Ⅵ. 大学間協定校(1) 順天大学校(韓国・順天市)...

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( ) ( i ) 1989 年 11 月に宮崎大学工学部土木工学科から藤本廣工学部長と杉尾哲教授 が順天大学校に赴き、順天大学校工科大学との間で学術交流協定を締結した。 当時の藤本学部長が恩師(山内豊聡・現九州大学名誉教授)の研究室を訪問した 際に、たまたま順天大学校からその研究室に留学中の孫純鍾助教授と知り合っ たことが、この交流のきっかけであった。その後、1992 年に大学間交流協定 に格上げされ、両大学の間の協定締結の運びとなった。初期の交流は殆ど農工 学部が関与しており、教育文化学部が交流に参加し始めたのは、1999 年に開 催された「第 11 回ジョイントシンポ」(篠原久枝助教授・宮田泰雄講師)から である。また、順天大学校に教育文化学部の学生を派遣したのは、2005 年が 最初であった。その後、様々な形で学生ならびに教員の交流が展開された。 (Sunchon National University) 順天大学校は韓国・全羅南道順天市にある 1935 年に民族意識の啓蒙 と有能な人材養成のために開校された国立大学である。その後順次拡充 されて、1991 年に順天大学校として総合大学に昇格改組された。現在 は 5 つの単科大学(農学・人文社会学・自然科学・工学・師範学)と、1 つの一般大学院と 4 つの特殊大学院から成る。学部学生数は 12,000、 大学院生数が 1,100 である。教職員数は 450。 <東洋語文学部> <東洋語文学部の日本語学科フロアからキャンパスを見下ろす> ( ) ― 69 ― Ⅵ. 大学間協定校

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Page 1: Ⅵ. 大学間協定校(1) 順天大学校(韓国・順天市) (i)交流の始まりそして協定締結 1989年11月に宮崎大学工学部土木工学科から藤本廣工学部長と杉尾哲教授

(1) 順天大学校(韓国・順天市)

(i)交流の始まりそして協定締結

1989 年 11 月に宮崎大学工学部土木工学科から藤本廣工学部長と杉尾哲教授

が順天大学校に赴き、順天大学校工科大学との間で学術交流協定を締結した。

当時の藤本学部長が恩師(山内豊聡・現九州大学名誉教授)の研究室を訪問した

際に、たまたま順天大学校からその研究室に留学中の孫純鍾助教授と知り合っ

たことが、この交流のきっかけであった。その後、1992 年に大学間交流協定

に格上げされ、両大学の間の協定締結の運びとなった。初期の交流は殆ど農工

学部が関与しており、教育文化学部が交流に参加し始めたのは、1999 年に開

催された「第 11 回ジョイントシンポ」(篠原久枝助教授・宮田泰雄講師)から

である。また、順天大学校に教育文化学部の学生を派遣したのは、2005 年が

最初であった。その後、様々な形で学生ならびに教員の交流が展開された。

順天大学校 (Sunchon National University) 順天大学校は韓国・全羅南道順天市にある 1935 年に民族意識の啓蒙

と有能な人材養成のために開校された国立大学である。その後順次拡充

されて、1991 年に順天大学校として総合大学に昇格改組された。現在

は 5つの単科大学(農学・人文社会学・自然科学・工学・師範学)と、1

つの一般大学院と 4つの特殊大学院から成る。学部学生数は 12,000、

大学院生数が 1,100 である。教職員数は 450。

<東洋語文学部> <東洋語文学部の日本語学科フロアからキャンパスを見下ろす>

(ⅱ) 交流の内容

① 学生交流

*学生交換

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Ⅵ . 大学間協定校

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[派遣]

氏名 学年 期間

1 松元美奈子 学部 3年 1998.8~1999.7 1 年

2 末竹 幸治 学部 3年 1999.9~2000.8 1 年

3 日高亜希子 学部 2年 2003.8~2004.2 半年

4 有薗 留美 学部 4年 2004.9~2005.8 1 年

5 玉城菜々子 学部 3年 2005.8~2006.7 1 年

6 宮嶋トナミ 学部 3年 2010.8~20011.7 1 年

*宮崎大学から順天大学校への最初の留学生は 1997 年の門田進一郎(工学研究科)であるが、

教育学部からの最初の留学生は、その翌年に渡航した英語科 3年の松元美奈子であった。

[受入]

氏名 期間 氏名 期間

1 鄭 世利 1994.11~1995.8 23 鄭 殷敬 2004.10~2005.9

2 裵 辰珠 1994.11~1995.8 24 李 美順 2005.10~2006.9

3 蔡 承珉 1994.11~1995.8 25 林 和宣 2005.10~2006.9

4 張 仁眞 1995.10~1996.9 26 崔 璁娥 2005.10~2006.9

5 金 亨淑 1996.10~1997.9 27 呉 恵玲 2005.10~2006.9

6 金 京珍 1996.10~1997.9 28 ハンウリ 2006.10~2007.9

7 金ウンーア 1996.10~1997.9 29 李ジウン 2006.10~2007.9

8 朴 智明 1996.10~1997.9 30 李サンシン 2006.10~2007.9

9 劉 恵淑 1997.10~1998.9 31 王ユンヒ 2006.10~2007.9

10 金ミンジュ 1997.10~1998.9 32 朴 炳憲 2007.10~2008.9

11 鄭 恩善 1998.10~1999.8 33 李 相ホ 2008.10~2009.8

12 曺 善煕 1998.10~1999.8 34 金 志潤 2008.10~2009.8

13 池 政信 1999.10~2000.9 35 呉 娟敬 2008.10~2009.8

14 金 恩恵 1999.10~2000.9 36 韓 喜珍 2008.10~2009.8

15 柏 正美 2000.10~2001.8 37 金スンヒョン 2009.10~2010.9

16 金 栄哲 2001.10~2002.9 38 金ジーへ 2009.10~2010.8

17 崔 廷臣 2001.10~2002.9 39 ジョンナリ 2009.10~2010.8

18 朱 孝恩 2002.8~2003.9 40 金ミヨン 2010.10~2011.9

19 李 重言 2003.10~2004.9 41 崔チワン 2010.10~2011.9

20 権 愉美 2003.10~2004.9 42 金 明在 2010.10~2011.9

21 明 智善 2003.10~2004.9

22 梁 裕民 2004.10~2005.9

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<思い出すこと(20) ~不幸な出来事~>

順天大学校からの留学生・金榮哲くん(2001 年~2002 年)が、8月に木城町と「木城えほんの郷」

主催の「若者たちの国際文化交流ワークショップ」に参加した後、小丸川で水泳を楽しんでいて事

故死するという悲しい出来事が起きた。宮崎では約 200 名の関係者が「お別れ会」を開いて、金榮

哲くんに弔意を表した。その後ことは、彼の遺骨を抱えて故郷の忠州市での葬儀に列席した岡林

稔全学国際交流委員長(当時)の「報告書」(2002 年 8 月 26 日付)に詳しいので、部分的に引用させ

ていただく:「(8 月 22 日)順天大学校・張錫模教授、朴潤鎬助教授、そして『絵本の里』代表・黒

木郁朝氏及び宮崎大学代表者・岡林は、荼毘にふされたお遺骨と遺影とともに、河内副学長、岩本

教育文化学部長等の宮崎大学関係者、金君の友人である留学生、それに絵本の里及び木城町関係者

の見送りを受けて、午後 5 時発の便で福岡に出発した。同日は福岡に宿泊し、翌日仁川空港到着。

空港内で金君ご両親、ご親族、そして順天大学校研究協力室長・柳教授を代表とする同大学校日

語・日文学科の教授陣および学生諸君 20 数名の出迎えを受ける。遺骨を帯同した 4名は順天大学

校関係者の介添えのもとに、金君の父親・金南淵氏をはじめとする親族代表の前に整列して、お遺

骨を白い手袋をはめた父親に手渡すと、同じく白い手袋をつけた順天大学校学生代表 2名が遺骨と

遺影を受け取り、葬儀場までの守護役を務めてくれた。空港内では入国審査のドア越しにすでに金

君の母親の号泣の声は届いており、一同 4人がご親族の前に整列した際には、その慟哭は極限に達

せられたと見え、床に崩れて数人の介助をもっても立ち上がれないままであり、その後判明したこ

とであるが、病院に緊急搬送され、結局葬儀場にもご参列はかなわなかった。....最後に、現地で

はさしたるトラブルも生じませんでしたが、常に私どもと親族の間に順天大学校の関係者が入って

くださり、格段のご配慮を頂いていたことを申し添えておきます。そして順天大学校側からは、宮

崎大学の事故後の迅速な対応によって遺族に正確な事故説明ができたこと、それに関連書類の調達

や『お別れ会』の模様を伝える写真集の準備など大学が一丸となって対応してくれたことに対する

謝辞が、許総長から特別に岡林に伝えられたことを記しておきます。」

※このような不幸の出来事が起こったにもかかわらず、それに対する宮崎大学関係者の適切な対

応のお陰で、その後も宮崎大学と順天大学校の関係はさらに緊密なものに発展しています。

※教育文化学部家政教育科・李璟媛助教授は宮大側の通訳として順天側との電話やファックスで

のやり取りを行い、文化の違いによる様々な誤解や行き違いなどを回避するために、言葉の通訳に

留まらず、文化の違いに起因する対応のアドバイザーとして大いに活躍された。

*「韓国学学習プログラム」(1997 年~) のちに「異文化交流体験学習」(2005 年~)

(於:順天大学校)

* 韓国学学習プログラム」は順天大学校からの招待で、参加した宮大生たち

の負担は往復旅費(40.000 円弱)のみで、1週間の順天滞在費用は順天大学校

側の経費で賄われる交流プログラムであった。

*1 週間の講義・学外施設見学(産業施設・文化遺産・市場など)・伝統芸能体

験などの他に 3日間の民泊ホームステイが組み込まれた充実した異文化体験

学習のプログラムだった。

* 講義内容は、「両国言語比較」「韓国語会話」「韓国語文化論」「韓国の歴史」

などが含まれ、テキストは順天大学校が準備したものであった。

* 充実した内容の「韓国学プログラム」は十分正規の科目の資格ありと評価さ

れ、2001 年度から「異文化交流体験学習」(教養教育・選択科目・2 単位)と

して宮崎大学で認められた。

* 受講資格は「全年次」で人気のあるプログラムであったので、「募集要項」に

は「過去に『韓国学学習プログラム』研修に参加したことの学生は、人数に

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制限(15 名)がありますので遠慮したください」という但し書きがあった。【資

料 ⑤】

期間 引率 参加者数

教 農 工 計

1 1997.12 岡林 稔 明石 良

7 7

2 1999.11.24~11.30 13 13

3 2000.11.22~11.27 14 14

4 2001.11.26~12.02 矢木 毅 15 15

5 2005.11.28~12.04 岡林 稔 8 1 1 10

6 2008.2.15~2.21 5 3 1 9

7 2010.2.17~2.21 金 善美 9 4 2 15

*日本語・日本事情プログラム(於:宮崎大学)

期間 参加数 備考

1 2000. 9 市民との交流

2 2002. 9

3 2006.1. 10 (引率)朴 炳煕教授

4 2007.7.23~8.10

5 2008.1.22~1.27 10

6 2009.1.14~1.20 10

7 2010.1.20~1.27 15

8 2012. 1

*宮崎大学サマープログラム(於:宮崎大学)

期間 参加数 参加他大学

1 2007.7.23~8.10 1 南京農業大学(中国) カセサート大学(タイ)

2 2009.7.21~8.7 5 青島大学(中国)

3 2010.7.20~8.6 2 南京農業大学、国立政治大学(台湾)

4 2012.7.17~8.3 1 インディアナ大学パデュー大学(アメリカ)

リュブリャナ大学(スロベニア)

釜山外国語大学(韓国) 南京農業大学

プリンス・オブ・ソンクラ大学(タイ)

上海交通大学(中国)

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*宮崎大学大学院生(日本語支援教育専修生)の教育実習(於:順天大学校)

期間 参加者 引率

1 2006.5.22~5.31 ・満石美貴子 ・熱田 久樹

・幸森いずみ ・宮本麻衣子

・小野真理子

井上修一

平瀬 清

2 2007.5.21~5.31 ・永射 紀子 ・西原 薫

・衛藤 利絵 ・中村 一男

・林 芳

岡林 稔

平瀬 清

3 2008.4.23~5.2 ・島田 繭乃 ・山田 陽子

・蒋 瑞 ・林 郁恵 上原 徳子

満石貴美子

4 2009.4.27~5.7 ・甲斐 榮一 ・末原由美子

・学部生(2 名)

明石美登里 永友佑布子

藤井久美子

5

2010.4.26~5.6

・山中 鉄齋 ・魏 艾玲

・学部生(1 名) 篠原亜津美

井上 修一

6 2011.9.6~9.30 ・西坂 祥平 ・汪 南雁

・学部生(4 名)

黒木 貴子 瀬ノ口沙織

平井菜津美 長野美沙紀

下條 恵子

7 2012.4.29~5.5 ・韓 壽燕 ・長倉あかね 得丸 智子

<前列 4 人が学部生、後列左から 2 人目:西坂祥平、3人目:汪南雁(20011 年 9 月)>

*順天大学校日語日文学科のご尽力で、NURI 財団から新たな予算を確保して

いただき、実習期間内にはリゾートホテルを借りて、24 時間日本語漬けの

「語学キャンプ」まで企画してもらうことになった。

② 教員交流 <相互訪問>

* 1991 年 10 月:金 晋鎬初代総長、宮崎大学を表敬訪問。

* 1993 年 3 月:順天大学校一行、来訪。 [共同研究セミナー開催]

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* 1995 年 8 月:大学間学生交流覚書締結(池田一学長—--金晋鎬総長)。

* 1999 年 5 月:許 祥萬学長、来訪。

[「宮崎大学創立 50 周年記念事業 シンポジウム」出席のため]

* 1999 年 5 月:李 和子((東洋語文学部日語日文専攻教授)、来訪。

[「第 11 回 宮大・順天大ジョイントシンポ」出席のため]

