも低い個人的厚生をもたらす選択肢を、本人がわかっていて選択す

るということだ。よって、コミットメントは「反―選好的な選択」を含んでい

るために、整合性を持つと仮定されている合理的個人の見直しを要求している

といえる。 この点に関して、Sen は単一の万能の選好順序を持った純粋な経済人(合理

55 Sen(1989)pp.133 56 Sen(1989)pp.133 ただし、「たんに結果を予測しそこなったことに由来す

るような自己利益に逆らう行為は、コメットメントから排除されている」ので

注意が必要である。

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的個人)を、「合理的な愚か者」と呼んでいるのだ。共感とコミットメントをい

じめの例でたとえれば、前者は、いじめられている人がいてかわいそうと思う

ことであり、後者は、いじめられている人を見て助けてあげようと思い、いじ

めをやめさせるように行動することになるだろう。 Sen のいうコミットメントの問題が重要になってくるのは、公共財の場合で

ある。いわゆる、フリーライダー問題に関ってくるのだ。また、労働の動機づ

けにも関連してくると述べている。 共感やコミットメントの理論化に関していえば、Sen は、人間の倫理的選好

と主観的選好を区別することが重要であると述べている。この2つの選好によ

って、人間は社会的な観点から望ましいものと、自分にとって望ましいものを

区別することができるのだ。しかし、理論化にはまだ遠い道のりがある。とい

うのも、コミットメントが倫理的選好と主観的選好のどちらにあてはまるか不

明であるからだ。共感は利己的なものと判断されているので、主観的選好に入

ることができる。一方、コミットメントが、もし、「万人のための公平な関心に

よってではなく、たとえば隣人たちとか自分の所属する階級といった特定の集

団の場合57」であるには、主観的選好なのか倫理的選好なのか定義しづらくな

るからだ。ほかにも、理論化する手立てとしてさまざまなランクづけをランク

づけるための方法的装置を挙げているが、これは、異なった諸タイプの選好を

持つことのメリットを考えるときに有用であるということを述べているだけに

終わっている。 Sen による合理的経済人への批判と、共感とコミットメントの Sen の概念に

ついて述べてきた。彼の主張する共感やコミットメントの概念は、わたくしは

共感できるし、これらの概念から導かれる人間は合理的個人と比べると身近な

存在であるように思う。現実的な人間像だ。彼には、ぜひ功利主義を超えた新

たな概念を導き出してほしいと願う。

57 Sen(1989)pp.147

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公共財供給における経済実験

では、ここから、公共財供給における実験結果を概観してゆくことにしよう。

Sen が述べているように、コミットメントは公共財の場合において問題となる

フリーライダーに関連する概念である。もし、すべての人間がコミットメント

を持ち、実際に発揮しているのであれば、フリーライダーは起こり得ないと考

えられるから。このような考えは非現実的だが、公共サービスを日々利用する

機会が多いわたくしたちにとっても、特に、行政サービスを執行する行政にと

っても、実際の人間行動がどのようなものなのかを把握することは有益であろ

う。はたして人間はフリーライドするのだろうか。それともしないのか。この

疑問は、近年、経済実験によって検証されている。昨今の経済実験を概観する

ことによって、明らかにしてゆこう。 先に結論をいっておくと、驚くことに経済実験では、経済学が予測するよう

に、全員がフリーライダーとるという行動はあまりみられない。かといって、

全員が協力する行動をとることもないが、その数は多く、平均して 40%~60%の割合になるという。この事実は、1回限りのゲームと複数回のゲームでの経

済実験から導き出されたものである。 まず、1回限りのゲームの経済実験を説明しよう。 この実験は、まず、実験の対象となるグループに実験室に来てもらうことか

ら始まる。対象人数は通常4人から 10 人である。それぞれにある金額、たと

えば5ドルが与えられる。このお金は自分のポケットにしまってもって帰って

も良いし、一部あるいは全部を「共同運用」と呼ばれる仕組みに投資しても良

いことになっている。n人が参加するグループの共同運用に投資されたお金は、

定数kを乗ぜられる。ただし、kは、1よりも大きく、nよりも小さく設定さ

れる。投資されたお金は、配当と共に参加者全員に均等に分配される。このよ

うにしてグループの総資金は拠出があるたびに増える一方、個々人の取り分は、

最初の投資額より少なくなるのだ。 具体例で見てみると、k=2、n=4のとき、全員が5ドル全部を公共財に

拠出した場合、各自は 10 ドル受け取れることになる(4

2×× 45=10)。他のど

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んな解法でも、全員がこれほど儲かることはない。その一方、個人としての立

