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第1節 東山道武蔵路と古代集落 - 183 - 第1節 東山道武蔵路と古代集落 宝亀二年( 771)、武蔵国が東山道から東海道に所属替えになるが、宝亀二年以前の東 山道から武蔵国府に至る官道は東山道武蔵路と呼ばれ、概ね武蔵国府から直線的に北 上するルートが有力視されている。官道建設の目的が都と国府や郡家を結ぶためのも ので、東山道武蔵路については軍事目的を念頭に建設されたことは、これまでにも指 摘されており、また、直線を基本としていることは各他の調査によって確認されてい る。ルートの復原は、主に鎌倉街道上道および地名などを参考にし、発掘調査の成果 による道路遺構の発見や郡家・寺院などの存在から想定されている。しかし、沿線の 集落群にどのような属性が備わっており、どのような特徴がみられるかといった検討 は積極的にはなされていない。 そこで、本節では第Ⅱ章第1節の分類でD類とした遺跡を中心に、武蔵国を縦断す る東山道武蔵路の沿線及び周辺に分布する遺跡群を分析し、古代道路と関わる遺跡の 検討を行いたい。 1 東山道武蔵路ルート復原の課題 東山道武蔵路については、現在の東京都府中市から埼玉県所沢市・坂戸市・東松山 市・熊谷市を通過して群馬県太田市付近で東山道に至るルートが想定されている(木 1992・荒井 1993・酒井 1993・森田 1993・田中 2004)。東山道武蔵路と考えられる 道路遺構としては、国分寺市恋ケ窪遺跡や武蔵国分寺とその周辺(国分寺市遺跡調査 2008)、および所沢市東の上遺跡などで検出されている。また、東山道本道の調査 例では、群馬県下新田遺跡・矢の原遺跡(群馬県立歴史博物館 2001)や栃木県磯岡北 遺跡・北台遺跡(栃木県教育委員会他 2006)などが知られている。今後もこのような 道路遺構の調査例が増加すれば、点から線への復原作業も進展するであろうが、現状 では地形・地名や周辺遺跡などを手掛かりに傍証を固めていくほかはない。 東山道武蔵路のルートは、これまでいくつかの案が発表されているが、ルートを設 定するに当たっての課題の一例として、木本雅康の案(木本 1992)について、考古学 的な見解を述べておきたい。木本雅康のルート決定と同様の根拠は、その後酒井清治 も述べているが(酒井 1993)、ルート復原に際して両氏とも埼玉県川越市女堀Ⅱ遺跡 (立石 1897)を引用している。この遺跡で検出された中世の堀である「女堀」につい て、これを群馬県牛堀の例などから古代道の側溝を拡張したものであると想定し、東 山道武蔵路の一部に比定している。しかし、古代道の根拠としている女堀に平行する 土塁下の溝に関しては、古代の所産ではなく女堀・土塁と時期的に非常に近い遺構で はないかと考えている(図Ⅳ-1)。覆土も同一遺跡内で発見された平安時代の竪穴住 居の覆土よりも、中世の堀や溝の覆土に近いものであった。以下に女堀の変遷を新し い時代から記すと、調査直前まで女堀の土塁上は桜並木になり、堀の上面は道路にな っていたが、周辺は住宅地となり、土塁や堀は調査区内でしかみることはできない。 周辺の道路や区画が女堀を意識しているのは、上面の江戸時代以降の道路の存在によ