* 2002 年 8 月:河内進策副学長、岡林 稔全学国際交流委員長、岩本俊

孝教育文化学部長、順天大学校を訪問。

[故金榮哲君の遺骨帯同と韓国・忠州市での葬儀列席のため]

* 2002 年 9 月:山田利博氏、順天大学校訪問。

[「第 16 回ジョイントシンポ(順天大学校・宮崎大

交流 10 周年記念 行事)」出席のため]

* 2004 年 8 月:住吉昭信学長、岡林 稔副学長、順天大学校訪問。

[(医学部を加えた)新生宮崎大学長の表敬訪問]

* 2005 年 5 月:名和行文副学長ほか 4名、順天大学校訪問。

[順天大学校創立 70 周年記念シンポ]

* 2005 年 6 月:金 在棊総長一行(李硯配副総長、李度鎮副教授)来訪。

[「学術および学生交流に関する趣意書」締結(住吉昭信学長)]

* 2006 年 1 月:朴 炳煕教授、来訪[「日本語・日本事情プログラム」]

* 2006 年 3 月:岡林稔氏と長友和彦氏、順天大学校訪問。

[延辺大学(中国)訪問の帰途]

* 2006 年 5 月:井上修一氏、平瀬 清氏、順天大学校訪問。

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

* 2006 年 7 月:朴 潤鎬氏(東洋語文学部日語日文専攻教授)、来訪。

[第 1 回「国際シンポジウム 多言語同時学習支援」出席のため]

* 2007 年 1 月:朴 慶亮教授はじめ生涯学習センター教員、

センター講座受講者、市民講師など 16 名が来訪。

* 2007 年 5 月:岡林 稔氏、平瀬 清氏、順天大学校訪問。

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

* 2007 年 10 月:張 萬彩総長、来訪。

[「学術交流協定及び学生交流覚書」]

* 2007 年 10 月:朴 潤鎬氏(東洋語文学部日語日文専攻教授)、

房 極哲氏(東洋語文学部日語日文専攻教授)来訪。

[第 2 回「国際シンポジウム 多言語同時学習支援」(宮崎大学・

順天大学校 交流 15 周年記念行事)出席のため]

* 2008 年 4 月:上原徳子氏、満石貴美子氏、順天大学校訪問

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

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* 2008 年 12 月:長友和彦氏、石川千佳子氏、上原徳子氏、甲斐榮一氏、

平瀬 清氏、山田利博氏、順天大学校訪問。

[「日韓・人文芸術対照シンポジウム」出席のため]

<会場前で:宮大からの参加者[左から:長友氏、上原氏、山田氏、甲斐氏、平瀬氏]

(2008 年 12 月 12 日)>

* 2009 年 4 月: 藤井久美子氏、順天大学校訪問

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

* 2010 年 4 月:井上修一氏、順天大学校訪問

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

* 2010 年 12 月:任 祥奎総長一行、来訪

[「宮崎大学・順天大学校 日韓シンポジウム

~大学の教育戦略と国際的コンソーシアム~」]

* 2011 年 9 月:下條恵子氏、順天大学校訪問

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

* 2011 年 12 月:朴 潤鎬氏(東洋語文学部日語日文専攻教授)、来訪。

[「国際シンポジウム 多言語多文化同時

学習支援」出席のため]

<特別講演「順天大学における多言語多文化同時学習支

援の可能性」を行う朴 潤鎬氏(2011 年 12 月 17 日)>

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* 2012 年 4 月:得丸智子氏、順天大学校訪問

[「日本語支援教育専修海外教育実習」引率]

③日本語教師派遣

2006 年 3 月に日本語支援教育専修の長友和彦氏と岡林 稔氏が同年 7月に

宮崎で開催予定の国際シンポジウム「多言語同時学習支援」にパネリストの

一人として中国の延辺大学の金 哲会氏に参加の依頼をするために延辺大学を

訪問した帰途立ち寄った順天大学校において日本語教師派遣の依頼を受け、

検討の結果、宮崎大学教育研究科日本語支援教育専修の修了生を日本語教師

として派遣することになった。2007 年 3 月修了生の中から満石美貴子氏を最

初の派遣教師として送り出した。その後途切れることなく、現在は 2 人体制

で派遣が継続している。

氏名 期間

1 満石 美貴子 2008 年 3 月~2010 年 2月(2年)

2 浅賀 智恵 2010 年 3 月~2012 年 2月(2年)

3 山中 鉄斎 2012 年 3 月~2013 年 2月(1年)

4 長倉 あかね 2013 年 3 月~2016 年 2月(3年)

5 衛藤 利絵 2013 年 3 月~継続中(4年目)

6 真栄田 義正 2016 年 3 月~継続中(1年目)

<思い出すこと(21) ~順天大学校の日本語教師として~>

*衛藤 利絵 (2013~) [大学院・日本語支援教育専修 2009 年度修了生]

私が初めて順天大学校に来たのは 2007 年 5 月、授業の一環として毎年行われている教育実習に院生

として参加した時のことでした。その時は 10 日間程の滞在でしたが、授業見学、教壇実習、語学キャン

プなどを通じて順天大学校の日本語日本文化学科の学生たちと仲良くなり、最終日は朝まで飲み明かし

ました。韓国料理も口に合い、冗談で「将来は韓国に住む!」と話していましたが、その時はまさか数

年後に本当に順天大学校で日本語を教えることになるとは思ってもいませんでした。

縁あって順天大学校で働かせていただくこと

になりましたが、数年ぶりに来た順天大学校は

とても懐かしく、海外に来たという感じは全く

しませんでした。先生方もお変わりなくやさし

く声をかけてくださったので、すぐに大学校に

慣れることができました。また、生活面でも助教

先生や学生達が面倒を見てくれて、韓国語が全

くできなくても不便を感じることはありません

でした。非常に恵まれた環境の中、韓国での生活

がスタートしました。

順天大学校日本語日本文化学科は各学年 40

名程で、日本人講師は私を含め 2人在籍してい

ます。毎年、日本人講師は主に 2、3年生の会話、

作文、聴解の授業をすることになっていますが、

2 人の日本人講師は全て同じ授業を受け持ち、

それぞれ 20 名程度を担当します。私は順天大学

校に赴任する前にある程度日本語を教えた経験は <学内運動会の時に学生と(左から 5 人目)>

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ありましたが、それでも、順天大学校で授業を始めてすぐに大きな壁にぶつかりました。なぜなら、会

話の授業ではアイスブレイクをしても学生たちの雰囲気は硬く、ペアワークをしても日本語ではなく韓

国語で話し、作文の授業でも何か困っているようなのに、聞いても何も答えないなど、これまで経験し

たことのない雰囲気だったからです。最初はとても戸惑いましたが、そのうち韓国の大学生の現状がわ

かってきました。まず、男子学生が兵役のために休学をしなければならないので、同じ学年の授業と言

ってもいろいろな年齢の学生が同じクラスにおり、上下関係が厳しい韓国ではどうしても雰囲気が硬く

なってしまうこと、また、韓国は成績を相対評価でつけるため、クラスのメンバーは仲間ではなくライ

バルという意識があることに加え、同じクラス内に流暢な日本語を話す学生と、平仮名を読むのもやっ

とという学生が混在しており、レベルの差が大きく、日本語が苦手な学生のやる気が出ないということ、

さらに、これまで暗記中心の教育を受けてきて、自分の意見などを話し慣れておらず、韓国語でも作文

をあまり書いたことがないということなどがわかってきました。このような状況で、いきなり外国語で

話したり作文を書いたりしろと言われても、学生は困惑してしまうだろうと思いました。それでも日本

人講師の授業は会話や作文など、アウトプット中心になるので、どうすれば学生の精神的負担を小さく

して発話を引き出したり、文章を書かせたりできるか、試行錯誤しながら授業をしています。その甲斐

あってか、最近は日本語を使った活動などする際、学生がそれほど困惑することがなくなったような気

がします。

授業では大変なことも多いですが、それでも教室の外に出るとフレンドリーな学生ばかりで、研究室

に遊びに来たり、飲みに誘われたりすることも少なくありません。もちろん、礼儀を重んじる韓国です

ので、教育実習で来た時とは違い多少距

離はありますが、積極的に日本語で話し

かけてくれるのは本当にうれしいです。

また、去年韓国で結婚しましたが、順天

からは式場が遠かったにも関わらず、多

くの学生が来てくれました。本当にあり

がたく、順天大学校の人々のやさしさを

感じました。

順天大学校での生活が居心地良く、気

付けばもう 4 年目を迎えていました。私

にとって順天は特別な場所です。思えば

主人も順天大学校出身で、出会いは主人

が交換留学で宮崎大学に来た時でした。

宮崎大学と順天大学校の交流がなけれ

ば、主人と出会うことも、韓国に来るこ

<結婚式には大勢の順天関係者が駆けつけてくれた> ともなかったかもしれないと思うと不

思議な気持ちになります。現在も、両大学間の交換留学や、宮崎大学の学生を迎えての教育実習、語学

キャンプは継続しており、学生間交流は脈々と続いています。順天大学校からは幾つかの日本の大学へ

留学する制度がありますが、日本の大学生が順天大学校に来るのは宮崎だけです。また、現在在籍して

いる日本人講師が二人とも宮崎大学出身ということもあり、順天大学の学生は宮崎に親近感を持ってく

れているようです。現在、両国間の関係は緊張状態にありますが、それに影響されることなく、今後も

学生間の交流を活発に行い、友好を深めていってほしいと切に願います。

(2) 嶺南大学校(韓国・大邱市)

(i)交流の始まりそして協定締結

宮崎大学工学部土木工学科と嶺南大学校工科大学環境工学科との交流は、順

天大学校工科大学土木学科との協定締結の 1年前の 1988 年である。1989 年に

当時の藤本工学部長が横田獏助教授と瀬崎満弘助手と一緒に、宮大工学部土木

工学科 4 年生 20 名ほどを引率して嶺南大学校を訪問している。宮崎大学が嶺

南大学校と大学間交流協定を締結したのは 1996 年 1 月であった。その後、研

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究者交流及び学生交流の実績を積んできている。協定締結後 6年間に 8名の嶺

南大学校の大学院および学部学生 8 名を受け入れ、そのうちの一人は宮崎大学

大学院工学研究科博士後期課程を修了した。2000 年度には「韓国嶺南大学校

生との相互訪問事業」が始まり、相互に 10 名ずつの学生を 1週間に亘って受

け入れ、交流の実績を上げた。このように嶺南大学校との交流は工学部中心に

展開してきた。教育文化学部は 2002 年に学校教育課程の 2 年生 4 名と地域文

化課程の 2年生 2名、計 6名の学生がこの「相互訪問事業」に参加することか

ら嶺南大学校との交流を始めた。2006 年には「国際教育協会プログラム」に

より派遣された嶺南大学校生 1 名を学部で 1年間受け入れ、その後は毎年 1 名

の学生を 1年間(あるいは 10 か月間)受け入れてきている。

嶺南大学校 (Yeungnam University) 韓国大邱広域市南区にある私立大学である。1947 年創立の大邱大学

と 1950 年創立の青丘大学を統合して、1967 年に設立された。教育科、

農・獣医科、工科、文科、理科、法科、政治・経営、経済・商科、医

科、薬科、家政科、芸術、音楽、教養を含む 13 学部、6大学院(68 修士

コースと 45 博士コースを併設)と夜間大学から成り立つ。蔵書 60 万冊

以上を擁する図書館を始め数多くの附属施設を持っている。学生数は学

部生 20,000 名と大学院生 2,600 名。

<嶺南大学校遠景>

(ⅱ)交流の内容

*学生交換

[派遣]

氏名 学年 期間

1 鈴木 美晴 学部 1年 2011.8~2011.9 1 ヶ月

2 山本 卓磨 学部 2年 2013.3~2014.2 1 年

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[受入]

氏名 期間

1 金ユンジョン 2006.10~2007.9 1 年

2 金アリ 2007.10~2008.9 1 年

3 ハンヒジン 2008.10~2009.9 1 年

4 宋 旻奎 2009.10~2010.8 10 ヶ月

5 オム 2010.10~2011.9 1 年

6 李 炫叡 2010.10~2011.9 1 年

*異文化交流体験学習(於:嶺南大学校)

期間 引率 参加者数

教 農 工 計

1 2000 碇 哲雄 10 10

2 2002.12.17~12.22 碇 哲雄 6 5 11

3 2004.12.1~12.6 碇 哲雄 11 11

4 2007.2.21~2.27 高橋 利行 9 1 10

5 2009.2.18~2.24 福山 敦彦 7 1 2 10

6 2012.2.17~2.23 碇 哲雄 境 健太郎

9 3 12

*2010 年度は「口蹄疫」のため次年度(2012 年 2 月)に延期になった。

<思い出すこと(22) ~金策に苦労~>

「韓国嶺南大学校との学生相互訪問」(宮崎大学からの学生派遣は「異文化交流体験学習」<選択教養

科目 2 単位>という形を取っている)を 2000 年から、ほぼ 1 年おきに積極的に進めてこられた工学部の

碇 哲雄先生からいただいた資料には、その財政面でのご苦労が記されていた。2003 年 1 月に嶺南大学校

からグループを迎えた事業の「決算報告」には具体的な金額と共に、その苦しい台所事情が記録されてい

た。基本的には「学術振興事業基金」によって賄われたのであるが、不足分は考え得るあらゆる財源から

「掻き集めた」形になっていた。「(学長主催の)歓迎夕食会」、「宮崎大学学生との懇談会(昼食)」などは

学長経費の支援を受け、また歓迎会に出席した宮大教員からの寄付も大いに助けとなった。しかし、その

後は宮崎大学からの学術振興事業基金からの経費支出が十分に行われるようになり、この事業はその後も

継続して実施されている。「人と金」は事業には不可欠な要素である。

(3) 南京農業大学(中国・南京市)

(i)交流協定締結

宮崎大学と南京農業大学とは、まず、農学部が 1990 年(11 月 28 日)に学部間

学術交流協定を結び、その後 1995 年に大学間交流協定に格上げをした。そし

て、2005 年 11 月に学生交流覚書を締結している。窓口学部は農学部である。

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南京農業大学 (Agricultural University of Nanjing) 中国江蘇省南京市にある。1902 年に「三江師範学堂」の農業博物科