場からすれば、いっさいなんらの拠出もしないほうが、常に得をするのだ。と

いうのも、一人のプレーヤーのみが5ドルを拠出したとき、受け取るのはわず

か2ドル 50 セントにすぎず、その残り7ドル 50 セントは他のプレーヤーに回

されるからだ(4

2××15=2.5)。よって、このゲームにおいて、合理的個人は

何も拠出しないという選択を取ることになる。このような状況は、ゲーム理論

の囚人のジレンマと似たようなものだ。完全情報のある場合と違って、相手が

どのような行動をするのか不確実な場合、望ましい選択が、相手の行動と関っ

てくるからである。 Marwell=Ames による研究からは、上記の結果が多くの条件下で成立した

ことがわかった。彼らは公共財の自発的支払額を決定する要因を探るために、

体系的な実験プログラムを作成し、さまざまな条件下で1回限りの実験を開始

した。その結果、実験が初めての者に対しても、経験者でも、また少人数のグ

ループでも、80 人という大人数のグループでやった場合にも、フリーライダー

の出現率は近似の傾向をとったのである。ただ、元金の額が最も大きかったグ

ループの拠出率はいくらか低かったという。 彼らの研究で興味深いことは、経済学を専攻している人は拠出額が少ないと

いうことである。経済学専攻の大学院生 32 名を使った実験では、拠出率は 20%と少ない数字を示したのだ。

この研究を踏まえて行われた複数回のゲームによる実験からは、回数を重ね

るたびに拠出率がどう変化するのか調べられた。その結果、2つの特徴のある

結果が導き出されたのである。1つは、1回限りのゲームの場合と同様に、初

めの回は約 50%の拠出率を示したということである。2つめは、回数を重ねて

ゆくと、拠出率が下がってゆくということである。この事実は、回数を重ねる

ことで被験者がフリーライダーを認識した結果によると考えられるだろう。し

かし、以前実験を行った人間が期間をおいた後にまた実験を行った場合、拠出

率が約 50%を示したため、この仮説の妥当性は疑問に付される。 このように、複数回の実験では、実験を重ねるにつれてフリーライダーの出

現率が変わってくることにさまざまな仮説が立てられた。その一つに、相互的

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利他主義というものがある。これは、人間は自分にされたように相手にする傾

向があるということである。かの有名なハンムラビ法典に書かれた、目には目

を、歯には歯を、の考えと一緒である。つまり、親切にされたら親切を返し、

裏切られたら裏切りの行動をとるということだ。この相互的利他主義は、まね

手戦略を行うということになり、コンピュータを使ったトーナメントにおいて、

相互的利他主義は協力者の最終的利益になることがわかっている。 しかしながら、1回限りの実験においても、協力する割合が 50%になること

は、相互的利他主義の概念とは相反するものだ。1回限りでは、相手に親切を

与えることも、また逆に、裏切る行為を行うこともできないからだ。そのため

ほかの理由によって、たとえば、他人の喜びに自らも喜びを覚えるというよう

な利他主義が提唱され、正しいことをするという動機づけによって協調行動を

とるといった利他主義が提唱さえている。だが、本当のところはまだよくわか

っていないといえる。実験の内容を変化させるといった、環境設定によって協

調の度合いが変わってくるため、制度の働きかけが大きいともいえるだろう。

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第三章 人間行動とは(まとめ)

限定合理的個人と経営人、どちらが経済をそして人間行動を的確に捉えるの

だろうか。わたくしはこの論文において、経営人の方が経済を捉えるのに適し

ているのではないか、ということを述べて行きたいと考えている。これまでは、

非合理的行動がさまざまな場面において見られることを、それぞれの研究を概

観することで提示してきた。しかしながら、合理的経済人のさまざまな反証例

を提示したところで、合理的個人を否定することにはならないだろう。現実の

人間を抽象化しているモデルが合理的個人なのだから、多少の誤差が出てくる

のは仕方ないからだ。よって、わたくしは、2章で得られた事象から、経営人

と合理的個人、どちらが人間行動を表すことが優れているかまとめてみたいと

思う。

まず、2章で得られた事実を表にしてみようと試みた。これは、合理的個人

から導かれる理論、ここでは、期待効用理論、ゲーム理論、効率的市場理論が、

それらの予測からは導かれない事象を説明できるのか、できないのかを表すこ

とである。そして、また、プロスペクト理論や過剰反応のような、新たな理論

で説明したほうがこれまでの理論から逸脱した事象を説明しやすいものを挙げ、

それらの理論がこれまでの合理的個人から導き出される事象を説明できるのか

を考えてみた。

表 8 経営人と合理的個人の説明力

合理的個人から導かれる予測の逸脱事例

合理的個人から導かれる予測

プロスペクト理論 ● ?過剰反応 ● ?期待効用理論 × ●ゲーム理論 × ●効率的市場理論 × ●●説明可能 ×説明不可能 ?不明

経営人

合理的個人

上記の表を作り上げるのに必要なことは、経営人のモデルに入るプロスペク

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ト理論や過剰反応が、合理的個人から導かれる予測を説明できるのかどうか明