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

宝亀二年(771)、武蔵国が東山道から東海道に所属替えになるが、宝亀二年以前の東

山道から武蔵国府に至る官道は東山道武蔵路と呼ばれ、概ね武蔵国府から直線的に北

上するルートが有力視されている。官道建設の目的が都と国府や郡家を結ぶためのも

ので、東山道武蔵路については軍事目的を念頭に建設されたことは、これまでにも指

摘されており、また、直線を基本としていることは各他の調査によって確認されてい

る。ルートの復原は、主に鎌倉街道上道および地名などを参考にし、発掘調査の成果

による道路遺構の発見や郡家・寺院などの存在から想定されている。しかし、沿線の

集落群にどのような属性が備わっており、どのような特徴がみられるかといった検討

は積極的にはなされていない。

そこで、本節では第Ⅱ章第1節の分類でD類とした遺跡を中心に、武蔵国を縦断す

る東山道武蔵路の沿線及び周辺に分布する遺跡群を分析し、古代道路と関わる遺跡の

検討を行いたい。

1 東山道武蔵路ルート復原の課題

東山道武蔵路については、現在の東京都府中市から埼玉県所沢市・坂戸市・東松山

市・熊谷市を通過して群馬県太田市付近で東山道に至るルートが想定されている(木

本 1992・荒井 1993・酒井 1993・森田 1993・田中 2004)。東山道武蔵路と考えられる

道路遺構としては、国分寺市恋ケ窪遺跡や武蔵国分寺とその周辺(国分寺市遺跡調査

会 2008)、および所沢市東の上遺跡などで検出されている。また、東山道本道の調査

例では、群馬県下新田遺跡・矢の原遺跡(群馬県立歴史博物館 2001)や栃木県磯岡北

遺跡・北台遺跡(栃木県教育委員会他 2006)などが知られている。今後もこのような

道路遺構の調査例が増加すれば、点から線への復原作業も進展するであろうが、現状

では地形・地名や周辺遺跡などを手掛かりに傍証を固めていくほかはない。

東山道武蔵路のルートは、これまでいくつかの案が発表されているが、ルートを設

定するに当たっての課題の一例として、木本雅康の案(木本 1992)について、考古学

的な見解を述べておきたい。木本雅康のルート決定と同様の根拠は、その後酒井清治

も述べているが(酒井 1993)、ルート復原に際して両氏とも埼玉県川越市女堀Ⅱ遺跡

(立石 1897)を引用している。この遺跡で検出された中世の堀である「女堀」につい

て、これを群馬県牛堀の例などから古代道の側溝を拡張したものであると想定し、東

山道武蔵路の一部に比定している。しかし、古代道の根拠としている女堀に平行する

土塁下の溝に関しては、古代の所産ではなく女堀・土塁と時期的に非常に近い遺構で

はないかと考えている(図Ⅳ-1)。覆土も同一遺跡内で発見された平安時代の竪穴住

居の覆土よりも、中世の堀や溝の覆土に近いものであった。以下に女堀の変遷を新し

い時代から記すと、調査直前まで女堀の土塁上は桜並木になり、堀の上面は道路にな

っていたが、周辺は住宅地となり、土塁や堀は調査区内でしかみることはできない。

周辺の道路や区画が女堀を意識しているのは、上面の江戸時代以降の道路の存在によ

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 184 -

るものである。堀の上層から中層までは江戸時代以降の陶磁器類が出土し、道路であ

る硬化面は最上層でしか観察できなかった。堀を掘削した際の土を盛り上げた「土塁」

の下面、つまり構築面である旧表土(9層・10 層)から、16 世紀前後のカワラケや陶

器などが出土している。この旧表土で問題となっている溝が検出されたのである。堀

の下層からはほとんど遺物が出土しなかったが、中層以上では陶磁器に混じって1・

2点の須恵器小片がある。女堀の東で竪穴住居が1軒発見されており、遺物が出土し

ていないため時期不明であるが、規模や構造から一般的には奈良・平安時代と考えら

れ、この時期の竪穴住居に帰属する遺物であろう。須恵器が出土していることから、

女堀の起源を古代に遡らすことを完全には否定できないが、女堀が該期の遺構を破壊

して造られている点も否定できず、積極的に古代にすることはできない。

もう少し詳しく女堀を観察すると、土塁の構築方法については、一定区間区切って

積み上げていく方法がみられ、等高線を観察すると一つの工区が 20m 間隔であること

が看取できる。溝は土塁の中央部直下に位置し、土塁構築と密接に関わるものと考え

られる。おそらくは、区間工法のためのセンターとして掘削されたのではなかろうか。

また、土塁と直接の関連はなくても、土塁と溝が同時に観察できる断面図からは、溝

の確認面つまり掘削面は土塁構築面でもある。土塁下には旧表土がよく残っており、

溝は土塁構築時点の表土を掘り込んでいて、上面に表土は発達していない。さらに溝

の覆土下層にはこの表土が堆積しているので(9層)、土塁構築時には溝はまだ開口し

ていたことが想定できる。このことから、考古学的にはこの溝は土塁構築以前であっ

たとしても、両者はかなり近い時期に掘削されたもので、古代の遺構とすることには

無理があると言わざるを得ない。木本雅康は、後述する八幡前・若宮遺跡から「驛長」

墨書土器が出土したことを補強として、女堀が東山道武蔵路に関わる遺跡であること

が確定したとしている(木本 2000)。しかし、女堀はもちろん土塁下の溝も古代に遡

る遺構ではなく、たとえ女堀と東山道武蔵路が同一線上にあったとしても、土塁下の

溝をその根拠とする前提にはなり得ない。

以上のように、道路遺構を追って全体像を把握することは困難であるため、遺構か

ら確認するには断続的な点を結んでいくか、道路遺構に影響されて構築された可能性

のある遺構から類推して復原する方法が採用されている。しかし、考古学的な検証を

経ないまま、ルート近くの遺跡から並行する溝状の遺構を抽出して根拠とするのは、

手法として疑問がある。また、鎌倉街道などの中世道路と古代道路の並行・重複関係

についても、東の上遺跡のように、鎌倉街道上道伝承地から西に 300mの範囲で、中

世道路と東山道武蔵路とされる古代道路が発掘調査で発見されるような場合がある

(根本 2010)。しかし、時間的な断絶は存在しており、直ぐに他の遺跡に適用するこ

とはできない。このことは東山道武蔵路ばかりではなく、すべての道路遺構の復原に

関わる問題であり、道路遺構も含めた遺構・遺物から、交通路と関わる遺跡を考える

必要がある。

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

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2 古代道路関連遺跡の検討

古代道路を線として把握し、道路地図を作成するには多くの課題があるが、東山道

武蔵路の主な方向性はこれまでの調査・研究で概ね見解は一致している(図Ⅳ-2)。

東山道武蔵路には5か所に駅家が設置されたとされ、東の上遺跡がその可能性を指摘

されているが、共通認識にまでは至っていない。以下に、一方の起点として特定でき

る武蔵国府から(註1)、上野国との国境付近までの、幹線道路沿いの集落と呼べるよ

うなD類遺跡を取りあげて、あらためてその属性を抽出したい。

東の上遺跡

東の上遺跡の概要については、第Ⅱ章第1節で紹介しているので(図Ⅱ-14)、本節

では道路遺構の時期や集落との関係について述べる。東の上遺跡は武蔵国府に至る東

山道武蔵路の駅家とも考えられており(田中 2004c)、両側溝を持つ幅 12m の道路跡

や、総柱を含む建物群などが展開している。具注暦の裏に馬の戯画が描かれた漆紙文

書(図Ⅳ-7)や、銙帯・馬骨・馬具・炭化米・円面硯などの出土遺物から、官衙的

様相を窺うこともできる。

図Ⅳ-3は東の上遺跡の道路遺構とこれに沿った集落部分であり、★地点の道路側

溝から図Ⅳ-4の飛鳥・藤原宮分類坏 H(図Ⅰ-4)が出土している。この湖西産の

須恵器は、第Ⅰ章第1節の編年では、Ⅵ期からⅦ期にかけての時期であり、7世紀第

3四半期から第4四半期に相当する。▲の 43 号竪穴住居と■の 50 号竪穴住居は、道

路側溝を破壊して造られており、43 号竪穴住居は8世紀後半・50 号竪穴住居は8世紀

中頃の土器を出土している(図Ⅳ-5)。つまり、道路遺構は少なくとも8世紀中頃以

前には整備されたものであり、側溝出土須恵器が混入ではないことを確認できる。

●印は、7世紀末から8世紀初頭の竪穴住居であり、道路遺構に沿って軸を揃えて

並んでいることからも、官衙や寺院ばかりでなく竪穴住居の建設に当たっても道路を

意識し規制されたことを示している(木本 2007)。東の上遺跡における道路遺構の終

末に関しては、道路硬化面から図Ⅳ-6の土器が出土しており、9世紀後半から末葉

にかけてであることから、当初の側溝が埋まり竪穴住居によって破壊を受けながらも、

9世紀後半までは道路として使用されていたと考えられる。

東の上遺跡の道路遺構は、出土土器や重複関係から7世紀後半には敷設され、9世

紀末までは使用されており、宝亀二年を境とする廃絶や移動など大きな変化はみられ

ない。何度か掘り返される側溝から出土した土器を基本とする年代決定には、危険性

も指摘されているが、東の上遺跡の場合には7世紀後半以前の集落はなく、先にみた

重複関係からも齟齬はみられない。また、廃絶時期については、西国分寺地区から灰

釉陶器などが出土したことと、『続日本後紀』の非田処(註2)の記事から、10 世紀

末までは使用されていたのではないかとされている(早川 1997)。

柏原遺跡群

第Ⅱ章第1節でも取り上げたように、宮ノ越遺跡をはじめとした入間川左岸の遺跡

群を取り上げたが、宮ノ越遺跡から南の宮地遺跡まで約5km にわたり、さらに上流に

は東金子窯跡群があり、ほぼ同時期の遺跡が連続している。ここでは、宮ノ越遺跡を

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 186 -

中心としたこれらの遺跡群を含めて検討しておきたい。宮ノ越遺跡では、馬に関する

ものには馬骨・馬歯、馬具と鈴が出土しており、特に鈴について報告者は馬鈴と考え

て(駒見 1982)、遺跡の性格を駅的であると指摘している。さらに側溝を持った幅 3.5

mから約6mの道路遺構は、入間川と直行するように検出されている。小山ノ上遺跡

では(中村 1988・小渕 1988)、台地の縁辺部で東西 50m に渡って柵が確認され、馬

具の他に銙帯や円面硯、そして遺跡の地名とも一致する「小山」の墨書土器が出土し

ている。また、漆状の付着物のある土器の存在も出土している。小山ノ上遺跡から約

1km 上流の今宿遺跡では、48 軒の竪穴住居と「三宅」の墨書土器が検出されている

(図Ⅳ-8)。

入間川左岸では、今宿遺跡の5km 上流には東金子窯跡群が分布しており、小山ノ上

遺跡の対岸には、皇朝十二銭などが出土している揚櫨木遺跡がある。このように両岸

に集落が展開し、馬の存在を肯定できるような遺構や遺物からは、東金子窯跡群を起

点とした水運の存在と、陸上交通との結節部分を考えることができ、城ノ越遺跡から

は「舟」墨書土器が出土している(図Ⅳ-26)。東の上遺跡から宮ノ越遺跡までの距離

は、武蔵国府~東の上遺跡間とほぼ同じ 12km で、渡河地点である点でも一致してい

る。宮ノ越遺跡を中心とした遺跡群については、官衙的と即断できる状況証拠はない

が、交通の要衝にあって駅や牧のような機能を有した集落で、宿場や市といった性格

が想定できる。さらに、小山ノ上遺跡・宮ノ越遺跡・城ノ越遺跡・今宿遺跡などは強

い関連を持ちつつ各々独自の機能を有し、各遺跡に機能を分散していたとも考えられ

る。

光山遺跡群

小畔川左岸の低位と高位の二段の台地に及び、竪穴住居は時期が新しくなるにつれ

台地を上っていく傾向にある。小畔川の上流には若宮遺跡・女影廃寺が、さらに西に

は高麗神社が鎮座している。7世紀中頃から8世紀後半までの集落であるが、古墳時

代を含む集落としては高麗郡の中心となる日高市域で初めての発見である。50 軒以上

の竪穴住居とこれに近い数の掘立柱建物が検出され、多くの墨書土器と転用硯、漆の

付着した土器などが出土している(井上 1994)。特に8世紀中頃の竪穴住居の床面か

ら出土した馬具(轡)は、大形で完形であり、古墳時代からの系譜や国内での類例は

少ない(写真Ⅳ-1)。隣接して井戸や間仕切のある特殊竪穴・区画溝があり、馬具か

らだけでなく馬の存在が考えられる。他にはコップ形須恵器(計量器)・錠前の鍵、「袈」

墨書土器と明瞭ではないが「馬」と読める墨書土器がある。

光山遺跡群の北の台地奥部にある新山遺跡では、古代に遡る側溝を伴った道路遺構

が発見されている。高麗郡という特殊な郡にあるこの遺跡は、立地やコップ形須恵器

(計量器)、漆などからは流通・交易の拠点が、鍵や「袈」の墨書からは政治的・宗教

的な性格を想定できる。さらに、大形の轡は軍用馬に装着した可能性も考えられ、軍

事的色彩をも感じることができる。おそらくは渡河地点に発達した集落であろうが、時

期的に平安時代までは継続せず、衰退についても東山道武蔵路ルートの変更などが大

きく関わっているのであろう。

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 187 -

八幡前・若宮遺跡

入間川左岸の入間川と小畔川に挟まれた台地縁辺に位置し、3.5km 西には光山遺跡

群が所在する(富元 2005)。土坑から「驛長」墨書土器が出土しており(図Ⅳ-9)、

この土器は第Ⅰ章第1節の編年ではⅩ期に相当し、8世紀前半と考えられる。「驛長」

墨書土器の他に、木簡・檜扇・円面硯・コップ形須恵器(計量器)・佐波理模倣椀など

が出土しているが、遺構としては掘立柱建物1棟・竪穴住居1軒・井戸・土坑などで

あり、道路遺構の発見はない。しかし、井戸は直径7mにおよぶ大形井戸であり、武

蔵国府の成立段階に造られた「降り井戸」と同構造で、国府の井戸との関わりも指摘

されている(富元 2005)。帳簿木簡や檜扇などが出土していることもあり、官衙的な

色彩が強い遺跡といえる。

「驛長」墨書土器が出土したことで、東の上遺跡の次の駅家に比定されており、さ

らに郡家などの出先機関とも指摘されている(田中 2009)。八幡前・若宮遺跡の発見

によって、周辺に東山道武蔵路が通過している可能性が高くなり、ルート設定にも大

きな影響を与えている。

入西遺跡群

越辺川右岸に位置する稲荷前遺跡(富田 1992)を中心とした遺跡群で、北には入西

条里が広がり、対岸の丘陵には鳩山窯跡群が展開している。6世紀末から 10 世紀まで

継続する集落で、官衙的・寺院的といった特徴的な遺構・遺物は少ないが、多様な要

素を内包した大規模な集落といえるであろう。このなかでは、「大里郡」「入間郡」の

墨書土器や円面硯・銙帯・コップ形須恵器(計量器)あるいは企画性を持った掘立柱

建物群などに注目できるが、最大の特徴は鳩山窯跡群との距離的な関係である。

鳩山窯跡群の丘陵側には大きな集落は発達せず、対岸で郡は異なるが窯跡に最も近

い大規模な集落として、その占める位置は重要である。つまり、単なる須恵器の消費

地としてではなく、その流通や生産に大きく関わっていたと考えることができ、水路

としての越辺川と渡河して鳩山窯跡群を通過する陸路との交差地点に相当したと考え

られる。光山遺跡群からは約7km、宮ノ越遺跡からは 11km 程で、この距離は武蔵国

府~東の上遺跡と東の上遺跡~宮ノ越遺跡の各距離約 12km に近い。

勝呂遺跡群

第Ⅱ章第1節では、宮町遺跡を中心に述べたが、ここでは勝呂廃寺を中心として、

やや広い範囲であるが宮町遺跡(図Ⅱ-12)、住吉中学校遺跡なども含めて述べてみた

い。勝呂廃寺周辺も古墳時代から発達した地域で、勝呂廃寺自体も7世紀後半から 10

世紀に及ぶ存続期間の長い寺院として知られている。石井上宿遺跡は勝呂廃寺の西

400m ほどにあり、東西に走る幅4mの側溝を特つ道路が確認され、道は勝呂廃寺に向

かっている。この石井上宿遺跡の南には「片牧」墨書土器が出土した山田遺跡がある

(図Ⅳ-10)。

勝呂廃寺と1km 離れている宮町遺跡(大谷 1991)では、コップ形須恵器(計量器)・

「路家」の墨書土器・石製権を持つ棹秤、隣接した住吉中学校遺跡では鉄製おもりと

特徴的な遺物が多く出土しており、特に「路家」は交通路に関係する施設の存在を示

唆するものとして注目できる。コップ形須恵器(計量器)や棹秤は、この遺跡が交易・

流通が盛んであったことを物語っており、各地の物資が集積され市が開かれるような

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 188 -

集落であったと考えられる(図Ⅳ-11・図Ⅳ-52)。越辺川とはやや離れているので(約

2km)、渡河地点とはできないが、脚折遺跡・若葉台遺跡から勝呂廃寺を通過して宮町

遺跡に至り、ここから川へ下る道を想定したい。

西吉見条里遺跡

西吉見条里遺跡は、吉見丘陵・松山台地東端部の市野川が形成した、低地と自然堤

防部分に位置し、西の台地や丘陵には五領遺跡や吉見百穴が所在する(太田 2005・永

井 2002・弓 2008)。調査区内で約 25°東に軸線を向けた、最大幅 11mの直線道路が

90mにわたって確認され、道路は低地と旧河道を通過しているため、地盤改良や橋梁

建設などの工事を行っている。砂利敷の路面の下層には、広葉樹の皮を敷いた粗朶や、

浅い掘り込みに川原石や砂礫・建築廃材・雑木などを埋め込んだ地盤改良の痕跡が認

められる。また、石敷きや杭列による補強工事の痕跡も確認でき、様々な土木技術が

使われている。渡河地点では、木柱・杭列が発見され、墨書土器・刀子・櫛などが出

土しており、橋脚と祭祀の関係を想定できる。路面などから出土した土器は、第Ⅰ章

第1節の編年ではⅨ期に相当する北武蔵型坏であり、7世紀末には敷設されていたこ

とを確認できる。旧河道からは、9世紀後半の須恵器坏が出土しており(図Ⅳ-13)、

少なくともこの時期までは使用されていた可能性があり、東山道武蔵路の可能性が指

摘されている。西吉見条里の北に位置する三ノ耕地遺跡と、さらに北の御所遺跡や天

神前C遺跡でも道路側溝が確認されており、少なくともこの間約3km は直線的に走っ

ている(図Ⅳ-12)。

西吉見条里遺跡の古代道路と同様の工法は、国府に近い野川源流部の低地を通過す

る東山道武蔵路でも発見されており(上村 1999)、河床に丸太と杭で囲いをつくり、

粗朶と礫を敷いて版築を行う、礫敷版築遺構が確認されている。橋脚の基礎部分の可

能性も指摘されており、西吉見条里遺跡の工法は特殊なものではなく、官道が低地を

通過する際の土木技術であったと考えられる。

八日市遺跡

八日市遺跡は、櫛引台地の先端部と、崖線下を蛇行する福川に沿って連なる自然堤

防である微高地に立地する(中山 1995)。調査地点は、福川左岸の微高地上で、古墳

時代後期から奈良時代の集落と、平安時代にかけての溝・道路などが発見されている。

道路は2本確認され、側溝を持ち波板状硬化面のあるものと、側溝と硬化面に砂礫・

粘土で踏み固められたものがあり、2本とも硬化面上には浅間B軽石が堆積していた。

2本は約 100m離れて南北に並行に走り、幅は4m代で、西側の道路は硬化面が2層

確認されている。

6世紀前半の竪穴住居埋没後に造られており、天仁元年(1108)の浅間B軽石降下

によって廃絶されたとされている。西側道路の東には、7世紀後半から8世紀前半の

竪穴住居が8軒分布しているが、東の上遺跡のような道路と集落の関連性は窺えない。

群馬県大道西遺跡では、東山道を挟んで対称的に8世紀第3四半期の竪穴住居が検出

され、東山道を横断する硬化面が確認されている(高井 2004)。また、八日市遺跡同

様に浅間 B 軽石層が側溝上層に堆積しており、道路廃絶時期に共通性がみられる。八

日市遺跡は、東山道武蔵路の想定ルートから4㎞西に寄っているため、武蔵国府への

近道として使われた支道と指摘されている。

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 189 -

古代道路の規模については、駅路や伝路となるような規模から、集落内を通過する

ようなものまであるが、これまでみてきた各規模の遺跡には、出土遺物からもいくつ

かの共通点をみることができる。東山道武蔵路沿線周辺で、交通・道路と密接に関わ

るD類遺跡の特徴をあらためてまとめると、①道路遺構の検出 ②馬の存在 ③流通

に関わる遺物の出土、を挙げることができる。次に、これらに該当する遺跡を集成し

て、その分布の特徴を検討したい。

3 古代道路関連遺跡の分布とその特徴

①の道路遺構に関しては、官道クラスは直線的であることが確認されているが、熊

野遺跡など集落内を通過する道路は蛇行していることもある(富田 2002)。このため、

必ずしも方向性からルートの復原を求めることが可能ではないので、方向については

特定はしなかった。道路に関わるような墨書土器には宮町遺跡出土の「路家」と八幡

前・若宮遺跡の「驛長」があり、東国他地域でも、茨城県南三島遺跡・山梨県大原遺

跡・府中市国府関連遺跡などで「路」が出土しており、いずれもA類遺跡などである。

②の馬の存在については、立証できる遺物には、馬そのものの骨や歯の出土があげ

られる。馬骨の出土は低地の遺跡など出土遺跡が限定されるが、祭祀との関連などを

指摘されることが多い。また、馬の存在を間接的に裏付ける遺物には馬具があり、轡・

鐙などと円山遺跡などの烙印も含めておきたい。さらに、「馬」墨書土器が光山遺跡群

から、「片牧」が山田遺跡から出土している。他地域でも神奈川県四之宮高林寺遺跡・

静岡県居倉遺跡・山形県西谷地遺跡などで「馬」墨書土器が発見されている。

③は流通や交易を傍証できるような遺物であるが、これについては度量衡を基準に

考えてみたい。「度」ものさしについては出土例がほとんどないため、ここでは除外し

たい。「量」は枡に代表されるかさを計る道具で、これも秋田城跡(小松他 1991)や

平城京など数遺跡で検出されているにすぎない(篠原 1991)。しかし、唐招提寺境内

経蔵前井戸跡と平城京右京五条一坊十五坪から量銘が記されたコップ形須恵器が出土

しており、この種の土器は全国的に分布しているため、これを流通などで使用された

計量器と考えることができる。コップ形須恵器は土器としては小形で、出土遺跡の性

格も限定されている。官衙・寺院あるいは規模の大きな集落などで特徴的に見られ、

薬や穀物類の加工品などの計量に使用された土器ではないかと理解している。この点

については本章第4節で詳述する。「衡」は、はかりのことで、出土遺物としては棹秤

がある。総称としての棹秤のうち、天秤棒や留金具の検出例は少ないが、権の出土例

はこれまで砥石などと報告されてきたものが、ようやく棹秤のおもりとして認識され

るようになったので、これも全国的に確認されつつある。

以上のような条件によって抽出した遺跡が表Ⅳ-1であり、これらの遺跡を地図上

に落としたのが図Ⅳ-14 である。以下に、武蔵国府から上野国境までを、河川を基本

として4つのブロックに区切って、南からブロック毎の特徴と、どのような遺跡間を

結ぶルートが想定できるか考えてみたい。

・第1ブロック 武蔵国府から北の柳瀬川流域で、図Ⅳ-14 の東の上遺跡までである。

東の上遺跡は国府のほぼ真北に位置し、その間の距離は約 10km であり、東山道武蔵

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 190 -

路も国分寺を通過してここに至るとされている。東の上遺跡では、国府から続く道路

遺構の周辺に、柳瀬川流域では最も大きな集落が広がり、出土遺物からもこの地域の

拠点ともなる遺跡であると考えられる。道路遺構の存在と集落の立地や規模からも、

この遺跡が交通路の要衝に相当していたことは明瞭である。第Ⅱ章第1節でみてきた

ような、郡家政庁や正倉に相当する建物は確認されていないが、大形建物群や具注暦

などの出土からも官衙的な様相の強い遺跡である。多摩・入間郡境に位置し、非田処

との関わりも想定できる。図Ⅳ-2のとおり、ここまでは鎌倉街道上道と重複する部

分が多い。

・第2ブロック 東の上遺跡から越辺川までであるが、入間川に至るまでは平坦なロ

ーム台地が広がり、該期の遺跡はほとんど確認されていない。しかし、入間郡と高麗

郡の境である入間川両岸には、集落が連なるようにして分布し、右岸の揚櫨木遺跡と、

左岸には宮ノ越遺跡・小山ノ上遺跡・今宿遺跡など大規模集落が多い。これらの集落

からは、馬骨や馬具も出土しており、宮ノ越遺跡では入間川方向に向かう道路遺構も

調査されている。この集落の密集する地帯は、東の上遺跡を起点とすると従来の東山

道武蔵路のルートから 20°程西にズレているが、さらに北に進むと小畔川沿岸の轡が

出土した光山遺跡群と、女影廃寺・若宮遺跡に狭まれた地域に至る。女影廃寺は高麗郡

の郡寺の可能性が高く、女影廃寺を通って北上するルートは鎌倉街道上道と共通して

いる。光山遺跡群の東には、「驛長」墨書土器が出土した八幡前・若宮遺跡があり、東

山道武蔵路ルート上とされる。ここから越辺川までは、西の丘陵に沿った高麗神社を

はじめとする神社・寺院と、若葉台遺跡や脚折遺跡から勝呂廃寺までの台地上に展開

する遺跡群がみられる。

高麗神社周辺は高麗郡の中心と考えられているが、官衙的な様相を持った遺構や遺

物は検出されておらず、調査された集落遺跡も多くはない。若葉台遺跡は従来より入

間郡家の可能性を指摘され、若葉台遺跡の一角とも考えられる山田遺跡からは、「片牧」

の墨書土器や奈良三彩が出土している。さらに、勝呂廃寺の南に位置する宮町遺跡か

らは「路家」の墨書土器・棹秤・コップ形須恵器(計量器)が発見され、街道沿いの

市を想定できるような集落である。越辺川の右岸には、対岸に鳩山窯跡群を控える古

墳時代から連続する入西遺跡群があり、須恵器の流通や運搬などを考えると、この遺

跡群は立地的にも重要な位置を占めるであろう。入西遺跡群と鳩山窯跡群を重視して、

脚折遺跡から入西遺跡群を通過し鳩山窯跡群に至るルートの存在を考えておきたい。

第2ブロックでは、東の上遺跡から東山道武蔵路と離れて北西に上り、入間川を渡

河して宮ノ越遺跡に至り、さらに光山遺跡群から脚折遺跡・入西遺跡群へと続くルー

トが考えられる。さらに、水路も含めて入間川沿いに東金子窯跡群から霞ヶ関遺跡へ

向かうルートが第1に、第2に馬具の出土した伴六遺跡から大寺廃寺、高麗神社そし

て女影廃寺を抜けて光山遺跡群、小畔川・入間川沿いに霞ヶ関遺跡へのルートが想定

できる。脚折遺跡から若葉台道跡、さらに勝呂廃寺と宮町遺跡に抜ける重要な路線の

存在も考えられ、このルートは越辺川の水路利用の拠点であると共に、渡河して低地

を通り、大宮台地へと向かう陸路の要衝でもあったのであろう。

・第3ブロック 入西遺跡群から荒川までであるが、2番目のブロックに比べると丘

陵地帯に入るため平坦な道は少なくなり、遺跡密度も低くなる。関連する遺跡として

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 191 -

は、馬具の出土した岩の上遺跡と寺内廃寺が距離を置いて存在する。寺内廃寺から西

に大きく折れて荒川沿いに進むと男衾郡家推定地に至り、対岸には製鉄遺跡の台耕地

遺跡があり、この周辺を渡河地点に当てられよう。ここから5km 程上流には末野窯跡

群が存在し、東金子窯跡郡や鳩山窯跡群と類似した状況にある。鳩山窯跡群の製品の

搬出については越辺川→荒川と下り、東京湾に出てから今度はさらに多摩川を遡って、

国府・国分寺へ至るルートが陸路以上に重要なルートであったと考えられる。鳩山窯跡

群は比企郡で、入西遺跡群は入間郡に所属するが、両遺跡は郡を越えて密接な関係に

あり、鳩山窯跡群の規模からは整然とした港の施設を考えることもできる。

東山道武蔵路沿いには、荒川南岸に下田町遺跡が所在し、古墳時代の交易との関わ

りが指摘されているが(赤熊 2006)、古代においても拠点的な遺跡であり、河川交通

との関係から、本章第2節で検討したい。

・第4ブロック 荒川から上野国までの間で、特に松久丘陵から本庄台地にかけては

多くの遺跡をみることができる。那珂郡家推定他の古郡地区周辺には、大仏廃寺や東

には鎰や鈴などが出土した北坂遺跡(図Ⅱ-9)と、その谷を挟んだ南には瓦塔と建

物群が検出された甘粕山遺跡群が所在する。この丘陵地帯を過ぎて独立丘陵の間から

本庄台地に下りると、女堀条里を控えた将監塚・古井戸遺跡が広がる(図Ⅱ-7)。こ

の遺跡は「大家」「厨」などの墨書土器・馬具・コップ形須恵器(計量器)(図Ⅳ-15)・

釵(図Ⅱ-20)などが検出された大規模な遺跡で(図Ⅱ-19)、北には賀美郡家推定地

と考えられる嘉美の地名が残り、鎰や溝持ちの建物が発見された今井遺跡群も隣接し

ている。また、西2km 程には馬骨や瓦が出土し、寺院的な様相も窺える神川町皂樹原・

檜下遺跡も所在し、有力な遺跡群が展開する地域である。

皂樹原・檜下遺跡を約3km 北上すると中堀遺跡に至り、9世紀から 10 世紀にかけ

ての大規模な集落と寺院の存在、そして中国産白磁を始めとする希少な遺物が出土し

ている。また、大量の灰釉・緑釉陶器の存在は、産地である東海地方との有力な流通

経路と、豊富な財源を持った豪族の存在が考えられるであろう。中堀遺跡の西には時

期は遡るが、8世紀の寺院である五明廃寺を指呼の間に望むことができる。五明地区

は神流川を挟んで上野国と対峙し、この周辺を渡河し北上すると上野国府・国分寺へ

と至ることができる。

第4ブロックでは、荒川を利用した水路の存在が注目でき、末野窯跡群の須恵器や

瓦の運搬には専ら水路が利用されたことであろう。ここも鳩山窯跡群と同じように、

荒川水系から東京湾そして多摩川ルートが想定できる。また、那珂郡家推定他の古郡

から志戸川に沿って北東に行くと、後榛沢遺跡群と六反田遺跡、さらに台地に沿って

南下すると棒沢郡家の正倉である中宿遺跡へと続き、郡家を結ぶ路線を推定できる。

中宿遺跡は現在の福川の源流部に面しており、平坦な台地奥部ではなくこのような傾

斜面に占地したことは、小河川であってもここから妻沼低地を下る水路の存在を十分

に意識したものであろう。中宿遺跡のやや台地奥部には馬具が出土した白山遺跡が所

在し、台地縁辺に沿った陸路も考えられ、さらに台地縁辺に沿って8km 程南下すると、

幡羅評家・郡家である幡羅遺跡に至る。東山道武蔵路沿いの第3ブロック以北では遺

跡は少なくなるが、荒川以北の妻沼低地に至ると、北島遺跡・諏訪木遺跡や池上・小

敷田遺跡など自然堤防上に大規模遺跡が点在する。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 192 -

第4ブロックの東山道武蔵路の駅家に関する資料としては、長屋王邸宅跡から出土

した、霊亀三年(717)の菱子貢進木簡があり、これを「武蔵国策覃郡宅子駅」と解読

した寺崎保広は、宅子駅を読みの分析から現在の埼玉県行田市谷郷に比定している(寺

崎 1995)。これに対して木本雅康は、宅子駅は東山道武蔵路の駅家ではなく、常陸国

方面へ向かうために、東へ分岐した駅家であると指摘している(木本 2000)。行田市

谷郷は、埼玉古墳群から北西約 3.5km にある水田地帯で(図Ⅳ-14×印地点)、行田

市による分布調査では、谷郷地内では遺跡は1ヶ所も確認されていない(註3)。また、

谷郷の地名は、『新編武蔵風土記稿』では「谷之郷」とも記されており、忍藩関係の公

文書(阿部家文書)では「谷村」「谷之村」が使用されている。いずれにしろ、宅子駅

周辺には菱が生育できるような池沼が広がっており、菱田も条里内に取り込まれてい

たとされ(伊佐治 2006)、水田地帯であったと考えられる。低地内の路盤改良には、

多くの労力と資材が必要であることは、西吉見条里遺跡で紹介したとおりであるが、

西吉見条里遺跡はすぐ西側に丘陵地が迫っており、工事用資材の調達は比較的容易で

ある。また、近くの地点からは奈良・平安時代の遺構・遺物も検出されており、宅子

駅とされる谷郷周辺とはかなり様相が異なっている。現状では宅子駅を考古学的に比

定する材料はないが、谷郷の東約4km には旧盛徳寺跡や愛宕通遺跡などが、西約3km

には諏訪木遺跡・北島遺跡など規模の大きな遺跡が所在する。東山道武蔵路は西吉見

条里遺跡を北上すると、図Ⅳ-2のように荒川南岸の下田町遺跡周辺を通過し、荒川

を越えるとほぼ北には諏訪木遺跡・北島遺跡の順に南北に並んでいる。今後、谷郷周

辺でD類遺跡か、少なくとも奈良・平安時代の遺跡が発見されない限り、現状の遺跡

分布からは駅家が所在するとは考えられない。菱田の存在を確認するための土壌分析

など、視点を変えた検討も必要であろう。

4 東山道武蔵路とその周辺

これまで、道路遺構や馬の存在、流通・交易に関連する遺構・遺物が検出された遺

跡を基本に、図Ⅳ-14 の分布図を作成したが、第2ブロックと第4ブロックに遺跡が

集中し、丘陵・台地と低地の地形変換点に沿って多く分布することが判明した。これ

らの遺跡分布を追っていくと、中世の鎌倉街道上道に近いルートと中山道に沿ったル

ートがトレースでき、東山道武蔵路とは別の幹線となるルートの存在を考えることが

できる。図Ⅳ-2と図Ⅳ-14 を比較すると、東山道武蔵路とは西吉見条里遺跡周辺か

ら北西に大きく外れるルートを描くことができ、このルートが東山道本道と接続する

地点と、東山道武蔵路が接続する地点とは 30km 程の差がみられる。遺跡が希薄にな

るブロックでも、東山道武蔵路沿線には地域の中核となるような遺跡が分布しており、

官道の重要性を示している。しかし、上野国府への最短のルートは、地形変換点に沿

ったルートであり、一般の流通や通行などには、この丘陵ルートが多用されたであろ

うことは、遺跡の分布が示す通りである。

官道と一般道路とはその目的も規模も異なるが、低地をより多く通過する東山道武

蔵路は、旧状のままでは通行は困難であり、使用に耐えうる道路とするには、西吉見

条里遺跡や恋ヶ窪低地における地盤改良工事や橋梁が必要となる。特に妻沼低地は、

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 193 -

現在でも水田面と微高地の差がない水田地帯で、道路は水田面より高くしてあるのが

一般的である。荒川を越え利根川の両岸の 10km 以上がこのような低地であり、多少

の造成では馬はもちろん人の通行さえも困難を伴う。今回想定した丘陵や台地縁辺に

沿ったルートは、これと比較してかなり安定しており、掘削などの土木工事が必要な

場合もあったであろうが、険しい山地や雨期に通行が不可能になるような低地部分は

少ないといえる。

本節では、東山道武蔵路とその周辺の交通と関わる遺跡について検討してきた。そ

の結果、第2ブロックとした比企丘陵手前までは、東山道武蔵路と沿線集落などとの

関係をみることができるが、以北は東山道武蔵路とは別に、丘陵・台地に沿って西(上

野国府)を指向しながら北上するルートが確認できた。これは、官道とは性格の異な

る流通や生活に関わるメインルートであり、遺跡の時期からも長い期間使用されたと

考えられる。自然に成立したルートなのか、あるいは計画的にルート設定したかにつ

いては、古墳時代とは集落立地も異なる地域も多く、前代からの踏襲ではない可能性

が高い。台地を通過する第2ブロックまでは、東山道武蔵路と一致している点からも、

新たな流通や交易に対応して、武蔵国府と上野国府を結ぶ安全なルートとして開発さ

れたものであろう。

本節の最後に、東山道武蔵路とその周辺の分析を通じて確認できた知見と、今後の

課題などについてまとめておきたい。

① 敷設時期と廃絶時期 東山道武蔵路の敷設時期は、出土土器や竪穴住居との重複関

係から、7世紀第3四半期であることが確認できた。群馬県砂町遺跡の東山道の調査

では、側溝から7世紀後半の土師器坏などが出土しており、ここを上限とする可能性

が指摘され(坂爪 2000)、さらに木本雅康は、各地の官衙・寺院と古代道路との関係

を分析し「いずれの駅路も、7世紀後半には、すでに敷設されていた」としている(木

本 2007)。これらのことから、東山道武蔵路だけではなく、駅路は7世紀後半には整

備されたと考えることができる。この時期は、第Ⅰ章第1節で検討してきた、官衙の

整備・集落の再編成と時期的に一致し、条里の施工を含めた地域再編と総合的な開発

は、律令国家的な地方支配の一環であり、駅路建設も同一計画上で実施されたものと

理解することができる。また、国府成立以前の7世紀後半に駅路整備が開始された点

からは、国府建設位置がすでに決定されていたことや、先行した官道が建設用道路と

して利用されたことを示している。

東山道武蔵路の廃絶については、東の上遺跡と西吉見条里遺跡では9世紀後半、八

日市遺跡と群馬県内の東山道の例からは、浅間B軽石降下までの時期を想定でき、西

国分寺地区の調査では 10 世紀末が指摘されている(早川 1997)。本節の分析では、少

なくとも9世紀後半までは使用されていたことが判明した。これらのことから、宝亀

二年以降は、12m幅の駅路としては使用されなくなったが、西国分寺地区の4期の変

遷のように、道幅を狭めながらも使用され続けていたことが確認できる。東山道武蔵

路は、7世紀第3四半期に敷設され、駅路としての使命終了以後も、長期間地域の幹

線道路と位置付けられ、沿線集落も常にこの道路を意識し続けたと考えられる。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 194 -

② 官道の幅 東の上遺跡で 12m、西吉見条里遺跡では 11mの幅が計測され、駅路の

側溝心々はおよそ 12m(4丈)に統一されていたとの指摘(吉本 1999)と符合する。

また、伝路に比定されるものは6m程度のものが多いとされるが(木本 2000)、向谷

遺跡(中平 1993)では側溝を持たず3~4m幅で、宮ノ越遺跡では側溝を含めて4m

といった規模の道路も存在する。百済木遺跡でも4m幅の道路が確認されており、4

mを基準とする単位が存在した可能性も考えられる。本節での集成では、伝路に相当

するような規模の道路は発見されなかったが、木本雅康が遺跡分布から武蔵国賀美郡

周辺の伝路を想定しているように(木本 2000)、遺跡密度や調査頻度の高い地域では

伝路復原の可能性はある。

③ 条里地割との関係 駅路と条里の方位が一致する例や余剰帯の存在から、駅路が条

里地割の基本線になったとする分析がある(木本 2000)。西吉見条里遺跡内を通過す

る東山道武蔵路については、条里の痕跡が希薄で方位の測定は不可能であったが、現

況水田から推定される方位とは一致していない(太田 2005)。しかし、官衙・条里・

駅路は一体的に計画されたものであり、それぞれが異なる基準で施工されていたとは

考えられない。東山道武蔵路の推定ルートからは、第4ブロックで中条条里内を通過

する可能性が高く、「宅子駅」の問題も含め、今後の低地内の意識的な調査に期待した

い。

(註1)武蔵国府・武蔵国分寺周辺については、『道路遺構等確認調査報告』(東京都

教育委員会 2000)、『東山道武蔵路発掘調査概報Ⅰ』(国分寺市遺跡調査会 2008)など

に詳しい。

(註2)非田処に関しては、第Ⅱ章第1節と第Ⅲ章第1節の註4でも述べたように、

都県境の東京都野塩西原遺跡で7×3間三面庇建物や緑釉陶器が発見され、下宿内山

遺跡の報告書で非田処関連遺跡ではないかと指摘されている(石川他 1986)。非田処

はその設置目的から東山道武蔵路沿線であった可能性が高く、天長十年(833)の段階

では幹線道路として使用されていたと考えられる。

(註3)谷郷出土と伝えられる縄文時代後期の土器があるが、採集地点は不明である。

また、谷郷南端の忍川に架かる吹上橋の橋梁工事で、土師器片が出土しているようで

あるが、細片であり帰属位置などは明確ではない。谷郷地内にも自然堤防を確認でき

る地点があり、これまで遺物が採集できた記録はないが、未発見の遺跡が所在する可

能性はある。

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 195 -

土塁下の溝

図Ⅳ-1 女堀平面図と土塁断面図

土塁

女堀

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 196 -

図Ⅳ-2 東山道武蔵路推定路線と鎌倉街道上道ルート概念図

武蔵国府

西吉見条里

東の上

八幡前・若宮

鎌倉街道上道

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 197 -

★須恵器出土地点

▲43 号竪穴住居

■50 号竪穴住居

●7世紀末

~8世紀初頭

の竪穴住居

図Ⅳ-3 東の上遺跡古代道路周辺遺構分布図

図Ⅳ-4 側溝出土須恵器 図Ⅳ-5 43 号(左)・50 号竪穴住居出土土器

図Ⅳ-6 道路硬化面出土土器

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 198 -

図Ⅳ-7 東の上遺跡出土戯画復原図

図Ⅳ-8 小山ノ上遺跡(上)と今宿遺跡出土墨書土器

写真Ⅳ-1 光山遺跡群出土馬具

図Ⅳ-9 八幡前・若宮遺跡出土土器

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 199 -

図Ⅳ-10 石井上宿遺跡古代道路(上)

と山田遺跡出土墨書土器

図Ⅳ-11 宮町遺跡出土遺物

図Ⅳ-15 将監塚・古井戸遺跡出土遺物

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 200 -

図Ⅳ-12 西吉見条里遺跡の古代道路

図Ⅳ-13 西吉見条里遺跡古代道路出土土器 左2点は路面・右2点は旧河道出土

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第1節 東山道武蔵路と古代集落

- 201 -

図Ⅳ-14 古代道路関連遺跡分布図

▼ ■1

◆2 ★6

◆4 ■3

◆5 ★

◆7

◆8 ★9 ★

10 ★11 ▼

■12

● ★14 ■13

■15

◆16 ▼ ◆19

◆20 ◆22 ■25

◆17

◆21

■23・24

★26

●27

◆28

◆27 ◆34 ■42

◆31

▼32

33

■ 30◆

35◆

■40

■46

●45

■36

◆39

■44

◆43

■38

37▼

★武蔵国府

■ 道路が発見された遺跡

★ 国府・郡家(推定地含む)

▼ 寺院

▲ 神社

● 窯跡群

◆ 道路関連集落他

第1ブロック

第2ブロック

第3ブロック

第4ブロック

荒 川

★41

◆47

■ ▼

◆48

比 企 丘 陵

妻 沼 低 地

◆49

×谷郷 ◆

櫛 引 台 地

利 根 川

入間川

中山道

中山道

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表Ⅳ-1 東山道武蔵路沿線関連遺跡

No. 遺跡名 種類 時期 遺構・遺物1 中堀遺跡 G類 Ⅴ 道路・馬骨・権・「南家」2 皂樹原・檜下遺跡 A類 Ⅲ 馬骨・馬歯3 塔頭遺跡 Ⅳ類・D類 Ⅴ 道路4 将監塚・古井戸遺跡 A類 Ⅲ 馬具・「大家」・計量器・厩か5 北坂遺跡 A類 Ⅴ 「中」烙印・鈴・クルリ鍵6 賀美郡家推定地 ― ―7 六反田遺跡 Ⅳ類 Ⅲ 馬歯8 白山遺跡 Ⅱ類 Ⅲ 馬具9 中宿遺跡 榛沢郡家 Ⅱ ―10 熊野遺跡 評家?   道路11 幡羅遺跡 幡羅評家・郡家 Ⅰ 道路12 八日市遺跡 D類 Ⅱ 道路・鉈尾13 百済木遺跡 A類 Ⅳ 道路・鈴14 男衾郡家推定地 ― ―15 北島遺跡 A類 Ⅰ 道路・馬骨・計量器16 諏訪木遺跡 A類 Ⅴ 馬骨・馬形、壺鐙(古墳時代か)17 円山遺跡 Ⅳ類 Ⅴ 「有」烙印18 末野窯跡群 ― ―19 愛宕通遺跡 Ⅳ類 Ⅲ 権20 築道下遺跡 A類・B類 Ⅰ 計量器・長舎21 岩の上遺跡 Ⅳ類 Ⅴ 馬具22 大沼遺跡 Ⅳ類 Ⅲ 権・兵庫鎖・計量器23 西吉見条里遺跡 D類 道路24 三ノ耕地遺跡 D類 道路25 下田町遺跡 A・E類 Ⅰ 道路・黒漆塗壺鐙・馬具26 比企郡家推定地 ― ―27 鳩山窯跡群 窯跡 ―28 伴六遺跡 Ⅱ類 Ⅴ 馬具29 入西遺跡群 Ⅰ・Ⅲ類 Ⅰ 計量器30 山田遺跡 Ⅱ類 Ⅲ 「片牧」・奈良三彩31 精進場遺跡 Ⅴ 権32 勝呂廃寺 寺院 Ⅲ 馬骨・馬歯33 石井上宿遺跡 D類 道路34 宮町遺跡 F類 Ⅲ 「路家」・計量器・棹秤35 若葉台遺跡 Ⅰ類 Ⅲ 馬具・計量器36 新山遺跡 D類 Ⅴ 道路37 女影廃寺 寺院 Ⅲ 馬歯38 向谷遺跡 D類 Ⅴ 道路39 光山遺跡群 Ⅰ類 Ⅱ 「馬」・馬具・計量器・鍵40 八幡前・若宮遺跡 D類? Ⅳ 「驛長」・計量器41 入間郡家推定地 ― ―42 古海道東遺跡 D類 Ⅲ 道路「入厨」43 小山ノ上遺跡 Ⅰ類 Ⅲ 馬具・柵列44 宮ノ越遺跡 Ⅱ類 Ⅲ 道路・馬具・鈴・馬骨・馬歯・計量器45 東金子窯跡群 窯跡 ―46 東の上遺跡 D類 Ⅰ 道路・馬戯画・馬具・馬骨・焼印47 如意遺跡 Ⅱ類 Ⅰ 馬具48 芳沼入遺跡 Ⅳ類 Ⅲ 計量器49 飯塚北遺跡 Ⅲ類 Ⅲ 計量器参考 川越田遺跡 集落 道路(古墳時代後期)参考 横間栗遺跡 集落 道路(古墳時代か)Ⅰ期:古墳時代~平安時代