としてスタートした。1952 年の全国規模の学部調整では、私立金陵大

学、国立中央大学、浙江大学の農学部が合併し「南京農学院」とな

1963 年に全国2ヶ所の重点農業大学の一つに選定された。1972 年に揚

州に移転して「江蘇農学院」となった。1979 年に南京市に戻り、大学

名も「南京農学院」を回復した。1984 年に現在の南京農業大学になっ

た。23 学部から成る総合大学で学生数は 32,000、教職員数は 2,726

(2012 年データ)。23 ヶ国から長期および短期留学生が約 190 名在籍

し、日本や韓国などと年間 70 名ほどの学生交換を行っている。2007 年

に中国政府奨学金留学生の受け入れを開始した。

<南京農業大学キャンパス>

(ⅱ)交流の内容

① 学生交流

*学生交換

[派遣]

氏名 学年 期間

1 竹本加理奈 学部 2年 2009.9~2010.7 10 ヶ月

2 竹内 七奈 学部 3年 2019.9~2010.7 10 ヶ月

[受入]

氏名 期間 氏名 期間

1 劉 静 2007.10~2008.2 8 王 文苑 2009.10~2010.2

2 陸 葉 2007.10~2008.2 9 陶 婉悠 2009.10~2010.2

3 許 菲 2008.10~2009.2 10 趙 金涯 2009.10~2010.2

4 陸 軼予 2008.10~2009.2 11 楊 椰 2010.10~2011.2

5 朱 純 2008.10~2009.2 12 丁 瑩瑩 2010.10~2011.2

6 徐 天麒 2008.10~2009.2 13 Wang Honggang 2010.10~2011.2

7 Li Ling 2009.10~2010.2

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*異文化交流体験学習(於:南京農業大学)

期間 引率 参加者数

教 農 工 医 計

1 2006.9.20~9.27 藤井久美子 6 2 2 1 11

2 2008.3.8~3.19 上原 徳子 3 13 2 18

3 2009.3.7~3.18 上原 徳子 10 3 2 15

4 2012.3.3~3.9 山元 宣宏 甲斐 榮一

14 7 7 28

*宮崎大学サマープログラム(於:宮崎大学)

期間 参加人数

1 2007.7.23~8.10 6

2 2008.7.22~8.8 13

3 2009.7.21~8.7 0

4 2010.7.20~8.6 6

5 2011.7.19~8.5 3

6 2012.7.17~8.3 7

②日本語教師派遣

南京農業大学から宮崎大学に日本語教員派遣の要請があり、日本語支援教

育専修では修了生の中から希望者を募り、2007 年から教員として派遣して

きた。

氏名 期間

1 中村 一男 2007 年 9 月~2008 年 8月(1年)

2 衛藤 利絵 2008 年 9 月~2009 年 8月(1年)

3 小野真理子 2009 年 9 月~2012 年 6月(3年)

4 西坂 祥平 2012 年 9 月~2014 年 8月(2年)

5 竹内 七奈 2014 年 9 月~現在

<思い出すこと(23) ~日本語教師として~> *西坂祥平(2012) [大学院・日本語支援教育専修 2011 年修了生] 南京農業大学に赴任したのは、修士課程を修了してから半年後の 2012 年 9 月であった。日本語教

師として約 2 年間、中国で暮らした。教師と言いながらも、逆に学生から教わることのほうが多かっ

たように思う。 南京に赴任してまず感じたことは、現地の学生たちはとにかく勉強する、ということであった。学

生たちの朝は早い。南京農業大学の図書館は毎朝 8 時に開館であったが、開館前には既に玄関前に学

生の姿がある。勉強するスペースを確保するためである。というのも、学生のほとんどが 6 人部屋の

寮で生活しており、自室では落ち着いて勉強できないのだそうだ。さらに話を聞くと、図書館が開く

前に、多くの学生は学生寮に隣接する運動場や、学内の広場などで勉強を始めている。私も機会があ

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ってその様子を何度も目にしたが、テキストを手に持ち、声に出して読んでいた。聞こえてくるのは

中国語や英語、日本語などであった。これも部屋ではルームメイトの迷惑になるから外で行うほかな

いらしい。驚いたことに、こうした環境に対して不満を言う学生がほとんどいなかった。私は中国に

渡る前に、学部と修士課程の計 6 年間を宮崎大学で過ごしたが、情けない話、置かれた環境に不満を

持つことが少なくなかったように思う。南京の学生の姿を見ると、不満を言っても仕方ないのだから、

その時間を使って勉強した方がいい、といった姿勢が感じられた。こうした学生の前に立つわけであ

るから、教師自身もしっかり勉強しなければと、気が引き締まる思いがしたことを覚えている。また、

日本語教師として派遣されていても、すべての学生にとって日本語の先生であるわけではなかった。

授業の中には「日本文化史」という、全学向けの教養科目のようなものもあった。学生は日本語が、私

は中国語がわからず、大学院生の通訳付きで行われた。さらに、毎週学生が主催する日本語コーナー

といった企画もあった。参加する学生も、日本語を学んでいる学生ばかりではなかった。日本語が上

手になりたいと思っているわけではなく、日本人と話してみたい、日本について聞いてみたいという

思いのほうが強いようであった。彼らにとっては目の前にいる一人の先生が「日本人」のイメージに なりかねない。責任重大であると感じた。結局、背伸

びしても仕方ないので、できるだけ楽しい時間を共有

できれば、くらいに考えるようにした。こうした学生

たちに、結局なにかを伝えられただろうか。何を伝え

ればよかったのだろうか。学生たちから、今後も考え

ていかなければならない宿題をもらったような気が

する。 南京に渡る直前、知り合いの先生から「現地の日本

語教師は草の根ですよ」というメールを受け取った。

2 年間を通して、果たして少しは根が張れただろうか。

今後、南京にたくさんの宮崎産の根が張られて、深く

広がっていくことを願ってやまない。 <学生たちと(後列中央)>

(4) 上海交通大学(中国・上海市)

上海交通大学 (Shanghai Jiao Tong University) 上海市にあり、1896 年に創立された中国で最も古い大学の一つであ

る。1982 年中華人民共和国国務院教育部直属の国立総合大学となる。

国家重点大学であり、理工系の伝統が強く、清華大学、北京大学に次ぐ

難関校である。船舶・海洋工学部、エネルギー工学部、電子情報学部、

農学部、薬学部、化学及び応用化学学部、外国語学部、体育学部など

30 学部から成り立ち、学部学生数は 18,000。また、マネージメント・

工学、精密機器・機械、通信・情報システムなどの分野で大学院があ

る。大学院生数は 4,000.教職員数は 3,000。

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(i)交流のきっかけ

1993 年 12 月に工学部の西 亮教授が上海交通大学を訪問し、ロボット研究所の

施設・設備を視察した。その後(1995 年)、上海交通大学の呂恬生教授がロボット

研究のため、宮崎大学工学部の西研究室に半年間滞在した。1997 年に西教授が再

度上海交通大学を訪問し、特別講演を行った。その時、根本政之経理部長も同行

し、学術研究に関する財政上の諸問題について調査・打ち合わせを行った。1999

年の 1月に白同朔上海交通大学副学長が宮崎大学を訪問し、二神光次学長、長谷

川武夫工学部長、福原利一農学部長、草野勝彦教育学部長と会見して、両大学の

国際交流について話し合った後、その年の 12 月に二神学長が、志摩健介教授、石

塚興彦教授、岩切健一郎庶務課長とともに上海交通大学を訪問し、交流協定書の

調印を行った。翌年の 4 月に工学部生が派遣され、交流が始まった。

(ⅱ) 交流実績(★上海交通大学との交流実績[特に農学部関係]に関しての情報は、当時農学部に

在職されていて、この交流に深くかかわられた永田雅輝氏から提供されたものです。)

1997 年 3 月、農学部永田雅輝教授が鹿児島大学大学院連合農学研究科博士課

程で研究指導した留学生曹其新君が同博士課程を修了後、上海交通大学機器人

研究所助教授に就任したことを機会に、永田教授を中心に農学部での本格的な

学術交流が始まった。当時の上海交通大学には、本学で学んだ元研究員や元留

学生が5人ほど勤務していたことも関係し、上海交通大学側も本学出身の彼等

の活躍ぶりを深く認識していたことから、両大学間の人的関係は緊密かつ良好

な状況にあり、両大学間の交流はすべての課題で順調に推移した。 1999 年に学術交流を始めた翌年の 2000 年には早速、永田教授が JASSO(学

生支援機構)の留学生フォローアップ事業の採択を受け、曹其新助教授に研究機

材(コンピュータ、カメラ等)を寄贈し、教育研究のバックアップをした。

2001 年には農学部から学生派遣が行われ、大学院生中島竜佑君が 1 年間留学

し、農学分野のロボット開発の共同研究に取り組み、期待以上の成果を上げ

た。その後、2004 年 10 月に 2 回目の交流締結更新をするため、永田教授、工

学分野のロボット研究交流を進めるために工学部川末紀久仁准教授他が訪問し

た。更新後の 2005 年、2006 年は、本学からは教職員及び学生による訪問、上

海交通大学から曹教授他教員招聘をするなど交流を進めた。また、2006 年に

は、上海交通大学博士課程学生の研究生受入れ(1年間、指導教員永田教授)

を行った。 さらに両大学の交流を深化するため、2007 年 12 月には、医学分野の交流を開

始するため、住吉昭信学長を団長として池ノ上克医学部長、永田雅輝図書館長

他で訪問し、上海交通大学張杰学長、朱正鋼副学長兼医学部長他と会見し、今

後は農学・工学分野に加えて医学分野での交流を推進することを確認した。

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2009 年 12 月に 3 回目の交流締結のために、菅沼龍夫学長を団長として医学

部関係者、永田図書館長他も同行し、上海交通大学張杰学長、張副学長、厳学

長補佐等と会見し、医学分野も含めた大学間学術交流協定の更新締結を行っ

た。医学部分野ではその後、翌年 2010 年 11 月に菅沼学長他が再訪し、陳国強

医学院長等と会見し、上海交通大学医学院と宮崎大学医学部間での学生交流協

定を締結した。2012 年 10 月、菅沼学長等が上海交通大学医学院創立60周年

記念行事に招待され、今後も両大学間の研究者及び学生の交流を深めて行くこ

とを確認した。

工学分野では、2013 年 7 月、宮崎大学において、川末教授が責任者となり、

上海交通大学から研究者・学生を招聘し、サクラサイエンス「宮崎大学・上海

交通大学とのロボットシンポジウム」を開催し、高校生も参加する企画を両大

学で実行できるまでに国際交流が深まった。

これまでの両大学における国際交流の実績が称えられ、上海交通大学から

2004 年に永田教授に客員教授の称号が与えられ、2012 年には菅沼学長にも客

員教授の称号が与えられた。また、宮崎大学からは、2011 年に上海交通大学曹

其新教授および同大学国際合作交流所許万国氏に宮崎大学国際連携センター客

員教授および客員研究員の称号が与えられた。

中国屈指の名門大学である上海交通大学との医学・工学・農学分野における

学術交流及び学生交流は,本学にとっても大きなメリットであり,更なる発展

と継続が期待される。

2009 年 10 月 国際交流協定締結更新

(右:張杰上海交通大学長、左:菅沼龍夫宮崎大学学長、

写真:永田氏提供)

<思い出すこと(24) ~上海交通大学留学の思い出~>

*中島竜佑(2001~2002)[大学院農学研究科修士課程 2 年]

上海交通大学は、中国の理科系大学の中でも有名な大学のーつで、著名な卒業生として江沢民など

を排出してきた歴史のある大学である。本大学は、中国の商業の中心都市上海の中心部に位置するこ

ともあり、国内外の多くの企業が共同研究の場として大学を利用している。現在、上海市およびその

周辺地区には日本企業を含めた世界各地の企業が進出している。大学はその中にあって産学共同の場

所を提供しているようにも思えた。

私が所属していたのは上海交通大学の中でもロボット研究所といわれているところであった。名称

はロボット研究所であるがその研究内容はサッカーロボット、笛演奏ロボットなどの娯楽的なロボッ

トから、爆破物処理ロボット、消火ロボットなどの特殊ロボット、超大型プリンタ、GPS、Bluetooth などハード関係に至る最先端の物を扱っている。農業機械を専攻している私はその中で農業機械

分野での研究を行った。

私は青果物の選別システムの構築を行った。日本においては機械による青果物の選別は一般的であ

るが、中国においては販売形態の違いから、手作業が一般的であるために選別に関する機械があまり

普及していない。しかし、一部の企業では輸出用の青果物の規格を統一し高品質のものを輸出するた

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めに選別機が必要になってきた。私とパートナーを組んだ朱研究生は青果物の選別を機械で行うため

のソフトウェアを作成した。 朱研究生は工学部の学生であるために農業に関する分野があまり得意ではなかった。一方私はプロ

グラミングに関する技術が十分ではない。したがって、お互いを補い合うようにしソフトウェアを作

成することに成功した。開発したソフトウェアは中国産のトマトを重量、形状、損傷の有無などから

選別することが可能である。1年間の研究が形として残ったので、とてもうれしかった。 今回一年間留学したことで、専門的な技術を習得できただけではなく、中国語が話せるようになっ

たこともよかったと思う。また、他の日本人留学生、外国人留学生と交流を持つことができたこと、

多くの中国人の学生と友達になれたことが本当によかった。 最後にこの場を借りて、僕を派遣してくださった、指導教官の永田雅輝先生、留学中に親身になっ

てお世話をしてくれた留学生係の皆様、また上海交通大学曹其新先生にお礼を申し上げます。

(ⅲ) 交流の内容

*学生交流

[派遣]

氏名 学年 期間

1 田鹿 倫基 学部 3年 2006.9~2007.7 10 ヶ月

2 村永かおる 学部 3年 2009.9~2010.7 10 ヶ月

3 清水知慧美 学部 3年 2010.9~2011.7 10 ヶ月

4 高野七菜子 学部 3年 2011.9~2012.7 10 ヶ月

5 長野美沙紀 学部 3年 2012.9~2013.7 10 ヶ月

*上海万博視察等(於:上海 2010 年 10 月 27 日~10 月 30 日)[日本青年上海万博訪問団]