らかにすることである。これができて、はじめて経営人と合理的個人、どちら

が経済を説明するのに有用であるか判断できるからだ。 まず、合理的個人から導かれる予測に対して、その逸脱事例が存在すること

は、合理的個人から作り上げられた理論では、逸脱事例を説明できないという

ことになる。よって、これらは説明不可能となり、×をつけた。もちろん、合

理的個人から導かれる理論によって、予測された事象は、説明できるものなの

で、●をつけた。 問題は、経営人の評価である。プロスペクト理論や過剰反応の仮説は、これ

までの理論からは説明できなかった事象を説明することを可能にしたので、「合

理的個人から導かれる予測の逸脱事例」は説明可能となり●となる。その一方、

合理的個人から導かれる予測を、経営人もまた説明しえるか、については注意

が必要であろう。これを判断するのは難しいが、わたくしは、過剰反応の仮説

については、市場は効率的かどうかを検証しているに過ぎず、また、市場は非

効率的であると主張していても、金融市場は毎日動いており、非効率であるが

ゆえの問題が露見しているわけではないため、合理的個人から導かれる予測は

説明できないだろうと考えた。つまり、逸脱事例を説明するには有用であって

も、それに留まってしまっていると考えたのである。 また、プロスペクト理論においては、わたくしは、この理論が合理的個人か

ら導き出される予測をも説明できる可能性はあるけれども、まだ説明する力に

欠けていると感じたので、△とした。というのも、プロスペクト理論において、

その理論の中核を担っている、人間は参照点からの距離によってものごとの価

値を決めるという考え方を特定化し、参照点がそれぞれの決定状況でどこに定

まっているかわかることができるなら、選択の予測能力が高まると感じたため

である。参照点の位置と、それによって成果を利得と損失のどちらとして捉え

るかは、提供されたくじの定式化および意思決定者の期待によって影響を被り

得るものであるため、客観的に参照点を定めることができないのが残念なとこ

ろである。 よって、経営人と合理的個人の説明力を検証すると、以下のようになった。

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表 9 経営人と合理的個人の説明力

合理的個人から導かれる予測の逸脱事例

合理的個人から導かれる予測

プロスペクト理論 ● △過剰反応 ● ×期待効用理論 × ●ゲーム理論 × ●効率的市場理論 × ●●説明可能 ×説明不可能 △説明される可能性がある

経営人

合理的個人

ここからわかることは、やはり、合理的個人の力は強いということであろう。

まだ経営人は合理的個人覆すような力は持っていないように思われる。現在、

さまざまな分野から、合理的個人では説明できない事象を明らかにする研究は

増えているので、それらの研究の発展に期待したいと思う。十分な準備体操を

した後に、もう一度合理的個人と戦うことが必要であろう。 わたくしは、この論文において、経営人が合理的個人の地位を覆してしま

うことを明らかにしようと試みてきた。しかし、結論としては、経営人の可能

性を最大限に伸ばすことはできなかった。むしろ、わたくしには、経営人が合

理的個人を覆す存在であるのか、ということでさえ疑問を持つようになってし

まった。わたくしが、経営人に可能性を見つけることはできなかった理由には、

わたくしが、経営人を合理的個人の代替財であるとみなしていたからだと思う。

経営人は、完全に経済学における人間の定義を変えてしまうと思っていたため、

それを証明しようとして危険な道に入り込んでしまったように思う。よって、

最近では、それよりもむしろ、経営人は合理的個人の補完財として捉えるほう

が妥当なのではないかと、思うようになってきた。 以上、わたくしの論文からは、経営人は合理的個人を覆す可能性は0ではな

イが、非常に難しいという結論が導き出される。補完的に使うのならば、非常

に有用である。経営人を提唱した Simon には申し訳ないと思うが、経営人のモ

デルに、経済学の根本を揺り動かすような力はないように思われる。もっとも、

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Simon の提唱する通り、経済学は結果だけではなく、結果が導かれる過程をも

重視すべきだという考えには賛成する。しかし、過程を重視することによって、

一人一人の細かい行動にまでいちいち目を通していては、雑多なものを雑多の

まま取り扱うだけに過ぎないと思うのだ。経済学の優秀なところは、少ない理

論で多くのものを説明できるということがある。それを捨て去ってしまって、

初めから人間一人一人の行動のプロセスを判断してゆくのはいささかこっけい

なように思う。 以上のことから、合理的個人はまだ安泰である、といえると思う。しかし、

これは、今現在のことであって、経済学者が、これまでの経済学の歩みに疑問

を抱き、非合理的な行動に目を向けてもいることは、近い将来、研究が大いに

進み、経営人が合理的個人の本当の脅威となる可能性があることを捨てきれな

いのだ。是非、そんな日が来ることを期待しつつ、わたくしはこの論文を閉じ

ようと思う。

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補論 行動経済学とは何か

伊藤(2001)によると、行動経済学は、「行動分析学と経済学の出会いから

生まれた学際的研究領域である」と定義でき、その誕生を、Hursh が「Economic concepts for the analysis of behavior」と題する論文を Journal of the experimental Analysis of Behavior 誌に発表した 1980 年としている。その理