Ⅴ期:平安時代Ⅳ期:奈良時代Ⅱ期:古墳時代~奈良時代  Ⅲ期:奈良時代~平安時代

-202-

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第2節 古代社会と河川交通

- 203 -

第2節 古代社会と河川交通

前節では、東山道武蔵路を中心とした陸上交通について検討してきたが、第2節では陸

上交通と両輪となる水上交通のうち、内陸部における河川交通について(註1)、遺構・遺

物から分析したい。第Ⅱ章第1節でE類とした遺跡は、水路となる河川の存在と接岸可能

な施設が設置され、「川津」「舟」墨書土器などの水上交通と関わる遺物が検出されている。

このような遺跡を港湾遺跡として認識し、遺構の構造や出土遺物の特徴などについて検討

を進めていきたい。

港湾遺跡や埠頭遺構については、これまで船着場遺構・桟橋状遺構あるいは単に港・津

などと呼ばれ、遺跡と遺構の区別もされていないことが多かった。そこで、本節でははじ

めに用語を定義して共通認識を図り、港湾遺跡の事例検討と構造の類型化及び出土遺物の

分析などを経て、埠頭遺構を設置する遺跡の性格を明らかにしたい。

1 港湾遺跡の定義

(1)水上交通研究略史と港湾遺跡

港や津に相当する施設は、縄文時代や弥生時代・古墳時代にも存在した。縄文時代では、

内陸部で多くの丸木舟が発見されており、主に漁労のための道具として認識される場合が

多いが、他地域からの土器や石材の搬入を、水上交通を利用した遠距離交易とする視点か

らも研究が行われている。弥生時代になると、長崎県原の辻遺跡では、中世以降の港湾施

設と比較しても、遜色のない規模・構造の遺跡が発見されており、当時の最先端技術によ

って構築されている港湾遺跡である。しかし、一支国に関わる非日常的な、特殊な空間で

あり(安楽 2008・川畑他 2008)、一般的な港湾施設であったとは考えられない。土器に描

かれた船の線刻絵画や船形埴輪などから、大形船の存在は想定されていたが、原ノ辻遺跡

の港湾の発見によって、弥生時代中期には大形船が停泊可能な港が存在したことを確認で

きた。

古墳時代の水上交通に関連する研究では、難波津の調査が進められているが(大阪府立

弥生文化博物館 2008)、具体的な遺跡・遺構としては発見されていない。東京都武蔵伊興

遺跡は、古式須恵器の分布の検討から、河川交通の要衝と指摘されていたが(高橋 1987)、

船材や舟形の出土などによって、その可能性が高くなった遺跡である(石井 1999)。また、

埼玉古墳群の将軍山古墳石室石材は、房総半島で産出することから、東京湾岸から内陸部

までの水上輸送ルートの復原なども試みられ、埼玉県築道下遺跡が港湾遺跡と想定されて

いる(井上 2007・2011)。しかし、具体的な遺構の特定には至っていないため、港湾遺跡

に関しては、古墳時代からの系譜などについて明らかになっていない。

港湾遺跡や埠頭遺構については、これまで「水陸交通の接点」などの表現で多くの論考

で理論上の指摘をされてきたが、古墳時代同様に具体的な遺跡・遺構の分析は多くない。

文献史学の研究で港湾遺跡を扱ったものとしては、松原弘宣が水上交通の総合的な研究の

中で、伊場遺跡を栗原駅に付属する船津ではないかと指摘し(松原 1985 他)、同じく伊場

遺跡について、鬼頭清明は大溝を物資輸送に利用した敷智郡家・栗原駅と関連する遺跡と

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 204 -

した(鬼頭 1995)。国府・郡家は、水陸交通の接点に多いとする佐々木虔一の分析や(佐々

木 1995他)、「津司」「津長」の出土文字資料などから、河川交通を追求した平川南の研究

などがある(平川 2002・2008)。このような多くの古代史研究の中で、じょうべのま遺跡

の建物配置から、津を取り込んだ庄家の構造を検討した中村太一の研究は、具体的な遺跡

名と遺構を対象にした点で特筆できるものである(中村 1994・1996)。また、歴史地理学

的に港湾遺跡を分析した千田稔の一連の研究(千田 1970・1974・1979)、古代交通体系の

中で水上交通や港湾遺跡を扱った加藤友康(1985)・舘野和己(舘野 1998)・森田悌(森

田 2000)や、海上交通を中心とした杉山宏(杉山 1978)などの研究もある。

考古学的に港湾遺跡を扱ったものとして、陸奥国南部の郡家立地の検討から、官衙の設

置は水上交通を意識し、国府・郡家では河川や運河を利用した輸送が行われたとした荒木

隆や(荒木 2000)、富山県中保B遺跡を中心にした分析から、船着場の指標を求めた根津

明義(根津 2005)と、内水面交通は操舵が容易で、港の設備も比較的軽易であるとした坂

井秀弥の分析(坂井 1996)、陸上交通と水上交通の結節点に津や渡が成立するとした葛野

泰樹(葛野 1999)などの成果がある。また、発掘調査報告書でも、『大友西遺跡Ⅲ』(出越

他 2003)や『井通遺跡』(丸杉他 2007)などでは、積極的に港湾遺跡の分析が行われるよ

うになった。

港湾遺跡の考古学的な分析は、伊場遺跡(斉藤 1977)をめぐる研究以後、一時停滞して

いたが、1990 年以降、「津」関連の出土文字資料や河川沿岸遺跡の調査例から、認識が進

むようになった。しかし、文字資料に注目が偏在することで、遺跡や遺構と乖離する場合

もあり、また、流路の変遷・流失などで遺跡としての残存率が低いことから、共通認識に

至ったとはいえない状況である。そこで、次に港湾遺跡・埠頭遺構の定義を行い、併せて

認定基準についても設定し、用語の統一と共通認識を図りたい。

(2)港湾遺跡と埠頭遺構の定義

古代の港である津に関しては、「職員令」民部省条に橋道・津済などの掌握、「営繕令」

津橋道路条には交通網の修理に関する規定、「雑令」要路津済条では渡船に関することが記

載されている。民部省が掌握するのは地図上のことで、実際の維持管理は国司・郡司であ

った。『令義解』では要路の津には船が置かれて交通の便を図ることが記され、承和二年

(835)六月の太政官符では、渡河地点に船を置く例をみることができる。津済の区別に

ついては、津は水上交通の拠点として船が停泊する所で、済は陸上交通上の渡河地点とし

て理解しておきたい。また、これまで津に関わる遺構の名称として、前述のように船着場

遺構・桟橋状遺構・接岸施設などが使用されてきたが、港湾工学の用語に沿って(久宝 1985)、

港湾関連の施設を以下のように整理した(註2)。

水陸交通の連結部を意味する港を運営するには、多種多様な施設が必要であり、防波

堤・水門などの外郭施設をはじめ、繋留施設、接岸施設や場合によっては修船施設や航路

標識も必要になる。船舶を横付けにして荷役・乗降する水際の施設は、一般的に埠頭と呼

ばれる。桟橋などは接岸施設に区分されるが、地質が軟弱であったり水深が不十分な場合

には埠頭として桟橋を用いる場合もある。埠頭には陸地を切り込んだ泊渠と、陸地から突

き出した突堤埠頭などがあり、船を岸に繋ぐけい船柱も埠頭エプロンに設けられている。

ここでは、これらを基本にして「港湾遺跡とは、港の管理・運営に関わる建物や埠頭など

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第2節 古代社会と河川交通

- 205 -

の陸上施設と、船舶が停泊する水域を含めた地域を指し、埠頭遺構とは、船を接岸し荷の

積み降しや乗降するために設置・加工された構造物」と定義しておく。港湾遺跡の概念を

津に相当させ、水上交通と陸上交通の最初の接点であり、津のメルクマールともいえる施

設を埠頭遺構と考えておきたい。また、船を岸に繋ぐための柱を「けい船柱」、船舶が停泊

する水域を「泊地」、船と陸地を連絡する橋を「桟橋」、発着する物資を仕分けしたり短期

間保管する壁のない開放形施設を「上屋」と呼び、「倉庫」とは「上屋」の背面あるいは近

くに設置されることが多い長期保管施設としておく。

現在の港がそうである様に、水上交通はそれのみで交通システムとして完結するもので

はない。船が発着する地点は陸上交通との連結部であり、陸路によって港に運ばれた物資

は、船を経由して再び陸路によって供給地へ運ばれるもので、水路と道路は本来1本に繋

がっているルートなのである。この原則から考えれば、埠頭遺構は道路状遺構と接続して

いることが大きな要素となるが、埠頭遺構は低地に造られているため、これに接続する道

路遺構の確認は困難な場面が多い。

以上の港湾遺跡の定義は、認定とも通じるものであり、①埠頭遺構が存在する ②船が

航行・停泊する水域が存在する ③管理・物資保管などの施設が存在する の3点を認定

の基本項目とし、これに港湾遺跡の属性と関わる遺物が出土することを補強の材料とする。

埠頭遺構の構造と、出土遺物については後述する。

2 港湾遺跡の構造

都城や官衙と関連する港湾遺跡として、平城京東市では、物資輸送に堀川が利用された

とされており(篠原 1997)、武蔵国府の国司館に比定される区画北の大溝を、運河と想定

している(荒井 2008)例などがある。郡家では、陸奥国行方郡家比定地の泉廃寺で確認さ

れた大溝と建物群を、造営用木材運搬などの津であるとの指摘(藤木 2006)、あるいは牡

鹿柵・牡鹿郡家とされる赤井遺跡の溝は、官衙内に引き込まれた物資輸送の運河と想定さ

れる(佐藤他 2001)、などの例をあげることができる。郡津との関わりについて俎上に上

がった遺跡では、伊場遺跡をはじめ、物部川を正面にした建物構成などの検討から、高知

県下ノ坪遺跡が郡津の可能性があるとされ(森 1999)、築道下遺跡は、周辺遺跡の検討や

『万葉集』の埼玉の津との関わりなどから、埼玉郡津あるいは元荒川水運を管轄する官衙

施設と分析した(井上 2011)。

これまで、具体的に港湾遺跡と指摘された遺跡は、上述した官衙と以下に検討する遺跡

以外では、山形県古志田東遺跡(手塚 2001)・福島県荒田目条里遺跡(吉田他 2001)・石

川県加茂遺跡(石川県教育委員会 2002)・石川県上荒屋遺跡(出越 1993)・石川県戸水C

遺跡(鈴木他 2000)・富山県中保B遺跡(根津 2002)・富山県じょうべのま遺跡(中村

1996)・千葉県丹過遺跡(今泉 2006)・静岡県箱根田遺跡(佐々木他 2003)などがあり、

日本海沿岸地域に多くみることができる。また、福島県矢玉遺跡(荻生田 1999)や、第Ⅱ

章第1節で紹介した埼玉県根切遺跡など、内陸奥部でも確認されている。この他にも立地

や地名などからの検討が行われたり、陸上交通との関わりで触れられた遺跡は多い。しか

し、認識されないまま見過ごされてきた遺跡も少なくなく、以下にこれまで河川交通との

関連を指摘されてこなかった遺跡や、新資料を中心にあらためて港湾遺跡としての可能性

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 206 -

を検討し、埠頭遺構の類型化を図っていきたい。

(1)港湾遺跡の事例

・山形県道伝遺跡(藤田 1984)

山形県南部の平野中央の沖積底位河岸段丘上に位置し、東には米沢盆地が広がり、遺跡

東側には犬川が流れている。犬川は黒川に注ぎ、さらに最上川と合流する。8 世紀末~10

世紀末までの掘立柱建物や大溝・井戸などが発見され、墨書土器を含む土器類の他に木簡・

絵馬・斎串・漆器・二面硯・木錘・定規・櫂などが出土している。報告の段階で、既に最

上川を利用した河川交通について指摘されており、居宅内に取り込まれた港湾施設を想定

できる遺跡である。なお、道伝遺跡は報告書では置賜郡家の可能性を指摘しているが、現

在では米沢市大浦遺跡なども比定地となっている。

建物群を囲むように3方向を溝が巡っており、大溝 SD1(同一遺構に複数の番号があ

るため最も若い番号に代表させた)が南西より北流して途中「く」字状に北西へ流れを変

えている。この大溝から分水して SD22 が北へ流れ、この溝の間に中枢建物群が展開して

いる。大溝は幅 6~12m、深さ1~1.4m程で、人工的に河岸が埋め込まれた補修痕跡が確

認され、大溝中央に長さ5mの丸太材を2本の杭で押えた土留状の施設も検出されている。

また、SD22 は分水部周辺は細く浅い溝であるが、建物群の西では幅 11m、深さ 1.2mの

平面形に凹凸を持つ池状になっており、杭列によって意図的に水を溜めたとされている。

大溝も分水された溝も、流れをコントロールするための人工的な施設が設けられ、遺物の

多くがこれらの溝から出土しており、明らかに建物群と一体となったものである。SD1 に

は屈曲部や若干の凹凸部も見られ、埠頭が設けられた可能性が大きいが、ここでは SD22

の池状部分に注目したい。溝に池状の肥大部を設ける例には、埼玉県下田町遺跡や片岸に

コブ状突出部を持つ山形県古志田東遺跡などがあり、ここが船を停泊させる泊地ではない

かと想定したい。ただし、SD1から池状部分までは引水のための溝であり、船の航行は池

状部分を基点とした下流であった。主屋と考えられる7×3間有庇の SB1をはじめとし

た建物群も、SD1ではなく池状部分とその下流側を意識した主軸方向であることも、SD22

の規制が働いていたことを窺わせる(図Ⅳ-16)。また、出土遺物からは、SD22 出土の斎

串・絵馬は、物資輸送の安全に関わる祭祀の一環として考えられ、櫂の出土は船の存在を

裏付けるものである。

道伝遺跡を敢えて低地帯に造営した理由は、河川を利用した水運の必要性に他ならない

と考えたい。官衙的な建物配置はみられず、犬川あるいは黒川の水運を掌握した豪族層の

居宅施設の可能性が高く、居宅内に水路を引き込み埠頭を設置し、この地域の支配拠点と

したものであろう。

・福島県大猿田遺跡(安田他 1998)

太平洋に注ぐ仁井田川の支流、中島川の谷底平野に立地し、磐城郡家と考えられている

根岸遺跡の北 10km 程に位置する。東側の丘陵部では、竪穴住居 11 軒・掘立柱建物1棟・

須恵器窯2基・木炭窯3基・粘土採掘坑 16 基が発見されており、中島川が開析した沖積

地では、竪穴住居 23 軒・掘立柱建物 12 棟・溝 68 条などが調査されている。「玉造」「厨」

刻書・「白田郷」木簡・二彩・円面硯・丸鞆などが出土している。沖積地部分では、北から

南に流れる中島川旧河道 SD16 の西側に、溝でキ字状に A~F の6つに区画されたブロッ

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第2節 古代社会と河川交通

- 207 -

クが発見されており、各ブロックは固有の機能を有し官営生産組織とされている。B 区は

職人の工房・住居、C 区は班田農民の居住区、E 区は木製品加工作業場、F 区は官人や生

産管理者の居住区などに比定され、時期により8世紀中頃は木器の生産、8世紀後半は須

恵器生産、9世紀前葉からは鉄生産などの変遷が考えられている。

大猿田遺跡は、これまで知られてきた港湾関連の遺跡とは趣がだいぶ異なり、掘立柱建

物群で構成される官衙的・居宅的建物配置などは見られない。木器や鉄・須恵器生産を生

業とする生産現場とその居住地であり、竪穴住居を中心とする遺跡景観は大きな特徴であ

る。これまで船による輸送の主体は、律令財政の基本である米を想定する場合が多かった

が、大猿田遺跡は木器などの生産現場であると同時に、SD16 を利用してこれらの製品を

搬出するための埠頭が併設された、輸送拠点でもあったと考えたい。

具体的な遺構としては、SD16と接続する階段状遺構である SX09や SD82などである。

A 区画にある SX09 は西岸に造られた階段で、集落のある右岸側平坦面から4段 68cm、

流路に降りる階段が発見されている。生活用水や漁にも使われたであろうが、SD16 が小

さく湾入する部分であり、簡単な接岸施設が設けられていたのではないだろうか。B 区画

の SD82 と SD46・SX08 は隣接しており、これらの南側で SD16 と合流する SD21 は材木

の搬出ルートにも考えられている。SD82 は長さ 5.3m、幅約3m、深さ 1mの SD16 に直

行する溝で、溝底は SD16 側に傾斜している。SD 46 は SD82 の南 5mほどに位置し、長

さ 9.8m、幅 84cm~192cm、最大深度 158cm で鋭角に SD16 に合流している。SD82 と

SD46 の間の SD16 西岸には掘り込みは無いが、一括投棄された土器類が出土しており、

祭祀とされている。これらの遺構のうち、SD82 と SD46 は船を引き入れるための施設で

はないかと想定したい。特に SD46 には7穴のピットが伴っており、報告では橋桁の可能

性を考えているが、けい船柱と考えることも出来る。また、SX08 は荷の積み降ろしをす

るための空間で、何らかの施設が存在した可能性もある。土器の廃棄は、航行の安全のた

めの祭祀を行った痕跡と考えたい。下流側には材木を搬出したであろう SD21 の合流点が

あり、位置的にも SD46 の水流が形成した湾入部に、自然地形などを加工した埠頭施設を

設置したと考えておきたい(図Ⅳ-17)。

・新潟県蔵ノ坪遺跡(飯坂他 2002)

越後平野北東部の櫛形山脈西縁の扇状地に立地し、北側には舟戸川が南西方向へ流れて

いる。越後国沼垂郡北部に位置し、内水面に繋がる古代越後国の各地を結ぶネットワーク

の1つとされる。河川跡が2本発見され、両岸から8世紀前葉~9世紀後葉の掘立柱建物

16 棟・土坑 36 基・溝 139 条・道路3本・杭列3条などが検出されている。出土遺物には、

多くの土器類の他に建築部材や曲物などの木製品と、習書木簡・荷札木簡および墨書土器

「津」「寺」「王」などの文字資料がある。

河川跡 SD264 の西岸には、「津」が出土した9世紀後半代の掘立柱建物 SB8が3棟重

複してあり、その川側には SB2が、対岸には SB10 などが並んでいる(図Ⅳ-18)。この

部分の川内部には、杭列 SA5が両岸に穿たれており、船着場あるいは護岸の可能性があ

る。また、SB8は川の津の管理施設と報告され、SB8と SB2の間を走る道路と、SB2

と重複しながら河川に向かう、側溝を持つ道路が発見されている。

蔵ノ坪遺跡は報告書でも指摘しているが、港湾遺跡の例としてこれまでにも取上げられ

ており、「津」墨書土器とともに遺構・遺物が整合する遺跡として知られている。しかし、

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 208 -

これだけ条件が揃っていながら、泊地となる水域の確保や埠頭の設置が明確ではなく、祭

祀遺物が出土していないなど、港湾の中心からやや離れているような印象を受ける。舟戸

川水系の下流域には、蔵ノ坪遺跡の河川跡と同一と思われる河川跡が発見されている、舟

戸桜田遺跡や舟戸川崎遺跡があり、斎串・舟形・人面墨書土器・「土師船守」墨書土器など

が出土している。同一河川沿岸に荷の積み降ろし・物資集積・河川や船舶の管理などの施

設が展開し、中保 B 遺跡で発見されたような道路で接続された、機能分散型の港湾遺跡の

可能性もある。政治的・自然地形による制約などの理由があろうが、施設内に集約される

ような港湾とは異なる在り方も考慮する必要があるだろう。蔵ノ坪遺跡の場合は、消去法

では物資の集積や管理施設と考えられる。

・新潟県門新遺跡(田中 1995)

長岡市(旧和島村)の島崎川低地内の微高地に立地しており、南には古志郡家の可能性

が考えられる八幡林遺跡が所在し、さらに島崎川流域には製鉄遺跡や須恵器窯が多く分布

している。八幡林遺跡は8世紀前半から 10 世紀初頭にかけて機能した遺跡であり、9世

紀中頃を境に衰退を始めるが、門新遺跡はこの遺跡の廃絶直後に出現し、10 世紀後半まで

継続する。位置的・時期の継続性さらに門新遺跡の官衙的な建物配置から、郡家の解体と

共に郡が持つ機能の一部を掌握した、富豪層・首長層の新しい地域支配の拠点と指摘され

ている。最盛期の 10 世紀第2四半期には、蛇行する河川に3方を囲まれた範囲に、7棟

の建物と川岸に船着場と考えられる遺構が発見されている(図Ⅳ-19)。

建物群の東を流れる河川の左岸側つまり建物群側に、14m×3mで深さ約 50cm の長方

形のテラス状遺構が河道に面して構築されており、荷の積み降ろしに関わる施設と報告さ

れている。この遺構の西に接するように3×3間の総柱建物があり、船着場と関わる倉庫

と考えられている。この時期の主屋となる建物は、7×2間で桁行側東西と南の梁側に2

間分の庇が付けられ、南側を除く3面に雨落溝が伴っている。また、上屋を持つ井戸や柵

なども確認されており、漆紙文書を含む多くの遺物が出土している。漆紙文書には延長六

年(928)の年号が確認されている。

・栃木県森後遺跡(図Ⅳ-20)

西の塩谷山地から続く、喜連川丘陵内を流れる江川左岸低位段丘面に立地し、遺跡南は

低地が広がる。下野国那須郡に属すと考えられ、南西約 4.5km には芳賀郡家出先機関、あ

るいは東山道駅路の新田駅家とされる長者ヶ平遺跡が所在する。5地区に分けられた広大

な遺跡で、柵の区画施設内の掘立柱建物群・竪穴住居群の地区や、桁行 10 間に及ぶ長舎

が並ぶ地区があり、「驛」「路」墨書土器の出土などからも森後遺跡を駅家に関わる駅戸の

集落と想定している(吉田他 2010)。時期は8世紀から 10 世紀初頭に及び、遺跡全体で

は総柱建物が少ない・政庁に相当する建物群がない・掘立柱建物と竪穴住居が混在する・

一部の大形建物を除くと掘立柱建物の柱穴は小規模である、などの非官衙的要素もみられ

る。

この遺跡の中で、西方地区南東と称される地点で幅 7.6m~21m の運河とされる人工的

大溝と、この北面に配置される建物群がある。運河の北岸には礫を敷いた長さ5m ほどの

平坦面が造られ、さらに北側には蔀状の柵がある。掘立柱建物群は、基本形として桁行5

~6間の3棟が運河に直行して並び、中央棟梁行南に3×2間の建物が運河と並行してい

る。出土遺物は少なく、木簡状の木製品と須恵器坏などである。運河は江川と接続し、9

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第2節 古代社会と河川交通

- 209 -

世紀後葉に掘削されたとしている。また、大形建物群は集荷施設であり、屋であると指摘

している。

・埼玉県下田町遺跡(赤熊 2004 他)

荒川右岸、和田吉野川左岸の自然堤防上に位置し、両河川が合流する地点にあたり、津

田という地名に所在することから、河川交通に関わると考えられている遺跡である。これ

までに広大な面積が調査され、多くの遺構・遺物が発見されている。SD80 は幅 6m、深さ

90cm 以上の東流する大溝で、7世紀初頭頃に自然流路に手を加えて長期間使用されてい

たようである。旧荒川と接続し、物資・人の運搬に使われた運河とされ、ハマグリ・マガ

キ・イルカなどの海の魚介類や獣骨・魚骨などが出土している。このことから赤熊は、海

水を入れた容器に海産物を入れ、河川で内陸まで運びその残骸を儀礼・祭礼に伴って土器

とともに大溝へ廃棄したと指摘している(赤熊 2006)。また、SD80 以外にも、SD762 は

全長 37m、幅 2.8~3.4m、深さ 46~55cm で、平面系は短冊状、断面形は溝底が平坦な箱

型を呈する直線的な溝が発見されており、SD80 とほぼ同時期の船着場遺構であろうと報

告されている。

SD80 の南岸に、並行して7×2間と6×2間の SB9・10 及び 12 が L 字形に並んでお

り、新旧関係は不明だが SB9 と 10 は重複している。大溝と並行する SB9と 10 の柱穴は

該して浅く、直行する SB12 はやや深く穿たれている。建物群の東 30mほど上流には、15

×10m、深さ1mの不整形の池状肥大部があり、集落内の排水路や分岐する溝が集まる地

点となり、南岸は緩やかに立ち上がっている。この一帯が運河である SD80 の中心部であ

り、SB9・10 は SD80 に横付けした船からの物資一時集積施設、つまり「上屋」であり、

SB12 は若干造りが強固なことから異なる用途、仕分けや管理施設と想定しておきたい(図

Ⅳ-21)。また、池状肥大部は SB9・10 で荷の積み降ろしをした船の溜まりであり、方向

転換のスペースではなかろうか。なお、SD762 に関しては、石製模造品やミニチュア土器

が出土していることから、廃棄・祭祀は行なわれているが、周辺に関連する建物が存在せ

ず、埠頭として成立するか検討の余地がある。また、船を引き入れた施設としては、平坦

な底面である点に疑問が生じる。

このように下田町遺跡では、運河と考えられる溝が確認され、7世紀代に設置された港

湾遺跡であり、以後港湾と運河を背景に、この地域の支配に強く関わっていったのではな

かろうか。海産物を輸送してきた船に、何を載せて川を下ったのかなど、7世紀の当地域

の生産・特産とも関わる課題である。さらに、本章第1節で述べたように、下田町遺跡周

辺を東山道武蔵路が通過しており、この遺跡の存在が敷設地点にも影響を与えた可能性な

どが考えられる。

・静岡県井通遺跡

浜名湖の北東岸で、都田川水系井伊谷川東岸の両河川合流点付近に立地する。遠江国引

佐郡の4郷を往来可能な水上交通の結節点で、都田川水系により浜名湖を中心とした流通

圏の港湾遺跡と報告されている。また、考察では 15 の遺跡を紹介し、河川本流ではなく

支流や運河に多い・水路を基準に建物が配置される・出土遺物は農業生産とは分離できる

様相を示す、などの特徴を挙げており、総合的に港湾遺跡と判断することで、水辺の集落

とは区分できるとしている(丸杉他 2007)。

幅 7.1m、深さ 60cm の大溝が 135mにわたって調査されており、「川戸」「大郷」「引佐」

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 210 -

など多くの墨書土器や硯・権・コップ形須恵器(計量器)と人面墨書土器などの祭祀遺物

が出土している。大溝が機能していた8世紀代には、東岸つまり左岸に総柱を含む掘立柱

建物 29 棟・柵3条と溝などが発見されている。大溝には、人工的な施設である左岸の落

込部と右岸の突堤部が伴っており、長さ 1.3m幅 1.5m突き出る突堤部にはテラスが設けら

れ、階段状になっている。また、落込部は、大溝との接点である南北の幅 7.5m、東に 5.2

m入江状に張り出しており、3基の柱穴も伴い、大溝を航行する船の繋留施設か桟橋の一

部ではないかと報告されている。落込部と突堤部は向い合っており、突堤部で川幅・水量

の調整を行い、落込部と合わせて泊地・埠頭を構成しているのではなかろうか(図Ⅳ-22)。

静岡県では、三島市の箱根田遺跡も緩く蛇行する水路と建物群、そして祭祀具が出土す

るように、井通遺跡と類似した河川を中心にした景観を示しており、地域性だけではなく

官衙的港湾遺跡の特徴の1つとも考えられる。

・兵庫県市辺遺跡他(小川他 2005)

丹波・播磨を貫流する加古川上流部の左岸に位置し、17 郷を擁する大郡丹波国氷上郡の

郡家と想定されている。なお、同郡内には七日市遺跡(井守他 1991)・山垣遺跡(加古 1990)

が所在し、郡東部の別院あるいは支所的な性格が指摘されており、3遺跡とも河川の存在

を重要なファクターとしている。市辺遺跡からは山陰道丹後道を東へ6km ほどで七日市

遺跡・山垣遺跡に至り、両遺跡からは木簡や斎串などが出土している。

市辺遺跡の旧河道は蛇行しながら南流し、西岸を中心に総柱建物群や大形建物群などが

旧河道に沿って南北に並び、遺跡北端にやや孤立する状態で5×3間の四面庇建物が建っ

ている。C 地区では東岸にも3×3間総柱建物などがあり、旧河川の最大幅は 15m、深さ

1.5m程で、木簡・木製祭祀具・曲物・櫛・木錘・砲弾型石権と墨書土器「益女」「得」な

どが出土している。C 地区の河道が西へ大きく屈曲する部分の東岸に、3段の階段状の施

設が発見されている。1.5~4mの板材を横に渡して段を構築しているもので、この階段を

上った場所は、総柱建物群の南端建物の正面であり、さらに南 15m程には柵が東西に設置

されている。この柵が南限であるようで、最も下流部分に相当する(図Ⅳ-23)。

階段状の施設については、武蔵国榛沢郡正倉の中宿遺跡でも、水路と倉庫群を結ぶ階段

があるが、市辺遺跡でも類似した状況をみることができる。柵と SB35 の間の空閑地が作

業スペースであろうか。しかし、旧河川が大きくカーブをする部分であり、泊地となる水

域やけい船柱などが確保されていない。蔵ノ坪遺跡で述べたように、さらに下流に泊地が

存在するなど、船舶管理などの施設は分散していることも考えられる。

・大分県飯塚遺跡(永松他 2002)

国東港より1km 内陸の田深川右岸の、丘陵に挟まれた緩斜面の低地帯に位置し、豊後

国国埼郡国前郷に比定され、海岸には郡津である国埼津があったとされる立地である。掘

立柱建物・柵・井戸・配石・道路などが調査されており、掘立柱建物は 27 棟発見され、

内9棟は2×2間の総柱建物で、これらの建物は南~東部に広がる泥湿地を囲むように配

置されている(図Ⅳ-24)。この低地からは、木簡や斎串をはじめ馬形・製塩土器・瓦・

鋳型・石帯などが出土しており、52 点の木簡などからは、農業経営の拠点であり木製品や

金属製品の製作に関わるような性格が窺える。報告書では、初期庄園的経営拠点ではなく、

大宰府や国・郡・宇佐宮が関与したとし、国前郷は元々津守郷であり、難波津の住吉神社

の社家である津守氏と関連がある遺跡で、難波~九州の海上交通の要衝に配置されたので

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第2節 古代社会と河川交通

- 211 -

はないかとしている。

汀線に沿って杭列や配石が見られ、この汀に向かって側溝を持つ幅 10mの道路遺構が発

見されている。低地帯の杭列は道路南側側溝の延長上にあり、道路北側には側溝に沿って

柵が汀線ぎりぎりまで続いており、低地帯と繋がる道路のような景観である。配石は汀線

に沿った低地内にあり、道路延長上の杭列と柵の内側から検出されている。また、北側道

路側溝の外側には、これと並行して6×2間の側柱建物 SB22 と、その前後に2×2間の

総柱建物が並んでいる。このような遺構配置と低地の存在、そして遺跡北側を東流する田

深川を考えると、この低地と田深川が繋がっていて、この遺跡が船を接岸する施設として

建設されたのではないかと想定できる。南側側溝延長上の杭列に沿って船を引き入れると、

護岸施設と考えられる配石とその周辺の杭列があり、配石西側の道路内に荷揚げなどを行

なったのではなかろうか。SB22 などは物資の保管あるいは管理施設であり、SB22 の南で

総柱建物との中間付近の柵には、門があった可能性がある。陸路と水路が接続する正に結

節点であり、国埼津に附属する荷の積替えや一時保管などの、小形船舶用の港湾施設と考

えておきたい。

(2)埠頭・泊地の構造

各地の港湾遺跡を紹介してきたが、埠頭遺構や泊地については、桟橋状の杭列・テラス

状埠頭、土坑状・池状泊地などの構造が存在することを確認できた。これらの構造上の差

は、時期や地域によるものではなく、水路の規模や流路の形状に加え、遺跡の性格にも関

わると考えられる。ここでは埠頭の構造から遺跡の機能を検討する前提として、水域と一

体となった埠頭遺構の類型化を図る(図Ⅳ-25)。

Ⅰ類 水路を拡張して入江状・池状の施設を持つタイプ

港湾工学では泊渠と呼ばれる埠頭で、陸地を掘り込んで船を引き入れる水域を確保して

いる。道伝遺跡のように、水路の両岸を掘込み池状にするものと(Ⅰa 類)、下田町遺跡の

ような片岸を抉って入江状の地形(Ⅰb 類)を造る2タイプに分けることができる。下田

町遺跡の泊地は 15×10m の規模があり、複数の小形船の停泊や方向転換は十分可能であ

る。Ⅰb 類の矢玉遺跡では、河川がクランク状になる部分を大きく拡幅して、船溜まりと

呼べるような水域を確保している。中保 B 遺跡では、側溝を持つ道路遺構が建物群南面に

向かって約 50m 延びており、埠頭と建物群が直結されている。蔵ノ坪遺跡は明確ではない

が、河川跡北端の湾曲部分が幅 10mほどこぶ状に突出している。また、古志田東遺跡で接

岸遺構と報告された、水路と直行する溝状の短い掘込みについても、水域確保には至らな

いが、大猿田遺跡・根切遺跡でも同様な構造が確認でき、船舶を引き入れる施設として泊

渠の一形態としてⅠc 類としておく。

Ⅱ類 沿岸にテラス状の平坦面を造成するタイプ

船を接岸して人の乗降や荷の積み降ろしをするための施設で、埠頭エプロンに相当する。

門新遺跡では主要建物群に隣接した河岸にあり、水位や船の喫水などによって平坦面の高

さが決定されるのだろう。埼玉県根切遺跡(図Ⅱ-15)でも、掘立柱建物の脇の河岸を長

さ約6m・幅約1mのテラスが造成され、テラス前面の溝内からは杭状の建築部材が出土

している。森後遺跡のテラスは、礫が敷きつめられており、接岸・乗降地点の足場を約6

m にわたって補強している。基本的には、船を係留するためのけい船柱が必要となるが、

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 212 -

根切遺跡大溝から杭材などが出土しており、このような杭がけい船柱に該当する例といえ

るであろう。また、森後遺跡のテラス北には、報告書で目隠し塀とする柵があるが、特に

遮蔽する必要性がないことから、位置的にも長期係留のためのけい船柱であった可能性が

ある。

Ⅲ類 水路内に構造物を設置するタイプ

Ⅰ類やⅡ類が地形を改変するのに対して、河岸から水路に向かって構造物を突き出すもの

で、桟橋式と埋立て式があり、港湾工学では突堤埠頭に分類される。飯塚遺跡や伊場遺跡

などは桟橋式の埠頭で、飯塚遺跡では石により護岸をして、その外側に桟橋を設置してい

る。道路延長上の杭列とは時期差がある可能性もあるが、中保 B 遺跡でも確認できたよう

に、埠頭と道路が直結する水陸交通の接続点の好例である。特に飯塚遺跡の場合は、道路

は埠頭と港湾施設を結ぶだけではなく、遺跡外へ向って延びており、港湾遺跡の機能を示

している。桟橋式の場合には、水路内に杭を打つなどの構造物を設置するものであるため、

遺構として残りにくい。

Ⅳ類 水路沿岸に作業空間があるタイプ

石川県佐々木遺跡(坂下 2002)や宮崎県大島畠田遺跡(谷口 2000)では、明確な構造

物としての埠頭は確認されていないが、水路に船舶を係留・停泊させたまま積み降ろしな

どの作業を行なえる空間が水路沿岸に確保されている。大島畠田遺跡については、旧河道

に沿ってけい船施設などが存在する可能性は強い。佐々木遺跡については、航路・水路の

関係から後述する。

Ⅴ類 階段状の構造物によって水面と河岸が接続されるタイプ

市辺遺跡や中宿遺跡のように、陸上施設と水路が階段によって接続されるものであるが、

Ⅴ類単独では埠頭としては成立せず、基本的に桟橋状の構造物、あるいは階段下に付属す

るⅡ類相当施設やけい船柱が必要である。陸上の施設群と接岸部に比高がある場合設けら

れるもので、微高地上の市辺遺跡では陸上施設と水面の比高差は小さく、河岸に設置され

ているのに対して、台地上の中宿遺跡は低地に下る台地縁辺に造られている。

階段状遺構を含め、埠頭遺構を5つの類型に分類したが、古志田東遺跡ではⅠb 類とⅠc

類が、根切遺跡ではⅠc 類とⅡ類が存在し、中保 B 遺跡のようにⅠb 類の内部にⅡ類に近

い平坦面を設けるなど、複数類型の組合せを確認することができる。Ⅲ類については、護

岸施設との混同や残存率の低さから例が少ないが、Ⅰ類やⅡ類と比べても作業工程的にも

差はなく、Ⅴ類と一体となるなど本来は埠頭の多くを占めていたのではなかろうか。Ⅳ類

は明確な接岸施設を持たないが、小形水路ではけい船柱があれば両岸からの作業が可能で

あり、加茂遺跡や箱根田遺跡など幅の広い水路では、基本的にⅡ類・Ⅲ類埠頭が存在する

可能性が高い。

3 港湾遺跡の出土遺物

さて、これまで遺構を中心に港湾遺跡や埠頭遺構を検討してきたが、港湾遺跡に関わる

遺物については、船材や櫂などの船の存在を示すものと、「津」「舟」墨書土器などが挙げ

られる。官衙や寺院に比べ、遺跡の性格に結びつく特徴的な遺物は少ないと考えられてい

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第2節 古代社会と河川交通

- 213 -

たが、港湾遺跡を集成・分析する過程で、次のような共通点を散見することができた。①

港湾遺跡関連出土文字資料 ②河川や低地から出土する祭祀遺物 ③運搬具としての俵の

製作道具である木錘の出土、である。以下に、この3点を手掛かりにして、港湾遺跡にお

ける出土遺物の属性を抽出できるか検討したい。

(1)出土文字資料(表Ⅳ-2)

