※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※...

姿10 11 12 13 14 15 16 沿17 18 12 16 2 6 ※※ 姿姿4 1 14 1※ 初段 大内の段 1

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Page 1: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

中国で仙人が住

むという想像上の山

「姑射山(こやさん)」。

※2

しなやかでやさ

しい姿。

※3

きらきら輝く。

※4

梅花で有名な中

国の山。仙人が住むと

考えられていた。

※5

よく考えて。

※6

これは本当の木

の精なのか。いや、そ

うではない。

※7

登場人物の松王

丸・梅王丸・桜丸を指す。

※8

「天満大自在天神」

という神様。

※9

書道。

※10

左大臣の次の位

にあたる。

※11

支配力があり幅

をきかせる。

※12

「菅」は菅原、「丞

相(しょうじょう)」

は中国で大臣の意味。

※13 醍醐天皇(だい

ごてんのう[八九七〜

九三〇年])の時代。

※14

儀礼等を司る役

所。

※15

下級役人。

※16

現在の中国東北

部からロシア沿岸地方

にかけて当時栄えた

国。

※17

当時の皇帝。

※18

天皇として優れ

ていること。

初段

しゃくやく

※12

※16

こ 

らふさん

大おおうち内の段

 

蒼そうそう々

たる姑射の松化け

して卓女薬

2

の美人と顕はれ、

珊さんさん々

たる※

羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ

れ擬議して※

変化をなす、あに誠の木も

くせい精

ならんや6

唐もろこし土

ばかりか日の本にも人を以て名付くるに、松

と呼び梅といひ或ひは桜に准な

ぞら

ふれば※

、花にも心

天あまみ満

つる大自在天神※

の御自愛ありし御神詠、

世に伝へてありがたし

この神未だ人臣にまします時、菅す

がわら原

の道み

ちざね真

と申し

奉り文学に達し筆道※

の奥お

うぎ儀

を極め給へば、才学智

徳兼ね備はり右大臣※※

に推任あり、権威にはびこる※※

左大臣藤原の時と

きひら平

に座を連ね、菅か

丞しょうじょう

相と敬はれ

君を守護し奉る延え

んぎ喜

の御代※※

ぞ豊かなる

かゝる所へ式部省の下司春藤玄蕃の允

じよう

友ともかげ景

まかり

出で、庭上に頭を下げ

 「今度渤ぼ

っかいこく

海国より来朝せし唐僧天て

んらんけい

蘭敬が願ひに

 

は、『唐も

ろこし土

の徽き

宗そう

皇帝※※

、当と

うぎん今

の聖徳※※

を伝へ聞き、

 

何なにとぞ卒

天顔を拝し奉り御姿を画に写し帰国せよ。

 

その画を即す

なわ

ち日本の帝み

かど

と思ひ対面せん』との望

 

みにつき、数々の贈り物即ちこれに候ふ」

と庭上に飾らすれば

菅丞相聞き給ひ

 「コハ珍かなる唐僧が願ひ。当と

うぎん今

延喜の帝聖王

 

にてまします事隠れなく、御姿を拝せんと唐の

※4

※1

※14しきぶしょう

しゆんどうげんば

したづかさ

※1※

初段 大内の段 1

Page 2: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

病気。

※2

貢ぎ物。

※3

何かお考えがあ

りますか。

※4

代理。

※5

天皇が着る礼服。

※6

天皇を倒して天下

を奪おうと企む悪事。

※7

人相を観る者。

※8

天皇の家臣。

※9

同じ母から生ま

れた。

※10

斎世親王は延喜

の帝の弟で、帝が万一

の時、次の天皇に即位

する資格がある皇族。

※11

玉飾りのある簾

がかかっている奥の。

※12

女官。

※13

天皇の自称。

※14

天皇の命令。

 

帝の望みは直す

に我が国の誉れなれども、折あし

 

き天お

おぎみ子

の御ご

のう悩

ありのまゝに言ひ聞かせ、音い

んもつ物

 

唐僧も唐土へ帰されんや。時し

へい平

の了り

ようけん簡

ましますか」

と仰せに

冠打振つて

 「そふでない道真、御病気と申し聞かしてもよ

 

も誠には思ふまじ。御お

形かたしろ代

を拵へ天き

み皇と偽つて

 

唐僧に拝さすれば何事なう事は済む。誰た

彼と言

 

はんよりこの時平が代はりを勤め、袞竜の御衣

 

を着し天き

み子になつて対面せん」

とひと口に言ひ放す謀む

ほん叛

の兆しぞ恐ろしき

菅丞相止め給ひ

 「時平の仰せは天て

んが下

の為た

御形代とはさる事なれ

 

ども、もしやかの僧相そ

うにん人

にて君臣の相をよく見

 

るならば、王孫にあらぬ臣下と知るべし。その

 

時いかゞ仕

つかまつら

ん」

と暫し

しの間御思案あり

 「所し

よせん詮

天子の御み

代はり、人臣※

はなり難し。幸ひ

 

御同腹※

の弟宮斎と

きよ世

の親き

み王を今日一日の天子と仰

 

ぎ、御姿画を唐土まで伝へて恥じぬ御粧よ

そおひ

。こ

 

の儀いかゞ」

と理に叶ふ詞こ

とば

違ふ時平が工た

くみ

、口あんごりと明き居たる

玉たまだれ簾

深き※※

ひと間より伊予の内な

いし侍

立出で給ひ

 「両臣の御争ひ、我が君詳しく聞こし召され、

 『朕ち

が代はりは斎世の宮』と直々の勅

ちよくじよう

諚にて只

※1

※2

※※

※4

※※

こしら

ぎょい

こんりよう

※6

※※

※12

※10

※1※

※14

初段 大内の段 2

Page 3: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

日本。

※2

薄い着物。

※3

天皇のお顔。

※4

大いにめでたい

こと。

※5

貴人の出入りな

どで「シイ」と声を掛

け静まらせること。

※6

金色の天皇の冠。

※7

天皇のお姿。

※8

仏に備わるとい

う三十二の優れた姿・

形。

※9

檜(ひのき)を

箸状に削り、先端を焼

き焦がした、下絵を描

くための絵筆。

※10

正しくは「がん

き」。中国の画家。

※11

天皇からご褒美

を賜るであろう。

 

今御衣を召し替え給ふ。この由申し伝へよとの

 

仰せにて候ふ」

と内侍は奥に入り給ふ

玄蕃の允が案あ

内ない

にて渤海国の僧天蘭敬、倭朝1

に変

はる衣き

の衫さ

、庭に覆ひて畏か

しこ

まる

 「ムヽ唐土の僧天蘭敬とは汝よな。竜り

ようがん顔

を写し

 

奉らんとの願ひ、叶ふは汝が身の大慶4

。有難く

 

存じ奉れ」

と時平が指図に

警けいひつ蹕

の声諸も

ろとも共

に高々と御み

す簾巻き上ぐるその内に

は、弟宮斎世の親王金き

巾子の冠か

むり

を正し御衣さはや

かに見へ給ふ

実げ

に王孫の印とて、唐僧始め座列の官人『あつ』

とひれ伏し敬へり

天蘭敬漸よ

うよう々

頭を上げ玉体※

をつく

と拝し奉り

 「ハヽア天つ晴れ聖主候ふや。我が国の徽宗皇

 

帝慕はるゝも理

ことわりな

り。三十二相※

備はつて言はん

 

方なき御形、勿も

つたい体

なくも僕

やつがれが

筆に写し奉らん」

と用意の絵絹硯

すずり

箱檜ひ

のきの

焼やきふで筆

さら

と、眉のかゝ

り額際、見ては写し書いては拝し、御笏し

ゃくの

持たせ

様御衣の召し振り違ひなく、即席書きの速やか

さ、顔が

んぴ輝

が子孫か只ならぬ画筆の妙を顕せり

道真公仰せには

 「重ねて俸禄賜びてんぞ、旅館に帰れ」

と下知を受け継ぐ春藤玄蕃、御暇申させ唐僧を伴

ひてこそ退出す

※2

※※

※※

※6

※※

※10

※11

初段 大内の段 3

Page 4: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

官位の最下位の

位。

※2

天皇にこの次第

をお伝えせよ。正しく

は「奏聞」。

※3

失礼である。

※4

自分勝手に。

※5

思惑を言い当て

られる。

※6

返答に詰まる。

※7

人間は何時死ぬ

かわからない。

※8

書道。

※9

一番目の子ども。

※10

伝授することが

できない。

※11

奥義を伝えるの

にふさわしい、才能が

ある者。

※12

奥深い事柄。極

意。

※13

漢字伝来以前の

我が国の文字。

※14

外出せず、飲食

を慎み、身体を清め、

不浄を避けること。

※15

「置座(おきく

ら)」の台に七本の御

幣(白色の紙を串に挟

んだもの)を飾ること。

※16

神に祈りを捧げ

ること。

帰るを待つて時平の大お

臣とど

玉座に駆け寄り、斎世の

宮の肩先掴つ

んで引きずり出だし、御衣も冠も

かなぐり   

 「唐人が帰つたれば暫くも着せてはおかれぬ。

 

九位1

でもない無位無官に、着せた装束この冠穢け

 

れた同然。内裏に置かず我が預かる。今日の次

 

第は右大臣、相聞せられよ2

。身は退出罷ま

り帰る」

と御衣冠奪ひ取つて行かんとす

道真立つて引き取り給ひ

 「聊り

ようじ爾

なり※

時平。勅もなき御衣冠私に4

持ち帰り、

 

過つて謀叛の名を取り給ふや」

と何心なく身の為を

言はるゝ身には胸に釘※

、頭

かしら

歪ゆが

めて閉口す6

斎世宮菅丞相に向かはせ給ひ

 「天子序つ

での勅諚には、『老少不定極まりなし※

 

何時知らぬ世の中に名ばかり残すはその身の為。

 

道を残すは末世の為。妙を得たる筆の道※

伝ふべ

 

き惣領※

は女に

よし子

なれば是非に及ばず※※

。幼ければ弟

 

の菅秀

しゆうさい才

にも伝ふまじ。弟子数あ

また多

ある菅丞相、

 

器量※※

を択え

みて筆道の奥儀※※

を授け長き世の宝とせ

 

よ』との御事」

と仰せの内に

道真公

 「コハ有難き君の恵み。我が筆法の大事には神

 

代の文字※※

を伝ふる故七日の物忌※※

七座の幣※※

。神道

 

加持※※

に唐か

倭やまと

。文字は何万何千にも我が筆道に洩

初段 大内の段 4

Page 5: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1 「道」と「真」を

合わせると菅原「道

真」になる。

 

れしはなし。それとも知らずこゝかしこに手習

 

ふ子供も皆我が弟子。今日より私宅に閉じ籠も

 

り択み出して器量の弟子に筆伝授け申すべし」

と宣の

たま

ふ詞こ

とば

は今の世に伝へて残る筆道の、道は御名

に顕れて真ま

こと

なるかな1

誠なる、君が御代こそ

初段 大内の段 5

Page 6: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

京都の上賀茂神

社。近くに加茂川(賀

茂川。下流は鴨川)が

流れる。

※2

貴人に仕える身

分の低い者。

※3

(物忌みで外出で

きない菅丞相の)代理。

※4

朝廷の役職の一

つである左弁官の次

官。

※5

代わりに参詣す

ること。

※6

貴人の病気を敬っ

ていう言葉。

※7

神前で沸かした

湯に巫女が笹を浸し

人々に振りかけるお祓

いの神事。

※8

心地よさ。

※9

ここでは大物の

意。

※10

よこした。

※11

短気。

※12 行こうではない

か。

※13

よくそんなこと

が言えるな。

※14

行いの正しくな

い人物。

※15 「人の好みはさま

ざまである」。

※16

あんな奴。

※17

考えをめぐらす

こと。

※18

お前。

※19

奇妙な、迷惑な。

※20

困った。

初段

加茂堤づ

つみ

の段

 

引捨つる、車は松に輪を休め

舎とねり人

二人は肱ひ

枕。二輌並べし御所車

かたへは藤原

かたへは菅原、道真公の名代※

は左中弁希世

時しへい平

公の代参※

は三み

よしの善

清きよつら貫

加茂明神へ御悩※

の祈願、神み

こ子が湯ゆ

だて立

のその間

眠るむまさ※

は加茂堤、夢に夢をや結ぶらん

松吹く風に菅原の舎人、梅う

めおうまる

王丸目を覚まし

 「コリヤヤイ松ま

つおうまる

王丸、そちが主あ

るじ

の時平公は、短

 

気者でも根が大鳥※

。名代にわせた※※

清貫殿は短い※※

 

くせに根が悪者。呼び使ひを受けぬうち目を覚

 

まして行かいでな※※

 「オヽ梅王の言はるゝことわいの※※

。こなたの主

 

の名代に来た希世殿こそ大邪人※※

 

蓼たで

食ふ虫も好き

とあの和わ

ろ郎を弟子にしたり、

 

代参におこしたりなさるゝ、菅丞相のお心が知

 

りたい」

 「アヽイヤ、そりや其方達が小さい了簡※※

とは違

 

ふ、聖人の胸の広さは、こちらが身にも覚えの

 

あること。斎世の宮様の車を引く桜さ

くらまる丸

と、われ※※

 

とおれと三人は、世に稀ま

な三つ子。顔と心は変

 

はつても着る物は三人一緒、ひよんな※※

者産んだ

 

と親父が気の毒に思ふた※※

をお聞きなされ、『三

※2

※4

※1※

※7

※1※

※1か も

まれよ

さちゆうべん

初段 加茂堤の段 1

Page 7: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

現象。

※2

給料のこと。

※3

現・大阪府守口

市佐太。

※4

領地。

※5

長男のつもりで

か。梅は春に先駆けて

咲く花なので「花の

兄」と呼ばれる。

※6

元服の時に烏帽

子を掛ける親代わりの

恩人。

※7

くどい説明。

※8

七十歳の長寿(古

稀)のお祝い。

※9

三組の夫婦。

※10

使いをよこされ

た。

※11

世間の世話にも

ならず借金もなくて子

どもが三人いる、幸福

な人。

※12

同じ父母の兄弟。

※13

三人揃って。

※14 牛車を数える単

位。

 

つ子は天て

んが下

泰平の相1

、舎人にすれば天子の守り

 

となる、成人さして牛飼に差上げよ』と、菅

かんしょう丞

 

相じょう

様のおとりなしで御扶ふ

ち持まで下され、親四し

ろ郎

 

九くろう郎

殿は今佐太村※

の御領分4

に、御寵愛の梅松桜

 

を預かり、安楽に暮してゐらるゝ。その御寵愛の

 

三木の名を我々にお付けなされ、おれを兄のお

 

心でか梅王丸※

、とお呼びなされて召使はる。そ

 

の方は松王丸、桜丸は宮の舎人、烏え

ぼ帽子し

親とい

 

ふ御恩のお方、家を隔てゝ奉公するとも、必ず

 

疎おろそ

かに思はぬがよいぞよ」

 「アヽぐど

と長談義7

説く人や」

 「もう斎世の宮もお参りなされ、牛休めに桜丸

 

も来さうなもの」

 「なんぞ用があるか」

 「ハテ、佐太村の親父様から、来月は七十の賀※

 

を祝ふ程に、三み

女みようと夫

連れで来いと人おこされた※※

 

その事を言はうと思ふて」

 「ソリヤ銘々に人が来てよう知つてゐる。思へ

 

ば親父殿は負はず借らずに子三人と、果報な人※※

 

ではあるはい」

と、兄弟話のその中へ

同じ胤た

腹※※

一時に生まれて年も同い年、どれが兄と

も弟とも梅と松とに桜丸、三幅対※※

の車引き、木蔭

に一輌※※

引捨てゝ、堤の上から

 「これは

、二人ともゆつくりとしてゐらるゝ。

 

御神事もはや半ば過ぎ、呼び立てられぬうち行

※2

※※

※※

初段 加茂堤の段 2

Page 8: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

お前。

※2

神主。神官。

※3

宮中。

※4

叱られないよう

にしろ。

※5

なるほど。

※6

斎世親王は「無

品」(むほん・むぼん)

(位に就かない)なの

で官職がない。

※7

ことわざ「眼鏡

にかなう」。気に入ら

れる。

※8

多忙な。

※9

しくじり。失態。

※10

ここでは上賀茂

神社のこと。

※11

だまされて。

※12

菅丞相の養女。

※13

優れた文章を書

く菅原家のお家柄。

※14

逢わせましょう。

 

たらよかろ」

と、真顔で言へば

梅王丸

 「御神事が済んだら宮様からお立ちであらう

 

が、そち1

やまたこゝへ何しに来た」

 「アヽイヤ、こちの宮様は神か

んづかさ司

の方でご休息あ

 

る故、お立ちの程が知れぬ。こなた衆の乗せて

 

来た御名代の衆は禁廷※

※の御用があるとて立ち騒

 

いでゐたぞや。油断して叱られまい4

と、言ふに松王

 「いかさま※

、役なしの宮様※

と時平公の御眼鏡7

で、

 

御用繁き※

清貫様とは違ふ。何時知れぬ、いざ行こ」

と、車にかゝれば

 「ヤレ待て松王、清貫様がお立ちあれば、この

 

梅王がお供した希世の君も同然。万一お立ちで

 

ない時は、あの大勢の群く

んじゆ集

の中へ、二輌の車を

 

引きかけて、怪我さしても損ねても、不調法※

 

舎人の誤まり。一走り行て様子を見て、取りに

 

帰るまでのこと。休んだ代はりぢやサア来い」

と、引連れ立つて両人は、宮居※※

の方へ走り行く

跡見送りて桜丸

 「ハヽヽヽ、一杯食ふて※※

行たわ

と、独り言して合図の手拍子、招けば

招かれ恋草の、菅丞相の御娘、苅か

りやひめ

屋姫とて色も香

も、文は父御のお家柄※※

『口説き落して宮様に、逢はせません※※

』と跡につ

※2

※12

初段 加茂堤の段 3

Page 9: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

桜の一種である

「八重桜」に因んだ名

前。

※2

事のなりゆき。

手筈。

※3

通行止め。

※4

人っ子ひとりい

ない。

※5

誘い出して。

※6

丸い大きな目。

※7

追い出して。退

散させて。

※8

秘仏を人々に拝

ませること。牛車の中

の親王のお出ましを例

えた。

※9

恥ずかしそうに。

※10

なおさらのこと。

※11

振袖で顔を隠し

て恥じらう。

※12

卑しい身分の者。

※13

ここでは肉体関

係を結ぶこと。

※14

闇夜。

※15 恋の手練手管。

テクニック。

※16

大層な。

※17

手紙。

※18

うっとりとさせ

られて。

く、供は八や

え重とて花めきし、桜丸が自慢の女房、

先へ廻りて

 「コレこちのお人、首尾2

はよいか」

と、問へばうなづき

 「よいとも 。今日この加茂堤は御車の休み

 

どころ、人留め※

※して一人も通さぬ、鼠ね

ずみ

の子もな

 

い4

所と思ひ、宮様をそびき出して※

来たところに、

 

梅王や松王めがどんぐり目玉※

にほつと草く

たび臥

れ。

 

一生につかぬ嘘をついてまんまと散らして7

しま

 

ふた。姫君様、恥しそうな顔せずとも、

 

おいで

。ドリヤ開帳※

仕つかまつら

う」

と、車の御簾を引き上ぐれば

斎世の宮は面お

もは映

ゆげに※

姫はなほしも※※

顔見合はせ、につこと笑ふて袖覆ふ※※

 「サア、こゝらが下

※々※

と違うて、飛び付かして

 

軽業※※

もさせにくい。女房ども、暗闇に※※

したいなア」

 「なんのいな、昼ぢやとて結構な車の内、われ

 

らは暫しお暇い

とま

と、木蔭へ入は

れば

斎世の宮も十七の、いとまだ若き初恋に、何と言

ひ寄る品※※

もなう

 「桜丸がいかゐ※※

世話、文※※

見る度にいや増さり、

 

逢ひたかつたにようこそ

、さぞ春風で寒かろ」

と、仰せは

姫の身にこたへ※※

、春風よりも恋風が、ぞつと身に

しむばかりなり ※

1

初段 加茂堤の段 4

Page 10: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

ことわざ「わが

身を抓って人の痛さを

知れ」。自分の身に重

ねて他人のことを思い

やれというが。

※2 (おふたりとも奥

手なので、こちらが)

イライラしてしまう。

※3

なにか良い方法

を考えろ。

※4

風除け。

※5

おゆるしくださ

い。

※6

仲睦まじい男女

間の会話。

※7 (熱々のおふたり

の様子に当てられて)

我慢できない。

※8

都合を付けて。

※9

口止め料。

※10

あちこちにばら

まいて。

※11

手を洗う水。

※12

今夜からお前と

愛し合うことができな

くなるではないか。

※13

拝殿前のお清め

の水。

※14

王(天皇)には

十種の善が備わる。

※15

神様には九種の

善が備わる。

※16 (親王は)十善に

半分足らない九善半ぐ

らいだから、神より格

上で失礼ではない筈

だ。

車の蔭より桜丸ぬつと首出し

 「コリヤ女房、わが身抓つ

つて人の痛さ1

、おりや

 

先さつき刻

から死脈が打つ2

、早う配剤しをらぬか※

と、せり立てられて

 「オヽそれ 、春風でお寒いとおつしやる、

 

憚はばか

りながら御車を暫しのうちの風凌し

ぎ4

、御免あ

 

りて※

と、姫君を、無理に抱き上げ押し入るれば

内には宮の御声にて

 「嬉しいぞや」

と、睦む

つごと言

聞いて、夫婦は飛び退き

 「女房ども、たまらぬ7

 「アヽコレ聞こえるわいの。お二人共に御機嫌

 

よう、嬉しいことではござんせぬか」

 「オヽその筈は

、この中じ

ゅう

から手て

ぐあい

具合して※

、お

 

供の衆には口薬※

、水撒ま

く様に飲まして※※

置いた。

 

その水で思ひ出した、追つ付けお手ち

洗水がいろ

 

ぞよ」

 「オヽそんならついこの川水を」

 「アヽイヤコリヤ、雨あがりで堤が滑る、怪我

 

さしては、晩から俺が不自由な※※

。神前の水※※

汲ん

 

で来い」

 「ソリヤまあどうやら勿も

つたい体

ない」

 「大事ない

、王は十善※※

神は九善、その王様

 

の弟御、九善片しぢや※※

行て来い」

と、せり立てられて女房は、神前さして、汲みに行く

※※

※11

※1※

初段 加茂堤の段 5

Page 11: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

役所の雑用係。

※2

捕縛用の道具。

※3

(動きやすいよう

に)着物の袖を捲りあ

げて。

※4

こいつめ。

※5

先ほど。

※6

うさんくさい。

※7

人がいるようだ。

※8

命が惜しくない

なら近寄って見ろ。

※9

なぎ払って。

※10

不都合である。

※11

若気の過ちで。

※12

駆け落ちなさっ

た。

※13

しまった。残念

無念だ。

※14

カンカンに怒る

であろう。

※15

物陰の道。

※16

侮辱を受けるよ

り。

※17

心配で胸が塞

がって。

『跡は気休めひと休み』と思ふ所へ

三善清貫官人仕丁1

に十じ

つてい手

持たせ、装束巻き上げ※

け来たり

 「ヤアそれにおる桜丸、おのれ4

最前斎世の宮を、

 

かねておのれが取り持ちにて、物ぐさい※

事聞い

 

てゐる。最前から見るところが車の内に人こそ

 

あれ7

、御簾引きちぎり改めよ」

と、言ふに従ひ立ち寄るところを

首筋掴つ

んで投げ退け

 「車は舎人が預り物、命があらば寄つて見よ※

と、かゝるを蹴飛ばし跳ね飛ばし、十手もぎ取り

片端、なぎ立て※

追ふて行く

その間に宮と姫君は『人に見られて叶か

はじ※※

』と、

車の内より飛び下り

さすが若気のひと筋に※※

、逃れて旅のかり衣

いづくともなく落ち給ふ※※

隙間を見て清貫が取つて返して車の内、引き明け

見れば、内は空き殻

 「南無三宝※※

見違へた、舎人めが戻つたら大抵で

 

はあるまい※※

と、下道※※

さして、逃ぐる跡

間もなく駈け来る桜丸、御二方の見へぬにびつく

り、車を見れば宮の書き置き

 「ナニ

、『見付けられて辱しめを受けうよ

 

り※※

、立ち退の

く』」

とある文章に、『ハツ』と驚き胸は板※※

※2

※※

初段 加茂堤の段 6

Page 12: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

反対側から。

※2

取り調べ。

※3

生みの母親。

※4

現・大阪府藤井

寺市。

※5

向かって、おも

むいて。

※6

怪しまれる。

※7

あなた。

※8

扮して。

※9

舎人や召使いの

白布の制服。

※10

後のことは心配

せずに。

※11

承知した。

※12

牛への掛け声。

進め進め。

 「イデ、追つ付いて御供」

と、駈け行く向かふへ1

女房八重

 「サアこれ、お手洗水汲んで来た」

と、見せるを跳ね退け

 「ナニ手洗水どころか。清貫めが車の内詮せ

んぎ議

 

んと来たりし故、見付けられじと二方はいづく

 

ともなう落ちなされた」

 「ヤア、そりやマアほんか」

と、女房は、びつくり水桶落し

 「シテまあこなたはこりやどこへ」

 「ヤアどこどころか。元姫君は菅家の御養子、

 

実母※

は河内土は

じ師の里4

、菅丞相の御伯母君、まづ

 

この方へ志し※

跡を慕ひ奉る。汝な

んじ

はあの御車を宮

 

の御所へ引いて行け、捨て置いては後日の咎と

め※

 「ハア成程さうぢやこなさん7

の、姿にやつして※

 

引いて行こ。ドレ白は

くちよう張

と、受け取つて

 「跡案じずとも※※

行かしやんせ」

 「オヽ合点※※

と、白砂蹴立て、飛ぶが如くにかけり行く

八重はやがて夫の姿、白張肩に引つかけて、車の

牛を引き直し

 「させほせ※※

、させほせ」

精一杯、引けども遅き牛の足

 「エヽどんくさい」

※2

※※

初段 加茂堤の段 7

Page 13: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

陰陽道ですべて

うまくいかない日。

※2

陰陽道で何をし

ても凶の日。

※3

旧暦でどんなこ

とも叶わない十日間。

※4

旧暦で婚礼以外

は万事に吉日。

※5

旧暦で一年に六

回ある凶の期間。

※6

旧暦で万事に凶

の日。

※7

旧暦で凶の日を

除いた差障りのない

日。

※8 (牛車の)斑模様

の牛。

と、後ろから、押せば車もくる  

と、『廻め

る月

日は不成就日1

か、お二人様の凶く

会日か、夫のため

には十じ

っぽうぐ

方暮れ※

』鬼き

しく宿

車を押しかけて、祈る心は八

専※

の、黒日に間日の斑

まだら

牛※

、追立てゝこそ

※2

※4

※※

くろび

まび※7

初段 加茂堤の段 8

Page 14: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

優れた素質。

※2

気に入っている

こと。

※3

ことわざ「好き

こそ物の上手なれ」。

好きなことは上達する

ものだ。

※4

名言。

※5

宮廷に並び控え

る人々。

※6

流儀。

※7

弟子。

※8

古参の兄弟子。

※9

奥義を教え伝え

ること。

※10

私。

※11

据えて。

※12

貴人の奥向きの

勤め。また、勤める人。

※13

次の間。

※14

自室を持つ女官。

※15

不満顔。

※16

知らん顔。

※17

へこます。

※18 七歳になって間

もない。

※19

伝授できる年齢

に達しない。

※20

菅丞相から伝授

されて。

※21

ハイ。

※22

手ぬるい。

初段

筆ひつぽうでんじゆ

法伝授の段

 

立ち帰る

上じようこん

根と稽け

いこ古

と好き※

と三つのうち、好きこそ物の上

手※

とは、芸能修業教への金言※

、公務の暇明け暮れ

に好ませ給へる道真公、堂上堂ど

うか下

はいふに及ばず

武家町人に至るまで、風義※

※を慕ふ御門人※

、数も限

りもなき中に

左中弁平希世、手習ひ稽古ふる兄弟子※

、『今度筆

法御伝授※

はさしづめわれら※※

に極まりし』と、勝手

覚えし御殿の真中、朝の夜から机を直し※※

 「煙草よ、茶よ」

と、呼び立つる。

声も届かぬ奥勤め※※

、女中頭が

しらが

聞き咎め

 「コレお次※※

に誰もゐやらぬか、希世様の御用が

 

ある」

と、呼び次ぐ局に不足顔※※

 「コレ、手の皮がひりつく程叩いてもしゝらし

 

ん※※

。ムヽ合点、顔出しせぬは毎日来るを面倒が

 

り、言ひ合はせて鼻明かす※※

のか。今日で七日こ

 

の手習ひ、俺がためばかりぢやない。御子息の

 

菅かんしゅうさい

秀才は年と

しよわ弱

七つ、伝授所へ行かぬ※※

によつて、

 

この希世が伝授して※※

菅秀才の成人以後身共から

 

また伝授。さすれば主の奉公も同じ事、はつぽ※※

 

と言ふて廻る筈、惣じてこなたがなまぬるこい※※

たいらの

さちゅうべん

まれよ

※1

※1※

※1※

つぼね

※5

初段 筆法伝授の段 1

Page 15: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

粗相。

※2

結局。

※3

ハイハイ承知し

ました。

※4

心を籠める。

※5

書の出来ばえ。

※6

交替して。

※7

神域と現世を画

す縄。注連縄(しめな

わ)。

※8

厚みを付けて。

※9

書道の神髄に達

した傑作。

※10

大威張りで。

※11

持参してくださ

い。

※12

仕方なく。

※13

ことわざ「福徳

の三年目」。滅多にな

い幸運が廻ってきたと

いう意味。

※14

少しだけ、少し

だけ。

 「コレ勝か

つの野

、よう心得や。そなた衆の不調法1

 

こける所※

は局が迷惑、何おつしやろと

 『アイ 』とナ。申し希世様」

 「成程さうぢや、よい了簡。毎日々々気を詰め

 

る※

も菅原の家のため、今日もまたこの清き

よがき書

、 御

 

目にかけて」

と、差出だす。

 「イヤ、今日は御赦ゆ

され」

 「赦せ、とはなぜ

 「ハテ、幾度お目にかけましても丞相様の気に

 

入らぬは、お手の業わ

ではござるまい。取次ぎの

 

仕様の悪さ、手代はりに※

今日は勝野、そなたが

 

持つておぢや」

 「イヤコレ、さうはならぬ。筆法伝授も神道の

 

秘密事、学問所の注し

め連が目に見へぬか。脂あ

ぶら

こい

 

女おなご子

はやられぬ、昨日までは気に入らずと、こ

 

の清書は格別筆先に肉を持たせ※

、天あ

つ晴ぱ

れ骨髄※

 

を書き得たれば、伝授はずる

伸の

し切つて※※

 

行てたもれ※※

と、頼むに是非なく※※

、立つて行く

 「コレ勝野、局の言はれた『アイ

』を合

 

点か」

 「アイ、心得てをりまする」

 「エヽ忝

かたじけない

。幸ひあたりに人もなし、福徳の三

 

年目※※

、屏風の蔭でついちよこ

と、取る手を

※1※

※※

※5

※※

初段 筆法伝授の段 2

Page 16: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

乱暴なこと。

※2

大声で人を呼ぶ。

※3

言うことを聞け。

※4

急に。

※5 (菅丞相の)奥方。

※6

胸や腹が急に痛

くなる症状。女性に多

いとされた。

※7

成り行きでこう

なりました。

※8

何事も上手な私。

※9

賢い。

※10

貴族の子息。

※11

うまくいかなか

った。

※12

もみ療治。

※13

体たらく。

※14

お考えが。

※15

そんな疑いには

及びません。

振切り

 「エヽ嫌らしい、無体な事1

なさるゝと声立つる※

 

が合点か」

 「オヽ合点ぢや。声立つるが怖いとて、仕掛け

 

た恋人叶へおれ※

と、ほうど※

抱だか

へて連れて行く。

 「アレ

申し」

 「申しとは、誰に申し」

 「アヽ御台様5

や若君様、申し 」

と、言ふ声の

洩れ聞こえてや、菅丞相の御み

だいどころ

台所、若君の御手を

引き、立ち出で給へば

希世は仰天

 「コレハ

悪い所へ、ようお出で」

と、手持ち無ぶ

沙汰もへらず口

 「勝野に癪し

やく

の療治を頼まれ、取りにかゝつてか

 

くの仕合はせ※

。御台にもご存知の如く、万能に

 

達せし某

それがし、

世に希な器用者とて希世と付けたは

 

親どもが自慢の名。その例た

めし

はこの若君、年より

 

は御発明※

、菅秀才と呼び給ふも、秀はひいづる、

 

才は才智の才を取つて、菅家の公達※※

菅秀才。

 

あら

謂い

はれ、かくの如し。われらは余り器用

 

過ぎ、取り損ふた※※

あんまのしだら※※

、御台所の思

 

し召しが※※

 「アヽその言ひ訳に及びませぬ。日頃の行儀知

 

つてゐる。そんな疑ひ何のいな※※

※※ ※

※1※

初段 筆法伝授の段 3

Page 17: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

顔がニヤつくよ

うな。

※2

世間の噂。

※3

ずっと詰めてい

る。

※4

連絡。知らせ。

※5

根拠もない単な

る噂話。

※6

取り調べ。

※7

駆け落ちでもな

さったか。

※8

心ない。

※9

評判になる。

※10

世間に知られた

くない恋。

※11

秘密が知れてし

まった。

※12

一般の御方ではな

いので。

※13

このままにして

はおくまい。

※14

配偶者。

※15

お願いして養女

とさせてもらった娘。

※16 伯母様の家に逃

げたに違いないと気付

き。

※17

一件。

※18

なぜならば。

※19

天皇の命令。

※20

世間の噂。

※21

あちらこちら。

と、物に障らぬ御挨拶

 「アヽそれ聞いて落ち着いた。今のしだらのつ

 

いでながら、お尋ね申す事がある。御息女の苅か

 

屋やひめ姫

、斎と

きよ世

の君とにやほやした1

世間の取沙汰、

 

今日で七日相詰める※

。御所には何の沙汰※

もない、

 

虚説5

かと存ずれば、苅屋姫の御殿は空家、御詮

 

議※

もなされぬは親御達も合点の上、駈け落ちで

 

かなござるか※

と、問はるゝ辛さは御台所、しばし返事もなかり

しが

 「隠しても隠されぬ、さがなき※

人の口の端にかゝ

 

る※

も是非なき苅屋姫。斎世の君はなほ以て大切

 

な御身の上、互ひに忍ぶ恋路※※

の車、廻り逢瀬も

 

そこ

に、事顕あ

はれし※※

を恥しく思し召され、

 

御所へお帰りなされぬものとあつて、常の御方な

 

らねば※※

宮様付々の人々が、それなりけりにはし

 

て置くまい※※

。また此方の娘の事は希世様も知つ

 

ての通り、ほんの母様は河内国土は

じ師村の覚か

くじゆ寿

 

とて、連れ合ひ※※

のためには伯母御様、菅秀才を

 

設けぬ先、乞ひ請けて養子娘※※

。この御所へは戻

 

られず、伯母様方へと心付き※※

、自らが内証で尋

 

ねに人を遣はした。この一らく※※

は今日が日まで、

 

わざと父御へ知らしませぬ。それも何故※※

勅諚※※

 

て、筆法伝授七日の中、参内止めて取籠り世の

 

取沙汰※※

は何にも知らず。伝授も過ぎて聞き給

 

はゞ、さぞやびつくりし給はんと、彼か

なた方

此こなた方

を※※

※※1

初段 筆法伝授の段 4

Page 18: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

お察しください。

※2

家族用の玄関。

※3

取次ぎの番人。

※4

勤めていた。

※5

ここでは問い合

わせ探すこと。

※6

退屈だろう。

※7

場所を変えましょ

う。

※8

世間に知られな

いように。

※9

人を恋したこと

が。

※10

ご機嫌を損ねる

原因となり。

※11

「親子は一世夫婦

は二世主従は三世の

縁」といわれるのに、

自分勝手に夫婦の縁を

結んで主人のご恩を台

無しにしてしまった。

※12

ここでは禁止さ

れている男女関係。

※13

無一物の浪人。

※14 落ちぶれ果てた。

※15 お呼び出し。

※16

滅多にない好機。

※17

世間をはばかる

忍び足。

※18

座っていらっしゃ

るお席。

※19

見た瞬間。

※20

飛ぶように後ず

さりして平伏する。

※21

逆らって。反抗

して。

 

思ひやる心を推量してたべ1

と、案じ給ふぞ、理こ

とわ

りなる

内玄関※

※の奏者番※

、一間こなたに畏まり

 「先年お館に相勤めし※

武たけべ部

源げんぞうさだたね

蔵定胤、『尋ね参れ』

 

との仰せにより、この間所々方々と吟味5

致して、

 

漸ようよう々

只今夫婦一緒に参りたり。これへ通し申さ

 

んや」

と、伺へば

御台所

 「オヽ待ち兼ねし源蔵夫婦、早々こゝへ参れと

 

言へ。コレ菅秀才、源蔵に逢ふ間こゝにゐては

 

気が尽けふ※

、勝野を奥へ連れて行て、機嫌よう

 

遊ばつしやれ。希世様にも暫しが間」

 「オヽ、こゝにゐて邪魔ならば、所替へ仕らん※

と、続いて

 