由として、1980 年までにいくつかの実験論文と総説論文が公刊され、醸成時期

と考えられること、そして、Hursh の論文がこれまでの行動実験データを、具

体的に、封鎖・開放経済環境、価格弾力性、あるいは代替性・補完性という経

済学的概念に関連づけたからとしている。 一方で、坂上(1997)は、「「応用行動分析誌(Journal of Applied Behavior

Analysis)」に掲載された Kagel & Winker(1972)の論文にその実質的な出発点

を求めることができる」と言っており、その理由として、「この直後から動物を

用いた本格的な実験的行動分析の研究が開始されたためである」としている。

彼によると、Kagel & Winker の論文は、経済学の幅広い領域に、特に人間行

動について経済学者がその法則を定式化している領域があることを指摘してお

り、また、経済学との相互協力によって、経済学の現実場面での統計的データ

とは本質的に異なった実験的な基礎を、経済学の先見的な公理系に対して与え

ることができると述べ、この領域での理論や説明を「行動経済学」と呼んでい

るのだ。これ以降、特に、動物を用いた研究58がなされ、行動分析学で成立し

ていた動物の選択行動と対応法則が、ミクロ経済学で展開されてきた無差別曲

線の理論とどのように適用され、説明可能であるかといった研究や、経済理論

からどのような実験が考えられ、実施した結果は予測と一致するのかという研

究報告がなされてきた。 伊藤(2001)にしても、坂上(1997)にしても、行動経済学の誕生の時期に

58 実験において動物を用いるのは、実験が治療的効果の問題と倫理的な問題が

潜在的に存在しているためである。

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大きな違いは見られず、1970 年から 1980 年ごろとしているのは変わらない。

伊藤(2001)の意見の方が、経済学と心理学の融合がはっきり見て取れるが、

その考え方は坂上(1997)の報告のように、1970 年代前半でなされているこ

とを考えると、わたくしは、行動経済学の誕生は、1970 年代前半になるのでは

ないかと考える。特に、わたくしの研究では、行動経済学の誕生を明確するこ

とのではなく、その関係性を重要視しているので、行動経済学の誕生について

は、1970 年代としてかまわないと思う。行動経済学が誕生した背景には、心理

学の選択行動と意思決定の実験的・理論的研究の進展が大きな要素を占めてい

るといえる。心理学が、心の学問から、行動の学問ヘとその研究を主観的なも

のからより客観性のあるものへと移行したことが、経済学との交流を深め、行

動経済学の誕生に至ったといえる。いずれにしても、行動経済は比較的新しい

研究分野であるといえるだろう。 行動経済学は、2種類の方向を持っているように思われる。一つは、認知的

な意思決定を分析する分野であり、Khaneman=Tversky のような人を用いた

実験を通して、人間行動の理論化を目指す方向である。認知的アプローチは、

「なぜこのように行動するのだろうか」といった点は考慮に入れず、人間行動

はどんなものかを記述する分野であるといえる。もう一方のアプローチは、行

動分析学からのアプローチである。行動分析学は、人間を含めた動物に対して、

何らかの刺激を与えればそれに対応して何らかの反応が起こると考えており

(対応法則)、人間行動の記述をこの対応法則から探ってゆこうとする分野であ

る。どちらとも心理学の色が強い。それゆえ、行動経済学は、認知心理学者や

行動分析学者が行動経済学を引っ張っているようにみえる。たとえば、日本に

おいて、学術誌の中で行動経済学を特集に取り上げたのは、行動分析学の学術

誌である「行動分析学研究」のみである。 また、行動ファイナンスは、行動経済学で理論化された現象が金融市場で実

際にあてはまるか実証分析を行っているという分野だという感を持つ。つまり、

これまでの経済学では説明できなかった現象を、行動経済学のアプローチを使

って説明しようとするのが行動ファイナンスであるといえる。 最後に、1970 年代以前には、経済学と心理学の関係がまったくなかったわけ

ではないということを付け加えておきたい。それぞれの学問は意思決定や選択

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行動という点で共通項を持っているため、19 世紀の終わりごろには、限界効用

