台湾原住民文学序説...145 研究ノート 台湾原住民文学序説 下 村 作 次 郎 (...

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145

研究ノート

台湾原住民文学序説

下 村 作 次 郎

( 一 ) 台湾文学 「山地文学の 創造は, もはや夢ではない」

1989 年 11 月 18 日に,屏 東で『 原報 』 (Aboriginal post) という新聞が 創刊された。 創刊の

言葉に「長期にわたる 準備をへて,ほんとうの 台湾原住民の 新聞が,今日誕生した」 ( 「陳朝

創刊記」 ) とうたったこの 新聞は,原住民がはじめて 出した新聞であ る。 タイトルに掲げた 副

題は,創刊号にみる 言葉であ る。 この言葉は, 台湾文学における 新しい表現者の 登場を告げる

マニフェストともとらえることができる。

ここで,近代以降の 台湾文学の歴史を 振り返ってみよう。

1895 年 4 月 17 日に,下関の 春帆 楼 において調印された 日清講和条約で ,清朝は台湾を 日本に

割譲 し , 爾 末日本は敗戦を 迎えるまで,台北に 台湾総督府を 置き,半世紀にわたって 台湾を植

民地として領有した。 この時代を台湾では「日脚時代」と 称する。

この「 日拠 時代」の初期, さ湾 巡撫店員嵌を 総統として建国を 宣言した,台湾民主国 ( 日本

軍の台北上陸にともないまもなく 崩壊 ) をはじめ, 日本の統治を 容認しない台湾人による 武力

抵抗が続いた。 その一方,台湾総督府は ,当時「蕃人」と 蔑称で呼ばれていた 原住民の支配に

も 乗りだし総督府内に「 理蕃課 」を置き , 彼らの居住 区 には 硲勇線 ( 要衝の地に, 硲勇 つま

り警備員を配置した。 隔 勇は主に台湾人の 志願者のなかから 採用。 この制度は清朝の 防 俗 制度

に由来しているという ) を設け,衝突を 繰り返しながら , 山地の隅々にまで 入っていった。 そ

の後, 「高砂族」と 称されるようになった (23 年,昭和天皇, 当時皇太子の 訪台時からの 新し

ぃ 命名といわれ 朋 原住民との武力事件は , 30 年 10 月 27 日 能高 都講社 ( 現 , 南投県 仁愛郷大同

村 の一部 ) で最も悲劇的な 形となって起こる。 霧社事件であ る。 しかし この頃 には,漢族系

住民による武力抵抗はもはやなくなっていた。

さ湾 領有の初期に 起こった激しい 武力による血腫 い 抵抗は,次第に 抑えられ,抵抗の 形は知

誠人による言論, あ る レ 、 は 政治闘争に姿を 変えていった。 その運動は日本留学生のなかから 起

こる。 18 年 5 月に結成された 六三 法 撤廃期成同盟会 ( 六三浩とは,台湾総督に 行政,軍事のほ

かに立法権 を与えた第六十三号法律で , 1896 年 3 月 31 日 公布 ) と, 21 年 3 月に起こった 台湾議

会設置請願運動であ る。 ともに,台湾人の 権 利拡大を求める 政治運動であ った。 こうした政治

運動が,東京の 台湾人留学生を 中心に押しすすめられると 同時に, 20 ヰ 7 月には『 さ湾 青年』

( 主に日本語,のち『台湾コ に 改称 ), そして 23 年 4 月には『台湾民報』 W はじめ中国語白話

文 。 のち, 中日文併用から 日本語へ。 紙 名も下さ清新民報』と 改称 ) が創刊され,雑誌発行に

よる啓蒙運動も 盛んになっていった。 ここにようやく ,台湾新文学が 生まれる土壌が , 日本暦

学生によって 形成されたのであ る。

当時,近代文学の 装いで登場した 作品として,

追 風 ( 謝 春木 ) 「彼女は何処へ ( 悩める若き姉妹へ ) 」 ( 『台湾』第 3 年第 4 一 7 号, 22 年 7

月一 10 月 ) ( 日本語 )

無 知 ( 不詳 ) 「神秘的自制 島 」 ( 同 第 4 年第 3 号, 23 年 3 月 ) ( 文言 )

瀬 雲 ( 頼和 ) 「 闘問熱 」 ( 『台湾民報』 86 号, 2,f 年 Ⅰ 月 1 日 ) ( 白話 文 )

146 天理大学学報

雲 梓生 ( 楊雲洋 ) 「光臨」 ( 同上 ) 旧話 文 )

があ げられる。

その後,北京に 渡り五四運動の 余熱に触れた , 張 戎車らの白話文学連動が ,前述した『台湾

民報 ] を中心に繰りひろげられ ,胡適や魯迅らの 中国新文学が 台湾にも伝えられていく。 この

間 , 台湾文学は中国文学, 日本文学双方の 影響を受け,世界の 文芸思潮とも 連動しながら 発展

していく。

このように,台湾文学は ,北京そして 東京と, 島外の中国文学, 日本文学とも 実に深い関係

をもって出発しながら , その文学的営為は 当時の中国の , あ るいは日本の 文壇においてもほと

んど関心をもたれなかった。 そもそも,台湾文学が 日本の文壇に 登場したのは , 1934 年に揚陸

の「新聞配達夫」が 日本の『文学評論』 (10 月 号 ) にはじめて掲載され ,つづいて 翌ヰの 1 月

号に 呂赫君 の「牛車」が 掲載された, それが最初であ る。 と同時に, この二作品はその 頃 東京

に留学していた 胡風の目にとまり ,胡風の訳によって ,前者ははじめ『世界知識』 (35 年。 未

見 ) に載り, のち 呂赫 若の作品とともに 胡風調『朝鮮台湾短編小説葉 山霊コ ( 上海文化生活

出版社, 36 年 4 月 ) に収録されて 中国に紹介されることになった。 戦前に, 日本および中国の

いずれの地でも 紹介された作品は , わずかにこの 二 篇の作品だけであ る。 日本の中央 話 に掲載

された作品では , ほかに 頼 和 め 「豊作」 ( 暢達 訳 。 『文学案内』。 36 年 1 月 ) や龍瑛宗の 「パパ

イヤ のあ る 街 」㏄改造』 37 ヰ 4 月 ) などがあ るが, これらの作品が 中国で再び紹介されはじめ

るのは, 79 年にいたってからのことであ る。 げ台湾小説選コ 人民文学出版社, 12 周 ) このよう

に, 台湾文学は,長い 間その存在を 島外でほとんど 知られることなく 存在してきた。

以上は,いわば 台湾文学の概観であ るが, このような環境にあ った台湾文学のなかで ,台湾

の原住民族はどのような 位置にあ ったのだろうか。

このことを 呉錦発 編著『恋情的山林台湾 m 地 小説 藻 』 ( 景星出版社, 87 年 1 月出版。 以下,

『懇情の山地 コ とする ) によってみてみよう。 該善 には, 7 人の漢族系作家と 2 人の原住民作

家 パイワン族の 陳英雄 とフスン 族の田雅客 ( トパス・タナ ピマ @ の作品が収録されて

いる。 2 人の原住民作家は ,ともに現代の 作家で,彼らが 登場する以双の 原住民族は, " 蕃人 "

( 清朝時代は " 番人 ") として, あ るいは " 高砂族 ", さらに " 高 m 族 ", " 山地同胞 ", " 山地

太 " として,常に 描かれる対象として 存在してきたといっていいだろう。

荒っぽい議論が 許されるならば ,戦前の「 日拠 時代」は,王に 日本人作家が 描いてきた。 例

えば,佐藤春夫の『 女誠扇綺譚 』 ( 第一書房, 26 年 ) 「諸社』 ( 昭森社 , 36 ヰ ), 大廟 卓 の 下 野

蛮人』 ( 学林書房, 36 年 ), 中村地平の『長耳 国 漂流記 Jl ( 河田書房, 41 年 ) r 台湾小説 集 ; ( 墨

水書房, 41 年 ) や , さらに西川満や 坂口祥子らの 作品があ る。 また, 中西伊之助の 丁 さ 清見聞

記』 ( 実践 社 , 37 年 ) や野上豊一郎・ 野上捕虫子の 丁朝鮮・台湾・ 海南諸港』 ( 拓 商社, 42 年 )