1 大江 貴博 学部 1年 3 永友佑布子 学部 3年

2 落合みゆき 学部 3年 4 原田 知沙 学部 1年

*宮崎大学サマープログラム(於:宮崎大学)

期間 参加人数

1 2007 年 7 月 23 日~8月 10 日 6

2 2008 年 7 月 22 日~8月 8 日 13

3 2010 年 7 月 20 日~8月 5 日 0

(5) リュブリャナ大学(スロベニア・リュブリャナ市)

リュブリャナ大学 (University of Ljubljana) スロベニア・リュブリャナ市に 1919 年に設立された世界で最も大きな大学の

一つ。そのときは法学、哲学、科学技術学、神学、薬学の 5学部であった。現

在は、バイオテクノロジー、経済学、建築学、社会科学、電気工学、土木工

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学、数学、社会福祉学、文学、教育学など 23 学部が存在する。さらに 3つの専

門学校(音楽・舞台・美術)を擁している。大学の本館 Rektorat Univerze はリ

ュブリャナ市の中心地にあり、最初(1902 年)は国家の大邸宅として設計された

ものであった。

<リュブリャナ大学本館 Rektorat Univerze (足立氏提供)>

★リュブリャナ大学との交流に関しての情報は、当時農学部に在職されていて、この交流に深く

かかわられた足立泰二氏から提供されたものです。

(i)交流のきっかけ

1980 年 9 月にリュブリャナ大学で開催された第 3 回ユーゴスラビア遺伝学会

のサテライト学会・ソバに関する国際シンポジウムに宮崎大学から長友大教授

と 2回目のドイツ滞在中の足立泰二助教授が招待を受けた。1983 年 9 月に今度

は宮崎で第 2 回国際ソバシンポジウムが開催され、リュブリャナ大学のクレフ

ト教授ほか若手研究者が参加し、両大学を核としたソバ研究の国際化が進ん

だ。さらに 1986 年・1989 年の国際研究集会を通して両大学の交流が進展した。

(ⅱ)協定締結(1992 年)

1988 年、リュブリャナ大学生物工学部と宮崎大学農学部は国際研究交流協定

を締結し、両大学の研究者たちは 1990 年のアムステルダムやレニングラード

(現サンクトペテルブルグ)などの学会やシンポジウムにも同行し、研究交流を

重ねた。1992 年、当時の池田一学長名代として、足立泰二氏が「リュブリャナ

大学と宮崎大学との国際交流協定」の協定書に署名した。それまでの学部間交

流から、宮崎大学としては初の大学間交流協定となった。

(ⅲ)交流の内容

*日本語関係の図書寄贈

1998 年に、文部省の了解を得て、宮崎大学図書館の重複図書(約 300 冊)をリ

ュブリャナ大学日本語学科に寄贈した。

*学生派遣

1994 年、日本学術振興会長期派遣学生として農学部の女子学生をリュブリャ

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ナ大学に派遣した。農学部卒業後、修士課程に進学し再度留学した。研究の傍

ら、リュブリャナ大学文学部日本語学科の TA としても貢献した。現在も学究

の道を歩んでいる。

*学生交換

[派遣]

氏名 学年 期間

西坂 祥平 M1 2011.2~2011.8 半年

[受け入れ]

氏名 期間

フェコンジャ・シュペラ 2010.10~2011.9 1 年

ポロナ・ビーハー 2011.10~2012.9 1 年

<思い出すこと(25) ~リュブリャナの日々~>

*西坂祥平(2011) [大学院・日本語支援教育専修]

2011 年 2 月から約 5 か月間、宮崎大学から初の交

換留学生としてリュブリャナ大学に在籍する機会を得

た。日本から遠く離れた地での生活はこれまでにないほ

ど貴重なものであった。その中でも忘れられない経験が

3 つある。 1 つ目は修士論文の資料収集である。当時、私は日本

語母語話者との接触が極めて少ない環境における日本

語習得に関心を寄せていた。滞在中、リュブリャナ大学

文学部アジア・アフリカ研究学科日本研究講座の先生

方、学生の協力もあり、ひたすら日本語専攻の学生たち <友人たちと(左端が西坂くん)>

と日本語で会話し、それを録音させてもらった。大学 1 年生から 4 年生、大学院生、さらには市民講座

で日本語を学ぶ高校生も含まれていた。彼らとの対話を通して感じたことは、彼らの日本への好奇心が

とても大きなものであるということ、そして彼らの好奇心を満たせるほどのものが自分自身の中にない

ということであった。異国で生活する際、その土地のことを知ることが重要であることは言うまでもな

いが、どのくらい日本について語ることができるかも、同じくらい重要であることを学んだ。 2 つ目はスロヴェニア以外の欧州の国にある日本語教育機関を訪れたことである。リュブリャナ大学

で受け入れをしてくださった重盛千香子先生のご紹介で、ウィーン大学(オーストリア)、フンボルト大

学、エアフルト大学(ドイツ)、ベオグラード大学(セルビア)を訪問し、日本語クラスを見学すること

ができた。移動がすべて鉄道というのも陸続きの欧州ならではの体験だった。現地では先生、学生から

の様々なサポートがあり、大変有意義な時間を過ごすことができた。いまでも繋がりのある学生や先生

もいれば、その時の経験が後になって新たな出会いを生んでくれもした。気軽に国を出られることも、

日本の四国ほどの面積であり、EU に加盟するスロヴェニアへの留学の醍醐味であると言えるだろう。 最後は、スロヴェニアという異文化に身を置けたことである。EU では加盟国間での学生交流が盛んで、

多くの国からの留学生がリュブリャナ大学に在籍していた。私のルームメイトもスペインからの留学生

だった。ことばはもちろん、生活のスタイルも異なる学生との共同生活から、物事を良し悪しで見るの

ではなく、ただ単に「違うだけ」という見方を学んだような気がする。また、現地で出会った日本人留

学生からも多くの刺激を受けた。様々な背景、目的をもってスロヴェニアに滞在する彼らとの対話では、

互いのこと、スロヴェニアのこと、日本のこと、スロヴェニア以外の国や地域のことなど、話題が尽き

ることはなかった。 こうして思い返してみると、リュブリャナ大学での 5 か月間は新しい出会いの連続であった。留学し

なければ絶対に出会うことがなかった人々との出会いが、今の私にとって大きな財産となっている。

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(6) 協定校以外からの留学生受け入れ

宮崎大学教育文化学部は協定校からだけでなく、その他の海外の教育機関か

らの留学生も受け入れてきている。入手可能な情報を基に以下のような表を作

ってみた。逆に、協定校以外に留学した学部学生も多数いたわけであるが、そ

の情報をすべて入手するのは残念ながら無理であると考えて断念した。

年度 氏名 教育機関 国

1995 Lee Young Ju 永北総合高校勤務 韓国

厳 恵珍 仁済大学校 韓国

Najim Imtihani Gadjah Mada University インドネシア

Maffre Chan フランス

1996

David Mackillop Brigham Young University アメリカ

Van Thi Thu Nguyen ハノイ貿易大学 ベトナム

Je Chan Shin 大邱大学校 韓国

Pan, Qin 上海外国語学院大学 中国

1998 Michal Mazurek ワルシャワ大学 ポーランド

Huyen Thi Thanh Le ハノイ貿易大学 ベトナム

Huy Binh Luong ハノイ貿易大学 ベトナム

Kumpolkrung Chamaiporn タイ

Ntividad Rodoriguez Batalla Ma メキシコ

Phyu Phyu Win ミヤンマー

1999 Hongmei Li 遼寧師範大 中国

Sung Gae Hae 釜山外国語大学 韓国

Balite Ernieva Bartolome Bulakan State University フィリピン

2000 Saruultuya Khabaatar 国立技術大学 モンゴル

Macaraeg Emmanuel Cavento Bataan Polytechnic State C. フィリピン

2001 Tin Moe Moe Myint タウング教育大学附属学校教員 ミヤンマー

Barbara Maria Olejniczak アダマミツケビチャ大学 ポーランド

Emily Lauren Cooper アメリカ

2003 Steponavicuiute Agne リトアニア

2005 Bonnaud Yannick Nicolas Patrick フランス

2006 Pham Thi Lan Huong ハノイ農業大学 ベトナム

2007 Tudsri Pthai カセサート大学 タイ この 3名は

「サマープロ

グラム」参加 2009

Dong Yifan 青島大学 中国

Hu Qinfang 大連理工大学 中国

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(7) 県費ブラジル留学生

県費留学生受け入れ事業は、開発途上国等から留学生を受け入れ、自国の発

展に貢献し得る人材を養成するとともに、広く県民との交流を通じて国際相互

理解と友好親善を図ることを目的としている。宮崎県では、昭和 41 年度(1966)

から県費留学生受入れ事業を実施しており、平成 27 年度(2015)までに 88 名の

留学生を受け入れてきた。そのうち教育(文化)学部は 23 名を受け入れてきた。

年度 氏名 専門課程

1 1970 塩月のぶ子

2 1972 岩切多美子

3 1974 長渡 春美

4 1974 東郷 俊久

5 1975 佐藤 富江

6 1976 弓削千恵子 数学教育(研究生)

7 1977 田久美ミエ子 数学・コンピュータ(聴講生)

8 1977 中島 聖子 社会学(情報)(聴講生)

9 1979 八ヶ婦マリ 都城商業圏の研究(研究生)

10 1980 山田真理恵 日本語

11 1981 塩月アンジェリカ 歴 史

12 1981 住谷 直香 美 術

13 1982 長友(渡司)直美 数学教授法(研究生)

14 1982 串間ジルダ 現代日本語文法(研究生)

15 1983 中浦ローザ直美 現代日本語文法(研究生)

16 1983 大内マルシアしずか 数学教授法・コンピュータ(研究生)

17 1988 田中かおるルシラ 心理学(研究生)

18 1995 瀬尾紀江マルシア 陶芸芸術(研究生)

19 2002 高野早苗リジア 保健体育(研究生)

20 2003 矢野パトリシア 心理学(大学院 研究生)

21 2010 末光かつき 経営学

22 2012 中村セリナ小百合 教育心理学

23 2015 加藤カレン民江 日本語教育

*他の留学先は以下の通り:

産経大 12 宮大(農) 15 都城高専 5

医科大 6 国際大 4 県病院 2

宮大(工) 18 公立大 2 霧島酒造 1

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(8)教育文化学部の現在の協定校

<大学間交流協定> 2015 年 11 月現在

協定校 国 学術交流協定締結 学生交流覚書締結

1 エヴァグリーン州立大 アメリカ 1987 年 7 月 15 日

2 嶺南大学校 韓 国 1988 年 2 月 8 日 2005 年 11 月 28 日

3 リュブリャナ大学 スロベニア 1988 年 9 月 30 日 2008 年 4 月 8日

4 順天大学校 韓 国 1989 年 11 月 21 日 1995 年 8 月 22 日

5 南京農業大学 中 国 1990 年 11 月 28 日 2005 年 11 月 2 日

6 東呉大学 台 湾 2013 年 11 月 14 日 2004 年 9 月 6 日

7 全北大学校 韓 国 2009 年 12 月 15 日 2009 年 12 月 15 日

8 開海大学 台 湾 2013 年 3 月 15 日 2013 年 3 月 15 日

9 大葉大学 台 湾 2015 年 3 月 28 日 2015 年 3 月 28 日

<学部間交流協定>

協定校 国 学術交流協定締結 学生交流覚書締結

1 国立政治大学 (外国語学院)

台 湾 2009 年 3 月 23 日 2009 年 3 月 23 日

2 釜山外国語大学校 (日本語学部)

韓 国 2011 年 12 月 16 日

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(1) 招聘外国人研究者による講演

*教育文化学部は学外(特に海外の協定校)から様々な研究者を招聘して、学生や教

職員に向けて講演をしてもらい、新鮮な刺激を与えてもらった。

*次ページの表を見て分かるように、協定校からの先生が大部分である。前半に学

部最初の協定校であるエヴァグリーン州立大からの先生が多かったのは、共同研

究のためでもある(p.93 参照)。講演は主にエヴァグリーン州立大の独特の教育内

容に関するものであった。

*J.H.ジョーダーン氏はこの年(1993)に宮崎で開催された「世界ベテランズ宮崎大

会」に参加するための来宮を利用して、是

非南アフリカの教育のことを日本の方々に

紹介したいという気持ちで、教育学講座の

橋迫先生に申し込んで来られたのを、英語

科の平瀬が事務的な仕事を引き受けて実現

したものだった。

<講演中の J.H.ジョーダーン氏>

*D.ケスラー氏を招聘したのは教育の河原国男先生であった(2001 年)。ケスラー

氏は社会学が専門で、講演の副題は「1919 年の一テキストが今日なおわれわれ

に何を語りうるか?」。受講者には日本語の資料が配布され、講演はドイツ語で

行われた。

*V.マスナックの講演会(2003 年)は学部音楽教育

講座と生涯学習教育研究センターの共済で開催

された。氏は非ヨーロッパ圏のヒーリング・ミ

ュージックを研究されており、延岡の盲僧琵琶

奏者・永田法順氏への取材調査をかねて宮崎に

来た。音楽療法の視点からドイツの音楽科教育

について解説した。 <マスナック氏>

*次ページの表の後半は、2004 年と 2009 年に協定締結した台湾の東呉大学と国

立政治大学からの先生方の講演が多い。陳 淑娟先生の講演は「日本語支援教育

専修設立記念講演会」の一環として開催された。蔡 茂豊先生の講演は 3年間で

4 回に及び、その原稿は『蔡 茂豊 講演録』としてまとめられた(p.60 参照)。

*U.リヒター氏は 1992 年~2002 年の 10 年間、宮崎大学のドイツ語教員として勤

務した。最初の講演(2006 年)は「みやざき学」研究同人、「日本語支援教育専

修」と「ドイツ語講座」により開催され、学部長裁量経費を使った。2回目の講

演(2014 年)は「清花アテナ男女共同参画推進室」が主催した。

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Ⅶ . その他の国際交流活動

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*2011 年に S.ピュー氏を招聘したのは英語科の下條恵