木簡:道伝遺跡と同郡内にある山形県古志田東遺跡の東船着場から「□船津運十人」が出

土している。上端を欠損し裏にも文字が有るが、判読できるのは5文字である。船着場で

船荷の荷揚げ荷降しに動員された労働者に関する記録簡とされる。福島県荒田目条里遺跡

出土の「立屋津長」木簡は、磐城郡司から立屋津長に宛てた木簡で、郡司による津の支配

を示す木簡とされる(平川 2002)。立屋津の位置については、夏井川右岸の河口付近の砂

丘内側と想定されている(大竹 2009)。35 点の木簡のほか、斎串・馬形・人面墨書土器・

絵馬などが出土しており、運河状の3号溝は祭祀の受皿でもあった。

墨書土器(図Ⅳ-26):矢玉遺跡「舟□」・蔵ノ坪遺跡「津」・中保 B 遺跡(根津 2002)「津

三」・石川県畝田西遺跡群(和田他 2006)「津司」「津」・同戸水 C 遺跡「津」・埼玉県宿宮

前遺跡「川津」(山田 2008)・井通遺跡「川戸」・伊場遺跡「津」墨書土器などは、いずれ

も遺跡と墨書土器の内容が一致する遺跡として評価することができる。特に、畝田西遺跡

群では、津の管理に関わる役職か施設と考えられる「津司」や多数の「津」が出土してい

る。畝田西遺跡群の他に、金沢市内では「津」出土の戸水 C 遺跡や戸水大西遺跡・金石本

町遺跡・上荒屋遺跡など港湾に関連する遺跡が発見されており、海運を含めた水上交通の

要地として注目したい。また、宿宮前遺跡出土「川津」は、近接するⅡ類埠頭を備える根

切遺跡(石原 2008)の大溝と関わるものである(井上 2008)。

港湾関連と指摘された遺跡以外でも、第Ⅱ章第2節で紹介した山形県生石2遺跡(安部

他 1987)では、「舩」が出土している。最上川支流の新田川上流右岸で蛇行する河川跡が

発見され、両岸に建物群が展開しており、板材列により建物群が区画された一画がある(図

Ⅱ-16)。漆紙文書・木簡・斎串・硯・墨書土器などが出土し、官衙的な様相が強い遺跡

である。また、埼玉県城ノ越遺跡では(石塚 2011)、9世紀中葉の竪穴住居から「舟」墨

書土器が出土している。城ノ越遺跡は入間川左岸の台地縁辺に立地する遺跡で、本章第1

節で陸上交通との関わりで述べたが、「舟」墨書土器の出土からは、城ノ越遺跡周辺に水陸

交通の結節点が存在したことを示唆するものである。千葉県中沢野馬木戸遺跡(宮 1999)

からは、渡しを意味する「済」の異体字が記された墨書土器が出土している。「済」は「雑

令」要路津済条で渡船に関わる記載があるように、渡河地点を示すと考えられるが、遺跡

は樹枝状の支谷が入り込む台地上に位置している。周辺には、津茂や門戸などの地名が残

り、中沢野馬木戸遺跡が津や渡しではなくとも、この地域に渡河に関わる施設や集団が存

在した可能性を指摘できる。

「津」「舟」関連の文字資料は、港湾遺跡からの出土が多いことと、これまで山間部や

丘陵奥部の集落などから出土していないことなどから、遺跡の性格と結びつくことが確認

できる。しかし、全ての港湾遺跡から出土するものではなく、大猿田遺跡のような生産を

主体とし、生産物・加工品の搬出を中心にしていた遺跡などは、「津」として認識されてい

なかったとも想定でき、「津」を使用する遺跡とは区別されていた可能性もある。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 214 -