奥にぞ入りにける

人知れず※

、思ひ初そ

めしが※

主親の、不興を受ける種

となり※※

、夫婦が二世の契りより、三世の御恩弁わ

きまへ

ぬ※※

、不義※※

より御所を追ひ出され、寒い暮らしを素

浪人※※

、尾羽打枯れし※※

武部夫婦、今日の御召し※※

は心

の優う

曇華、開く襖ふ

すま

の内外まで、勝手は今に忘れね

ど、身の誤まりに気遅れし、膝もわな

窺うかがひ

足。

御台の御座※※

を見るよりも※※

、『ハツ』と恐れて飛び

退しさ

り、蹲

うずくまり

たる※※

ばかりなり

 「ヤア珍しい源蔵夫婦、連れ合ひの気に背き※※

こ ※1※

※1※

初段 筆法伝授の段 5

Page 19: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

お見捨てになら

ず。

※2

(信頼していた源

蔵に裏切られ)却って

辛く当たってしまう。

※3

考え直すことが

ない。

※4

意外にも。

※5

屋敷に参上しろ。

※6

心配するほどの

用件。

※7

良い知らせ。

※8

誰か奥へお知ら

せしなさい。

※9

世渡り。

※10

粗末な。

※11

豪華で手の込ん

だ刺繍。

※12

心がけ。作法。

※13

有難すぎる。もっ

たいない。

※14

ごまかした。

※15

食費の足しにと

使い果たし。

※16 売り残したもの。

※17 所有していた高

価な鼈甲の櫛は売り払

い、いつの間にか安価

で丈夫な木櫛を使い。

※18

木綿の綿入れ。

※19

糊付けしてない

よれよれの。

※20

借りてきた服。

※21

恥ずかしい。一

音または二音の語に

「もじ」を付けて、丁

寧の意を表す女房詞。

しゃもじ(杓文字)。

かもじ(髢)など。 

※22

これも自業自得

で、ことわざ「身から出

た錆」のような手入れの

行き届かない錆刀を持

ち。

 

の御所を出やつたを数ふればもう四年、日頃人

 

を捨て給はず1

慈悲深い程きつさもきつい※

。思ひ

 

切つてはいかな事、見返らぬ※

夫つま

の御心、叶はぬ

 

事と思ひのほか※

、『源蔵に参れ5

』とある御用の様

 

子、何かは知らぬが気遣ひな事※

ではあるまい、

 

定めて吉相※

。ヤ自らが言ふ事ばかり、さぞ待ち

 

兼ねてござるであろ。『源蔵夫婦が参りし』と、

 

誰そ奥へお知らせ申しや※

※。サア二人ともに顔を

 

上げ、近う寄りや。ハアテ遠慮に及ばぬ、近う

 

年月の浪人住居渡世※

が苦になつたか、昔の面影

 

どこへやら。源蔵が着てゐやるはあら しき

 

下々の着る物、戸と

なみ浪

はそれに引替へて、小袖の

 

縫ぬいはく箔

、さすがに女子の嗜

たしな

み※※

か。二人の中に子も

 

出来たか」

と、問はれて

戸浪はありがた涙

 「冥み

ようが加

至極もない※※

お詞。主人の御目をくらませ

 

し※※

罰が当たつて苦労の世渡り。夫婦が着替へも

 

一つ売り、二つも三つも朝夕の、煙の代し

になし

 

果たし※※

、漸々残せしこの小袖は、御台様の下さ

 

れし御恩を忘れぬ売り残り※※

。髪の飾りの鼈べ

つこう甲

も、

 

いつかは檮い

の引ひ

きぐし櫛

と※※

、変はり果てたる共稼ぎ。

 

連れ合ひは布子※※

の上、糊立たぬ※※

麻あさかみしも

裃も今日一日

 

の損料借※※

。オホヽヽヽ、アヽおはもじ※※

。お上か

に御

 

存じない事まで、身の恥顕はす錆さ

刀※※

。今日まで

 

人手に渡さぬ武士の冥加」

※10

※11

初段 筆法伝授の段 6

Page 20: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

気ままな振る舞

い。

※2

よくよく考えて

みれば。

※3

仕方がない。

※4

ちょうどその時。

※5

承知しました。

※6

この通りに。

※7

丁重に。

※8

いつもとは違っ

た。

※9

にこやかに。

※10

(菅丞相があまり

に畏れ多いので源蔵

は)緊張して汗びっ

しょりとなり、着物に

染み出して絞ればした

たり落ちるほどだ。

※11

捨て置きがたい

訳。

※12

生まれつき。生

来。

※13

もともと好きな

ので上達が早く、勉強

して沢山のことを覚え

た。

※14

書道の達人。

※15

予想とは裏腹に。

※16

身なり。

※17 (日々の暮らしに

追われ)書道の稽古ど

ころではなかったろう

な。

 「アイ、女房が申し上げます通り、このざまに

 

成り下がれば、ひとしほ昔の不義放ほ

うらつ埒

、思ひ廻

 

せば※

※主人の罰、悔むに詮方なき※

仕合はせ」

と、夫婦諸共、おろ

折から※

局は奥より立ち出で

 「御学問所へ召しますは源蔵殿たゞ一人、『御用

 

済んで御手の鳴るまで御台様にもお出ではなら

 

ぬ』との仰せられでござります」

 「成程々々心得た5

。源蔵は局と同道、戸浪はこ

 

ちへ」

と、入り給ふ。

只今御前へ召し出さるゝ、源蔵が身の嬉しさ、怖さ

局はかくと※

申し上げ、立てたる障子明け渡せば

うや

しく注連引栄は

へ、常に変はりし※

白木の

机、欣き

んぜん然

として※

座し給ふ、凡人ならざる御有様

恐れ敬ふ源蔵が、五体の汗は布子を通し、肩衣絞

るばかりなり※※

やゝあつて仰せには

 「去り難き子細※※

あつて汝が行方を尋ねしに、住

 

み所定かならず。漸よ

うよう々

昨日在あ

りか家

を求め、今の対

 

面満足せり。其方儀は幼少より我が膝元に奉公

 

し、天性※※

好いたる筆の道。好くに上がり習ふに

 

覚え※※

、古き弟子ども追ひ抜き天つ晴れ手書き※※

 

なるべしと、思ひのほかに※※

主従の、縁まで切れ

 

てその風体※※

。筆取る事も忘れつらん※※

と、仰せになほも恐れ入り

※1

※※

初段 筆法伝授の段 7

Page 21: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

元服前の少年。

※2

字が上手である

ことは総ての芸道の中

で一番重要である。

※3

ご指導くださり。

※4

ぶしつけですが。

※5

下手な字。

※6

世渡りの仕事。

生計。

※7

読み書き。

※8

教えること。

※9

「命毛」は筆の穂

先の部分にある長い

毛。筆のお蔭で命を繋

いでおりますの意。

※10

お尋ねを頂くほ

どには自分の技術が上

達していないことと、

勘当を受けたことが悔

やまれてなりません。

※11

つくづく。

※12

少しも下品では

ない。

※13

仕事。

※14 これまで書道に

精進したならその努力

は報われる筈だ。

※15

書いた文字。

※16

確認する。

※17

考え。

※18

漢字。

※19

平仮名。

※20

菅丞相自ら。

※21

根性のひねくれ

た。

※22

目をぱちぱちさ

せて。

※23

ヒキガエルのよ

うに両手をついて一歩

も動かないのは。

※24

図々しい。ふて

ぶてしい。

 「御返答申すは憚りながら、前髪立1

の時分より

 

お傍そ

近う召使はれ、『手を書く事は芸の司※

、書け

 

よ、習へ』と御意なされ※

、御奉公の間々書き覚

 

えた、と申すも慮外※

。蚯み

みず蚓

ののたくつた様5

に書

 

く手でも、芸は身を助けるとやら浪人の生す

ぎわい業

 

鳴滝村で子供を集め、手習※

指南※

仕り、今日まで

 

夫婦が命毛※

、筆先に助けられ、清き

書きの直し字、

 

毎日書けども上らぬ手跡。お尋ねに預かる程身

 

の不器用と御勘当、悔むに詮方なき仕合はせ※※

と、嘆くを

つら

聞こし召し

 「子供に指南致すとは、賤い

しからざる※※

世の営み※※

 

筆の冥加※※

芸の徳、申すところに偽りなくば手跡※※

 

も変はらじ、改むる※※

に及ばねども、こゝにて書

 

かせ道真が、所存※※

は後にて言ひ聞かさん。認し

たた

 

置いたる真ま

な名字※※

と仮名※※

、詩しいか歌

を手本に写しみよ」

と、白木の机御手づから※※

指し寄せ給へば

 「ハアはつ」

と、先へは出でず、後退り

志し

根ね

悪わる

の左中弁、物陰よりずつと出で

 「コリヤ源蔵、様子残らずあれから立ち聞く。

 

師匠の指図はともかくも辞退申して出る筈が、

 

両手を突いて目をましくし※※

、蟇の所作がらする※※

 

は、書いても見やうと思ふ気か。アヽそれは野

 

太い※※

、叶はぬ事」

 「ハア、お馴な

じみ染

とあつて忝

かたじけない

。希世様のお詞に

ひきがえる

※11

※※

※※1

初段 筆法伝授の段 8

Page 22: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

身の程。

※2

悪臭のする安物

の墨。

※3

安物の筆。

※4

請求書。

※5

書き損じの紙。

※6

気後れ。

※7

詩歌を書くため

の上質な紙。

※8

圧倒され。

※9

どうしてもどう

しても。

※10

思案。

※11

だめだと知りな

がらなぜ席を立たない

のか。

※12

勘当を受けた私

ですが、丞相様の御意

志に甘え、勘当をゆる

してもらえるようにう

まく伝えてください。

※13

わかった。

※14

かいつまんで。

要領よく。

※15 順当。

※16 『論語』「五十(歳)

にして天命(天からの

指示)を知る」より。

※17

優れた人材。

※18 (菅丞相様が私を

呼んだ)訳をいろいろ

伺って。

※19

わかりきったこ

と。

※20

急き立てる。

 

一つも違はぬ役に立たず。しかし、身の分際1

 

顧ぬ源蔵めでもござりませぬ。只今これにて書

 

けとある御手本、書いてよいやら悪いやら、後

 

先の様子も存ぜず、四年以こ

のかた来

在所住居、臭く

さずみ墨

 

三文筆※

、書き出し※

や反ほ

うぐ古

の裏に書けならば場打

 

て※

もせまい。その結構な机に墨筆、大お

おたか高

檀だんし紙

 

位に負け※

、一字一点いつかないかな※

 「ホヽ、よい了簡※※

、いかぬと知つてなぜ立たぬ※※

 「サア、そこでござります。御勘当の私、御意

 

に甘へた身の願ひ、お取りなし※※

※頼み上げまする」

 「ムヽ、それで聞こえた※※

。詫び言はしてやろ、

 

ガ今はならぬ。と言ふその子細、ひつ摘つ

んで※※

 

して聞けう。この度帝の仰せには、『存命不定の

 

世の中、生し

ようじ死

の道には老若差別はなけれども、

 

マア年寄りから死ぬるが順道※※

。菅丞相は当年五

 

十二、天命を知る※※

といふ、齢よ

わい

も過ぎ、寄る年を

 

惜しませ給ひ、唐まで誉むる菅原の一流。これ

 

まで伝授の弟子もなし、一代ぎりで絶やすは残

 

念。手※※

を選んで伝授せい』と、勅諚で七日の物

 

忌み。殊の外お取込み、事済んでから願ふてやろ」

 「ハア、様子段々承れば御大慶な勅諚」

 「サア、その勅諚も大慶も、しれた事※※

は言はず

 

とも、早々帰れ」

と、せり立つる※※

 「イヽヤ立つな源蔵。言ひ付けた手本、只今書け」

と、仰せは武部が身の大慶

かえりみ

※※

※※

※5

※1※

初段 筆法伝授の段 9

Page 23: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

片意地になって。

※2

お笑いになって

も。

※3

おゆるしくださ

い。

※4

お前のような怠

け者。

※5

いかさま。いん

ちき。

※6

私が。

※7

普段着用の綿入

れの着物。

※8

神仏を拝む団体。

※9

寺社などにお金

などを寄進する受付

所。

※10

寄進者名を記入

する帳面をつける人。

※11

ここではいい加

減なこと。でたらめ。

※12

過失。うっかり。

※13

草の芽は土から

三分(約九ミリ)顔を

出し。

※14 梢から見える雲

は半段(約五・五メー

トル)たなびく。

※15

漢詩。

※16

昨日のうちに年

は暮れて、新年の今日

は奈良の春日山に春霞

が立つなあ。

※17

奈良時代の歌人・

柿本人麻呂。

※18

「永」の漢字に含

まれる八種類の基本的

な運筆法。

※19

平安時代の能書

家・藤原行成や小野道

風などが考えた筆法。

希世は偏執1

むしやくしや腹、立ち寄る源蔵睨に

み付け

 「わりや兄弟子に遠慮もせず、書かうと思ふて

 

出しやばるか」

 「ホヽ、お笑ひあつても※

恥しからず。御免なれ※

と、机にかゝり、手本を取つて押戴き、心臆せずす

る墨の、色も匂ひも香か

ばしき、筆の冥加ぞありが

たき

希世傍へ摺す

り寄つて

 「わが様な横着者※

は手本の上を透き写し、その

 

手目5

は身が※

させぬ。恥と頭はかき次第、身のざ

 

まの恥面、わりや何とも思はぬか。どてら※

の上

 

に汚れ袴ば

かま

、机に直つてゐるざまは、貧乏寺の講

 

中※

、奉加場※

の帳付※※

にそのまゝ、無縁法界※※

を書く

 

なよ」

と、悪口たら

言ひ散らし、怪我※※

のふりにて

机を動かし、肘に障つて邪魔するも

構はず咎めず手本の詩歌、快く書き終せ、机もと

もに御前に直し、退つて頭こ

うべ

を下げ居たる

丞相清書を取り上げ給ひ

 「『鑽

いさごをきるくさはたゞさんぶんばかり

沙草只三分計。跨

きにまたがるかすみわずかにはんだんあまり

樹霞纔半段余』。これ

 

は我が作れる詩、『昨日こそ、年は暮れしが春霞、

 

春日の山に早や立ちにけり※※

』。これはまた人ひ

とまる丸

 

の詠歌。いづれも早春の心を詠みかなへり。仮

 

名といひ真名といひ、これに勝す

れし筆やあらん。

 

ホヽ、出で

来か

したり

。惣じて筆の伝授といつ

 

ぱ、永字の八法※※

筆格の十六点※※

。名をそれ  

※1※

※1※

※15

からうた

※1※

初段 筆法伝授の段 10

Page 24: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

菅原の筆法の奥

義は伝授したが勘当を

ゆるした訳ではない。

※2

意向は意向。仕

事と個人的感情とは別

物である。公私混同し

ない。

※3

天皇がこのこと

をお聞きになっても。

※4

えこひいき。

※5

誤解されてはい

けない。

※6

ゆるさない。

※7

我慢できないほ

ど心が痛んで。

※8

伝授は他の方へ

廻し、どうか私の勘当

をお許し下さい。

※9

役に立たない。

※10

源蔵の勘当をゆ

るし伝授は希世にして

くださったら。

※11

家来。

※12

緊急な用向き。

※13 宮中の警護の役

人。

 

言ふに及ばず、人々の知る所。菅原の一流は

 

心を伝ふる神道口伝、七日も満つる今日只今、

 

神慮にも叶ひし、源蔵」

と、御悦よ

ろこび

は限りなし。

 「ハヽアありがたや忝い。筆法御伝授あるから

 

は、御勘当も赦され前に変らぬ御主人様」

 「ヤア主人とは誰を主人。伝授は伝授、勘当は

 

勘当1

。格別の沙汰なれば不届きなる汝なれども、

 

能書なれば捨て置かれず。私の意趣は意趣※

、筆

 

は筆の道を立つる、道真が心の潔白。叡え

いぶん聞

に達

 

しても※

、依え

こ怙とは思し召されまい。希世にも疑

 

はれな5

。勘当は前の如く主でなし、家来でなし。

 

この以後対面叶はじ※

と、鋭き御声源蔵が、肝に焼や

きがね鉄

刺さるゝ心地※

 「道理を分けての御意なれども、伝授は他へ遊

 

ばされ、勘当御免※

と、泣き詫ぶる。

 「コリヤ源蔵が嘆くが道理。勘当を赦されねば、

 

伝授しても規模がない※

。彼が願ひも希世が望み

 

も立つやうの了簡は、伝授と勘当かう替へ

 にして遣はされたら※※

、よささうな物の様に、存

 

じまする」

と、言ふ折から。

当番の諸し

よだいぶ

太夫まかり出で

 「『俄に

わか

の御用※※

これある間、只今参内遊ばされよ』

 

と、滝口の官人※※

参られし」

かたじけな

※11

※※

初段 筆法伝授の段 11

Page 25: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

腑に落ちない顔

つき。

※2

完了していない

のに。

※3

外出に同行する

護衛の家来。

※4

雑用の召使い。

※5

着替えの部屋。

※6

避ける。

※7

間接的にさりげ

なく。

※8

心残りが多いだ

ろう。

※9

許されなかった

ようだな。

※10

公家が公務の際

に着る装束。

※11

部屋。

※12

この場の体面。

※13

これが後に寺子

屋で菅原道真公を敬う

ようになった理由であ

る。

※14

主君の仰せ。

※15 泣きべそをかい

ても。

※16

乱暴に。

※17

主従関係。「主従

は三世の縁」といわれ

ることから。

と、申し上ぐれば

御不審顔1

 「七日の物忌み過ぎざる中う

、御用とは何事。随

 

身※

仕丁の用意せよ」

と、装束の間5

※に入り給ふ

参内と聞こし召し、立ち出で給ふ御台所、打掛の

下に戸浪を押隠し、人目包む※

も余よ

そ所ながら※

、お顔

をせめて拝ませんと、心遣ひは希世が手前

 「伝授の様子承れば、お前には残り多からう※

 

仕合はせは源蔵、さりながら御勘当は赦ゆ

ぬげな※

 

館の出入も今日限り、彼方此方を思ひやり、御

 

参内を見送りがてら、それで

と、打掛の、下を知らする御目遣ひ

夫婦は重々お情けの、身に沁し

みわたる忝

かたじけ

束帯※※

気高き菅丞相、一間※※

の内より立ち出で給ひ、

神道秘文の伝授の一巻源蔵に賜はりける、当座の

面目※※

御流儀、末世に伝へる寺子屋の、敬ひ申し奉

る、因縁かくとぞ、知られける※※

 「サア、伝授済むからは対面これまで。罷ま

り帰

 

れ、立てよ、立てよ」

と、頻し

りの御諚※※

 「コリヤ源蔵、吠え面かいても※※

もう叶はぬ。腰

 

が抜けて得立てずば、引ずり出さん」

と、立ち寄る希世

 「ノウあらけなく※※

仕給ふな。三世の縁※※

の切れ目

 

ぢやもの、立たぬも理り嘆くも道理。涙止めて

※※

※※

初段 筆法伝授の段 12

Page 26: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

婦人の礼装。打

掛。

※2

打掛の裾の端の

部分。

※3

どうしたことで

あろうか。

※4

自然に落下した

冠を。

※5

(菅丞相の不吉

な)予感。

※6

結果として現れ

ること。

※7

決してそうでは

ない。

※8

遠くから眺める。

※9

遮られて。

※10

まばたきもせず。

※11

自分勝手な。

※12

愚かな。

※13

横柄な態度で。

 

御暇乞ひ、見奉れ」

と、かい取り1

の、褄つ

より覗の

かす戸浪が顔

『それぞ』と推し給へども、知らず顔にて立ち出

で給ふ、何としてかは※

召されたる御お

冠の自

おのずから

落つるを※

御手に、受け留め給ひ

 「物にも触らず脱げたるは、ハアはつ」

と、ばかり御気がゝり5

 「イヤ、それは源蔵が願ひ叶はず落涙いたす。

 

落らく

は落つると読むなれば、その験

しるし

で※

かな」

 「イヤ

さにてはよもあらじ※

。参内の後知れ

 

る事、源蔵早く帰されよ」

と、冠正して、参内ある

希世は恐々御見送り

御勘当の身の悲しさは、行くに行かれず伸び上が

り、見やり※

見送る御後ろ影、御簾にさへられ※

衝ついたて立

の、邪魔になるのも天罰と、五体を投げ伏し男泣き

戸浪が悔みは夫の百倍

 「こなたは御前のお詞かゝり、直に御顔を見さ

 

しやつた。私は漸よ

うよう々

御台様の後ろに隠れてまん

 

じりと※※

、御顔も拝まぬ女房の心、思ひやつても

 

下されぬ、まんがちな※※

一人泣き。同じ科と

でも此

 

方は仕合はせ。女子は罪が深いといふ、どうし

 

た謂はれでなぜ深い、鈍な※※

女子に生まれし」

と、御台のお傍も憚りなく、果てし涙ぞいぢらしゝ

希世のさ

立ち戻り

 「ヤア源蔵を帰されぬは、御台所御油断御油断。

※1※

※※

初段 筆法伝授の段 13

Page 27: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

追い払え。

※2

ゆるしてやる。

※3

手に触れさせて。

拝ませて。

※4

急ぎ足で。

※5

追いかけ追いつ

め。

※6

背負い投げをし

て。

※7

だまして取ろう

として。

※8

逃げるための身

づくろいをする。

※9

こそどろ。

※10

張本人め。

※11

机を背おわせて。

江戸時代の寺子屋のお

しおきの一つだった。

※12

盗みをした。「ひ

ろいだ」は「した」を

罵っていう表現。

※13

禅宗で、修行者

を打って戒めに用いる

具。割った竹に漆を

塗った板状のものが多

い。

※14 (扇で顔を叩い

て)ひりひりさせてや

ろう。

 『一刻も早くぼいまくれ1

』と、重ねて仰せつけ

 

られた。そこを少し身が了簡※

。その代はりには

 

伝授の巻物、読んでみる望みはない。筆の冥加

 

にあやかるため、ちよと戴かして※

くれんか」

と、望むに

是非なく懐より、取り出だすを

ひつたくり、逸い

ちあし足

出して逃げ行くを

 「どつこい、やらぬ」

と、源蔵が、ぼつかけぼつゝめ5

※襟え

がみ摑つ

み、引ず

り戻してかづき投げ※

、大の男にひと泡ふかせ、伝

授の一巻取り返し

 「これをうぬが引つかけふで※

、直ひ

たたれ垂

の羽繕ひ※

 

昼鳶の骨頂※※

め。びくともせば、打ち殺す」

と、刀四五寸抜きかくる

 「コリヤ源蔵聊り

ようじ爾

すな。戸浪、過ちさするな」

と、御詞かゝれば

 「エヽおのれ、エヽおのれをな。たゞ助くるも

 

残念な。寺子屋が折せ

つかん檻

の机はこいつが責め道具。

 

女房こゝへ」

と、取るより早く、背中に机おほげなし※※

、両手を

引つ張る机の足、装束の紐ひつしごき、がんじが

らみに括く

り付け

 「盗みひろいだ※※

師匠の躾し

つけ

、しつぺい※※

の代はり扇

の親骨、面つ

に見せしめひりつかせん※※

と、打ち立て

、突飛ばせば

痛さも無念も命の代はり、恥を背負ふて帰りける

※※

※※

ひるとんび

初段 筆法伝授の段 14

Page 28: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

手をついて。

※2

畏れ多い。

※3

ことわざ「命あっ

ての物種」。何事も生

きていればこそでき

る。

※4

満潮のようにたく

さん涙を流して。

源蔵夫婦手をつかへ1

※ 「禁裏の様子承り帰りたく存ずれども、長居は

 

恐れ※

※」

 「御台様、この上ながら夫婦が事、お捨てなさ

 

れて下さりますな」

 「オヽ、それは心得た、が『いま行く』と言ふ

 

を聞き捨てに『せめて一夜』と言はれもせぬ。

 

命が物種※

、縁も尽きずばまた逢はう。もう行き

 

やるか」

 「アイ

、参りませねばなりませぬでござり

 

ます」

と、戸浪が涙長な

がしお汐

に※

、乾く間もなき袖の海。見る

目いぢらし夫婦が姿、泣く  

、御門を

初段 筆法伝授の段 15

Page 29: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

気落ちしてため

息をつき。

※2

罪。咎め。

※3

当時の警察で検

非違使(けびいし)。

※4

鉄棒も割竹も人

を叩く武器。

※5

貴人にもかかわ

らず輿(乗り物)にも

お乗せせず。

※6

味方。仲間。

※7

斎世親王を天皇

に即位させ苅屋姫を后

にして外戚(がいせ

き)になり権力を得よ

うとする。

※8

前々からの企み。

※9

刑罰の一つで都

から遠く離れた島に島

流しすること。

※10

ここでは門が開

けられないようにする

ための道具。

※11

官位を降格させ

て遠地に赴任させるこ

と。左遷(させん)。

初段

築つ

じ地の段

 

出でて行く

源げんぞう蔵

と引違へ帰る梅う

めおう王

青息吐息※

、門の台木に足

躓つまづき

、かつぱと転こ

けて起きる間も

 「待たれぬ

侍衆、御大事が起こつてきた。

 

科※

の様子は何かは知らず、使し

の庁の官人ども、

 

丞しようじよう相

様を取り回し鉄か

なぼう棒

割わりだけ竹

、アレ

こゝへ、

 

御みだい台

様へこの様子を」

と、館の騒動門外には、鉄棒打振り警固の役人、

輿こし

にも召させ奉らず※

、菅丞相の前後を囲み

先に進むは時し

へい平

が方か

たうど人

三みよしのきよつら

善清貫、門外に立ちはだ

かり

 「斎と

きよしんのう

世親王、苅か

りやひめ

屋姫、加茂堤より行方知れず。子

 

細御詮議なされしところ、親王を位に即つ

け娘を

 

后きさき

に立てんとする※

、菅丞相が予か

ての工た

み※

。その

 

罪、遠島※

に相極まる、流罪の場所は追ての沙汰、

 

それまでは押し込め置き、出口々々に大お

おぬき貫

鎹かすがい、

 

門の警固は身が家来、荒あ

らしま島

主ちから税

を付置く」

と、呼ばはるゝ声を聞く辛さ、御台は警固の人目

も恥ぢず、走り寄つて

 「道真公、コハそもいかなる御事ぞや。物忌み

 

の間の事、姫が身の上ご存知ない、言ひ訳はな

 

ぜなされぬ。科もない身を左さ

すらえ遷

との、仰せは聞

 

こへぬ恨めしや」

※3

※4

※6

※※0

※※※

初段 築地の段 1

Page 30: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

無実の罪を着せ

られたが。

※2

天皇。

※3

私をお気に入ら

れていたが。

※4

天皇の怒りに触

れる。

※5

宮中に出仕する

者は名前を書いた札を

立てた。その名前が消

されることで出仕が叶

わなくなった意味。

※6

嘆くな。

※7

師弟関係を解消

して。

※8

今後。

※9

応対。

と、嘆き給へば

 「ヤア愚か  

、道真虚名蒙こ

うむれ

ども※

、君※

を恨み

 

奉らず。漸よ

うよう々

齢傾きし臣が拙き筆跡まで、惜し

 

ませ給ふ伝授の勅諚。昨日までは叡え

いりょ慮

に叶ひ3

 

今日は逆げ

きりん鱗

蒙る4

とも皆天命のなすところ。先程

 

冠の落ちたるは殿て

んじよう上

の札を削られ※

、無位無官の

 

身となる報せ、今更悔むは愚か

。これより

 

配所へ行くにもあらず、見苦し

嘆かれな6

と、御台を遠ざけ給ひける

希まれよ世

は道より取つて返し

 「清貫殿、御苦労千万。この和わ

ろ郎の様子承り、

 

弟子の方から師匠を上げ※

、向

きようこう後

頼むは時し

へい平

公、

 

菅丞相と一つでない。取なし宜しく頼み入る」

 「気遣ひあられな呑み込んだ。作法の通り菅丞

 

相、内へ追ひ込み門を打て」

 「畏

かしこまつ

た」

と、荒島主税、割竹振り上げ立かゝる

 「コレ、待つた。その役目希世が代はつて仕る」

と、割竹受け取り

 「コレ、謀む

ほんにん

叛人殿。今までとは当たり※

が違ふ。

 

時平公へ宗旨を替へた手見せの働き、割竹一つ」

と、振り上ぐれば

血気の梅う

めおう王

ずつと寄り、希世を四五間突き飛ばす

 「ヤア下司の慮外者、自滅したうて出しやばつ

 

たな」

 「ハレヤレ、知れてある下司呼ばはり。此こ

なた方

※※

初段 築地の段 2

Page 31: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

腹がよじれるほ

どおかしい。

※2

「わろ」に同じ。

こいつ。

※3

(菅丞相は)お手

を伸ばされて。

※4

言うことを聞か

なければ。

※5

永久に。

※6

口先ばかりの。

※7

小さい門。

※8

下水などの出口。

※9

不吉に。

※10

土塀の上に屋根

を葺いたもの。

 

口から慮外とは、ハヽヽヽ腸

はらわたが

よれ返る※

。その

 

割竹振上げて、誰を  

 「オヽサ、謀叛人のこのわちよ※

を」

 「ヤア謀叛とは誰を謀叛。御恩を忘れし人非人、

 

菅丞相にはお構ひなくと、おのれに罰は身が当

 

てる」

と、また飛びかゝる梅王丸

御手を指し延べ3

、引き寄せ給ひ

 「ヤア小賢しい汝な

んじ

が振る舞、勅諚によつてかく

 

なる道真。希世はさておき、その他へも手向か

 

ひするは上か

への恐れ、汝は勿論館の者共、我が

 

詞を用ひずば4

七しちしょう生

まで※

の勘当ぞ」

と、聞いて希世が、怖こ

わげ気

も抜け

 「コリヤ梅王、して見ぬかい。頬ほ

げたばかりの6

 

腕なしめ」

と、のさばる無念

耐こら

へる梅王

是非も情けも荒島主税、官人ばらに追立てられ、

すご

館に入り給ふ、御有様こそいたはしき

 「サア

用意の大貫鎹」

表と裏へ手分けの人数、築地の穴門※

、樋ひ

の口※

まで、

暫時の間に打ち付けしは、物忌はしく※

見へにけり

清貫見廻し

 「ハレよい気味 

出口々々の締まりもよいか。

 

築ついじ地

の屋根を越さうもしれぬ。主税万端油断す

 

な。暮れに及べば希世殿、いざ帰らん」

※※0

初段 築地の段 3

Page 32: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

一撃して。

※2

ついでに巻き添

えで投げ。

※3

乱暴。

※4

大刀に添える小

刀。脇差。

※5

意識を取り戻し。

※6

させたことになっ

て。

※7

間抜け。

※8

伝授は受けても

勘当はゆるされていな

い。

※9

代わり。

※10

やたらに振り回

す刀の風で。

※11

役に立たない侍。

※12

取るに足らない

公家ども。

と、打ち連れて、六七間も打ち過ぐる

築地の蔭に待ち居たる、武部源蔵ぬつと出で、希

世をひと当て※

悶絶させ

あはてる清貫

相しょうばん伴

投げ※

 「スハ狼ろ

うぜき藉

者、打ちのめせ、殺せ、括れ」

と、ひしめいたり

武部は戸と

なみ浪

に差さ

しぞえ添

渡し、寄らば斬らんず勢ひなり

希世は漸よ

うよう々

人心地※

、立ち上がつて

 「ヤア汝う

は源蔵め、一度ならず二度ならずひど

 

い目に合はしたな。汝がする狼藉、菅丞相がさ

 

したになつて6

、流罪の仕置が死罪になろ」

と、言はせも果てず高笑ひ

 「女房アレ聞け、物覚えのない抜け作※

殿、伝授

 

は受けても勘当赦ゆ

りぬ※

。この源蔵には主人がな

 

い。梅王は主持ちで、おのれめをさいなまず、

 

耐へてゐる可哀さに名み

ょうだい代

に投げてこました。名

 

代ついでに皆撫で斬り」

と、女房諸共抜き放し、滅多殴りの太刀風※※

小こぬか糠

侍※※

、鋸お

がくず屑

公家※※

、吹き立てられて散り失せけり

敵かたきな

ければ立ち帰る、時節も幸ひ黄た

そかれ昏

時、門の扉

をとん

叩けば

内より咎むる声

 「聞き覚えた梅王か」

 「さ言ふは武部源蔵殿か」

 「殿どころかい。若い者油断してゐる所でない。

※3

※4

※※

初段 築地の段 4

Page 33: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

主人達をお連れ

して逃げる。

※2

あなた(二人称)。

※3

人を陥れようと

悪く言う者。

※4

気がかりだ。

※5

考えついたこと

には。

※6

承知してはくれ

まい。

※7

心がはやって。

せっかちに。

※8

ここでは菅秀才

の顔のこと。

※9

どうするか思案

の末。

※10

源蔵は戸浪を抱

き上げて築地越しに若

君を受け取らせる。

※11

人手が足りない。

※12

宵に盗みの下見

に来る者。

※13

悪事の仲間。ぐ

る。

 

扉の釘付け踏み破り、御主人たちの御供し、こ

 

の場を退く※

は易けれど、おこと※

が今も聞く通り、

 

仁義を守る道真公、とあつて讒ざ

んしや者

が計らひにて

 

御家の断絶覚束なし4

。御幼少の御若君、夫婦が

 

預かり奉らん。所存を立つる※

はコレ梅王、若君

 

をこつそりと築地の上から」

 「ホオ

出来た

源蔵殿、お上へ言ふ

 

ては得心あるまい6

。盗み出だすが御家のため」

 「さうぢや

よい了簡。一刻一歩も早退きた

 

し。頼む

と、言ふ間もなく

築地の上から梅王が心の早咲き※

、勝色見せたる花

の顔か

ばせ※

 「大事の若君、怪我さしますまい」

心得高き築地の屋根、伸び上がつても届かぬ背

丈、とやせん※

戸浪を抱き上ぐれば※※

、軒に手届く心

も届く、若君受取り抱き下ろし、外と内とに忠臣

二人、胸は開けど開かぬ御門

荒島主税目早く見付け

 「ヤア盗人の隙ひ

はあれど守り人て

の隙がない※※

。宵

 

覗き※※

めを手引きする内と外との相ずり※※

めら、菅か

 

秀しゅうさい才

を盗んだこの旨注進せん」

と、駈け出す先に源蔵が、立ち塞ふ

がつて

 「どこへ

、おのれをやつてよいものか」

と、討つてかゝれば

抜き合はせ、切り結び、切りほどき、追つつかへ

※3

初段 築地の段 5

Page 34: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

息の根を止める

必要はない。

※2

『菅原伝授手習

鑑』の由来。

しつ二人が勝負

屋根の上から見てゐる梅王、桟敷正面真つ向二つ

破わ

れて命は荒島主税

 「とゞめに及ばぬ※

斬り捨て、斬り捨て」

危い場所を盗人夫婦

行く末栄ゆる菅秀才

 「若君頼む、夫婦の衆」

 「館の父君母君を、頼むぞ梅王」

 「心得た」

と、互ひに頼み

頼まるゝ、忠義々々を書き伝ゆる、筆の伝授は寺

子屋が、一芸一能名も高き、人の手本と、なりに

けり※

初段 築地の段 6

Page 35: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

鳥の形にこしら

えた飴。

※2

水飴。

※3

固い飴。

※4

薬入りの滋養飴。

※5

現在の大阪の平

野地方辺りで作った

飴。

※6

京都の桂の里で

作った飴。

※7

兵庫県西宮辺り

で作った飴。

※8

赤く彩色した飴。

桜飴を売るのが飴売り

に変装した桜丸。

※9

手ぬぐいなどで

頭から頬にかけて包

み、顎の辺りで結ぶもの。

※10

牛飼舎人。

※11

ようやく。

※12

何と「す」ると

「す」がわらの掛詞。

※13

浮世を「恥じ」る

と「土師」の里の掛詞。

土師は現・大阪府藤井

寺市道明寺付近。

※14

芹川(京都市伏

見区)。

※15

淀(京都市伏見

区)。

※16

石清水八幡宮(京

都府八幡市)。「何とい

う」と「石清水」の掛

詞。

※17

高く盛り上がっ

た。

※18

見慣れない。

※19

悩みごとが解決

して晴れ晴れとした心

で見たいものですね。

ニ段目

道みちゆきことばのあまいかい

行詞甘替

 「サア  

子供衆、買ふたり  

、飴の鳥※

じや飴

 

の鳥、それがいやなら汁し

るあめ飴

、鑿の

みきり切

、泣く子の口

 

へは地じ

おう黄

煎せんだま玉

、さてそのほか平野飴※

、桂の里に

 

は桂飴※

、西の宮には飴の金※

その品々はいて買う

 

たり。拙者が自慢で売りひろめる桜飴※

を買はつ

 

しやい、桜飴

桜々と、己お

が名をいえども包む頬冠り※

、木綿頭巾

に袖なしの羽織は軽き身なれども、忠義は重き牛

飼※※

の桜さ

くらまる丸

はいつぞやより加茂の川浪立ち出でし

斎ときよ世

の宮と姫君に、やうやうと※※

廻り会い、一日二

日は我が家にも忍ぶに何と『菅原※※

の伯母君頼み参

らせん』と行くは車の供ならで、後と先とに打ち

荷にな

ふ飴の荷箱のかた

に、御二方を入れ参ら

せ、浮世を土は

じ師の里※※

へとて飴のとりどり売って行

く心づかひぞせつなけれ。

道を芹川※※

淀※※

もこへ、町を過ぐれば爰こ

ぞよし

誰かは何と石い

清しみず水

 「サア

お出」

と荷を下ろし、箱を開けば、堆う

ずたか高

き※※

姿あらはに苅か

屋やひめ姫

、暫よ

うや

く拝む日の影に

 「目なれぬ※※

山や知らぬ里、思ひなくてぞ見まほ

 