などの旅行記にも 記述がみられる。 り l それに対して ,十分な調査はしてれないが ,台湾人作家は

ほとんど取りあ げていないといってい い のではないか。 彼らが,積極的に 原住民族を対象に 描

きだすのは, 45 年の日本敗戦にともなう 台湾の戦後を 迎えてからのことであ る。 しかも,作品

の発表はなおかなり 遅れる。 『 悲 清の山地口の 巻頭に収められた 鍾理 和の「山の女」 ( 原題は

後褐 ) は,戦後台湾において 原住民族を描いた 文学として先駆的な 作品であ るが,発表は 66n 年

であ る。

その後, 台湾人作家が 後述するように 次第に取りあ げはじめることになるが , ここで少しく

70 年代の初期に 台湾の大学あ るいは専科学校で 起こった「山地服務」運動に 言及しておく 必要

があ ろう。 この運動は, 70 年代初頭に起こった 釣魚倉 ( 尖閣列島 ) 事件にはじまり ,次々と台

湾を襲った国際政治の 波と国際的な 孤立化のなかで ,知識人の危機感と 学生の社会意識が 急激

に高まり,従来みられなかったような 言論活動と社会参加がはじまったなかで , 「社会服務」

台湾原住民文学序説 147

運動の一環として ,全島的な規模で 大学生あ るいは専科学校生の 間に広まった。 例えば, 当時

霧 白 で山地医療活動に 従事した 陳 大興 の 『 lU 地 服務 在 霜台』 ( 官達出版, 78 年 3 月 ) によれば,

教育,娯楽,農業,医療,衛生など 多方面にわたる「服務工作」が 行われている。 この運動は,

その後下火になっていったが ,後述するような 今日の原住民族運動を 考える 時 ,組織的な活動

のなかで展開された 学生と原住民との 生活レベルでのはじめての 接触は , 決して見逃すことの

ことのできない 影響をもたらしたであ ろう。 李昂の 「 G . L への手紙」 ( 原題「一対米 寄的 情

書」, 84 年。 山内一恵 訳 。 m 口守 監修『バナナボート』 nlCC 出版局, 91 ヰ 9 月収 ) にも描写

があ る。 なお, 『 原報 』第 20 期 (93 年 6 月 15 日 ) には, 当時の「各校 山服隊 簡介」が掲載さ

れ , 「 m 地 服務」の「過去,現在と 未 来 」が回顧・展望されて ,新たな問いが 発せられている

ことをひとまず 指摘しておきたい。

さて,原住民族を 描いた台湾人作家の 作品に話をも ど そ う 。 台湾人作家のなかでは , 鍾肇政 が比較的よく 描いている。 該書 に収められている「 熊 狩りに挑む男たち」ほか , 『烏黒披風

雲 』 ( 人人文庫, 73 ヰ ) や丁高山組曲 コ ( 『 Jll 中島」, 『戦火山蘭亭書店, 85 ヰ ) のように講社 事 コ ワン

件を背景とする 長編小説, さらに原住民族の 民間故事業『高利 科弩 英雄伝』 ( 照明出版社, 79

年 ) や ア持二席百二戸 ピ ・ナン 妨てコ ( 前衛出版社, 87 年 ) を発表している。 また, 該書 に収録された「碧宙 村

遺事」の作者,古家仁は 貧しい農村,漁村,廃坑になった 炭鉱の村, そして山地の 部落を描い

た 報道文学, 『黒色的部落』 ( 時報文化出版, 78 年 ) をあ らわしている。 このルポルタージュ

に描かれた原住民族の 村は,アタヤル 族が住む新竹 県 矢石郷の 秀轡村 であ る。 他に, 陳渠川著

『霧社事件』 ( 地球出版社, 77 年 ) のようなドキュメントタッチの 作品もあ る。 さらに, 多く

の作家が書いているだろうと 思われるが, 今 ,筆者の力のおよぶところではない。 ただ,気が

つくところでは , 90 年代に入って ,台南一帯に 分布居住したシラヤ 族 ( 漢民族の移民の 過程で,

早くに漢民族に 同化してゆき ,今は平 坤族 の一つぼ数えられている ) の米商を描いた 棄石濤の 『四粒 雅族的 米商』 ( 前衛出版社, 90 年 ) や, F ㍻ 首 J ( 派色文化出版社, 91 年 ) のような作品

が出ている。 また, 「台湾第一部調査報告漫画」と 銘打たれた漫画『霧社事件』 ( 郎君瀧編 画 。

90 年 10 月,時報文化出版。 邦訳に江湖 秀 ・柳本通産 訳 , 93 年 4 月,現代書館 ) のような作品も

出ていることをつけ 加えておこう。

r 恋情の山地』は ,こうした台湾の 作家たちの文学的営為を 知る上での好個の 作品集であ る。

編者の呉 錦発は 「 序 」に「私の台湾原住民へのお 返しと 蹟 非行為の第一歩」と 記しているが ,

台湾の 80 年代文学は, 内なる原住民の 存在に気づいた 漢族系台湾人作家の 自省の年代としても

位置づけられる。 そして, この自省は先述した 70 年代の「 m 地 服務」運動がもたらした 時代的

な潮流との連関性においてとらえておく 必要があ るだろう。

呉錦発は 87 年に 該 書を世に問うてのち , 89 年には『 願 妹山地 郎 台湾山地散文選』 ( 注け 2)

参照 ) を編集し , 引き続き原住民文学の 出版に努めている。

( 二 ) モ ー ナノン と トパス・タナ ピマ

前章で述べたように ,原住民は描かれる 一方だった。 先にあ げた 陳 英雄は, 1941 年に台東 県

大竹村に生まれたパイワン 族で, 60 年代のはじめに『新文芸月刊』や『 幼獅 文芸 占 『文芸 月

干 Ⅱ』,『台湾文芸』などに 小説を発表し 71 年にはさ 湾 商務印書館から『域覚憂 痕 J ( 人人文庫,

7 月 ) を出版。 該 書は台湾文学史の 上では, 台湾原住民文学として 最初の個人作品集であ る。

その陳も今は 書いていない。 書き手はほとんどこの 作家が唯一であ ったといっても 過言ではな

いのであ る。 ( 鍾肇政 Ⅲ中島山所収「自序」参照。 前掲 書 ) このような状況のなかで ,彗星

の如く台湾文学界にあ らわれたのが ,モ ー ナノンと田雅客,すなわちトパス・タナ ピマ であ る。

148 天理大学学報

モ ー ナノン ( 莫邪 能 ) は詩人であ る。 ここで少しく 個人的なことを 述べると,筆者は 1990 年

の 9 月初旬に, 呉錦発 氏を台湾に訪ねた。 その時, 呉 氏の世話でモ ー ナノン と トパス・タナ ピ

マ に会っている。 モ ー ナノン氏に会ったのは 台北二日目の 午前中だった。 「旅行文学」で 知ら

れる散文作家,木木女 義 氏の案内で承徳 路 にあ る職場を訪ねた。 この界隈は,按摩業の 看板をか

ける店が立ち 並んでいる。 モ ー ナノン氏はその 按摩 業 の一軒の店で 夫人と一緒に 働いていた。

彼は,パイワン 族の出身であ る。 1956 年に台東京 達仁郷 の阿亀蔵 に生まれた。 漢名は曾 舜旺 。

聞くところによると ,中学を卒業後,目の 病気のために 進学がかなんず ,肉体労働を 転々とし,

二十歳前半からますます 視力が落ち, その後まったく 光を失って現在の 職業につき,生計を 立

てているということだった。 彼はとつとつと 自己を詰りながら ,彼ら原住民族全体の 境遇を

語ってくれた。 特に, m 地の少女たちのことについて , 自身の妹のことにも 触れながら,物静

かに語っていたのが 印象的だった。 次に引く詩は , 彼が山地のメロデイでうたってくれた 自作

の詩であ る。

圭 童の音が鳴るとき

受難の姉妹, 山地の幼 い 妓女らに捧げる

妓楼のおかみが ,店の灯をつけ ,呼びこみの 声をあ げるとき / わたしには,教会の 鐘が聞こ ぐ ル智 り え とそ 6% 威 ィ 部 / 乱落 拝じ 日ゅ の フ 朝に に隆 なり そ る ま た り ・ 鳥 / 北の拉拉から ラーラ @ 南の大武山まで ター ゥ ,汚れなき陽の 光が / 阿 ァ