(2)祭祀遺物

祭祀遺物には、木製祭祀具や人面墨書土器および石製模造品、そしてミニチュア土器を

含め土器を使用した祭祀行為など多岐にわたるが、所謂水辺の祭祀では斎串などの木製祭

祀具の使用例が多いといえる。国府や郡家の多くが、沿海であろうと内陸であろうと、基

本的に港湾施設を伴う可能性を考えれば、航行の安全を祈る行為が頻繁に行われたことは

想像に難くない。

船体の出土例については後述するが、船体と舟形に使用された樹種について若干触れて

おきたい。滋賀県弘前遺跡での刳船の検討では(中川 2008)、船体の樹種はスギ・カヤ・

マツ・クスノキ・クリなどが使用されているが、スギの使用率が高いとされている。舟形

の樹種については、市辺遺跡・七日市遺跡の例では3点ともにスギである。馬形・人形・

斎串などはスギも少数含まれるが、多くはヒノキであり、舟形と他の木製祭祀具の樹種選

定の違いをみることができる。このことは、舟形製作時のスギ材指向が強いことを示して

おり、船体と舟形の樹種の共通性を確認することができる。樹種が同一である理由として

は、船体と同一材料で分身としての舟形を作り、航行の安全を祈願する祭祀に臨んだ可能

性が考えられる。縄文時代の刳船では、西日本はスギ、東日本はクリが使用されるといっ

た傾向があるように、植生の地域性なども考慮しながら、さらに多くのデータを集成・比

較して分析を続ける必要がある。古墳時代前期の例であるが、埼玉県小敷田遺跡の河川跡

から、舳の一部と舟形木製品が出土しており(吉田 1991)、船材はスギで舟形木製品はス

ギとケヤキであった。小敷田遺跡の出土樹木の同定では、加工木の 45%が針葉樹であるの

に対して、自然木は8%しか占めておらずスギに限れば僅か 0.7%である。このことはス

ギ材の搬入が考えられ、周囲に自生しているヤマグワなどを使用せず、舟形木製品までス

ギに拘るのは、分身の意味があったからではなかろうか。奈良・平安時代の祭祀遺物とは

直接的な比較はできないが、船製造工程における舟形の系譜の例として挙げておく。

祭祀遺物が出土する多くの港湾遺跡に対して、例えば蔵ノ坪遺跡のように祭祀遺物が出

土しないあるいは極端に少ない遺跡も存在する。このことは、祭祀行為が無かったことを

示すのではなく、祭祀執行地点の重要な手がかりになるもので、主要施設の上流か下流か

または対岸なのか、選地の基準があったと考えられる。蔵ノ坪遺跡はその基準のわずかに

上流側であったのだろう。

これまで見てきたように、祭祀遺物の出土は港湾遺跡の属性の1つと考えられるが、水

辺の祭祀と港湾遺跡の祭祀をどのように見分けられるのか、木製祭祀具とそれ以外の使わ

れ方の違いや地域差・時期差など、検討すべき課題は多い。

図Ⅳ-27 では、港湾遺跡出土の祭祀遺物として、福島県鏡ノ町 B 遺跡河川跡出土「人

物墨書土器」(和田 2001)と箱根田遺跡の人面墨書土器、および生石2遺跡・矢玉遺跡・

荒田目条里遺跡・箱根田遺跡・静岡県梶子遺跡(鈴木他 1994)・市辺遺跡・徳島県観音寺

遺跡(田川他 2006)出土の舟形を示した(図Ⅳ-28)。

(3)木錘

市辺遺跡と飯塚遺跡の他、阿波国府関連遺跡の観音寺遺跡、志太郡家とされる静岡県御

子ヶ谷遺跡(八木他 1981)、伊場遺跡と連続するように展開する梶子遺跡、居宅説が指摘

される古志田東遺跡などで検出されており(図Ⅳ-29)、いずれも官衙や港湾遺跡の水路・

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第2節 古代社会と河川交通

- 215 -

河川などから出土している。また、小敷田遺跡の土坑からは、出挙木簡・呪符木簡や多く

の木製農具と共に木錘が出土しており、7世紀末の土器類も共伴している。小敷田遺跡で

は埠頭遺構の発見はなかったが、大きく蛇行する河川も確認されており、隣接する池上遺

跡と共に、埼玉評や埼玉郡に関わる遺跡と考えられる。

俵を製作する道具である木錘が、官衙を含めた港湾遺跡から出土する理由として、米の

集積・輸送拠点としての港湾施設において、俵を製作した点を挙げることができる。物資

の集積・保管は、港湾施設が持つ機能の1つであるが、その場所で米の運搬具である俵を

製作していたのである。

木錘は地域差がなく発見されているが、全ての低地性遺跡から出土するものではなく、

港湾遺跡であっても、大猿田遺跡のような、窯業など生産に関連する遺跡では検出されて

いない。また、根切遺跡では多くの加工材などが大溝から出土しているが、木錘は検出さ

れていない。このことは、木錘は先にみた遺跡のように、郡家などの官衙や豪族層の支配

拠点となり、米の輸送に関わる港湾遺跡における、特徴的な遺物の一つとして指摘するこ

とができる。

4 航行をめぐる問題

埠頭遺構の類型化などを行ってきたが、ここで河川交通ではどのような水路が使用され、

どのような船体の船が航行していたのかについて、特に溝状遺構などと呼ばれた遺構が、

水路として機能しうるかなどを検討する。また、あまり触れられてこなかった、船を埠頭

に接岸するまでの動力についても分析を加えておきたい。

(1)船体について

単材刳船(丸木舟)を中心に各時代の多くの船材が各地で発見されているが、内陸の低

地帯における縄文時代の単材刳船の出土が目立つ。古墳時代の船については、埴輪や線刻

絵画などからその形態などをみることができ、帆船を含めたさまざまな構造の船が造形さ

れ描かれている。なかには海船であろう準構造船と思われる大形船も存在する。古墳時代

はもちろん、古代においても海岸沿いや内水面では単材刳船や複材刳船が主体的であり、

近年まで使用されている息の長い船体である。単材刳船は堅牢で長期間の使用に耐えるた

め、森林資源の豊富な日本では小形船として長く使用された(安達 1998)。さらに刳船を

前後に接続した複材刳船は、10mを超えるような長大な船体が可能となり、漕ぎ手の増加

により速度も早くなった。この刳船は積載量が限定され耐波性に弱点があるが、製造工程

も少なく構造も単純であり、中小河川における物資輸送や漁船として、想像以上に使われ

続けたのではなかろうか。

船材の出土例には、伊興遺跡(石井他 1999)で古墳時代中期の船が、弘前遺跡では古墳

時代後期の船体があり、何れも井戸枠として転用されている。また、三重県西肥留遺跡(川

崎 2008)や六大 A 遺跡(穂積 2000)では、準構造船の舷側板・竜骨のような、部位が判

明しているものもある。古代の船体としては、矢玉遺跡・古志田東遺跡・蔵ノ坪遺跡・佐々

木遺跡・梶子遺跡などで出土しており、伊興遺跡と同様に佐々木遺跡のように井戸枠とし

て再利用されたものがある。道伝遺跡では櫂が検出されており、船体同様に船の存在を示

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 216 -

す遺物である。構造的には刳船が多く、古墳時代を含めてここに挙げた遺跡は、水上交通

との関わりを指摘されている遺跡である。このように、埠頭遺構と船体の出土は当然のよ

うに関連が深いが、櫂など船の部品・部材の特定精度が向上すれば、船体の規模と埠頭遺

構の類型との関係などが検討可能となるであろう。

(2)航路・水路の推定

出土した船と、航路・泊地となる溝などの遺構との関係について、佐々木遺跡で発見さ

れた溝と井戸枠に転用された出土船を例にして考えてみたい。佐々木遺跡は梯川中流左岸

の自然堤防上に位置し、北側は梯川の氾濫原が迫り、南側は後背湿地を挟んで小松東部丘

陵が連なっている。梯川対岸の北東には、加賀国府のある古府台地が広がっており、報告

書では有力者の居宅・公的施設の可能性を示唆している(坂下 2002)。

8世紀から 11 世紀の 48 棟の掘立柱建物と井戸・柵・土坑・河川跡と溝などが発見され、

「野身郷」「財部寺」「厨」「丸」などの墨書土器・銭貨・銅鈴および羽口や椀型滓などの鍛

冶関連遺物が出土している。また、船は2艘以上の刳船が確認されている。報告書で2期

とする8世紀前半頃に、溝と柵で南北 50m、東西 40mに区画された遺構群が出現し、総

柱建物群・井戸・鍛冶工房などが区画内で検出されている。主屋となる3×3間の SB03

は周囲を板塀で囲まれており、区画溝に沿って3棟の総柱建物が並び、区画外にも7×2

間の桁行の長い建物が存在する。梯川旧河道である SD33 へ注ぐ SD16 の上流部分は、北

側の区画施設でもあるが、SD16 の外側に 4.5m離れて柵 SA06 が約 40mにわたって並行

している。SD16 は区画部分は直線的だが、西側区画施設と接するあたりから北に緩くカ

ーブを切って SD33 に向っている。この SD16 の南側区画内には建物群まで 15m程の空閑

地があり、東側区画の柵との北東コーナーは接続しておらず、約4mが開放されている(図

Ⅳ-30)。

このような佐々木遺跡の遺構配置をみると、柵 SA06 が北側の区画であったか、あるい

は SD16 の保護や遮蔽の役割を果たしていた状況が窺え、SD16 は区画内に取り込まれて

いたのではなかろうか。幅 1~1.2m、深さ 50~60cm と小形の溝であるが、ここでこの規

模の溝で、SE02 出土船の航行が可能か図上で確認してみたい。なお、船出土の井戸 SE02

の時期は9世紀後半頃とされ、SD16 とは時期差があるが、刳船の規模と存在には大きな

変化は無いという前提で考えた。報告書では SD16 の直線部2区・3区の平面図と、セク

ションポイント b-b′を使用して出土船の推定復原シルエットと重ねてみた。船の長さは、

高さと幅が同規模な弘前遺跡を参考にして6mとし、幅 75~85cm、高さ 40cm 程度の刳

船のシルエットを使用した。図Ⅳ-31 のように、平面・断面とも若干の余裕を持って SD16

に収めることが可能で、水量が溝の半分程度で積載した刳船の喫水を加味しても、差ほど

の問題はないようである。また、SD33 に近いカーブの部分でも、図上では操船しながら

航行は可能である。航路だけではなく、港湾機能の面を考えれば、SD16 両側の空閑地は

船を曳いたり、作業・荷揚げなどのスペースとして確保されたもので、7×2間と桁行の

長い SB16 や 17 は、港湾工学の用語で「上屋」に相当する、物資仕分・短期保管施設と

考えられる。SD16 は区画としての溝ではなく、区画内の重要な施設として位置付けられ

るのである。溝内の杭や水流の問題などはあるが、ここでは水上交通とは関係が無いと思

われるような溝でさえ、図上ではあるが船の航行が可能であるという点を指摘しておきた

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第2節 古代社会と河川交通

- 217 -

い。

これまで、単に溝状遺構として処理されていた遺構についても、平面形・断面形・土層

観察だけではなく、どこから分岐されているかや周辺遺構との配置関係などを精査するこ

とで、水路としての機能を抽出することが可能であろう。

(3)曳船について

それでは、各地で発見される船の動力について考えてみたい。古代船の動力としては、

帆を掛けて風の力で推進するもの、潮流や川の流れに乗って航行する方法、櫂や竿を使っ

て人力で進むものがある。人力にはこの他に、陸上から綱で曳く曳船がある(註3)。曳船

は、主に河川の遡上手段として、近現代まで行なわれており、近世資料などにもその様子

が描かれている。歌川広重の『名所江戸百景』四ツ木通用水引ふ祢では(写真Ⅳ-2)、元

荒川を水源とする深川方面への上水であるとともに、柴又帝釈天などへの水路と利用され

ていた四ツ木通用水を描いており、左岸側の道から上下する船を曳く様子が描写されてい

る。文久三年(1863)に発行された『淀川両岸一覧』(註4)では、高瀬川を米俵を積ん

だ船が曳船され、若干デフォルメされ川を小さく描いているようだが、両岸から各1人が

舷側に結ばれた綱を曳いている姿をみることができる。両岸に小道があり曳手達はここか

ら曳いており、上段の道には鍬を担いだ農夫の姿があることから、通常の道路は上段であ

り、川沿いの下段の道は曳道であることが想定される。何艘もの船が接触するほどの距離

で曳かれている(写真Ⅳ-3)。

以上のように、近世においても曳船が船の動力として重要な位置を占めていたことを絵

画資料で確認することができ、船の構造や航行技術から考えても、古代においてはその重

要性はさらに大きかったと考えられる。また、デフォルメされているが高瀬川の川幅を見

ても、小河川や幅の狭い水路であっても航行は可能であるばかりでなく、両岸から曳ける

というメリットさえある。さらに、小形船の喫水を考えれば差ほどの深さは必要なく、我々

が想像する以上に規模の小さな水路を船が航行していたのである。先にみた佐々木遺跡で

の検討とも齟齬は生じず、小規模水路と曳船は河川交通研究の重要な視点といえる。

5 港湾遺跡の機能

埠頭遺構の類型化と港湾遺跡の出土遺物の検討などを行ってきたが、本節のまとめとし

て、各タイプの埠頭を設置した港湾遺跡が、どのような機能と性格を具備しているのかを、

これまでの検討を基礎にして整理しておきたい。本節で引用した主な港湾遺跡については、

図Ⅳ-32 に一括して掲載した。

(1)Ⅰ類埠頭の機能と性格

① Ⅰ類埠頭は、泊渠に相当する類型として分類したが、その構造から a・b・c の3種に

細分した。Ⅰa 類とⅠb 類の埠頭は、水路両岸と片岸を掘り込むという相違だけではなく、

Ⅰa 類では道伝遺跡・矢玉遺跡のように両岸で遺構が確認されており、Ⅰb 類の古志田東

遺跡・中保B遺跡・下田町遺跡は埠頭側にしか建物群が配置されていない。蔵ノ坪遺跡に

ついては、水路が調査区外に及ぶため、埠頭全体を確認することはできないが、同時期の

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 218 -

掘立柱建物が両岸に分布していることから、Ⅰa 類の可能性が高い。Ⅰa 類が両岸に建物

を配置するのは、陸路との接続はもちろんのこと、一方通行ではなく上下船が停泊するよ

うな使用形態であったと考えられる。また、両岸から埠頭が利用できることで、河川交通

の中継地点としてだけではなく、陸上交通の渡河地点の機能も備えていた可能性も指摘で

きる。ただし、古志田東遺跡はⅠb 類ではあるが、同様の埠頭を対岸にも設置しており、

対岸の埠頭に対応する建物群が存在することも考えられる。

Ⅰa 類とⅠb 類の埠頭には、以上のような機能の違いがあり、Ⅰa 類は幹線となる道路と

交差していることが大きな特徴といえる。しかし、両岸均等に建物群が配されておらず、

道伝遺跡や矢玉遺跡のように、水路に囲まれるような位置に主屋となる大形建物・総柱建

物が配置されている。地形や流路との関係、道路の位置などによって埠頭設置は決定され

るであろうが、Ⅰa 類・Ⅰb 類ともに左岸に埠頭と建物群を置く場合が多い。船の運航方

向と関係するのであろうか。

矢玉遺跡・中保B遺跡では、水路に沿って総柱建物が並ぶが、2×2間を主体としてお

り、他の建物群の規模や配置についても、郡家政庁や正倉などとの相違は明らかである。

Ⅰa 類・Ⅰb 類埠頭を持つ遺跡からも、木簡・「津」関連墨書土器あるいは木錘などが出土

しているが、建物群の構造からは官衙とは考えられず、豪族層・有力者層が関与する私的

な港湾施設と考えられる。

② 埠頭遺構の中でも、造成規模や面積も小さなⅠc 類は、単独で存在することは少なく、

Ⅰc 類のみで埠頭施設が構成されるのは大猿田遺跡だけである。大猿田遺跡は、土器や木

器などの生産と製品輸送を兼ねた遺跡で、各類型遺跡の中では特徴的な様相を示している。

同じく生産遺跡である武蔵国南比企窯跡群では、丘陵地帯で生産された須恵器などは、南

側を流れる河川際に搬出され、選別・集積のための竪穴住居群が造られ、河川・河川沿い

に運ばれた(渡辺他 2006)とされている。他類と異なり、竪穴住居を主体とした集落構成

に特徴がある。第Ⅰ章第2節でⅣ類とした、掘立柱建物の検出例が少ない集落には、生産

に関わる遺跡が含まれているが、大猿田遺跡では総柱建物1棟を含む 13 棟が確認されて

いる。しかし、木簡・銙帯・円面硯・二彩陶器・「厨」刻書土器や「官」墨書土器など多く

の墨書土器などは、官衙遺跡と比しても遜色のない出土遺物であるが、竪穴住居を主体と

して掘立柱建物と混在した構成である。

Ⅰc 類の埠頭が、西岸で SD44・SD46・SD82 の3ヶ所確認でき、SD44 と SD46 ではけ

い船柱状のピットも存在する。河岸と平行に船を接岸するのではなく、舳から陸に向かっ

て引き入れる構造の接岸施設は、古志田東遺跡・根切遺跡でも確認できる。しかし、古志

田東遺跡ではⅠa 類、根切遺跡ではⅡ類埠頭が別に存在することから、Ⅰc 類は大猿田遺跡

のような生産遺跡に特徴的な埠頭で、製品や加工品などの重量物積載時に、安定した船積

みが可能となる構造を選択したのであろう。Ⅰc 類埠頭が設置された遺跡は、窯業など重

量物運搬に関わる港湾であり、古志田東遺跡なども一般の埠頭と区別した使用がされた可

能性を指摘しておく。Ⅰc 類埠頭を特徴とする港湾は、生産地から消費地への製品輸送の

ための積出港と位置付けられる。

(2)Ⅱ類埠頭の機能と性格

Ⅰ類埠頭と同じく泊渠に区分されるが、河岸を大きく掘り込まず縁辺上部を削平して平

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第2節 古代社会と河川交通

- 219 -

坦面を造成するもので、門新遺跡・上荒屋遺跡・森後遺跡・根切遺跡・伊場遺跡などで確

認されている。Ⅰ類との相違は水域確保にまで至らない点と、規模の差はあってもいくつ

かのタイプを派生させないことで、両岸に設置する例はみられない。当然、建物群はテラ

ス側に位置し、Ⅰa 類・Ⅰb 類同様に左岸に設置される傾向が強い。

門新遺跡では、埠頭前面に変則的な3×3間総柱建物が近接して建てられ、その北側に

柵に囲まれた2面庇の大形建物と総柱建物などの建物群が密集して配置されている。各掘

立柱建物の柱穴は小形で円形プランである。上荒屋遺跡の水路北岸に設置された埠頭の前

面には、やや空間を置いて有庇建物や総柱建物群が並び、さらにその北側には桁行5間の

建物を中心にしたグループがある。森後遺跡の埠頭前面には柵が設けられているが、前述

のようにけい船柱の可能性が高い。柵の北には約 10mの距離を置いて、水路に並行する東

西棟・南北棟の側柱建物群が並んでいる。根切遺跡では、Ⅱ類と対岸にⅠc 類埠頭がある

が、Ⅱ類前面に3×2間の掘立柱建物が接するように位置し、テラスの長さと建物桁行長

はほぼ同じである。伊場遺跡の大溝には、Ⅱ類のほかⅢ類やⅤ類とした階段状の遺構が設

置されており、Ⅱ類のテラスはⅤ類と並んで左岸に設けられている。対岸にも多くの建物

が存在するが、テラス側にも5×4間の側柱建物を中心とした建物群が構成され、やはり

テラスとの間には 20m四方ほどの空閑地がある。

Ⅱ類埠頭を設置するこれらの遺跡の性格として、門新遺跡は居宅の可能性を、上荒屋遺

跡は横江庄との関連を、森後遺跡は駅家に関わる遺跡として、伊場遺跡は敷智郡家関連遺

跡群と指摘されている。根切遺跡も周辺に足立郡家の所在を想定できる。ここで注目した

いのは、埠頭と建物群の距離であり、上荒屋遺跡・森後遺跡・伊場遺跡では埠頭前面に建

物を配置せず、遺構のない空間を形成している。これに対して門新遺跡は埠頭に接するよ

うに総柱建物を建てており、Ⅰa 類の矢玉遺跡・Ⅰb 類の古志田東遺跡と蔵ノ坪遺跡でも

同じような配置をみることができる。門新遺跡の水路と建物の配置からは、埠頭と物資保

管施設の上屋が直結するような関係がみられ、古志田東遺跡でも3×3間側柱建物がこれ

に相当する。空間が存在しない港湾では、物資の分類・仕訳を必要とせず、直接上屋から

の搬出入が可能な構成をしている。このことは、扱う物資の量が限定されることと、種類

も多くはないことを示しているのではなかろうか。逆に森後遺跡のように埠頭と建物群の

間に空間を置き、小形の東西棟1棟と桁行5間以上の南北棟を3棟並べている。この空間

は物資分類などの作業空間であり、管理棟ともいえる小形建物と、分類された物資が保管

される3棟の大形建物で構成される一画と考えられる。このような遺跡は、多種類の多く

の物資を扱う港湾であり、森後遺跡では陸路とも関わることから、物資の輸送経路も多方

面に及んだのであろう。

Ⅱ類埠頭と建物群との間に作業空間を有するタイプは、扱う物資の量や種類も多く、地

域のハブ港となるような、あるいは官衙や庄家と関わりのある港湾と考えられる。

(3)Ⅲ類埠頭の機能と性格

桟橋状の構造物を埠頭とするⅢ類には、伊場遺跡・飯塚遺跡があり、他に沿岸に杭列が

確認された蔵ノ坪遺跡も桟橋の可能性がある。伊場遺跡では、大溝両岸にⅡ類・Ⅲ類とⅤ

類が設置されているが、Ⅲ類の桟橋前面には、対岸のⅡ類と同様に 20m四方ほどの空間を

置いて、建物群が配置されている。飯塚遺跡は、桟橋と石積護岸の組み合わせた埠頭を設

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 220 -

置しており、道路と直線状に桟橋を造り出している。位置の変更や拡張などが容易な様式

といえる。しかし、両遺跡のように桟橋として認識・確認できる例は少なく、遺構として

は残存しにくいことと護岸などとの識別が困難なことが原因である。工事としては比較的

容易でありながら、護岸を含めてもⅢ類埠頭の発見例は少ないが、現状の伊場遺跡と飯塚

遺跡からは、官衙的な遺跡に設置される埠頭の類型と想定しておく。

(4)Ⅳ類埠頭の機能と性格

遺構として埠頭を明確に示せるものではなく、水路と建物群との位置関係から推測する

もので(註5)、佐々木遺跡・加茂遺跡などが該当する。Ⅱ類埠頭の検討で指摘したように、

埠頭前面の作業空間の存在を重視し、水路に船を係留して物資の積み降ろしと、一時集積・

分類などを行ったと考えたものである。加茂遺跡は、古代北陸道側溝に繋がる水路の両岸

に建物群があり、北陸道を挟んだ東側にも遺跡は広がっており、まさに水陸交通の結節点

を具体化した遺跡といえる。また、牓示札など多くの出土遺物からも、人や物資の集まる

場所を示している。両岸共に、建物群が存在しない空間が数ヶ所あり、特に水路幅がやや

広がる左岸側には、総柱建物群の東に広場が形成されている。Ⅳ類埠頭も類例は少ないが、

Ⅳ類には空間の存在だけではなく、けい船柱は埠頭としては必須の施設であり、柵に至ら

ないような杭を設置したと考えられる。

明確な埠頭がないこれらの遺跡は、船を長期停泊させる必要性がない機能か、水量など

物理的な要因から、船の停泊が制限されていたことが想定できる。埠頭を持たないことか

らも、Ⅱ類のような地域のハブ港となる港湾ではなく、加茂遺跡も北陸道沿線としての機

能が重視されたのであろう。

Ⅴ類については、大猿田遺跡・伊場遺跡・市辺遺跡などで発見されているが、前述のよ

うに階段状の施設だけが発見されており、単独では埠頭として成立するものではなく、水

路との接続施設の一類型として紹介するにとどめておく。

Ⅰ類からⅣ類の埠頭のうち、出土文字資料からは、Ⅰc 類とⅣ類を除く各類型埠頭が設

置された港湾について、「津」と認識されていたことが分かる。大猿田遺跡のような、積出

港的な一方通行の経路と、小規模な接岸施設であるⅠc 類については、古代河川交通のな

かで港湾施設とは意識されなかったのであろう。また、陸上交通との関連では、加茂遺跡

における北陸道と、北陸道側溝を起点とする水路の存在は、両者の一体的関係を示すもの

として特筆すべき遺跡である。飯塚遺跡では、埠頭から直結した道路が発見され、蔵ノ坪

遺跡・中保B遺跡においても港湾遺跡内で道路が確認されている。遺物では、港湾遺跡と

しての森後遺跡出土「路」墨書土器と、陸上交通と関連の深い城ノ越遺跡の「舟」墨書土

器は、河川交通の特質を確認できる文字資料である。なお、井通遺跡のコップ形須恵器(計

量器)と権、市辺遺跡の権などの度量衡関係遺物の出土は、港湾遺跡の流通への関与を示

すものであり、市との関わりを考えることができる。このことについては、次節で検討し

たい。

河川は飲水・漁業・農業・祭祀・廃棄と交通などに利用され、清浄と汚濁・豊穣と災厄・

利便と破壊、そして生と死など人間生活すべてに関わってきた。また、境界となり戦場と

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第2節 古代社会と河川交通

- 221 -

なって支配の道具にもなってきた。陸上交通からみれば川は遮断と遮蔽をもたらすが、そ

の地点が港や渡しとして発展し、水陸交通の結節点となっていった。加茂遺跡では、北陸

道と水路が接続する、まさに交差地点が発見されている。水上交通は、人や物資ばかりで

なく、情報や文化など多くのものを運び、港湾遺跡はその拠点であり集積地点であった。

船を物資輸送に使うようになり、船の発達とともに輸送量・速度・コスト面など輸送手段

として大きな発展を遂げてきた。しかし、大きな経済効果や利便性と引き換えに、大きな

代償もあったはずである。それは災害や事故だけではなく、略奪のような危険性も大きく、

さらに増水・渇水など季節や天候に影響されるなど、利便性と危険性を併せ持った交通シ

ステムと言える。また、水路として使用されてきたのは、これまでみてきたように、幅数

mの小河川などが中心であるが、身近な網の目のような水路を利用できる点ばかりでなく、

操船や水路管理の容易さと、転覆などの危険回避から選択したものであろう。

このような河川交通の運用については、埠頭の設営と運営ばかりでなく、航路の浚渫・

曳道の整備などの維持管理や、荷役や曳手という労働力の調達を伴う。また、造船・操船

に関わる技術や埠頭建設・水路整備の知識など、専門的な技術者の存在と工具類の調達も

不可欠である(註6)。本節では埠頭遺構や出土遺物の分析から、港湾遺跡の性格の一端を

明らかにしてきたが、港湾遺跡の考古学的検討は始まったばかりであり、課題は多い。

(註1)河川を含めた湖沼・池などは内水面と呼ばれ、内水面交通の用法もあるが、漁業

などで用いられることが多く、ここでは内水面交通と同じ意味として、河川交通を使用す

る。

(註2)この他に、本節では港湾の構造や景観などに関しては『港湾工学』(小川 1971)・

『港町のかたち』(岡本 2010)を、河川や流路については『河川工学』(本間 1984)・『河

川工学』(高橋 1990)・『沖積河川学』(山本 1994)を、また、船に関しては『船』(須藤他

1968)・『日本の船 和船編』(安達 1998)・「船」(宇野 2005)を参考にして、定義や航路

の問題などを検討した。

(註3)曳船の重要性については、古墳時代の石材輸送の面から、江戸時代の絵画資料を

引用して指摘したが(井上 2007)、その後平川南も、曳船は河川両岸を完全に統治した結

果であるとして、同様な資料を掲載している(平川 2008)。

(註4)書名については、巻によって異なり、『澱川両岸一覧』・『宇治川両岸一覧』がある。

(註5)埠頭遺構は、港湾遺跡の基本となる指標であり、埠頭が発見されなくても、水路

際の集落を港湾遺跡として一括してしまうのではなく、遺構配置などの分析を経て、港湾

としての機能を抽出する必要がある。

(註6)船大工が家大工となり、港町には頑丈な建物が多いとされるが(岡本 2010)、こ

のような視点から、港湾遺跡の建物を分析する方法もある。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 222 -

図Ⅳ-16 道伝遺跡

SD22

SD1 大溝

ommizo

泊地 SB1

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第2節 古代社会と河川交通

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図Ⅳ-17 大猿田遺跡(8世紀)

SD21

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-18 蔵ノ坪遺跡

図Ⅳ-19 門新遺跡

SB10

SB12

SB2 道

杭列

SB8

旧河道

テラス

埠頭か

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第2節 古代社会と河川交通

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図Ⅳ-21 下田町遺跡

図Ⅳ-20 森後遺跡

大溝

平坦面

平坦面拡大図

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-22 井通遺跡

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第2節 古代社会と河川交通

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図Ⅳ-23 市辺遺跡

図Ⅳ-24 飯塚遺跡

SB35

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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Ⅰa 類(モデルは道伝遺跡) Ⅰb 類・Ⅰc 類(モデル古志田東遺跡・根切遺跡)

Ⅱ類(モデルは門新遺跡) Ⅲ類(モデルは飯塚遺跡)

Ⅳ類(モデルは佐々木遺跡) 図Ⅳ-25 埠頭遺構類型化模式図

道路

護岸

杭列

空閑地

テラス

池状泊地

Ⅰc類

Ⅰb 類

テラス

空閑地

建物

水路

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第2節 古代社会と河川交通

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図Ⅳ-26 港湾遺跡出土墨書土器 城ノ越遺跡

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-27 人物・人面墨書土器

図Ⅳ-28 舟形

図Ⅳ-29 木錘

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第2節 古代社会と河川交通

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図Ⅳ-30 佐々木遺跡

写真Ⅳ-3 淀川両岸一覧(埼玉県立川の博物館所蔵)

写真Ⅳ-2 名所江戸百景 四ツ木通用水引ふ祢:部分(埼玉県立川の博物館所蔵)

SD32

SE02

図Ⅳ-31 船体推定図

b

b′

SB03

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-32 各地の港湾遺跡

1:古志田東遺跡

2:矢玉遺跡(9世前葉)

3:中保B遺跡

4:上荒屋遺跡

5:加茂遺跡

6:伊場遺跡

1 2

4 5

古代北陸道

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文字 遺跡名 所在地 備考1 湊津 前稗沢遺跡 岩手県北上市2 □(津) 秋田城跡 秋田市3 大津郷 払田柵跡 秋田県仙北町4 津 沼田遺跡 山形県八幡町5 □船津運十人 古志田東遺跡 山形県米沢市 木簡6 舟□ 笹原遺跡 山形県米沢市 157 舩 生石2遺跡 山形県酒田市8 船 山王遺跡 宮城県多賀城市9 舟□ 矢玉遺跡 福島県会津若松市10 津長 荒田目条里遺跡 福島県いわき市 木簡11 泊 上居合遺跡 福島県会津若松市12 □(済) 一天狗遺跡 埼玉県鶴ヶ島市13 川津 宿宮前遺跡 埼玉県さいたま市14 舟 城ノ越遺跡 埼玉県狭山市15 済 中沢野馬木戸遺跡 千葉県印旛郡富里町 316 船 長部山遺跡 千葉県佐原市17 津 蔵ノ坪遺跡 新潟県中条町 218 舟 今池遺跡 新潟県上越市19 津 四十石遺跡 新潟市20 池津 中組遺跡 新潟県燕市21 水人 発久遺跡 新潟県北蒲原郡笹神村 922 津 戸水C遺跡 石川県金沢市 623 津司 畝田・寺中遺跡 石川県金沢市24 津 畝田・寺中遺跡 石川県金沢市 525 舟 辰口西部遺跡群 石川県能美郡辰口町 226 舟生 辰口西部遺跡群 石川県能美郡辰口町 327 稲舩 大坂A遺跡 石川県羽咋郡志賀町 228 舟・舟生 中名Ⅴ遺跡 富山県婦負郡婦中町29 津三 中保B遺跡 富山県高岡市30 舩木 東木津遺跡 富山県高岡市31 船津 村国遺跡 福井県武生市32 舟 堂西遺跡 長野県上田市33 舟・舟(丹・丹) 俎原遺跡 長野県塩尻市34 (津・湊) 三の宮遺跡 長野県松本市35 □(津) 坂尻遺跡 静岡県袋井市36 嶋津 坂尻遺跡 静岡県袋井市37 津 伊場遺跡 静岡県浜松市38 船方□□ 市道遺跡 愛知県豊橋市39 舷人 唐桶遺跡 愛知県岡崎市 240 舟人 西河原森ノ内遺跡 滋賀県野洲市 木簡41 □(志)津 永田遺跡 滋賀県高島町42 廣津 鴨遺跡 滋賀県高島町43 廣津弥 鴨遺跡 滋賀県高島町44 水司 斎宮跡 三重県多気郡明和町45 水部 斎宮跡 三重県多気郡明和町46 舷女 杉垣内遺跡 三重県松阪市深長町47 舷 高井A遺跡 三重県鈴鹿市徳田町 248 太津 柚井遺跡 三重県桑名郡多度町 249 舷 大津道遺跡 大阪府松原市50 中津家 長曽根遺跡 大阪府堺市51 舟 藤原京跡 奈良県橿原市52 □津 出雲国庁跡 島根県松江市53 □浦 大宰府跡 福岡県太宰府市54 湊水? 日焼3遺跡 福岡県太宰府市55 閉津 宝満山遺跡 福岡県太宰府市 刻書56 船(つくりはム) 大宰府条坊跡 福岡県太宰府市57 川部 中原遺跡 佐賀県唐津市58 津 駄の原遺跡 熊本県玉名郡三加和町 2

表Ⅳ-2 港湾遺跡関連出土文字資料

-233-

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第3節 奈良時代の計量器

- 235 -

第3節 奈良時代の計量器

本章第1節と第2節では、流通に使用される度量衡関連の出土遺物が、水陸交通と

密接に関わることについて述べてきた。度量衡に関わる古代の出土遺物としては、物

差・枡や棹秤が知られているが、物差・枡の出土は平城京や平安京など限定されてお

り、一般の流通などに使用されたものではない。棹秤の錘である「権」については、

金属製ばかりではなく土製・石製などが全国で発見されており、天秤棒に取付ける金

具も検出されている。特に石製権の出土例は多く(大谷 1991・宮本 1991・吉村 1995・

福田 1997・神谷他 2008)、棹秤は重さを量る道具として広く使用されたと考えられる。

枡は現在でも使用される計量器であるが、複雑な製造工程ではないにもかかわらず、

出土した数は少ない。そのため、本節では枡に代わる計量器として、コップ形須恵器

が一般で使用されたものと認識し、その使用年代や規格性などの分析を通じて、出土

遺跡の性格を解明しようとするものである。

1 計量器としてのコップ形須恵器の認識

我国の文献上で度量衡の規定が現れるのは、『扶桑略記』舒明天皇十二年冬十月の記

事に「始定斗升斤両」とあるのが最初で、大化二年(646)の詔には丈尺単位がみられ、

このころに度量衡制度が整備されたと考えられている。日本の度量衡制度の基本とな

った中国では、戦国時代の量器が現存しており(紫 1990)、戦国方籥や陳純釜などい

ろいろなカタチの量器が存在するが、秦代になると始皇方升や始皇升のような把手の

付いた定型化された量器が一般的となっていく。文献的には『周礼』考工記 栗氏に量

器の寸法が記されているのが最も古く(馬 1990)、日本に取り入れられた唐代の制度

は、隋制を沿用しており(邱 1990)、これは西暦 581 年の文帝即位以後の通貨統一な

どと同時に規定されたものである。

これまで我国で知られている最も古い計量器である枡は、伝世品もあるが確実な資

料としては、平城京跡や秋田城跡出土の奈良時代のものであり、奈良・平安時代で合

計7点の枡が確認されている(篠原 1991)。枡以外の計量器については文献もなく、

また考古学の側からも知られてはいない。枡についても前述したように奈良・平安時

代を通しても7点が知られているだけで、木製品の発見例の増加を考えるとその数は”

特殊”といえるほど少ない。このような状況からは枡が一般的に使用された計量器で

あったとはとても言い難く、さらに出土遺跡も平城京・平安京あるいは秋田城など都

城や城柵・官衙を中心にしており、枡の特殊性を物語っている。

計量器の使用は国・地方の役所から集落にまで及ぶであろうが、出土数から見ても

それらが全て枡であったとは考えられず、別のカタチの計量器の存在を想定する必要

がある。ここでは、平城京と唐招提寺から出土したコップ形須恵器に量銘の墨書があ

ることに注目して、いろいろな角度から検討を加え、この土器が別のカタチの計量器

となり得るのかどうか検討したい。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 236 -

最初に「コップ形須恵器」の名称について述べておきたいが、これまでこの種の土器

に対して歴史的な呼称もなく、一般的に使用されてきたものであるとともに、その形

態を最も良く表現していると考えてここでも用いている。しかし、報告書によっては、

坏・埦・鉢などの器種にも分類されている場合もあり、必ずしも統一されているわけ

ではない(註1)。その特徴は、形態は無台と有台があるが円筒形に近く、基本的には

片手で握れるような形と大きさで、家庭で使っている普通のコップと比べると、高さ

がやや低く、スマートさに欠けるがまさにコップ形と形容するのにふさわしい形状を

している。枡形あるいは枡状土器などの呼称も考えたが、実際には中国・朝鮮半島で

は樽形をはじめいろいろな形・材質の枡が存在するが、我々の枡に対するイメージは、

木製・四角に固定されており、誤解と混乱を招く恐れもあるので、形態の特徴からコ

ップ形須恵器としたものである(註2)。

専用か転用かを問わなければ、量銘のある土器は計量器として使用された可能性は

高く、これまで3点が確認されている。平城京右京五条一坊五坪の井戸跡から出土し

た「三合一夕」と書かれたコップ形須恵器(奈良市教育委員会 1988)と、唐招提寺境内

経蔵前井戸跡からはやはり「二合半」の墨書のあるコップ形須恵器が出土している。も

う1点は長野県箕輪町の中道遺跡で発見された須恵器高台坏で、底部に「三合」と墨書

されている(伴他 1974)。これらの3点の土器は、何らかのかたちで計量器として使

用されていたと考えるのが自然であろうが、コップ形須恵器と高台坏の器種としての

土器組成中の占有率の差に注目したい。高台坏は器種としては一般的であり、全器種

の中でもかなりの割合を占めているが、コップ形須恵器は出土する頻度の少ない器種

で、時期的にもある程度限定することができ、この2つの器種に記された量銘墨書の

意味を同じように考えることはできない。つまり、多くの竪穴住居で出土する高台坏

のうち量銘が記されているのは僅か1点であるのに対して、希少な器種であるコップ

形須恵器に2点の量銘があることは確率的にも大きな差があり、コップ形須恵器の性

格を暗示させるものである。また、現在でも手近な茶碗などで大まかな計量をするこ

とがあるように、最も数の多い坏類で代用する事もあったであろうが、それは前述の

量銘高台坏と同じようにあくまで代用品として用いられたのであり、計量することを

主な目的として製作されたものではない。それでは量銘の存在以外に、コップ形須恵

器を計量器と認識できる理由を考えてみたい。

コップ形須恵器の分布をみるとほぼ全国に及び、形態上の差がほとんど無く、時期

的にも大きなバラツキはみられない。また、製作技法も画一的である。分布や時期に

ついては後述するので、ここでは製作技法について観察してみる。形態的には無台と

有台があり、無台は基本的に口唇部を平坦に揃えており、有台は轆轤成形時に口縁を

挽き上げたままで、口縁端部の断面形が丸みを持つか三角形になるものが主体である。

体部については無台・有台ともに直線的であり、外反や内湾はほとんどしない。そし

て底部との接合部の内面は明瞭に、直角に近くなるように接合されており、接合面が

やや抉れていたり底部が薄くなるものまでみられる。このため仕上がりが直線的に見

えるものが多く、全体的に作りが丁寧で歪みもなく、胎土も良好なものが多い。この

ような特徴のなかで、特に口唇部を平坦に揃えるものについては、焼成以前に大きさ

の目安をつけて切り揃えていると考えられるもので、一般の供膳器にはみられない技

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第3節 奈良時代の計量器

- 237 -

法である。これは焼成によって収縮はするものの、製作時点で容量の調整を行ってい

る痕跡でもあり、さらに、口唇部を平坦にすることは、使用時の利便さ、つまり「斗概」

をも考慮してのことで、平城京出土の「三合一夕」銘の土器はこのタイプである。大き

さについては、現在の一合に近いものが主体的であることから、比較的大形が多い枡

と違って日常的な使用が行われたと考えられる。

計量器の判断で最も重要な容量については以後順次述べていくが、度量衡のうち特

に量は、時代による変化や収と出の不均一などが考えられ、統一的で均一な計量結果

は望みにくい。「職員令」や「関市令」には、権衡度量について官私とも毎年2月に検

査をし、合格すると大蔵省の題印が押されることになっている。さらに雑律には笞 30

の違犯規定まであるが、印がある計量器は確認されておらず、実際にはどの程度まで

これが実行されていたのかも不明である。官私共に毎年検査することや罰則規定まで

あることからみると、律令の規定した度量衡は官だけではなく、一般市場や集落にま

で及んでいたのであろう。しかし、ここで注意する必要があるのはその精度であり、

現在のようなほとんど誤差の無い均一な度量衡の世界を、奈良時代に投影できるであ

ろうか。例えば、量銘墨書のある土器の容量を比較しても、一合あたりの割合には差

がみられ、同時代とはいえ必ずしも正確な容量とはなっていない。これは消費の側で

ある住居内での使用には転用・兼用の代用品でも充分であることや、さらには一般市

場においても細かな単位を問題とする程の、高い精度を要求しないこと、そしてその

ような計量が困難であることに由来するのではなかろうか。このことは、計量する対

象にも関わることであり、穀物でも米の他に雑穀類か粒の大きな豆類、あるいはその

加工品や薬などであった可能性も考えることができる。2点の量銘土器がいずれも井

戸から出土していることから、食料に関わる可能性は高いであろう。

官衙などには公定枡ともいうべき基準計量器があり、消費の末端である竪穴住居で

の使用は坏類などの代用品で、そしてその中間に位置するような、市場を中心とした

流通や交易において使用された専用器として、コップ形須恵器を位置付けることがで

きるのではなかろうか。

なお、これまでコップ形須恵器については量銘の存在から計量器であると思われて

はいるが、積極的に計量器であるとの説も無く、また他の用途であるとの反論もない。

性格にまで言及した例としては、文房具の可能性を指摘した渡辺一(渡辺 1990)と現

状では新たな展開がないとした山村貴輝があるが(山村 1990)、渡辺一は文房具より

も枡であった確度は高いと付け加え、山村貴輝については文献史料が無いことを用途

不明とする主な理由としており、特に考古学的な分析をしている訳ではない。以下で

は、これまで注目されることの少なかったコップ形須恵器を集成し、検討してみる。

2 分類と年代観

コップ形須恵器は、坏類や壺・甕類と異なり形態上の差は小さく、全ての遺跡で出

土する器種では無い。また、東北地方から九州地方まで広く分布し、時期的には8世

紀前半を上限とし、確実なところでは9世紀代に姿を消す。ここで集成できたのは表

Ⅳ-3のように、43 遺跡 75 個体であり(註3)、これらの分類と年代を考えてみたい。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 238 -

分類については、高台の有無と口唇部の調整方法を基本とし、大きさは容量の問題

と時期による変化、そして口径や高さをデジタイズして区分してしまう危険性を考え

て、分類項目から除外した。また、形態が規格的であるという計量器の特殊性から形

式学的に変遷を検討するよりも、共伴遺物や出土遺構などを編年上の基本にせざるを

得なかった。

(1)分 類

以下にコップ形須恵器の基本的な分類を記しておいたが、この他にも作りが直線的

なものと全体的に丸みのあるものや、器高の深い埦に近い器形のもの、あるいは口径

に対して器高が低いものなど、いくつかのタイプがみられる。また、各分類の組み合

わせは、以下の分類を基に「高台がなく口唇部が丸いもの」はA‐2類のように表記

する。大きさについては、高さが同じでも口径が僅かに違えば、あるいは口径が同じ

でも高さが僅かでも違えば容量の差は我々が想像する以上に大きく、ここでは分類と

は区別して考えた。

基本的な組み合わせとしてはA類(図Ⅳ-33)と1類そしてB類(図Ⅳ-34)と2

類であり、この両者には分布の上でも差をみることができる(註4)。

無 A 平坦 1

高台の有無 口唇部調整

有 B 丸い 2

(2)年代観(図Ⅳ-36)

コップ形須恵器は、官衙・集落・窯跡など律令期の遺跡以外では、東京都瀬戸岡古

墳群の2号墳羨道部から出土している(後藤他 1956)。しかし、図Ⅳ-33 の No.26 が

この古墳に伴う遺物であるか疑問もあり、これを除くと7世紀に遡る例は無い。これ

までのところ埼玉県下辻遺跡(中村 1987)と樋の上遺跡(小川 1986)出土例が最も

古い。下辻遺跡 13 号竪穴住居ではかえりのある蓋と共伴しているが、口縁部しか残存

していないため形態が不明で、樋の上遺跡 34 号竪穴住居例はやや厚手で内面にも丸味

がみられ、製作技法的にも特殊である。両竪穴住居共に北武蔵型土師器坏が出土して

おり、小形化したA-Ⅲ類坏(図Ⅰ-3)とも共伴していることから、第Ⅰ章第1節

の編年ではⅩ期に相当し、8世紀初頭の年代が与えられる。また、埼玉県北島遺跡か

らは7点のコップ形須恵器が出土しているが(田中 2002)、199 号溝出土の2点は7

世紀後半の遺物と共伴しており(図Ⅳ-35)、樋の上遺跡に近くやや大形で厚手である。

このような厚手で、内面の整形も鋭角を基本としないタイプを初現期の特徴と考える

か、あるいは木製枡出現以前の計量器と捉えていいのかといった問題もあり、製作技

法的には検討の余地がある。

新しい時期のものとしては、同県深作東部遺跡群(諸墨 1984)の9世紀末葉~10

世紀初頭のものと、横浜市薮根不動原遺跡(広瀬 1981)が9世紀中葉に比定されてい

る。しかし、深作東部遺跡群の報告書ではコップ形須恵器の出現を9世紀になってか

らと誤解している部分もみられ、9世紀中葉以降に位置付けられるものは非常に少な

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第3節 奈良時代の計量器

- 239 -

い。埼玉県鳩山窯跡群の編年でも9世紀中葉を下限としている(渡辺 1990)。最も多

くみられる時期は8世紀中葉から後半にかけてで、9世紀にかかるものも多くは前半

までである。

次に、共伴遺物や出土遺構などから時期決定の参考になる遺跡を取り上げて検討し、

年代的な位置付けを提示してみたい。

秋田城跡(小松他 1991)SK‐1031 土取り穴覆土出土のA‐1類は、天平勝宝六

年(754)~天平宝字三年(759)までの具注暦などの漆紙文書が検出された層よりも

下層から出土しており、上限は天平五年(733)の出羽柵以後と考えられている。この

ことから8世紀第2四半期を中心とした8世紀中葉という限定された年代観を与える

ことができる。また、同じ時代の層からは刳り貫きで製作された枡が出土しており、

量の検討と共に2種類の計量器が同時に存在した重要な資料となるものである。

平城京からはA類が1点とB類が2点、そして平城宮からはA類が1点出土してい

る。右京五条一坊五坪の井戸跡SE01 出土の「三合一夕」銘墨書のあるコップ形須恵

器は、A‐1類で共伴遺物などから8世紀中葉に位置付けられている。また、平城宮

馬寮跡出土のA‐1類は東海産で、780 年を中心とした平城Ⅴ期に比定されている。

長岡京のSD12032 から検出されたA‐1類は埦に分類されているが、壷Gと共伴し

ており8世紀第2四半期から第3四半期に、肥前国府久池井BのSK314 出土のA‐

2類は8世紀後半に位置付けられている。

以上のような官衙以外では、生産遺跡である鳩山窯跡群でコップ形須恵器を含めた

編年がされている。それによれば鳩山Ⅱ期からⅦ期、つまり8世紀第2四半期前半か

ら9世紀中葉の約 100 年にわたって存在しており、この年代は他の遺跡の出土例と比

較してもほぼ整合するものである。さらに、各時期の量的な問題についてはⅡ期後半

からⅢ期の製品が最も多いとしており、この点も8世紀中葉が中心であるというこれ

までの分析結果とも一致するものである。また、千葉県永田・不入窯跡(大川 1978 他)