しし※※

、ノウ宮様」

とありければ

※2

※3

※4

※※※

ニ段目 道行詞甘替 1

Page 36: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

江戸時代の刑罰

で外出を禁じる刑。

※2

表だって世の中

に出られない身の上。

※3

飴が溶けるよう

に私たちの罪も解けて

安心できるだろうか。

※4

天が下。天下を

お治めになる。

※5

めでたいしるし。

※6

兄の醍醐天皇を

差し置いて畏れ多いこ

とだ。

※7

香木を焚いて香

りを衣服に移すこと。

※8

蝶々が羽を摺り

合わせて集めた鱗粉を

白粉に見立てて。

※9

久しく鏡に向か

わなかった私の顔に。

※10

白粉を付けて化

粧をしよう。

※11

大阪府四條畷市

雁屋。「名を借り」と「苅

屋」の掛詞。

※12 稲の苗を作る時

期。

※13

手作業。

※14

北へ帰っていく

鶴。春の季語。

※15

寝室。

※16

おふたりは愛し

合うのに夢中で月が出

ているのか曇っている

のか、外の様子など気

に留めない。

※17

当時の流行歌。

※18

暖かくなった。

※19

素早く。

※20

おふたりを荷箱

の中に隠す。

 「さればとよ、そなたの父菅か

んしょうじょう

丞相いかなる事の

 

誤りにや押お

しこめ籠

の身と成りけるも、我

出でし跡

 

なる故、正しくは知らねども、やがて赦され有

 

りぬべし、とにもかくにも我が身は今売る飴の

 

ごとくにて笠に覆お

へる日蔭の身2

、いつかとけな

 

ん心ぞ」

と、御仰せに桜丸

 「左様にては候はず、御忍びましますも、飴を

 

ば上に君を下、取りも直さずあめが下しろし召

 

す4

瑞相※

にて候」

と、申し上ぐるに宮はなほ

 「勿体なし※

と身をすべる野路の、畔道、そろ

と、蕨が

裾に手を入れて褄つ

ひるがへす裏模様、留と

めき木

に草も

芳しき、春の野の

づら面

に群れる蝶袖にとまらば羽摺り

て※

鏡絶やせし化け

はい粧

せん※※

、爰こ

に我が名をかりやの

里※※

、今苗代の時※※

を得て、民の手業※※

も遠目には、い

と珍らかに引鶴※※

の声に千歳も変らじと契りし今の

閨ねや

の内、宵よりしめて寝る夜さは月は出るやら曇

るやら※※

 

枕とる手に※※

寝て解く帯の、いかゐお世話

 

枕とる手に寝て解く帯の、いかゐお世話

 

結ばぬ夢を覚ませとや、

春の風ぬるみし※※

空の快く行く手の森の人音に『見

付けられじ』と手ばしかく※※

、又忍ばする※※

飴売が片

手に太鼓、片手に撥、声おかしくも拍子とり

※※

※3

※※

※※

※※※

ニ段目 道行詞甘替 2

Page 37: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

母、妻。

※2

紅で染めた絹の

布。

※3

すんなりと結べ

ずに。

※4

とろりとろりと。

※5

袖に入る程度の

土産。

※6

世間話。

※7

残念だな。

※8

九州のこと。

※9

大阪市天王寺区

にある安居(安井)神

社の辺り。

※10

航行するのに最

適な風を待つこと。

※11

官職の位を下げ

て都から遠い場所へ移

すこと。

※12

いらっしゃる。

※13

取り乱して。

※14

肩に担ぐ天秤棒

の前と後の荷箱を数え

る単位。

※15 安井は安心の「安」

の文字が入るが今の状

況では菅丞相がどうな

るのか安心できない。

 「こんりや      

是が天子の始めなされ

 

た神武飴とて、神武天皇は飴がお好きで練らし

 

やりましたる名物飴をば、こちも仕なろて嬶か

 

や嫁らが、紅も

み絹の襷た

すき

を、しんどろもんどろ3

掛け

 

て、しんとろりもんとろりと4

練りやりましたを

 

買ほなら今ぢや 」

と売り声の子供あつめに子の親が袖の土産※

を買ひ

に来て、認し

ためる間の取沙汰※

 「惜しや※

都の菅丞相、筑紫※

へ流され給ふ故、津

 

の国安井※

に風待※※

しておはしまするはいたはし」

と、所ゆ

かり縁

と知らず告げて行く、

跡の驚き悲しみは箱を細目に顔ばかり

 「何道真は左遷※※

とや」

 「父上安井にまします※※

とや、せめてお顔が拝み

 

たい、どうぞお船の出ぬ先に逢はせてたも桜丸、

 

頼む

としどろにて※※

『わつ』とばかりに泣き給ふ。

声をも人に知らせじと、喇ら

っぱ叭

の笛に紛らして、そ

れより道を横切れに一荷※※

の涙担ひ行く、先はいづ

くぞ津の国の安井の岸の安からぬ※※

思ひ重ぬる。

※※

※2

ニ段目 道行詞甘替 3

Page 38: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

讒言者の言葉が

強く、天皇は菅丞相に

謀反の疑いがあると信

じてしまい。

※2

福岡県の太宰府。

※3

牢船。罪人を乗

せる船。

※4

醍醐天皇の父宇

多法皇。

※5

上皇や法皇の御

所の事務を司る院の庁

に仕えた事務官。

※6

天王寺(大阪市

天王寺区)の西門から

下る坂。

※7

安井(安居)神

社の北。

※8

陣屋に張る幕。

※9

天候。空模様。

※10

親族。

※11

別れを告げるこ

と。

※12

罪、罪状。

※13

直接話すこと。

※14 無礼者。

※15 粗相するな。

※16

詳しく。

※17

男女が密かに関

係を結ぶこと。

※18

(密通の言い訳

は)ご存知ないので弁

明できず。

二段目

安やすいしおまち

井汐待の段

 

哀れさよ

世につれて海の面も風さわぐ湊に御船を留めしは

菅原の道真公、つひには讒ざ

んしゃ者

の舌強く※

覚へなき身

に罪極まり、筑紫宰府※

※へ流罪の籠ろ

うせん船

津の国安井に

着きしかば、警固の武士は法皇※

の旧臣院の庁

判官代輝国、逢坂※

増井※

に陣幕※

※打たせ見る目厳しき

鑓やりなぎなた

長刀、余あ

また多

の官人四方を囲ひ、出船を松の下か

げに日和※

見合せ居たりける

かゝる折から桜さ

くらまる丸

、宮姫君を御供申し先に進んで

馳せ来り

 「菅

かんしょうじょう

丞相流罪と承はり縁類※※

の者、暇乞※※

の願ひ、

 

また一つには科と

の様子も承りたし、御役人へ

 

直談※※

と立ち寄るを余多の官人

 「ヤア直談とは慮外者※※

、暇乞とは無法者、油断

 

ならず」

と取り巻くを『それ』と悟りて輝国

 「ヤレ聊り

ょうじ爾

すな※※

と押し鎮め

 「科の様子聞きたくば言ふて聞かそふ、上より

 

咎とがめ

の条々つぶさに※※

言ひ開き給へども、斎と

きよ世

の宮

 

と苅か

りやひめ

屋姫密通※※

の言訳、御存じなきとてあかり立

 

たず※※

是非なく科に落ち給ふ」

※3

※※※

※5はんがんだいてるくに

二段目 安井汐待の段 1

Page 39: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

逮捕。

※2

私たちの方こそ

流罪にでも死罪でも処

分して。

※3

助けてやってく

れ。

※4

判断。

※5

妻の方の親族。

※6

裏工作すること。

※7

逃走して行方不

明になること。

※8

菅丞相の企みは

事実だと天皇がお聞き

になり。

※9

まさか対面する

訳にはいかないだろう。

※10

男女関係を解消

し。

※11

皇居。

※12

天皇が納得され

るように釈明なさって。

※13

京都に帰ること。

※14

夫婦の間柄。

※15

帰ることができ

ようか。

※16 お嘆きになれば。

※17

害を与える者。

※18

お許しください。

※19

おふたりの縁結

びの手伝い。

と聞いて悲しく苅屋姫、宮諸共に駈け出で給ひ

 「ナニ我々故囚われ※

とや、情けなや浅ましや、

 

不義は二人が誤りぞ、流し成りとも切き

なりとも

 

罪に行ひ※

※丞相を助け得させよ3

 「父上に逢はせてたべ、助けてたべ」

 「対面させよ」

と二方は泣きさけび給ふにぞ、輝国遥かに頭を下げ

 「恐れながら御対面あつては、いよ 

丞相の

 

罪おもく成る道理、元この起こりは去るころ君

 

天子に成りかはり御姿を唐僧に写させしは菅丞

 

相の計

はから

ひ※

、唐も

ろこし土

まで天子と思はせ我が娘を后き

さき

 

立て外戚5

とならん下し

ただく工

み※

と讒ざ

んしゃ者

の舌に懸る内、

 

宮姫を連れ御出奔※

、いよいよそれと叡え

いぶん聞

に達し、

 

罪なくして罪に沈む、殊に姫君とは親子の中。

 

是天子への恐れ有れば、よもや対面候まじ※

、兎

 

角この上菅丞相の為を思し召さば、是より苅屋

 

姫と御縁を切られ※※

、ふたたび禁庭※※

へお帰りあつ

 

て、謀叛なき趣を仰せ分けられ※※

丞相帰洛※※

を御願

 

ひ候へかし」

と申し上ぐれば斎と

きよ世

の宮

 「われ故罪に沈むも悲し、又我をのみ恋ひ慕ひ

 

付き添ひ来たる契ち

ぎり

をば見捨てて何といなれうぞ※※

とかこち給へば※※

姫はなほさら

 「父の為には仇あ

だかたき敵

、我を罪して御流罪を赦して

 

たべ※※

人々」

と伏し沈み  

消え入るばかりに泣き給へば、媒

なかだち

※※

※※※ ※

※※

※※※

二段目 安井汐待の段 2

Page 40: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

私さえいなけれ

ば。

※2

騒動の張本人は

他ならぬ私だ。

※3

詮方「な」くと

「な」みだの掛詞。

※4

あれこれ。

※5

何もしないで呑

気に。

※6

私たちのような

者。

※7

正式に。

※8

燃えるような恋

心を生い茂る草の様子

に例える語。

※9

善悪を判断する

天の神。

※10

おっしゃると。

※11

元気で。達者で。

したる身に取つてつらさ苦しさ桜丸、骨にも身に

もしみ渡り、

『思へば 

我なくば※

。此の恋誰か取り持たん。

科人は外ならず※

』と悔めど今更詮方も涙3

先立つば

かりにて、とかう※

詞もなかりしが

立直つて宮のお傍に恐れ入り

 「私元は土百姓の倅せ

がれ

、御扶持を下され君の舎と

ねり人

 

を勤めるも皆菅丞相様のお蔭、その恩ある方を

 

流罪させのめ 

見ては居られず、と申してか

 

ら我々風情※

の及ばぬ所、輝国殿の仰せのごとく、

 

これより姫君と御縁をお切りなされ他人となつ

 

てお願ひあらば、よもや叶はぬ事も御ざります

 

まい、再び丞相様御帰洛有つて後、表向きの※

※御

 

縁結び、暫し

しの間のお別れ、御聞入れ下されよ」

と身にかゝつたるせつなさに土にひれ伏し願ふに

ぞ、斎世の宮はなほ涙、姫君に差し向ひ

 「我恋草※

の思ひに迷ひ、丞相の帰洛を願はずば

 

天道※

怒り給ふべし、契ち

ぎり

は尽きず変はらねども親

 

の為と諦めて別れてたも苅屋姫」

と涙とともに宣の

たま

へば※※

 「コハ勿体ない、お歎きを掛けるも元は自ら故、

 

いつそ焦れて死んだらば今の思ひはあるまいに、

 

お名残惜しや」

と御顔を見るも涙、見らるゝも涙片手に

 「また逢ふ迄は随分まめで※※

 「おまへ様にも御機嫌で」

※5

二段目 安井汐待の段 3

Page 41: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

ちょうどその時。

※2

かつがせ。

※3

少しも気後れし

ないで。

※4

立田と苅屋姫と

は実の姉妹。

※5

(菅丞相様が我々

の屋敷で)お泊り下さ

れば。

※6

菅丞相の伯母で

あり立田の母である老

齢の覚寿の。

※7

無理なお願い。

※8

郡(地方)の役人。

※9

ぶしつけ。

※10

失礼。

※11

ひたすら。

※12

同じ家系の人。

同族。一族。

※13

浜辺で菅丞相を

寝泊まりさせるのは不

用心なので。

※14

覚寿の屋敷に泊

めるのを許可する。

と、あとは涙のすがり泣き『わつ』と絶え入り給

ひける。かゝる折節※

いづれとも知らぬ女中の乗物

つらせ※

※、おめず臆せず3

判官代に差し向ひ

 「私事は土は

じ師の里、立た

つた田

と申して菅丞相の伯母

 

の娘」

と、聞くに嬉しき苅屋姫

 「コレ姉様※

ナウ立田様かいの」

と、取り付き給ふを突退けはね退け

 「母の覚か

くじゅ寿

、左さ

せん遷

の様子を聞き及び年寄つての

 

悲しみ、御推量下さりませ」

といふ内に又姫は取付き

 「そのお歎きが身に取つてなほ悲しい」

と、歎くを振切り

 「何とぞこの所の汐待を土師の里にて御一宿あ

 

らば5

快く暇乞も致し度き願ひ、明日をも知らぬ

 

老の身の※

少しは歎きも止と

めたく、無体な御訴訟、

 

夫宿す

くねたろう

禰太郎が参る筈なれども郡役※

を勤める身で

 

身勝手な事申すも如何、女の慮外※

は常の事と不

 

調法※※

も顧みずお願ひに参りし、お役人の御了簡

 

偏ひと

へに※※

頼み上げます」

と願へば輝国

 「イヤ一い

っけ家

の願ひ叶はぬ事。大切な囚め

しうど人

浪打際

 

の一宿心許なく※※

只今用心のため土師の里へ立越

 

する、一宿は覚寿のもと※※

と、聞いて嬉しく

 「エヽ夫れはマア結構な御用心」

※※※

※※

二段目 安井汐待の段 4

Page 42: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

引っ張って。

※2

誕生してすぐに。

※3

ことわざ「恋は

思案の外」。恋は理性

では割り切れない。

※4

世間へ顔向けが

できない。

※5

姉妹。

※6

夫婦。恋人。

※7

男女の名残りつ

きない別れ。

※8

思いが「増す」と

「増」井の浜の掛詞。

※9

目を「赤」く泣

き腫らすと四天王寺の

境内にある「閼伽(あ

か)」井の水の掛詞。

と、悦びいさむ立田が袖、姫はひかへて※

※ 「コレ申し、とてもの事に父上にお目にかゝる

 

お願ひ」

と、頼む袂た

もと

を振り放し、

 「恐れ多い、丞相様へどの顔さげて逢ふと思し

 

召すぞ、元あなたに菅か

んしゅうさい

秀才といふお子のない先、

 

母様がおまへをば藁わ

の上より※

遣はされ、私が為

 

に妹でも今は菅原の姫君様、勿体ない宮様へ恋

 

仕かけて今この大事になつたでないか、恋は心

 

のほか3

でもな、是はあんまり外ほ

過ぎて姉のわし

 

まで人々へ顔が出されぬ※

、恥かし」

と呵し

る心も同は

らから胞

のさすが誼よ

しみ

と知られける。輿の内

には菅丞相わざと詞をかけ給はず、事を計るは判

官代

 「コリヤやい桜丸、何をうつかり、一時も早く

 

宮を法皇の御所へ御供申せ、立田殿は苅屋姫を

 

御同道は必ず無用ナ合点か、コレサ土師の里の

 

親元へ、きつとお預けなされよ」

と表を立てゝ心は情け、御乗り物はゆるやかに常の

旅行同然に輝国が引添ふて土師の里へと急ぎ行く

 「ナフコレ父上」

 「丞相」

と宮諸共に駈け行き給ふを桜丸が引き留め、立田

が押へて引き分くる名残尽きせぬ妹背※

の別れ、扇

おうぎ

の別れ※

とさすがまた姉が情けで引き合はす、い

とゞ思ひは増井の浜※

、目は泣きはらす赤井の水※

※5

二段目 安井汐待の段 5

Page 43: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

いつかは心配事

もなく「安」らかに

「逢」おうとの「安」

井と「逢」坂の掛詞。

いつか安井と逢坂の※

水の哀れや泣き別れ

 「さらば」

 「さらば」

二段目 安井汐待の段 6

Page 44: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

正しくは「容赦」。

おゆるし。

※2

並み大抵ではな

く。

※3

もてなすこと。

※4

こっそりと連れ

て帰ったが。

※5

くたびれたこと

だろう。

※6

ここへ来ること

ができない。

※7

ひま。好機。

※8

部屋。一室。

※9

親不孝。

※10

自害する覚悟を

しても。

※11

どうしても忘れ

ることはできない。

※12

ここでは自害す

ること。

二段目

杖つえのせつかん

折檻の段

 

菅かんしょうじょう

丞相の御別れ、対面ありたき覚か

くじゅ寿

の願ひ、流

人預かる判は

んがんだいてるくに

官代輝国の用捨※

をもつて、河内の屋敷

へ入り給へば、老いの悦び大方ならず※

、馳走※

の役

人夜昼の、分かちも知らぬ忙しさ

立たつたのまえ

田前は船場にて、思はず逢ふたる苅か

りやひめ

屋姫、密か

に伴ひ帰れども※

、家来も多くは知らぬがち、隠し

置いたる小座敷の、襖をそつと押し開き

 「さぞ淋しからう精も尽けふ※

、顔見に来たいは

 

山々なれど、さりとては何やかや用事の多さ。

 

母様の傍離されねば得参らぬ※

。今がよい隙※

※、誰

 

も来ぬ、気晴らしに、サこゝへ」

と、心遣ひも姉は

らから妹

の、姉の情けを苅屋姫、一間※

出づる、目は涙

 「斎と

きよ世

様に別れてより、段

お世話に預かる上、

 

父上様にもお目に掛かりせめて不孝※

の申し訳、

 

それも叶はぬものならばと、我が身の覚悟極め

 

ても※※

、生みの母様覚寿様、今の母様都の弟、親

 

王様の御事はなほしも忘れぬ得忘れぬ※※

。心を推

 

量してたべ」

と、嘆けば

共に涙ぐみ

 「悲しいは道理、道理。さりながら、丞相様に

 

逢はぬとて、短気なこと※※

など構へて、思ひ出し

二段目 杖折檻の段 1

Page 45: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

都合。

※2

誘いをかけて言

う。

※3

予期した方向。

※4

お亡くなりになっ

た。

※5

夫であり姉妹の

父である郡を統治する

地方長官。

※6

道理のわからな

い者の子どもへの甘

さ。

※7

お願い。

※8

このままでは済

まない。

※9

暴風雨で海が荒

れること。

※10

都から九州へ行

くこと。

※11

好都合の天候と

風。

※12

連絡。

※13

現在の午前二時

頃。

※14 その内に菅丞相

様と対面させようと。

※15

猶予がなく。

※16

ことわざ「膝と

も談合」誰にでも相談

すれば妙案が浮かぶも

のだ。

※17

あれこれ思い悩

んで。

※18

予測を立てるこ

と。

※19

妙案がある者。

※20

夫婦である。

※21

目をごまかす。

だまして。

※22

「婿めかれぬ」の

略。婿として大事に

扱ってもらえない。

 

ても下さんすな。母様のお願ひ立つてこの屋敷

 

に御ご

とうりゅう

逗留。どうぞ首尾※

を見繕ひ、母様のお耳へ

 

入れ、お指図受けて、と余所ながら、口むしり

 

かけて※

※見たればな、こちの思ふた坪※

へはいかず、

 

母様の堅くろしさ。お果てなされた※

郡領※

様に、

 

少しも変はらぬ行儀作法。『わが産んだ子でも人

 

にやれば、先こそ親なれこちは他人。それを親

 

ぢやの娘ぢやと思ふは町人百姓の、訳をば知ら

 

ぬ子に甘さ※

』と、幸先悪い訴訟※

もならず、ほか

 

の事に言ひ紛らし、その場は済んでも始終が済

 

まぬ※

。お宿申すも今日で三日、暴し

け風空も吹き晴

 

れて、下だり※※

日びより和

に直つた、と船場から注進※※

ゆえ、

 

今宵八つ※※

がお立ちとて、輝国殿の旅宿より知ら

 

せによつてお立ちの用意。今やなんどと※※

思ひの

 

外、手詰め※※

になつたがどうしてよからう。膝と

 

も談だ

んこう合

コレ泣かずと、よい知恵出して下さんせ」

と、取つゝ置いつ※※

の胸算用※※

後ろにすつくと宿す

くね禰

太たろう郎

 「よい分別者※※

、これにあり」

 「ヤア、太郎様、いつの間に」

 「ムヽ『いつの間に』とはコレ立田、連れ添ふ※※

 

男の目を抜いて※※

、こつそりと取り込んで大それ

 

た身の上話。苅屋姫はそなたが妹、藁わ

の上から

 

養子の子細、知つてはゐれど京と河内。武家と

 

公家とは位も格別、菅丞相の伯母風吹かし、婿

 

めかしても、いつかなめかれぬ※※

位負け。名ばか

※※※

※※※

※※

二段目 杖折檻の段 2

Page 46: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

器量良し。美人。

※2

「うつつを抜か

す」。夢中になる。

※3

中国唐代の才色

兼備の美女。

※4

無「用」と「楊」

貴妃の掛詞。

※5

一番目は苅屋姫で

お前は二番目だという

意味。

※6

言いたい放題。

※7

菅丞相が覚寿の

屋敷へ泊まれるように

してくれた配慮。

※8

夜明けに最初に

鳴く鶏。八つの時刻(現

在の午前二時頃)に鳴

くという。

※9

打合せ。相談。

※10

でれでれした。

ふざけてだらしない。

※11

ふざけた言い方。

※12

もう降参だ。

※13

配偶者。

※14 なんとかしなけ

れば。

※15

うまくいかない。

菅丞相様との対面の許

可が下りない。

 

り聞いて逢ふたは今、ヤてんと御器量※

。斎世と

 

やら様とやらが、うつゝ様※

にならしやつたも道

 

理ぢや、道理ぢや。姫の顔見ぬ先は、おれが女

 

房は楊よ

貴妃ぢや、と思ふたが、較べて見れば無

 

楊貴妃※

。そなたの名も変へねばならぬ」

 「ソリヤまたなんとへ」

 「ハテ知れた事、お次の前※

 「エヽ、ずは 

と出放題※

※、母様へも隠してゐる。

 

この訳なんとも言はしやんすな」

 「それは気遣ひし給ふべからず。明日のお立ち

 

知らされし輝国の旅宿へ参り、この間御逗留心

 

遣ひ※

の一礼申し、いよ

刻限相違なく、一番

 

鶏どり

の鳴くのが合図、『申し合はせ※

に行て来い』と

 

覚寿の言ひ付け。只今参る道でよい思案が出た

 

ら、コレ戻つて言はう、お次の前」

 「アレ、まだじやら 

悪てんごう戯

口※※

 「オツト閉口※※

、行て来う」

と、表の方へ出い

でゝいく。

後を見やりて苅屋姫

 「あなたがお前のお連れ合ひ※※

、身の上の事に取

 

り紛れ、御挨拶も得申さぬ」

 「アヽコレ、挨拶はいつでもなる事。こちの願

 

ひは延ばされぬ。アヽどうがな※※

と、案じ煩ひ

 「オヽそれ 

、所詮母様に言ふたとて、埒ら

の明

 

かぬ※※

は知れてある。連れ合ひも留守、母様もお

※※

※※

※※0

二段目 杖折檻の段 3

Page 47: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

どうにでもなれ。

※2

打ち明けて。

※3

大切な娘。

※4

親もゆるさない

いたずら、ここでは不

義密通。

※5

しわざ。

 

傍にござらぬ折柄なれば、お前を私が連れて行

 

て、叱られうがどうならうが後は儘ま

いな※

、サ、

 

こなたへ」

と、姫の手を取る後ろより

 「不孝者、どつちへ行く」

と、襖ぐはらりと母の覚寿、杖振り上げて飛びかゝ

るを

立田は『はつ』と抱い

だきとめ

 「お前に明けて※

言はなんだ、隠したお腹が立つ

 

ならばこの立田、打ちも擲た

きもなされませ。こ

 

の中じ

ゆう

も宣はぬか、『人にやれば我が子でない』と

 

仰しやつての折せ

つかん檻

は、母様とも覚えませぬ。丞

 

相様の御秘蔵姫※

、杖棒当てゝよいものか。サア

 

自らを 

と、姫に代はつて身を厭い

はず

 「イヤ、お前に科はない、不孝な自ら打ち給へ」

と、立田を押し遣る杖の下

 「イヤ 

、お前は打たされぬ」

 「イヽヤ、こな様は」

と、折檻の、杖を争ふ姉お

とどい妹

思ひ

老母はなほも、怒りの顔色

 「コリヤ立田、おりや他人には折檻せぬ。養子

 

にやつた丞相殿はおれがためには甥の殿、子に

 

やつた姫は甥孫。親も赦さぬいたづら※

して、大

 

事の、大事の甥の殿、流され給ふは誰が業わ

 

憎ふて  

、コレこの杖折れる程擲た

かねば、丞

※※

二段目 杖折檻の段 4

Page 48: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

六十歳を越して。

※2

死別した。

※3

頼みとする人物

がいない。

※4

仏門に帰依した

時の名前。

※5

出家したらすべ

ての執着を捨てなけれ

ばならず杖で折檻する

ことはできなかった。

※6

ことわざ「そば

杖を食う」。巻き添え

を食う。とばっちり。

※7

荒々しい折檻。

※8

軽率な。

※9

寵愛なさる。愛

しく思われる。

※10

会いたい。

※11

感極まって、身

体を地面に投げ出す。

※12

実母が我が子を

折檻するのは養父に申

し訳なく思う恩義。

※13

養父が養女に情

けをかけるのは実母を

労わろうとする恩義。

※14

有難い。

※15

おゆるしくださ

い。

 

相殿へ言ひ訳立たぬ。六む

十路に余つて※

白髪頭、

 

連れ合ひに別れた時※

、剃るを剃らさぬ立田前、

 

尼になつては頼りがない※

、力がないと留められ

 

て、法名※

※ばかり覚寿と呼ばれ、邪魔に思ふたこ

 

の白髪。今日といふ今日役に立つた。頭を剃つ

 

て衣を着れば、打

ちようちやく

擲の杖は持たれぬはい※

。傍杖※

 

望む立田から」

と、走り寄つて、ちやう 

 

、打たるゝ姉

妹打つ母も、共に涙の荒折檻※

※。

 「アヽコレ 

伯母御前、卒そ

つじ爾

の折檻し給ふな。

 

斎世の君の御不ふ

びん憫

ある※

、娘に疵き

ばし付け給ふな。

 

父をゆかし※※

と慕ひ来る、苅屋姫に対面せん。こ

 

れへ伴ひ給はれ」

と、障子の内より丞相の、御声高く聞こゆるにぞ

老母は杖をからりと投げ捨て、『わつ』と、叫ん

で伏し転ま

び※※

、暫し

し、答へもなかりしが

 「生みの親の打擲は、養ひ親へ立つる義理※※

。養

 

ひ親の慈悲心は、生みの親へ立つる義理※※

。あま

 

き詞も打擲も、子に迷ふたる親心、逢ふてやる

 

とは姫よりも母が悦び、詞こ

とば

には言ひ尽されぬ。

 

アヽ結構な※※

親持つた」

『持つた、持つた』と目に持つた、涙の限り声限り

二人の娘は

 「何事もお慈悲※※

、お慈悲」

と、ばかりにて、泣くよりほかの事ぞなき

 「コレノウ、こゝから礼を言はうより、来いと

※※

二段目 杖折檻の段 5

Page 49: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

(逗留の間に作ら

れた)菅丞相の木像が

あるばかり。

※2

木像が菅丞相に

成り代わって物をおっ

しゃったか。

※3

理性を失い。

※4

絵でも木像でも

良いから。

※5

最初に。

※6

菅丞相の魂が込

められた覚寿への形見。

※7

たがが木像だと

軽んじるな。

 

あればいざ傍へ」

と、隔ての襖押し明くれば、菅丞相は見え給はず、

逗留の中う

作られし、主ぬ

の姿の木像ばかり※

 「コハそもいかに」

と、苅屋姫

 「逢ふてやらうと宣ひしは、母様の折檻を留め

 

んため。とにかく不孝な自ら故、お逢ひなされ

 

て下されぬか。今物を仰つたは父上に違ひはな

 

いに、木で作りし父上様が但しは物を宣の

たま

ひしか、

 

又はどこぞへ隠れてか」

と、立つて見居て見、うろ    

 「ノウ騒がしや苅屋姫、丞相の逗留中、御馳走

 

申すは奧座敷、こゝへは余程間数も隔たり、先

 

程声のかゝつた時、『こゝへはどうしてござつた』

 

と思ひながら、嬉しさに弁わ

きま

へなく※

、見ればこの

 

木像ばかり。ついでながら苅屋姫、話して聞か

 

さう。逗留の中に主の像か

たち

、描いてなりとも作つ

 

てなりと※

、伯母が形見に下されと、願ふた日か

 

ら取りかゝり、初手に※

出来たは打割り捨て、二

 

度目に作り立てられしを、同じくこれも打ち砕

 

き、三度目にこの木像作り上げて仰るには、前

 

の二つは形ばかり、精魂もなき木偶人。これは

 

又丞相が、魂残す形見※

とて、下されし主の姿。

 

物を言ふまいとも言はれず帝への恐れあれば、

 

逢ひたうても逢はれぬ親子。木とな思ひそ※

苅屋

 

姫、物仰つた父上に、逢やつてさぞ嬉しかろ、

※※

二段目 杖折檻の段 6

Page 50: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

おいでになるか。

※2

用事が立て込む

こと。

※3

役に立たないと

は思うが。

※4

贈り物。

※5

たいへん喜ばし

い。

※6

日暮れ頃。

※7

老人の足には大

変なので。

※8

このまま滞在し

よう。

※9

気を遣ってくだ

さるな。

※10

義理堅いこと。

※11

自分の家も同然。

※12

寝床。

※13

失敗するな。

※14

心配なさるな。

※15

菅丞相へのおも

てなし。

 

母も本望遂げました」

と、親子三人悦びの中へ

のさ 

立ち帰る。太郎が父親土は

じの師

兵ひようえ衛

 「覚寿、これにをはするか※

。お客人のお立ちも

 

明朝、出立の拵こ

しら

へさぞ取り込み※

。役に立たず※

 

御見舞ひ申し、手伝ひでも仕らうと、参りがけ

 

に輝国殿の旅宿へもちよと付け届け※

。倅せ

がれ

が幸ひ

 

をり合せ、用意も大かた出来たと聞き、まづは

 

大慶※

。とかうするうちもう暮れ相あ

、ひとまづ帰

 

つてお立ちの時分、又参るのも老足なれば※

、お

 

邪魔ながらこれにをる※

。心遣ひなし下されな※

 「兵衛殿の義理

々々しい※※

、嫁子のところは内同

 

然※※

、断りに及ぶことか、用があらば遠慮なく仰

 

つたがよいわいの。刻限まではコレ立田、そな

 

たの部屋にお寝間※※

を取りや。後程お目にかゝらん」

と、姫を連れ立ち入り給へば

後は親子が小声になり

 「コリヤ、道々示し合はした通り太郎ぬかるな※※

 「気遣ひなさるな※※

親人」

と、奧と部屋とへ別れ行く、座敷

は燭台照らし、

今宵限りの御奔走※※

、とり 

騒ぐ

※※

二段目 杖折檻の段 7

Page 51: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

植え込みのある

庭。

※2

外へ出るための

庭の小門。

※3

捻るように切断

して。

※4

着替えなどを入

れる木箱で、棒を通し

て担ぐ。

※5

奉公人の小者。

※6

下級武士。

※7

若い武士。徒士

より下位。

※8

略式の乗り物の

輿。

※9

ソレッと。迅速に。

※10

きょろきょろ窺

う。

※11

同類。ぐる。

※12

物事の結末。

※13

静かに。シッ。

※14

心配するな。

※15

策略。はかりごと。

※16

打合せ。相談。

※17 挙動。

※18 目を離さないで。

※19

午前二時ごろ。

※20

藤原時平公から

依頼された、菅丞相を

殺す工作。

※21

贋の迎えの使者

を仕立て。

※22

ぐっと刺して殺

そう。

※23

鳴かなければ。

※24

頑固なので。

二段目

東とうてんこう

天紅の段

 

ばかりなり

土はじのひょうえ

師兵衛は一間より、そつと抜け出で前せ

んざい栽

の、勝

手覚えし切戸口※

錠捻ね

ぢ切つて※

押し開けば

外から合図の挟

はさみ

箱ばこ

、差し出す中

ちゆうげん間

徒士若党※

 「コリヤヤイ、言ひ付けた人数の装束、丞

しょうじょう

相を

 

迎ひの張は

りごし輿

、スハと※

言ふ時間に合はせ」

と、家来共先へ帰し挟箱引ん抱かへ、月影漏るゝ

木の間木の間

うそ 

窺ふ同腹中※※

 「親人お首尾※※

は」

 「コリヤ。シイ※※

 「件く

だん

の物は参りしか」

 「倅、気遣ひ仕るな※※

、コリヤこの中に計略※※

のか

 

の一物、大事の談合※※

、サヽこゝへ

と、大庭の、池の辺りで囁さ

さや

く親子

宵から素振り※※

に気を付けて、宿す

くねたろう

禰太郎に目放しせ

ず※※

、立た

つたのまえ

田前が物陰より、聞くとも

知らず宿禰太郎

 「先程お聞きなさるゝ通り、判は

んがんだいてるくに

官代輝国、迎ひ

 

に参るは八つの上刻※※

。時し

へい平

公よりお頼みの、菅

 

丞相を殺す工面※※

、贋に

せもの物

仕立て迎ひと偽り※※

、受け

 

取つて途中でぐつ※※

、とは言ふものゝ、一番鶏が

 

歌はねば※※

、姑

しゆうとめの

片意地※※

、名残惜しんで渡され

※1

※6

かち

※5

※4

※8

※10

うかが

二段目 東天紅の段 1

Page 52: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

八つの刻(現在

の午前二時頃)になる

前に鳴くような鶏は。

※2

白毛の鶏。

※3

無理強いしても。

※4

熱湯。

※5夜明けの最初の

鳴き声を上げる。

※6

茶道具を置く棚。

※7

しつこい。

※8

企て、たくらみ。

※9

一大事です。

※10

昂ぶる気持ちを

抑えて。

※11

驚きうろたえる

こと。

※12

そしらぬ。

※13

大袈裟に。

 

まい。八つ鶏の鳴かぬ先に宵鳴きする鶏1

、これ

 

にあるか」

と、挟箱より取り出だし

 「ホウホ皮膚の好い白相国※

、とかうする内もう

 

夜中。一調子張り上げ存分に歌うてくれ、ひと

 

声聞かねば落ち着かぬ。サア鳴け、鳴け、エヽ

 

鳴けやい。親人、何故鳴きませぬの」

 「イヽヤ、その分では鳴かぬ筈。宵鳴きは天然

 

自然、極めては※

鳴かぬもの。それを鳴かすが秘

 

密事。大竹の中へ煮え湯4

を入れ、その上に留ま

 

らすれば、陽気の廻るを時節と心得時を作る5

 

留まり竹も挟箱に入れて来た。台だ

いす子

の湯もたぎ

 

つてある。釜口そつと取つて来い」

 「オヽ取つて来るは易い事。ガ湯を仕掛けても

 

鳴かぬ時は」

 「ハテぐど

。鳴かぬ時は又分別」

と、親子が工た

み8

 「南無三宝一大事※

、先へ廻つて母様へお知らせ

 

申して。イヤさうしては、イヤ、言はいでは又

 

こちらが、言ふてはあちらがこちらが」

と、心迷ひし胸撫で下ろし※※

 「宿禰様、太郎様はいづくに」

と、尋ぬる声に

『ハツ』と二人が敗は

いもうけでん

亡怪顛、鶏隠す挟箱、あたふ

た閉めて、さあらぬ※※

風情

 「ヤア事々しう※※

呼び立つるは、なんぞ急な用で

※11

※※

※6

二段目 東天紅の段 2

Page 53: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

ひどく遠慮がな

い。

※2

つくづくと。

※3

夫を大事にする

気持ち。

※4

意見。忠告。

※5

今後。

※6

聞き流してくれ。

※7

承知なさった。

※8

旧暦の二月。

※9

ひと肌ぐらいに

温めた酒。

※10

一方の肩から脇

の下にかけて刀で斬り

下げること。

※11

一寸は約三センチ。

※12

女の心をもてあ

そび。

 

もあるか。さもない事なら無遠慮千万1

。親人も

 