客 が満ちたりた 坤き 声をあ げるとき / わたしには,学校の 鐘が聞こえる / クラスじゅう か

ら , 「先生あ りがと う 」の声があ がると, また鳴り / 運動場のブランコ と シーソーは / たちま

ち ,ぼくらの笑い 声につつまれる

教会の鐘が鳴るとき / ママ,知ってるかいノホルモン 注射の針が,少女の 青春をつみとって

しまっていることを / 学校の鐘が鳴るとき / パパ,知ってるかい / 店の男の鉄拳が ,少女の笑

い声を黙らせてしまっていることを

もう一度鐘を 打てよ,牧師 ノ 祈りで,処女を 失った魂をあ がなってくれ / もう一度鐘を 打て

よ,先生 / 笑い声をあ の広い運動場に 解き放ってくれ

鐘の昔がまた 鳴るとき / パパ,ママ,知ってるかい / ぼくは,いつもいつも 思っている / ど

うか, もう一度ぼくを 生みなおしてくれないかと

( 注 ) 粒粒 : 台北宗 と 桃園 県 にまたがる粒粒 山 。 大武 Uu : 台東 県 ,

パイワン族が 分布居住する。 阿 亀 威部落 : 前出。 作者の故郷。

以上の詩は, S9 年に出たモ ー ナノンの個人詩集『 ぅ るわしき稲穂 Jl ( 原題『美麗的稲穂山

役 掲 ) に収められている。 この詩編からも 感じとれるよ う に , モ ー ナノンの詩は 原住民族の心

なう た い , また,例えば ,

「生養」から「 m 地 同胞」へと / わたしたちの 名前は / 台湾史の片すみに 次第に忘れ去られ

てきた ノ 山地から平地へと / わたしたちの 運命は , ・…‥わたしたちの 運命は / ただ人類学の 調

査報告のなかで / 丁重なとりあ っか いと 関心を受けているにすぎない

( 「わたしたちの 名前をかえせ」の 第一節 )

のような率直な 詩風で,原住民族の 心をとらえたのであ る。 詩の言葉は,深い 悲しみのなかか

ら掬われ,彼らのメロディにのせられて 唱 われるかのようだ。 次の「帰っておいでよ ,サウ ミ 」

の「サウ ミ 」 ( 原文「 渉 烏木」 ) は,誰を指すのか , あ るいはパイワン 族の精神的ななにかの

象徴なのか, 今 不明だが,山地から 出ていった人を 呼び戻そうとする 悲しい詩であ る。 詩の最

後の部分を引いてみよう。

台湾原住民文学序説 149

サウき よ,サウミノ 弓と 火種をもって ,兄は / 消えることのな い愛と 希望を抱きながら /m

また 山ヘ / 一遍も う 一遍と,あ なたの名を う た い つづけている ょ / 帰ってお い で ょ ,帰ってお

いで / 粟と 芋がどっさりとあ る田舎の家へ 帰っておいで !

現代は,恋しい 人はそれぞれに 山地を捨てて 工業化に酒造する 消費都市へ,夜の 街へ,海へ

……とひたすら 流出する。 そして,かつては ,後述するような 経緯で,多くの 人が南洋へ,果

ては大陸へと 引っ張られて 帰らぬ人となった。 この詩には, そのような彼らの 絶望的な境遇が

うたい込まれているともいえる。

次のトパス・タナ ピて は ブヌン 族で, 田雅 各は漢名であ る。 1960 年に 南投県 信義 郷 に生まれ

た 。 高雄医学院を 卒業し原住民族のための 医療活動に情熱を 燃やしながら 創作活動を続け ,

83 年に処女作を 発表して以来わずか 3 年で, F 恋情 の m 地口収録の「最後の 猟人」によって 呉

濁流文学賞を 受賞。 そして, 87 年には作品集『最後的猟人』 ( 後 掲 ) を上梓するにいたる。 該

書の表紙には「台湾第一部山地小説」と 銘打たれている。 先述した如く ,すでに 陳 英雄の作品

集 があ り,「第一部」というのは 正確ではないが ,トパスの作品は 台湾文壇で大きな 衝撃をもっ

て迎えられたのであ る。

『恋情の山地』には「 田雅 各作品 下 最後的猟人』討論会」 (86 年 3 月 3 日開催。 以下「座談

会」と略称。 なお, この「座談会」は , 注 (3) にあ げた邦訳書には 訳出されていない ) が 収

録されている。 そのなかで, 呉錦発は 「 田雅 各の出現は,台湾文壇にとって 一大事件」と 述べ

ている。 また,「座談会」に 参加した 鍾肇政は ,「彼の作品を 読むと,強烈で 不思議な感覚に

見舞われ, これこそほんとうの 台湾小説だと 感じる」とまで 称賛し幸高 は 「北京語で創作し

ている作家に 反省の機会を 与えたことに 最も意義があ る」と思考のマンネリ ィヒ した既成作家へ

の 警鐘ととらえている。 呉はまた, トパスの作品が 新聞 ( 呉が土偏する 下民衆日報コ 前 刊 ) に

載ると,山地で 伝道に従事する 神父や牧 描 ,さらに有識者から 電話でコピーを 依頼されるほど

だったと伝えている。

さて, トパスの処女作の 題名は「トパス・タナ ピマ 」 ( 「 拓抜斯 ・ 搭 馬匹馬」 ) であ る。 この

小説の特筆すべき 特徴は, その奇抜な題名にあ る。 つまり, トパスは, 自分の本名を 題名に 冠

した小説で台湾文壇に 登場した。 確かなことはいえないが ,作家が作家自身の 名前をテーマに

して描く作品は ,台湾文学に 限らずほかに 類をみないのではないか。 こうした題名を 可能にし

た条件は,作者が 二つの本名をもっている 点にあ ろう。 恐らく, この作品口を 発表したときの 作

者名は,漢名の 本名,つまり 本書でも使っている「 田 雅名」であ ろうと推測する。 この漢名が

公式の場での 本名であ り,投稿したのが ,高雄医学院での 文芸誌であ る点から推してほぼ 擬 い

ないところだ。 つまり,彼は ,種族名を本名として 名乗ることを 禁じられてきたことを 逆手に

とって,種族名の 本名を作品の 題名とすることで 名乗り・をあ げた。

トパス・タナ ピマ と , こう題名に自己の 名を う たったとき,作家のなかでどのような 作

用 が働いたのであ ろうか。

前述した「座談会」のなかで , 鍾肇政は , トパスは思考のプロセスにおいて ,母語 ( ブヌン

語 ) の影響を受けていると 指摘する。 鍾肇 氏自身, 45 年を境に日本語から 中国語への転換を 迫

られ,実際トパス 同様の体験,つまり 鍾の場合は先ず 日本語で思考し それを頭のなかで 中国

話 に訳す「 訳脳 」にの言葉は ,台湾文学を 考える ぅぇ での一つのキーワードであ る。 鍾肇政

「台湾文学について 『 訳脳ロの 体験から」『台湾文学研究会会報 コ第 10 号, 85 年 7 月所収 )

を経験している。 同様の指摘は , 呉錦発 もしており, トパスの中国詰は , 時に形容詞が 動詞に

後置されて標準語にはな い 特徴をもっと 述べる。 この 2 3 な 作業は並大抵のことではないだ る

う 。 事実,「何度も 書き直す」とトパス 自身が筆者に 語っていた。 つまり, トパスは ,ブヌン

語で思考 し 学校教育のなかで 獲得した第二の 言語,中国語で 創作する。 そのプロセスで 中国

150 天理大学学報

語を対象化しさらにブタン 語の世界に存在する 自己,つまり「トパス・タナ ピマ 」を作者「 田

雅客」が対象化する。 ここにおいてはじめて 自己の名を題名とする 作品の誕生が 可能となった。

その結果,作品は 広がりをもち ,私小説風の 手法ながら ブヌン族 全体を包みこむ 大きな世界を

描くことに成功した。 ( なお, このような対象化を 容易にさせたのは , ブヌン 族の命名の仕方

にもあ るかもしれない。 長男であ る彼は,祖父の 名を継承している )