からもA‐1類が7個体出土しているが、この窯跡の上限は国分寺建立の詔の 741 年

と考えられており、生産遺跡における出現時期についても他の遺跡と同様な状況をみ

る事ができる。集落遺跡についても官衙や窯跡と同様に、8世紀の中葉を中心とした

8世紀代と9世紀では初頭と中葉以降にみられるが、数的には8世紀代が主体を占め

ている。これらを見ていくと、コップ形須恵器の器種としての系譜は平安時代初め頃

まで残しつつも、奈良時代を中心に限定された期間に使用された土器であり、他の供

膳器などとは違った消長を窺うことができる。これは特定の地域ではなく、全国的に

同様な傾向にある点で注目しなければならないだろう。

さて、時期のある程度判明しているコップ形須恵器を表Ⅳ-4にしてみたが、これ

によると、これまで見きたように時期には大きく3つの分布の傾向をみる事ができる。

8世紀中葉前後と、8世紀末から9世紀初頭まで、そして9世紀中葉以降で、これら

を1~3期とし、出現期である8世紀初頭以前のものをA期とした。最も多いのが1

期でつづいて2期、そして3期とA期の順である。代表的な土器の変遷を図Ⅳ-36 に

示し、以下に行う検討もこの時期区分を基礎にして考えていきたい。A期については、

北島遺跡の例から、検討の余地があることは前述したとおりである。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 240 -

3 容量からみた規格性

ここで用いる容量の単位については主に「升」「合」と「勺」であり、「勺」につい

ては量銘墨書では「夕」と表記している。これらの単位が現在とどのように対比でき

るかについては、篠原俊次による量銘墨書土器の検討では、当時の測定方法が不明で

あるので断定はできないとしているが、測定結果としては当時の一升が現在の四合六

夕ほどに相当するとしている(篠原 1991)。また、榎栄一は1升 32 立法寸に近い数字

ではないかとし(榎 1994)、荒井秀規は米俵条と天平十二年の駄法改定の分析から、

四合五夕としている(荒井 1992)。枡がとの関係については、秋田城跡ではほぼ同じ

時代の枡とコップ形須恵器が出土しているが、このやや不整形な枡は約 700cc で推定

一升とされ、これとコップ形須恵器の容量を比較していくと、およそ四合一夕となる。

また、平城宮出土枡は唐招提寺出土二合半銘コップ形須恵器と非常に近い値を示して

いる。しかし、容量の基準は時代によって変化し、それぞれに厳格な規定があっても、

現在でも一合徳利が実際には七勺から八勺であるように、仕入れと販売時には異なっ

た内容量の計量器を使用するなど、用法と実際の容量は様々な場合がある。

さらに、同じ計量器を使用していても内容物の入れ方や斗概の方法など計量の仕方

や、たとえば米の場合には精米の状態、乾燥度によっても計量結果には大きな差が生

じ、同じ一俵でも一升に及ぶ誤差がみられることも知られている(小泉 1980)。加え

て当然計量器のカタチによっても、実際に入る量は異なるし、一合枡×10 杯=一升枡

にはならないのである。このように枡などの計量器は一見厳密そうではあるが、はか

りや物差とは違い、計り手などによって内容が変わるアナログ的な性格も強く持って

おり、不確定な要素が多くみられる。枡などによる穀物の計量は、計量の条件を一定

にすることが物理的にも難しく、同じ一合であっても常に同じ計量結果が得られると

は限らない不安定な部分が大きいのである。枡などの計量器を考える場合には、この

ような性質を常に考慮に入れておかねばならない。

コップ形須恵器の製作技法をみると、製作時点から形態や大きさなどに規制が働き、

何等かのモデルが存在して、これに基づいて製作されていることは明らかである。分

布についてもやや偏在しているとはいえほぼ全国に広がっており、高いレベルでの規

格性をみることができる。それでは実際にどの程度の規格があるのかを、以下で考え

てみたい。

表Ⅳ-5(1)で口径と高さの関係をグラフにしたが、高さは 3.5cm から 10cm ま

で、口径は 4.4cm から 10.5cm までの範囲に纒まっているが、細かく見ていくとさら

にいくつかの傾向を看取する事ができる。全体的には高さでは4cm 前後と5cm から

6cm の間と7cm 前後に集中がみられ、口径では 4.5cm から6cm の間と、7.5cm 前

後に纒まりがある。特に口径では6cm から7cm の間が少なく、大きなブロックとし

ては2つに分けられる。また、目立つ集中としては高さ7cm、口径8cm 周辺にあり、

2点の量銘墨書土器もここに位置する。時期的には1期が大形から小形まで存在し、

2期は小形を中心にいくつか大形にもおよび、3期になると小形だけになる。

以上の結果に、土器の内面を直線的に表現した輪郭の累積図(図Ⅳ-37)をあわせ

て考えると、規格的な面は高さよりも口径に明瞭に現れ、高さに関わらず口径8cm 前

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第3節 奈良時代の計量器

- 241 -

後への集中は顕著である。また、容量についてもグラフにしたが(表Ⅳ-5(2))、

これも内面の計測値を直線的な円柱として計算したもので、実際の容量とは一致しな

いが、相対的な差として比較してみた。表Ⅳ-5(2)では、50ml から順次約 25ml

単位で増加しており、150~200ml のものが少なく、口径のグラフと同じような結果と

なっている。ここからも 50~150ml と 200~300ml の大小二つのグループに分類する

事ができる。そして、小形はA類主体で大形はB類が中心的になっている。

4 出土遺跡の性格

これまでは、コップ形須恵器そのものについて検討してきたが、ここでは計量器で

あるコップ形須恵器を出土する遺跡の性格や属性について考えてみたい。各類の分布

状況を図Ⅳ-38 にしたが、A類については大部分が関東地方から出土しており、他の

地方からは点在する程度である。B類は畿内や東海地方などから検出されているが、

関東地方からの出土は無く、形態によって分布が偏る傾向にある。容量の検討で、A

類は 50~150ml の小形でB類は 200~300ml の大形に多いことは述べたが、これは関

東地方に小形が集中しているという事になる。このことは、地域により計量する対象

に違いが存在する可能性を示しているとも言えるであろう。

この項では、最初に出土遺跡を性格により分類し、これを基本としてコップ形須恵

器を出土する遺跡がどのような側面を有しているか検討していく。出土遺跡を見てい

くと、平城京から一般の集落まで次の8つのタイプに分類する事ができる。

1類 都城 飛鳥京 平城京 長岡京

2類 国府 秋田城 土佐国府 肥前国府

3類 郡家 御子ケ谷遺跡(志太郡家)

4類 その他官衙 今池遺跡 横江庄跡 鹿の子 C 遺跡

5類 寺院 唐招提寺 上野国分僧寺尼寺周辺

6類 窯跡 鳩山窯跡群 永田・不入窯跡群 御殿山窯跡群 篠岡古窯跡群

a 官衙周辺・官衙的な集落

7類 集落 b 規模の大きな集落

c 一般集落

8類 その他 瀬戸岡古墳群

以上のように、多くの種類の遺跡から出土していることがわかるが、43 遺跡中 10

遺跡が官衙であり、これに5類の寺院や7‐a類の官衙的な遺構や遺物が検出されて

いる集落を加えると、40%を越える数字となる。また、7類の集落遺跡が 60%近くの

多くを占めるが、1類から6類までの官衙・寺院や生産遺跡とは異なる、消費の基本

である集落についてはさらに3タイプに細分した。集落遺跡の多様な評価については、

集落自体が多くの要素を内包しているので、このような分類がはたして集落の本質を

どの程度反映しているか問題点も多いが、表Ⅳ-3の遺跡類型のように分類してみた。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 242 -

遺跡の性格については、1類から6類までは官衙あるいは寺院・生産遺跡と基本構

造は異なるが、国やその地域の政治・経済・宗教・交通などの中心となり、人や物資

が集まる点で共通している。穀物などの流通・交易で必要な計量器が、このような遺

跡から出土することはむしろ当然であり、奈良時代と平安時代を含めた7点の枡の出

土遺跡も、平城京2点・平安京2点・秋田城1点・奈良県唐古池(居館跡?)1点と

広隆寺領松原庄1点で、1類から4類までを中心としている。さらに7‐a・b類に

は郡家より下位の官衙や豪族層の居館などが含まれている可能性も考えられ、枡を含

めた計量器と官衙の関係は非常に密接であることがわかる。そこで問題となるのは食

料生産の主体でもあり、また消費する側でもある7類の集落遺跡である。しかし、3

小分類したうちのc類は集落全体の 36%で、その他は官衙的な様相を持ったり、いわ

ゆる大集落などと呼ばれる集落が多く、幹線道路に沿ったような人の往来が多い遺跡

と言える。 そこで集落の性格を考えるのに条件の整ったいくつかの遺跡を取り上げて、

コップ形須恵器出土遺跡の属性を検討してみたい。

埼玉県宮町遺跡(大谷 1991)は本章第1節で東山道武蔵路との関係を指摘したとお

り、周辺には若葉台遺跡や勝呂廃寺など同時代の主要な遺跡も多く、遺跡の密度も高

い地域であり、鳩山窯跡群とも近い。8世紀から9世紀を中心にした集落で、大形住

居や大形掘立柱建物などが検出されており、周辺の調査からかなりの広がりを持った

遺跡と考えられる。宮町遺跡からは鳩山窯跡群産の3点のコップ形須恵器が出土して

いるが、その他にも注目できる遺物が発見されている。コップ形須恵器と同一住居か

ら出土した「路家」墨書土器は(図Ⅱ-12・図Ⅳ-11・図Ⅳ-52)、道路との関係を示

唆する遺物であり、報告書でも主要交通路と密接に関わった公的施設か機関である可

能性を指摘している。さらに、8世紀中頃の竪穴住居から出土した棹秤とその錘であ

る権は、全国的に最も多く発見されている度量衡に関する遺物であるが、これらの遺

跡は国府・郡家や駅家などの公的施設、あるいはそれらに関連する集落であるとされ

る。コップ形須恵器の出土と合わせると、律令にある権衡度量のなかで度を除いた権

衡量が発見されていることになる。このことからは宮町遺跡には容量や重量を計測す

る必要性が存在したことがわかり、コップ形須恵器では穀物類やその加工品あるいは

薬類などを、棹秤では青果類や魚などを計っていたであろうことは想像に難くない。

これらの道具は住居で調理などに使用されたものではなく、流通時点で用いられたも

のと考えるのが妥当で、遺跡の性格を表している遺物と言えるであろう。さらに「路家」

墨書土器からは、この遺跡は人の往来の激しいいわば街道沿いで、農産物や越辺川の

漁業も盛んな比較的豊かな集落であり、8世紀の中頃には「市」が立つような賑やか

な時期があったことが想定できる。報告書でも、交通路の要衝や漆器・金属器などの

工房との関連のある遺跡から出土する例を取り上げている。

宮町遺跡の南約7km に位置する、同県光山遺跡群(井上 1994)についても本章第

1節で紹介したが、奈良時代の単一時期の集落としては有数の規模である。ここから、

コップ形須恵器の他に特筆すべき遺物として完形の馬具=轡が出土しており(写真Ⅳ

-1)、この馬具も8世紀中頃に位置付けることができる。光山遺跡群の南限の溝から

約1km 北には、平安時代の道路遺構も発見されており、この道路遺構の東西には隣接

して鎌倉街道や日光街道といった中世以降の古道が平行するように走っている。この

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第3節 奈良時代の計量器

- 243 -

ことから光山遺跡群周辺は古代から交通網が発達していたと考えることができ、馬具

の出土はその時期を奈良時代まで遡らすことが可能であることを示している。また、

漆付着土器や錠前の鍵・「馬」墨書土器なども出土しており、他の遺物を見てもこの遺

跡の特徴の一部を看取できる。このように交通網が整備された地域の中心となり、物

資の集積や中継が行われたと考えられるこの集落から、宮町遺跡と同様な結果を導き

出すことは比較的容易である。

以上の遺跡の他にも、コップ形須恵器ではないが「三合」銘の須恵器高台坏が検出

された長野県中道遺跡では、この土器を出土した 20 号竪穴住居から8世紀末頃の馬具

や鍵などが共伴しており、栃木県多功南原遺跡、長野県鋳師屋遺跡群あるいは埼玉県

宮ノ越遺跡(小渕他 1982)なども、遺構・遺物や遺跡の位置などから駅的な性格を持

った集落ではないかと指摘されている。

コップ形須恵器が出土する遺跡の特徴をみると、遺構からは規模の大きな建物など

を伴なう計画的な造営を、遺物からは比較的豊かな内容を看取する事ができる。第Ⅱ

章第1節の分類では、D・E・F類といった水陸交通や流通と関わる遺跡に顕著であ

る。1~6類までの官衙などの遺跡の他に、集落も特徴的な様相を示すものが多く、

1~6類と7‐a・b類を合計すると 70%近い数となる。これらの状況証拠からは、

コップ形須恵器の出土遺跡には、「人や物資が集まる所」という共通点を抽出する事が

できるのである。

それでは、分布と容量からみた地域性について考えてみたい。A類とB類の容量と

分布の違いについては前述したが、ここでもう1度まとめると、A類は関東地方を中

心に東日本に多く分布し、B類は関東には存在せず関東以西に分布域がある。そして、

A類は小形を主体にしつつも大形から小形まであり、B類には小形は無く大形だけで、

時期的なものもA類は全期間に及ぶがΒ類は1期と2期だけにしかない。これらのこ

とからA類とB類の計量する対象となる物が同一ではない可能性を考えることができ

る。A類は関東地方を中心に収穫できる農産物などを計量するもので、B類は関西な

どの特産物を対象としたものではなかろうか。A類が平城京などでみられるのは、都

に持ち込まれて取引や検査などに必要なためとも考えられ、コップ形須恵器も物資と

一緒に運ばれていることも考慮にいれて、生産地の特定なども今後の課題となるであ

ろう。1部のA類に関しての観察では、胎土や作りが丁寧である事は前に述べたとお

りであるが、他の土器と較べて摩耗が少なく使用痕跡が希薄である。つまり、摩擦が

少なく土器の器壁にほとんど影響を与えない程度の、軽量な物質か、あるいは粉末状

のものであったと推測することができる。ここで具体的な計量対象を特定することは

できないが、穀物類や加工品の他にも出土遺跡数が少ないことから、生産地が限定さ

れた特産物で、『延喜式』などを参考にすると薬や菓子の類も考えられるであろう。

富山県惣領浦之前遺跡からは、内面全体と口縁部に漆の付着したA‐2類のコップ

形須恵器が出土しており、漆の計量のために転用したと指摘されている(朝田 2004)。

惣領浦之前遺跡以外の類例はないが、この事例からは、2類の用途として液体の計量

用にも用いられていることが考えられ、1類との形態の差は計量対象の差を示す可能

性もある。また、『続日本紀』和銅五年十月条で、役夫および運脚者に対する米の売買

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 244 -

奨励がみえ、交通路沿いで旅行者に売ることが知られており、官衙以外におけるこの

ような計量にも使用された可能性を記しておきたい。

このように、コップ形須恵器出土遺跡をみる時、官衙・寺院のような政治・宗教の

中心となる遺跡の他にも、集落遺跡でも交通網が整備され多くの人が集まり、物資が

集中して交易が盛んに行われるような、流通・経済と強い関連を指摘することができ

るのである。コップ形須恵器を計量器として扱い分析を行ってきたが、一般の流通や

市場での取引に使用されたものとしても出土遺跡は少なく、さらに計量器の根拠とし

た量銘が記されているものもわずかに2点だけである。篠原俊次は実際の容量の検討

などからこれらコップ形須恵器を計量器ではなく、量銘容器という評価を与えている

(篠原 1991)。しかし、これまでの分析過程でコップ形須恵器が製作技法や規格性ば

かりでなく、出土遺跡に共通した特性がみられたことなど、別の要因からも計量器と

しての一面をみる事ができた。

木製の枡は最古の奈良時代から平安時代そして現代までかたちの変化も少なく、連

綿と継続して存在している。それに対してコップ形須恵器は確実なところでは8世紀

前半に出現し、8世紀中頃をピークに9世紀前半には既に器種としての衰退期を迎え

る。つまりこの土器は奈良時代を中心にした限定された時期にしか存在しない、存続

期間の短い器種であることが判明した。また、中道遺跡の高台坏を含めて量銘のある

3点の土器も、コップ形須恵器の主体時期である1期・2期と重なり、9世紀以後の

多くの墨書土器にも量銘はみる事はできない。このような事から、奈良時代における

計量器、さらには度量衡に対する特別な様相を窺うことができ、度量衡の各種規定が

まだ大きな影響力を維持していた時代であったと考えられる。

枡以外の計量器については、これまで考古学的にも文献史学からも積極的な研究は

されてこなかったが、本節での分析によって、コップ形須恵器を奈良時代の市場を中

心に、全国的に通用した計量器として位置付けることができた。次節では、コップ形

須恵器を含めた度量衡関連遺物を出土する遺跡の分析などから、流通に関わる遺跡の

構造を解明したい。

(註1)平城宮の器種分類では、椀 A と椀 B に分類されている(奈良国立文化財研究

所 1982)。

(註2)『古代の官衙遺跡Ⅱ 遺物・遺跡編』(奈良文化財研究所 2004)では、コップ

形須恵器を「陶製枡」と明確に計量器として扱っている。

(註3)コップ形須恵器については本集成以後発見例も増加し、その後の研究(朝田

2004)(神谷・笹澤 2008)などで、北陸地方で5遺跡 11 個体、群馬県で 14 遺跡 14

個体及び埼玉県でも5遺跡 13 個体が追加・確認されている。

(註4)群馬県国分境遺跡出土例については、胴部がやや膨らむ新たなタイプであり、

3類として追加されている(神谷・笹澤 2008)。

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第3節 奈良時代の計量器

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表Ⅳ-3 コップ形須恵器出土遺跡一覧

A期

A期

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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第3節 奈良時代の計量器

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図 Ⅳ-33 コップ形須恵器 A 類

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第3節 奈良時代の計量器

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図Ⅳ-34 コップ形須恵器 B 類・その他

図Ⅳ-35 北島遺跡 199 号溝出土コップ形須恵器

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-36 コップ形須恵器編年図

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第3節 奈良時代の計量器

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表Ⅳ-4 コップ形須恵器年代一覧

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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表Ⅳ-5 容量グラフ(1)・(2)