この宿禰も、肝に堪こ

えて、恟び

つく

りした」

と、言ふ顔つれ 

打ち眺め、立田

 「お前方のびつくりより、わしにびつくりさゝ

 

しやんした。聞こえぬ連れ合ひ舅

しゅうと

君、贋迎ひを

 

拵こしら

えて、菅丞相様殺さうとは、あなたになんぞ

 

恨みがあるか。但しは、時平に頼まれし、欲に

 

は馴染みの女房も捨て、母様の義理も思はずか。

 

お前は捨つる心でも、わしや得捨てぬ太郎様、

 

コレ申し親父様、思ひ留まつて下さりませ」

と、舅を拝み夫を拝み、声も得立てぬ貞女の思ひ、

涙、操を顕あ

はせり

兵衛は宿禰に目配せし

 「イヤハヤ、親身の異見4

に逢ふて、親も倅も面

 

目ない。向

きょうこう後

心改める。嫁女、この事聞き流しに」

 「アヽ勿体ない。聞き流さいでもよいものか。

 

御得心※

とあるからは、この世ばかりか未来迄、

 

変はらぬ夫婦舅君、まだ如月8

の余寒も激し。炬こ

 

燵たつ

に膚

はだえ

温め酒※

、一つ上げたいサアお出で」

と、先に立田が

 「ソレ、ソレそこを」

心得太郎が後ろ袈げ

さ裟

肩先四五寸※※

切られながら、振り返つて掴み付き

 「エヽコレ人でなし、卑怯者。一人の手にも足

 

らぬもの、騙だ

し殺しが本望か。女お

なご

の義理を立て

 

過ごし※※

、悔しや無念」

※※

※※

みさお

※6

※10

※5

二段目 東天紅の段 3

Page 54: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

声を立てるな。

※2

立田が声を上げ

ないように太郎は自分

の着物の裾の部分を立

田の口に押し込み。

※3

胸のあたり。

※4

紅葉が散って赤

く染まったように見え

る竜田川(奈良県生駒

辺りを流れる川)の名

前にたとえた。

※5

素早く。

※6

刀剣の鞘の末端。

またそこにはめる飾り

金物のこと。

※7

約五・五メート

ル。

と、罵の

のし

る声

 「おとぼね立てな1

と、宿禰が下着、褄つ

先口へ押し込み※

捻ぢ伏せ肝先※

ぐつと、一抉え

兵衛は前後に心を配り

 「倅、息は絶えたか」

 「気遣ひ召すな、只今、と、ゞ、め。さて、こ

 

の死骸は」

 「問ふに及ばぬこの大池、骸か

らだ

を浮かさぬ手ごろ

 

の石袂た

もとや

帯に括り添へ、深みへやれ」

と、二人して、投げ込む死骸は紅

くれないの

、血汐に染む

る池までも、立田が名4

をや流すらん

 「コレ親人、これはこれでも済まぬは鶏、台子

 

の湯を取つて参らう」

 「太郎、それにはもう及ばぬ。鳴かす仕様は身

 

共に任せ」

と、武士の嗜た

しな

む懐中松た

いまつ明

手ばしかく5

灯とも

し立て、池

の中へ明りを見せ挟箱の蓋あをのけ鶏を上に乗

せ、浮かめる池の水の面、刀の鐺

こじり

差し延ばす、腕

一杯に押し遣れば、動かぬ水も夜嵐に立つや小波

のうねりにつれ、半段※

ばかり、流れ行く

 「ハヽヽヽ、親人何をなさるゝこと、挟箱の蓋

 

を船にして、子供のする業おとなげない、あれ

 

が、あれが、あれがなんの役に立つハヽヽヽ」

 「コリヤ」

 「ムヽ、ハヽヽヽ」

※6

二段目 東天紅の段 4

Page 55: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

聞かせよう。

※2

おおよそ。

※3

鶏が(この場合、

水中の)死骸に反応し

て鳴くという俗説。

※4

一利。ここでは鶏

が死骸に反応して鳴く

という利点のこと。

※5

手順。

※6

運が直ってきた。

※7

夜明けを知らせ

る鶏の鳴き声。

※8

鶏が一羽鳴くと

つられて他の鶏も一斉

に鳴き出す。

※9

中国の関所。夜

明けにならないと開か

ない関所を食客が鶏の

鳴きまねをして開けた

故事がある。

※10

鶏を片付けるな

どの後始末。

※11

後始末を確認し

て。念を押す。

 「若い、若い。訳を知らずば言ふて聞けふ1

。総

 

別※※

、淵ふ

ちかわ川

へ沈んで知れぬ死骸は、鶏を船に乗せ

 

て尋ぬれば、その死骸の在り所で時を作る※

、鶏

 

の一徳4

※思ひ出し、池へ沈めた立田が死骸、今一

 

役に立てゝ見る、旨い手番つ

ひ5

。拍子まんが直つ

 

て来た6

、アレ 

太郎、羽叩きするは死骸の上

 

か。そりやこそ鳴いたは東天紅※

 「アリヤまた歌ふは東天紅」

八つにもならぬ宵鳴の声冴えかへる春の夜や、

庭木の塒ね

ぐら

に羽叩きして、一鶏鳴けば万鶏歌ふ8

函かんこくかん

谷関の関の戸も開く心地に親子が、悦び

 「これから急ぐは菅丞相、迎ひの拵こ

しら

え気が急せ

く」

と、兵衛は出で行く切戸口

宿禰太郎は工みの仕残し※※

、だめ※※

※※

二段目 東天紅の段 5

Page 56: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

別れを惜しむこ

と。

※2

ここでは出発と

定められた時刻。

※3

昆布を伸ばして加

工したもの。ご祝儀な

どで使用する。

※4

お祝いに並べる

飾り物。

※5

お上からのおゆ

るし。放免。

※6

「待つ」と島台を

飾る「松」との掛詞。

※7

通り道の用心に

辻々で警戒を固めて。

※8

代々同じ主君に

仕えること。

※9

本物かどうか疑

わしい。

※10

簡素に作られた

略式の輿。

※11

時間が過ぎてし

まう。

※12

急き立てる。

※13 人前ではとりつ

くろって。

※14

お見送りして。

※15

片付いたぞ。

※16

寝室。

二段目

丞しようじよう相

名な

り残の段

 

聞かして、出でて行く

『はや刻限※

ぞ』と御膳の拵こ

しら

へ、銚子土か

わらけ器

熨の

し斗昆布※

腰元共に島台※

持たせ、伯母御、座敷へ出で給ひ

 「百日千夜留めたりとも、別るゝ時は変はらぬ

 

辛さ。この上頼むは御免※

※の勅諚、帰洛を待つの

 

この島台※

、行末祝ふ熨斗昆布」

菅かんしょうじょう

丞相もこの間、心遣ひの御一礼、互ひに尽き

ぬ御名残り

宿すくねたろう

禰太郎罷ま

り出で

 「御立ちの刻限とてはや門前まで迎ひの官人、

 

判はんがんだいてるくに

官代輝国は路次の用心辻固め※

、只今旅宿を立

 

ち申され、輿こ

しかき舁

の官人に譜代※

の家来をあひ添へ

 

られ、只今これへ参上」

と、怪しの※

張輿舁か

き入れて

 「時刻移る※※

と、せり立つる※※

菅丞相は悠々と、大広間より出でさせ給ひ、輿に

召すまで

見送る老母、人前作つて※※

にこ

と、泣かぬ別

れぞ哀れなる

宿禰太郎も御見立て※※

、門送りして立帰り

 「ヤレ 

嬉しや仕廻ひがついたぞ※※

。覚か

くじゅ寿

様も

 

お気休め、寝間※※

へござつて」

※10

※1

二段目 丞相名残の段 1

Page 57: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

具合でもお悪い

のか。

※2

まだそんなこと

を言うのか。

※3

複雑な事情を考

慮しない。

※4

別れの挨拶がで

きなかった。

※5

他の人は菅丞相

にお目に掛かれたので

羨ましく思っているこ

とだろう。

※6

無関係な。

※7

きょろきょろ辺

りを見回して落ち着き

のない様子。

※8

居ない。

※9

物の陰。

※10

手に手に。

※11

若い武士。

※12

奉公人の小者。

※13

水泳のできる。

※14

下僕。

※15

素知らぬ顔で。

※16 逃亡しないよう

に門を閉めて。

 「イヤ、寝たうても寝られぬわいの」

 「ハア、寝られぬ、とは御気色でも1

 「アレまだいの※

。客を立てゝ嬉しいと、ひと道

 

な※

婿殿の悦び。一つ屋敷にゐながらの暇乞ひも

 

得せいでの※

※。苅か

りやひめ

屋姫が悲しかろ、人の逢ふのも

 

けなりかろ※

と、かけ構はぬ※

立たつた田

さへ、それでわ

 

ざと呼び出さなんだ。が、機嫌よう立たしやつ

 

たを悦びにはなぜ来ぬぞ。ソレ誰ぞ行て見てこい」

と、言ふにきよろつく※

宿禰太郎

腰元共は、立ち戻り

 「奧にござるは苅屋姫只お一人、立田様はござ

 

りませぬ」

 「なんぢやゐぬ※

。内を離れてマどこへ行きやろ。

 

今一度見て来い座敷の隅々かぐれ 

 

尋ね 

と、吟味の厳しさ

提灯手ん手に※※

若党※※

中間※※

、幾い

くたり人

あつても行き届か

ぬ、花壇築山手分けして、尋ぬる奥の池の端、柴

に溜つた生な

まち血

を見つけ

 「ヤ、コリヤ 

この血の流れ込む、池を捜せ」

と、声々に、水心得た奴※※

共、飛込み 

水みな

底より、

かづき上げたる立田が死骸、驚き騒ぐ家内の騒動

太郎は鼻も動かさず※※

 「殺した奴は内にあろ、詮議済むまで門打つて※※

 

家来共動かすな」

と、喚わ

き散らせば

※1※

※※

二段目 丞相名残の段 2

Page 58: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

立田の死骸の所

へ。

※2

予期していない。

※3

同時に。

※4

先例。

※5

不幸、不運。

※6

取り乱す。

※7

処刑方法の一つ。

※8

取り調べ。

※9

屋敷の縁側のは

し。

※10

者ども。

※11

一番手前に。

※12

出やがれ。

※13

「ハイハイ」の奴

言葉(奴が使う荒っぽ

い言葉)。「ねい」とも

言う。

※14

うずくまり。

※15

他人のことは知

らないが。

※16

「ない」の丁寧語。

※17

下されるので。

※18

有難い。

※19 「ござりまする」

の奴言葉。

母覚寿

姫もかしこへ1

転まろ

び出で

 「コハ、誰た

れびと人

の仕し

わざ業

ぞや。先からお顔を見なん

 

だは、伯母様のお傍にと、思ひ設けぬ※

この死骸、

 

父上には生き別れ、お前には死に別れ。時も変

 

らず日も変らず、悲しさ辛さ一い

っとき時

に※

、かゝる例

ためし

 

もあることか」

と、老母に取り付き、悔み泣き

 「オヽ道理々々

。そなたはおれが傍そ

にと思ひ、

 

おれはそなたが傍にゐると、思ひ違ひが娘が不

 

運、母が因果※

でおぢやるわ」

と、かつぱと伏して正体なし※

太郎傍へ立ち寄つて

 「涙が死人のためにはならぬ。女房共への追善

 

には、殺した奴を引つ張り切り※

。これにて詮議

 

仕つかまつら

ん」

と、縁え

んばな端

に、大お

おあぐら

胡座

 「男女に限らず家来の奴ばら※※

、片端から詮議す

 

るぞ。マアとつ付きに※※

をる宅た

くない内

め。身が前へ、

 

出あがらう※※

 「ナイ※※

、ナイ、ナイ 

 

と、御前に、かつ蹲

つくば

ひ※※

 「エヽ人は知らず※※

、拙者めに御疑ひはござない※※

 

筈はず

。お死骸を取り上げた御褒美を下されうで※※

 

一番にお呼び出し。忝

かたじけない

儀で、ごはりまする※※

 

で、ナイ、ナイ    

ごはります」

※※

※※

※1※

※※

せんぎ

二段目 丞相名残の段 3

Page 59: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

いまいましい。

※2

図々しい者。

※3

血の跡を見つけ

ただけで。

※4

水を掛けて責め

折檻して。

※5

宅内の言葉がい

ちいち変わる。

※6

良いものを見分け

る能力がある。

※7

罪、罪状。

※8

女房の立田へ。

※9

斬罪の処罰。

※10

肩から斜めに斬

り下ろす。

※11

普通の。

※12

怒りが納まらな

い。

※13

最初の一刀。

 「ヤア曲ま

々しい1

褒美とは、横着者め※

。立田が死

 

骸池にあるを、汝わ

はどうして知りをつた。サ、

 

それ吐ぬ

かせ」

 「アヽイヤ、アノ尻も頭も見やう筈はごはりま

 

せぬ。池の深みへ芝から伝ふた血を証拠に」

 「ヤアぬかすな。提灯の灯ひ

明りで、それがそれ

 

と知れるものかい。うぬが殺して沈めた池、ほ

 

かの者がどうして知らう。アヽ血の分では※

言ひ

 

訳立たぬ」

 「イヤ、これはお旦那無理仰る。言ひ訳立たう

 

が立つまいが、池が血へ流れ込んだ、その他は

 

存じませぬ」

 「ヤア池が血へ流れたとは、血迷ふてナヽヽヽ

 

なにほざく。きやつ詮せ

議場で水くらはせ※

白状さ

 

する。ソレ、引立て」

と、宿禰も続いて立つところを

老母押し止め

 「イヽヤ、責めるに及ばぬ詞こ

とば

のてん 

。アヽ

 

嬉しや娘の敵か

たき

が、知れたわいのう」

 「ハア、『責めな』とはあつぱれお目め

だか高

。科極

 

まつた罪人、女共※

へ手向ける成敗※

大袈裟※※

に打ち

 

放す。腕を左右へ引つ張れ」

と、刀提げ立ち寄る宿禰

 「イヤコレ婿殿、成敗は常※※

の科人、袈裟に切つ

 

てはたゞひと思ひ。苦痛させねば腹が癒い

ぬ※※

。娘

 

の敵初し

太刀はこの母、後は婿殿、刀を借る」

※※

※※とがきわ

※1※

※※

二段目 丞相名残の段 4

Page 60: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

てきぱきと。

※2

左の肋骨。

※3

言い終わらせず。

※4

他人になすり付

けて。

※5

これ見よがしに

する。

※6

死者へはなむけ

の。

※7

思い知ったか。

※8

未亡人。

※9

誰を迎えに来た

というのか。

※10

納得できないこ

と。

※11

お通ししなさい。

※12

息の根を止めず

に苦しませてやろう。

※13

刀を突き刺した

まま。

※14

太郎を隅へ追い

やり。

と、甲斐々々しくも1

褄つま

引上げ、向かふ目当ては奴

にあらず、油断太郎が弓ゆ

んで手

の肋あ

ばら

、突つ込む刀に

宅内は、命拾ふて、逃げて行く

宿禰太郎は急所を刺され、もがき苦しむ息の下

 「身共になんの科と

あつて、ムヽ、老いぼれめが」

と、言はせも果てず※

 「ヤア覚えないとは言はさぬ 

。我が科と

を人

 

に塗り※

、成敗をして見せだて※

、裾す

ばせ折つた下

 

着の褄つ

まさき先

切れてある、その切れはコリヤ、立田

 

が口に。サ声立てさせぬ無理殺し、歯を噛みし

 

め放さぬ褄つ

まさき先

、切つたことを打ち忘れ、おのれ

 

が科と

をおのれが顕あ

らわ

はす極重悪人。死骸の前で敵

 

を取る、母が娘へ手向け※

の刀、肝先へこたへたか」

と、大の男お

のこを仕留める老女、さすがに河内郡領の、

武芸の形見残されし、後室※

とこそ、知られけれ

やゝ時移れば

 「判は

んがんてるくに

官輝国只今これへ御出で」

と、家来が申すに老母は驚き

 「丞相は先程お立ち、誰を迎ひに※

。心得ぬこと※※

 

ながら、この方へ通しませい※※

。苅屋姫は奧へ行

 

きや。こいつはマちつと、苦痛をさす※※

と、刀をそのま

※ゝ※

、身体押し退の

け※※

出で迎へば

輝国も早や入り来たり

 「御迎ひの刻限、御用意よくば早や御立ち」

と、申す詞こ

とば

の先折つて

 「輝国殿、何仰お

っしゃる

。丞相の迎ひには、そこの家

※※

※※

二段目 丞相名残の段 5

Page 61: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

一刻。約二時間。

※2

一向に私の知ら

ないことだ。

※3

時間を計って。

※4

家来が来たと言

うが直接に私が来たと

しても。

※5

刻限にもならず

鶏も鳴く前に菅丞相は

既に渡したと言われて

も承服できない。

※6

船を繋いで港に

待機すること。

※7

容認。

※8

倍増して。

※9

目先だけの浅は

かな考え。

※10

損失。汚点。

※11

偽りを申されな

いように。

※12

臨終。

※13

よく考えてみれ

ば。

※14

一時(約ニ時間)

違うと三里遅れる(三

里は約十二キロメート

ル)。

※15

追いついて。

 

来が先程見へ、受け取つて帰られたはもう、ひ

 

と時1

も前のこと」

 「ヤ、コレ 

伯母御、身が家来に渡したとは

 

かた 

以て心得ず。鶏

にわとりの

声に刻限はかり、只

 

今鳴いた旅宿の鶏、八つに参る迎ひの約束、家

 

来と言はうが、じきに身共が参つたとて※

、刻限

 

も来たらず鶏も鳴かぬ先、『渡した』と言ふては

 

済むまい※

。船がゝり※

のその間、伯母御に逢はす

 

はこの輝国が情けの容赦※

。今こ

んにち日

の今になつて、

 

名残りも一倍※

島へはやらぬ、『渡した』と言へば

 

それで済むと、鼻の先な女子の了簡※

※、菅丞相の

 

仇※※

にこそなれためにはならぬイヤサコレ、偽り

 

な申されそ※※

 「イヽヤ、偽りは申さぬ。庭で鳴いた鶏と

の声、

 

そこへござつた迎ひの衆、渡したに違ひはない。

 

ガ、受け取らぬと仰るので。娘が最期※※

、婿めが

 

あの様ざ

、思ひ合はせば※※

さつきに来たは贋迎ひ」

 「ヤコレ 

伯母御、内の騒動死人のある上、

 

贋迎ひ嘘ではあるまい。讒ざ

んしゃ者

共の仕業であら

 

う。一い

っとき時

違へば三里の遅れ※※

、追ぼ

つ付いて※※

取り返

 

さん」

と急きに急いて、駆け出す輝国

 「ヤア 

判官まづ待たれよ。菅丞相はこれに

 

あり」

と、一間より出で給ふ

覚寿はびつくり

※※

※※

二段目 丞相名残の段 6

Page 62: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

 「さつきに別れた菅丞相、そこにはどうして、

 

ムヽ、マどうして」

と、不審の立つも、道理なり1

判官輝国打笑ひ

 「ぬけ 

とした※

伯母御の偽り、暫時の仰天※

 

丞相これにましませば※

、輝国が安堵々々。見へ

 

渡つた※

この御難儀、訳も聞きたし、力になつて

 

進ぜたけれど、私

わたくしな

らぬ※

※警固の役目。早や刻限

 

も移りぬれば、いざ御立ち」

と、勧むるところに

 「先程見へた警固の役人、たつた今門前まで」

 「なんぢや警固が。テよい所へ戻られた。嘘吐

 

かぬ覚寿が証拠、これへ通し輝国殿へ見せませふ」

 「アヽイヤ、身が名をかたつた贋役人、直に逢

 

ふては悪しかるべし※

。忍んで※

様子を窺う

かが

はん」

と、丞相諸共一間の障子、引立て内に隠れゐる

輿こし

に先立つ警固※

が大声

 「コレ 

老母、輝国の名代とけ侮

あなず

り※※

、とでも

 

ないもの※※

身共に渡し、ようぬつけり※※

さゝれたの」

 「これは迷惑、菅丞相を受け取りながら、『とで

 

もない』とは何仰る」

 「アレまだぬつぺり※※

。丞相は丞相でも、木で作

 

つたはこつちに要らぬ、肉に

くつき付

の菅丞相、替へる

 

気で持つて来た木像、コリヤこの輿に」

と、言ふに

覚寿も心付き※※

※1

もっともな事で

ある。

※2

ずうずうしくと

ぼけた。

※3

しばらくの間

びっくりした。

※4

お出でになれば。

※5

一目ですぐわか

る。

※6

公用の。

※7

不都合であろう。

※8

気付かれないよ

うに。

※9

警備の役人。

※10

見くびって。軽

く扱って。「け」は強

める接頭語。

※11

とんでもないも

の。いい加減なもの。

※12

しらじらしく。

※13

知らぬ顔をする。

※14

肉の付いた。生身

の。

※15

気が付いて。

※1※

二段目 丞相名残の段 7

Page 63: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

 「エヽ忝

かたじけない

。さては魂を込められし木像で

 

あつたかい1

。なほも証拠を見届けん」

と、心の悦び、押し隠し※

 「こなたの言ひ分合点がいかぬ※

。その木像見せ

 

さつしやれ※

※」

 「オヽ、しやちこばつた※

荒木作り。サア、今見

 

せう」

と、開ける戸の、輿こ

に召したは木像ならぬ、優美

の姿菅丞相、につこと笑ふて立ち出で給へば

警固は『ぎよつ』と呆れ顔

覚寿も違ひし心当て、『障子の内』と今見る姿、心

どぎまぎ疑ひながら

 「オヽよう戻して下さつた。確かに伯母が受け

 

取りました」

 「ヤアどこへ 

。そりやならぬ、ならぬ、と

 

は言ふものゝ、連れて帰つて見たのは木像、『す

 

り替へられた』と気がついて、替へに戻つたこゝ

 

ではほんのコレ菅丞相。おらが目の悪いのか、

 

見所によつて変はるかい」

 「イヤ、変はらうが変はるまいが、戻された菅

 

丞相、いざこなたへ」

と、立ち寄る覚寿

 「ヤア野の

ぶと太

い※

と、突き飛ばし、丞相を又輿に乗せ、戸を引立てゝ

家来に向かひ

 「わいら※

も様子を見る通り、いかにしても怪し

※1

精魂込めて作っ

た木像が動き出す奇瑞

であったのか。

※2

内心はしめたと

思いながらもそ知らぬ

顔で。

※3

納得がいかない。

※4

見せて下され。

※5

硬直した。

※6

図太い。

※7

ピシャッと閉めて。

※8

お前ら。

※※

二段目 丞相名残の段 8

Page 64: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

このままでは帰

られない。

※2

瀕死の状態でも

がき苦しみ。

※3

土師兵衛(はじ

のひょうえ)のこと。

※4

大慌てで。

※5

重傷。

※6

落ち着き払って

いる。

※7

嫁・婿双方の親同

士。

※8

手伝いしただろ

う。

※9

主謀者。

※10

言ってしまいな

さい。

※11

十中八九。ほぼ

成功させた。

※12

企み。

※13

罵る意味を強め

ている。

※14

覚悟しろ。

 

い事共。この分では帰られず1

。念のため家捜し

 

する」

と、踏ん込む先に宿禰太郎、半死半生のた打つ苦

しみ※

 「南無三宝、太郎様が切られてござる、旦那※

々々」

と、呼ぶ声に

警固の中から親兵ひ

ょうえ衛

、前後も更に弁わ

きま

へず※

、走り寄

つて引き起こし

 「コリヤ 

倅、この深手※

はドヽヽヽどいつが

 

仕業、相手を知らせ」

と、気を急いたり。

 「ノウ兵衛殿、相手は姑、ホヽわしが手にかけた」

 「ヤア婿を手にかけ落ち着き自慢※

、何科と

あつて

 

身が倅を」

 「ヤアとぼけさしやんな、婭

あいやけ

殿※

。そいつが立田

 

を殺した時、こなたも手伝ひしやろがの※

。娘の

 

敵切つたがなんと。贋迎ひの棟梁※

殿、なにもか

 

も顕はれ時、さつぱりと言ふた 

 「エヽ残念

々々、倅めが出世を思ひ、時し

へい平

公に

 

一味して菅丞相を殺さんため、鶏

にわとりに

宵鳴きさせ、

 

十が九つ仕終せた※※

兵衛が手だて※※

。腐り※※

婆めに嗅か

 

ぎ出され殺された倅が敵、覚悟ひろげ※※

と、飛びかゝるを

 「ヤア、さはさせじ」

と、判官輝国、小蔭より顕はれ出で、覚寿を囲ふ

て突立つたり

※10

二段目 丞相名残の段 9

Page 65: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

 「ヤア、どなたが出てもびくともせぬ。兵衛が

 

工たく

みの破れかぶれ1

、死物狂ひの働き見よ」

と、切つてかゝれば

かいくゞり、持つたる刀踏み落とし、利き腕掴ん

で引つくりかへし、足そ

っか下

に踏み付け大音声

 「ヤア輝国が家来共、贋者めらを片端から、

 

括れ 

と、言ふ声に

初めの擬い

せい勢

ぬけ 

に、一人も残らず逃げ失せ

たり

覚寿はとつかは※

輿こし

の戸の、明ける間

 「さぞやお気詰まり※

と、内を見れば

 「コハいかに」

形見の木像又びつくり※

 「これはいかに」

と、立ち帰り、こなたの障子※

、押し明くれば

 「伯母御、騒がせ給ふな※

と、菅丞相の御

おんことば詞

こゝでもびつくりかしこでも、びつくりびくりに

心の迷ひ

 「どちらがどうぢや輝国殿、目利きなされて※

 

され」

と、問はるゝ人も

問ふ人も、呆れ、果てたるばかりなり

丞相重ねて

※1

企みが「破れる」

と「破れかぶれ」との

掛詞。

※2

正しくは「ぎせ

い」。意気込み。

※3

意気込みが「抜

ける」と手下の数が「抜

ける」の掛詞。

※4

急いで。

※5

窮屈なこと。

※6

菅丞相の形見の

木像があってびっく

り。

※7

こちらがわの障

子。

※8

大騒ぎしないで

下さい。

※9

鑑定なさって。

※※

※※

二段目 丞相名残の段 10

Page 66: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

 「輝国の迎ひ遅ち

さんゆえ

参故、睡

まどろ

む※

ともなく暫時の間、

 

物騒がしく聞こえし故、窺ひ見れば兵衛が工た

み、

 

太郎が仕業。立田前ははかなき最期、是非もな

 

し※

。伯母御の心し

んてい底

さこそ 

。某

それがしこ

れへ来たら

 

ずば、かゝる嘆きもあるまじ※

と、今更悔みの御涙

 「イヽヤ、娘が命百人にも、替へ難き大事の御

 

身。怪我過ちのなかつたを※

、悦びこそすれなん

 

の泣こ。なんの 

と、言ふ目に涙

 「ノウ輝国殿、悪事の元はその兵衛、この世の

 

暇を早う 

、太郎も共に」

と、立ち寄つて、髻

もとどり

引き上げ

 「丞相の堅固の有様、おのれ親子に見せたが本

 

望、娘が恨みも晴れつらん」

と、刀を抜けば

息絶えたり※

 「エヽ、憎いながらも不憫な死に様ざ

。有う

いてんぺん

為転変

 

の世の習ひ※

、娘が最期もこの刀、婿が最期もこ

 

の刀、母が罪ざ

いごう業

消滅※※

の白髪も同じくこの刀」

と、取り直す手に髻

もとどり

払ひ※※

 「初う

いまご孫

を見る迄と、貯た

ひ過した恥白髪※※

。孫は得

 

見いで憂き目を見る※※

。娘が菩ぼ

提だい

。逆縁※※

ながら弔

 

ふこの尼、種々因縁而に

求きゆう

仏道※※

、南無阿弥陀仏」

と、唱ふれば

菅丞相も唱名※※

の、声も涙に、回え

こう向

ある※※

※1

遅れること。

※2

うとうとする。

※3

やむを得なかっ

た。

※4

心の内はさぞ悲

しいことであろう。

※5

私さえこの場に

来なければ、このよう

な悲しい出来事もな

かったのだが。

※6

命に別状がな

かったことを。

※7

髪を束ねた部分。

※8

太郎の身体に刺

さっている刀を抜くと

太郎は息絶えてしまっ

た。

※9

この世は少しも

一定の状態ではないこ

と。世の中はどんどん

移り変わる。

※10

これまで積み重

ねてきた罪を帳消しに

すること。

※11 髪を切って出家

すること。

※12

伸ばし過ぎて恥

の多いこの白髪頭。

※13

孫には会えず悲

しい目に遭う。

※14

死後の冥福。

※15

親が子を弔う、

逆さまごと。

※16

きっかけは様々

だが人は最後に仏の道

を求めるものだ。

※17

念仏を唱えること。

※18

立田の成仏を祈

ること。

※1

※※

※※

※1※

二段目 丞相名残の段 11

Page 67: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

判官輝国大きに感じ

 「伯母御前に先取られ跡に退さ

つたおのれが成敗、

 

強欲非道の皺し

わがしら頭

と、水もたまらず打ち落とす※

覚寿は木像抱き抱か

へ、菅丞相の右め

て手の方、御座を

並べて直し置き

 「兵衛親子が工た

み※

も顕はれ、何もかも納まりし。

 

この木像の不思議な働き、かゝる例た

めし

もあること

 

かや」

 「いやとよ。最前も言ふ如く、匹ひ

っぷ夫

々々が巧み

 

も顕はれ、我が急難を遁の

れしも、暫時の睡す

いみん眠

 

前後を知らず。木に刻み筆に画え

く、例た

めし

は本朝※

 

高き絵師、巨こ

せ勢の金か

なおか岡

が書いたる馬は、夜な  

 

出でて、萩の戸の萩を食ひ、唐も

ろこし土

にも名画の誉

 

れ、呉ご

道子が墨絵の雲う

んりよう竜

、雨を、降らせし例た

めし

 

あり。また神の尊像木仏などの、人の命に代は

 

らせ給ふ例は、数へ尽くされず。菅丞相が三み

たび度

 

で作り直せしものなれば、木にも魂備はつて我

 

を助けしものやらん。讒ざ

んしゃ者

のために罪せられ、

 

身は荒磯の島守りと※

、朽ち果つる後の世まで、

 

形見と思し召されよ」

と、仰せは他に荒木の天神※

、河内の土は

じ師村道明寺※※

に、残る威徳ぞ、ありがたき

輝国四よ

も方を打眺め

 「思はざる儀に隙を取り、夜も明けはなれ候へ

 

ば、御立ちぞふ」

※1

老人の頭のこと

を罵っていう語。

※2

切れ味よく首を

打ち落とす。

※3

計画。

※4

卑しい者。

※5

我が国。

※6

九世紀終わり頃

の日本の画家。

※7

七世紀から八世

紀頃の中国の画家。

※8

罪人として辺鄙

な島で生活する。

※9

他に「あ」ると

「荒」木の天神の掛詞。

※10

道明寺(現・大

阪府藤井寺市)。

※※

※※

※※

※1

二段目 丞相名残の段 12

Page 68: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

いささかの。さ

さやかな。

※2

お餞別。

※3

香を焚き染める

火桶の上に伏せておく

籠。

※4

船旅。

※5

立春を過ぎても

残る寒さ。

※6

大変結構な戴き

物。

※7

渡航中持ち物が

潮臭くならないように

広げる消臭用の香り付

き小袖。

※8

焚きしめる香は

匂わないが。

※9

香の銘柄はだい

たいの見当がつく。菅

丞相は伏籠の中に苅屋

姫がいるのを薄々気づ

いている。

※10

「女子」つまり苅

屋姫。

※11 女子用の小袖な

ので身幅が狭い意味と

肩身の狭い現在の境遇

の掛詞。

※12

そうか。輝国は

伏籠の中に苅屋姫が隠

れていることに気付

く。

※13

(苅屋姫を)不憫

に思う。

と、申すにぞ

又改まる暇乞ひ

 「伯母が寸志1

の餞は

なむけ別

せん、用意の物こなたへ」

と、苅屋姫の上着の小袖、掛けたる伏ふ

せご籠

諸共に、

御傍近く取り直させ

 「浪風荒き揖か

枕※

、余よ

かん寒

を凌し

がせ申さんため、伯

 

母が心を焚きしめた小袖を島まで召さるゝ様に、

 

輝国のお世話ながら頼みまする」

と、ありければ

 「これはよろしき進ぜ物※

、苫と

の香防ぐ留め木の

 

小袖※

、家来に持たせ参らん」

と、立ち寄り伏籠に手をかくる

丞相

 「暫し

し」

と、止め給ひ

 「御恩を厚く込め給ふ、伏籠に掛けしこの小袖。

 

中なる香こ

はきかねども※

、銘は大方伏屋か苅屋。

 

伯母御前より道真が申し受けし女子※※

の小袖。我

 

が身には合はぬ筈、身幅も狭き※※

罪つみんど人

が、たゞこ

 

のまゝにお預け申す。我が小袖と思し召し、立た

 

田たのまえ前

が追善の仏事も共に」

と、伯母御前の、心を悟る御

おんことば詞

骨身にこたへ忍び兼ね、思はず『わつ』と声立

てゝ、嘆くに

 「さては※※

と、輝国も、心を感じ萎し

れ居る※※

※※

※※

※※

※※

二段目 丞相名残の段 13

Page 69: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

かえって。

※2

一目だけでも娘

に会ってやってくれ。

※3

幻聴か。聞き間

違いか。

※4

子鳥が悲しそう

に鳴けば親鳥も可哀想

に思って鳴き返すのは

生き物の習性である。

※5

一番鶏が鳴くの

で愛しい者との別れを

急かされてしまう。あ

あ鶏のいない里の夜明

けだったらなあ。

※6

羽が生え変わる

ため抜け落ちた鳥のよ

うに惨めな姿。

※7

警護の者に前後

左右を取り囲まれて。

※8

籠の鳥のように

自由の身でない者。

※9

宮中に参内した

昔。

※10

親子夫婦など愛

する者を思って判断に

迷う気持ちを「闇」に

例える。

※11

仏の教え。

※12

「道」「明」らけ

き「寺」で「道明寺」。

※13

これまでの思い

がこみ上げて溢れる涙

は、寺院などに茂るム

クロジの実のような大

粒の涙。

※14

苅屋姫がワーッ

と泣きだして、顔を合

わすまいと固く決めて

いた菅丞相も親子の情

愛に負けて遂に振り返

られてしまった。

※15

知らずに。

覚寿の心は伏籠の内

 「泣いたは結け

っく句

あの子がため、別れにちよつと

 

只ひと目※

、伯母が願ひをかなへて」

と、立ち寄る袖を

引き止め

 「御年故の空耳※

か、今鳴いたは確かに鶏

にわとり。

あの

 

声は子鳥の音ね

、子鳥が鳴けば親鳥も、鳴くは生

しよう

 

ある習ひぞ※

と、心の嘆きを、隠し歌

 「鳴けばこそ、別れを急げ鶏と

の音ね

の、聞こえぬ

 

里の暁もがな※

と、詠じ捨て

 「名残りは尽きず御お

いとま暇

と、立ち出で給ふ御詠歌より、今この里に鶏

にわとり

鳴く、

羽叩きもせぬ世の中や

伏ふせご籠

の内を洩れ出づる、姫の思ひは羽ぬけ鳥※

前後左右を囲まれて※

、父はもとより籠の鳥※

、雲井

の昔※

忍ばるゝ、左さ

すらい遷

の身の御嘆き。夜は明けぬれ

ど心の闇路※※

、照らすは法の

の御誓ひ、道明らけき寺※※

の名も、道明寺とて今もなほ、栄へまします御神

の、生けるが如き御姿、こゝに残れる物語。尽き

ぬ思ひに堰せ

き兼ぬる、涙の玉の、木

樹、数珠の

数々繰り返し

嘆きの声に只ひと目、見返り給ふ御お

んかん顔

ばせ※※

、これ

ぞこの世の別れとは、知らで※※

別るゝ、別れなり

※11

※1

※1※

もくげんじゅ

二段目 丞相名残の段 14

Page 70: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

鳥の子どもが巣

から落ちるのも魚が陸

に上げられるのも頼る

者を失うたとえ。

※2

失職した者。

※3

残務処理をして。

※4

ここでは菅丞相

の奥方。

※5

自分に瓜二つの

格好。

※6

女房。「内儀」と

も。

※7

身分。

三段目

車くるまびき曳

の段

 

鳥の子の巣に放れ、魚う

陸くが

に上がる※

とは、浪人※

身のたとへぐさ

菅かんしょうじょう

丞相の舎と

ねり人

梅うめ

王おう

丸まる

、主君流罪なされてより都

の事ども取り賄

まかな

ひ※

、御みだい台

の御行方尋ねんと、笠深々

と深緑、土手の並木にさしかゝれば

向かふからも深編笠、我に違はぬその出で立ち※

互ひにそれぞと近く寄り

 「梅王丸か」

 「これは 

桜さくらまる丸

。ヤレそちに逢ひたかつた。

 

マア話す事」

 「聞く事あり」

と、兄弟木陰に笠傾け

 「サテまづ問はう。その方はいつぞや加か

も茂堤づ

つみよ

 

り、宮姫君の御跡慕ひ尋ね行きしと、内宝※

八重

 

の物語。なんとお二ふ

たかた方

に尋ね逢ふたか」

 「成程、道にて追付き奉り、菅丞相御流罪と聞

 

くより対面なさしめ奉らんと、安井の岸まで御

 