はじめに取りあ げたモ ー ナノンをはじめ ,漢名以外に 自分の種族の 本名を名乗って 文ィヒ 活動

に従事する原住民が 増えつつあ る今日, トパスのデビュ 一作は,原住民の 文学にとっても 記念

碑的な作品として 位置づげられるだろう。

( 三 ) 原住民文学の 世界

ここまで,特に 断ることもなく 原住民あ るいは原住民族という 呼称を使ってきた。 従来, ほ

とんど使われることがなかったこの 呼称は, 80 年代の覚覚の 民主化運動の 影響を受けた 彼ら自

身の自覚から 生まれてきたものであ る。 もちろん,アメリカをはじめとする 世界の少数民族の

運動とも連動していよう。

88 年に東京で講演したという , イ バン・ユカン ( アタヤル 族 ,現在東京大学大学院在籍 ) に

よると, 「台湾の民主化運動は , 70 年代後半から 成長してきましたが ,私たちの原住民族運動

は, 80 年代における 党外民主運動の 発展の刺激のもとに 起こってきたものといえます。 1983 年

の『高山青山創刊の 後, 84 ヰ , 85 年といわゆる 党外雑誌がつぎつぎとタブ 一に挑戦して 反対運

動の限界をおしひろげてきましたが , そのなかで原住民族のさまざまな 問題が広く発掘・ 報道

されるようになり , 「男は海に出 ( 遠洋漁業船の 下級乗組員に 代表される 重 作業労働者 ), 女

は 海に下る ( 苦海に沈む,つまり 売春 ) 」という言葉に 示される原住民族の 悲劇が認識される

ようになりました。 このほか,少なからぬ 反対運動参加者が 積極的に原住民族運動に 協力する

ようになりました」という。 ( 「立ち上がる 台湾少数民族 イ バン・ユカン」若林正文者『 転形

期の台湾 「 脱 内戦化」の政治』田畑書店, 89 年 9 月所収 )

彼らはこの運動のなかで , 84 年 12 月, 台湾原住民権 利促進会を結成し , 87 年 10 月には台湾原

住民族権 利促進会 ( 以下「原権 令」と略称 ) と改称した。

同じく, イ バン・ ユ カ ン によると,主な 運動方針として「原住民族自治運動を 推進すること」

「中国大陸でとられている 民族区域自治制の 視察団の派遣」「原住民族固有姓名復活運動の 推

進 」「土地返還要求運動」などをあ げている。

このように 83 年 5 月に目高山 青 』が台北で創刊されて 以来,原住民の 言論活動も活発になり ,

「原権 令」の『全訳』 "m 外山』 ( 前者の第 1 期から第 6 期,および後者の 第 t 期は T 原住民

被 圧迫者的 呵城 ( 台湾原住民族権 利促進会成立姉週車軸 ) J 87 年 12 月初版に収録 ), さら

には前掲の新聞『 原報 』 (Aboriginalpost) が 89 年 11 同 18 日に屏 東で発刊され ( 現在, 93 年

8 月 15 日付第 21 期まで出ている ), 90 年 8 月には『猟人文 ィ Ⅱが台中で創刊されている ( その

後発展して, 該 誌を母体に 92 年 10 月に「 さ清 原住民人文研究中心」が 設立された ) 。

モ ー ナノンの登場も , トパスの出現もこうした 原住民の覚醒と 無縁ではない。 むしろこ うし

た 時代のなかから 生まれてきた。 台湾文壇にとっても , もはや無視できない 存在として確固た

る位置をしめるようになった。

ここで原住民の 人ロとその分布をみてみよう。

前掲の F 原 親コ創刊号に 統計が出ている。 それによると ,次の通りであ る。

平地 m 胞 145,792 人

山地山砲 176,096 人

さ 清原住民文学序説 Ⅰ 5I

総人口数 321,888 人

種族名 人口総数 分布地区 ( 地図参照。 同紙掲載のものにもとづく )

アタ ヤル 族 75,975 人世 来郷 ,共同郷, 甫漢郷 , 覆 異郷,英五 郷 , 丑峰郷

柑平郷 , % 安 郷 , 樺 愛郷, (281 男木木 邦 B,

パイワン 族 60,770 人姉池 郷 , (191 %% 塚 てゆ 6@ @121 考 宇田 ;%B, 11@1 男 きき 隻 Mo, @141 春日脚, J 師子 如は

牡丹 郷 , 1261 士垂イ 二班 耶 ,金崎 @251 郷

ブタン 族 35,009 人信義 (101 郷 , ( 桝 延 @ 平鯛, (231 海ま詰 @SD7W6, (201 三辰 郷 , 胡と源卯ト

アミ 族 120,703 人 台東,花蓮など 県境

ツウオ 族 7,U40 大ト 可 里山相 廿

サイ シ ヤット 族 3,884 人面圧抑, 丑峰郷 ヤミ 族 3,461 人 (2% 蘭岨郷

ピュマ族 8,125 人 台東市, 卑 南郷

ルカイ 族 6,801 人寿男 1181 @ 白 4%, (221 茂木木 m ロ

ここで,分類されている「平地山肥」と「山地山肥」の 別は,原住民族が「山地同胞」,

「戦士、 乾杯Ⅱ

152 天理大学学報

あ るいは「高山族」, 「 LU 地大」と称されるように ,晋山地に住んでいるわけではないことを

物語るものであ る。 例えば, 蘭岨に 住むヤミ族や 東部海岸地帯に 住む ピュマ族や アミ族の多く

は 平地に住んでいる。 ここにあ がった両者の 人口数字は, どのような方法で 計算されているの

か 不明だが,行政上は「山地山砲 は , m 他行政区域内に 居住する アタ ヤル 人,ブヌン人,

ワン 人 ,ルカイ 人 , ツ オウ 人 ,ヤミ 人 ,それにサイ シ ヤット 人 ,アミ人の一部を 指す。 平地山

肥 は ,普通行政区域内に 居住するアミ 人 , ピュ マ人 ,サイ シ ヤット 人 , それに アタ ヤル 人 ,パ

イワン 人 ,ルカイ 人 , ブヌン人 , ツ オウ人などの 一部を指す」 ( 陳国 強者 屈 さ清高山族研究』

三職書店上海分店出版, 88 年 10 月所収の「台湾高山族的人口問題」にみる ) とい つ 、

さて ニ 懇情の山地コには , 9 作家 皿 篇の作品が収められている。 そして,描かれた 種族は ,

次の六種族であ る。

鍾理和 (1915 一 60 年。 屏 東県人 ) 「山地の女」 パイワン

鍾肇政 (1925 ヰ 生 。 桃園県人 ) 「 熊 狩りに挑む 男 」 アタでか

田雅各 ( 前掲 ) 「最後の猟人」 フヌン

胡台麗 (1950 年上。 上海人 ) 「 呉鳳 の 死 」 ツオウ

田 雅客 「マナン, わかった」 フヌン

李 喬 (1934 年生。 苗栗 県人 ) 「パスタアイ 考 」 サイ シ ヤット

田 雅客 「」、 大族」 フヌン

古 豪仁け 951 年生 。 雲林 県人 ) 「 碧岳村 遺事」 ア タヤ ル

陳 英雄 ( 前掲 ) 「ひな鳥の涙」 パイワン

呉錦発 (1954 年生。 高雄泉美濃 八 ) 「燕が鳴く小道」 サイ シ ヤット

葉音 中 Ⅰ 962 年生。 苗栗人 ) 「我が友は佳 霧 に住みき」 ルカ ィ ?