子氏(通訳も)であった。ピュー氏は村上春樹の短編集

『神の子どもたちはみな踊る』の中から、「かえるくん、

東京を救う」と「蜂蜜パイ」の 2編を取り上げた。講演

後は、さすがに日本の若者にも人気のある作家・村上春

樹の作品論だけに、活発な質疑応答がおこなわれた。一

つ一つの質問に丁寧に答えていた姿が印象的であった。

<ピュー氏の講演>

年月 場所 講演者 タイトル

1 1987.7 自然科教室 B.スミス

(エヴァグリーン州立大) 「エヴァグリーン州立大の試み」

2 1993.10 学部第一会議室 J.H.ジョーダーン

(南アフリカ大学)

「南アフリカ共和国の学術・文化

と環境教育」

3 1996.11 学部講義室 B.スミス

S.フィクスダール

(エヴァグリーン州立大)

「大学における生涯学習について」

4 1997.6 生涯学習

センター

N.テイラー

S.コジック

(エヴァグリーン州立大)

「エヴァグリーン州立大の

生涯学習支援」

5 1999.5 学部第二会議室 堤 節子

(エヴァグリーン州立大) 「エヴァグリーン州立大の教育」

6 1999.9 生涯学習

センター

T.ゲオルゲン

(ムテジウス芸術大学)

「家なるものの外部へ」

(Out of Home)

7 2001.3 学部講義室 D.ケスラー

(マールブルク大学)

「職業としての学問に関する

マックス・ウェーバー」

8 2003.5 生涯学習

センター

V.マスナック

(ミュンヘン音楽大学)

「ドイツ語圏における音楽科教育

の現状と課題」

9 2005.1 学部第一会議室 陳 淑娟

(東呉大学)

「台湾における日本語教育

~教員養成の現状と問題点~」

10 2005.12 学部講義室 D.キーン

(ダニーデン教育大)

「太平洋に架ける橋

~宮崎---ダニーデン~」

11 2006.1 学部講義室 U.リヒター

(元宮崎大学教員)

「芸者の微笑

~欧米の視点から見た日本文化~」

12 2007.3 学部第一会議室 蔡 茂豊

(東呉大学)

「台湾の日本語教育

~過去、現在そして未来」

13 2008.11 学部第一会議室 蔡 茂豊

(東呉大学)

「台湾の日本語教育

~過去、現在そして未来」Part II

14 2009.11 学部第二会議室 蘇 文郎

(国立政治大学)

「日本語の引用表現と

変化表現の諸相」

15 2010.3 学部第一会議室 蔡 茂豊

(東呉大学)

「台湾の日本語教育

~過去、現在そして未来」Part III

16 2010.12 学部第一会議室 蔡 茂豊

(東呉大学)

「台湾の日本語教育

~過去、現在そして未来」Part IV

17 2011.7 学部講義室 S.ピュ―

(福岡女子大学)

「トラウマをこえて~村上春樹『神の

子どもたちはみな踊る』を読む」

18 2014.1 学部講義室 U.リヒター

(元宮崎大学教員)

「ドイツにおける

女性を取り巻く状況」

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(2)国際的研究活動

(ⅰ)エヴァグリーン州立大との共同研究 (1996 年~1999 年)

川野日郎学部長は 1994 年 10 月 9 日から 14 日にかけて、平瀬学部学生国際交

流委員長を伴ってエヴァグリーン州立大を訪問した。その訪問の主たる目的は、学

部長が以前から深い関心を抱いていたエヴァグリーン州立大の教育を直に視察し、

その教育方法を本学に取り入れる可能性を探ることであった。 実際にエヴァグリ

ーンの教育を目の当たりにして帰国した後、川野学部長は即座に「文部省・科学研

究費補助金(国際学術研究)」(3 年間)に申請書を提出した。1996 年 4 月に「科学研

究費補助金」獲得の通知が届き、その年の 11 月から共同研究が動き出した。

<研究組織>

・代表者:川野 日郎

・分担者:草野 勝彦 ・分担者:バーバラ・スミス

・分担者:上條 秀元 ・分担者:スーザン・フィクスダール

・分担者:原 義彦 ・分担者:ドナルド・フィンケル

・分担者:平瀬 清 ・分担者:ラウル・ナカソネ

・分担者:吉田 甫 ・協力者:ナンシー・テイラー

・分担者:堀 和郎 ・協力者:ステファニー・コジック

・協力者:小林 辰至

・協力者:賀須井昭平

<研究のねらい>

*川野氏はエヴァグリーンでの一連の授業参観(1994 年)のあと、共同研究を行う

ことを決めた理由について次のように述べている:

「...このような経緯の中でこれからの日本の大学における教育の在り方を考える

とき、われわれにはエヴァグリーンの教育方法が一つの大きな可能性を示している

ように思われた。さらに、21 世紀を生涯学習社会と捉えるとき、『生涯学習』の観

点からも制度的側面、教育の実際等、学ぶべき事が多く、共同研究の必要性を強く

感じたのである。そこで...」(『報告書』の「はしがき」)

<研究経過>

★ 第 1 回会合 (1996 年 11 月 10 日(日)~16 日(土))

・場 所:宮崎大学教育学部

生涯学習教育研究センター

・招聘者:バーバラ・スミス

スーザン・フィクスダール

・主内容:大学教育と生涯学習についての

協議並びに講演等を実施

<講演前、宮崎日日新聞のインタビューに答えるスミス氏とフィクス

ダール氏(1996 年 11 月 13 日 教育文化学部 103 教室)>

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★ 第 2 回会合 (1996 年 12 月 10 日(火)~15 日(日))

・場 所:エヴァグリーン州立大

・派遣者:草野 勝彦 平瀬 清

・主内容:授業視察並びにアンケート等による調査

★ 第 3 回会合 (1997 年 1 月 25 日(土)~2月 2日(日))

・場 所:エヴァグリーン州立大

・派遣者:上條 秀元 原 義彦 賀須井昭平

・主内容:授業視察並びにアンケート等による調査

★ 第 4 回会合 (1997 年 6 月 14 日(土)~21 日(土))

・場 所:宮崎大学教育文化学部

生涯学習センター

・招聘者:ナンシー・テイラー

ステファニー・コジック

・主内容:アクティブ・ラーニング

をめざした学部大学院に

おける授業実践

<テイラー先生とコジック

先生を迎えて (生涯学習センター 1997 年 6月 17 日)>

★ 第 5 回会合 (1998 年 6 月 3日(水)~10 日(水))

・場 所:エヴァグリーン州立大

・派遣者:川野 日郎 小林 辰至 平瀬 清(エヴァグリーン滞在中)

・主内容:研究のまとめ(各教員による年間授業報告書(Portfolio)の説明)

<研究成果>

*研究成果報告書『大学におけるリカレント教育の推進について ~21 世の生涯学

習社会における新しい大学教育を求めて~』(1999 年 3 月)

*われわれのエヴァグリーンとの共同研究について は 1999

年 4 月 18 日の宮崎日日新聞(【資料 ⑥】)にかなり大きく

く取り上げられた。

「知識の詰め込みではなくて、専門知識の体系的な習得に取り

組むエヴァグリーン大のざん新な教育手法の意義を強調。」

「報告書では大学の中の教育の役割を重視、積極的に教育の機

能を高めることを提言している」(記事からの抜粋)

*宮崎大学教育文化学部でもこの種の教育手法を見直す動き

が一時起こりかけたが、この手法を試みたあるいは実践し

ているという話しは耳にしていない。

<『報告書』表紙>

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(ⅱ) ガーナ国理数科支援プロジェクト(理科・数学教育)(2000 年~2005 年)

(STM[Science, Technology and Mathematics] Project)

*このプロジェクト(2000 年 3 月 JICA が開始)の宮崎大学教育文化学部からの参加

教官の一人である中林健一助教授(当時)はその内容を『学報』(2011 年 11 月号)

において以下のように説明している:

「....平成 12 年度から 5年間の予定で開始されたこのプロジェクトは、ガーナ国の小

中学校理数科教師の質の向上を目指す JICA の教育支援プロジェクトです。教育文化

学部では初年度から広島大学・福岡教育大学・信州大学とともにこのプロジェクト

に参加しています。主に理科教育、数学教育及び実践研究指導センターの関係教官

の協力を得て、ガーナ教育サービス(日本

の文部科学省に相当)教師教育局所属の

カウンターパート(専門家から研修を受

ける相手国の研修員のこと)の受け入れ

と短期専門家としての学部教官のガーナ

国への派遣活動を行っている。これまで

に、ガーナ国側から合計 4名の理数科教

師(平成12年度及び平成13年度ともに理

数科教師 2名ずつ)が来宮し、宮崎大学で

<2 人のカウンターパート、岩本学部長を表敬訪問(2001 年 10 月)> 研修を終えています。宮崎の研修では

学部年度及び平成 13 年度ともに理数科教師 2名ずつ)が来宮し、宮崎大学で研修を

終えています。宮崎の研修では学部教官による教科指導、附属や公立小中学校など

の現場視察など、さらに宮崎県教育庁のご協力を得て現職教員研修のなどを行って

います。我々はガーナ国の理数科教師が学校現場で子供たちにわかりやすい授業が

実施できるように、さらに帰ってすぐに日本で学んだことが実践面で役に立つよう

に心がけて指導を行っています。また、ガーナ国の教育の現状を知るために教育文

化学部からこれまでに合計5名の理数科教官が短期専門家としてガーナ国を訪問し、

現地の学校現場を視察するとともに、教授法の改善アドバイスを行っています。こ

のように、国を超えてグローバルに人的交流することは、我々の教育や社会の質を

かえりみるよい機会にもなっています。ガーナ国の理数科教師が質の高い授業を展

開できるよう今後も協力していく予定です。」

*2001 年度に宮崎大学教育文化学部で行われた「カウンターパート研修」の概要

は以下の通りである。

・研修期間:2001 年 10 月 1 日(月)~10 月 12 日(金)

・研修受講者:モリナ・ジェイコブ・ウィリー(理科 42 歳)

アコト・フィリップ・ビクター(数学 38 歳)

・学部対応教官:小林辰至(附属教育実践センター)、川村氏(JICA 九州)

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中林健一(化学)、添田佳伸(数学科教育)、伊喜哲一郎(応用

数学)、宇田廣文(数学科教育)、川野日郎(解析学)、その他

の大学・附属学校の理科・数学教官

・実施協力機関:宮崎大学/附属小学校/附属中学校/宮崎中学校

清武中学校/県教育研修センター

・到達目標:(1)日本における現職教員研修及び校内研修の理解

(2)ガーナで実施する現職教員研修のモデルプログラムの作成

・評価会(最終日):カウンターパートによる模擬授業とそれに続く評価会

*2003 年 7 月 18 日に「2003 年度ガーナ国理数科支援プロジェクト」の最後の日

[7 月 18 日(金)]に「宮崎大学カウンターパート研修評価会」が 10 時から 12

時まで学部第二会議室で開催された。

・参加者:サミュエル・アクア(数学)、マハマ・J・バーコ(理科)、

アコエレイ・E・ローソン(理科)

・発表:(1)各自の模擬授業(2)現職教員研修のモデルプログラム(案)発表

・コメンテーター:大塚祐司氏(大分県立舞鶴高校)、齋藤理子氏(JICA),

橋口宣文氏(元海外青年協力隊員)

・修了式:「修了書」授与(岩本学部長/齋藤理子氏[JICA]) ・歓送会 ・座談会

*このプログラムでは、ガーナの理数科教員(カウンターパート)あるいは教育関

係者が宮崎に来て専門家(宮崎大学の理科教員)から研修を受けるだけでなく、

宮崎大学の理科を中心とした教官(小林辰至、中林健一、吉田 甫、添田佳伸、

伊喜哲一郎)がガーナを訪問して、現地でカウンターパートに指導を行った。

一度ならず、二度も行った教員もいた。

*この現職教員プログラムの方法と成果については「ガーナ国における理数科教

育支援のための現職教員プログラム」というタイトルで論文としてまとめられ

『宮崎大学教育文化学部附属教育実践総合センター研究紀要 第12号』(p.59-73

2004 年)に掲載されている。

(ⅲ)国際シンポジウム「多言語同時学習支援」(日本語支援教育専修)

(2006 年~2011 年)

2003 年に宮崎大学教育文化学部に赴任して来た日本語教員・長友和彦氏が前任

大学であるお茶の水女子大学時代の研究仲間と一緒に行ってきた研究は、平成 14

~15 年度・科学研究費補助金研究『三言語併用環境における日本語の発達に関す

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る研究』(報告書 2004 年 3 月)、平成 16~18 年度・科学研究費補助金研究『多言

語併用環境における日本語の習得、教育、及び支援に関する研究』(報告書 2007

年 3 月)という形で結実した。これらの研究は宮崎大学赴任後は新しい研究仲間を

得て「多言語同時学習支援に関する研究」へと継承・発展された。2006 年に第 1

回を開催して以来、長友氏の宮崎大学在任中(2012 年まで)に合計 5回開かれた「国

際シンポジウム」は、その研究の発表の場となった。

★ 第 1 回 (2006 年 7 月 6 日~10 日 ホテル・マリックス(宮崎市))

・7 月 7 日:講演会「多言語同時学習支援と日本語教育・日本語教員養成」

講師:金哲会先生(延辺大)、朴潤鎬先生(順天大)、朱廣興先生(東呉大)

・7 月 8 日:国際シンポジウム「多言語同時学習支援」

大学名 人数 発表者

1 宮崎大学 5 岡林 稔、長友和彦、井上修一、 藤井久美子、平瀬 清

2 延辺大学(中国) 1 金 哲会

3 東呉大学(台湾) 1 朱 廣興

4 順天大学校(韓国) 1 朴 潤鎬

<第 1回シンポジウム・パネリスト。左から:岡林稔先生、金哲会先生、朴潤鎬先生、朱廣興先生>

★ 第 2 回 (2007 年 10 月 15 日~19 日 青島パームビーチ・ホテル(宮崎市))