供せしに、御対面叶はず。輝て

るくに国

殿の計らひにて、

 

御帰洛願ひの妨げとお二方の御縁も切られ、姫

 

君は土は

じ師の里伯母君の方へ御出で。斎と

きよ世

の宮様

 

は法皇の御所へ供奉し奉り、事納まりしと言ひ

 

ながら、納まらぬは我が身の上。冥加に叶ひ御

 

車を引く、そのありがたい事打忘れ、賤しい身※

※4

三段目 車曳の段 1

Page 71: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

事実を曲げ偽り

を告げられる原因を作

り。

※2

今日こそ切腹し

よう明日こそ死のう

と。

※3

いらっしゃる。

※4

臣の道に背くこ

と。

※5

親不孝。

※6

生きていても甲

斐のない命。

※7

過去の過ちを悔

いている。

※8

もっともだ。

※9

菅丞相が配流さ

れた地。

※10

あれかこれかと。

※11

非常に多いこと

の例え。

※12

突端に小輪がつ

いていて、動かすと音

の出る鉄製の棒。

※13

外出する貴人に

先立って通行人を追い

払う者。

※14

道の端に寄れ。

※15

公家に仕える召

使い。

※16

いかめしい声。

 

にて恋の取持ち。つひには御身の仇となり、宮

 

御謀叛と讒ざ

んげん言

の種拵こ

しらへ

、御恩受けたる菅丞相様、

 

流罪にならせ給ひしも皆この桜丸がなす業わ

と思

 

へば胸も張り裂くごとく、今日や切腹、明日や

 

命を捨てうかと※

、思ひ詰めたは詰めたれど、佐

 

太におはする※

一人の親人、今年七十の賀を祝ひ、

 

兄弟三人嫁三人、並べてみると当春より、喜び

 

勇みおはするに、われ一人欠けるならば、不忠4

 

の上に不孝※

の罪。せめて御祝儀祝ふた上と、せ

 

んなき命※

今日までも、ながらへる面目なさ。推

 

量あれ、梅王」

と、拳こ

ぶし

を握り歯を食ひ締め、先非を悔いたる※

その

有様

梅王も『理

ことわ

り※

』と、暫し詞もなかりしが

 「ヲヽ道理々々。我とても主君流罪に逢ひ給ふ

 

上は、都に留まる筈なけれど、御館没落以後、

 

御台様の御行方知れず、まづその方を尋ねうか、

 

筑紫の配所※

へ行かうかと、とつおいつ※※

心は逸は

 

ど、その方が言ふ如く、年寄つた親人の七十の

 

賀の祝ひもこの月、これも心にかゝる故思はず

 

延引。互ひに思ひは須し

ゆみ弥

大たいかい海

。是非もなき世の

 

有様」

と、兄弟顔を見合はせて、涙催す折からに

鉄かな

棒※※

引いて先払ひ※※

 「先退の

いて片寄れ※※

と、雑ぞ

うしき色

がいかつ声※※

※※※

※※※

※※

三段目 車曳の段 2

Page 72: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

藤原時平のこ

と。

※2

吉田神社(京都

市左京区)。藤原氏の

氏神神社。

※3

辛い目。

※4

思いのたけを十

分に。

※5

動きやすいよう

に着物の裾を尻はしょ

りして。

※6

今か今かと。

※7

避けて通る。

※8

外出の際の装い。

※9

天皇の行幸。

※10

行列を警護する

者。

※11

官位の低い侍。

※12

牛車がギシギシ

と通過する。

※13

乱暴な振る舞い。

※14

わかった。

※15

失職して。

※16

大臣家等の雑用

に従事した仕丁(じ

ちょう)の制服。

※17

掴んでひねり潰

そうとする。

※18

せせら笑い。冷

笑。

梅王立寄り

 「どなたぞ」

と、尋ぬれば

 「本院の左大臣時し

へい平

公※

、吉田※

への御参籠。出し

 

やばつて鉄棒食らふな」

と、言ひ捨てゝ急ぎ行く

 「何と聞いたか桜丸、斎世の宮菅丞相を憂き目※

 

に逢はせし時平の大臣、存分4

言はふぢやあるま

 

いか」

 「成程々々、良い所で出つくはした」

と、兄弟道の左右に別れ、尻ひつからげ※

※身構へし、

今や来たる※

と待ちゐたる

程なく轟と

どろ

く車の音、商人旅り

よじん人

も道をよぎる※

、時平

の大臣が路次の行ぎ

ようそう粧

、さながら君の御み

ゆき幸

の如く、

随身※※

青せいし侍

前後に列し、大路狭しと軋き

らせたり※※

両人木陰を飛んで出で

 「車やらぬ」

 「車やらぬ」

 「車やらぬ」

と、立ち塞がる

 「ヤア何者なれば狼籍※※

する。見れば松ま

つおう王

が兄弟

 

梅王丸桜丸。ム、ムヽヽヽ、聞こえた※※

。主に放

 

れ扶持に放れ※※

、気が違ふての狼籍か、但しはま

 

たこの車、時平公と知つて止めたか、知らいで

 

止めたか。返答次第、容赦はせぬ」

と、白張※※

の袖まくり上げ、掴みひしがん※※

その勢ひ

※※

※※

※※※

三段目 車曳の段 3

Page 73: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

せせら笑い。冷笑。

※2

没落すること。

※3

骨身にしみて。

※4

出会ったのが運

の尽きと思え。

※5

「位自慢(高位に

就くのを鼻にかけ

る)」と「食らい自慢(大

食いを自慢する)」の

掛詞。

※6

尻の肉の部分。

※7

無用の。

※8

無礼者。

※9

縛り上げろ。

※10

易々と。苦もな

く。

※11

待て待て。

※12

ご主人の目の前

で。

※13

今こそ主人のた

めに働く絶好の機会。

※14

同じ兄弟でも考

えは別々だ。

※15

牛の鼻輪。

梅王丸えせ笑ひ※

※ 「ムヽ、ハヽ、ハヽヽヽヤア言ふな  

。気が

 

違はねばこの車、見違へもせぬ時平の大臣」

 「斎世親王菅丞相讒言によつて御沈落※

。その無

 

念骨髄に徹し※

※、出逢ふ所が百年目4

と、思ひ設け

 

し今日只今、桜丸と」

 「この梅王、牛に手馴れし牛追竹、位自慢で食

 

らひ肥えた※

時平殿のしりこぶ※

ら、二つ」

 「三つ」

 「五六百食らはさねば、カヽヽヽ堪忍ならぬ。

 

言はれぬ※

主の肩持ち顔、出しやばつて怪我ひろ

 

ぐな」

 「ヤア法に過ぎた案外者※

、アレぶちのめせ、引

 

つ括れ※

と、供の侍声々に、前後左右におつ取り巻く

兄弟は事ともせず※※

、取つては投げ退け、掴んでは、

打ち付け 

投げ付くれば

辺りに近づく人もなし

 「待てらふ

待てらふやい。ヤア、命知らずの

 

暴れ者、いづれもはお構ひあるな。御主人の目

 

通り※※

、御奉公はこの時節※※

、兄弟と一つでない※※

 

義の働き御目に掛けん。コリヤヤイ、松王が引

 

きかけたこの車、止められるなら、止めて見よ

 

やい」

と、鼻づら※※

取つて引き出す車

 「ホヽ桜丸」

※※※

三段目 車曳の段 4

Page 74: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

ゆらゆら動く。

※2

牛車に装備され

た目隠し用の御簾も装

飾品も。

※3

牛飼いの勤めを

する。

※4

牛にたかる青蝿

のように小者のくせに

邪魔な奴。

※5

轅(牛車の前に

付いている二本の棒)

に蝿のように止まり通

行の邪魔をするなら

ば。

※6

牛車の車輪に引っ

掛けて。

※7

無礼である。

※8

世界中の光を集め

一度に照らしたよう

で。

※9

体がちぢまって

動かない。

※10

天皇が被る金色

の冠。

※11 太政官の最高の

位。時平はライバル菅

丞相を失脚させて左大

臣からさらに太政大臣

に上り詰めた。

※12

血を流せば参詣

が穢れる。

 「梅王丸、こゝになくばいざ知らず」

 「一寸なりと遣つて見よやい」

車の内ゆるぐ※

と見えしが、御簾も飾りも※

踏み

折り  

、踏み破り、顕はれ出でたる、時平の大臣

 「ヤア牛扶持食らふ※

青あおはい蝿

めら4

。轅な

がえ

に止まつて邪

 

魔ひろがば※

、轍わ

だち

にかけて※

ひき殺せ」

 「ヤアさ言ふ大臣をひき殺さん」

と、砕けし轅を銘々引つ提げ、大臣を打たんと振

り上ぐる

 「ヤア、時平に向かひ推参なり※

と、くわつと睨みし眼ま

なこ

の光、大千世界の千日月、

一度に照らすがごとくにて※

さすがの梅王

桜丸

思はず跡へたぢ 

 

、五体すくんで働かず※

 「無念、無念」

と、ばかりなり

 「なんと、我が君の御威勢見たか。この上に手

 

向かひすると、御目通りで一討ち」

と、刀の柄に手をかくれば

 「ヤア松王待て 

 「ハヽア」

 「金き

巾子の冠※※

を着すれば天子同然。太政大臣※※

 

なつて天下の政を執り行ふ時平が、眼前血をあ

 

へすは社参の穢れ※※

。助けにくい奴なれども、下

 

郎に似合はぬ松王が働き、忠義に免じて助けて

三段目 車曳の段 5

Page 75: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

うじ虫。人をお

としめていう語。

※2

何度もお辞儀を

せよ。

※3

カアッと怒りが

こみ上げ。

※4

落ちて花が散ら

ばるように身体を引き

裂く意。

※5

いつまでも残る

恨み。

 

くれる。ハレ命冥加なうづ虫※

めら、ムヽ、ハヽ、

 

ムヽ、ハヽ、ハヽヽヽ」

と、辺りを、睨んで進み行く

 「エヽ、よい兄弟を持つて両人ともに仕合はせ

 

者。『命を拾ふたありがたい、忝

かたじけない

』と三拝せよ※

と、言はれて両人、くはつとせき上げ※

 「エヽ、おのれにも言ひ分あれども、親人の七

 

十の賀祝儀済むまで。ノウ梅王」

 「ムヽ、その上では松の枝々切折つて、敵か

たき

の根

 

を絶ち葉を枯らさん」

 「オヽ、それはこの松王も、親父の賀を祝ふた

 

後で、梅も」

 「ムヽ」

 「桜も」

 「ナニ」

 「落花微み

じん塵

。足元の明いうち、早く去れ

 「ヤア推参な、帰るをおのれに習はうか」

と、詰め寄り

詰め寄る

兄弟三人、互ひに残す意趣遺恨※

睨んで

左右へ

※4

三段目 車曳の段 6

Page 76: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

あちこちの村里。

※2

農夫。

※3

三つ子の父親。

※4

佐太村(現・大阪

府守口市佐太)。

※5

別邸。

※6

大切にする樹木。

(三本の木に因んで四

郎九郎の三つ子の名前

が付けられた)。

※7

老体。身体を木

に例えた。

※8

鍬を肩に担いで。

※9

在宅か。

※10

女房。

※11

ここでは、朝茶に

添える餅が七つでは食

い足りないの意。

※12

ここでは失脚事

件のこと。

※13

関西の言葉で「の

で」。

※14

彼岸に供える団

子のように小さい餅。

※15 ちょうど七十歳。

※16 正月のごあいさ

つ。

三段目

茶ちゃせんざけ

筅酒の段

 

別れ行く

春先は、在

※々

※の鋤す

きくわ鍬

までが楽々と、遊びがちなる

一物作り※

、一番村では、年古き人に知られし四し

ろ郎

九くろう郎

、律義一遍取り柄には菅

かんしようじよう

丞相の御領分、佐太※

に手軽き下屋敷※

お庭の掃除承り、松梅桜御愛樹※

培ひ水の養ひも、根が物作りの鍬仕事、わが身の

老木※

厭いと

ひなく、幹を肥やしの百姓業、畑の世話よ

り気楽なり

堤端の十じ

ゅっさく作

が、鍬打ちかたげ※

門口から

 「四郎九殿、内にか※

と入るを見付け

 「コリヤ十作、畑へか」

 「アヽイヤ今仕舞ふて戻つたりや嬶か

が言ふには、

 

何やら目出度い祝ひぢやてゝ、大きな重箱に眼

 

へ入るやうな餅七つ、朝茶の塩にも食ひ足らね

 

ど※※

、貰はぬよりは忝

かたじけない

。礼も言ひたし、祝ひと

 

はマア何でござる」

 「サイノ、菅丞相様のふつて湧いた御難儀※※

。お

 

下に住むおらゝが身祝ひ処ぢやなけれど、せに

 

やならぬさかいで※※

するはする、が、世間へも遠

 

慮があつて、彼岸団子程な餅※※

七つづつ配つたは、

 

この四郎九郎、丁七十※※

。この春年頭の御礼※※

にの

 

ぼつた時おらが年をお尋ね、『七十』と申したり

※※0

※3

三段目 茶筅酒の段 1

Page 77: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

中国唐の杜甫の

詩にある。七十歳の長

寿の祝いを「古稀(こ

き)の祝い」ともいう。

※2

宮中。

※3

俸禄・給料。

※4

伊勢神宮の身分

の低い神官。何々太夫

という名前が多い。

※5

前名・四郎九郎

(白黒)という斑(ま

だら)牛のような名前

は掃き溜めに捨てた。

※6

世間体。

※7

収穫した作物に

年貢がかからず全部自

分のものにできる。

※8

菅原道真の時代

の中国の王朝名、中

国。

※9

女子。

※10

女官。

※11

きまり。掟。

※12

途中。

 

や、『古来稀ま

な長生き※

、その上珍しい三つ子の父

 

親。禁裏※

から御扶ふ

ち持下され、倅せ

がれ

どもは御所の舎と

 

人ねり

、めでたい

。生まれ月生まれ日生まれ出

 

た刻限違へず、七十の賀を祝へ、その日から名

 

も替え』とて、ナウ聞かしやれ、伊勢の御お

し師か

 

何ぞの様に、白し

らたゆう

太夫とお付けなされた。すなは

 

ち今日が誕生日、白黒まんだらかいは、掃き溜

 

めへ放つてのけ※

。今日から白太夫といふ程に、

 

さう心得て下され」

 「それはめでたい。ヤついでながら問ひましよ。

 

三つ子生むと扶持下さる、その謂い

れも聞かしや

 

つたか」

 「サイノ死んだ嬶か

が生んだ時は辺り隣りの外聞※

 

ひよんな事ぢやと思ふたがもつけの幸ひ、三つ

 

子の父親一代は作り取り※

の田地三反、コリヤコ

 

レ日本ばかりぢやないげな、唐※

までもさうぢや

 

てゝ。男の子なりや御所の牛飼ひ、女め

郎※

なれば

 

東あずまわらわ

童とやら、これも御所で遣はるゝ、法式※※

は忝

 

いもの。旦那殿は流罪なれど、おらは所も追つ

 

立てられず、下された田地はそのまゝ。そちの

 

嬶も若い程に、産ますならおらにあやかりや」

と話の中道※※

、辿た

り来るは桜さ

くらまる丸

が女房八や

え重、今日は

舅しゆうとの

祝ひ日とて、風呂敷包み片手に提げ

 「嬉しや、こゝぢや」

と笠取れば

 「オヽ桜丸が女房八重か、早かつた  

。他の

※3

※※0

※※

かたじけな

三段目 茶筅酒の段 2

Page 78: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

帯の一種。

※2

人や荷物を輸送

する三十石船。

※3

帰りましょう。

※4

図々しく。

※5

嘘を言うやつだ。

※6

茶道具の茶筅を

酒に浸して、祝い餅の

表面に酒をつけてやっ

た。

※7

親しい間柄。

※8

抜け目がなくて。

※9

倹約。

※10

ごまかし。

※11

寝酒を飲もうと

は。

※12

勘定高い。しっ

かりしている。

 

嫁子も揃ふて来るか。マア上がつて抱へ※

も解きや」

 「アイ

まだ皆様はお出でないか。遅かろと

 

気が急せ

いて、淀堤から三十石※

の飛び乗り。船の

 

足の早いので草く

たび臥

れもせず早来たが、仕合はせ

 

でござんする」

 「コレ四郎九殿、お客さうな。もう去い

にましよ3

 「エヽ四郎九郎とは物覚えがない十作。白太夫

 

ぢや、忘りやつたかいの」

 「イヤ忘れはせぬはいの。餅の祝ひとは格別、

 

名酒呑まねばいつまでも四郎九郎」

 「ハレヤレ、盛つた酒を呑まぬとは、但しはま

 

だ呑み足らぬか」

 「エヽぬけ

と嘘言ふわちよ※

。おらに酒何時

 

盛つた」

 「オヽさつきに盛つた。樽や徳利は目に立つ故、

 

餅の上へ茶筅の先で、酒塩打つてやつた※

ので、

 

二度の祝ひは済んだぢやないか」

 「アヽそれで聞こえた。嬶が酒臭い餅ぢやと言

 

ふた。外へは遠慮でさうしやろと、おらは懇

ねんご

ろ※

 

だけ。晩に来て寝酒一杯。お客、これに」

と出でゝ行く

 「ハヽヽヽ嫁女あれ聞きやつたか。今の世の人

 

はきめごまかで※

、おらが始末※

の手目※※

見付けて、

 

晩に来て寝酒たべう※※

。ハヽヽヽ、アヽせち賢い※※

 

懇ろ振り」

 「イヤまた、お前もあんまりな。聞きも及ばぬ

※※

三段目 茶筅酒の段 3

Page 79: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

梅王丸女房の春

と松王丸女房の千代。

※2

「道草をする」と、

「途中で道端の草を摘

む」の掛詞。

※3

手仕事。

※4

キク科の植物。た

んぽぽも嫁菜も食用に

なる。

※5

ナス科の木。

※6

夫が兄弟の関係

にある妻同士。

※7

相手を立てて道

を譲り合う。

※8

いらっしゃる道

筋。春の家は八重の家

からの通り道にある。

※9

遅くなって。

※10

心も急ぐ。

※11

道中で。

※12

ここでは道々草

を摘んだこと。

※13

野菜を茹でて汁

に浸した料理。

※14 お昼の時間が過

ぎたのに。

※15

気が急いて。

 

茶筅酒、ホヽヽヽ」

 「ハヽヽヽ」

 「ホヽヽヽ」

 「ハヽヽヽ」

 「ホヽヽヽ」

 「ハヽヽヽ」

 「ホヽヽヽ」

 「ハヽヽヽ」

と嫁と舅の睦まじさ

梅うめおうまつおう

王松王兄弟の、女房※

が来る道草※

※も、女子の手業3

笠に摘み込み、蒲た

公英嫁菜※

、枸く

こ杞の垣根を目印に

 「サこゝぢやお春は

様、マア先へ」

 「イヤ

お千ち

よ代さんから」

と相嫁同士※

が門での辞宜合ひ※

白太夫をかしがり

 「一時に産んだ三つ子の嫁ども、先の後のどこ

 

ろかい。八重がとうから待つてゐやる。どちこ

 

ちなしに入れ

。ヤ来た

 

ハヽヽヽ」

 「ほんに八重様早かつた。ござんする道※

なれば

 

春が処へ誘うても下さんしよかと、待つた程が

 

遅なはつて※

心急きな道すがら、千代様に行き合

 

ふて連れ立つて来る道悪て

んごう戯

。今日の祝ひの浸し

 

にと、嫁菜蒲公英二人の仕事」

 「それはよう気が付いた。春様誘ふ約束も、日

 

足の長けたに気急きして※※

、寄る事も忘れたに、

※※※

※※0

※※※

※※

※※※

※※3

三段目 茶筅酒の段 4

Page 80: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

支度。

※2

女性を親しみを

込めて呼ぶ語。「わご

りょ」とも。

※3

算段。段取り。

※4

餅の上に置く食

材。

※5

(自分の家ではな

いため)様子がわから

ないだろう。

※6

立ち上がる時の

掛け声。

※7

(お祝いの)主役。

※8

和歌山県根来寺

で作る漆器の椀。

※9

食器を置く四角

い盆。

※10

病気もせず元気

でいること。

※11

丈夫な塗物だか

らといって、決して手

荒に扱うな。

※12

身体が丈夫にで

きている。

※13 素材を細く切っ

て酢で味付けをした料

理。

 

お千代様とは良い出合ひ」

 「サイナ、お春様に逢うたはわしが仕合はせ。

 

賑やかな道連れ。それはそれぢやが親父様、料

 

理の拵

こしら

え※※

出来てあるかえ」

 「イヤ、出来てない。わご女※

たちにさす合点3

 

こて

とむつかしい事は要らぬ。今朝搗つ

いた

 

餅で雑煮しや。上置き※

はしれた昆布、隙ひ

の要ら

 

ぬ様に茹でて置いた。大根も芋もそこにあろ。

 

勝手は知るまい※

、ヤアえい 」

と立ち上がれば

 「イヤ申し、今日の祝ひはお前が目当て※

。料理

 

方の出来るまで、何にも構はずひと寝入りなさ

 

れませ。勝手知らねど三人寄つて、何もかも取

 

り出だす」

 「さうぢやてゝ立つたついで、棚な物下ろして

 

やろ。ドレ

。これ

見や。祖父の代か

 

ら伝はつた根来椀※

ぢや、折お

しき敷

も十枚、おらが息

 

災※※

なもこの椀折敷。コレ堅地なとて構へて、手

 

荒う当たるな※※

嫁女達ハヽヽヽ

オヽこのマア倅

 

どもは何故遅い、来るまでにひと鼾い

びき

と体を横にさし枕、堅地作りの※※

親父なり

 「コレ皆様、なんぼうあのやうに仰つても雑煮

 

ばかりでは置かれぬ。飯も焚かざなるまいし、

 

何はせいでも鰹なます※※

。道草の嫁菜お汁によか

 

ろ。八重さん千代さん頼みます、この春は飯仕

 

掛けう」

※※

※※

三段目 茶筅酒の段 5

Page 81: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

手に手に。それ

ぞれ。

※2

味噌状の大豆を

すりこ木で摺るすり鉢。

※3

米をとぐ桶。

※4

内輪だけで他人

を入れないこと。

※5

手つきよく。手

際よく。

※6

知っているか。

※7

子どもたちの女

房。

※8

指名された。

※9

妻が夫を呼ぶ言

葉。ここでは松王丸。

※10

言い合いが激し

くなって。

※11

むしゃくしゃして

ぶつぶつ文句をいっ

て。

※12

口実に。きっか

けに。

※13

親父様から声が

かからないでは、仲直

りができません。

※14 遠回しにお願い

すること。

※15

同じ父母から生

まれた兄弟。

と手ん手に※

俎まないた板

摺すりこばち

粉鉢、米炊か

しおけ桶

に量り込む、水入

らず※

の相嫁同士、菜刀取つて切り刻み、

ちよき

と手品よく※

、味噌摺る音も賑はしゝ

白太夫目を覚まし

 「コリヤ倅どもはまだ来ぬか。正月から知れて

 

あるおらが祝ひ日。油断せう筈はないが、アヽ

 

この中誰やら、オヽそれ

今去んだ十作が話

 

には、時し

へい平

殿の車先で三人の子供が大喧嘩。『聞

 

いてか※

』と知らしてくれた。喧嘩の様子、嬶たち※

 

は知つてゐよ。車先での事とあれば時平殿に奉公

 

する松王が女房。サこゝへ来て様子を言や」

と名指しに合うた※

は千代が迷惑

 「お祝ひ事の済むまではお前の耳へ入れぬがよ

 

いと、三人ながらその心。要らぬ事喋し

やべら

れて、

 

隠されねば申します。梅王様桜丸様、二人の相

 

手にこちの人※

、日頃の短気言ひ上がつて※※

兄弟喧

 

嘩。したがお気遣ひなされますな。三人ながら

 

怪け

が我もなくその場はそれで済んだれども、もち

 

やくちや言ふて※※

ゐられます。春さん、八重さん、

 

お前方もさうであろ。気の毒な男の不機嫌」

 「成程々々、千代さんの言はんす通り、今日の祝ひ

 

を言ひ立て

※ゝ※

、兄弟御の仲直し、親御のお詞こ

とば

 

かゝらいでは※※

と男思ひの壁訴訟※※

 「エヽわごりよ達に問うたら知れうと思うた喧

 

嘩の筋、知つてゐても言はぬか。アヽ同じ胤た

ねはら腹

、※※※

※※

※3

三段目 茶筅酒の段 6

Page 82: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

男女の双子。

※2

同じ親が生んだ

とは思えない。

※3

生ぬるい。柔和な。

※4

軽はずみなこと

を言った。

※5

松王丸と千代の

間の子ども。

※6

午後四時頃。

※7

午後四時頃。

※8

気の利かない。

※9

噛んで含めるよ

うに。

※10

おっしゃいまし

た。

※11

留守をしている

者のために供える食

事。

 

一時に生まれた倅でも心は別々、よう似た顔を

 

双子と言へど、それもそれには極まらぬ。女み

ようと夫

 

子※

もあり、また顔の似ぬ子もある。マア大概顔

 

が似れば心もよう似て兄弟の仲もよいものぢや、

 

ガおらが倅どもは誰た

が見ても、一作とは思はぬ。

 

生ぬるこい3

桜丸が顔付き、理屈めいた梅王が人

 

相、見るからどうやら根性の悪さうな松王が面

 

構へ。アヽコリヤ千代が傍そ

で粗相言ふた※

、気に

 

掛けてたもんな、ハヽヽヽ。マア

怪我が

 

なうて嬉しうをりやる。怪我ついでに孫め※

は健ま

 

なか、連れて来て顔見せいで、とかう言ふうち

 

もう七つ※

ぢや、俺が生まれたは申さ

の刻限※

※、料理

 

も大方出来たであろ、嫁たち膳を出さぬかい」

 「アイ

、刻限の過ぎるまで、連れ合ひ

 

衆はなぜ見えぬ。千代さん八重さん道まで行て

 

見て来まいか。こゝで待つより三人ながら、ご

 

ざんせ行かう」

 「エヽイ嬶たち何言ふぞい。子供どもは来てゐ

 

るはい」

 「エヽ来てぢやとはどこに

 「アヽ鈍な※

嫁ども、そこにゐるを得知らぬかい。

 

コレ三本のあの木が子供ら。梅王、松王、桜丸、

 

顔は残らず揃ふてある。アヽ勿も

つたい体

ない菅丞相様、

 

くゝめる様に※

言はしやました※※

。生まれ日の刻限

 

が違や悪い、祝儀には蔭の膳※※

も据ゑる習ひ、サ

 

ア  

早う」

※※

三段目 茶筅酒の段 7

Page 83: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

夫たちの到着を

待っているわけにもい

かず。

※2

片口鰯を乾燥さ

せたもの。田作りとも

いう。まめ(元気)で

いるようにと祝いの席

に出す料理。

※3

御所の作法のよ

うである。

※4

白太夫も三本の

樹の前の地面に座ろう

とするので身体が冷え

るからと制止してい

る。

※5

春は梅の樹の枝

ぶりが「すっ」として

ひときわ抜きん出てい

ると褒める。

※6

容姿。

※7

「木ぶりもよし」

の「よし」と「吉野の

桜」の「吉」の掛詞。

※8

千年も。末永く。

※9 夫婦の間の子ど

もを若緑の松に例え

る。

※10

親の威光で一段

高い所に座っている。

※11

挨拶。

※12

そのままで良い。

と白太夫が言ふに

猶予もなり難く※

、俄に

わか

に盛るやら箸打つやら、椀の

向かうの小皿にごまめ※

 「まづ一番に親父様、これでお座りなされませ」

と給仕はもとより習はねど、見馴れ聞き馴れ立ち

振る舞ひ、八重が配膳御所めけり3

 「イヤ俺もあそこへ行こ」

 「イヤ申し土間では冷えが上がります※

。やつぱ

 

りこゝで」

と押し備へ、これから面々夫の給仕膳を捧げて庭

に下り

 「この梅の木が梅王殿。枝ぶりずんと※

日頃の気質」

 「八重が連れ添ふ男ぶり※

。木ぶりも吉野の※

桜丸」

 「これは千代まで※

添ひ遂げる、女夫が中の若緑※

 

色も艶々勢ひよい。松王殿で子達も揃ふ。サア

 

親父様、めでたうお箸なされませ」

 「アヽなされうとも

。親がひに座が高い※※

 

子供どもヘドレ挨拶」

 「ハテもう、それには及びませぬ。お加減の冷

 

めぬうち」

 「イヤ

お春、さうでおぢやらぬ。親でも子

 

でも極まつた辞宜※※

作法」

と庭に下りるも健やかに、樹の前に畏

かしこまり

 「子供衆何もござらずともよう参つて下されい。

 

親が折角下りての辞宜、アヽコヽ辞宜返しした

 

うても動かれぬは知れてある。こゝで、こゝで。

※※※

三段目 茶筅酒の段 8

Page 84: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

替えてくれ。

※2

良い味加減だ。

※3

偏らないように。

※4

「おいでなさるの

だ」と自分の行為に敬

語をつけておどけてみ

せる。

※5

歌の囃し言葉。

白太夫が上機嫌な様

子。

※6

儀式などで使用

する白木の台。

※7

儀式用の盃。

※8

扇の中に描かれ

た絵は、三つ子の皆さ

んにちなんだ梅松桜。

※9

どんどん栄え

る。

※10

ありあわせ。

※11

出来の良くない。

謙遜した言い廻し。

※12

頭。

※13

心のこもった。

※14

片づけておくれ。

 

ハヽヽヽ嬶か

たち、餅を替やいの※

と尻もちついて

 「ハヽヽヽ」

悦び笑ひ、我が膳に押し直り、箸を取るより

 「アヽさて塩あ

んばい梅

ぢや※

、旨い

。三人の嫁女達、

 

給仕も片意気せぬ様に3

三杯は食ふ合点で、おぢ

 

やらしまするぢや※

なんよへ※

。コリヤ新しい三さ

んぼう方

 

土かわらけ器

、誰が持つて来ましたぞ」

 「イヤそれは八重さんの」

 「ハテ気がついて、忝

かたじけない

。春もなんぞくれぬかい」

 「ほんに忘れてをりました」

と扇三本袖そ

土産

 「中の絵は梅松桜※

、お子たちの数を祝うて、三

 

本ながら末広がり※

、めでたう祝うてあげまする」

 「コリヤめでたい忝い。中の絵も話で知れた、

 

明けて見るに及ばぬ。このまゝこのまゝ、ハア

 

戴きます」

と機嫌に千代が袂た

もと

から

 「これは布の有り合ひ※※

で私が縫うた手づつ※※

頭巾。

 

つむり※※

に合はずば縫ひ直さう。お召しなされて

 

下さんせ」

 「アヽどれも

不足もない、心付き※※

なおくり

 

やり物。サ盃

さかずきも

済んだは、おれが膳からあげ

 

てたも※※

。子供らが膳は盛つたまゝ、冷えたであ

 

ろ。盛り直してコレ嬶達、二人前づつ食うてた

 

もや」

※※

※※

三段目 茶筅酒の段 9

Page 85: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

揃って。

※2

お賽銭用に銭

十二文を包んだもの。

※3

お参りしたこと

がないだろう。

 「イエ  

私らはまそつと待つて、主たちが見

 

えてから打ち並んで※

祝ひましよ」

 「そんならそれよ。おれは村の氏神様へ参つて

 

来ませう」

 「そんならお参りなされませ」

 「オヽ行きましよ 。拵こ

しら

へて置いた十二銅※

 

そこにあろ取つてたも。三本のこの扇、末広う

 

に子供の生ひ先、氏神へ頼んだり見せたりせう。

 

八重はまだ参るまい3

、ついでながら連れ立たう、

 

サア

こちへ」

と機嫌よう表を

三段目 茶筅酒の段 10

Page 86: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

私の夫。梅王丸

のこと。

※2

いらっしゃらな

くてよいということが

ありましょうか。

※3

ずっと立たせて

おいて。

※4

ここでは祝いの

時刻。

※5

べらべら。

※6

やかましい。

※7

その理由を。

※8

少し前に。

※9

それ見てみろ。

※10

失職した者。

※11

ここでは人を卑

しめていう語。やつ。

※12

そうじゃないか。

※13

恨み。ここでは

吉田神社での喧嘩の恨

みのこと。

三段目

喧け

か嘩の段

 

さして出でて行く

 「コレ千ち

よ代さん、年寄らしやつても物覚えがよ

 

いこと。こなさんやこの春は

は氏神様知つてゐる。

 

八や

え重さんは今が初め」

 「言はしやんすりやその通り。物覚えのよい親御

 

に違ひ、物忘れする子供達、松ま

つおう王

殿何故遅いぞ」

 「こちの夫※

も何故見えぬ」

 「但しは来ぬ気か」

 「今日見えいでよいものかいな※

。それこそそこ

 

へ松王殿」

 「エヽ女房を立ちそに立たして※

、刻限※

過ぎたを

 

知らずかいのう」

 「ヤアべり

と姦か

しま

しい※

。時し

へい平

様の御用あつて

 

それしまはねば動かれぬ。先へ参つてその訳※

 

へと言ひ付けたを忘れたか。梅う

めおう王

も桜さ

くらまる丸

もまだ

 

来ぬさうな、親父殿も内にござらぬ」

 「サアその親父様は八重様を同道で、もちつと

 

先に※

氏神参り、兄弟衆はまだ見えぬ」

 「ソレ見いな※

、遅いといふ俺は主

しゅう

持ち。梅王も

 

桜丸も、主なしの扶持放され※※

。用もない和わ

ろ郎た

 

ちが遅いのがほんの遅いの、お春殿、そぢやな

 

いか※※

と詞の端にも残る意趣※※

※5

※※※

三段目 喧嘩の段 1

Page 87: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

時が過ぎる。

※2

無視するように

顔をそむけて。

※3

神社に参拝する

こと。

※4

気分を害するよ

うな嫌な。

※5

見たくもない。

※6

顔付き。

※7

遠回しに皮肉を

言われ。

※8

強情。

※9

気が短いこと。

※10

とても聞き捨てな

らない。

※11

あてこすり。

※12

お前。

※13

お前の。

※14

吐き気がするほ

ど不快だ。

※15

腹の皮がよじれ

る。ばかばかしい。

※16

やせ細った顔。

※17

無収入なので随

分腹が減っているだろ

う。

※18

縁。

※19

とても食べられ

ない物を食べて飢えを

しのいでも、良くない

人物から物を受け取っ

てはいけないという例

え。

※20

犬畜生に同じ。

※21

言い過ぎだぞ。

※22

ののしる気持ち

を含めていう接頭語。

梅王も日足は長た

ける※

急いて来かゝり突つかゝり、

松王には顔振り背け※

 「お千代殿、今日は大儀。コリヤ女房ども、親

 

人と桜丸、八重もこゝには何故ゐやらぬ」

 「イヤ今も松王様のお尋ね。桜丸様はまだ見え

 

ぬ、お二人は宮参り※

 「ムヽ桜丸はどうして来ぬな。待ち兼ねる者は

 

来いで胸の悪い※

見とむない面構へ※

と梅王に当てこすられ※

松王が一徹※

短慮※

 「あたぶの悪い※※

ねすり事。言ひ分あらば直きに

 

言やれ」

 「何のわれ※※

に遠慮せう。わが※※

面構へを見る度々、

 

ゲイ

と、虫む

酸ず

が出る※※

わい」

 「ハヽヽヽ、ハレ申したり腹の皮※※

。この松王は

 

生まれついて涙もろい。桜丸やそちが様に扶持

 

放されの痩せ頤。ひだるからうと思うてやる

 

が、兄弟の誼よ

しみ

だけ」

 「何、扶持放され。ヘゝ扶持放されと笑ふ奴が

 

食らふ扶持が碌ろ

な扶持かい。鉄て

つがん丸

を食すといへ

 

ども心汚れたる人の物を受けず※※

とは、八幡大菩

 

薩の御託宣。心汚れた時平が扶持、有難う思ふ

 

はな、人でなしの猫畜生※※

 「ヤア畜生とは、舌長な※※

梅王。今一言言ふてみい」

 「望みなら易い事ぢや。畜生、畜生、畜生、畜

 

生、どう※※

畜生」

※※※

※※※

※※※

おとがい

※※※

※5

三段目 喧嘩の段 2

Page 88: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

刀を抜こうと構

え。

※2

困ったものだ。

※3

どうなさるつも

りですか。

※4

堪忍袋。じっと

堪える気持ち。

※5

気後れしたな。

※6

大口を叩くくせ

に。

※7

弱い奴。

※8

女房に止められ

て好都合。

※9

無礼な悪口。

※10

心に響いて。

※11

刀を抜いての勝

負。

※12

地面の土に叩き

つけなければ。

※13

動きやすいよう

に着物の裾を尻はしょ

りして。

※14

身支度し。

 「もう赦ゆ

されぬ」

と松王丸、刀の柄に手を掛くれば

梅王も反り打ち返し※

、詰め寄り詰め寄る

二人の女房

 「これはマアおとましい※

気が違うたか松王殿」

と千代が夫を抱き留むれば

 「七十の賀を祝ひに来て親父様に逢ひもせず、

 

反り打つてどうさしやる※

※。祝ひ日に抜いてよい

 

か、こちの人梅王殿」

と刀の柄にしがみつく

女房春を取つて突き退の

 「七十の賀でも祝ひ日でも、堪こ

え袋※

の破れかぶ

 

れ、留め立てして怪我するな。コリヤ松王、遅

 