また, 呉錦発の 「 序 」によると,「この 小説 集は , 間南籍 ,客家籍,覚客 籍 , m 地籍からな

6 9 人の作家のⅡ篇の 山地に関する 小説を収録しています。 (B を ) これらの作家を ヰ 齢によっ

て分けますと ,すでに亡くなっている 本省出身の文学者, 鍾理 和先生を加えた 老 , 中 ,青の三

代を含み, 出身から分けますと ,客家籍 5 人, 閾南籍 1 人 ,外雀 籍 1 人, そして原住民籍が 2

人となっていて , ちょうど今日あ る台湾の居住者の 構成の特色が 表われています」とあ る。 さ

らに,「 序 」のなかで,呉は 次の三点をあ げ,編者の視点を 述べている。

a, 「客家籍の作家が 半数以上の 5 人を占めていること」

b, 作品が反映している 問題

c, 編集上の工夫

a は ついては, 「客家籍の作家に m 地を背景とする 小説が比較的多いのは ,おそらく歴史的

に客家人と原住民との 接触がそれだけ 頻繁であ ったからでしょう。 台湾開拓の初期に ,滝川,

泉州一帯の間 南 籍の移民が早く 来て,大部分の 平原地帯を占め ,広東舞 ( 筆者 注 : ここでは客

家籍と同じ意味 ) の移民はその 後になってやってきたので , 山麓の比較的 辺都 なところに住み

つくことになりました。 そのため,生存競争においても 原住民との関係が 密接で,客家籍の 作

家に山地を扱った 著作が多いのもこうした 関係からなのです」と 指摘している。

b については, 11 篇の作品を分析して ,次のように 分類している。 ( 筆者 油 ( Ⅱに分類さ

れた作品は論述の 都合上,編者があ げた順序に従っていない )

( 一 ) 山地の病勢文化が 平地の強勢文化の 侵食に直面したのちにあ らわれた価値観の 喪失。

「山地の女」,「 佳霧 に住む 友 」,「燕が鳴く 小道」,「 碧岳村 遺事」

( 二 ) 漢民族によって 書かれた歴史の 歪曲に対する 原住民の抗議。

「 呉鳳 の 死 」,「マナン ,わかった」

台湾原住民文学序説 153

( 三 ) 原住民の伝統的な 神話についての 新しい解釈。

「パスタアイ 考 」,「小人 族 」

( 四 ) 原住民の伝統的な 生活風習に関する 描写。

「ひな鳥の涙」,「最後の 猟人」,「 熊 狩りに挑む男たち」

c は ついては,漢族 糸 作家と原住民作家の 作品を「 上ヒ較 文化」の観点から ,例えば,

次のように排列したという。

「原住民のく 狩猟 ) に関する描写」の 上 ヒ較 鐘 肇政 「 熊 狩りに挑む 男 」と田雅客「最後の 猟人」

「小黒人伝説」の 比較 李喬 「パスタアイ 考 」と田雅客「小人 族 」

「 呉 風伝説」の見方 明白鹿「異風の 死 」と田雅客「マナン ,わかった」

さて, ここでは, この編者の視点 h にもとづいて 11 篇の作品についてみておこう。

( 一 ) の分類で指摘されていることは ,台湾で歴史的に 発生してきた 問題であ るが,今日ま

すますその危機感が 深まっている。 80 年代に起こった 原住民族権 利促進運動は , まさしくこの

危機感への原住民の 覚醒から生まれた。 ガライ ポ

鍾理 和の「山地の 女」 ( 原題「 暇黎婆 」 6[@ 年 ) は,作者の祖父の 後妻を描いている。 原題の

「 暇黎 」は「山地の 人」を指す客家請であ る。 曾孫にあ たる鏡鉄 民氏 ( 作家 ) によると,パイ

ワン 族 らしい。 台湾では,台湾移民開拓 史 のなかで,漢民族と 原住民との結婚, あ るいは本篇

のように, 妾 として漢民族の 家庭に入った 原住民の女性は 案外少なくはなかったのかもしれな

い。 本篇では,そうした 祖母と孫 ( 作者 ) との関わりを 通じて,良好な 家族関係が形成されて

いた家庭が描かれている。 しかし祖母の 種族の親戚が 遊びにきた時の 彼女の応対ぶりや , 近

所の大人の噂, また山地にもどった 時の祖母と「 僕 」との距離感などに 起こる微妙な 意識の差

異が巧みに描出されている。 「山地文学」の 傑作としてさらに 深い考察が必要とされよう。

本篇同様に原住民の 女性を描きながら , さらに一歩踏みこんで 家族の血統のなかに 原住民族

の血が入っていることを 描いた作品が , 呉錦発の 「燕が鳴く小道」 ( 原題「 燕 唱曲街道」 83 年 )

であ る。 本篇は,「 僕 」と偶然の機会から 知りあ ったサイ シ ヤット族の歌手 ョ 一 % との出会い

を 描き,漢族系台湾人と 原住民族との 共生の道を探る 文学となっているが ,作品のなかで「ぼ

く・も・は ん ・ぶん・さん・ ち ・じんだ」という 告白がなされて 台湾文学の新領域を 切り開い

た。 本篇で構築された 世界は,台湾作家がはじめて 踏みこんだ世界であ る。 なお, タイトルに

取られ,小説の 結びにも登場する " 燕 " は, 「 燕好 」 ( 夫婦仲がむつまじいこと ) や「 燕賀 」 ( 新

築の落成を祝う 言葉 ) という言葉があ るように,漢族系台湾人 とサイシ ヤット族に代表される

原住民との " 共生 " を象徴している。

以上の文学史的価値とは 別に,「燕が 鳴く小道」の 優れた点は ョ 一 % という一人の サイシ ヤッ

ト族の女性をリアルに 描ききったところにあ る。 ョ 一では れも がる男たち, それは, 日本人観

先 客であ り,漢民族であ る。 本篇のリアリティは , ョ 一 %の 存在の危うさにあ る。

次の 2 篇は, 呉錦 発の観点からみれば , 「平地」と「山地」, い い 換えれば漢民族と 原住民

族との文化接触によって 生じる「価値観の 喪失」がテーマとなっている。

古豪 仁の 「若苗 村 遺事」 ( 原題 同 , 76 ヰ ) は,次のような 作品であ る。 夫の ブハオ が案内し

てきた 休 務局の漢民族の 青年紀 祥 清に,かつての 恋人の幻影をみたモリ 一の切ない恐物語。 村

の人びとに「生木を 裂くように」別れさせられた 音楽教師の恋人を 失って以来,生きる 力をすっ

かりなくしていたモリーは ,仕方なく今の 夫と結婚していた。 サリーという 一人娘がいるが ,

その子は自殺した 恋人の忘れ形見であ る。 夫はお人好しの 大工職人であ ったが,心から 受けい

れることができず ,今では,夫の 求めにも生理的に 拒否反応が出るくらいだった。 そんなモリ一

の前に突然あ らわれたのが ,死んだ恋人の 再来かと見まがうばかりの 紀祥漬 であ った。 「平地」

154 天理大学学報

からやってきた 紀祥清は ,恋人の幻影を 追い,失った 愛を取りもどすために「平地」へと 誘っ

てくれる存在であ る。 しかし, その彼と新竹の 宿で一夜をともにした 彼女は, 「一風 L 佛を離

れるとすぐに 枯れて,死んでしまう」全線 蓮と 同じ運命なのだと 悟り, 朝 早く置き手紙を 残し

て去ってしまう。 帰り道は,昨日下ったばかりの 同じ山道。 「サリーを背負って ,地面いっぱ

い に積もった落葉を 踏みつけながら 歩いて」 ゆく モリ一の後ろ 姿は, いじらしくも 悲しい。 作

品の舞台であ る 碧 早材がどこを 指すのか定かではない。 大雪山林管区のなかのどこかをフィク

、 ンコ ン化した地名であ ろうか。 確認できる地名,姉崎や 有 鹿 大山などから 判断して,新竹 県の

矢石 郷 一帯の アタ ヤル 族 居住 区 と考えられる。 葉音中の「 佳霧 に住む 友 」 ( 原題「 我的 朋友佳任務」 85 年 ) は,青春文学であ る。 主人公の