逓減の法則と weber-fechner の法則の対応があった(坂上,1997)し、1920 年

から 30 年にかけて、心理学知見と矛盾しない現実的な基礎過程の上に、経済

的行動に影響をもつ社会的な力をも説明しようとする経済心理学が育ってきた

からだ。相互交流が活発になされなかった理由としては、経済学と心理学、そ

れぞれが他方の分野に要求する内容が一致していなかったためであるのと、全

世界の傾向として経済心理学が産業・組織心理学、マーケティング等の応用分

野として認識されてきたからだといえる。 実験経済学について

実験経済学は、名前の通り、理論モデルに沿った環境を実験室にて構築し、

その環境の下で、パフォーマンスのよい被験者には、より多くの謝金を支払う

という経済的動機づけを伴う経済実験を行う学問である。 その誕生は、1960 年代にさかのぼる。はじめに計量経済学の補完的な役割を

果たす分野として、また経済学の論理実証主義を補強する形で登場した。1960年代は、ミクロ経済学の支配的パラダイムが変化したという。これによって、

一般均衡理論、社会洗濯理論、ゲーム理論、投票理論など、競合する経済原理

の間の選択を行う方法に対する必要性が認識されるようになり、複数のモデル

の中から、どれが単純な実験場の経済において観察される事柄を、もっともよ

く予測できるかという問いが出されるようになったのである。 そして、1970 年代初め、ミクロ経済学、ゲーム理論、公共選択理論、産業組

織論の分野で実験的手法が浸透し始めた。というのも、同時期ミクロ経済学が、

情報の経済学や金融の理論を構築するために、実験的手法を用いるようになっ

たからである。 しかしながら、実験経済学の始まりと呼ばれる 1960 年代以前にも、経済実

験は行われていた。1948 年に Chamberlin は、ハーバード大学で室内市場実験

を行った。また、この実験によって、需要曲線・供給曲線を作り出すために、

被験者に対して、評価値パラメータ、および費用パラメータを割り当てること

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がなされたのである。彼の行った実験は、付け値の情報が被験者全員に行き渡

る仕組みになっていなかったため、競争均衡における取引量には収束しなかっ

たという。 この実験に学生として参加していたのが、Vernon Smith であり、彼は教室

内実験を行いながら、Chamberlin の実験手続きを修正し、ダブル・オークシ

ョンの手法を作り出した。ダブル・オークションとは、すべての参加者が、同

時に提案を提示したり相手の提案を受け入れ、すべての買値および売値が直ち

に全員にみえるようにした手法である。この手法は、近代的な金融市場、なら

びに商品市場において用いられている取引制度に似ているものだ。彼は、実験

から、価格と量が競争均衡へ収束することを確かめていったのである。 Vernon Smith は、1960 年代、活発に実験経済学のセミナーを開いていた。

例えば、1963 年には、パーデュー大学で、個人的集団的意思決定と効用及び標

準形ゲームに関する実験を扱ったセミナーを始めているし、1964 年、1965 年

の夏には、フォード財団からの援助を受けて、Richard Cyert, Lester Lave と

共に、カーネギー工科大学でワークショップを組織した。しかしながら、当時、

多くの経済学者たちは、実験経済学の妥当性・方法論に懐疑的であったため、

ワークショップでまとめられた論文を本にしてくれる出版社はなかったという。

1969 年になって初めて、The Review of Economic Studies 誌が実験経済学に

関する特集を出版したぐらいなのだ。 その後、Vernon Smith らは、実験経済学の方法論的綱領について、重要な

3つの項目を立ち上げた。3つの項目とは、 ① データ説明に際しての理論間の競合に注目すること ② 「特殊ケース」について議論すること ③ 実際の経済現象や政治上の問題へ、実験室での方法を拡張すること

である。

また、次第に実験経済学が認知されるようになり、1980 年代は、実験経済学

の研究数は急上昇したという。これは、パソコンの普及が果たした役割も大き

いといえるが、この時期に、大学内において一軒経済学ラボラトリーが次々と

- 70 -

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誕生した。実験経済学を中心とする学会「エコノミック・サイエンス・アソシ

エーション」が誕生したのもこの時期である(1986 年)。 実験経済学は2つの流れを持っている。ドイツの実験経済学とアメリカの実

験経済学である。ドイツのほうは、1980 年代中ごろまで独自に発達し、限定合

理性の考えに啓発されて、ゲーム理論や意思決定の研究を中心に行っている。

特に、行動過程の理解に目を向け、限定合理性の理論を構築するというゴール

を目指している。その一方、アメリカの実験経済学は、先ほど述べた Smith を

はじめとする流れを汲み、経済理論の結果を中心に考えることを目的としてい

る。 ここで、少し経済実験の手法について記しておこう。 ○ (オーラル・)ダブル・オークション;

すべての参加者が、同時に提案を提示したり相手の提案を受け入れ、す

べての買値および売値は直ちに全員にみえるようにした手法。コンピュ

ータに売り手と買い手の付け値が表示され、それをみながら取引相手を

探す手法。

○ 片側オークション; 取引の一方のみに対して価格提示が許される、口頭またはコンピュータ

によるオークションのこと。価格提示が許されていない取引者は、提示

された値段を受け入れることだけできるように設定している。 ○ トレーディング・ピット・オークション;

売り手と買い手が一同に開始、互いに価格を叫び、取引が成立すると仲

介者に報告するという手法。 これらの手法のうち、(オーラル・)ダブル・オークションの性能はかなり良

いことが確認されている。また、トレーディング・ピット・オークションのよ

うな市場に関る実験結果は、理論をほぼサポートする結果が得られている。

- 71 -

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実験経済学は、既存の経済理論の追試を行うだけでなく、制度構築の際にも