・このシンポジウムは「宮崎大学-順天大学校 交流 15 周年記念シンポジウ

ム」の一つとして開催された。(もう一つのシンポジウムは「生物資源の利

用」)

・10 月 16 日:「日本語支援教育特別セミナー」(教育文化学部 第 2 会議室)

講師:朴潤鎬先生(順天大)、陳淑娟先生(東呉大)、頼錦雀先生(東呉大)、

金錦珠先生(南京農大)、

・10 月 17 日:国際シンポジウム「多言語同時学習支援」

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大学名 人数 発表者

1 宮崎大学 5 岡林 稔、長友和彦、井上修一、 山田利博、平瀬 清

2 南京農大学(中国) 1 金 錦珠

3 東呉大学(台湾) 2 陳 淑娟、頼 錦雀

4 順天大学校(韓国) 1 朴 潤鎬

・第 1回と第 2 回のシンポジウムの内容は、『国際シンポジウム「多言語(中

国語・韓国語・日本語)同時学習支援 ~東アジアのコミュニケーション基盤

の確立に向けて~」報告書』(2008 年 3 月)にまとめられた。

・またシンポジウムの予稿集、Proceedings of the University of Miyazaki and Sunchon National University Academic Exchange Agreement 15th Anniversary Symposium.(October 17, 2007)に各発表の簡単な要約が記載されている。

★ 第 3 回 (2009 年 12 月 4 日~8 日 国立政治大学(台北市))

・第 3回シンポジウムは 2009 年 3 月に協定締結を済ませたばかりの台湾国立

政治大学で開催された。タイトルは「國際研討會 全球化下多語言同歩學習

之環境與政策」であった。于乃明・外国語学院長と蘇文郎・日本語文学系

主任が中心となって準備・運営が進められた。

・12 月 5 日:国際シンポジウム「多言語同時学習支援」

大学名 人数 発表者

1 宮崎大学 10 岡林 稔、長友和彦、 井上修一、 平瀬 清、小野真理子、浅賀智絵、 永射紀子、藤井久美子、海野るみ 金 善美

2 南京農大学(中国) 1 金 錦珠

3 東呉大学(台湾) 1 陳 淑娟

4 国立政治大学(台湾) 1 尤 雪瑛

5 北京大学(中国) 1 彭 廣陸

6 文藻外国語学院(台湾) 1 翁 幸瑜

その他 輔仁大学、文藻外語学院、香港日語教育協会、ディームド大学、廣西大学 等

・12 月 6 日:国際学術シンポジウム「2009 年度台湾日本語教育研究~日本語

教育のジャンルの広がりを求めて~」に参加(於:静宜大学)

・12 月 7 日:国立政治大学語学教員たち(10 名)との話し合い

★ 第 4 回 (2011 年 3 月 27 日 東呉大学(台北市))

・第 4回も台湾での開催となった。兒玉修学部長が基調講演「社会認識の

方法原理としての対比」を行うために同行した。

・今回は、兒玉学部長の基調講演と平瀬学生交流委員長ほか 3名による特

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別講演、長友和彦氏、井上修一氏ほか 4名によるパネルディスカッショ

ン、シンポジウム、そして 3会場に分かれて行われた論文発表と盛りだ

くさんの内容であった。

大学名 人数 発表者

1 宮崎大学 10 兒玉 修、長友和彦、井上修一、 平瀬 清、永射紀子、上原徳子、 金 善美、衛藤利絵、満石貴美子 魏 艾玲

2 東呉大学(台湾) 9 頼 錦雀、陳 淑娟、王 世和、 林 聰敏、孫 克強、羅 濟立、 余 綺芳、劉 怡伶、彭 思遠、 朱 廣興、

3 国立政治大学(台湾) 1 于 乃明、

4 釜山外国語大学校 (韓国)

2 鄭 起永、諏訪昭宏

その他 大阪電気通信大学、萬能科技大学、開南

大学、淡江大学、台湾大学、文化大学 等

・第 4 回のシンポジウムの内容は、予稿集『2011 年 多語言多文化同歩教/

學』(2011 年 3 月)にまとめられている。

★ 第 5 回 (2011 年 12 月 17 日 宮崎大学教育文化学部(第一会議室))

・長友和彦氏、井上修一氏、平瀬清氏(3 名揃って 2012 年 3 月に宮崎大学

教育文化学部を定年退職)の現職最後の国際シンポジウムであった。

大学名 人数 発表者

1 宮崎大学 7 岡林 稔、長友和彦、井上修一、

上原徳子、金 智賢、平瀬 清、

永射紀子、藤井久美子、

2 南京農大学(中国) 1 金 錦珠

3 東呉大学(台湾) 1 頼 錦雀

4 順天大学校(韓国) 1 朴 潤鎬

5 国立政治大学(台湾) 1 蘇 文郎

6 釜山外国語大学校(韓国) 1 鄭 起永

7 北京大学(中国) 1 彭 廣陸

8 お茶の水女子大学 1 森山 新

9 静宜大学(台湾) 1 邱 若山

・第 5回のシンポジウムの内容は『2011 国際シンポジウム 多言語多文化

同時学習支援~東アジアのコミュニケーション基盤の確立に向けて~<報告

書>』(2011 年 12 月)と『「三言語(日本語・韓国語・中国語)同時学習支

援に関する研究」研究報告書』(平成 21~23 年度 科学研究費補助金研

究 2012 年 4 月)にまとめられている。

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(ⅳ)宮崎大学―順天大学校 共同研究(1994 年~2007 年)

*第 1 次:1994 年~1995 年

・「文部省科学研究費補助金国際学術研究(大学間協力研究)」を獲得。(研究代

表者:杉尾 哲 宮崎大学工学部教授)

・研究課題「大韓民国の生産性の向上と環境の保全」

・教育学部からの参加者:井野 郁男教授

*第 2 次:1996 年~1997 年

・予算は順天大学校側が獲得

・研究課題「大韓民国の生産性の向上と環境の保全」

・研究メンバーは前回と同じ

*第 3 次:1998 年~1999 年

・「文部省科学研究費補助金国際学術研究(大学間協力研究)」を獲得。(研究代

表者:今田清久 宮崎大学工学部教授)

・研究課題「韓国西南地域および九州南東地域における天然資源の幅広い利用」

*「宮崎大学創立 50 周年記念式典」ジョイント・シンポジウム:1999 年 5 月

・教育学部からの参加者:篠原久枝助教授、宮田泰雄講師

*第 4 次:2000 年~2001 年

・順天大学校側が予算を獲得

・研究課題「韓国西南地域および九州南東地域における天然資源の幅広い利用」

*「交流 10 周年記念」シンポジウム:2002 年 9 月

・教育学部からの参加者:山田利博助教授

・「過去 10 年間に全部で 10 冊の Proceedings を発行し、発表収録された論文

は全部で 92 編にわたる」(Proceedings of the 10th Anniversary Symposium of the Exchange between Sunchon National University and Miyazaki University, 2002)

*「順天大学校創立 70 周年記念」シンポジウム:2005 年 5 月

・名和行文副学長とともに位田晴久教授(農学部)、保田昌宏教授(農学部)

広瀬遵准教授(工学部)、甲藤正人准教授(産学連携センター)が参加。

*「交流 15 周年記念」シンポジウム:2007 年 10 月

・韓国学術進行財団理事長 許祥萬氏(前順天大学校長)による記念講演

「世界一流に向けた KRF 知識経営プロジェクト」

・2 つのシンポジウム

① 「多言語同時学習支援」

教育文化学部から:長友和彦、岡林 稔、井上修一、平瀬 清、山田利博

② 「生物資源の利用(Utilization of Biological Resources)」

農学部から 10 名、順天大学校から 6名が参加

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(3)外国人グループ訪問客の受け入れ

(ⅰ)フルブライト・メモリアル基金 アメリカ教員団受け入れ

このプログラムは日本政府による財政的援助を

受けて、アメリカの小中学校の教員と職員がフル

ブライト・メモリアル基金を得て短期間日本国内

を巡り、研修を行うものである。1997 年に開始さ

れた教員の交流事業である。毎年米国人教育者に

日本文化の理解を深めてもらい、帰国後、彼らが

日本で得た知識や経験を自らの生徒や同僚、そ

<熱心な意見交換(1998 年 10 月 12 日 学部第一会議室)> して地域の人々と共有することが期待さ

れている。全米各地で様々な日本関連の教育プログラムを展開すべく招聘してい

る。1997 年以来、毎年県内の特定の市を中心に 20 名の教員団が教育機関や公共

施設を見学し、日本の教育や文化を学んだ。1998 年から 2004 年までほぼ毎年、

宮崎県を訪問する教員団は宮崎大学への訪問をスケジュールの中に組み込むよ

うになった。宮崎大学での研修内容は概略以下の通りである:

(ⅰ)学長表敬訪問(図書館 3階)[学長挨拶-教員団代表挨拶-質疑応答]

(ⅱ)教育学部に移動[学部長の歓迎挨拶-学部内容説明-意見交換(学部教員

+学生)<「科学教育」「生徒指導」等>-教員団代表のお礼の挨拶]

*以下の記事は『キャンパスニュース』(2008 年 10 月号)に掲載された、最後のア

メリカ教員団受け入れを報じるものです。(この年を最後にこのプログラムは終

了した。)

<日本フルブライトメモリアル基金 米国教育者が本学を訪問>

10 月 20 日(月)、日本フルブライトメモリアル基金米国教育者 16 名が、日米の教育交流を目的に

本学を訪問した。日本フルブライトメモリアル基金は、平成 9年から日本政府の拠出金により開始

されたフルブライト・ジャパン(日米教育委員会)が運営するプログラムで、本学への訪問は平成

16 年 6月以来4年ぶり。一行は初めに碇哲雄理事(教育・学生担当)を表敬訪問。碇理事及び訪問

団代表からの挨拶後、本学の教員養成カリキュラムや国際交流協定締結状況などについて、活発に

意見を交わした。 その後、一行は学校教育や地域社会と連

携し、実践的な応用研究を行う同大学教育文化学部の附属施

設である「教育実践総合センター」を視察。担当教員より同

センターの概要やコンピューターを利用した最新教材など

について説明を受けた。引き続き、教育文化学部に場を移し、

同学部の教員や学生、留学生ら約 30 名と両国の様々な教育

事情について、熱心な意見交換が行われた。

~両国の教育事情について意見交換の教育事情について意見交換~

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<カレーの昼食を宮大生たちと楽しむ(生協食堂)>

(ⅱ)インドの若者グループ受け入れ

2007 年に開催された第 2 回東アジア首脳会議(EAS)において、大規模な青少年

交流を通じてアジアの強固な連帯にしっかりとした土台を与えるとの観点から

EAS 参加国(ASEAN、中国、韓国、インド、豪州、ニュージーランド)を中心に、こ

の年から 5年間、毎年 6,000 人程度の青少年を日本に招く交流計画の実施を発表

した。これを受けて外務省はこの年「21 世紀東アジア青少年大交流計画」(JENESYS

Program)を立ち上げた。その一環として、インドの学生・社会人が宮崎大学を訪

問した。以下の記事と写真は『キャンパスニュース』(2009 年 6 月号)からのもの

である:

<宮崎大学学生とインドの若者が交流!>

~環境問題についての熱のこもった討論~

6 月 19 日(金)、外務省の「東

アジア青少年大交流計画」の一

環として、インドの学生・社会

人24名が本学を訪問した。 訪

れたのは自国で日本語を学ん

でいる若者たち。大学到着後、

本学学生とともに大学食堂に

て昼食(カレー)をとり、交流

を深めた。昼食後、訪問メンバ

ーは本学留学生の日本語クラ

スへの参加や、農学部牧場など

を含むキャンパス見学を楽しんだ。その後、本学学生も参加して、メインイベントであるディ

スカッションを行い、複数のグループに分かれて、日本のゴミ問題をテーマに熱心に話し合っ

た。ディスカッションでは、イ

ンドの若者から「リサイクルは

よいことだが、リサイクルが簡

単にできることで、逆に何も考

えず新しいものを買ってしま

う」「環境汚染を防止する日本

のゴミ処理技術をインドにも伝

えたい」などといった意見が活

発にだされ、予定の時間を超え

る充実したものとなった。

<熱心な意見交換(学部第 1会議室)>

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(4)「留学フェア」

留学に関心はあるが、どのような手順を踏んでどこへ留学したら良いのかなど

の情報を持ち合わせていない宮大生が意外と多い。そこで留学についての様々な

情報を発信していこうと学部学生国際交流委員会が中心となって始めたのが、こ

の「留学フェア」であった。宮崎大

学ではどのくらいの数の国々から何

人くらいの留学生が学んでいるの

か、大学は、またそれぞれの学部は

どこの国のどんな大学と協定を締結

(授業料不徴収が可能)しているの

か、交換派遣留学生の募集時期、留

学先の講義内容、宿舎の様子、生活

費など経済的な情報、「異文化交流体

験学習」(教養教育・選択科目 <ダニーデン[NZ]からの留学生(左から 2 人目)とによる説明>

・2 単位)についての情報、その他宮大生が必要とするような情報を全力で提供す

ることを目指して、2006 年から 3年間、GSO と宮大生協の協力を得て開催した。会

場では教育文化学部・学生国際交流委員会委員、留学体験者、今教育文化学部で学

んでいるに協定校からの留学生、GSO 事務員などが控えて学生たちからの質問に対

応した。

年月日 開催場所 参加

第 1回 2006 年 6 月 28 日・29 日 大学生協食堂 約 40 名

第 2回 2007 年 5 月 23 日・24 日 大学生協食堂 約 35 名

第 3回 2008 年 5 月 26 日 大学生協食堂 約 30 名

(5)留学生と日本人学生の交流の場

(ⅰ) 教育文化学部留学生親睦ボーリング大会

* 留学生同士、そして留学生と日本人学生の交流の機会をできるだけ多く設けよ

うと学部学生国際交流委員や留学生の指導教官は心を砕いた。もちろん研究室の

ゼミ生たちとのふれあいはかなり日常的なものではあったが、もう少し範囲を広

げて交流を持ってもらおうと、学部学生国際交流後援会の支援も受けて、親睦の

イベントの一つとしてボーリング大会を 2 年続けて行った。しかし、残念なこと

に参加者が少なく本来の目的を十分には果たすことなく 2 回で終ってしまった。

*「1998 年 1 月 24 日(土)に『教育学部留学生親睦ボーリング大会』(学部学生国際

交流後援会)が行われた。留学生、日本人学生、学部教官など 11 名が参加。結果

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は、3ゲームトータルで 480 点を獲得した中国からの留学生・黄文春くん(人社課