「 僕 」は,大学受験制度に 疑問をもち,結局失敗してしまった 青年。 彼はへルマン・ヘッセに

心酔 し , 「感傷的な気持ち」で , 佳 霧を訪れる。 このいくぶん 反抗的でロマンチックな 文学青

年に案内されて ,読者は ク 一イ やピ トアイが住む 山 深い m 地の世界に誘われる。 そこは許可が

なければ外部者は 入れない山地保護区であ る。 教会が村の中心に 建ち,伝統の スト。 石坂家屋がな

なり,代わって 町の新興住宅と 変わらぬ文化住宅が 整然と立ちならんでいる。 家庭にはバイク

やステレオがあ り, テレビや冷蔵 庫はほぼ普及している。 しかし,貧しい。 それに,生活が 単

調で若者が暇をもてあ ましている。 その 眼 つぶしが,昼間から 飲む酒であ り,バイクを 使って

の遊びであ る。 一見「文明化」した 村の生活はどこか 病んでいる。 本篇にはまた , カンボジア,

タイの国境あ たりから台湾に 引きあ げた友人泰雄の 父親の生活や ,彼らと一緒に 渡 白 したミャ

ンマ一の女たちの 生活,さらに 主人公が話した「オジサン」という 言葉を聞いて , 日本語を喜々

としてまくしたてる ク 一イ の 父親の様子などが 点綴されており ,読者は入山許可書不携帯のま

ま山地や山地周辺に 住む人びとの 世界を歩いてきたような 気にさせられる。 なお,地名の 佳 霧 ,

達加 渓は特定できない。

( 二 ) に分類された 2 篇は,清朝時代の 阿里山で通事をしていた 呉鳳が , そこに住む原住民

の首狩の風習をやめさせるために 自分の首を取らせたという「 呉風 伝説」を取りあ げたもので

あ る。

胡 白箆描くところの「芸風の 死 」 ( 原題「 呉鳳 文苑」 80 ヰ ) は,衝撃的な 作品であ る。 「 呉

風 伝説」を本篇に 描かれたようにとらえた 作家はかつていなかった。 今日みる「 呉風 伝説」の

原型は,日本植民地時代に 作られ, 日本では戦後の 教科

書からはもちろん 削除されているが , 台湾では先ヰまで 教科書に採られて 教材として教えられ

てきた。 ところが,先にみたよ う に 80 年代の原住民族の 権 利促進運動のなかで , この「芸風伝

説」の不当性が 取りあ げられ,ついに 87 年には教科書から 削除することに 教育部が決定した。

この間,原住民の 抗議運動は呉 鳳 廟の取り壊し 共属像の取り 壊し さらには英風概という 地

名を阿里山脚に 改名せよという 運動にまで発展して , 88 年 11 月にはそれを 実現させている。 本

篇は , こうした運動に 大きな影響をもたらすことにもなったのであ る。

登場人物の 2 人の名双は, 「 偉ィ二 」,「減員」と 名づけられているが , それぞれ「偉大な 人」

「貞潔」という 意味が仮託されており ,儒教の道徳観念を 象徴している。 作品は,はじめて 山

地を訪ねた減員 が 「 呉鳳は , あ なた方の英雄なのかしら ? 」と何気なくいった 言葉をきっかけ

に 思わぬ展開をする。 そして,漢民族の 彼らと ツ オウ族の「頭目」たちは 道徳観念をめぐって

激しくぶつかり ,破裂して火花を 散らす。 作品は,次のような 描写で終わっている。

ドアを押して 外に出ると,満天の 星が降りそそぐように 輝いていた。

降り注ぐ満天の 星は, 「 呉鳳 の 死 」後の,新しい 道徳観念を創造するためのスタートライン

に 着いた彼らを 祝福しているのであ ろうか。

も う 1 篇のトパス・タナ ピマ ( 田 雅樹描くところの「マナン , わかった」 ( 原題「患難 明

台湾原住民文学序説 155

白丁」 86 ヰ ) は ,原住民族の 立場から「美風伝説」を 描いたものであ る。 儒教道徳の「 捨生取

義 」あ るいは「赦身 威 仁」を体現する 義人 呉 鳳の伝説が,小学校の 教材のなかでどのように 扱

われて,子供たちにどのような 印象を与えてきたかが よ くわかる作品であ る。 トパスの作品の

特徴として, ブタン語の使用があ げられるが,本篇では 父と子の理解の 成立の契機をはたす 言

葉 として巧みに 用いられている。 「 呉風 伝説」を教材とする 授業のあ と,更正 は 「色の黒い野

蛮人,蕃人は 野蛮, ギョロ目で,真っ 黒 け 。 黒ん坊は野蛮,人の 首を狩り,人肉を 食う,一番

残忍なのは,蕃人だ」といってクラスメートにからかわれる。 教室で粉々に 打ちくだかれた 更

正の心は, 父 との会話の最後に 父親を「タマ」 ( お父さん ) と ブタン語で呼ぶことではじめて

慰められる。 さらに,典正は 父親から「マナン」と 種族の本名で 呼びかけられることによって ,

ブヌン族 としての誇りを 回復するのであ る。

( 三 ) に分類された 作品は,台湾のいくつかの 種族に伝わるいわゆる「こびと 伝説」を扱っ

ている。

李高め 「パスタアイ 考 」 ( 「出所達磨 考 」 77 年 ) は,サイ シ ヤット族に伝わる「パスタアイ」

( 「倭人 祭 」あ るいは「 倭 霊祭り と呼ばれる祭りの 由来の伝説を 物語 ィヒ したものであ る。 本篇

の素材となった「サイ シ ヤット族の小人伝説」を 引いておこう。 ( 移 川手 之蔵 ・馬淵東一・ 宮

本延 九者『台湾高砂族系統所属の 研究』凱風 社 , 1988 年 12 月復刻所収 )