れたな5

。女房が留めるを幸ひに、頬ほ

げたに似ぬ※

 

腕なしめ※

 「オヽ留めらるゝを幸ひ※

とは、わが心に引き比

 

べて松王には慮外の雑言※

。身が女房が留めたよ

 

りそちが女房が親にもまだとの一言肝先へきつ

 

と当たり※※

、堪へ

、堪へたがもうたまらぬ。

 

真剣の勝負※※

は親人に逢うての後、それまでの腹

 

癒い

せに、砂かぶらさねば※※

堪忍ならぬ。千代にこ

 

れを預ける」

と両腰抜いて放り出し、裾引つからげ※※

身拵ご

しらえ

 「オヽ畜生めがコリヤよい了り

ようけん簡

。桜丸が来るま

 

では松王が命松王に預ける」

と同じく両腰放り捨て

※※※

三段目 喧嘩の段 3

Page 89: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

血は流さない。

※2

松王丸が転びな

がらも梅王丸を両足で

払ったので。

※3

若くて血気盛ん

な年齢。

※4

我慢強さの競い

合い。

※5

そこまでにして

くださいな。

※6

やめてください。

※7

決着がつかなけ

れば。

※8

優勢に乗じて相

手に攻めかかって。

※9

松王丸の腕。

※10

梅王丸の腕。

※11

よりかかった。

※12

桜の木は上が

ぽっきり折れて。

※13

夫が兄弟の関係

にある妻同士。

※14

ふたりの喧嘩も

勝負が決まらず。

 「刃物を渡せば血はあやさぬ※

。女房ども邪魔す

 

るな」

とつゝと寄つて縁より下へ踏み落とせば

早さそく速

の松王落ち様に諸も

ろあし足

かけば※

梅王丸、真つ逆様に落ち重なり、掴つ

み合ひ叩き合

ひ、組んでは離れ、離れてはまた組み合ひ、捻ね

付け引つ伏せ蹴け

つ踏んづ、双方力も同い年、血気

盛り※

の根比べ※

千代と

春とは二人の両腰、取られもせうかと気遣ひ半

分、傍へも寄られず『ハア

』と、心を

あせり気を揉も

み上げ

 「どちらが勝ちも負けもせず、叩き合うたが二

 

人の存分。梅王殿もうよいはいな5

 「松王殿もう置かしやんせ※

、やめて

と言ふをも

聞かず

 「勝負つかでは※

無駄働き。投げてくれん」

と松王丸、嵩か

にかゝつて※

押す力

怯ひる

まぬ梅王突つ掛くる、肩先捻よ

つてがつくりさせ

横に抱へる松の木腕※

劣らぬ肘ひ

じぼね骨

梅の木腕※※

、絡み捩も

つて押し合ふ力、双

方一度にこけかゝり、凭も

る※ゝ※

拍子に桜の立木、土

際四五寸残る木の上はぽつきりぐわつさりと折れ※※

たに驚く相嫁同士※※

二人が勝負も破れ相撲※※

、共に呆れて手を打ち払

三段目 喧嘩の段 4

Page 90: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

おろおろすると

ころへ。

※2

白太夫と八重が

参詣から戻ってくるこ

と。

※3

ふたりは慌てて

着物を直し、腰刀を差

す間もなく。

ひ、うろつく中へ※

※はや下向※

 「アレ親父様のお帰りぢや、白し

らたゆう

太夫様の」

と言ふ声に

二人は肩入れ裾下ろし、腰刀差す間も※

三段目 喧嘩の段 5

Page 91: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

年老いても親と

は怖い存在。

※2

ふたりの兄弟は

家に上がらず。

※3

庭に犬のように

四つん這いになって父

にお辞儀し。

※4

恥ずかしさでも

じもじする。

※5

にこにこと。

※6

すませた。

※7

決めた。ここで

は「決めつけていた

が」。

※8

煮えすぎた。

※9

してくださった

か。

※10

大切な桜が折れ

ているのを見ても「誰

の仕業か」と咎めも叱

りもしない。

※11

思惑。

※12

考えているお願

い。

※13 一身上のお願い。

※14 同じ場所に置い

たのは。

※15

気を遣わなくて

すむのは。

※16

改まった。格式

ばった。

三段目

桜さくらまるせっぷく

丸切腹の段

 

あらず戻られし

年は寄つても怖いは親、上へも上らず犬蹲つ

くばひ

 「今日の御祝儀、おめでたい」

と祝儀は述べても赤面し、塵ち

をひねらぬ※

ばかりなり

親はほや 

機嫌顔

 「嬶か

達が先へ来て七十の賀を祝うてくれたで、

 

今日の祝ひはさらりと仕舞うた※

※。知れてある刻

 

限、遅いは何ぞ障りがあつて来ぬに極めた※

、梅う

 

王おう

、松まつおう王

ようこそ 

来てくれた。コレ二ふ

たよめじょたち

嫁女達、

 

煮くちた※

であらうが、雑煮祝ひはしてたもつた

 

か※

と折れた桜は見ながらも『誰た

が仕業ぞ』と咎めも

せず、叱る処を叱らぬ※※

親。一物※※

ありと知られたり

梅王丸懐中より、用意の一通取り出だし

 「祝儀済んで候へば私の所存の願ひ※※

、これに書

 

き付け候」

と親の前に差し出だせば

松王もまた一通

 「身の上の願ひ※※

これにあり」

と同じ所へ直せしは※※

、言ひ合はせたる如くなり

白しらたゆう

太夫打ち笑ひ

 「心安いは※※

親子兄弟夫婦、かう並んだ中、願ひ

 

あらば口では言はいで、ぎつとした※※

この書付、

※5

※3

※1

※2

三段目 桜丸切腹の段 1

Page 92: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

役所の仕事のよ

うに改まって。

※2

口の中でぶつぶ

つ呟いて読む。

※3

前後の事情。

※4

これはどうした

こと。

※5

見当。

※6

夫は途中でめま

いが起こったのか。

※7

いとま。

※8

流刑の地。ここ

では九州の太宰府。

※9

土間に筵を敷い

て寝るようなあばら

家。

※10

お世話をする者。

※11

顔形は人間でも

心は獣同然。恩義に対

し何とも思わない者を

指す。

※12

獣。

※13

菅丞相の奥方や

若君はお元気で居どこ

ろもわかった上での旅

立ちの願いだな。

※14

浪人してから。

 

さらばおらもぎつとして、代官所の格で1

捌さば

く」

と願ひ書き手に取り上げ、つぶ 

読む2

も口の内

願ひは何やら聞こえねど、春は

と千ち

よ代とは夫の心、

知つてゐる筈跡先3

知らねば案じる八や

え重一人

 「三人の兄弟諍い

さかひ

、親父様お頼み申し、今日仲

 

直しと言ひ合はした、千代さん、春さんコリヤ

 

何ぞい※

。何を言ふてもこちの人、桜

さくらまる丸

殿ござら

 

ぬ故、心当て5

が皆違うた。道で眩げ

んうん暈

が起こつた

 

か※

と見えぬ男を案じるやら、二人の願ひも気にかゝ

り、小首傾け案じゐる

親父は二通読み仕舞ひ

 「コリヤ梅王、そちが願ひに旅へ立つ隙ひ

くれと

 

は、アヽ推量するに他でもあるまい。菅

かんしょうじょう

丞相の

 

ござる島※

か」

 「ハヽ成程々々、結構な御殿に引き換へ、埴は

にゆう生

 

の小屋※

の御住居、御用聞く人※※

なければ、梅王下

 

つて御奉公仕らん、身の御お

いとま暇

と申しける

 「ムヽ恩を知らねば人に

んめんじゅうしん

面獣心と言ふてな、顔は

 

人でも心は畜生※※

。島へ参つて御奉公がしたいと

 

は、満更恩を弁わ

きま

へぬ畜ち

くしょうけ

生気は離れた心。コリヤ

 

ヤイ御み

だい台

様や若君様、お変はりも遊ばされず、

 

ござる所も知れた上、旅立ちの願ひぢやな※※

 「アヽイヤ御台様はその以来※※

御目にも掛らず、

※※

※11

三段目 桜丸切腹の段 2

Page 93: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

居場所。

※2

女性のことです

から後継ぎの若君様と

違って心配ない。

※3

居場所は確かに

(居場所の見当はつい

ているが、敵対する藤

原時平の家来の松王丸

がいるので口を閉じ

た)。

※4

チラリと睨んで。

※5

元気。お達者。

※6

忠義の義務を果

たしているのか。

※7

お前は「女性の

ことですから」と言っ

たが、奥方様は大事な

ご主人ではないか。

※8

軽い役目。

※9

根絶やしにしよ

う。

※10

(敵は)懸命に探

索している。

※11

人を陥れようと

して事実でない告げ口

を言う者。

※12

ここぞという時。

いざという時。

※13

許可しない。

※14

厳しい目つきで

きっと睨む。

※15

過失を認めて申

し訳なく思う。

※16

親子の縁を切り

たい。

※17

親不孝なことと

いったら他に例えよう

もない奴。

※18

お前の願いはか

なえてやろう。

 

御ご

ざ座どころ1

も存ぜぬ。しかし女に

ょぎ儀

の御事なれば

 

若君様とはまた格別2

。菅か

んしゅうさい

秀才の御事は確かに3

と言はんとせしが、松王を尻目にかけ※

 「確かに、所は存ぜねども、息災5

にござある噂」

 「ヤイ馬鹿者、大切な菅秀才様、御息災なを聞

 

いたばかり。御目にも掛らず在あ

りか処

も知らず、そ

 

れでおのれ忠義が済むか※

。女儀の身と吐ぬ

かしを

 

る御台様は主し

ゅう

ぢやないか※

※。尤も御不自由な配所

 

のお住す

居まい

、お傍へ参つて御用を聞く、躄

いざり

役※

の奉

 

公はコヽこの白太夫がよい役ぢやわい。血気盛

 

り奉公盛り、菅丞相の由ゆ

かり縁

とあれば根掘り葉掘

 

り絶やさん※

とて、鵜の目鷹の目※※

油断はならぬ讒ざ

 

者しや

の仕業。スハといふ時※※

身を惜しまず、御用に

 

立つ所存はなうて躄役を願ふは、命が惜しいか

 

敵が怖いか。旅立ちの願ひ叶はぬ 

、エヽ取

 

り上げぬ」

と願ひ書き顔へ打ち付けて、はつたと睨に

む※※

老ひの

腹立ち

道理至極に梅王夫婦、誤り入つたる※※

風情なり

 「ヤイ松王、そちがこの願ひを見れば、勘当を

 

受けたい※※

とな。ハヽヽヽ神武天皇様以来、珍し

 

い願ひぢやな、アハヽヽヽ。不孝といはゞ例へ

 

のない奴※※

、あんまり珍しい願ひなれば、聞き届

 

けてくれるぞ※※

と親の了簡

 「ハヽ忝

かたじけなし

※11

※13

三段目 桜丸切腹の段 3

Page 94: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

理由も聞かず。

※2

ことわざ「口は

重宝なもの」。口は便

利なもの。

※3

おかしくてたま

らぬ。

※4

蟹は横に歩くと

ころから邪(よこし

ま)なこと、正しくな

いことを守る忠義。

※5

ことわざ「蟹は

甲羅に似せて穴を掘

る」。人のすることや

願うことは、それぞれ

の分に応じているとい

う意味。

※6

刃向えば。反抗

すれば。

※7

斬って捨ててし

まおう。

※8

区別。

※9

世の倫理に反す

る。

※10

人でなし。

※11 ぐずぐずしてい

ると。

※12

正しくは「青筋

を立てて」。顔のこめ

かみの青い静脈が浮き

出るほど。

※13

夫が兄弟の関係

になる妻同士。

※14

顔を見ようとし

ても目もあけられない

ほど涙を流し。

※15

きっぱりと。

と悦よ

ろこ

ぶ松王勇み立ち

 「親子兄弟の縁を切る、所存も問はず赦されし

 

は、この松王が主人へ忠義。推量あつての事な

 

るべし」

 「ハヽヽヽ、いかさま口は調法な物2

ぢやなア

 

ハヽヽヽ。主人への道立て、ヘヽ臍へ

がくねる3

 

い。コリヤヤイ道も道によつてな、かう横に取

 

つて行く道を蟹忠義※

と言ふわいやい。甲に似せ

 

て穴を掘る5

と勘当受くれば兄弟の縁も離れ、

 

時しへい平

殿へ敵対は

※ゞ

、切つても捨てん※

所存よな。

 

尤も善悪の差し

ゃべつ別

なく、主へ義は立つにもせよ親

 

の心に背くをな、アヽアレ天道に背く※

と言ふわ

 

いやい。望み叶へてとらする上は、人外※※

め、は

 

や帰れ。隙ひ

取らば※※

親子の別れ竹

たけぼうき箒

食らはすぞ」

と筋骨立て

※ゝ※

怒る声

松王は思ひのまゝ

 「女房、来い」

と引つ立て行く

千代はさすがに親兄弟、名残も惜しき相嫁※※

の、顔

を見る目も飽かれぬ涙※※

、袂

たもと

絞つて出でゝ行く

 「ハレヤレ嬉しや、面倒な奴片付けた。ヤイそ

 

こな馬鹿者、御台若君の御行方、尋ねに行かぬ

 

か、失せぬか」

とこれも手強う※※

決め付けられ

 「そんなら島へは」

 「サア行く所へは俺が行くわい、エヽ出て行け、

※※

※1

三段目 桜丸切腹の段 4

Page 95: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

親父様を怒らせ

たのでお詫びの口添

えを頼みます。

※2

家の入り口。玄

関。

※3

どうしたらよい

かわからず思いに沈

み。

※4

家の中の納戸(物

置)の出入口。

※5

小刀。

※6

儀式などで使用

する白木の台。

※7

車輪が弱った牛

車のように足が覚束な

い例え。

※8

早く早く(切腹

をしろ)。

※9

どういうことで

すか。

※10

持ちません。

 

行け」

を怖がるお春

 「八重さん後でよい様に、お詫び言を1

と言ひ捨てゝ、夫婦は門へ2

白太夫は、唾を呑み込んで、奥へ行く

兄弟夫婦に引き別れ、取り残されし八重が身の、

仕舞ひもつかぬ物思ひ3

。門か

へ立ちそに待つ夫

思ひがけなき納戸口※

、刀片手に、につこと笑ひ

 「女房ども、さぞ待ちつらん」

と声にびつくり走り寄り

 「ヤア何時の間にやら来たとも言はず、案じる

 

女房を思はぬ仕方。兄弟衆の事について、親父

 

様のお腹立ち、その場へは出もせいで、何でこ

 

なさんは納戸の内に。エヽコレイナコレ、訳を

 

聞かして、聞かして」

と聞きたがるこそ道理なれ

暫しばらく

あつて白太夫、はみだし鍔つ

の小こ

わきざし

脇差、三さ

んぼう方

乗せしほ

と、出づるも老ひの足あ

しよわぐるま

弱車、舎と

ねり人

が前に置き

 「用意よくば、疾と

く 

と言ふに

女房がまたびつくり

 「コリヤ何ぢや親父様、桜丸殿どうぞいなア※

 

何で死ぬのぢや腹切るのぢや、切らねばならぬ

 

訳ならば、未練な根性さぎやしませぬ※※

。こなさ

※5

※※

※※

※※

三段目 桜丸切腹の段 5

Page 96: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

心配する心を安

堵させてください。

※2

煩わせる必要は

ない。

※3

思うところの総

てを。すっかり。

※4

かわいがられ。

※5

俸禄をくだされ。

※6

畏れ多いことよ。

※7

元服の時に烏帽

子をかぶらせ名前を付

けてもらった子。

※8

御所勤め。

※9

人間の血筋では

ない。天皇を神格化し

ての言葉。

※10

皇族。

※11

最下級の身分の

舎人だが。

※12

恋仲。

※13

恋文の取持ち。

※14

恋が成就したこ

と。

※15

おふたりの仲を

悪者が利用して天皇に

作り話を信じ込ませ

て。

※16

忠義を見せる。

※17

自害。

※18

親の手で支度を

してもらったぞ。

 

んが言はれずば親父様の只一言、案じる胸を休

 

めてたべ1

、お慈悲

と手を合はせ、泣くより他の事ぞなき

 「ヤア親人に何御苦労、これまで馴染む夫婦の

 

仲。所存残さず3

言ひ聞かさん。某

それがしが

主人と申す

 

も畏お

れ多き斎と

きよ世

の君様、百姓の倅なれども

 

菅かんしょう丞

相じょうの

御ごふびん

不憫を加へられ※

、親人へは御扶持方5

、御

 

愛樹の松、梅、桜、兄弟が名に象か

たど

り松王、梅王、

 

桜丸、ハヽ憚は

ばか

りありや※

、冥み

ようが加

なや。烏え

帽子子ご

 

なし下され、御恩は上なき築つ

いじ地

の勤め※

。三人の

 

その中に桜丸が身の幸ひ、人間の胤た

ならぬ※

竹の

 

園そのう生

の御所奉公。下げ

げ々

の下々たる牛飼ひ舎人※※

 

勿体なくも身近く召され、菅丞相の姫君とわり

 

なき中※※

の御文使ひ※※

。仕終せた※※

が仇となつて讒ざ

んしゃ者

 

の舌に御身の浮名※※

。遂には謀叛と言ひ立てられ

 

菅原の御家没落。エヽ是非もなき次第なれば、

 

宮姫君の御安堵を見届け義心を顕

あらわ

す※※

我が生害※※

 

今朝早々こゝまで来て右の段々生きて居られぬ

 

最期の願ひ、聞き届けて腹切刀、親の手づから

 

下されたわい※※

女ども、我に代はつて御礼も申し、

 

死後の孝行頼むぞ」

と義を立て守る夫の詞

女房『わつ』と声を上げ

 「仇なる恋路のお仲立ち、親王様の御悪名、丞

 

相様の流され給ふその言ひ訳に切る腹なら、こ

 

の八重も生きてはゐられぬ。私は残つて孝行せ

※10

※2

※※

三段目 桜丸切腹の段 6

Page 97: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

無慈悲にも。

※2

お願いですから

一緒に死のうと言って

女房の願いを叶えてく

ださい。

※3

親自らが。

※4

恨んだり頼んだ

り。

※5

正気を失ったよ

うな。

※6

明け方。

※7

夜通し歩いて到

着したかそれとも三十

石船で来たか。

※8

大人物でない白

太夫如き。

※9

殊勝な者。

※10

少しでも先に延

ばそうとすること。

※11

おれには判断が

付かない。

※12

神様のご判断に

任せよう。

※13

三本の扇をくじ

に見立てて桜の絵の扇

を取ったら命を助けて

よいとの神のお告げと

いうことにして神仏に

祈り。

※14

神様、扇に乗り

移ってください。

 

いと胴ど

うよく欲

にも1

よう言はれた。それよりはまだ酷む

 

い、腹切る礼を申せとは、それが何の礼どころ。

 

無理な事言ふ手間で、一緒に死ねとコレ申し女

 

房の願ひ立てゝたべ。親父様の思案はないか、

 

コレ 

 

俯うつむい

てばかりござらずとも、よい知

 

恵出して下さりませ。夫の命生き死には親父様

 

のお詞次第、お前は悲しうござりませぬか。親

 

の手づから3

この三方、ハアヽ腹切刀は何事ぞ」

と恨みつ頼みつ※

身を投げ伏し、悶も

え焦がるゝ有様

は、物狂はしき5

風情なり

白太夫顔振り上げ

 「子に死ねといふ腹切刀、酷い親と思ふ言ひ訳

 

ではなけれどな、この暁※

は我が身の祝ひ。いつ

 

もより早う起き門の戸明くれば桜丸『ヤレ早う

 

来てくれた。徒か

ち歩ならば夜通し、但しは船か※

 

マヽこちへ』と呼び入れて様子を聞けば、右の

 

次第。白太夫づれ※

が倅には驚き入つた健け

なげ気

者※

 

留めても聞き入れず、今日の祝儀仕舞ふまで女

 

房が来ても逢はしはせぬ、俺が出いと言ふまで

 

は納戸の内に隠れてゐいと、一寸延ばし※※

に命を

 

庇かば

ひ、助けてよいか悪いかはおらが了簡に及ば

 

ず※※

、神明の加護に任さん※※

と祝儀にくれた扇三本。

 

幸ひ絵には梅松桜、子供の行末祈る顔で氏神の

 

祠ほこら

へ直し置き、信を取つて御み

くじ籤

の立り

ゅうがん願

、桜丸が

 

命乞ひ。中の絵は上から見えぬ三本のこの扇。

 『初手に桜を取らしてたべ、上がらせ給へ※※

』と

※13

※2

三段目 桜丸切腹の段 7

Page 98: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

おみくじを引き

直すこと。

※2

その報いとして

起こる結果が定まって

いる行為。

※3

観念して。

※4

死にます。

※5

しきりにまばた

きをして涙をこらえ

て。

 

再拝祈念。取り上げた扇開けば梅の花、南無三

 

これは叶はぬ告げか、神の心を疑ふ御み

くじ籤

の取り

 

直し1

※はせぬものなれども、助けたいが一杯で、

 

取り直す次の扇。今度も、今度も違うて又松の

 

絵。頼みも力も落ち果てゝ、下向すりや折れた

 

桜。定業と諦あ

きら

めて腹切刀渡す親、思ひ切つて3

 

りや泣かぬ。そなたも泣きやんな、ヤア」

 「アヽ、アイ」

 「泣くない」

 「アヽ、アイ」

 「泣きやんない」

 「ア、アイ」

 「泣くない」

 「アイ」

 「泣くない」

 「アイ

 「泣きやんな」

 「あれ聞いたか女房ども、桜丸が命惜しまれて

 

老人の心遣ひ。御恩も送らず先立つ不孝、御赦

 

されて下されい。下郎ながら恥を知り、義のた

 

めに相果つる※

と三方取つて戴くにぞ

 「もうこれ今が別れか」

と泣くも

泣かれぬ夫の覚悟

白太夫目をしばたゝき5

※2

じょうごう

三段目 桜丸切腹の段 8

Page 99: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

切腹の時に首を

斬り落とす役。

※2

叩き鉦と打ち鳴

らす棒。

※3

永遠に。

※4

功徳の力。

※5

弥陀の名前を唱

えれば鋭い剣のように

すべての煩悩を砕く。

※6

ひどく乱れたさ

ま。

※7

「南無阿弥陀仏」。

臨終に念仏を唱えれば

極楽に行けるという。

※8

約三〇センチの

小刀のこと。

※9

左側。

※10

仏の姿や功徳を

心に思い描くこと。桜

丸も白太夫も武士では

ないので介錯の作法を

知らない。白太夫は念

仏を唱えることで介錯

した。

※11 喉笛を掻き切っ

て。

※12

八重は夫の血に

まみれた刀で後追い自

殺を図ろうとする。

※13

カラタチの植え

込みの後ろ。

 「潔い倅が切腹、介か

いしゃく錯

は親がする。その刀、コ

 

レ、見やれ」

と懐から取り出すは、願ひ込んだる鉦か

ねしゅもく

撞木

 「この刀で介錯すれば、未来永よ

うごう劫

迷はぬ功く

りき力

 

利りけんそくぜみだごう

剣即是弥陀号」

と撞し

ゆもく木

を取つて打ち鳴らす。鉦か

もしどろ※

 「なまいだ※

 

。なまいだあ 

 

 

なまいだあ 

、なまいだ」

念仏の声と諸共に、襟押し寛く

つろ

げ九寸五分※

、弓ゆ

んで手

脇へ突き立つれば

八重が泣く声

打つ鉦も、拍子乱れて

 「なまいだ、なまいだ、なまいだ 

 

 

なまいだ 

右の肋あ

ばら

へ引き廻ま

 「憚りながら、御介錯」

 「オヽ、介錯」

と後へ廻り、撞木振り上げ

 「南無阿弥陀仏」

と打つやこの世の別れの念仏※※

九寸五分取り直し、喉ふ

のくさりをはね切つて※※

、か

つぱと伏して、息絶えたり

八重が覚悟もこの場を去らず、夫の血刀取り上ぐ

る※※

枳きこく穀

の蔭※※

より梅王夫婦、走り寄つて

 「コリヤ何事」

※※

※※

※3

※5

※1

※2

三段目 桜丸切腹の段 9

Page 100: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

原因を調べるこ

と。

※2

桜丸のこと。

※3

隠れて。そっと。

※4

惜しいことに。

※5

繰り返す嘆き。

※6

仏具を旅の道具

に持ち替えて。

※7

急いで。

※8

この世。

※9

あの世。

※10

冥途へ向かった

桜丸へのはなむけ。

※11

「南無阿弥陀仏」

の「阿弥陀」と「あみ

だ笠」の「あみだ」の

掛詞。

※12

死者が赴く人間界

から西方へ十万億土離

れた浄土。

※13

生きて忠義を尽

くす梅王丸のこと。

※14

死をもって義臣

となった桜丸のこと。

※15 はかない人生の。

と九寸五分もぎ取り捨て、親の前に畏

かしこまり

 「先程帰れとありし時、表へは出でたれど桜丸

 

が来ぬ不思議と、丞相様の御秘蔵ありし、アレ

 

あの桜の折れたを詮議1

もなされぬ、かれこれ不

 

審に存ずるから裏より忍び立ち戻り、始終の様

 

子は承つた。エヽ是非に及ばぬあの樹と共に枯

 

れし命の桜丸、兄弟の最期余よ

そ所に見て、親人の

 

鉦しょうこ鼓

に合はせ、女み

ょうと夫

の者が忍びの念仏。あつた

 

ら※

若者殺せし」

と悔やむ夫婦も

聞く親も

八重も死なれぬ身の繰り言5

、是非も涙に

 「南無阿弥陀仏」

と鉦打ち納め

撞木と代はる杖と笠※

、白太夫は片へ

んし時

も早く※

菅丞相

の御跡慕ひ島へ赴く現世※

の旅立ち

桜丸が魂こ

んぱく魄

は、未来※

へ旅立ち

 「この亡な

きがら骸

、梅王夫婦を頼むぞ」

と八重が事までつど

に、頼む詞の置き土産。

冥めい

途ど

の土産※※

はたゞ念仏

 「南無阿弥陀仏々々々々々々、南無阿弥陀。南

 

無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏々々々々々々」

南無あみだ笠※※

打ちかぶり、西へ行く足、十万億土※※

亡骸送る親送る、生きての忠義※※

、死したる義臣※※

ひと樹は枯れし無常の※※

残る二樹は松王、梅王 ※

2

※3

三段目 桜丸切腹の段 10

Page 101: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

「末世まで知られ

るのは」の「知ら」と「白

太夫」の「白」の掛詞。

※2

菅原道真が左遷

され太宰府へ流される

途中、荘園のある佐太

へ立ち寄ったといわ

れ、現在は佐太天神宮

がある。

三つ子の親が住み所、末世にそれと白太夫1

佐太の社の旧跡2

も、神の恵みと知られける

三段目 桜丸切腹の段 11

Page 102: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

福岡県筑紫野市

の天拝山。太宰府に左

遷された菅原道真が何

度も登り天に向かって

無実を訴えた伝説があ

る。

※2

当時流行した在

郷歌といわれる。

※3

西暦九〇三年の

旧暦二月。

※4

放牧した牛の背

にお乗りになる。

※5

鄙(ひな)びた田

舎歌。

※6

何卒お気晴らし

させたい。

※7

しわがれた。

※8

どなり声。

※9

(白太夫が)見事

な毛並みだと菅丞相が

お乗りの牛を褒める。

※10

頭の大きさと体

のバランス。

※11

肉の付き具合。

※12 体全体が黒一色

の。

※13

渡来のビロード

も及ばないような肌

艶。

※14

牛のランクでは

黒が最上等で、角が天

に向き、眼は地を向

き、頭は左右に傾かず

均等で、耳は小さく、

上下の歯先が食い違

う。申し分のない牛。

※15

歌の囃し詞。

※16

容量の単位。

※17

牛の代金。

※18

升で量るお金の

ことだろうか。

※19

とんでもない。

四段目

天てんぱいざん

拝山の段

  

君を思へばよやヨホイホ、結ぼれ糸のハレ

ナ、解けぬ心がつろござる、イヨつろござる※

辛き筑紫に立つ年月。御痛はしや菅

かんしょうじょう

丞相、讒ざ

んしゃ者

業わざ

に罪せられ、埴は

にゆう生

の小屋の起き伏しも、昨日と

暮れて今日は早や。延喜三年如月※

半ば、空も春め

く野山の眺め、野の

がい飼

に召させ奉り※

、我が楽しみは

在郷唄※

 

君を思へばよやヨホイホ

 「ハヽヽヽ、ハア何をがなお気晴らし※

。しはら

 

くさい※

どつてう声、牛殿の手前も面目ない。エヽ

 

見れば見る程見事な毛並み※

。角の構へ眼の備へ

 

頭ず

持ちの※※

様子骨組肉し

合ひ※※

。惣毛一い

つしき色

真つ黒黒※※

牛、

 

渡り繻し

ゆす子

も及ばぬ色艶※※

、天て

んかくじがん

角地眼一い

ちこくろくとう

黒直頭耳に

小しよう

 

歯違ふ※※

。天つ晴れ御牛候よ、ちよ

らのちよせい」

と、誉めにける

菅丞相は珍かに、聞き馴れ給はぬ賞め詞

 「ヤイ白し

らたゆう

太夫、春は耕し秋は刈穂の稲を負ほせ、

 

耕作の助けとなる、牛の善悪よく知る筈。天角

 

地眼と申せしは角と眼の備への事、一石六斗二

 

升※※

とは牛を買取るその価、升目に積もる物やら

 

ん※※

。語れ、聞かん」

と、仰せける

 「さつてもしたり※※

、天下にありとあらゆる事ど

※8

※1※

※1※

あたえ

※1

四段目 天拝山の段 1

Page 103: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

一つの利益。

※2

不躾ながら。

※3

説明。解説。

※4

米など俵に入れ

たものを石高で計った

もの。

※5

最上級。

※6

完全。

※7

あいつ。ここで

は牛のこと。

※8

モソモソと。

※9

噛み返す。

※10

互い違い。ちぐ

はぐ。

※11

「モウ」と牛の鳴

き真似をして話は終わ

る。

※12

専門家の知識は

大したものだ。

※13

一つ賢くなったぞ。

※14

喜びのあまり踊

るようになって。

※15

なんたる。

※16

放っておいて。

※17 何となく淋しい。

※18 月見や花見に出

られることもなくほと

んど家にお引き籠られ

たのに。

※19

今日はどうした

ことか。

※20

白太夫牛を引け。

外出したい。

 

も、余さず洩らさず知つてござる丞相様。牛の

 

事はご存知なくお尋ねに預かるは、百姓に生ま

 

れたこれも一徳1

。お慮外ながら※

、ヘゝ牛の講釈※

 

マヽヽ聞かしやりませ。エヽ一黒と申すは俵

ひようもつ物

 

の石こ

くめ目

ではござりませぬ。毛色を吟味する時は

 

黒いが極上※

、それで一黒。次に直頭とは頭の見

 

どころ、頭と

とはかしら、何ど

つち方

へも傾かずまんろ

 

く※

ながよいさかいで、直頭と申します。耳小の

 

耳は耳、小は小さし、随分耳は小さいを好みま

 

す。さて歯違ふとはきやつ※

がおね

にれを噛

 

む※

、上下の歯先揃ふは悪し。五ぐ

いち一

に※※

※生は

へたが歯

 

違ふの歯の見どころ。次第を上か

から言ひ立つれ

 

ば一石六斗二升八合、牛の講釈、モウ※※

仕舞ひで

 

ござんまする」

 「誠に性は道によつて賢し※※

。白太夫が咄は

なし

を聞き、

 

一つの徳を得たるは※※

と、仰せに

ひよこ

小踊りして※※

 「こりやマアあんたる※※

仰せぞい。親の代から御

 

領分の百姓、三つ子の事までお世話になされ、

 

御恩に御恩ありがたうて寝た間も忘れぬこの親

 

と違ふて、三人の倅ども、一人は死ぬる、後二

 

人は気も揃はず面倒な奴ら打放つて※※

、この太宰

 

府へ参つたはアヽ去年の三月。うそ淋しい※※

不自

 

由なお住居、一年の日数は立てど月見花見に出

 

もなされず※※

。今日は何と思召し※※

『牛引け※※

』とあ

※8

※※

四段目 天拝山の段 2

Page 104: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

太宰府天満宮に

あったお寺。

※2

天皇がご存知に

なられたら。

※3

都へ帰れとの帝

の命令。

※4

私心のない。

※5

神仏がよく承知

している。

※6

明け方。

※7

神仏のお告げが

ある夢。

※8

今頃は大切にし

た梅が花盛りであろう

と京都の屋敷を思い横

になっているうち。

※9

思いのままに一

首詠んだ。

※10

春風が吹く頃に

は、梅の花よ、良い香

りを漂わせておくれ、

主人はいなくとも春の

季節を忘れるな。

※11

ウトウトする。

※12 天の神が童子の

姿で現れて。

※13

人を憐れむ心。

「れんびん」とも。

※14

名誉。

※15

形として現れる。

※16

神仏が霊験をお

示しになる。

※17

お辞儀をしなが

ら。

※18

僧侶。

※19

ここでは安楽寺

のこと。

※20

満足。

※21

僧侶が自分をへり

くだっていう。私こと。

※22

ちょうどあなた

様にお会いしたく。

※23

昨夜。

※24

菅丞相のこと。

 

る御意が出て、私が皺も腰も、アヽ延びやかな

 

春の野面。安楽寺1

へ御参詣は御帰洛の御ご

りゅうがん

立願で

 

ござりませう」

 「いやとよ、我に科なければ仏に苦労かけ奉り、

 

身の上祈る心はなし。讒ざ

んしゃ者

の業としろし召さば※

 

罪なき事も世に顕はれ、帰洛の勅諚※

下るべし。

 

それまでは菅丞相、月にも花にも目は触れず、

 

私なき※

臣が心、帝はしろし召されずとも、天の

 

照覧明らかなり※

。安楽寺へ志すはこの暁※

、不思

 

議の霊夢※

。菅丞相が愛樹の梅、今如月の花盛り、

 

都の住居思ひ寝の8

、枕の硯引寄せて、筆に任せ

 

て書くばかり※

。『東こ

ち風吹かば匂ひおこせよ梅の花、

 

主あるじ

なしとて春な忘れそ※※

』と、心を延べて睡ま

どろ

みし※※

 

に。妙た

なる天童※※

我が枕に立たせ給ひ、『汝憐れ

んみん愍

 

心深く、仁義を守る忠臣の功

いさおし、

心なき草木まで

 

情けを受けし主を慕ひ、花物言はねどその験し

るし

 

安楽寺へ詣で見よ』と、示現※※

によつて」

と、宣ふところへ

安楽寺の住僧、杖を便りに老の足、『それぞ』と

見奉りしより、小腰をかゞめ※※

立ち寄れば

丞相鞍く

より下りさせ給ひ

 「住じ

ゆうりよ侶

の歩行はいづくへぞ。我は貴院※※

へ行く折

 

から、これにて対面祝着※※

々々」

 「ハヽア、愚僧儀※※

も他ならず。公の御目に掛か

 

りたく※※

、参る子細余の儀にあらず。夜前※※

不思議

 

の霊夢の告げ、『御慈愛の梅一樹、配所の主※※

に見 ※

1※

※1※

※1※

※18

四段目 天拝山の段 3

Page 105: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

一晩のうちに生

え出た。

※2

木片等に文章を

記し、中央に認印を押

して二つに割ったもの

を、当事者双方が持ち、

後日の証拠としたもの。

※3 (牛から降りて)

徒歩で向われて。

※4

まさに菅丞相御

愛樹の梅。

※5

はっきりとわかる。

※6

香を焚いて、そ

の香りを袖に移す。

※7

腰掛。

※8

敷物。

※9

酒の入った竹筒。

※10

住職。

※11

たどたどしい老

人の動きで。

※12

珍しい。

※13

まことしやかな

嘘。

※14

木に水を一杯与

える人。

※15 生き生きとした。

※16

芽が出た。

※17

「すわえ」。若い

小枝。

※18

すくすくと。

※19

うんざりするほ

ど。

※20

梅干しを作るこ

と。

※21

一斗は十升。一升

は約一・八リットル。

※22

梅の樹の場所の

地代。

※23

収入。

※24

擂り鉢形をした

抹茶茶碗。

※25

立ったまま酒を

飲むのは葬礼の時だけ

なので縁起が悪い。

 

せよ』とある、示現に変はらぬ観音堂の左の方、

 

一夜に生ひ出づる1

不思議さよ」

と、語るも聞くも正夢の、割符※

を合はせし如くなり。

 「これより寺へは程近し」

と、住侶伴ひ御歩か

ちじ路

、安楽寺に入り給へば

『それぞ※

』としるき※

※梅花の薫、袖に留め木※

の心地

せり

 「暫し

ばら

くこれにて御詠な

め」

と、床し

ょうぎ几

直させ褥し

とね

を設け、御菓子小さ

竹筒と住持※※

もてなし

白太夫はこつてこて※※

、梅の土際覗き廻り

 「こりや不思議、こりや希き

たい代

ぢや※※

。申し丞相様、

 

道すがら御住持の夢咄、ヘゝ何をやらるゝやら、

 

そんな事がよう有らふと誠しない※※

事疑ふており

 

ました、ガ来て見てびつくり。この木の技ぶり

 

花の匂ひ、佐太のお下屋敷に預かつておりまし

 