図Ⅳ-37 コップ形須恵器輪郭累積図

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第3節 奈良時代の計量器

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図Ⅳ-38 コップ形須恵器分布図

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 255 -

第4節 古代「市」遺跡の構造

第Ⅱ章第1節の分類でF類とした遺跡は、水陸交通の要衝や沿線に立地し、度量衡に関

わる遺物が出土するなどの特徴から、流通に関係する遺跡であるとした。本章ではこれま

で、交通と流通に関わる遺構・遺物について検討し、前節では度量衡に関わる遺物のうち、

木製枡に代わる計量器として、コップ形須恵器が奈良時代の市場を中心として全国的に使

用されたことを証明してきた。そこで、これらの成果から流通・交易の拠点となる「市」

遺跡について考え、新たな角度から古代東国の特質に迫ってみたい。

古代の「市」については、都城の東西市などをはじめ、文献上でも市に関する記述は多

く、いろいろな視点からの研究も進んでいる。しかし、考古学的に「市」遺跡を分析した

研究は少なく、市として認識された遺跡も寡聞にして聞かない。本節では、水陸交通との

関わりや、コップ形須恵器をはじめとした度量衡関連遺物と、「市」墨書土器などの資料を

手掛かりにして「市」を考古学的に分析し、その構造を明らかにしたい。

1 古代市の研究略史

日本古代における市については、都城を含めて具体的な景観を想定するにはまだ多くの

課題が残っており、個々の店の形態から市全体の構造など基本的な部分も解明されていな

い。都城の市については、律令による規定や『平城京市指図』などの史料と、これまでの

発掘調査によって(佐藤 1975)、その仕組みや配置・規模など徐々にではあるが情報は整

いつつある。しかし、国府市や地方市については存在・役割の研究はされているが、遺跡

や遺構からその証明は困難であるとも指摘されており(宇野 1997)、考古資料からのアプ

ローチは少ない。古代市の立地条件として、文献資料などの分析からは、交通の要衝・共

同体間の境界(河原や坂)・樹木の茂った小高い丘が指摘されている(小林 1982)。また、

市の神聖性と経済的機能としての世俗性や、海柘榴・桑といったシンボルツリーからは、

市神の存在を想定し(村井 1976)、市の多機能性も指摘されている。小林茂文は、市の本

質は異人との接触であり、共同体中心部ではない非日常的ハレの世界で、現世と他界の結

節点とする内面的な研究もある。さらに、処刑や歌垣などが行われた場でもあり、境界性・

平和領域といった性格も具備すると分析されている。

中世における交通や流通に関する研究は多数あるが、特に市と関わるような論考を多く

みることができる。従来から、日本の定期市は寺社門前・国衙ないし庄園領主の政所付近

や年貢物を積みだす津湊に成立したとされている(豊田 1983)。しかし、その属性につい

ては、経済的な機能に加えて宗教的・芸能的さらにアジール性が特徴であるなどのような、

新たな視点で検討が進んでおり、市の世界は神仏の世界に近い境界領域であるといった側

面も指摘されている。具体的な中世市の設定場所については、季節や時間など機能性を重

視した場所であり、土地所有については誰の所有でもない、寺社門前・中州・浜・辻・河

原などとされ、さらにこのような土地は、人間と神仏の世界の境界にある(笹本 1994)と

想定されている。中世市の景観としては、人が住み着いた町(市庭在家など)とその端に

設定された非日常的空間である市(人は住まない)に峻別され(藤原 2003)、市には親市・

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 256 -

市頭など中核的な市が存在し、市の血統があることも指摘されている。また、中世の店舗

建築の検討からは、市の建物が常設化して店舗となったものではなく、軒を連ねて並ぶこ

とのない独立建物型である店舗と、市の仮設建物は直結しないとする研究成果もある(後

藤 2004)。考古資料の分析からは、15 世紀以前の市の要素として、墳墓ないし堂舎の存在・

交通の要衝・遺物が少なく生活観少ない・耕作の不適地などと、大規模な区画や方形竪穴

が存在することが挙げられている(伊藤 1998)。

以上のような中世の研究成果の他に、民俗学的な分析として河原・山に近い河原・山の

端山などが古代的な市の場として上げられている(北見 1995)。また、市の分類として、

市立ちの時期を基準に定期市と野市に、さらに野市は寺社の縁日などの祭礼市と盆・暮な

どの季節的な年市=大市に分けられている。市空間は古い時代ほど人間活動の諸要素が結

合しているという分析は、古代市を考えるキーポイントである。古代の市については前述

のように、文献史学や歴史地理的な面などから研究されているが、考古学的には平城京東

市の調査成果や、都城以外では出土遺物から市の場所について簡単に言及されている程度

である。しかし、近年の研究では、平城京東西市の交易や交易者について検討した舘野和

己や(舘野 2005)、古代の交易や商人など商業全般を扱った中村修也の一連の研究(中村

2005 他)と、考古学的には、山梨県大坪遺跡出土「市」墨書土器の分析を行った平野修(平

野 2008)、また武蔵国府の市を交通との関係から考察した荒井健治の論考などがある(荒

井 2009)。

出土文字資料では「市」「店」「肆」(註1)などが 60 点以上発見されており、棹秤の権

(註2)や前節で取上げた枡など度量衡関係遺物も多くの遺跡で検出されている。さらに、

古代史の成果や中世絵画などからの援用により、立地や景観などを想定し遺構・遺物から

も検討できる段階にあると考えている。

2 古代官衙と市について

古代国家の政治・経済の中心である都城に、国家の流通の中枢である官設市=東西市が

設置されたのは藤原京からである。国府や郡家などの地方官衙には、都城のような定位置

的な市は確認されてないが、地域経済の中心となる市が存在することは指摘されており(栄

原 1992)、その位置関係も検討されている(金田 1995)。ここでは、これらの官衙に加え

て庄園なども含めた遺跡と市の関係について、これまでの研究や調査によって得られた成

果のまとめと検討を行いたい。

(1)都城の市

「~左祖右社。面朝後市、市朝一夫」これは、『周礼』考工記匠人条にある国都造営プ

ランに関する市の記述である。「~王宮の左に宗廟、右に社稷を配し、前方に朝廷、後方に

市を置く。市と朝廷は一夫(百歩)平方とする」と王宮を中心にした配置などが記載され

ている。また、『周礼』内宰には宮市について、市場管理=次・陳列同類商品=肆・各行業

=叙のように、市に関わる施設などの名称が記されている(亢他 1999)。漢代になると、

市は長安城内西北部に3市、東南城外に2市、北郊外に2市、西郊外に2市と西に偏って

存在し(佐原 1985)、街道沿いの橋の近くなど陸路・水路の交点に設置されることが多い

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 257 -

状況が見られる。市はまた経済的な面ばかりでなく、公開処刑や重要な布告の掲示場所で

もあり、公共の場として行政的にも利用されていた。城内の市の位置については、北魏洛

陽城では外郭城の西に大市、東に小市さらに南郭外に四通市が置かれている。隋・唐の洛

陽城になると南市と西市となり、唐の長安城では東西に市が置かれるようになる。平城京

など古代日本の都城の市は、長安城と同様に東西市を採用しているが、位置はやや南側に

移動している(図Ⅳ-39)。中国では宋以前も、州県城内の公設市では貨幣による取引が

行われていたが、郊外の街道筋では生産物をバーター取引する定期市=草市が発達し(愛

宕 1991)、ここから常設店舗の設置さらには恒常的な市場へと変遷を遂げていくことが知

られている。また、北宋以降は集中市場はなくなり、住居と商店が混在する街道形式の商

店街が形成されていくようになる(羅 1990)。

日本の都城においては、藤原京で市を設置して以来、都城内の官営市場は流通の中枢と

して律令国家の経済の核となり、平城京では市周辺には物資調達のため各国の調邸も造ら

れている。東西市は各四町の広さを有し、市司の管理施設や倉が建てられ、広場では処刑

や大道芸なども行われていた。東市では物資輸送に堀川を利用し、繊維製品や生鮮食料品、

手工業品(土器・武器・筆と紙)などが扱われていた。「関市令」では、市の開閉に関わる

規定や価格の決定方法、度量衡の検査規定などが定められており、男女が坐を別にするこ

とや粗悪品を扱ってはいけないなどの細かい規定まである。東西市は左右京職管下の市司

という官司によって監督されており、東西市司は正1人・佑1人・令史1人・価長5人・

物部 20 人・使部 10 人・直丁1人からなり、財貨の交易・器物の真偽・度量の軽重・売買

の估価・非違の禁察などを職務としていた。平安京の東西市については、『延喜式』東西市

司の中で、月の前半は東市・後半は西市で開設し、東市では 51 廛・西市では 33 廛などと

開設日や出店数・品目なども定められている。

都城では、以上のような東西市での経済活動のほか、王家などの有力者が京内で店を出

していることが、長屋王家木簡などで知ることができる。この店が市内であるのか市とは

別の場所に設けられたのかなど不明な点も多いが、律令などの規定外の市場も形成されて

いたことが分かる。また、遷都と市の移動は表裏一体(中村 1987・2001)とされ、市の

設営が遷都の重要なファクターとして評価されている。平安京では、遷都に先行して東西

市を移しており、商人達は国家に関与する存在でもあった。

都城の市に関する発掘例としては、平城京東市のこれまでの発掘調査から全体を概観で

きる情報が蓄積されつつある。築地が巡る空間や空閑地の存在と大形建物や総柱建物など

の遺構が発見されており、市内に性格の異なる地区があることや、隣接して寺院も建立さ

れていることが判明している。市内を流れる堀河からは漆器や金属器などが出土し、北側

には工房も発見されている。市を中心に宗教施設と工房が周辺に配置され、市内を流れる

川を水運に利用しており、市の基本となるような景観と言えるであろう。以下に検討する

各種の市の構造や景観についても、この都城の市が原点となっていると考えられる。

(2)国府市

律令国家によって設定・編成された官市であり、地方市の流通機能に補完されつつ地方

市や国府津・駅家などと結合して国府交易圏を形成したとされている(栄原 1992・1995)。

国府市には既存の地方市そのものか、再編されたものが存在することなども指摘され、国

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 258 -

府交易圏の中心として位置付けられている。近江国では、国府西側の古代勢多橋のたもと

付近に市が設置・整備されたとされており、琵琶湖を利用した舟運が可能なこの市を国府

市と想定している。国府の形態や構造の検討では、国府と国府域のパターンを、A 南北中

軸型・B 東西中軸型・C 外郭官衙型に分類し(図Ⅳ-40)、国庁と道路を軸として機能的

に官衙群を配置していると分析されている(金田 1995)。各官衙は分散的に配置されてい

るが、機能的には結合しており、各種工房や市もこれらと同様の関係にある。AとBタイ

プでは、官衙群入口の道路や川に沿って市が配置され、定位置的な都城と異なり、実用的

な位置関係を設定していることが分かる。

発掘調査の成果から国府に関わる市に言及したものとして、武蔵国府が挙げられる。武

蔵国府では、これまでの膨大な国府域の調査の蓄積と検討から(荒井 1995・1999、江口

2002 他)、市や流通に関わる地域の比定も進められている。国府西側の東山道武蔵路と東

西道路の交差点付近に、官衙ブロックBと呼ばれる板塀列の区画施設があるが、この南側

の府中崖線下沖積地で「市」墨書土器が出土している(図Ⅳ-41・42)。出土地点東の沖

積地には、国司館と推定される官衙ブロックEがあり、多摩川と武蔵路が交わる交通の要

衝でもある。また、国府集落西側ブロックには鍛冶工房や手工業生産の地区があることが

指摘されており、銅製権や佐波理椀・緑釉陶器などが検出されている。この他にも、国府

域ではコップ形須恵器、瓦や甲斐型坏などの搬入品、鉄滓・銅滓・漆付着土器など多様な

遺物が出土している。全体の官衙構成からは、国府域パターンのB東西中軸型に類似して

おり、市の位置についても「市」墨書土器出土地点と一致している。相模国の国府市につ

いては、銙帯や皇朝銭などの特殊遺物の入手は国府市からと想定し(田尾 2002)、国府を

中心に 40km 地域圏に分布が広がっているとした。搬入品や希少な交易品は国府周辺に集

積され、国府市で流通したと指摘し、遺物の出土や分布から国府市の存在や流通圏を検証

している。

上野国では、国分僧寺・尼寺中間地域遺跡は、西に僧寺・東に尼寺と南には国府推定地

及び東山道を控え、上野国の中心部に位置する大集落遺跡であり、コップ形須恵器や小形

権が出土している。当然この地域の政治・宗教の中心であり、度量衡関係遺物や多様な出

土遺物から、さらに経済の中心が加わることは想像に難くない。国府市については、その

存在を前提にした今後の調査により、さらに精度の高い検討が可能になるであろう。

(3)郡家と市

国府と同様に郡家にも市が伴うかについては、国府のように具体的な遺跡名を挙げての

検討はされていないようであるが、遺構・遺物から市の存在が想定できる郡家遺跡を検討

してみたい。

静岡県坂尻遺跡は(加藤他 1995)、原野谷川と東海道が交差する地点の両岸に展開し、

佐野郡家と日根駅家が併設された可能性の高い遺跡であり(松井他 2003)、「佐野厨家」「日

根駅家」「駅長」「三年水鉢駅」「嶋津」など官衙としての性格を示す墨書土器が多数出土し

ている。須恵器蓋内面に「市」と記された墨書土器は、遺跡東端に近い東海道と原野谷川

の接点部分で検出されており、政庁などの郡家中枢部とはやや離れている。おそらくこの

ような地点に駅家あるいは津の施設があり、市は郡家本体より津・駅家などに近い部分に

存在したのではなかろうか。市に該当する遺構を把握するのは困難であるが、設置位置に

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 259 -

ついては郡家よりも交通施設により近いことを想定しておきたい。また、金属製権も出土

しており、市での計量やスタンダードとして使用されたのであろう(図Ⅳ-43)。

長野県生仁遺跡から、「市」墨書土器が出土しているが(矢口 1969)、周辺の遺跡の調査

が進み、西側に展開する屋代遺跡群からは、郡符・国符や軍団関係あるいは出挙関係の木

簡が多数発見されている。生仁遺跡は更埴条里の北東端に位置し、雨宮廃寺とも同一の自

然堤防上にあり、屋代遺跡群と考え合わせると埴科郡家とその関連施設の存在が指摘でき

る。生仁遺跡の「市」墨書土器は、平安時代の竪穴住居の竈から出土しており、須恵器坏

体部外面に二字書かれている。竪穴住居の竈のみが残存していたもので、調査区も小規模

であるため遺跡の広がりや掘立柱建物の存在などは確認されていないが、調査区の南側で

南北に並行して走る2本の溝 CT-1が検出されており、平安時代の竪穴住居を切ってい

ることから中世と考えられる。しかし、構造的には道路状遺構と類似しており、古代に遡

る道路の存在を推定すれば、「市」墨書土器の存在も大きな意味を持つであろう。屋代遺跡

群の木簡は7世紀後半~8世紀前半を主体としているが、遺跡は中世まで継続し、8世紀

末には集落が広がり9世紀後半には条里区割りが完成している。9世紀第4四半期の洪水

によって集落は再編を余儀なくされるが、生仁遺跡の「市」墨書土器の時期はその直後に

相当するものである。また、屋代遺跡群からは「本」墨書土器が多数発見されているが、

生仁遺跡からも2点の「本」が出土しており、洪水を契機とする両遺跡の関係を窺わせる。

屋代遺跡群周辺の再整備により、生仁遺跡が市的な役割を担うようになった可能性もある。

郡家と市の関係については、他の官衙と比較すると度量衡関係の資料や「市」などの文

字資料も少なく、坂尻遺跡のような駅家や津とも関わる遺跡が目立つ程度である。理論的

には、郡家にも国府市に相当するような市が存在する可能性はあるが、国府市と地方市の

狭間にあって坂尻遺跡のような限定された遺跡に設置・開設されたとも考えられる。市の

規模や取り扱う商品により、遺物の格差が生じ存在が把握されにくい点も考慮する必要が

ある。現状では、国府市に対応するような郡家市の存在は確認できないが、特定の郡に設

置された可能性が想定できる。特定の郡家に設置された市の問題は、市のテリトリーや流

通圏さらには郡家の性格の一端まで関わる問題であろう。

(4)津・駅家と市

津は官衙の中では駅家とともに、交通や流通に関わる遺跡であり、津や湊のような舟運

の拠点は、水上交通の拠点であるばかりでなく、そこを起点に陸路により人や物資が移動

するための、陸上交通の拠点ともなる。河川交通については本章第2節で詳述したが、特

に北陸地方では、金石本町遺跡や戸水 C 遺跡(鈴木他 2000)など港湾や津機能と関わる

遺跡の発見が報告されており、金沢市戸水大西遺跡(出越 2000)も水運を意識した物資集

積施設の存在などが想定されている遺跡である。これらの遺跡は、大野川や犀川などの河

川群に挟まれた臨海地区に分布し、津湊成立の前提条件として、日本海から遡上できる河

口と連続する大きな沼・潟と隣接する空間が必要とされている(出越 2003)。

戸水大西遺跡は、9世紀前半をピークとする8世紀後半から9世紀の遺跡で、大溝に画

された建物群が検出されている。出土遺物には木簡や木製祭祀具、漆製品などがあり、墨

書土器も 386 点出土している。墨書土器には「依」「中家」「吉成」などと共に「宿家」「大

市」がある。「大市」は東地区に集中し、磨耗の少ない9世紀前葉の坏蓋 12 点に記されて

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 260 -

いる。水運を意識した大溝からは物資の集積施設を、祭祀具からは祓所を、また「宿家」

墨書土器は宿泊施設を想定させるもので、海運整備に対応した津宅を中心に宿や市さらに

は倉・庄などが複合的に形成されていたと指摘されている。戸水大西遺跡の北に位置する

戸水 C 遺跡からは「津」墨書土器が、西に隣接する畝田・無量寺遺跡からは「市」が出土

しており、これらの遺跡が有機的に結合しながら、津を中心とした臨海部の古代流通コン

プレックスを構成していたのであろう。また、戸水大西遺跡と畝田・無量寺遺跡の「大市」

と「市」の書体は類似しており、市に関わる人物の官的な立場を色濃く感じさせる(図Ⅳ

-44)。

岡山県百間川米田遺跡(物部他 2002)も津の可能性を指摘されている遺跡であり、百間

川対岸の北西にある備前国府に関わる津などの港湾施設の存在が想定されている(山中

1994)。掘立柱建物や道路跡、河道などが発見され、円面硯・銙帯・緑釉陶器などが出土

している。文字資料では「上三宅」「市」の墨書土器や「官」の逆字が刻印された須恵器坏

などがあり、「市」墨書土器は8世紀中頃の丹塗りの土師器坏に記されているものである(図

Ⅳ-45)。河道に沿って発見された道路遺構は、埋立遺構や堤防と同様に統制のとれた綿

密な工事であり、危険な箇所に埋土を行って直線的にしていることから、船曳目的ではな

かったかとされている。さらに道路に隣接して、総柱建物群や「上三宅」墨書土器などが

発見されている。これらのことから、この遺跡には公の土地や施設が存在し、河道は物資

の輸送路として、「市」墨書土器からは官営の市場と物資の集積地の存在が考えられている。

立地や出土遺物からは、市の存在が有力視される遺跡であるが、国府が近接することから

ここを国府市とするのか、あるいは津などに伴う市とするのかなど、市の設置テリトリー

などにも関わる遺跡とも言えるであろう。

以上の他に第2節で扱った、静岡県井通遺跡も水陸交通の要衝に位置し、建物群や大溝

などの遺構が発見され、津の機能・港湾管理施設・引佐郡家の館などの可能性が考えられ

ている。コップ形須恵器・権の出土から流通との関係も深く、市を取り込んだ複合的な機

能の遺跡である可能性も考えられる。

津と市には密接な関連が窺えたが、本章第1節で検討してきた東の上遺跡では、東山道

武蔵路とされる道路とその沿線の遺構群が確認され、馬具や馬の戯画のある漆紙文書など

を出土しているが、度量衡関連遺物の出土はない。報告書では、鉢形とコップ形とされる

須恵器の出土が確認できるが(根本 2010・2011)、2点共に小破片でありコップ形須恵器

とできるか特定はできない。竪穴住居 300 軒以上・掘立柱建物 90 棟以上が調査され、東

山道武蔵路が通過し駅家の可能性も指摘されている遺跡でありながら、度量衡関係遺物の

少なさは注意すべき点である。港湾遺跡として提示した森後遺跡でも、「驛」「路」墨書土

器の出土などから駅戸集落と指摘されているが、度量衡関係遺物は出土していない。これ

らの例からは、駅家と流通・交易の関係は、公的な施設としての駅家と市は密接な関係に

はあるが、地点を区別した棲み分けをしている可能性も考えられる。

駅家に伴うような市は当然存在したであろうが、自然環境に強く規制される舟運の拠点

に土地利用の選択肢は少なく、官主導による官道の設置とは差があった点も考慮に入れる

必要があるかもしれない。石川県加茂遺跡は(石川県埋蔵文化財センター2001)、牓示札

の出土で知られているが、北陸道と推定される道路遺構が検出され、深見駅に比定されて

いる。北陸道と直角に接した大溝と、この大溝に沿って配置されている総柱を含む建物群

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 261 -

などが発見されており(図Ⅳ-32)、牓示札や木簡など多くの遺物は大溝から出土してい

る。加茂遺跡は、この大溝により河北潟からの遡上が可能になり、さらに大野川から日本

海へと繋がることで水陸交通の結節点となりうる遺跡である。駅家ではあるが水運の拠点

でもあり、牓示札の出土からも大勢の人間がこの地に関わる、正に市の適地であるとも言

える。加茂遺跡や前述の森後遺跡・坂尻遺跡のような例も含め、駅家と市の関係について

は課題の一つとして資料精査を続けたい。

(5)庄園、御厨・御薗と市

① 庄園

庄園については、北陸地方を中心に多くの事例が報告されているが、金沢市上荒屋遺跡

(出越 1993)出土の「肆」墨書土器から市と庄園の関係を考えてみたい。上荒屋遺跡は、

東大寺領横江庄遺跡の東に隣接する関連遺跡であり、8世紀中葉~10 世紀の掘立柱建物

31 棟や河川跡などが発見されている。瓦塔・木製祭祀具や 1095 点に及ぶ墨書土器、57

点の木簡などの文字資料も出土しており、東大寺領施入前には内親王家の庄園と推定され

る綾庄と考えられている。墨書土器には「庄」「東庄」など庄園を表すものや「宅」「屋」

「門」のような施設・建物を示すものなどがあり、須恵器坏底部外面に記された「肆」墨

書が2点発見されている(図Ⅳ-46)。「肆」とは、「関市令」などに店の意で登場し、『延

喜式』東西市司の「廛」も同様な意味として使用されている。また、『周礼』内宰には肆の

説明で陳列同類商品とあるように、個々の店舗を表すと考えていいだろう(註3)。「関市

令」毎肆立標条には、市における店舗の開設や市司による物価の記録に関する規定が書か

れている。これまで肆の文字が出土資料として確認されているのは上荒屋遺跡だけである

が、肆が都城の市以外でも店舗の意味として使用されていたことを示している。

上荒屋遺跡で発見された河川 SD40 は、人工的な運河の可能性が高く、右岸に船着場と

考えられる遺構が複数発見されている(図Ⅳ-32)。「肆」墨書の時期である、綾庄期に相

当する8世紀末~9世紀初頭の時期には、船着場遺構のすぐ脇に柵を伴う建物群が並んで

いる。肆に対応するであろう建物を特定することはできないが、これらの建物が船着場と

直結する庄の遺構であると考えられる。墨書土器から庄所のなかの建物には、館・屋・宅・

厨・家と肆があったとされているが、肆については庄所の一部にあった店舗=1棟の建物

を指すのか、市の意と解釈するのか問題が残る。「肆」墨書の土器に眼を転じれば、灯明具

に使用されたものと外面に漆が付着した須恵器坏であり、店内で使用されたものか商品そ

のもの、あるいは商品見本であったことも考えられる。さらに飛躍して考えれば、灯明か

漆と関わる店が船着場近くにあり、それは単独で存在したのではなく市の一部であった。

つまり、上荒屋遺跡には、庄園の施設としての船着場と交易活動の場としての市があり、

「肆」墨書土器からは特定の店舗の姿が投影可能な稀有な例と言えるであろう。肆の遺構

を、発見された遺構群の中から特定できなかったが、調査区外に市ゾーンが存在する可能

性が強く、今後横江遺跡群全体の構成の中で市の位置を考えていく必要があるだろう。

② 御厨・御薗

御厨・御薗とは、天皇や摂関家あるいは神社などに付属する所領であり、御厨では米や

魚介類などの食料を、御薗では果実や茶薬草などを貢進した。例えば御厨では御厨預の下

に案主や鑰取などの役人がいて、耕作の監督・収穫物の管理などを行っていた。特に伊勢

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 262 -

神宮周辺には多くの御厨・御薗が分布していることが知られている。三重県辻子遺跡は(角

正他 2004)、朝明川下流北岸の朝日丘陵に立地し、神郡である朝明郡に所属する。伊勢神

宮との関係で、周辺には神宮領である御厨・御薗が成立している。遺跡は、平安時代から

中世におよぶ建物群が展開し、「市」墨書土器は辻子遺跡第5期の包含層から出土している

(図Ⅳ-47)。第5期は平安時代後期~末に及ぶ時期で、2×2間から 10×3間の 34 棟

の建物が発見されており、これらの建物や区画溝などは条里地割に沿っている。出土遺物

には、「市」「大」「上」などの墨書土器と、灰釉陶器・山茶碗・磁器・転用硯などがあり、

特に百代寺期の灰釉陶器が多量に検出されている。これらの点から、有力者の居住域ある

いは御厨・御薗の存在も想定されている(山本 1999)。

朝明郡は、11 世紀前半に神郡となったが、この時期に辻子遺跡の掘立柱建物群も形成さ

れており、逆に周辺の遺跡は衰退期を迎えている。掘立柱建物群の存在とその規模、周辺

の遺跡群と盛衰が反比例するような様相や、神郡設置時期・周辺に成立した多くの御厨・

御薗からも、この遺跡が御厨・御薗である可能性は高いであろう。御厨・御薗は次第に庄

園化していくようになるが、周辺を含めて景観的にも庄園と近いものがあったと考えられ

る。辻子遺跡の場合も遺跡の立地的に、伊勢湾・朝明川をルートとする水運を利用した流

通経路や、建物群のすぐ南を流れる自然流路が水運に利用された可能性などから、水上交

通上の要衝と言える。大量の灰釉陶器の出土からも、辻子遺跡における水運の重要性は理

解できるところである。こういった遺跡から、「市」墨書土器が出土していることは、物資

の積み降ろしや集積場近くに市が存在した可能性を示唆している。建物群の配置などにつ

いては、調査区が限定されているため遺構の全体像は不明である。しかし、神郡における

庄園的様相の遺跡である辻子遺跡は、古代から中世への変遷を知る数少ない例とも言える

であろう。

(6)古代寺院と市

平城京東市の東に接して、市の守護としての信仰を受けていたと考えられる寺院、土寺

が存在する。また、文献や民俗学的な検討からは、市には市神が置かれたことが指摘され

ており、市の宗教的側面も含めて、両者の関係は密接であり不可分であったと考えること

ができる。そこで、地方においては古代寺院と市がどのような関係にあったか、門前市が

古代まで遡るのかなど、出土墨書土器の分析を通して考えてみたい。

古代寺院と市の関係を窺える遺跡として、埼玉県百済木遺跡(村松 2003)、神奈川県黒

川地区遺跡群の宮添遺跡(大坪他 1995)などが考えられる。また、寺院ではないが、宗教

関連では埼玉県西別府祭祀遺跡(松田他 2000)から「市」墨書土器が出土している。西別

府祭祀遺跡出土の「市」は、両脇が跳ね上がり則天文字の「天」を意識したような書体で

あり、他にも則天文字と類似した文字が見られることから、「市」文字の標準例とは言えな

いが、宗教と市の関係の重要性から例示してみた(図Ⅳ-48)。この則天文字風の市は、

前述した石川県加茂遺跡でも出土しており、河川を利用した祭祀や水運との関連も注意し

ておきたい。また、西別府祭祀遺跡は西別府廃寺と隣接し、さらに西側には評家・郡家で

ある幡羅遺跡が広がり、一体となって武蔵国幡羅郡の中枢部を形成していたと考えられる。

西別府祭祀遺跡は台地上の幡羅遺跡から見下ろすことのできる低地に位置し、「市」墨書土

器の出土位置関係には武蔵国府と共通するところもある。こういった政治や宗教の中心部

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 263 -

と、市が相関的に存在した可能性を指摘したい。宮添遺跡からは刻書の「市」とともに、

「寺」の刻書・墨書土器や鉄鉢形土器、奈良三彩小薬壺などが出土しており、3×2間の

掘立柱建物を中心とした村落寺院と考えられている。壮大な伽藍を持たない村落寺院と市

の関係を知る好例として、特に村落寺院の分布が顕著な東国において、経済や流通面での

役割を検討するケーススタディーとして注目できるであろう。

ここでは、これらの遺跡の中で百済木遺跡出土の「店寺」墨書土器に着目して、遺跡の

立地や前代の遺跡の性格などから市の存在を検討したい。百済木遺跡は、7世紀末~8世

紀初頭を中心とする居宅と考えられている遺跡で(村松 2003)、第Ⅱ章第1節ではA類遺

跡に分類した。80m以上の区画施設内に大形竪穴住居や掘立柱建物が配置されるB区と、

柵内に総柱建物群が展開する G 区などからなる広大な遺跡である。「店寺」墨書土器は C

区2号竪穴住居から出土しており、9世紀中頃の土師器坏である。この坏には漆が付着し

ており、上荒屋遺跡の「肆」墨書土器と同様なケースといえる。「店寺」をどのように解釈

するか検討する時に、百済木遺跡の南東に隣接する寺内廃寺(新井 2002)の存在を考えな

ければならない。寺内廃寺は9世紀代を中心とする氏寺と推定される寺院跡で、「花寺」「東

院」の墨書土器が出土しており、基壇建物や参道などの遺構が発見されている。これらの

ことから、寺内廃寺は講堂・金堂・塔などの伽藍を有し、東院などの付属施設や参道・冠

木門を持つ、本格的な地方寺院であることが確認されている。百済木遺跡は8世紀第1四

半期を最盛期とする居宅であり、寺内廃寺は8世紀前半に創建されたと推定でき、両者の

関係は有機的・継続的と考えられるだろう。周辺には須恵器窯跡を含め、寺院と関わる集

落も展開している。「店寺」墨書は寺内廃寺の最盛期である9世紀中葉から後半期に該当す

る土器であり、時期的にも距離的にも直接関連するものである。また、寺内廃寺の南1km

程の和田川北岸に、式内社出雲乃伊波比神社が位置するが、神社西側の岩比田遺跡からは、

8世紀後半の竪穴住居から石製権が出土している(金井塚 1983)。

このように、居宅・寺院・神社が時期を変遷・重複させながら展開する地域において、

「店寺」墨書土器や権が出土しており、時期的にも寺院を中心とした流通圏の存在が考え

られる。両遺跡を挟んで、荒川とその支流である和田川・和田吉野川の3河川が東西に流

れ、参道とその延長からこれを縦断する陸路が存在したと考えられる。土器には漆が付着

していたことから漆との関係も想定できるが、周辺には窯業・製鉄関連遺跡も分布してお

り、生産と交通の交差点では多くの物資が流通していたのであろう。C区を含め百済木遺

跡では市と関連付けられる遺構は確認されなかったが、位置を想定するとすれば、寺域南

の参道周辺か前代に居宅があり空閑地となった百済木遺跡周辺が候補に上げられるだろう。

「店寺」墨書土器は、寺内廃寺の門前市の肆を表す資料と考えておきたい。地方寺院の中

でも伽藍を有し広大な寺域を持つ寺内廃寺レベルではなく、小規模寺院や前述の宮添遺跡

のような村落寺院の場合など、流通や市とどのように関わるのか課題は多い。

なお、今回は具体的な事例として取り上げることはできなかったが、有力者の居宅と市

の関係も官衙や寺院とともに重要な位置を占めると考えられる。中央では長屋王家のよう

に「店」を持ち、積極的な経済活動をしていたことが長屋王家出土木簡からも想定できる

が、地方における有力者と市・店の関係はどうであろうか。中世段階においては、館と市

の強い関連も指摘されているところであり(鋤柄 2002)、看過できない重要な問題として

付記しておきたい。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 264 -

3 描かれた中世の市

次に、古代市の姿を想定するために、視覚的なイメージの対象として中世絵画に描かれ

た市を検討してみたい。中世絵画資料の中で、正安元年(1299)の作と考えられている『一

遍上人絵伝』には、鎌倉時代の地方の市とその周辺の人物達が描かれている。第四巻第3

段には備前国福岡の市、第四巻第5段には信濃国佐久郡伴野の市の場面が、またこの他に

もいくつかの場面で商店などが登場する。ここでは、絵巻から確認できる市関係の建物を

平面図に置き換えて、その構造や配置などを検討する。

福岡の市は、山陽道と吉井川の交差する交通の要衝に位置し、多くの商品が扱われ賑わ

っている様子が描かれている。5棟の建物で構成され(図Ⅳ-49 上)、1号は確認できな

いが、3~5号建物には1棟に2~3店が同居しており、商店数としては9~10 店ほどに

なるだろう。5号は板壁によって米屋と魚・鳥屋に区画されている。何れも掘立柱建物で、

草葺や板葺・切妻・細い丸太の簡易な建物である。布屋では品定めする女の姿があり、米

屋では枡を使ってはかり売りし、天秤棒に魚を下げた振売と思われる行商人などが描かれ

ている。道を挟んで両側に店が並び、画面手前には小川が流れ、小さな橋が架けられてい

る。3 号は道の中央近くに配置されており、両側を人が通行している様子が描かれている

が、商人は背を向けている。店の正面は3号と4号に挟まれた部分であることが想定でき

るが、橋の存在から道は 3 号の後ろを通過している。1号は4×2間の草葺屋根で背面の

桁側が草壁になり、さらにその手前では耕作している人物がいる。2号は4×2間の板葺

で3号は5×2間の板葺屋根である。4号は4×3間の板葺で桁側の柱が省略されている。

5号は3×2間の草葺であるが、梁間両側の中央の柱が見られない。前述のように5号は

板壁によって仕切られており、この壁部分のみ梁間中央に柱が入っている。1号の裏には

鍵の手状に柵が廻り、その手前には男が小舟から荷を降ろす様子が描かれている。

伴野の市は道の両側に5棟の建物が並び(図Ⅳ-49 下)、板葺はなく何れも草葺の簡素

で雑な造りである。1号は2×2間風であるが梁行中央の柱がなく、道と反対側に庇が架

かるような2×1間の1面庇とも見える構造になっている。2号は1号と平行に並ぶ4×

2間の建物で、梁行右側は草壁である。さらにその右側に道と直行する粗雑な柵が描かれ

ている。3号は5×1間の細長い建物で、後側にこの建物に直角に張出した1間分の屋根

が見える。3号に平行して2×2間の建物と、その後に右側の梁行と平行した3×2間の

4号建物が見え、その間に大きな松の木がある。右奥のコーナーと梁行中央の柱が欠けて

いる。3号の奥には放牧されている牛がおり、犬や烏は店内に入り込んでいる。福岡の市

に比べて人通りも少なく閑散としており、周辺に他の建物は見られない。店には商品も置

かれていないことから、この場面は市の立つ日ではないと考えられる。

以上の『一遍上人絵伝』に登場する2つの市に共通することは、道の両側に5棟ほどの

掘立柱建物が平行して並び、切妻屋根の簡易な造りで軒が接するような配置も見られる。

柱は細く柱間が均一ではなく、一部の柱が省略されている場合もある。部分的に草壁や板

壁が設けられているが基本は開放であり、従って専用の出入口となる間口はない。一部に

柵が設置されている、などの特徴も指摘できる。これらの点からは、市の建物は居住施設

と兼用・併設ではなく、簡素ではあっても商店としての専用施設であったと考えられる。

伴野の市の閑散とした状況からも、商人達は別に住居を持ち、消費者と同様に市の日にこ

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 265 -

の場所に集まって来たと想定できる。このような市の景観に対して、第五巻第5段には一

遍達が武士によって鎌倉入りを阻止されている場面がある。道の中央に板橋が架けられた

溝が走り、両側に屋敷や人家あるいは商店などが並んでいる。この場面には2軒の店が描

かれているが、福岡の市・伴野の市の簡素な建物と異なり、切妻ではあるが板葺きの屋根

と板壁を持つ常設的な住居兼用店舗として描かれている。ここでは、市と都市や町の商店

と視覚的にも明らかに区別されており、細部の構造にも格差をみることができる。

このような描かれた中世の市に対して、宿や市の機能を指摘されている遺跡もいくつか

調査されている。埼玉県堂山下遺跡(宮滝 1991)や大分県釘野千軒遺跡(玉村 1996)で

は、道路に面して建物が配置されており、特に釘野千軒遺跡では街路状の道の両側に建物

が並んでいる。これらの遺跡と『一遍上人絵伝』を比較すると、道に面した建物群は同様

であるが、両遺跡では建物の短軸方向つまり梁側が道に面しているのに対して、描かれた

両市や第五巻第5段の商店では長軸方向である桁側に平行して道が描かれている。この問

題に関しては、『慕帰絵詞』に登場する、松島の漁村・海人集落である浦の苫屋(第五巻第

20 紙)や、丹後の山々に続く山村である金剛薩埵院裏手の集落(第九巻第 10 紙)でも、

基本は梁側が道路と平行している。このような建物の桁側・梁側どちらが道に平行・面す

るかについては、現在でも地域性は存在するが、中世の絵画資料からは、地方においては

一般住居は梁側を道に向け、商店は桁側を向ける傾向を指摘することができる。本節では

この傾向を古代に援用し、桁行を並べた掘立柱建物群に注目して、市遺跡の復原を試みて

いきたい。

4 古代市の属性

前項までは、官衙や寺院と市の関係について述べ、また『一遍上人絵伝』など中世絵画

資料に描かれた市の姿を検討してきたが、これまでの分析で得られた情報などを整理し、

古代市を抽出するのに必要な属性を列挙してみた。

① 陸上・水上交通の要衝

物資の流通と交易に便利な陸路や水上交通の要衝となる場所で、消費地となる施設や集

落が周辺に存在する。市が集落内包型でも単独で存在するにしても、人の往来が盛んで需

要と供給のバランスが取れる立地。逆説的には主要な交通路から離れ、物資の移動や人の

往来の不便な孤立した集落などの可能性は少ない。

② 物資の流通と交易に必要な度量衡関連の遺物が出土する

度量衡に関わる出土遺物としては、秤などの権衡に関わるものと、枡などの量に関わる

ものがある。権衡の資料には、棹秤の権と天秤棒に取り付けるリング状金具などがある。

権は金属製や石製があり、全国的に確認されているが、リング状金具については、埼玉県

宮町遺跡(大谷 1991)など発見例は限定されている。枡に代表される計量器については、

出土遺跡が限定され出土数も少なく、本章第3節で分析したように、コップ形須恵器を通

常の流通に使用される計量器と位置付け、権とコップ形須恵器を指標とした。

③ 市関連文字資料の出土(表Ⅳ-6)