程 4年)が見事優勝し、464 点の金ミンジュさん(韓国・順天大学校)が準優勝であ

った。ブービー賞は劉 恵淑さん(韓国・順天大学校)。....参加者全員が週末の楽

しいひとときを過ごし、本大会の目的であった親睦が少しでも深められたことを

嬉しく思っています」(学部学生国際交流後援会『Newsletter No.13』(1998 年 6

月 30 日))。

*「1999 年 1 月 23 日(土)に教育学部留学生及び学生国際交流委員数名が『教育学

部留学生交歓会』を行いました。交歓会はボーリング大会と教官・留学生懇談会

を兼ねて行い、計 10 名が参加しました。ボーリング大会の結果は、3 ゲームトー

タルで、416 点を獲得した人社課程 4年の黄 文春さんが最優秀賞に輝きました。

優秀賞は人社課程 2 年の白震さん、ブービー賞は人社課程 2年の渋谷久美子さん

にそれぞれ贈られました。ボーリング大会の後はイタリアン・レストラン『カプ

リ・チョウザ』でピザなどを頬張りながら楽しい懇談会をしました。(野中)国際

交流委員長から参加した留学生に口頭と文書で『教育学部への意見・要望等』を

出して欲しい旨の報告がなされました。....」(学部学生国際交流後援会

『Newsletter No.14』(1999 年 7 月 13 日))

(ⅱ) ランチタイム・ミーティング(週 1 回開店の「ヒラセ食堂」)

* 学部に交換留学生を受け入

れ始めて(1987 年)からしばら

くして、彼らが日本人学生との

接触の機会が意外に少ないこ

とが気になりだした。もちろん

授業を一緒に受けることはあ

っても、授業が終わると後はば

らばらである。日本語がまだ十

分でない留学生と、留学生に慣

れていない日本人学生が、お互

い気にはなっているが出会いの <常連客でにぎわう閉店間近の「ヒラセ食堂」(2012 月 2 月)>

チャンスを掴めないでいる。初期の頃のエヴァグリーン、ダニーデンからの交換

留学生は国際交流宿舎がまだなく(1992 年に完成)、主にプライベートな個人住宅

やアパートに住んでいたので、ますます「孤立」状態であった。しかし、実際に

は国際交流宿舎ができてからも、なかなか交流が行われない状況はそれほど改善

されたとは思えなかった。

*国際交流宿舎は「混住」(留学生と日本人学生が混ざり合って住む)ということに

はなっていたが、宿舎の中での生活はそれほど「混ざり合って」いたわけではな

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いようである。中には交流促進に孤軍奮闘した宿舎在住の宮大生もいたようであ

るが、全体的には例外的な存在であったようだ。交換留学生は日本語・日本文化

を学びに来ているのであるから、日本文化に溶け込むには一番身近な日本人学生

から始めるのが自然な順番であるが、それがなかなか進まない。クラブ活動に参

加することを勧めて、上手く行った例もいくつかはある。

*1999 年に入学してきた地域文化課程の学生たちのうちの多くが留学に強い興味・

関心を示したことがきっかけとなり、その学生たちと留学生の「出会いの場」を

提供すべく、昼休みに各自弁当を持ち寄って私の研究室に集まり、留学情報の提

供から始まり、様々な話題に広げていって、友人として学内外での繋がりを持つ

ようになればと考えた。この形式は 1990 年頃から全学の留学生を月 1 回生協2階

にあった和室集会室に集めて交流会をしていた「ランチタイム・ミーティング」

(p.125 参照)を踏襲したものであった。そのせいもあってか、その学年の地域文化

課程の学生のうち 7 人が短期留学を果たすことになった。その後、その中から改

めて長期留学をした学生も何人かいた。

*この会はもちろん義務的なものでもなく、誰でも来たい時に来るようにして、開

放的で自由なものにしたお陰で、他学部の留学生たちや日本人学生たちにも「ヒ

ラセ食堂」と知られるようになり、参加者も徐々に増えて行き、スペース確保に

苦労したこともある。帰国留学生が多い時期には「歓送会」も兼ねて、皆で平和

台公園まで出掛けたこともある。

*1995 年頃から帰国直前の留学生たちに書いてもらい、4 冊になった『留学生一言

集(通称:ヒラセノート)』には、多くの留学生たちによる「先生と一緒に昼ごは

んを食べる時間は本当に楽しかったです。」、「先生の研究室で昼ごはんを食べなが

ら、みんなと楽しく話したり、悩みを相談したりして、本当に楽しかった。この

温かい空間は一生忘れません。」、「毎週毎週、先生と皆さんの笑顔が見られるのは

幸せです。その日、お弁当も特別お

いしく感じました。」「毎週○曜日の

昼食を楽しみにしていました。」「食

堂で (日本人学生の)××くんと知

り合えたのが良かった」などの言葉

が並んでいる。2012 年の私の定年退

職をもって「食堂」は閉店した後、

しばらくは、参加していた宮大生た

ちが引き継いで頑張って続けていた

が、彼らの卒業とともに、「食堂」は

残念ながら完全に閉鎖された。

<『留学生一言集(Hirase Note)』>

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(6)同窓会(Reunion) 本学部の教職員が協定校を、あるいは協定校の教職員が本学部を訪問した機会を

とらえて、かつての留学生たちが集い、「ミニ同窓会」が開催された。それは 1、2人のときもあれば、10 人以上の大人数のときもある。ただお茶を飲む場合もあれば、

会場を予約して大々的に行う場合もあった。ただ、どの場合でも共通していたこと

は、参加した元留学生たちが彼らの青春時代に経験した留学に関して、それを可能

にしてくれた周りの人々への感謝の気持ちを持っていて、留学が彼らのその後の人

生において大きな宝になっていることを感じていることであった。ここでは、ある

程度の人数が寄り集まった会合について報告する。

*エヴァグリーン宮崎同窓会 (1996 年 1 月 6 日「ホテル金住」)

エヴァグリーン州立大に協定締結前に留学した渡部祐一くん(1982-83)と富高

啓順くん(1985-86)の提案により、かつてエヴァグリーンに留学した卒業生 10 名

と宮崎在住のエヴァグリーン卒業生 2名(ヒュー・ニコル、スコット・ビンガム)、

さらにエヴァグリーンから宮崎大学に留学中の 2 名(マシュー・ホーク、ビル・

ダウニング)が一堂に会して、思い出話、近況報告などに花を咲かせ、楽しいひ

と時を過ごした。会場となった「ホテル金住」の 2人の娘さんはともに英語科の

卒業生で、2 人ともエヴァグリーンに留学した。写真には妹の小金丸英子さん

(1993-94)しか写っていないが、この後、姉の小金丸幸恵さん(1989-90)が京都

への新婚旅行から戻り、お土産持参で駆けつけた。

前列左から:仮屋(1989-90)、西牟田(1987-88)、大山(1990-91)、大倉(1994-95)、門村(1994-95)

中列左から:バタワース、ニコル(TESC 卒業生)、ビンガム(TESC 卒業生)、渡部(1982-83)、 堀(1993-94)、

ホーク(留学中)、

後列左から:富高(1985-96)、小金丸(英)(1993-94)、加藤(1988-89)、ダウニング(留学中)、平瀬

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*バーバラ・スミス副学長とスーザン・フィクスダ―ル学部長の来訪 (1996 年 11 月 15 日 「ホテル金住」)

川野日郎学部長の提案により、エヴァグリーン州立大と宮崎大学教育文化学

部教員による共同研究を行うべく「文部省・科学研究費補助金(国際学術研究)」

(3 年間)に申請し、1996 年 4 月にその補助金の獲得に成功した(p.93 参照)。共同

研究の第 1回目の会合に出席するために、研究分担者であるバーバラ・スミス副

学長とスーザン・フィクスダール学部長が来訪した。この機会を利用して、川野

学部長をはじめ研究者分担者と留学経験者が集まった。

前列左から:上條先生、草野先生、バーバラ・スミス副学長、小金丸(幸)(1989-90)、スーザン・フィク

スダール学部長、小金丸(英)(1993-94)、チェルシー・ブラックバーン、川野学部長、

後列左から:原先生、ガイ・バタワース、富高(1984-85)、アレン・フィクスダール、ヒュー・ニコル、

山崎(1990-1991)、堀(1993-94)、渡部(1983-84)、平瀬

*ナンシー・テイラー先生ご夫婦とステファニー・コジック先生を迎えて (1997 年 6 月 20 日 「みやざき会館」)

エヴァグリーン州立大と宮崎大学教育文化学部教員間の共同研究の研究協力

者であるナンシー・テイラー先生(ご夫婦)とステファニー・コジック先生の歓

迎会に留学経験者が多数駆けつけた。

左から:加藤美和さん(1988-89)、小金丸幸恵さん(1989-1990)、ステファニー・コジック先生、

ナンシー&フリッツ・テイラー先生、スコット&貴子(1985-86)・ビンガム

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*バタワース先生を迎えて(1998 年 3 月 14 日 ナンシー・テイラー先生宅[シアトル])

ガイ・バタワース先生がエヴァグリーン滞在中の平瀬教員を訪ねて宮崎から来

た機会を捉えて、元留学生たちが、シアトルのナンシー・テイラー先生(宮崎大

学教育文化学部との共同研究にも参加)宅に集まった。

左から:ガイ・バタワース氏、マシュー・ホーク(1995-96)、ナンシー・テイラー先生、フリッツ・テイラー氏、

ケビン・クレフィン(1993-94)、ミッチ・グレイ(1990-91)、堤節子先生(エヴァグリーン教授)

*オリンピアでの歓送会(1998 年 6 月 28 日「マッド・ベイ・カフェ」)

平瀬教員が「客員教員」として 1学年間エヴァグリーンで過ごして帰国する一

週間前に、かつての留学生が集まって「歓送昼食会」を開いてくれた。オリンピ

アやシアトル周辺在住の留学経験者には私のオリンピア滞在中、様々な局面で支

援を受け、折に触れて会っていた。彼らが私にとって大きな力になってくれたお

返しに、私から宮崎の最新情報を提供した。

前列左から:ケビン(1993-94)&サオリ・クレティン(1991-92)、平瀬、ビル・ダウニング(1995-96)、

後列左から:タラ &ミッチ(1990-91)・グレイ

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*ダニーデン同窓会(1999 年 4 月 17 日 「ホテル金住」)

ニュージーランドで高校の教員をしていたカーラ・メイドン(1992-93)が修学旅

行で生徒を日本に連れて来たついでに、単身宮崎まで足を伸ばしてくれた。その

時、小学校教員をしていたジョアンナ・スミス(1993-94)も同行して来日した。 バ

タワース先生は、ニュージーランドに留学した宮大卒業生の同窓会という名目で

開催した会合に彼女たちを飛び入り参加させて、参加者を驚かそうとしたのであ

った。

左から:マシュー・トフィア(1994-95)[西臼杵郡教育事務所 ALT]、カーラ・メイドン(1992-93)、ジョアンナ・ス

ミス(1993-94)、ジェニファー・キーン(1997-98)[留学中]、ヴァル・マックスウェル先生[宮崎公立大非常勤]

左から 2 人目:獅子目祐美子(1995)、4 人目:松山純子(1995)、森眞規(1998)、江藤順子(1993)、高野泰邦先生

左から:脇田はるか(1997)、3 人目:長谷川みゆき(1997)、砂原知佳(1998)、私

右から:河野 愛(2000)、山本まゆみ(2000)、山田美紀(1989)、マックスウェル先生

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*堤 節子先生、講演のため来訪(1999 年 5 月 8日 「ホテル金住」)

堤先生はエヴァグリーンに永年勤められており、宮大からの留学生がエヴァグ

リーンで大変お世話になってきた先生である。 エヴァグリーン州立大のもう一

つの日本の協定校である神戸商科大学に「客員教員」として滞在中の堤先生が講

演(「エヴァグリーン州立大学の教育」)のため宮崎へ来られたのを機に留学経験

者 12 名が集まった。

挨拶をされる堤 節子先生

*岩本学部長のエヴァグリーン訪問に際して

(2002 年 9 月 23 日 シータック近くのタイ・レストラン)

3 回目の協定更新のためエヴァグリーン州立大を訪問した岩本俊孝学部長と平

瀬学部国際交流委員長は 23 日に協定更新の仕事を無事に終えて、シアトル空港

(シータック)近くのホテルにチェックインした。その夜、シアトル近辺に住む元

交換留学生たちが近くのタイ・レストランで歓迎(帰国直前なので「歓送」)夕食

会を開いてくれた。このプログラムから生まれた 2組のカップル(ロブ&エレン、

ケビン&さおり)も参加した。

左から:ミッチ・グレイ(1990-91)、エレン(1988-89) &ロバート・テイト(1989-90)、マシュー・ホーク(1995-96)、

岩本学部長、サオリ・(1991-92)&ケビン(1993-94)・クレティン、平瀬

― 110 ―

Page 43: Ⅵ. 大学間協定校(1) 順天大学校(韓国・順天市) (i)交流の始まりそして協定締結 1989年11月に宮崎大学工学部土木工学科から藤本廣工学部長と杉尾哲教授

*デヴィッド・キーン先生の来訪(2005 年 12 月 3 日 宮崎観光ホテル「初雁の間」)