たヲヽそれぢや

その梅でござりまする。

 

アヽ神の告げは争はれぬ。おらがこゝへ来た後

 

では、水一杯呑まし人て

もあるまいに、ぶき

 

した※※

木の色艶、目立の※※

ずあい※※

がつういつひ※※

。花

 

はうざる程※※

付いたれば梅漬け※※

の時分二三斗※※

は確

 

かにならう。四五升は地を借つた年貢代※※

、御寺

 

へも進ぜます、後はこつちの実入り

。今は

 

まず腹の実入り、御馳走酒下さりましよ。アヽ

 

コヽヽこれお酌、白太夫が盃はいつでもこの天

 

目※※

、立ち酒は気にかゝる※※

※※

※※

※8

※※

※1※

※※※

四段目 天拝山の段 4

Page 106: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

しゃがみ。

※2

実直な者。義理

堅い者。

※3

楽しまれて。

※4

門を閉めろ。

※5

言う間もなく。

※6

菅丞相を警護し

て。

※7

喧嘩はいつ起こ

るか予測がつかない。

※8

決着。

※9

出ていけ。

※10

白太夫の三つ子

のひとり梅王丸。

※11

危ないな。

※12斬られるな。

※13

身体をとんぼ返

りさせられて。

※14

膝下に組み敷く。

※15

原因。

※16

筑紫へ来た理由。

※17

お変わりない菅

丞相様のお姿。

と、床几の傍にちよつ蹲

つくば

ひ1

、口も心もありのまゝ

見へた通りの律義者※

花の詠な

めに一ひ

としお入

の、興を催し※

、をはする所に

 「ソリヤ喧嘩よアリヤ抜いた、斬り合ふてソリヤ

来るは、寺内へ入れな、門打て※

と、言ふ間あらせず※

※踏込み

、打ち合ひ戦ふ侍

二人

寺僧は驚き

白太夫、御座を囲ふて※

 「アヽコレ

、見れば双方旅装束、喧嘩は振り

 

物※

とあつてから、こゝで仕舞ひ8

は付けさせぬ。

 

出やれ※

、出やれ」

と、言ふをも

聞かず斬り合ふ一人は我が子の梅う

めおう王

 「コリヤマアそちは何として、ハアひあいな※※

 

られな※※

と、気を揉み焦る親心

声の助太刀相手の刀、梅王に打ち落され、逃ぐるを

すかさず飛びかゝり、片手掴みにもんどり打たせ※※

膝に固めし※※

健気の振舞ひ

 「ヤレ

出かした手柄々々、ヤレ手柄。手柄は

 

したが喧嘩の次第※※

、次には其そ

ち方が下つた様子※※

、都

 

の事を案じてござます。幸ひこれに丞相様、様

 

子一々申し上げい」

 「ハツ、ハヽア、恐れながら梅王が念願達し、変

 

らせ給はぬ御尊体※※

、見奉るは生涯の本望。都に

※10

四段目 天拝山の段 5

Page 107: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

御台所と若君菅

秀才。

※2

御台所は、自分

のことはそのままにさ

れ。

※3

手配。

※4

天候に恵まれて。

※5

日数もかからず。

※6

「筑」紫行きの船

と「着く」の掛詞。

※7

鎌をかけて。

※8

お前の口から軽

率にも死を急ぐような

ことを言う。

※9

いらっしゃる。

※10

大胆でものに恐

れない者。人を人とも

思わない者。

※11

捕り縄をかけて。

※12

柱に後ろ手に縛

り上げ。

※13

私に忠義を示し

たのは感情を持つ人間

の梅王丸。

※14 神仏が霊験を示

し飛んで来たのは感情

を持たない花の梅の

樹。

※15

私の大切な三本

の樹よ。私のために梅

(王丸)はこの地に飛

んで来て、桜(丸)は

枯れてしまった。どう

して世間は松(王丸)

を薄情だというのか。

絶対そんなことはな

い。

※16

「飛び梅」伝説と

いわれる。

 

御座あるお二人様1

、世を忍ぶ御身なれば、一つ

 

所には置きまされず、若君様は武た

けべげんぞう

部源蔵に預け

 

置き、私が妻桜さ

くらまる丸

が女房、八や

え重と春は

とは御み

だい台

 

の御介抱。御身の上は差置かれ※

『配所の様子見

 

て参れ』と、仰せに幸ひ出船の手て

つが番

ひ※

、天運に

 

叶ひ日和まん※

、千里ひと跳ね日数も込めず※

、夜

 

前この地へ筑紫船※

、乗り合ひの中に時平が家来

 

鷲わし

塚づか

平へい

馬ま

。この梅王を見知らぬ馬鹿者、ふづく

 

りかけて※

様子を問へば、『菅丞相を殺しに来た』

 

とおのれが口から最期を急ぐ8

。寺にござる※

をよ

 

う知つて直ぐに仕掛ける不敵者※※

、梅王が御土産」

と、早縄掛けて※※

ぐつと締め上げ、縁え

んばしら柱

に猿繋つ

ぎ、

心地よくこそ見へにける

丞相御悦喜浅からず

 「恋しき都の様子を知らす、忠義の花は有情の

 

梅王※※

。示現によつて飛来たる花は非情のこの梅

 

の木※※

、有情非情も隔てなく菅丞相を慕ひ来る、

 

梅に褒美」

の御言の葉

 「『梅は飛び桜は枯るゝ世の中に、何とて松のつ

 

れなかるらん※※

』。つれなかるらん松王は時平が舎と

 

人ねり

、枯れし桜は宮の舎人、梅王は我が舎人、花

 

の栄へは安楽寺」

その名も高き飛び梅※※

の、不思議は今に隠れなし

 「ヤイ梅王、ありがたい今の御歌。この梅に准

なぞら

 

へその方をお誉め遊ばし、『桜は枯るゝ世の中』

※1※

四段目 天拝山の段 6

Page 108: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

こびへつらう。

付き従う。

※2

ここでは松王丸

のこと。

※3

殺すの意味。「引

導」は死者が成仏でき

るよう、僧侶がお経を

唱えること。

※4

古臭い。古めかし

い。

※5

新しい方法。

※6

天皇の位。

※7

殺して。

※8

天下を手中に収

める。

※9

ぬか喜び。

※10

謀反。

※11

眼は怒りで血

走って。

※12

狂ったように。

※13

胸などの激痛。

 

とは死んだ倅を御悔み。『つれなかるらん』とあ

 

る松王めは、時平に追従1

しておろな」

 「ホヽ親人の推量違はず、兄弟といふも穢け

らは

 

しい。畜生め※

は差置いてさす敵はこの鷲塚。サ

 

ア時平が工た

み白状せい、いやと言へば刀の引導※

 

どうぢや

と、立かゝる

 「アヽコレ聊り

ょうじ爾

あるな。主従の義を立て抜く、命

 

に替へて言はぬは古風※

、言はして置いて殺すも

 

古風、新らしう※

助かる様に残らず申す。時平殿

 

は王位※

の望み、邪魔になる菅丞相首取つて立帰

 

れ、軍陣の血祭して大望の旗を挙げ、天皇、親

 

王、院の御所、片端仕舞ふて※

天下をひと呑み。身

 

共も公家になる楽しみ、空悦び※

の裏が来て、恥

 

を晒さ

す縛り縄コレ。早ふ解ほ

いて下さりませ」

と、時平が叛

ほんぎやく逆

一々残らず、聞こし召されし菅丞

相、柔和の形相忽た

ちまち

変り、御眼尻に血を注ぎ※※

、眉

毛逆立ち、御憤り、都の方を睨み付け、物狂はし

く※※

立ち給へり

白太夫びつくりし

 「知れてある時平が工み、今聞いたか何ぞの様

 

に、ついぞ覚へぬ怖いお顔、こゝから睨ましや

 

ましても都へは届きませぬ。御持病の痞が発お

 

ば、チエヽ悲しうござります」

と、老のくど

物案じ

 「やおれ梅王、白太夫。時平の大お

とど臣

が謀叛の企

※8

※10

※1※

つかえ

四段目 天拝山の段 7

Page 109: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

お気付きにならな

い天皇の身の上が危

い。

※2

帰ることもでき

ず死んでしまう。

※3

無実の罪を受け

ても。

※4

死んだ後なら遠

慮は無用だ。

※5

身体は滅んでも

魂は都へ戻り。

※6

ボッキリと。

※7

よこしまな奴ら。

※8

菅丞相が振り下

ろした木の枝で平馬の

首は飛んだ。

※9

腕前。

※10

天皇にお知らせ

しろ。

※11

頂上。

※12

立ちっぱなしの

苦行。

※13

水を浴びたり険

しい山を登り降りする

荒々しい修行。

※14 大梵天王。

※15

帝釈天。

※16

閻魔大王。

※17

菅丞相の霊魂。

※18

かみなり。

※19

一族。仲間。

※20

さあ行けや。

※21

屋根瓦。

※22

寺院の台所。

※23

寺の住職がいる

所。

※24

蔀は格子組の裏

に板を張った戸。遣戸

は引き戸。

※25

地面の砂。

※26

寿命が尽きてい

ない命を捨てて。

※27

誓を立てること。

 

て、聞き捨てられぬ御大事、赦免なければ帰洛

 

も叶はず、王位を望む朝敵と、しろし召されぬ

 

玉ぎよくたい体

危し1

。臣が忠義徒い

たづらに

この所に朽ち果つる※

 

骸からだ

は虚名蒙こ

うむる

とも※

、死したる後は憚は

ばか

りなし※

。霊

 

魂帝都に立帰り※

帝を守護し奉らん。天に誓ひの

 

我が願ひ、験は目の前」

白梅のずあいぼつきと※

※、折り取り給ひ

 「朝敵一味の佞ね

いじん人

ばら※

、退治の手始めこれ見よ」

と、枝にて丁ど打ち給へば、平馬が首は飛と

びうめ梅

の8

ずあいも花の乱れ焼き、誠の剣つ

るぎ

も及びなき、梅の

名作御手の内※

親子は恐るゝばかりなり。

 「ヤア汝ら。かゝる大事を聞くからは片へ

んし時

も早く

 

都に上ぼり、時平が工み奏聞せよ※※

。我は、見上

 

ぐるこの高山絶頂※※

に三さ

んじつ日

三夜、立ち行※※

荒行根気

 

を砕き、梵天、帝釈、閻羅王、三天王に誓ひを

 

立て、魂魄※※

雲井に鳴る雷

いかずち。

十六万八千の首領と

 

なつて眷け

んぞく属

引連れ都に上ぼり、謀叛の奴ばら引

 

裂き捨てん。現世の対面これまでなり、いそふ

 

れやつ※※

と、御声も、共に烈は

しき疾は

やちかぜ風

、吹き立て

本堂

の、甍

いらか

破れて庫裏方丈、蔀

しとみ

遣やりど戸

は木の葉の如く、

庭の立ち木も飛梅も、花も砂い

さご

も吹しきる

親子も住持も大きに驚き

 「期ご

も来らざる御身を捨て※※

、天帝へ祈誓※※

あり。

 

御本意は達するとも、御台、姫君、若君の御嘆

※1※

※1※

※1※

※1※

※※※

※18

※1※

※※1

※※※

※※※

くり

※※※

ぼんてん

たいしやく

えんら

四段目 天拝山の段 8

Page 110: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

お嘆きは計り知

れない。

※2

左側。

※3

右側。

※4

強く。

※5

止めないでくだ

さい。

※6

かみなり。

※7

口に入れ。

※8

白い梅の花びら

は真っ赤な炎に変わっ

て。

※9

空高く飛んで

いってしまった。

※10

この後は何とも

不思議で恐ろしい。

 

きはいかばかり1

。留まり給へ」

と、御袖に、取り付く梅王白太夫、弓手※

馬め

て手へ刎は

ね飛ばし

 「住僧いたくな留め給ひそ。早や天帝の恵みに

 

よつて、形はこのまゝ鳴神※

の、不思議を見せん」

と、散り残る、梅花を取つて口に含み※

、天に向か

つて白梅花、渦巻く花びら火か

えん焔

となつて8

、雲井遥

かに行末は

怪し、恐ろし※※

※※

※※

※※

※※

四段目 天拝山の段 9

Page 111: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

京都市右京区の

地名。

※2

寝ているところ

を起こされる。

※3

門付け(門口で

寄付を求める)修験

者。

※4

田舎。在所。

※5

山里。

※6

奈良時代の修験

道の祖。

※7

「御器」食べ物を

入れる食器。役の行者

に従った鬼の「後鬼前

鬼」と修験者が携帯す

る「御器膳器」の掛詞。

※8

食べるための修

行。

※9

山伏殿。法螺貝を

吹かないで下さい。

※10

主人。

※11

気分がすぐれず。

※12

お眠りに。

※13

まだ続けるのか。

※14 「無法だ」無礼だ。

※15 キョロキョロと。

※16

当てがはずれる

でしょう。

※17

出ていけ。行っ

てしまえ。

※18

叱りとばされ。

※19

来やがって。

※20

胸などの激痛。

※21

そのことですが。

※22

全身。

※23

「山伏づらめ」と

罵る。

※24

金や米などの心

付けもやらなかった。

四段目

北き

嵯峨の段

 

夢破る※

※門か

山伏※

が螺ほ

の貝吹き立て  

北嵯峨の在※

も山家※

も抜目なく、役え

の行ぎ

ょうじゃ者

の跡を追ひ朝夕して

やる五器膳器※

、五器の実み

修行※

と知られたり

 「アヽやかまし、御ご

ぼう奉

礼らい

殿どの

貝吹いて下さんな※

 

頼ふだ方※※

のお気結ぼれ※※

夜はろくに御ぎ

ょし寝

ならず、

 

今とろ 

とお睡

まどろみ、

アレまだいの※※

断り言ふても

 

聞き入れぬ、無む

ほう法

礼らい

殿どの

止めやらぬか、そしてか

 

ら不遠慮な、笠も脱がずに内へ入り、うそ 

と※※

 

何見やる、女お

なご子

ばかりと思やつたら当ての槌つ

 

違ひましょ※※

、サア出やらぬか、去い

にやらぬか※※

※」

と、呵し

りこかされ※※

御奉礼、門へは出れど目は跡に

心残して立帰る

 「エヽ鈍ど

な奴がうせおつて※※

御機嫌はいかゞぞ」

と障子のこなたに手をつかへ

 「思ひがけない螺の貝、お目も覚ふ、お痞つ

かえ

はの

 

ぼらぬか、八や

え重様いかゞ」

と尋ぬれば

 「サレバイナ※※

いつにない御み

だい台

様すや 

と寝入りば

 

な貝に驚きなされたか惣身※※

に冷汗、思へば憎い

 

山ぶづら※※

 「サアわしも腹が立つて、入れる手の内もやら

 

なんだ※※

と二人が咄は

なし

に御み

だいどころ

台所 ※

1

※6

※※0

※1※

※1※

四段目 北嵯峨の段 1

Page 112: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

原因。

※2

聞いて下さい。

※3

大切にしている

物。

※4

歌を詠まれた。

※5

尋常ではないほ

どの。大変な。

※6

雷神。

※7

夢とはとても思

えない。

※8

現実となる夢が

正夢に対し、反対の事

がおきるのは逆夢。

※9

良い事が起きる

予兆。

※10

探しに来た藤原

時平の一味。

※11

延暦寺の座主。

法性坊尊意和尚。醍醐

天皇と親しかった。「阿

闍梨」は高僧の位。

 「イヤナウ山伏の業1

ではない、恐ろしい夢を見

 

て、動悸が今に納まらぬ、其の夢の物語、春は

 

八重も聞いてたも※

。所は宰府安楽寺、連れ合ひ

 

の御秘蔵※

※が筑紫へ飛梅、梅う

めおうまる

王丸も一時に下り合

 

せた御悦び『梅は飛び桜は枯るゝ世の中に何と

 

て松のつれなかるらん』と即座の御詠歌※

、一字

 

も忘れず覚えしは、物の知らせの正夢か、まだ

 

其の上に時し

へい平

の家来、丞

しょうじょう相

様を殺す工

たくらみみ

、事顕あ

 

はれて都の様子、王位を奪ふ敵の企て白状する

 

をお聞きなされ、以ての外な※

お腹立ち、赦免な

 

ければ帰洛も叶はず。危

あやういい

は天皇のお身の上。

 

帝たいしゃくてん

釈天へ祈き

せい誓

をかけ鳴な

雷いかづちの

神6

と成つて、時平

 

に組せし同類ども、蹴殺し捨てんと御憤り、その

 

すさましさ恐ろしさ、夢とはさらに思はれず」

と語り給へば二人の女房

 「お案じなさるはご尤

もっとも、

さりながら逆夢※

と申し

 

ますれば返ってめでたい御ご

吉左右、なふ春様そ

 

ふでないか」

 「成程そふじや、追つ付け御帰洛なされませう。

 

したが今来た山ぶづら編笠で顔も見せず、物も

 

言はず。うそ

覗いて去い

におつたがいかにし

 

ても気にかゝる、夫梅う

めおう王

殿の指図にて此の嵯峨

 

に人知れず、御台様の御ざりまするを嗅ぎ出し

 

に来た敵の犬※※

、白し

らたゆう

太夫様、梅王殿も筑紫へ下つ

 

て我々ばかり、もふ爰こ

にも置かれませぬ、幸ひ

 

このごろ承はれば、法ほ

っしょうぼう

性坊の阿あ

闍梨様※※

、下嵯

※※

※※

四段目 北嵯峨の段 2

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※1

引っ越ししたい。

※2

お手間をかける

が。

※3

頼りがいのある

様子。

※4

大層。ことのほか。

※5

外出の時などに

着物の裾を引き上げて

締めるしごき帯をす

る。

※6

勢いよく。

※7

手下。配下。

※8

家の柱と柱を繋

ぐ障子や襖の上の水平

な木材。槍や薙刀を懸

けておく場所。

※9

乱暴な振る舞い。

※10

思い知らせてや

る。

※11

邪魔立てするな

ら。

※12

命令。

※13

刀や槍の穂先を

チガヤの白い穂に例え

る。ここでは小者たち

と応戦して剣先が光る

有り様。

※14

私はもう駄目で

す。

 

峨へ来てじやげな、丞相様とは師弟の約束、右

 

の様子を申し上げ御台様の御事をお願ひ申して

 

今日中に、早ふ所が替へましたい1

、わしや一走

 

りいて来やんしよ、八重様よろづに心を付け油

 

断して下さんすな」

 「ヲヽ春様のよう気が付いた、大儀ながら※

いて

 

下さんせ、跡は気遣ひさしやんすな」

と男勝りの甲斐々しさ※

、御台もことなう※

御悦び

 「コレ春、僧正様に逢やつたら夢の事もお話申

 

し善悪の訳聞いてたも」

 「アイ

何もかも心得ておりまする、兎角は

 

緩ゆる

りとして居られぬ」

と抱か

へする※

やら笠取るやら

 「追付け吉左右お知らせ」

と、こつ

して6

こそ急ぎ行く

程もあらせず時平が家来星ほ

しざかげんご

坂源五

 「あれこそ丞相の御台よ」

と手の者※

連れて駈け入るを、手早く八重は長な

げし押

長なぎなた刀

、御台を『奥へ』と目で知らせ

 「何者なれば踏み込んで狼ろ

うぜき藉

、目に物見せん※※

と振廻す

 「ヤア小ざかしい女め、時平公の仰せを受け御

 

台を迎ひに来つたり、邪魔ひろがば※※

討ち取れ」

と、下知※※

に随ひ茅つ

花ばな

の穂先※※

、切り立て

追ひ

まくれど、多勢に無勢数ヶ所の疵き

、長刀杖に立帰り

 「ナウ御台様、もふ叶はぬ※※

、早ふ退いて下さり ※

※※

四段目 北嵯峨の段 3

Page 114: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

取り乱して。

※2

謎の山伏が何者

かは後で判明する。

※3

さあ、その奥方

を僧侶の食事にあてる

金銭(として受け取ろ

う)。

※4

死んでしまえ。

※5

かまわずに。

 

ませ、春様はまだ帰らずか、エヽ口惜しい  

 

無念々々」

と言ひ死に、はかなき八重が最期の有様、御台は

前後も弁わ

きま

へず1

死骸に取付き御歎き、星坂すかさず

走り寄り引立て行かんとせしところに、以前の山

伏※

のつさ 

と顕あ

らわ

れ出で

 「イデ其の御台を斎と

きりょう料

と飛かゝつて源五が首筋掴んで目より高く差し上

げ 「冥土の旅へうせおれ※

と泥田の中へづでんどう、直ぐに御台を引抱か

へ、石原砂道嫌ひなく※

飛ぶが如くに

※※

四段目 北嵯峨の段 4

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※1

一字は千金のお金

に値する。中国の『史

記』に咸陽(かんよう)

の門に漢字を一字書く

者に千金を与えた故事

から。

※2

この世のすべて

の。「千金」「二千」「三千」

世界と縁語を並べる。

※3

武部源蔵と戸浪

夫婦は菅秀才を大切に

養育し表向きは自分た

ちの子だと振る舞って

いる。

※4

京都の辺鄙な芹

生の山里。

※5

引っ越してきた。

※6

寺子屋を開いて。

※7

字を書かずに落

書きをする子は師匠に

叱られて頭をかく。

※8

年長。

※9

へのへのもへじ。

※10

涎を垂らすので

「よだれくり」とあだ名

がついた。

※11

当時寺子屋で用

いられた教材『童子訓

(どうじくん)』にある。

※12

ませた事を言う

奴だ。

※13

ふざけかかる。

※14

失礼な事を言う。

※15

ひどい目にあわ

せよう。

※16

文鎮(ぶんちん)。

※17

自然と菅秀才を

庇うのも菅丞相を父に

持つ徳であろうか。

四段目

寺てら

入い

りの段

 

一字千金※

※二千金、三千世界※

の宝ぞと、教へる人

に習ふ子の中に交はる菅か

んしゅうさい

秀才、武た

けべげんぞう

部源蔵夫婦の

者、労い

たわ

り傅か

しず

き我が子ぞと、人目に見せて※

片かたやまが

山家、

芹せりよう生

の里※

へ所替へ※

。子ども集めて読書きの※

器用不

器用清き

よがき書

を、顔に書く子と手に書く子人形書く子

は頭かく※

、教へる人は取り分けて世話をかくとぞ

見えにける

中に年と

しかさ嵩

五ごさく作

が息子

 「コレ皆これ見や。お師匠さんの留守の間に、手

 

習ひするは大きな損。おりや坊主頭※

の清書し

 

た」

と、見せるは十五のよだれくり※※

若君はおとなしく

 「一日に一字学べば三百六十字※※

との教へ。そん

 

な事書かずとも本の清書したがよい」

八つになる子に叱られて

 「エヽませよ※※

と指差して、誂ち

ょうげ戯

かゝる※※

残りの子ども

 「兄弟子に口過ごす※※

よだれくりめを歪い

めてやろ※※

と、手ん手に卦け

さん算

振り廻ま

す、自然天然肩持つも、

伝はる筆の威徳かや※※

主の女房奥より立出で

※※※

※8

四段目 寺入りの段 1

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※1

喧嘩。

※2

困ったものだ。

※3

お呼ばれ。

※4

お前たちのせい

で、少しの時間も待ち

遠しい。

※5

特別に。

※6

新しい入門者。

※7

休ませる。

※8

寺子屋で最初に

習う文字。

※9

礼状の決まり文

句。

※10

手紙の書き出し。

※11

身分の低い使用

人などの名前に「可内

(べくない)」・「可助(べ

くすけ)」が多いので

「べくの男」と「候べ

く」の掛詞。

※12

大阪府堺市名産

の重箱。

※13

書物を入れる箱。

※14

頭の良さそうな。

※15 御免くださいま

せ。

※16

「アイ」という返

事と「愛」との掛詞。

人当たりの良い。

※17

身分の低い者が

慎ましく。

※18

利かん気の子。

※19

よこしましたら。

※20

ここへ通わせな

さい。

※21

いらっしゃると

伺いましたが。

※22

跡継ぎ。

 「またこりや例の諍

いさか

ひ※

か、おとましや※

  

今日

 

に限つて連れ合ひの源蔵殿、振舞※

に行てなれば

 

戻りも知れぬ。ほんに 

こなた衆で一時の間も

 

待ち兼ねる※

。今日は取り分け※

寺入り※

もある筈は

 

昼からは休ます※

程に皆精出して、習ふた 

 「ソリヤまた嬉しや休みぢや」

と、筆より先に読み声高く

 「いろはに8

 「この中は御人下され※

 「一筆啓上※※

、候べく」

の男※※

が肩に堺重※※

、文庫机※※

を担はせて、利発らしき※※

女房の七つばかりな子を連れて

 「頼みませう※※

と言ひ入るゝ

内にもそれとはや悟り

 「こちへお入りあそばせ」

と、言ふもしとやか

『アイ

』と、愛に愛持つ※※

女子同士、来た女房

はなほ笑顔

 「私ことは、この村はづれに軽う※※

暮してをる者

 

でござりまする。この腕白者※※

をお世話なされて

 

下さりよかと、お尋ね申しにおこしましたれば※※

 『おこせ※※

、世話してやろ』と結構なお詞こ

とば

に甘へ、

 

早速連れて参じました。内方にもご子息様がご

 

ざりますげなが※※

、どのお子でござりますぞ」

 「アイこれが源蔵殿の跡取り※※

でござります」

四段目 寺入りの段 2

Page 117: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

たいへんなお世

話で。

※2

品の良さそうな。

※3

間の悪いことに。

※4

そちらがお急ぎ

ならば。

※5

ハイ。

※6

檜や杉の木を薄

く切って作った、物を

包んだりするもの。

※7

それには及びま

せん。ここではお気遣

い下さって有難うござ

いますの意。

※8

「はもじ」恥ずか

しながらの女房言葉。

※9

銘々に取り分け

てやって披露して下さ

い。

※10

それとは言わな

いが分かる。

※11

赤飯などの蒸し

物。

※12

野菜をだし醤油

で煮しめた煮物。

※13 小さい椎茸の煮

物。

※14

手塩にかけた子

どもだとわかる。

※15

ご丁寧に有難う

ございます。

※16

「ほんの気持ちで

す」と謙遜する。

 「これは  

よいお子様や。他にも大勢の子達、

 

いかいお世話で※

ござりましよ」

 「アイご推量なされて下さりませ。して寺入り

 

は、このお子でござりますか、名は何と申しま

 

す」

 「アイ小こ

太郎と申しまして、腕白者でござりま

 

す」

 「イヤ

気高い※

よいお子や。折悪う※

今日は連

 

れ合ひ源蔵も振舞に参られました」

 「これはマアお留守かいな」

 「イヤお待ち遠なら※

、私が呼びに参りましよ」

 「イエ

幸ひ私も参つて来る所があれば、その

 

内にはお帰りでござりませう。コレ三助、その

 

持つて来た物、あなたの傍へ上げませ」

『アツ※

』と答へて堺重、榧へ

に乗せたる一包み、内

儀の傍へ差出だす

 「これはマア

言はれぬことを※

 「イヤおはもじ8

ながらこの子が参つた印。この

 

堺重は子達への土産、取り弘めて※

下さりませ」

と、言はねど知れし※※

蒸物※※

煮しめ※※

、我が子に世話を

焼豆腐、粒椎茸※※

の入れたるは、奔ほ

んそうご

走子とこそ見へ

にけれ※※

 「これはマア何から何まで取り揃へてご念の入

 

つた事※※

。戻られたら見せませう」

 「イヤモほんの心ばかり※※

。よろしうお頼み申し

 

上げます。コレ小太郎、ちよつと隣村まで行て

※※

四段目 寺入りの段 3

Page 118: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

悪ふざけしない

ように。

※2

奥方。

※3

聞き分けがござ

いません。

※4

すぐに戻って。

※5

目で合図を送る

と。

※6

一緒に行くとせが

む子どもに心が残った

のか。

※7

後を振り返って。

 

来る程に、おとなしうして待つてゐや。悪あが

 

きせまいぞ※

。ご内証※

様、行て参じましよ」

と表へ出づれば

 「かゝ様、わしも行きたい」

と縋す

り付くを

振り放し

 「嗜た

しな

めよ。大きな形な

して跡追ふのか。ご覧じま

 

せ、まだ頑が

んぜ是

がござりませぬ※

 「ソリヤ道理いな。ドリヤ小お

ば母がよい物やりま

 

しよ。つゐ戻つて※

やらんせ」

と目で知らすれば※

 「アイ

ついちよつと一走り」

と、跡追ふ子にも引かさる

※ゝ

、振り返り見返りて、

下しもべ部

※※

四段目 寺入りの段 4

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※1

仲良くさせよう。

※2

気持ちを紛らわ

す。

※3

いつもと違って

顔は青ざめ。

※4

機嫌が悪く。不

機嫌そうに。

※5

ことわざ「氏よ

り育ち」。氏素性の良

さより育った環境が大

事。

※6

賑やかな都市。

繁華街。

※7

田舎で育った者。

※8

面倒を見た甲斐

がない。

※9

何か理由があり

そうに。

※10

気が気ではなく。

※11

酔った勢いで口

がすべった。

※12

憎まれ口。悪口。

※13

外聞が悪い。

※14

口の悪い人。意

地悪い人。

※15 心苦しい。

※16

考え込んでいる。

※17

今日からよろし

くご指導ください。

※18

顔を上げて。

※19

じっと見詰めて。

※20

じっと小太郎の

顔を見つめていたが。

※21

顔色が穏やかに

なり。

※22

顔立ちの優れた。

※23

上品そうな様子。

四段目

寺子屋の段

 

引連れ急ぎ行く

 「どりや、こちの子と近付きに※

と若君の傍へ寄せ、機嫌紛らす※

折からに

立帰る主の源げ

んぞう蔵

、常に変りて色蒼ざめ※

、内入り悪

く※

子どもを見廻し

 「エヽ氏より育ち※

といふに、繁華の地※

と違ひ、い

 

づれを見ても山家育ち※

。世話甲が

い斐もなき※

、役に

 

立たず」

と、思ひありげに※

見へければ

心ならず※※

女房立寄り

 「何い

つ時にない顔色も悪し。振る舞の酒さ

機嫌※※

かは

 

知らぬが、山家育ちは知れてある子ども、憎に

くて体

 

口※※

は聞こえも悪い※※

。殊に今日は約束の子が寺入

 

り、母御が連れて見へました。悪さ

がな

い人※※

と思ふも

 

気の毒※※

、機嫌直して逢ふてやつて下され」

と、小こ

太郎連れて引き合はせど

差うつむ俯

いて思案の体※※

幼いたいけ気

に手をつかへ

 「お師匠様、今から頼み上げます※※

と、言ふに思はずふりあをのき※※

、きつと見るより※※

暫くは、打守り居たりし※※

が。忽

たちまちち

面色和らぎ※※

 「テさて器量勝す

れて※※

、気高い生まれつき※※

。公家

 

高家のご子息といふても恐らく恥ずかしからず。

四段目 寺子屋の段 1

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※1

上等。

※2

母親。

※3

最上である。

※4

休み時間ですよ。

※5

誘い合って奥へ

行かせ。

※6

辺りを警戒して。

※7

顔つき。顔いろ。

※8

どうしたのかな

と。

※9

なおさら納得が

いかない。

※10

気掛かりです。

※11

騙して。

※12

村の代表。むら

おさの家。

※13

もうひとりは。

※14

病気なのにも拘

らず。

※15

立ち合って検査

する役。

※16

菅秀才の首を

討って差し出すか出さ

ないか。

※17 さもなくば。

※18 無理に家へ押し

入り。

※19

首を受け取ろう

か。

※20

進退きわまる。

※21

追い詰められ。

 

テさてそなたは、マヽよい子ぢやなう」

と機嫌直れば

女房も

 「何とよい子、よい弟子でござんしよがナ」

 「よいとも 

上々吉※

。シテその連れて来たお

 

袋※

はいづくに」

 「サアお前の留守ならその間に、隣村まで行て

 

来と言ふて」

 「ムヽそれもよし 

大極上※

※。まづ子供と奥へ

 

やり機嫌よう遊ばし召され」

 「それ皆お隙ひ

が出た※

、小太郎共に奥へ 

と、若君諸共誘い

ざなは

せ※

、後先見廻し※

夫に向かひ

 「最前の顔色は常ならぬ気き

つそう相

。合点のゆかぬと※

※思

 

ふた処に、今またあの子を見て打つて変へての

 

機嫌顔。なほもつて合点ゆかず※

、どうやら様子

 

がありさうな、気遣ひな聞かして」

と問へば

源蔵

 「ホヽ気遣ひな筈。今日村の饗も

てなし応

と偽り※※

某それがしを

 

屋の方※※

へ呼び付け、時し

へい平

が家来春し

ゅんどうげんば

藤玄蕃、今一

 

人※※

は菅

かんしょうじょう

丞相のご恩を着ながら時平に従ふ松ま

つおうまる

王丸。

 

ヤこいつ、病や

みほう耄

けながら※※

検分の役※※

と見へ、数百

 

人にて追つ取り巻き『汝が方に菅丞相の一子菅か

 

秀しゅうさい才

、我が子として匿か

くま

ふ由訴人あつて明白。急

 

ぎ首討つて出だすや否や※※

、但し※※

踏ん込み受け取

 

らう※※

や、返答いかに』と退つ引きならぬ※※

手詰め。

※※0

※※

※※※

※※※

四段目 寺子屋の段 2

Page 121: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

仕方なく。

※2

引き受けた。

※3

実のところは。

※4

高貴な身分の人

の子ども。

※5

貧しい家の子ど

も。

※6

菅秀才の命運は

尽きてしまったのか。

※7

可哀想だ。あん

まりだ。

※8

家畜が屠殺場へ

連れられる足取り。

すっかり気落ちして。

※9

天の神のご加護。

※10

詭弁を弄してと

も。

※11

ここでは大阪府の

東部。苅屋姫(かりや

ひめ)が預けられた生

家の道明寺の意。

※12

お待ちください。

※13

顔の様子。

※14

顔付き。

※15 贋者とばれたな

ら。

※16

死出の旅に御供

しよう。

※17

覚悟を決めた。

※18

難題。

※19

これだけがどう

にもならない。

※20

心配は御無用で

す。

※21

口先で丸め込み。

※22

そんな簡単な事

では済まないだろう。

※23

母も斬ってしま

おう。

 

是非に及ばず※

『首討つて渡さう』と請け合ふた※

※ 

心は※

、数あ

また多

ある寺子の内いづれなりとも身代は

 

りと思ふて帰る道すがら、あれかこれかと指折

 

つても玉た

まだれ簾

の内のご誕生※

と薦こ

もだれ垂

の中で育つた※

 

は似ても似付かず。ハア所詮ご運の末なるか※

 

しや浅ましや※

と、屠と

しよ所

の歩み※

で帰りしが、天道

 

のひかへ※

強きにや。あの寺入りの子を見れば満

 

更烏か

らすを

鷺さぎ

とも※※

いはれぬ器量。一旦身代はりで欺

 

きこの場さへ遁れたらば、すぐに河内※※

へお供す

 

る思案。今暫し

ばらく

が大事の場所」

と、語れば

女房

 「待たんせや※※

。その松王といふ奴は、三つ子の

 

うちの悪者。若君の顔はよう見知つてゐるぞへ」

 「サそこが一かばちか。生き顔と死に顔は相好※※

 

の変るもの。面差し※※

似たる小太郎が首、よもや

 

贋とは思ふまじ。よしまたそれと顕あ

らわ

はれたらば※※

 

松王めを真つ二つ。残る奴ばら斬つて捨て、叶

 

はぬ時は若君諸共、死出三途の御供※※

と胸を据ゑ

 

た※※

、が一つの難儀※※

。今にも小太郎が母親、迎ひ

 

に来たらば何とせん。この儀に当惑※※

さし当たつ

 

たはこの難儀」

 「イヤその事は気遣ひあるな※※

。女子同士の口先

 

でちよつぽくさ※※

欺だま

してみよ」

 「イヤその手ではゆくまい※※

。大事は小事より顕

 

はるゝ。ことによつたら母諸共※※

いたわ

四段目 寺子屋の段 3

Page 122: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

迷いを振り切り。

※2

失敗するかもし

れない。

※3

鬼のような気持

ちになって。

※4

よりによって今

日のこの日に。

※5

あの子の運命な

のか。

※6

母親の不運か。

※7

弟子を殺すとい

う悪事を犯せば地獄に

落ちるという報いは。

※8

必ず我らに襲い

かかるだろう。

※9

仕官や奉公はす

るべきではない。

※10

松王丸は病中な

ので駕籠に乗ってやっ

て来た。

※11

一行の後に付い

て。

 「ヒエヽ」

 「コリヤ若君には替へられぬ。お主のためを弁

わきま

 

へよ」

と、言ふに

胸据ゑ※

 「オヽさうでござんす。気弱ふては仕損ぜん※

『鬼になつて※

』と夫婦は突つ立ち、互ひに顔を見

合はせて

 「弟子子といへば我が子も同然」

 「サア今日に限つて※

寺入りしたはあの子が業か※

 

母御の因果か※

 「報ひはこちが火の車※

 「追つ付け廻つて来ませう※

と妻が嘆けば

夫も目をすり

『せまじきものは宮仕へ※

』と、共に涙に暮れゐたる

かゝる処へ春藤玄蕃

首見る役は松王丸、病苦を助くる駕か

ご籠乗物※※

、門口

に舁か

き据ゆれば

後には大勢村の者、付き従ふて※※

 「ハイ」

 「ハイ」

 「ハイ 

 