出土文字資料の中で、「市」「○○市」のような墨書土器に注目した。都城や国府など官

衙とその周辺でも発見されているが、多くは集落の竪穴住居や溝あるいは方形周溝状遺構

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

- 266 -

などから出土している。文字資料は、市との関連を視覚的・直接的に感じさせるが、定期・

臨時の市で住居と店舗が兼用でなければ、商人たちも市の日に通勤してくるのであり、本

来の居住地との関係も考えなければならない。

④ 搬入品など多様な遺物の出土

物資が流通し人の往来が盛んになれば、多種多様な遺物と在地以外の製品も出土する。

官衙や寺院など地域の核となるような遺跡周辺でも同様な傾向にあるが、出土遺物の内容

は、流通する商品によっても左右される。

⑤ 桁行を並べた掘立柱建物群

これは絵画資料の検討から導き出した結果であり、人の通行する面に桁行が平行で間口

を広く取ることが基本となると考えた。柱穴の構造・規模も官衙などで検出されるような、

掘形が方形で大形のものではなく、さらに柱の配置・柱間距離が必ずしも規則的でないよ

うな、貧弱な部類の掘立柱建物に注目した。また、市と呼ぶには複数の建物が必要であり、

桁行を揃えて1列あるいは通路・道路を挟んで2列並ぶ建物群を想定した。都城の市も定

期市であることから、常設的な市が地方にあったかは疑問であり、定期・臨時の施設とい

う観点からも小形の掘立柱建物を考えた。

長屋王家木簡の「店」を分析した舘野和己は、「肆」の読みなどから「店」は「市倉」

であり、店と倉の機能を併せもつとした(舘野 1997)(註4)。『一遍上人絵伝』に描かれ

た市からは、側柱の小形掘立柱建物が基本構造であるが、これには屋のような機能が含ま

れる可能性もある。また、集落から離れた位置に点在する総柱建物も存在し、倉庫群を構

成しないような小形の総柱構造も視野に入れておきたい。

5 古代集落と市遺跡

古代市を抽出するための条件として、上記5つの属性を考えてみたが、これを基準とし

て古代集落の遺構配置や立地あるいは出土遺物から、市と呼べる可能性の高い代表的な遺

跡について取り上げてみたい。

(1)出土遺物からみた市遺跡

・宮城県欠ノ上Ⅱ遺跡(工藤 2000) 北西1km に郡山遺跡、広瀬川を挟んだ北東には神

柵遺跡などの、官衙や官衙的建物群が存在する。郡山Ⅱ期官衙の時期には、鍛冶工房や銅

製品が検出され郡山遺跡の規制下にあった集落とされている。9世紀以降は散村的農耕集

落と表現されているが、9世紀中頃の竪穴住居 SI8から底部外面に「七古市」の墨書があ

る須恵器坏が出土している(図Ⅳ-50)。古代には郡山遺跡の南を流れる旧河道と名取川

支流の笊川の合流点の河岸に位置しており、河川交通を利用した郡山遺跡や周辺遺跡群と

の連結に適した要地に立地している。遺構としては確認できないが、市に関わる集落の可

能性が高い。

・埼玉県宮町遺跡 第Ⅱ章第1節で紹介し、本章第1節で交通路との関係から検討したよ

うに、勝呂廃寺や若葉台遺跡などの遺跡が周辺に分布し、東山道武蔵路の通過を想定され

ている地域でもある。8世紀中頃の竪穴住居 SJ9から、リング状の金具3点と緑泥片岩製

権からなる棹秤が出土しており、さらに同時期の竪穴住居などから3点のコップ形須恵器

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第4節 古代「市」遺跡の構造

- 267 -

や「路家」墨書が検出されている(図Ⅳ-52)。越辺川右岸の台地上に位置し、水陸両者

の交通を視野に入れることも可能である。部分的な調査であるが、大形竪穴住居や溝持ち

の掘立柱建物なども発見されていることから、臨時の市のような施設ではなく、物資の集

積や流通が行われた官の介在を感じさせる遺跡である。

・千葉県多古台遺跡群(平野 1997) 栗山川とその支流沿いに広がる樹枝状谷を望む台

地上に点在し、同時期の集落が数多く分布する。№8地点Ⅱでは、8世紀末~9世紀前葉

の竪穴住居 SI1から馬具や「長苗」墨書土器とともに、底部外面に「市」墨書のある土師

器坏が5点出土している(図Ⅳ-53)。土持台遺跡(三浦他 1986)では、主体部のある 29

号方形周溝状遺構から「市」墨書の須恵器蓋2点が赤彩坏や鉄器とともに出土し(図Ⅳ-

51)、栗山川対岸の中内原遺跡でも「市」墨書が発見されている。このように、多古台遺

跡群周辺は「市」墨書が集中して発見されており、栗山川沿いに市か市に関係する人物あ

るいは集団の拠点が存在した可能性も考えられる。方形周溝状遺構については、佐倉市大

作遺跡でも「市」墨書が出土しており、流通あるいは市に関わる人物の埋葬施設であろう。

・山梨県御所遺跡(小林 1998) 桂川右岸の段丘面に位置し、竪穴住居主体の集落であり、

周辺にも小規模な集落が点在する地域である。9世紀前半の8号竪穴住居から、底部外面

に「市」刻書のある甲斐型鉢2点が出土している。(図Ⅳ-54 左上)この竪穴住居からは

水銀朱と金が付着した石杵が発見されており、金メッキに使用する乳棒と考えられている。

また、竈内からは海産魚類(マイワシ)の骨が出土しており、河口から 80km 遡った地点

であることから、鮮魚としての流通は不可能で、保存食品として加工流通したとされてい

る。このような魚類交易は普遍的・広域的に行われていた可能性も指摘されており、砂金

や加工食品の流通と金工房に関わる集落であることが考えられる。本章第2節で港湾遺跡

として取り上げた、埼玉県下田町遺跡でも海水性の魚介類が出土しており、市と河川交通

の関わりを示す遺跡である。

・愛知県桜林遺跡(伊藤他 1998) 矢作川右岸台地に立地し、縁辺部には梅坪遺跡・高橋

遺跡などが並ぶ。また、東2km の矢作川河床遺跡周辺から沖積地を通り、生活域である

台地上に至る交通の要地でもある。8世紀中頃~10 世紀前半の遺物が出土する SD1は、

水の祭祀に関わる溝であり、「酒杯」など 17 点の墨書土器のなかに、底部外面に「市人」

の墨書のある灰釉椀が出土している。(図Ⅳ-54 上中央)岡崎市唐桶遺跡出土の「舩人」

墨書との比較から、「市人」は職名=市司の下で取引を行う人物との可能性が指摘されてい

る。市に関わる職名が記された稀有な例であり、河川交通とも関わり周辺には公的な市の

存在を感じさせる。

・金沢市畝田・無量寺遺跡 (出越他 1983)犀川と大野川に挟まれた日本海を望む微高地

上に位置し、周辺には藤江B遺跡・戸水C遺跡といった庄家に関わる遺跡が分布している。

この遺跡も大形建物群や 50m未満の区画施設、銅椀・円面硯と「庄」「袈」などの墨書土

器から、庄園や庄園に関わる官人あるいは富豪層の居宅と考えられている。こういった遺

跡から「市」墨書が出土しており、(図Ⅳ-54 右上)庄園と市の関連を暗示している遺跡

である。

・福岡市柏原遺跡群(山崎他 1988) 樋井川左岸の、福岡平野と早良平野の境界付近の

入り組んだ地形に位置している。柏原 M 遺跡は 34 棟の掘立柱建物で構成され、製鉄炉や

土器埋納遺構なども検出されている、8世紀後半~9世紀前半の集落である。中国製陶磁

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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器や晩唐三彩の他、石帯・硯・「郷長」「左原補」「山守家」などの墨書土器が出土している。

グリッドであるが、砂岩質と玉質石材の2点の権(図Ⅳ-54 左下)が検出されている。対

岸には柏原古墳群が分布し、7世紀代の G‐1号墳からも権が出土している。また、鉄塊

を供献している古墳や、製鉄遺構を伴う中世居館が上流にあるなど、製鉄と深く関わる地

域でもある。

・福岡県安武遺跡群(富永他 1991) 野原遺跡A地点 SE10 から、底部外面に「市」墨書

のある土師器皿が出土している(図Ⅳ-54 右下)。同遺跡群には三潴郡田家郷家に比定さ

れている野瀬塚遺跡や、居宅・寺院説のある今泉遺跡などが含まれ、南西2km の道蔵遺

跡からは大形建物や「三万少領」の墨書などと権が発見されている。SE10 からは鉄滓や

羽口と粘土塊も出土しており、8世紀後半~9世紀前半の鍛冶遺構の存在を指摘されてい

る。筑後川沿いの遺跡密集地域における物資の流通と生産や工房との関係を窺える地域で

ある。

(2)遺構配置からの抽出

以上のような、出土遺物や立地から市との関連を指摘できる遺跡をいくつか挙げたが、

遺構から市を想定できる遺跡として、千葉県大網山田台遺跡群(石本他 1995・96)と埼

玉県北島遺跡(田中 2002・2004)を俎上に挙げたい。

① 大網山田台遺跡群は2つの水系に跨る、複雑に台地と樹枝状支谷が入り組んだ地域に

広がり、周辺には山田水呑遺跡(石田他 1977)・作畑遺跡・金谷郷遺跡群などの古代集落

が密度濃く分布している。遺跡群内一本松遺跡からは、250 軒以上の竪穴住居や 100 棟近

い掘立柱建物が確認され、銙帯・海老状鍵などが出土している。木葉状文の銅製の権は土

坑 D1025 から出土しており(図Ⅳ-55)、副葬品と考えられている。猪ヶ崎遺跡は、190

軒の竪穴住居と総柱を含む 238 棟の掘立柱建物が発見されており、「北曹司」「大吉」「生

万」などの墨書土器や銙帯から、郷倉の可能性も指摘されている。9世紀後半の H-106 竪

穴住居の竈内から、底部外面に「市」の線刻がある土師器坏が出土している(図Ⅳ-56 右

下)。この遺跡群の中で、「市」線刻が出土した猪ヶ崎遺跡 H-106 竪穴住居の北側に南北に

並ぶ掘立柱建物群に注目し、建物の分布と規模などを検討したい。

調査区南側の遺構集中区域から 50m程距離を開けて、数棟の建物と竪穴住居が南北に並

ぶブロックがある。南側の総柱建物や、L字あるいはコ字状に並ぶ建物群とはやや主軸方

向をずらしているが、4~5 棟の掘立柱建物が竪穴住居を取り込みながら直線的に配置され

ている。掘立柱建物 B-005・006・011・062 の 4 棟、H-011 と 013 の竪穴住居は、他の掘

立柱建物や竪穴住居と一部重複しているが、B-006からH-013まで約 50m続いている。(図

Ⅳ-56 右上)また、B-005・006 の西 10mには溝が平行して走り、H-013 の南には遺構の

疎らな地域が続き、遺構密集地域へ至る。掘立柱建物から遺物は出土していないが、H-011

が7世紀後葉~8世紀前半、013 が8世紀後半~9世紀前半である。B-005 と 011 が3×

3間で、006 と 062 が3×2間であるが、005・011 ともに 0.9~1.2m南北に長い。

B-062 以外は柱穴の直径も小さく、浅いものが多い。005・006 と 062 の西面と 011 の

東面は、2m程の距離を開けてほぼ直線的に通過することができ、011 を挟んで西側の溝と

ほぼ平行になる。東庇の B-066 の存在や 062 と重複する 063・065 などの問題があるが、

062 は明らかに主軸を 90°変えており、性格の違いを感じさせる。こういった直線からな

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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る建物群は、集落内の道路・通路に規制された結果であり、直線と直角を基本とした、広

場空間を持つ配置の建物群とは明らかに性格を異にしている。これは単に道路に沿って並

ぶ建物群ではなく、これまで見てきた遺跡の立地や出土遺物から市に関わる建物群と理解

しておきたい。H106 竪穴住居出土「市」刻書が9世紀後半であることから、市的な性格

は長期間継続したと考えられる。銅製権が出土した一本松遺跡 D1025 は墓壙の可能性が強

く、市開設場所と居住域が異なっていた結果と考えられる。しかし、市に関わる人全てが

居住域:一本松遺跡から市開設場所:猪ヶ崎遺跡へとする理解ではなく、権の使用を必要

とする商人がそうであったということで、市と商人そして消費者は広範な範囲で移動して

いたのではなかろうか。

② 北島遺跡については、第Ⅱ章第1節で述べたように、D類・F類とも関わり、地域の

中核となるような遺跡である。また、本章第1節でも図化したように、東山道武蔵路が周

辺を通過する可能性を考えている(図Ⅳ-14)。

北島遺跡の 19 地点の調査では、8世紀代には2×2間の総柱建物を含む掘立柱建物群

と、竪穴住居がいくつかのまとまりを見せる、第Ⅱ章第1節の集落分類ではⅠ類に相当す

る集落が確認され、9世紀になると2重の区画溝(築地)を巡らせる四面庇の大形建物が

出現する。市に関わる遺物では、計量器や権が出土しているが、調査区中央付近の竪穴住

居やグリッドなどからである(図Ⅳ-58)。調査区南端では、道路と河川が発見されてお

り、河川の北に並行するような道路が何条か走っている(図Ⅱ-11)。調査区内には南北

に走る河川跡も発見されているが、両河川ともに古代には窪地状になっており、水路とし

ては機能していない。しかし、土地利用の境界や限界として存在した。古代の道路遺構は、

東西に流れる南端の河川跡の北で5本が確認されているが、4本が側溝を持ち1本は波板

状痕跡がみられる。このうち1号道路と2号道路の2本は幅 12m、3号道路は6mで、3

号道路は途中で大きく南に屈曲しており(図Ⅳ-57)、重複関係にあることから時期差が

あり、1号道路から順に新しくなる。

1号道路と2号道路及び3号道路の直線部分に並行して、3×2間を最大とする9棟の

掘立柱建物が道路両側に直線的に並んでおり、区画内の建物群などとは主軸方向も異なっ

ていることから、道路を意識した配置をみることができる。北側に並ぶ建物群のうち、72

号掘立柱建物と 73号掘立柱建物は、『一遍上人絵伝』に描かれたような貧弱な建物であり、

72 号掘立柱建物については2×1間でありながら、ほぼ方形の平面形となるなど変則的な

形態である。また、円形柱穴で小規模にもかかわらず、2間側の柱間距離は2mに近いな

ど、第Ⅱ章でみてきた郡家に匹敵するようなアンバランスな構造をしている。このような

変則さは、間口を広くとる『一遍上人絵伝』「福岡の市」にみることができる。道路遺構を

挟んだ河川跡との間にも、側柱建物と総柱建物の2棟の組合せが重複してやや位置を南に

移動しており、道路を中心に 72 号掘立柱建物・73 号掘立柱建物と対照的な位置関係にあ

る。これらの掘立柱建物の時期は出土土器や重複関係・主軸方向から8世紀前半から8世

紀後半であり、コップ形須恵器の時期とも整合する。南の河川跡からは古代の遺物は出土

しておらず、古代には埋没して湿地のような状況になっており、このような遺構のない河

川跡を背景に、道路に並行する9棟の建物が建替えや位置を若干変えながら、道路に沿っ

て建てられていたのである。広い間口が道路と直行していることから、図Ⅳ-55 矢印のよ

うにこれに面して遺跡中心部と結ぶ通路の存在も想定できる。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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以上の2遺跡をみると、直線的に並ぶ掘立柱建物群は、遺構が集中する遺跡中心部では

なく、やや離れた遺跡縁辺部に位置しており、通路や道路に沿って配置されるという共通

点をみることができる。また、掘立柱建物群も円形柱穴の小形建物が中心であり、間口を

広く開ける変則的な構造の建物も存在する。2遺跡ともに地域の中核となる遺跡で、度量

衡関係を含む多様な遺物が出土し、道路遺構や「市」出土文字資料の検出もある。このよ

うな遺跡にあって、直線的に並ぶ掘立柱建物群は、在地社会における市の具体的な姿とし

て捉えることができるであろう。

6 古代市と商人

日本古代の市はどのような姿であったのか。考古学的にどこまでその実像に迫れるかを

目標に、官衙や寺院などと市の関係を述べ、遺構・遺物から在地社会における市を検討し

てきた。しかし、市に携わる人間あるいは集団に関しては、愛知県桜林遺跡出土の「市人」

や滋賀県金剛寺遺跡出土「商人」墨書土器などが市と人を関連付けられる数少ない資料で

ある。文献資料からは、店舗商業と遠隔地商業とを区別し、前者に従事するものを市人、

後者を商人とし、商人は「商旅」という言葉に代表される(櫛木 2002)としている。また、

商人の原形となる奈良時代の交易者は、遠距離型行商・近距離型行商・市人の3タイプに

分けられ、市人には都城の市肆で交易するものと、在地の産品を販売する地方の市人があ

る(中村 2004)としている。市人・商人ともに出土資料から確認できるが、墨書土器はい

ずれも地方の集落遺跡出土であり、具体的な商人像に迫るには資料は限定され、考古学的

な分析も少ない。

そこで、市と関係する埋葬施設についてみてみると、千葉県大作遺跡(図Ⅳ-59)や多

古工業団地内遺跡群の土持台遺跡では、主体部を有する方形周溝状遺構から「市」墨書土

器が出土しており、被葬者と市の関係を想定できる数少ない遺跡である。また、前述の大

網山田台遺跡群一本松遺跡の土坑出土の銅製権は、副葬品ではないかと考えられている。

方形周溝状遺構の被葬者については、当然古墳や方形周溝墓と比較してしまうが、こうい

った特定の墳墓に埋葬されるのは特定の階層か有力者であると考えるのに異論はない。中

村太一は古代商人の身分は低く、零細であったと指摘し(中村 2004)、中村修也は在地豪

族と市の結びつきは強く、市人の多くが地方の下級豪族であった(中村 2005)と分析して

いるが、「市」墨書土器や権を伴う埋葬施設からの帰結は上記のとおりである。被葬者が市

の運営に関わるような立場の人物であると限定しても、社会的・経済的な位置を表してい

ると考えられ、地域や集落における優位性を物語っている。この被葬者を商人と呼べるな

ら、彼らの地位や財政能力は高かったと言えるであろう。市における商人達の居住地と市

の場所そして墓域の位置関係については、市のテリトリーや流通圏あるいは商人の出自と

も関わる問題である。中世では市場利用圏が片道2時間8kmとされているが(桜井 2003)、

こういった範囲内で完結していたのか、あるいは複数の市に関与した商人が存在した可能

性もある。

市人あるいは商人については、商品に関する知識や情報、あるいは交渉能力など専門性

を要求されるにもかかわらず、生業としての実態が不明であり具体的イメージはつかみに

くい。あるいは古代においては、独立した産業として成立していないことも考えられ、専

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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業として従事していたのではなく、兼業か専業でも複数の市に関わった可能性もある。御

所遺跡や柏原遺跡群では市と金属生産との関係をみることができたが、武蔵国府でも手工

業と市の関係は深いように、生産と流通の拠点は接近していたのであろう。これは商人と

工人の近さも物語っているのではなかろうか。

古代東国では、地域の中核となるような遺跡や水陸交通の要衝に市が設けられ、遺跡の

中心部ではなく縁辺部に小規模な掘立柱建物群によって構成されていた。このような構造

の市が形成されたのは、ここでみてきた遺跡の多くが8世紀から9世紀を主体としており、

関東地方で多出するコップ形須恵器も、8世紀を中心に使用された計量器であることから、

8世紀を起点とすると考えられる。本章第2節で、河川交通との関わりから述べた埼玉古

墳群の石室石材の流通のように、「律令期以前から各地の豪族たちが独自の流通経済圏を形

成」(中村 2005)し、石材のように広域的な流通も確認できる。しかし、本節で示した市

は、古墳時代以来の流通圏とは異なる、7世紀後半の新たな社会再編や交通網整備に伴っ

て出現したもので、第Ⅰ章第1節の編年ではⅩ期を遡るものはない。在地社会に設けられ

た市は、地域の再編後に、地域の有力者が拠点とする集落などに設置したものとして理解

できる。これに対して、官衙に伴うような市については、具体的な遺構としての情報が乏

しく、現状では図示することは不可能である。今後の大きな課題としておきたい。

(註1)「肆」は、「いちくら」「みせ」などの読みがあり、商品を並べた場所や店を意味す

る。

(註2)錘・おもりなどの用語もあるが、ここでは本章第3節でも使用してきたように、

吉村に従い権を使用する(吉村 1995)。

(註3)東野治之は、長屋王家木簡の「店」について、「肆」と同義であるとし(東野 2001)、

市の周辺に設けられた王家の施設とした。

(註4)肆をイチクラ=市倉と読むことへの反論もある(東野 2001)。和語そのものから

倉庫の意味は引き出せず、註3で記したように肆は店の意味であるとしている。

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-39 唐長安城(左)と平城京の東西市

図Ⅳ-41 武蔵国府出土土器

図Ⅳ-40 国府域パターン模式図

(金田 1995から転載)

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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図Ⅳ-42 武蔵国府概念図(江口 2002 から転載)

図Ⅳ-43 坂尻遺跡出土遺物

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-44 戸水大西遺跡・戸水 C 遺跡出土墨書土器

図Ⅳ-45 百間川米田遺跡出土墨書土器

図Ⅳ-46 上荒屋遺跡出土墨書土器 図Ⅳ-47 辻子遺跡出土墨書土器

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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図Ⅳ-48 百済木遺跡・宮添遺跡・西別府祭祀遺跡出土土器

図Ⅳ-49 『一遍上人絵伝』「福岡の市」(上)・「伴野の市」模式図

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-50 欠ノ上Ⅱ遺跡出土墨書土器

図Ⅳ-52 宮町遺跡と出土遺物

出土遺物

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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図Ⅳ-51 土持台遺跡出土墨書土器

図Ⅳ-54 御所遺跡、桜林遺跡、畝田・無量寺遺跡(上左から)、柏原 M 遺跡(下左権2

点)、野原遺跡 A 地点出土遺物

図Ⅳ-53 多古台遺跡群出土墨書土器

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-55 大網山田台遺跡群一本松遺跡 D1025 と出土銅製権

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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図Ⅳ-56 大網山田台遺跡群猪ヶ崎遺跡

H106 竪穴住居

H106 竪穴住居出土土器

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第Ⅳ章 古代の交通と流通

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図Ⅳ-58 北島遺跡出土遺物

3号道路

1号道路側溝

2号道路側溝 72 73

河 川 跡

図Ⅳ-57 北島遺跡古代道路と建物群

中心部への通路

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第4節 古代「市」遺跡の構造

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図Ⅳ-59 大作遺跡方形周溝状遺構と出土墨書土器

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表Ⅳ-6 「市」関連出土文字資料

文字 遺跡名 所在地 備考1 市(木?) 朝日山(2)遺跡 青森市 刻書・土師器甕2 (リに市)・上 秋田城跡 秋田市 官衙3 市 多賀城跡 宮城県多賀城市 官衙4 七古市 欠ノ上2遺跡 宮城県仙台市5 在=(市に□)□ 清水台遺跡 福島市6 市 佐平林遺跡 福島市7 市木 薬師寺南遺跡 栃木県河内郡南河内町8 店寺 百済木遺跡 埼玉県大里郡川本町9 市(=)天の則天文字か 西別府祭祀遺跡 埼玉県熊谷市 祭祀遺跡10 (市)・□ 仮屋上遺跡 東京都国立市11 市 武蔵国府関連遺跡 東京都府中市 国府周辺12 □(市・匝) 多古台遺跡群№8地点Ⅱ 千葉県香取郡多古町13 市 多古台遺跡群№8地点Ⅱ 千葉県香取郡多古町14 市 多古台遺跡群№8地点Ⅱ 千葉県香取郡多古町15 市 多古台遺跡群№8地点Ⅱ 千葉県香取郡多古町16 市 多古台遺跡群№8地点Ⅱ 千葉県香取郡多古町17 市 土持台遺跡 千葉県香取郡多古町 方形周溝状遺構18 市 土持台遺跡 千葉県香取郡多古町19 市 中内原遺跡 千葉県香取郡多古町20 市 大崎台遺跡 千葉県佐倉市21 市 大作遺跡 千葉県佐倉市 方形周溝状遺構22 市 喜多仲台遺跡 千葉県市原市23 市原□ 上総国分寺関連遺跡 千葉県市原市 国分寺関連24 市 大網山田台遺跡群(猪ヶ崎遺跡) 千葉県東金市 線刻25 市□(之) 作畑遺跡 千葉県東金市26 □(市) 居村B遺跡 神奈川県茅ヶ崎市 木簡27 市 下寺尾七堂伽藍跡 〃28 市・市 西久保上ノ町遺跡 神奈川県高座郡寒川町29 市(則天文字か) 黒川地区遺跡群(宮添遺跡) 神奈川県川崎市 刻書30 (市の上の点なし) 城ノ内遺跡 長野県更埴市31 市 生仁遺跡 長野県更埴市 内外面2字32 市 和手遺跡 長野県塩尻市33 市村 芹田東沖遺跡 長野市34 市 御所遺跡 山梨県大月市 刻書35 市 御所遺跡 山梨県大月市 刻書36 市 池之元遺跡 山梨県富士吉田市 巾か37 市 畝田・無量寺遺跡 石川県金沢市 庄園関連38 □肆 上荒屋遺跡 石川県金沢市 庄園関連39 肆 上荒屋遺跡 石川県金沢市40 大市 戸水大西遺跡 石川県金沢市 津関連?41 市□ 戸水大西遺跡 石川県金沢市42 市 重竹遺跡 岐阜県関市43 □市 坂尻遺跡 静岡県袋井市 官衙44 市 坂尻遺跡 静岡県袋井市45 市人 桜林遺跡 愛知県安城市46 商人 金剛寺遺跡 滋賀県近江八幡市47 酉市 鴨遺跡 滋賀県高島郡高島町48 □市 杉垣内遺跡 三重県松坂市49 市 辻子遺跡 三重県四日市市50 □市郡 長岡京東辺官衙 京都府長岡京市 都城51 □市□□ 纒向遺跡 奈良県桜井市52 □□(市)□ 平城京 奈良市 都城53 □市□(王) 平城京 奈良市54 店 長屋王家 奈良市 木簡55 西店 長屋王家 奈良市 木簡56 市宅 興福寺旧境内 奈良市57 古市里 長原遺跡 大阪市58 市 出雲国庁跡 島根県松江市 国府59 高(商)・□ 美作国府跡 岡山県津山市 国府60 市 百間川米田遺跡 岡山市 津?61 市 野畑A遺跡 福岡県久留米市62 矢口肆木 薩摩国分寺跡 鹿児島県川内市 国分寺

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