用いられている。実証データがないものでも、実験によってデータを得ること

ができるからである。たとえば、「競争入札実験」の場合において、被験者に会

話(=談合)が許されていないときは、入札参加者数、予定価格及び落札価格

の後悔の有無などに関らず、競争入札は非常に性能の良い制度であることが確

認されており、また、談合が発生する場合の状態などもわかるようになるため、

実験経済学は、制度を導入するとき、そのパフォーマンスを検討するのに有効

であるとみなされている。他の実験の例では、京都議定書の実施効果を調べた

実験などがある。

日本の金融市場における過剰反応

限定合理的個人と経営人、どちらが経済をそして人間行動を的確に捉えるの

だろうか。わたくしはこの論文において、経営人の方が経済を捉えるのに適し

ているのではないか、と期待を寄せながら論文を書いてきた。しかしながらこ

れまでの論文執筆の経過の中で、わたくしは、合理的個人のほうが経営人より

もその説明能力は高いという、意思とは反対の結論を導きだした。一般化され

た理論がないという点で、残念ながら経営人は合理的個人よりも劣ってしまう

だろう。2章からは、以上の点と非合理的な行動にはそれぞれの状況に応じて

一定のパターンが存在することがわかった。 経営人の説明能力が小さいながらも、わたくしは何とか経営人の力は小さい

ということで論文を終わらせるつもりはない。終わりにすることよりも、非合

理的な行動が果してパターンに準じて発生するのかどうか検証してみたいと

考えた。らせることよりも、非合理的な行動をそれでもわたくしは、人間の非

合理的な行動にはパターンが存在していることを見出した。果して、非合理的

な行動にはどこでも発生するのだろうか。パターン化された非合理的な行動が、

いつでも、どこでも表れるならば、経営人の社会・人間行動を説明する力をあ

る程度認めることができるだろう。合理的個人には劣るかもしれないが、合理

的個人を補完するものとして経営人があると考えるのである。

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よって、この章では、非合理的な行動が実際に起きているのかを、金融市場

での過剰反応を例にとり検証してゆく。 De Bondt=Thaler は、Khaneman=Tversky らの研究は2章を参照するこ

とにして欲しい。2章からの分析を元に、わたくしは最近の日本の株価市場に

おける過剰反応を検証してみた。検証にあたっては、城下(1990)の分析方法

をもとにした。手順は以下のようである。 ① 1993 年から 2001 年までの期間を検証時間におく。検証期間中、一部上

場企業から逸脱した企業は除外する。 ② 東京証券取引所1部上場企業であり、かつ、1988 年から上場している企

業であること(上場してから5年以上経過していること)。 ③ 企業ごとの月次収益率と市場投資収益率から、超過収益を計算する。超

過収益とは、企業の月間収益率から市場投資収益率を差し引いたもので

ある。それを毎月加算することにする。月ごとの加算は3年にする。 ④ 各企業の超過収益を計算したあと、正の超過収益がもっとも大きい上位

30 社と、負の超過収益がもっとも大きい上位 30 社を選択する。正の超

過収益が大きい企業 30 社が勝者株ポートフォリオであり、負の超過収益

が大きい企業 30 社が敗者株ポートフォリオである。 ⑤ それぞれのポートフォリオを組み合わせたあと、その後の株価の値動き

がどのようになっているかみるために、ポートフォリオ作成後の3年間

の各ポートフォリオの平均超過収益を計算し、累積加算する。平均超過

収益は、30 社のポートフォリオの超過収益の平均である。 ⑥ 以上の手順を2回行うこととする。 これらの手順によって、わたくしは、1993 年と 1996 年の勝者株ポートフォ

リオと敗者株ポートフォリオを作成した。1993 年のポートフォリオは、1993年から 1995年の 3年間での株価の値動きから作成されたものであり、同様に、

1996 年は、1996 年から 1998 年の3年間の値動きから作成されたものだ。1993年ポートフォリオは、次の期間、つまり、1996 年から 1998 年の間で値動きを

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検証される。1996 年ポートフォリオは 1999 年から 2001 年の期間で検証され

るのだ。

表 10 1993 年~1995 年の勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオ

勝者株ポートフォリオ 敗者株ポートフォリオ1 富士通電装 日鉄鉱業2 全日本空輸 西濃運輸3 大同鋼板 大成ユーレック4 トプコン 阪和興業5 三和エレック 東京鐵鋼6 日本精線 アシックス7 ミサワリゾート 宮越商事8 トーキン パスコ9 SMC いなげや

10 アイネス 武藤工業11 田村電機製作所 ホーチキ12 大和紡績 日本写真印刷13 デオデオ ナイガイ14 住友特殊金属 三晃金属工業15 沖電気工業 北海製罐16 日本コムシス ヤマト17 富士通ゼネラル 小松精練18 東陽テクニカ カネボウ19 東京精密 カルピス20 NECインフロンティア 日本電設工業21 岩崎通信機 琉球銀行22 大平洋金属 合同製鐵23 丸三証券 三国コカ・コーラボトリング24 アドバンテスト キャビン25 タバイエスペック 日特建設26 三協精機製作所 東京製鐵27 日本高周波鋼業 日本信号28 日立粉末冶金 千代田化工建設29 日興コーディアルグループ タカラ30 丸山製作所 オカモト