 「申し上げます。皆これに居る者の子どもが、手

 

習ひに参つてをります。もし取り違へ首討たれ

 

ては、ヤモ取り返しがなりませぬ」

四段目 寺子屋の段 4

Page 123: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

うじ虫に見たて

人を卑しめた罵倒語。

※2

「お前たち」を

罵った言い方。

※3

「子ども」を罵っ

た言い方。

※4

とっとと連れ帰

れ。

※5

病気なので弱っ

ており、腰に差す刀を

杖にして身体を支え。

※6

恐れながら。

※7

病気の私がわざ

わざ来たのは他に菅秀

才の顔を知る者がいな

いからです。

※8

今日の役目をや

り遂げたら、病身の私

がかねてからご奉公を

やめたいとの願いを時

平公がゆるしてくださ

るので。

※9

いい加減には出

来ません。

※10 親族師弟など関

係する人物。

※11

菅秀才を自分の

子どもに仕立てて逃が

す方法も考えられます。

※12

「鎹(かすがい)」

は一度打ち付けると抜

く事が難しいので進退

きわまること。

※13

「釘鎹」の縁語「打

てば」。

※14

響くと続く。家

の中の源蔵夫婦は外の

様子に一々反応して。

※15

外ではそれとも

「知ら」ないと「白」

髪の掛詞。

※16

雪と墨ぐらい菅

秀才とは似ても似つか

ない子ども。

 「ハイ          

どうぞお戻し下され」

と願へば

玄蕃

 「ヤア姦か

しま

しい蠅虫め※

ら。うぬら※

が餓鬼※

の事まで

 

身どもが知つたことかい。勝手次第に連れ失せう※

と叱り付くれば

松王丸『ヤレお待ちなされ、暫し

ばら

く』と、駕籠より

出づるも刀を杖※

 「憚は

ばか

りながら※

彼等とても油断はならぬ。病中な

 

がら拙者めが検分の役勤むるも、他に菅秀才の

 

顔見知りし者なき故※

。今日の役目仕終すれば病

 

身の願ひ御暇い

とま

下さるべしと有難き御意の趣※

、疎

 

かには、致されず※

。菅丞相の所ゆ

かり縁

の者※※

、この村

 

に置くからは百姓共もぐるになつて銘々が倅に

 

仕立て助けて帰る、サ手もあること※※

。コリヤヤ

 

イ百姓めら、ざは

と吐かさずとも、一い

っちにん人

 

つ呼び出だせ。面つ

改めて戻してくりよ」

と、退つ引きさせぬ釘

くぎかすがい

鎹、打てば

響け※※

と内には夫婦、かねて覚悟も今更に、胸轟か

すばかりなり

表はそれとも白髪の親仁※※

、門口より声高に

 「長ち

よま松

よ 

と呼び出せば

『オツ』と答へて出て来るは、腕白顔に墨べつた

り、似ても似つかぬ雪と墨※※

 「これではない」

※※※

※※※

四段目 寺子屋の段 5

Page 124: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

駆けっこのよう

に飛び出して。

※2

あどけない。

※3

枯れかけた小さ

いナス。

※4

調べる必要もな

い。

※5

嫁にも任せられ

ないこの孫の生命を

救った。

※6

おんぶされて帰

りたい。

※7

長い顔。

※8

きりぎりすのよ

うに細い声。

※9

鮭の干物をねだ

る猫のように猫撫で声

で親は抱えて帰る。

※10

面長な顔。

※11

怪しい。

※12

墨か痣なのか知

らないけれど。

と赦しやる

 「岩い

わま松

はゐぬか」

と呼ぶ声に

 「祖父さん何ぢや」

とはしごくで※

※、出て来る子どもの頑是なき※

、顔は

丸顔木みしり茄な

すび子

 「詮議に及ばぬ※

連れ失せう」

と、睨みつけられ

 「オヽ恐や。嫁にも食はさぬこの孫を、命の花

 

落ち遁れし※

と祖父が抱へて走り行く

次は十五のよだれくり

 「ぼんよ 

と親お

やじ仁

が手招き

 「とゝよ、おりやもこゝから抱かれて去の※

と甘へる顔は馬顔※

で、声きり 

す※

 「オヽ泣くな。抱いてやらう」

と干か

らざけ鮭

を、猫なで親が食はへ行く※

 「私が倅は器量よし。お見違へ下さるな」

と断り言ふて呼び出すは色白々と瓜う

りざね実

顔※※

 「ヤ、こいつ胡う

ろん乱

と引つ捕らへ、見れば首筋真つ黒々、墨か痣あ

かは

知らねども※※

 「こいつでない」

と突き放す

その他、山家奥在所の子ども残らず呼び出して、

※※※

※※

四段目 寺子屋の段 6

Page 125: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

土から生まれた

芋のような子どもを選

び出して連れて帰っ

た。

※2

いよいよ我々の

番だ。

※3

度胸を据え。

※4

少しも怯むこと

なく。

※5

軽々しく扱えな

い。

※6

首を掻き切るこ

と。

※7

刀を使わずに手

で首を捻じ切ること。

※8

少々猶予を頂き

たい。

※9

だまされないぞ。

※10

この間に逃げ出

そうとしても。

※11

小さな蟻一匹も

逃がさないぞ。

※12

生き顔と死に顔

とは顔つきが変わるな

どと考えて身代わりの

贋首とは。

※13

それにもだまさ

れない。

※14

使い古した手段。

※15

カアッと怒って。

※16

余計なお世話だ。

※17

正しい判断がで

きないようなその目で。

※18

すぐ後で見せて

やるぞ。

※19

すぐに。

※20

権威を笠に着る。

見せても  

似ぬこそ道理、土が産ました量り

芋、子ばかりよつて立帰る※

『スハ身の上※

』と源蔵も、妻の戸浪も胴を据ゑ※

待つ間ほどなく入り来る両人

 「ヤア源蔵、この玄蕃が目の前で討つて渡そと

 

請け合ふた菅秀才が首、サア受け取らう、早く

 

渡せ」

と手詰めの催促

ちつとも臆せず※

 「仮か

りそめ初

ならぬ※

右大臣の若君、掻か

き首※

捻ぢ首※

にも

 

致されず。暫し

ばら

くはご用捨※

と立ち上がるを

松王丸

 「ヤアその手は食はぬ※

。暫し

しの用捨と隙ひ

取らせ、

 

逃げ仕度致しても※※

ナ裏道へは数百人を付け置き、

 

蟻の這は

づる所もない※※

。生き顔と死に顔は相好が

 

変るなどと、身代はりの贋首※※

、それもたべぬ※※

 

古手なこと※※

して後悔すな」

と言はれて

くはつとせき上げ※※

 「ヤア要らざる馬鹿念※※

。病み呆けた汝が眼玉が

 

でんぐり返り、逆さ

かさままなこ

様眼で見様は知らず、紛れも

 

なき菅秀才の首、追つ付け見せう※※

 「ムヽその舌の根の乾かぬうち※※

に、早く討て」

 「疾と

く斬れ」

と玄蕃が権け

んぺい柄

※※※

※※0

四段目 寺子屋の段 7

Page 126: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

上の空。

※2

ジロジロ眺め回

す。

※3

改め。

※4

帰った。

※5

戸浪は今日寺入

りした子どもがいたこ

とを口走りそうにな

る。

※6

戸浪は小太郎の

件は言ってはいけない

とハッと気付き言い逃

れをする。

※7

小太郎の机を菅

秀才のものだと言い抜

ける。

※8

時間を稼がれる

のは。

※9

恐ろしさで身体

を縮めて。

※10

思わずつまづい

てしまった。ここでは

立ちすくむ。

※11

白木の台。

※12 静かに出てきて。

※13 検使の目の前。

※14

大切な。

※15

肚を据えて。

『ハツ』とばかりに源蔵は、胸を据ゑてぞ入りに

ける

傍に聞きゐる女房は『こゝぞ大事』と心も空※

検使は四方八方に眼を配る※

中にも松王、机文庫の数を見廻し※

 「ヤア合点のゆかぬ。先達て去んだ※

餓鬼らを数

 

ふれば机の数が一脚多い、その倅はどこに居る

 

ぞ」

と見咎められて

戸浪は『ハツ』と

 「イヤこりや今日初めて寺、アヽイヤアノ寺参

 

りした子がござんす※

 「ナニ、馬鹿な」

 「オヽそれ 

これがすなはち菅秀才のお机文庫」

と、木地を隠した塗机、ざつと捌さ

ひて言ひ抜ける※

 「何にもせよ隙取らすが※

油断のもと」

と玄蕃諸共突つ立ち上がる

こなたは手詰め命の瀬戸際

奥には『ばつたり』首討つ音

『はつ』と女房胸を抱き※

、踏ん込む足もけしとむ※※

うち

武部源蔵白台※※

に、首桶載せてしづ 

出で、目

通り※※

に差置き

 「是非に及ばず。菅秀才の御首討ち奉る。いはゞ

 

大切ない※※

御首、性根を据ゑて※※

、サ松王丸、しつ

 

かりと検分せよ」

※※

※※※

四段目 寺子屋の段 8

Page 127: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

いつでも抜刀で

きるように構え「贋首

と言ったら斬りつけよ

う」。

※2

息を殺して。集

中して。

※3

地獄の閻魔大王

の鏡で、亡者が生前に

行った善悪の過去を映

し出し、地獄極楽のど

ちらに行くか判断をす

る道具。

※4

贋物か本物か、

地獄行きか極楽行きか

の分かれ目。

※5

油断できない人

物。

※6

いろいろな角度

からよく見て。

※7

間違いない。

※8

菅秀才を匿って

いた罪をゆるして放免

してやる。

※9

左様。その通り

だ。

※10 お咎めを食うか

もしれない。

※11

藤原時平との主

従関係を解消して。

※12

療養したい。

と、忍びの鍔つ

ばもと元

寛くつろげ

て『虚と言はゞ斬り付けん、

実と言はゞ助けん』と堅か

たず唾

を呑んで控へゐる

 「ハヽヽヽ何のこれしきに性根どころかハヽヽヽ。

 

今浄じ

ようはり

玻璃の鏡※

にかけ、鉄札か金札か地獄極楽の

 

境※

。家来衆、源蔵夫婦を取巻き召され」

『畏

かしこまつ

た』と捕手の人数十手振つて立ちかゝる

女房戸浪も身を堅め

夫はもとより一生懸命

 「サア実検せよ検分」

と、言ふ一言も命がけ、後ろは捕手向かふは曲く

せもの者

玄蕃は始終眼を配り『こゝぞ絶体絶命』と思ふ内

はや首桶引き寄せ、蓋引き明けた首は小太郎、『贋

と言ふたら一討ち』とはや抜きかける

戸浪は祈願『天道様、仏神様、憐あ

れみ給へ』と女

の念力

眼力光らす松王が、ためつすがめつ※

、窺う

かが

ひ見て

 「コリヤ、菅秀才の首討つたは紛ひなし※

、相違

 

なし」

と言ふに

びつくり源蔵夫婦、あたりきよろ

見合はせり

検使の玄蕃は検分の詞証拠に

 「出かした 

よく討つた。褒美には匿ふた科と

 

赦してくれる※

。イザ松王丸、片へ

んし時

も早く時平公

 

へお目にかけん」

 「如い

か何様※

、隙どつてはお咎めも如い

かが何

。拙者はこ

 

れよりお暇給はり※※

、病気保養致したし※※

※※

※※

※※

※※0

四段目 寺子屋の段 9

Page 128: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

時平邸。

※2

声も出ず。

※3

苦しい息や弱り

切った時に吐く息。

※4

天地にいるすべ

ての神仏にお礼を述べ

て。

※5

菅丞相様。

※6

優れた徳。

※7

天の成せる不思

議。

※8

黄金仏にすり替

わる奇跡が起こったの

か。

※9

瓦と金のように

小太郎と菅秀才とでは

違う。

※10

ちょうどその時。

※11

息をはずませな

がら。

※12

一難去ってまた

一難。

 「オヽサ役目は済んだ、勝手にせよ」

と首受け取り、玄蕃は館※

松王は、駕籠に揺られて立帰る

夫婦は門の戸ぴつしやり閉め、物をも得言はず青

息吐息、五色の息※

を一時に『ほつ』と吹き出すば

かりなり

胸撫で下ろし源蔵は天を拝し地を拝し※

 「ハア有難や忝

かたじけなや

。凡人ならぬ我が君※

のご聖徳※

 

が顕はれて松王めが眼が霞か

み、若君と見定めて

 

帰つたは、天成不思議※

のなす処。ご寿命は万々

 

年、悦べ女房」

 「イヤもう

大抵の事ぢやござんせぬ。

 

あの松王めが目の玉へ菅丞相様が入つてござつ

 

たか但し首が黄金仏ではなかつたか※

。似たとい

 

ふても瓦と金こ

がね

、宝の花のご運開きとあんまり嬉

 

しうて涙が零こ

れる。アヽヽ有難や尊や」

と、悦び勇む折からに※※

小太郎が母いきせきと※※

、迎ひと見へて門の戸叩き

 「寺入りの子の母でござんす。今漸よ

うよう々

帰りまし

 

た」

と言ふ声

聞くよりまたびつくり

 「一つ遁の

れてまた一つ※※

、こりやマア何とどうせ

 

う」

と、妻が騒げど

夫は胴据ゑ

※※

※※

四段目 寺子屋の段 10

Page 129: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

身替りの秘密を

守るため小太郎の母親

も殺そうとすること。

※2

戸浪を奥へやり。

※3

子どものこと。

※4

したたか者。

※5

源蔵の刀を掻い

潜って。

※6

女は小太郎の文

庫で源蔵の刃を受け止

めて。

※7

源蔵の刃を刎ね

つけ。

※8

文庫は二つに割

れて。

※9

葬礼で死者に着

せる着物。死に装束。

※10

葬礼のとき、寺

院に飾る「南無阿弥陀

仏」と書かれた旗。

※11

菅秀才様の身替

りに我が子はお役に立

ちましたか。

 「コリヤ最前言ふたはこゝの事※

。若君には替へら

 

れぬ。エヽ狼う

ろたえ狽

者め」

と戸浪を引き退け※

、門の戸ぐはらりと引き開くれ

ば女は会釈し

 「これはマアお師匠様でござりますか。悪さ※

 

お頼み申します。どこにゐやるぞお邪魔であ

 

ろ」

と言ふを幸ひ

 「アヽイヤ奥に子どもと遊んでゐます。連れ立

 

つて帰られよ」

と、真顔で言へば

 「ムヽそんなら連れて帰りましよ」

と、ずつと通るを

後ろより、たゞひと討ちと斬り付くる

女もしれ者※

引つぱづし※

逃げても

逃がさぬ源蔵が、刃

やいば

鋭どに斬り付くるを

我が子の文庫ではつしと受け止め※

 「コレ待つた、待たんせコリヤどうぢや」

と、刎ねる刃※

も用捨なくまた斬り付くる

文庫は二つ※

、中よりばらりと経き

ょうかたびら

帷子『南無阿弥陀

仏』の六字の幡は

顕あらわれ

出でしは

『コハいかに』と、不思議の思ひに剣つ

るぎ

も鈍り、進

みかねてぞ見へにける

小太郎が母涙ながら

 「若君菅秀才のお身代はり、お役に立てゝ下さ※※

※※

※※0

四段目 寺子屋の段 11

Page 130: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

納得して身替り

に小太郎を寺入りさせ

たのか。

※2

夫人。女房。

※3

菅丞相の御詠歌。

※4

ワッと女房は泣

き崩れて。

※5

時平の味方と思っ

た松王丸は小太郎の父

親だった。

※6

お互いの挨拶は

後回しにして。

※7

不思議だ。

※8

父から勘当を受

けて肉親の縁を切る。

※9

主人時平よりの

命令。

※10

不運な巡り合わ

せ。

※11

何とかして。

※12

仮病。

 

つたか、まだか様子が聞きたい」

と、言ふに

びつくり

 「シテ それは、得心か※

 「サア得心なりやこそこの経帷子、六字の幡」

 「ムヽシテ其そ

こもと許

は何な

にびと人

のご内証※

と、尋ぬる内に

門口より

 「『梅は飛び桜は枯るゝ世の中に何とて松のつれ

 

なかるらん※

』女房悦べ、倅はお役に立つたぞ」

と、聞くより『わつ』とせき上げて※

、前後不覚に

取り乱す

 「ヤア未練者め」

と叱りつけ、ずつと通るは松王丸※

見るに夫婦は二度びつくり『夢か現う

つつ

か夫婦か』と

呆れて、詞もなかりしが

武部源蔵威儀を正し

 「一礼はまづ後の事※

。これ迄敵と思ひし松王、

 

打つて変はつた所存は如何に。訝い

ぶか

しさよ※

と尋ぬれば

 「ホヽご不審は尤も

っと

も。存知の通り我々兄弟三人

 

は銘々に別れて奉公。情けなやこの松王は時平

 

公に従ひ親兄弟とも肉縁切り※

、ご恩受けたる丞

 

相様へ敵対。主命※

とはいひながら皆これこの身

 

の因果※※

。何卒※※

主従の縁切らんと作病※※

構へ暇の願

 

ひ。『菅秀才の首見たらば暇やらん』と今日の役

四段目 寺子屋の段 12

Page 131: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

源蔵殿は絶対に

若君の首は討たないだ

ろう。

※2

身替りになる子

どもがいなければ一体

どうするのだろう。

※3

今こそ菅丞相様

へご恩を報じる絶好の

機会だ。

※4

机の数を調べた

のも我が子はすでに来

たかと確認した。

※5私に期待を掛け

てくださり。

※6

「どうして松はつ

れないと世間は言うの

か。絶対そんなことは

ない」とお詠みくださ

るのに。

※7

ところが世間で

は「松王丸は薄情な人

間だ」と言われるのが

悔しかった。

※8

あの世で。

※9 回向。供養。

※10 いつもとは違って。

※11

死ぬために。

※12

予感がしたのか。

※13

どうして家に帰

れるものか。

※14

法要に供える饅

頭などの蒸物。

※15

ことわざ「死ぬ

る子は見め良し」。早

く死ぬ子は顔が美しい

という。

※16

天然痘も済んだ

のに。

 

目。よもや貴殿が討ちはせまい※

、なれども身代

 

はりに立つべき一子なくば如い

かん何

せん※

。こゝぞご

 

恩を報ずる時※

と、女房千ち

よ代と言ひ合はせ二人が

 

中の倅をば先へ廻してこの身代はり。机の数を

 

改めしも我が子は来たか、と心の蓍め

。菅丞相に

 

は我が性根を見込み給ひ※

『何とて松のつれなか

 

らうぞ』との御歌※

を『松はつれない 

』と世

 

上の口に、かゝる悔しさ※

※。推量あれ源蔵殿、倅

 

がなくば何時までも人でなしと言はれんに、持

 

つべきものは子なるぞや」

と言ふに

女房なほせき上げ

 「草葉の蔭※

で小太郎が聞いて嬉しう思ひませう。

 

持つべきものは子なるとは、あの子がためによ

 

い手向け※

。思へば最前別れた時、何時にない※※

 

追ふたを、叱つた時の 

その悲しさ。冥め

いど途

 

旅※※

へ寺入りとはや虫が知らせた※※

か、隣村へ行く

 

と言ふて道まで去い

んでみたれどもナ、子を殺さ

 

しにおこして置いてどうマアうちへ 

去なるゝ

 

ものぞいな※※

。死に顔なりとも今一度見たさに、

 

未練と笑ふて下さんすな。包みし祝儀はあの子

 

が香典、四十九日の蒸物※※

まで持つて寺入りさす

 

といふ悲しいことが世にあらうか。育ちも生ま

 

れも賤しくば殺す心もあるまいに、死ぬる子は

 

媚みめ

よし※※

と美しう生まれたが、可か

わい哀

やその身の不

 

仕合はせ。何の因果に疱ほ

うそう瘡

まで仕舞ふたことぢや※※

※※

四段目 寺子屋の段 13

Page 132: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

可哀想でたまり

ません。

※2

なぜ泣く。

※3

健気な「奴」と「八

つ」の掛詞。

※4

恩返し。

※5

羨ましいだろう。

桜丸は何のお役に立た

ない無駄死にだから。

※6

同じ父母から生

まれた兄弟。

と、せき上げて、かつぱと伏して泣きければ

共に悲しむ戸浪は立寄り

 「最前に連れ合ひが身代はりと思ひ付いた傍へ行

 

て『お師匠様今から頼み上げます』と言ふた時

 

の事思ひ出せば他人のわしさへ骨身が砕ける※

。親

 

御の身ではお道理」

と涙添ゆれば

 「アヽイヤコレご内証。コリヤ女房も何でほへ

 

る※

。覚悟した御身代はり、うちで存分ほへたで

 

ないか。ご夫婦の手前もあるわい。イヤナニ源

 

蔵殿、申し付けてはおこしたれども、定めて最

 

期の節、未練な死を致したでござらう」

 「アヽイヤ若君菅秀才の御身代はりと言ひ聞か

 

したれば、潔う首指し延べ」

 「アノ逃げ隠れも致さずにナ」

 「につこりと笑ふて」

 「ナニにつこりと笑ひましたか、アノ笑ひ、ア

 

ハヽヽ ヽ

ハヽヽ

 

 

ムヽア

 

ハヽヽヽ。出かしおりました。利口な奴、立

 

派な奴、健気な八つや※

九つで親に代はつて恩送

 

り※

。お役に立つは孝行者、手柄者と思ふから、

 

思ひ出だすは桜丸、ご恩送らず先立ちし、さぞ

 

や草葉の蔭よりも羨ましかろけなりかろ※

。倅が

 

事を思ふにつけ、思ひ出さる ゝ

と、さすが同腹同性※

を、忘れかねたる悲嘆の涙

 「ナウその叔父御に小太郎が、逢ひますわいの」

四段目 寺子屋の段 14

Page 133: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

皆の嘆きが他の

部屋に漏れて。

※2

感謝の涙。

※3

菅秀才の前。

※4

予期しない。

※5

感じ入って手を

打ち。

※6

あちこちお探し

申したがわからなかっ

たのに、何方にいらっ

しゃったか。

※7

「北嵯峨の段」参

照。

※8

現在の大阪府の

東部。

※9

死骸を火葬場へ

送ること。

と取付いて『わつ』とばかりに泣き沈む

嘆きも洩れて※

菅秀才、一間の内より立出で給ひ

 「我に代はると知るならばこの悲しみはさすま

 

いに、可哀の者や」

と御袖を絞り給へば

夫婦は『はつ』と、共に浸ひ

する有難涙※

 「ついでながら若君様へ御土産」

と松王突つ立ち

 「申し付けた用意の乗物、早く 

と呼ばはるにぞ

『ハツ』と答へて家来ども、御目通り※

※に舁か

き据ゆ

る 「はや御出で」

と戸を開けば菅丞相の御み

だいどころ

台所

 「ナウ母様か」

 「我が子か」

とご親し

んし子

不思議の※

ご対面

源蔵夫婦横手を打ち※

 「方々と御行方尋ねしに、いづくにか御座なさ

 

れし※

 「されば

北嵯峨の御隠れ家※

、時平の家来が聞

 

き出だし召捕りに向かうと聞き、某

それがし

山伏の姿

 

となり危い処奪ひ取つたり。急ぎ河内の国※

へ御

 

供なされ姫君にもご対面。コリヤ

女房、小

 

太郎が死骸、あの乗物へ移し入れ野辺の送り※

 

まん」

四段目 寺子屋の段 15

Page 134: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

 「アイ」

と返事のその内に、戸浪が心得抱いて来る、死骸

を網あ

じろ代

の乗物へ、乗せて夫婦が上着を取れば、哀

れや内より覚悟の用意※

、下に白し

無垢麻あ

さがみしも裃

心を察

して源蔵夫婦

 「野辺の送りに親の身で子を送る法はなし※

。我々

 

夫婦が代はらん」

と立寄れば松王丸

 「アヽイヤ

これは我が子にあらず。菅秀才※

亡なきがら骸

を御供申す。いづれもは門火※

※々々」

と門火を、頼み、頼まるゝ

御台若君諸共に、しやくり上げたる御涙、冥途の

旅へ寺入りの、師匠は弥陀仏釈し

ゃかむにぶつ

迦牟尼仏、六道能の

化げ

の弟子になり、賽さ

の川原で砂手本※

。いろは書く

子をあへなくも、散りぬる命※

是非もなや。明日の

夜誰か添へ乳せん※

。らむ憂ゐ※※

目見る親心、剣と死

出のやまけ越え、あさき夢見し心地して、あとは

門火に酔ひもせず、京は故郷と立別れ、鳥と

辺野さ

して連れ帰る

※※

※※

※※※

※1

上着を脱ぐと、

哀れにも覚悟の死装束

を用意。

※2

葬礼用の礼服。

※3

子どもが親を弔

うのは「順縁」といい、

親が子を弔うのは「逆

縁」といって忌み嫌っ

た。

※4

小太郎は菅秀才

として亡くなったので、

松王丸夫婦は「逆縁」で

はなく弔うことができ

る。

※5

葬礼で出棺の際

門口に焚く火。

※6

死後に六道(地

獄道・餓鬼道・畜生道・

修羅道・人間道・天上

道)に迷う亡者を救う

地蔵菩薩。

※7

砂の上に字を書

いて習うこと。

※8

いろはを習う子

どもがあえなく命を落

とした。

※9

誰が添い寝して

くれるのか。

※10

いろは歌の中の

「つねならむ。うゐの」

の掛詞。

※11

京都にある火葬

場。

四段目 寺子屋の段 16

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※1

天空に起きる異

変。

※2・※3ともに皇

居の比喩。

※4

旧暦六月。

※5

激しい雷。

※6

天皇のこと。

※7

祈祷。祈り。

※8

天皇からのお使

いが三度あったのに応

じ。

※9

宮中に参上して。

※10

皇居の正殿。

※11

ぬさ。お祓いなど

に使用する仏・神具。

※12

いずれも仏具。

※13

寛平年間に法皇

となった宇多法皇。

※14

菅秀才を菅原家

の跡取りとする一件。

※15

天皇がご機嫌の

良い折。天機。

※16

奏上くださいま

したか。

※17 斎世親王が醍醐

天皇に代わって即位す

るという噂で怒りを

賜ったこと。

※18

菅丞相の怒りを

鎮めるには菅秀才に家

督を継がせるのが良い

と天皇に申し上げよ

う。

※19

苅屋姫と菅秀才。

※20

左中弁希世。菅

丞相の元弟子。

※21

三善清貫。藤原

時平の一派。

※22

敵・仇となる。

五段目

大おおうちてんぺん

内天変の段

 

雲井※

のどけき大内※

山、早や立ちかはる水無月※

下旬、日毎々々に時違へず電光雷火霹は

たたがみ靂

、打ち続

いての天変只事ならず、玉体※

安全雷ら

いよけ除

の加持※

らんと勅使三度の召しに応じ※

法ほっしょうぼう

性坊の阿あ

闍梨参

内あり※

、紫宸殿※※

に檀を構へ幣へ

いはく帛

押し立て、独と

っこ鈷

三さんこ鈷

、鈴れ

錫しゃく

杖じょう

振り立て 

祈らるゝ、擁護も

さぞと知られける。

寛かんぴょう平

法皇※※

の御使として判は

んがんだいてるくに

官代輝国、斎と

きよ世

親王

苅かりやひめ

屋姫、菅か

んしゅうさい

秀才を伴ひ参内あり

 「かねて法皇貴僧に談じ給ひし通り菅秀才に菅

 

原の家相続、天気宜しきついでを以て御沙汰有

 

つて承りしか、次には麿が虚命の逆げ

きりん鱗

、申し晴

 

らして給はれ」

と事丁寧に述べ給へば

 「愚僧もとより菅丞相とは師弟の仲。霊魂の怒

 

りをやすむる菅原の家相続宜しく奏し奉らん※※

 

各々はこなたへ」

と、打ち連れ奥に入り給ふ。

斎世親王菅家の姉弟※※

密かに参内致せしと春し

ゅんどうげんば

藤玄蕃

が報せによつて、時し

へい平

の大お

とど臣

大きに驚き、希ま

れよ世

清きよつら貫

前後に従へ一散に駈け来たり、寝殿遙かに窺

うかが

ひ見れば

 「げにも玄蕃が申すに違はず。時平が怨あ

と成る※※

※11

※5

※1※

※1

※1※

※15

※※0

※1※

※※1

※1※

五段目 大内天変の段 1

Page 136: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

醍醐天皇と宇多

法皇を島流しにして。

※2

天皇の位に就こ

う。

※3

様子をうかがっ

て待っているとも知ら

ず。

※4

か弱い腕を取っ

て捩じ伏せた。

※5

禍根。

※6

贋の首でだまさ

れた間抜け者め。

※7

命令。

※8

空模様が急変し

て。

 

やつばら片端打ち殺し、天皇、法皇遠島させ1

 

万乗の位につかん※

、清貫、希世ぬかるな」

と八方へ眼ま

なこ

を配り、事を窺ひ待つとも知らず※

奥よ

り出づる菅秀才

 「ソレ」

と時平が掛声に、左中弁つつと寄り小こ

がいな腕

取つて捻

伏せたり※

。時平の大臣から 

と打ち笑ひ

 「蠅同然の小こ

せがれ忰

なれども生け置いては後日の怨あ

 

首打つたると思ひしに小賢しくも我を謀た

ばか

り、今

 

日迄存命せしは松王めが計ひよな、贋首くらふ

 

たうつそりめ※

と春藤玄蕃が肩骨つかみ

 「不忠油断の見せしめ」

と、首引き抜いてかしこへ投げ捨て

 「ヤア 

両人、この小忰は麿に任せ斎世親王、

 

苅屋姫引つ立て参れ」

と下知※

するにぞ、清貫、希世

 「心得し」

と奥をさして行くところに、俄に晴天かき曇り※

風雨起こつて絶え間なく電光虚空にひらめき渡

り、天地も崩るゝ大雷ぱち 

 

 

ぐわら 

 

、二人はがち 

胴震ひ色青

ざめて逃げ惑ふ、

時平の大臣はびくともせず

 「ヤア臆病な腰抜けども、鳴ればなれ落ちば

 

落ちよ、雷神雷火も足下にかけ踏み消してくれ ※

5

五段目 大内天変の段 2

Page 137: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

空。

※2

紫宸殿の階段の

裏側に隠れている。

※3

希世は雷光の火

の玉を受けて焼け死

に。

※4

三善清貫もあっ

という間に雷に打たれ

て即死した。

※5

さすがの時平も

怯えて膝ががくがくし

て。

※6

時平の両方の耳

から一尺(約三十セン

チ)あまりの小蛇が現

れたので。

※7

蛇は桜丸八重夫

婦の姿となり。

※8

桜丸の亡霊なの

で、桜にまつわる言葉

が続く。「紅桜」は紅

色の桜。

※9

夫婦の亡霊は時

平の首根っこを掴んで

持ち上げようとする。

※10 妖怪。

 

んず物」

と菅秀才を小脇に抱か

込み虚空1

を睨んでつつ立つた

り、なほもはためく震動雷電、希世は生きたる心

地なく、御み

はし階

の下に屈か

み居る※

頭の上に車輪の火の

玉落つると見えしが、左中弁五体炎に焼けたゞれ※

天罰目の前師匠の罰、心地よかりし最期なり、こ

れにも屈せぬ強気の時平

 「三善の清貫いづくにある。麿に敵する雷神な

 

し、怖くば爰こ

へ来たれよ」

と、呼ぶを力に立ち寄る清貫、あはやと三善も雷

火に打たれ、即時に息は絶果てたり※

二人が最期にさしもの時平、心臆して膝わな 

擒とりこに

したる菅秀才逃げて行方も知らばこそ

 「この上頼むは法力」

と檀上へ駈け上り両手を覆ふて踞

うずくまる

左右の耳より

尺余の小蛇顕はれ出づれば※

悶絶し、『ウン』との

つけに反りかへれば、二匹の小蛇は抜け出でて檀

に立つたる幣へ

いはく帛

に入るよと見えしが、忽た

ちま

ちに此の

世を去りし桜

さくらまる丸

夫婦が姿と顕れ出※

、かげのごとく

檀上にすつくと立ち

 「腹立ちや恨めしや、汝故に菅丞相、無実の罪

 

に浮き沈み心筑紫に果て給ふ、その怨念は晴れ

 

やらぬ空にとゞろき、鳴神の炎変じて紅

くれない

桜ざくらと

 

倶に散らさん、来たれや来たれ」

と頭を掴んで引立つる※

音に驚き法性坊紫宸殿に駈け出で見給へば、物の怪※※

※ ※5※

五段目 大内天変の段 3

Page 138: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1 「あり」と「有」の

掛詞で、桜はここでは

亡霊となった桜丸のこ

と。桜に関しては、※

5、※6も同じ。

※2

阿闍梨は「祈り

で妖怪を封じこめよ

う」。

※3

千手観音の功徳

を述べた呪文。

※4

八重の亡霊。

※5

絡み合う糸のよ

うにつきまとう。

※6

ことわざ「煩悩

の犬は追えども去ら

ず」を踏まえた語。犬

のようにまとわりつく

の意。

※7

帝位を狙う時平

のこと。

※8

菅丞相の恨みと

は知らずに退散するよ

うに祈るのは数珠を汚

し畏れ多いことだ。

※9 祈祷をしていた

場を去り。

※10

桜の枝の鞭(む

ち)。

※11

時平は魂の抜け

た抜け殻の死体とな

る。

※12

桜丸夫婦の亡霊

は桜の花の散るように

消えて行ったので。

の姿はあり 

有明桜1

※ 「祈り加持して退けんずもの※

と、数珠さら 

と押し揉んで、千手の陀羅尼※

くりかけ 祈りいのれば時平は夢とも現う

つつ

とも思

はず知らず立上り逃げんとするを

「逃さじ」

と向ふにたちまち八重一重※

 「いかに僧正祈るとも、この怨念はいつまでも

 

付きまとはつて糸桜5

、退の

かじ放れじ幻は打てと

 

も去らぬ犬桜※

 「ヤア 

僧正、菅丞相を讒ざ

んげん言

し帝位を奪ふ時

 

平を助け給ふは心得ず、さては貴僧も朝敵※

に力

 

を添へ給ふか」

と聞くより僧正大きに驚き、

 「ヤアかゝる天下の怨とも知らで数珠を汚せし

 

勿体なや※

と法座を立ち去り※

入り給へば、

時平も恐れ諸共に御座の間さして逃げ入るを、髻

たぶさ

を取つて引戻し

 「今こそは思ひのまゝ冥途の闇路に伴なはん」

と、桜の枝の笞し

もと

を振り上げ追つ立て 

追ひ廻

し、笞を持つててう 

 

、打たれてうつゝ

空蝉のもぬけの身体※※

 「さてこそ恨み晴れたり」

と死霊は時平を庭上に、どうど蹴落し嬉しげに、

形は花の散るごとく消えて見えねば、丞相の霊も

※10

※1※

五段目 大内天変の段 4

Page 139: ※2「姑射山(こやさん)」。むという想像上の山...羅浮山の梅夢に清麗の佳人となる。皆こ※ れ 擬議し て 変化をなす、※ あに 誠の

※1

太陽。

※2

時平の死骸を懐

剣で刺し通し。

※3

死者の跡目を継

がせて。

※4

正一位の位が授

けられた。

※5

京都一条大宮通

にある右近衛府に属す

る馬場。

※6

天満大自在天神

は菅原道真が神になっ

た名。

※7

菅原道真が太宰

府で亡くなった夜、北

野神社の東北に一夜に

して数千本の松が生え

出た伝説がある。

※8

室内を区切るた

めに垂れ下げる布。

※9

ここでは水晶。

※10

石英の微細な結

晶が集まったもの。

※11

梁(はり)のこと。

※12 青い色の宝玉。

※13 屋根板を支える

ために棟から軒に渡す

長い材。

※14

京都には北野、大

坂には天満と、その天

神の神の威徳や奇瑞は

並ぶものがない

※15

ここでは天神様

の由来。

※16

ここでは「おか

げ」の意味。

鎮まり空晴れて日輪1

光り輝けり、

かくと見るより菅秀才苅屋姫庭上に走り出で

 「父上の敵逃がさじ」と用意の懐剣抜き放し

 「恨みの刀、思ひ知れ」

と刺し通し 

悦び給ふ折こそあれ

法性坊、親王を伴ひ立ち出で給ひ

 「人々の願ひの如く菅秀才には菅原の遺ゆ

いせき跡

を立

 

てさせ※

、菅丞相には正一位の贈官あり※

、右近の

 

馬場5

に社を築き『南な

無む

天てん

満ま

大だい

自じ

在ざい

天てん

神じん

と崇あ

め、

 

皇居の守護神たるべし』との宣旨なり」

と述べ給へば、皆一同に悦びをきくに北野の千本

松※

、栄へ栄ふる御社は千年万年朽ちせぬ宮き

ゅうでん殿

、錦

の帳

とばり

玻璃の柱。瑪瑙の梁瑠璃※※

の垂た

るき木

。廻廊拝殿

有々と拝お

がま

れさせ給ひける。

京に北野難波に天満神徳奇瑞並な

らびな

く※※

。栄まします

此御神縁起※※

をあら

書き残す筆の冥加※※

や御伝授

の、伝る和国に灼

いちじるき然

威徳を崇

あがめ

奉る。

※※

※※

※※

※※

※10めのう

うつばり

※11

※1※

五段目 大内天変の段 5