サイ シ ヤット族の間には タ アイ (Taai) と 称する身長姉尺位の 小人の居た説話が 残され

て居る。 タ アイは上坪渓の 上流右岸の地マイバラ 山の中腹 の洞窟内に住み , サイ シ ヤットの

部落に常に果て 居た。 歌をよくしサイ シ ヤットの歌は 皆 タ アイに教へられる 所であ ると 云

ふ 。 又 祭祀も タ アイに教へられ , 豆 姓の家に来つて 祭と 歌を教示して 居た。 タ アイは 又 女色

を好み , 時々大隅 社 その他の部落に 来て婦女を犯し 尚 その 脅力 をたのんで暴力を 用ふる所

があ った。 このため サイシ ヤットは タ アイを追はんとし 成時その住居の 洞窟の前で祭をし

て タ アイを呼び出し 洞窟から此方の 岸に渡る途中の 丸木橋を タ アイの渡って 居る最中に河

中に落した。 このために大部分の タ ア イ は死し二人の 残存したものは 東の方に去って 行っ

た。 それは 釆タ アイを祭る祭祀が 行はれ, その祭祀は常に 東に伺って タ アイを呼ぶと 云ふ 。

タ アイの祭は Pas-taai と称し他の祭祀が 同姓間のみで 行はれるに対し この祭祀は全 族

同一に行はれ , その総司祭は 常に 朱姓 即ち TRteeln がこれに 出 る。 往時はこの役は 豆 姓

(Tautausai) が ィテつ たが, タ アイのために 虐待されその 戦が 朱姓に 移り, タ アイの 殺毅 に

は 朱姓 のものが主謀者となり ,遂に司祭は 朱 姓に 移ったと 云ふ 。

今も隔年に一度,盛大に 行われている。 ( 昔は毎年,稲が 実った頃 の満月の夜を 中日にして,

4 日間にわたって 行われたという ) その様子は,本書収録の「燕が 鳴く小道」の 冒頭に描写さ

れている。 なお,作者の 住むところは , 苗栗県のサイシ ヤット 族 居住 区 に隣接した地域で ,彼

らの歴史,習俗, 人情によく通じている。

一方, トパスの「小人 族 」 ( 原題「 休儒族 」初出不詳 ) は,ブタン族に 伝わる「こびと 伝説」

を 扱ったものであ る。 同じ ブヌン 族でもまた部族によって 違った伝説があ るようだが,本篇が

拠ったものは 不明。 伝説を語る手法が 現代の小説仕立てであ るために,サーカスの 舞台で小人

をみた祖父が ,「森の原住民」であ る彼らを彼らの 土地から追いだしたと 伝えられる「サリウ

ス」の子孫だと 思いこむ筋立ては 奇異な感じを 抱かせる。 しかし,作者は 敢えてこのような 手

法を用いて,伝説のなかに フヌン 族のルーツを , ひいてはそこに 隠されたブタン 族の原初的な

姿, それは精神文化といい 換えてもいいようななにかを 探りあ てようとしているのかもしれな

いと思わせる。 作品の結びの「高山に 住む フヌン は日に日に背が 低くなって,ついには 人の晒

までしかなくなってしまうのだろうか ? 」という言葉は ,フヌン 族が衰退することへの 危機感

を 詰っているのだろうか P

156 天理大学学報

次に, ( 四 ) にあ げられた 3 篇の作品をみてみよう。

陳 英雄の「ひな 鳥の涙」 ( 原題「雛鳥 涙 」初出不詳 ) は,大竹村に 伝わるパイワン 族のパラコ

ワン ( 男子集会所 ) を素材にしたものであ る。 パラコワンで 訓練を受ける 気の弱い少年の 心理

が興味深い。

トパスの「最後の 猟人」 ( 原題「最後的猟人」 86 年 ) は,作者の故郷, 南投県 信義郷人相 村

(@ 日日本時代地名,台中州新高部 轡 蕃人倫 社 ) を舞台にしたものであ る。 主人公の ピヤリと 愛

妻パスラの会話,さらに 客家人の店の 主人,村の猟人ル 力 ,入山検査所詰めの 巡査との会話,

それに猟犬イファンを 相手に語る独り 言が,時にはユーモラスな 筆致をまじえて 生き生きと 描

かれ,山地での 日常生活が伝えられている。 そして, 森と 猟人の肉体的なまでの 関係が自分の

心の底をのぞき 込むようにして 語られる。 「あ の女にいつか 愛想が尽きたって ,おれにはこの

森があ る」「馬鹿野郎 ! % 鼠の野郎,穴にすっこんでないで ,早く出てこい。 猟人が森で飢え

死になんて,森の 恥 だ ! 」。 しかも,こんな 森の住人 ピヤけ にもどこかしら 哀感が漂う。 タイ

トルにとられた「最後」の 二字の意味するところは ,文字どおり 開発の名のもとに 破壊されて

ゆく森の猟人たちの 絶望的な現実をいいあ らわしたものであ る。 と同時に,ブタン 族 ,ひいて

は原住民全体への 警鐘の意味が 込められている。 作品の最後で ,獲物を没収され「心に 誓う」

言葉 「猟銃がなくてもきっとまた 釆 るさ」は,作者のメッセージとも 読みとれる。

鍾肇攻め 「 熊 狩りに挑む男たち」 ( 原題「 猟熊 酌人」 82 年 ) は,原住民のなかで 最も武勇を

誇る アタ ヤル族の現代の 父と子の意識の 断絶を軽 快 なタッチで描いた 物語であ る。 山を下り,

近代文明の洗礼を 受けた オ ピルには山地の 生活は単調そのものでしかない。 町で覚えたギター

が唯一彼を慰める。 そんな彼には ,勇敢な アタでか の伝統など重荷以覚のなにものでもない。

作者の故郷は ,作品の舞台 馬 別科 弩に 隣接した歴史的に 原住民との交渉の 深い桃園 県龍憤 であ

る 。 作者は,現代の 語り部のように 高利 科弩 一帯に住む アタ ヤル族の現代っ 子の生活意識を 切

りとって読者に 語ってくれている。

以上, 11 篇の収金 乖 作品についてそれぞれ 簡単に述べてきた。 ここに描かれた 原住民族は ,か

つて「高砂、 義勇 隊 」として旧日本軍の 一員として戦場に 駆りだされたことのあ る人びとであ る。

それほど深い 関係にあ った彼ら ( およびその後 脊 ) が, 日本敗戦後,「中華民国」政府のもと でどのように 生きてきたのか ,戦後の日本ではまるで 知られていないといっても 過言ではな

い。 さらに,「高砂義勇 隊 」に関連してつけ 加えるならば ,寅泰明 の 「戦士,乾杯 ! 」 ( 原題

同 , 88 年。 筆者 訳 。 前掲 旧 バナナボートコ 収 ) を見逃すことはできない。 好 茶 杓 ( 屏 東早霜台

郷 。 該村は ,政府主導の「杉村」がもたらした 著しい弊害を 象徴する原住民の 部落として注目

されている。 現在,義援金を 募って旧好 茶 村の再建運動が 続けられている ) に住むルカイ 族の

戦士を描く本篇は ,「 四 世代にわたって 部族のために 勇士として覚敵に 立ちむかい,その 上慢

略 者であ る異民族のために 兵士となって 別の敵を相手に 戦い,時には 世代ごとに,ひどい 場合

には一代もたたないうちに 侵略者が変わり , さらにその侵略者の 戦士となってなんの 恨みもな

い人びとを不倶戴天の 敵として戦った」シオンの 家族を悲しみの 筆で描く。 ルカイ族の戦士,

日本 兵 ,中国国民党 兵 ,そして中国共産党 兵 。 作品の一場面を 引いてみよう。 ( シオンの家に

飾られた写真の 額を指して訊ねる 場面であ る )

「日本兵の隣のこの 人は誰ですか ? 」

「あ あ ,共産具のやっか い 」

、 ン オンの返答は 私を驚かせ つ づけた。

「共産具 ? 」

「そうさ,台湾が 祖国復帰してから ,最後に大勢の 人が大陸に行って 戦争をしたらしいけど

台湾原住民文学序説 157

この村からもたくさん 行ったんだ。 でも,みんな 八路軍につかまって 共産具にさせられたって

聞くよ」

さ 清原住民族の 人びとが, 「高砂義勇 隊 」として,戦場に 赴いたのは 1941 年頃 からであ る。

その後, 日本敗戦まで 日本軍人として 参戦した。 この歴史的事実はよく 知られたことであ る。

しかしながら , ここに描かれた 事実はほとんど 知られてこなかったことではないだろうか。 最

近ようやく出版された 手水城監修『台湾歴史年表終戦篇 1 (1945 一 1965) J ( 国家政策研究資

料中心, 90 年 11 月 ) によると, 46 年 9 月 3 日に徴兵制度が 実施され, 48 年Ⅰ同 20 日に停止され

ている。 陳国 強者『台湾高山族研究』 ( 前掲 ) 所収の「祖国大陸上的高山族同胞」によると ,

「祖国大陸に 居住する高山族同胞は ,大部分が抗日戦争勝利前後に 台湾から大陸に 移ってきた」

とあ り, その人口は 64 年の全国人口調査時, 3f66 人 , 82 年の第 3 次調査では 1.549 人と記されて

いる。

台湾原住民族の 文学は, 「原住民文学」としてはじまったばかりであ る。 呉錦発 によれば,

原住民作家は ,突如として 次から次へとあ らわれて,斬新 ( 中国詰「新奇」 ) な 作品を発表す

るようになったという。 『悲憤 め L U 」 ヰ也 』の原書を出版して は釆 ,原住民文学の 出版に力を入れ

ている景星出版社からは「台湾原住民文学」と 銘打つシリーズが 出ているが,すでに U4 冊出版

さ れている。 (121 さらに,文学雑誌『文学台湾』でも「原住民文学」の 特集を二度にわたって 組み,第 4 期 (92

年 9 月 ) では「原住民文学」の 定義について 論じられ,第五期 (93 年 1 月 ) では ピュマ 族の孫

大 Ⅱ l ( 著作に『久久潤一次コ 張 老師出版社, 91 年 7 月があ る ) による講演とその 討論会がもた

れている。

旅大川の講演テーマは ,「黄昏文学の 可能性 原住民文学試論」というもので ,そこで孫

は原住民族の 置かれた環境を 1, 人口, 2, 土地, 3, 言語・文字, 4, 社会制度・風俗習慣

の 4 点からみれば , そのイメージ ( 意象 ) は「黄昏」という 言葉で括れるとする。 つまり, こ

04 点のどの一つを 取ってみても ,原住民族は 危機的な状況にあ るという。 減少する一方の 人

口,失われてゆく 土地, そして言語, さらに漢民族の 社会制度・風俗習 噴に同ィヒ されてゆく民

族固有の伝統文化。 台湾原住民文学は ,その出発から 重い課題を担っているのであ る。

; ユ i

い ) 中村孝志「台湾の 原住民族」Ⅱひとものこころ 台湾原住民の 服飾』天理教道文 社 , 93 年 8 月 )