- 74 -

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図 5 1993 年ポートフォリオの累積超過収益

1993年

-60

-50

-40

-30

-20

-10

0

10

20

30

1 5 9

13

17

21

25

29

33

勝者株ポートフォリオ

敗者株ポートフォリオ

1993 年の勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオを載せてみよう。表

10、図5を見て欲しい。1993 年ポートフォリオからは過剰反応が起こってい

るかどうかを判断するのは難しい。過剰反応が起こっているとみなすならば、

敗者株ポートフォリオはプラスの累積超過収益を示すはずだからだ。図5から

は、勝者株ポートフォリオはその後の3年間で負の超過収益を動いているが、

敗者株ポートフォリオは、最初の一年は正の超過収益を示しているものの、そ

の後は負の超過収益の動きを示している。特徴的なのは、1994 年の 7 月から

12 月にかけて、勝者株オートフォリオも敗者株ポートフォリオも負の動きを示

し、そして、同じように、1995 年1月になると回復した動きを示していること

だ。 この累積超過収益は何によって出現したのだろうか。この時期と重なる経済

ニュースは円高の加速である。1994 年6月 27 日には、1ドル=99 円 93 銭(東

京・終値)となり戦後初の 100 円を突破し、11 月 2 日には1ドル=96 円 40銭と戦後最高値を更新しているという事実がある。一般に、円高になると輸出

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や海外生産の比率が高い会社の業績には悪影響となるといわれている。そのよ

うな企業が勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオに多く含まれている

のかもしれない。残念ながら、企業ごとの海外生産比率のデータは存在しない

ので明らかにできないが、ポートフォリオにおいて製造業の数が多いことを考

慮すると、円高によって株価の収益に変化が出たのではないか、ということは

考えられるだろう。

表 11 1996 年~1998 年の勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオ

勝者株ポートフォリオ 敗者株ポートフォリオ1 エコナック 第一電工2 東京精密 マルハ3 石川製作所 全日本空輸4 テルモ コスモ証券5 ケーヒン 大平洋金属6 松下通信工業 ソキア7 イビデン みずほインベスターズ証券8 イト-ヨーカドー 日鉄鉱業9 アドバンテスト 東急百貨店

10 宮越商事 新光証券11 TDK 日本軽金属12 メイテック さくらフレンド証券13 キヤノン電子 東海東京証券14 テザック サンウェーブ15 ローム 日本精線16 オリックス 日本航空17 住商情報システム 三協アルミニウム工業18 本田技研工業 殖産住宅相互19 日本ユニシス 三菱製鋼20 アルプス電気 大成ユーレック21 シーイーシー トプコン22 三国コカ・コーラボトリング アツギ23 アデランス 親和海運24 日本電産コパル 山陽特殊製鋼25 住商リース アゼル26 TIS サカイオーベックス27 エンプラス ダイエーオーエムシー28 太陽誘電 神戸製鋼所29 ホーヤ ミサワリゾート30 シマノ 学習研究社

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図 6 1993 年ポートフォリオの累積超過収益

-20

-10

0

10

20

30

40

50

60

1 5 9

13

17

21

25

29

33

勝者株ポートフォリオ

敗者株ポートフォリオ

また次に、1996 年における勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオを

見てみよう。上に示したのが、1996 年の勝者株ポートフォリオと敗者株ポート

フォリオである。 この期間の勝者株ポートフォリオと敗者株ポートフォリオの値動きを見てみ

ると、過剰反応が起こっているかどうか断定するのは難しい。ただし、敗者株

ポートフォリオに関しては、高い正の累積超過収益を表しており、過剰反応が

起こっていたのではないかと考えられる。勝者株ポートフォリオについては、

敗者株よりも値が小さいものの、正の累積超過収益を表していることが分かる。 いずれの期間も、これまでの既存研究から導かれるような過剰反応を特定す

ることはできたとは言いがたいが、敗者株ポートフォリオに対しては、過剰反

応の傾向を示すということがいえるだろう。投資家は、敗者株ポートフォリオ

に対して、直近の情報に影響されて売買を行うことが想像される。また、1996年のポートフォリオでは、5月、6月の累積平均超過収益の値が大きくなるこ

とが示されている。これは、既存研究で示された事例と同じである。効率的市

場仮説の逸脱事例は存在しないとはいえないだろう。

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いずれにしろ、効率的市場仮説に逸脱する過剰反応は存在し、効率的市場仮

説が唱えるような、金融市場には効率であるという予測は逸脱する場合がある

のである。過剰反応が起こる理由について、心理学的からの仮説の提示――た

とえば、投資家が自信過剰になっている――はなされているが、まだ分析が行

われている段階であるといえ、はっきりしたことがわかっていないのが現状で

ある。

2002 年度ノーベル経済学賞者の経歴

人 名 カーネマン,ダニエル(Kahneman,Daniel)

〔経歴情報:2002 年 10 月現在〕

国 籍 米国

職 業 経済学者

肩 書 プリンストン大学教授

専攻分野 行動経済学

生 年 1934 年生 出生地:イスラエル・テルアビブ

学 歴 テルアビブ大学(心理学,数学)〔'54 年〕卒

学 位 Ph.D.(心理学,カリフォルニア大学バークレー校)〔'61 年〕

職歴・経歴

1970 年ヘブライ大学準教授、'73 年教授、'78 年ブリティッシュ・

コロンビア大学教授、'86 年カリフォルニア大学バークレー校教

授などを経て、'93 年プリンストン大学教授。経済学に心理学を

導入し、不透明な状況下では投資家の意思決定が経済理論から外

れ、主観で行われることを実証する"行動経済学"の手法を確立。

これらの業績が評価され、2002 年ジョージ・メーソン大学教授の

バーノン・スミスとともにノーベル経済学賞を受賞。米国とイス

ラエルの国籍を持つ。

受 賞 歴 ノーベル経済学賞〔2002 年〕

- 78 -

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人 名 スミス,バーノン(Smith,Vernon L.)

〔経歴情報:2002 年 10 月現在〕

国 籍 米国

職 業 経済学者

肩 書 ジョージ・メーソン大学教授

専攻分野 実験経済学

生 年 1927 年 1 月 1日生 出生地:カンザス州ウィチタ

学 歴 カリフォルニア工科大学(電気工学)〔'49 年〕卒;カンザス大学大

学院(経済学)〔'52 年〕修士課程修了

学 位 Ph.D.(ハーバード大学)〔'55 年〕

職歴・経歴

パーデュー大学、ブラウン大学、マサチューセッツ大学、南カリ

フォルニア大学、カリフォルニア工科大学、アリゾナ大学などで

教鞭を執ったのち、2001 年ジョージ・メーソン大学教授。この間、

実験不能と言われた経済学の分野に、コンピューターを使った実

験的手法を導入して市場のメカニズムを探る"実験経済学"の手

法を確立。市場参加者が互いに及ぼす影響などを解明した。これ

らの業績が評価され、2002 年プリンストン大学教授のダニエル・

カーネマンとともにノーベル経済学賞を受賞。論文に「市場行動

の実験的行動」(1962 年)などがある

受 賞 歴 ノーベル経済学賞〔2002 年〕

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おわりに

もう卒業を迎えるような時期になったことに驚いてしまう。東京で一人暮ら

しをすることに多少の不安があったのは、遠い昔の頃のようだ。本当に、大学

生活はあっという間で、いつのまにか時間が過ぎていった。 特に、わたくしにとっては、ゼミに入った後の2年間の時間の流れが非常に

早く感じられている。それほど充実していたのだろう。毎週1回のゼミの時間

では、いつも What’s New で何を言おうか緊張していたり、ゼミ員の研究発

表や先生のコメントを聞いて、鋭いながらも的確な物事に対する視点に、非常

に勉強になったと感じている。そして、このゼミの時間で社会を見る眼を、冷

静でありながらも豊かな心を持つことを培うことができたと思う。また、三田

祭では、班のメンバーとグループ発表する機会が得ることができたのは、研究

の楽しさを知ることになった。”遊び”を通じて、楽しみながら自分自身を切磋

琢磨してゆくことができたのは、非常にありがたい時間であったと思う。 もちろん、感謝すべきことは勉強だけではない。ゼミの時間外では、本を読

んだり、映画を見たりするようになったのは、わたくしの趣味を広げ、感性を

豊かにするよい機会になっていたと思う。権丈ゼミに入らなければ、本の面白

さに再び目覚め、歴史小説を読むことなんてなかったように思う。 そして、なによりもゼミ員と先生に出会えたことは、かけがえのないものだ

と、はっきりといえるのだ。言葉にすると陳腐だけれども、わたくしには、ゼ

ミでの活動は貴重な時間であったと思うのだ。多くの人に感謝する気持ちは人

一倍であると思う。まえがきにも書いたが飽き足らないのだ。 さて、卒業論文が少しずつ出来上がってくるにつれて、研究の進め方に迷っ

てしまうこともある。もっと深く研究できたのではないかと思うし、もっと楽

しく研究を進めていけたのではないかと思うのだ。楽しく研究を行うというこ

とは、卒業論文にいたる過程が非常に苦しかったというよりも、おもしろい内

容のものを書けたのではないかということである。確かに、数十ページの文章

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を書くのだから、苦しい作業ではあるが、自分自身余裕がないまま研究を行っ

たのは残念に思う。この自分自身の未熟さを思うと、もっと励まなければと感

じてしまう。 いずれにせよ、論文を書くという行為を通じて、多くのことを感じながら、

一つのことをじっくり考えることができたのは、わたくしにとって、大きな糧

になっている気がしている。少しばかりの自信もついたように思う。社会に出

てゆくにあたって、この少しばかりの自信と、そして多くの内省をもちえたこ

とは、たとえ将来にいろいろな困難が待ち構えていても、乗り越えてゆけるの

ではないかと思えるのだ。卒業論文を通じて、わたくしが成長できていたら、

それはとてもうれしい。

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