参照

(2@ 中国大陸における 台湾文学については ,中島利郎 編 「中国大陸発行雑誌所載台湾小説作品・ 作

家資料目録 稿 」げ台湾文学研究会会報』 1- 9, 82 年 6 月 -84 年 12 月 ) があ る。

(3@ 該書 に収録された 作品の邦題は ,邦訳書『恋情 の m 地 台湾原住民小説 選 』 ( 筆者 監訳 , 呉薫 ほ

か訳 , 田 *m 書店, 92 年 11 月 ) に従 う 。

(4) 中島利郎 編 「西川 l 滴全書誌」 ( 中国文芸研究会, 9..@ 年 10 月 ), 「坂口 褥子 著作年譜」 ( 「台湾文学研

究 会会報」第 20 号, ¥¥ 月 ) があ る。

(5@ 参考までに,戦後の 日本文学にあ らわれた台湾原住民描写作品を 管見した範囲であ げてお

坂口碑千苦『蕃地』新潮社, 1954,3

坂口祥子 著 『 蕃婦ロポウ の話』大和出版, 1961,4

坂口祥子 著ア 蕃社の譜』コルベ 出版社, 1978,3

稲垣真美 著 『セイダッカ・ グヤ の叛乱 ( 霧社事件 ) 』講談社, 1975,3

佳木隆三著「見たかも 知れない青空」『閃光に 向かって走れ』文春文庫 収 , 1982,12

佐藤愛子 著 『スニョンの 一生』文芸春秋, 1984,8

158 天理大学学報

西村里 著 「もう日は暮れた』正風書房, 1984, 10

寺田強者『太陽の 怒り 1( 高砂族の反きし ) 』白帝 社 , 1986,1

西川 l 滴 著 『 ちょぷ らん 島 漂流記』 中 公文庫, 1986,3

面Ⅱ l 滴 著 『 雲林記 』 日孝 山房, 1989,9

西川 l 滴 著 『 蕃歌 』人間の星 社 , 1990 , 9

矢野一也 著 『台北 車姑 ( たい ぺい ・ ち やたん ) 』新評論, 1986,9

五味 川 純乎 著 「惨劇 霧社事件」『オール 読物 』 収 , 1988,7

応保忠彦 著 『大酋長モ一々 の 争い 講 社蕃人蜂起秘話コ 芸文 堂 , 1991,2 ( 未見 )

郡楠 暗者アドキュメント 小説霧社事件 霧と 灸コ三一書房, 1992,7

なお, 日本発行のものとして ,次の作品があ る。

張良 沢著圧 太陽征伐 4 小峰書店, 1988,3

上記の作品をみると ,「霧社事件」を 扱った作品が 多いことに気がつく。 それに比べて ,現在の原

住民の生活や 意識を反映したものが 極端に少ない。

(6) 出征する恩師を 見送る途中,豪雨のなかで 濁流に呑まれて 犠牲になった「高砂族」の 少女 サョ

ンを 描き,映画にもなった『サヨ ン の 鐘 』を取り上げる 必要があ るが,ただ, これには次の 二 書

があ って調査を要する。

長尾和男 著 『 サコ ンの鏡コ台南・ 皇道精神研究普及部, 1943,7 ( 未見 )

呉 海砂 著 ・春光 淵訳 デサ コ ンの 鐘 山台北・東亜出版社, 1943,7, 同 11 再版

さらに, 199.W 年 5 月 8 日, 日本現代中国学会関西地区研究報告会において ,「台湾原住民族の 文

学」の題で報告を 行った際に,塚本照和 氏 より 龍瑛宗 「薄々社の饗宴」 (r 孤独な毒魚山盛典出版

社, 43 ヰ 12 月前 腱 のあ ることをご教示いただいた。 なお, 該篇は 『民俗台湾』 ( 第 9 号, 42 年

3 月 ) 原載 。 また, 巫 永福氏は戦双における 原住民作家の 存在を伝えている。 げ 文学台湾』 5 期所

載の討論会での 発言にみえる ) 今後さらに詳しい 調査を必要とするところであ る。

(7@ 台湾におけるキリスト 教の山地伝道については ,二宮忠弘「台湾ユ エンチユウ ミン宣教の現状

と課題一台湾基督長老教会の 場合一」 ( 玉山神学院, 93 年 6 月 ) が参考になる。

(8@ ワリシ・ コ カ ン ㎝ 歴斯 ・九輪,漢名 柳即 ) 「清一切 只是起歩 関 船 「台湾原住民人文研究中

心」的成立」 ( 『台湾史料研究 Jl l, 93 年 2 用参照。 中央研究院民族研究所,称美容 氏 のご教示に

よる。

(9) 総人口数と九種族の 人口総数を合計した 数との間には , 20 人の差異があ る。 どこかの数字に 誤

記あ るいは誤植が 生じたものと 解される。 これは, 注 (3) にあ げた邦訳書の 解説「台湾原住民

の詩と文学」に 引用した時には , 気 づかなかったことであ る。 また,中村孝志茂のご 教示により,

この部分の解説で ,「平地山肥」を「 平捕族 」と混同する 誤りを犯していることを 知った。 本稿を

借りて,訂正させていただいた。

(10) 前述した古豪仁の 報道文学の舞台も アタ ヤル 族 居住地矢石郷であ る。

(11@ 駒込 武 「植民地教育と 異文化認識 一 「芸風伝説の 変容過程一」」 げ 思想』 91 年 4 月 ) が詳しい。

なお,筆者は ,文学の観点から 別稿 「トパス・タナ ピマ の文学」 巨 天理台湾研究会年報』 92 年 1

月 ), 「台湾原住民族の 現在」Ⅰひとものこころ 台湾原住民の 生活用具 曲 天理教道 文社 , 9348 別

において取り 上げた。

(12) 本稿では,これらの 文献を十分に 取りあ げることができなかった。 それ 故 ,本稿は,いわば「原

住民文学」の 一つの導入に 終わっている。 将来の再考を 期し,参考までに 以下書名を掲げておく。

1. 呉錦発編 『悲 憤 的山林 台湾山地小説 選 b (1987,1 初版, 92,1 修訂三板 )

2. 呉錦発編 『 願嫁 山地 郎 台湾山地散文選』 (1988,3 初版 )

3. 宮本 延 八者・ 魏桂 邦訳了台湾的原住民』 (1992,m0 初版 ) ( 原文,『台湾の 原住民一一回想・ 私

の 民族学調査一ム 大興出版, 1985,9)

4. 田 雅客 ( ブヌン族 ) 著 『最後的猟人 呉 濁流文学英作品』 (1987,9 初版。 93,4 三板 )

5. 莫邪 能 ( パイワン 族 ) 著 『美麗的稲穂 台湾山地詩集』 (1989,8 初版, 91,9 三板 )

6. 柳卸 ( アタヤル 族 ) 著 『永遠 f9 部落 台湾山地散文集 コは 990 , 9 初版, 91,5 二服 )

さ 清原住民文学序説 159

7. 娃 刑期・ 羅刊 ( アタヤル 族 ) 著 『泰雄 脚 % 台湾山地小説 選 』 (1991,7 初版 )

( アタ ヤノ壕吾 ・中国詰対照本 )

8. 夏木 奇 他愛 雅 ( 漢名・ 周京 経。 ヤミ 族 ) 著 Ⅰ 釣到雨韓的 雅美人 台湾雅美放神話葉コ (1992,6

初版 )

9. 夏量 , 藍波安 ( 漢名・加勢 来 ,ヤミ 族 ) 著 『八代湾曲神話 台湾雅美 族 神話 集 』㎝ 992,9 初

版 ) ( 作品は二部からなり ,一部はヤミ 語 ・中国語対照 )

10 . 瓦歴斯 ・九輪 ( 漢名・ 柳卸 ) 著 『荒野的 呼喚 台湾山地散文・ 報導 葉コ (1992,12 初版 )

11. 打抜 斯 ・ 塔 馬匹馬 ( 漢名・ 田 雅名 ) 著 『情人手妓女台湾山地小説 集 」 (1992,12 初版 )

12. 休廷 成著 ァ頭目出 巡 台湾山地散文集」 (1992,¥2 初版 ) ( 作品は水墨画と 小品文からなる )

13. 尤稀 ・ 達公 ( 漢名・乱文音,アタヤル 族 ) 著仮譲我的 同胞畑道 台湾原住民評論集 J (1993,6

初版 )

14. 呉錦 発着『 原舞 君 原住民 舞団 的成長記録』Ⅰ 993,7) また,吉原出版社の「協和台湾叢刊」のなかには ,次のような 書物が入っている。

甲立国者『台湾原住民族的祭礼』 (89,1), 石 高 寿考『台湾的 拝壺 民族』 (90,6), 陳千武 訳述

『台湾原住民的母語伝説』 (91,2), 鈴木葉者『台湾原住民風俗言 ま 』 (92,1), 達 西島 拉鸞 ・里

馬 ( 田哲益 ) 著 『台湾 布農 竹生命祭儀』 (92,8), 巴蘇亜 ・ 博伊哲努 ( 浦 忠成 ) 著 『台湾 那族

的風土神話』 (93,6) ほかに, 瓦歴斯 ・ 尤幹 『番方円鞘』 ( 稲郷 出版社, 92,12) が出ている。

[ イ寸 記 ] 本稿執筆にあ たっては, 徐 邦男氏から得難い 資料の提供と 共に貴重なご 教示をいただ

いた。 記して謝意を 表したい。

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