ダニーデン教育大のデヴィッド・キーン先生は宮崎―ダニーデンの交流プログ

ラムのダニーデンの窓口教員として、永年尽力されてきた方で、留学した宮大生

も大変お世話になってきた。「太平洋に架ける橋----宮崎―ダニーデン」というタ

イトルで講演されるため、客員教員として滞在中の岐阜聖徳学園大学から宮崎を

訪問されたものである(p.36 参照)。作田学部長をはじめ学部の関連教員(学生交

換プログラムの創始者ヴァル・マックスウェル先生の宮崎大での受け入れ教官の

谷本美彦副学長、短期研修プログラムを開始した岡林稔前副学長、ダニーデンか

らの留学生の指導教官をされた川野日郎先生、三輪佳見先生、そして学部学生国

際交流委員のメンバー)、学部学生国際後援会の学外理事の方々(安田繁氏と日高

ナツ氏)、そしてかつてキーン先生にお世話になった交換留学経験者たち 10 名が

集まって、歓迎会を開いた。

前列左から:平瀬、作田学部長、キーン先生、安田学部学生国際交流後援会副会長、谷本先生

後列左から:河野 愛(2000)、武田由子(2004)、石原和美(1993)、武田保代(1992)、有留久美子(2001)、

黒木直子(1990)、森山美奈子(1996)、山田美紀(1989)、三輪先生、岡林先生、日高後援会理事、

川野先生、長友先生、ハラ先生

*宮崎での短期研修に参加のダニーデン教育大生の引率としてキーン先生再訪 (2006 年 11 月 29 日 「うを佐」)

ダニーデン教育大生 6 名が宮崎での「短期研修プログラム」に参加した際(p.31

参照)、引率教員としてキーン先生が宮崎を訪問された。プログラムのすべての行

事に学生たちと一緒に参加された先生の労をねぎらって、プログラムの中間日に、

かつてダニーデンに留学を経験した卒業生(2 名)やダニーデンでの「異文化交

流体験学習」(2003 年)でお世話になった学生たち(6 名)が集まった。この年の 9

月のダニーデンでの「異文化体験交流」に参加した宮大生は、今回の宮崎でのプ

ログラムに参加した 6名のダニーデンの学生と「夕食会」を開いた。

― 111 ―

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前列左から:山下美保(2005 留学)、キーン先生、幸森いずみ(2007 ダニーデンへの最後の留学生)、

後列左から:藤内南都子、川越光紗、岡林先生、仲宗根梨江、平瀬、熱田久樹、田辺邦晃(以上 2003 年

の「短期研修プログラム」に参加したメンバー5 名)

*スーザン・フィクスダール先生ご夫妻、11 年ぶりの宮崎訪問 (2007 年 5 月 26 日 パーム・ビーチホテル「龍王」)

フィクスダール先生ご夫婦は宮崎大学教育文化学部―エヴァグリーン州立大の

共同研究の研究分担者として第 1回の研究会に出席するために 1996 年にバーバ

ラ・スミス副学長とともに訪問されて以来、11 年ぶりの再訪になった。彼女はこ

の年に、エヴァグリーンの協定校である兵庫県立大学(旧神戸商科大学)に客員教

授として滞在中に、宮崎まで足を伸ばしてくれたのであった。作田学部長を始め、

関連教員やエヴァグリーン留学経験者、そして現在宮崎大学に留学中のエヴァグ

リーン生たちが歓迎会を開いた。

最前列右から:小金丸幸恵親子(1989-90)、アレン &スーザン・フィクスダール、岡林先生、

2 列目右から:小金丸英子親子(1993-94)、田中裕子(2003-04)、ショーン・ジョンソン(留学中)、

冨高啓順(1994-95)、山崎佳代(1990-91)、平瀬

3 列目右から:スディーブ・パディウ(留学中)、作田学部長、川野先生、ハラ先生、堀美貴子(1993-94)、岩本先生

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*協定更新のためエヴァグリーンを訪問の際に (2007 年 9 月 23 日「ランブリング・ジャックス」(オリンピア))

エヴァグリーン―宮崎大学教育文化学部の交流 20 周年を迎えたこの年、4回目

の協定更新のため平瀬学部学生国際交流委員長が作田学部長の署名のある「協定

書」を持ってエヴァグリーンを訪問した。いつものようにオリンピア周辺在住の

留学経験者が集まってくれた。と言ってもオリンピア在住はこの中ではビル・ダ

ウニングだけ、ミッチ、マシュー、ケビン―さおりはシアトルから、サラはオレ

ゴン州のポートランドから駆けつけてくれた。

左から:ミッチ・グレイ(1990-91)、平瀬、サオリ(1992-93)&ケビン・クレティン(1993-94)、

ビル・ダウニング(1995-96)、サラ・ブローデリック(2005-06)、マシュー・ホーク(1995-96)

*「9月入学 海外調査」のためエヴァグリーン州立大を訪問した際に

(2009 年 1 月 31 日 「アイヴァーズ」(シアトル))

宮崎大学は「9 月入学」を検討するために、海外の大学(9 月入学を実施して

いる大学として協定校であるエヴァグリーン州立大とオタゴ大学)へ教員を派

遣して調査をさせることになった。その任務を平瀬学部学生国際交流委員長と

下條交流委員が遂行することになり、両大学を続けて訪問する機会を得た。

左から:ジョシュア・ハンセル(1998-99)、平瀬、ミッチ・グレイ(1990-91)、マシュー・ホーク(1995-96)、

サオリ(1991-92) & ケビン(1993-94)・クレティン、下條先生、マックス・ナフジガー(2005-06)

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*「9 月入学 海外調査」のためオタゴ大学を訪問した際に

(2009 年 3 月 8日 ダニーデンのレストラン)

左から:レベッカ・ブロズナン(2000-01)、カーラ・メイドン(1992-93)、下條先生、デヴィッド & リン・キーン、平瀬

*東呉大学での「修論合同中間発表会」のあとで (2009 年 12 月 15 日 台北市「喫茶趣」)

台湾の協定校である東呉大との修士論文合同中間発表会が東呉大で開催され、

引率教官として日本語支援教育専修の長友主任と平瀬教員が東呉大を訪れた。か

つての留学生たちが集まった。

左手前から:林郁恵(2005)、廖珮婷(2008-09)、郭恩志(2010)、沈書筠(2007-08)、島田繭乃(留学中)、

島田さんの息子さん、和田 恵(修論発表者)、長友先生、廖浚翔(2008-09)、陳淑娟先生、平瀬

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*協定更新のため東呉大を訪問した際に(2010 年 6 月 10 日 台北駅二階「翰林茶館」)

2004 年に協定締結した東呉大との 1 回目の協定更新を行うべく平瀬学部学生

国際交流委員長、長友国際交流委員、それに別件で岡林名誉教授(放送大学宮崎

地域センター長)が東呉大学を訪問した。

左から:岡林氏、沈書筠(2007-08)、陳冠雄(2006-07)、平瀬、長友先生、廖珮婷(2008-09)、

陳佩珊(2009-10)、廖浚翔(2008-09)、林郁恵(2005)、高士珮

*東呉大学での「国際シンポジウム 多言語・多文化同時学習支援」に参加 (2011 年 3 月 25 日 台北市西門町遠東デパート「翰林茶館」)

2006 年 7 月に宮崎大学教育文化学部の日本語支援教育専修(長友和彦主任)が

中心となって開始した「国際シンポジウム 多言語同時学習支援」の第 4回大会

が 2011 年 3 月に東呉大学で開催された。今回は兒玉修学部長も「基調講演」と

いう形で参加した。留学経験者が大勢集まってくれた中に、東呉大だけでなく

政治大からの交換留学経験者も含まれていた。

最前列左から:魏艾玲(2005-06)、長友先生、黄琬淳(2010-11 政治大)、顔皓婷(2010-13)、李宜寰(2011)、

王緯嫺(2011-12 政治大)、廖浚翔(2008-09)

2 列目左から:井上先生、陳佩珊(2009-10)、蘆昭宜(2011-13)、許菀庭(2009-10)、陳巧融(2010-12)

最後列左から:林郁恵(2005)、兒玉修学部長、上原先生、廖珮婷(2008-09)、林大為(2010 政治大)、平瀬、

谷麻里衣(2010-11 政治大へ)、鄭丞祐(渡航辞退)

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*「台湾宮崎大学同窓会」設立(2014 年 6 月 13 日 台北市 YMCA 城中会館)

宮崎大学は台湾の協定校との連携を強めるべく、GSO が中心になって「台湾宮

崎大学同窓会」を 2014 年 6 月 13 日に台北市の YMCA 城中会館にて設立総会を開

催し、蔡茂豊先生ご夫妻、伊丹宮崎大学 GSO センター長、長友和彦先生ほか、東

呉大や政治大の教員、留学経験者など 28 名が参加した。会則を原案通りに承認

し、会長・副会長・事務局長を選出し(会長:蔡清恩氏、副会長:闕浩然氏、事

務局長:顏 皓婷氏)、和やかな懇親会を楽しんだ。台湾において、宮崎大学が支

援する形で「同窓会」が設立されたことは、今後の宮崎大学と台湾国内の協定校

との関係の強化に大いに役立つことが期待される。

台湾宮崎大学同窓会会則(抜粋)

第1条 本会は台湾宮崎大学同窓会と称し、本会は会員相互の親睦を図り、宮崎大学

の発展に寄与することを目的とする。

第2条 本会は宮崎大学への留学経験のある台湾出身者をもって組織する。ただし、

本会の目的に賛同し、役員会の承認を得た者は構成員となることができる。

第3条 本会は前条の目的を達成するために、次の事業を行う。

(1) 会員相互の交流及び連携の推進

(2) 宮崎大学との連携及び協力の推進

(3) その他本会の目的に沿った事業活動

………

附則 この会則は民国 103 年(2014 年)6月 13 日から施行する。

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(1)宮崎大学の日本語教育

宮崎大学における日本語教育は、教育学部が交換留学生を受け入れた 1987 年 10 月から現在まで大きく3つの時期に分けられる:

[第 I 期] (1987 年~):教育学部の交換留学生(日本語・日本文化研修留学生)ため の日本語教育 [第 II 期] (1988 年~):教育学部の木花移転完了後の全学留学生対象の日本語教育

[第 III 期] (1991 年~):日本語専任教員着任後の正式科目としての日本語教育 (ⅰ) 第Ⅰ期(1987~)

* 教育学部は 1987 年 10 月に協定校であるエヴァグリーン州立大(アメリカ)と

ダニーデン教育大(ニュージーランド)から1名ずつの交換留学生を受け入れた。

彼らは文部省の「日本語・日本文化研修留学生」奨学金を獲得して、1 年間教

育学部で勉強することになった。

* それまで学部には「日本語」あるいは「日本文化」という科目がなかったの

で、急遽これらの科目を設置し、学部教員が分担して彼らの教育に当たること

になった。留学生受け入れ最初の年であったため、不慣れや準備不足のため、

必ずしも満足の行くものではなかった。

* この時期の「日本語」「日本文化」の授業は以下の体制で実施されていた。

【日 本 語】「日本語 I」(話す・聞く)[英語科 2教官が分担]

「日本語 II」(読む)[英語科 2教官が分担]

「日本語 III」(書く)[国語科 4教官が分担]

【日本事情】「日本事情 I」(歴史/政治・経済・法律/地理/教育)

「日本事情 II」(芸術/日本人論・日本文化論/科学/文学)

・学部の 22 名の教官が分担

・「講義・演習」もしくは「見学・視察」

* この年以降、学部の留学生の数が増大して行くことが予想されること、また

1988 年の教育学部の移転完了により3学部が木花地区に揃うので、大学全体と

しての日本語教育を検討していく必要性にも迫られていた。

* この時期には日本語教育に関して短期的及び長期的な問題が多数存在した:

* 最大の問題点は、これらの科目のカリキュラム上の位置づけが明確でなか

ったことである。

* 講座というような確固とした組織がなかったこと(学科目整備が必要)。

* 専任教官がおらず、すべてを学部の一部教官のボランティアに頼っていた。

(分担教官の授業負担の問題)

― 117 ―

Ⅷ . 全学の国際交流

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* 予算処置がなされず、テキスト代、資料コピー代、見学のための交通費が

すべて担当教員の所属講座あるいは教員個人の手出しであった。

* また、学外の組織(他大学、県内日本語学校)や個人(日、本語教師)との協

力体制が確立されておらず非常勤講師の依頼が難しいことであった。

* 多少「泥縄式」の感を免れないが、逆にこれを機に大学として本気で「日本

語教育」について検討することは、その後の留学生の増加を考慮に入れると、

避けて通れない問題であった。

(ⅱ) 第Ⅱ期 (1988~)

* 学部の交換留学生受け入れ 2年目(1988 年 10月~)[エヴァグリーン 2名+ダ

ニーデン 1名]からはクラスをレベル別に 3 つに分けて、楢原義顕先生・菅邦

男先生(国語科)と南太一郎先生・平瀬清(英語科)で分担した。この年度から

木花キャンパスに移り、待ち構えていた農学部と工学部の留学生 7、8 名が聴

講しに来た。

・「初級コース」(週2コマ・楢原) ・「中級コース」(週1コマ・平瀬)

・「初心者コース」(週1コマ・平瀬)

* またこの翌年(1989)から、市内在住のフィリピン人ジョイス小川さんに、非

公式に設けた「初級にほんご」(週2コマ)の非常勤講師を依頼し、全く日本語

の分からない留学生たちを対象に補講という形を取った(講師料は出ていな

かったと思う)。そのクラスでは 3学部から 12 名(10 ヶ国)の留学生だけでな

く、市内在住の外国人も聴講していた。このことが学部で問題になり、その

後、「受講生は宮大の留学生(あるいはその家族)に限る」というルールが適用

されるようになった。宮崎市に日本語学習を希望する外国人が多かったが、

当時その要望に応えるべき日本語教育機関が不足していたため、大学での開

講を聞きつけて、聴講をしていた。教える側も「一時的なこと」として大目

にみていた感がある。

<農学部・工学部の留学生も参加し始めた日本語クラス(1992 年)>

― 118 ―

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(ⅲ) 第Ⅲ期(1991~)

*1990 年 4 月に日本語専任教員の高野泰邦氏が着任し、宮崎大学の日本語教育が

いよいよ正式な形で動き出した。『学生便覧』(1991 年度版 p.71)に「宮崎大学お

ける外国人留学生の履修方法の特例に関する内規」(1991 年 3 月 31 日制定)が記

載されている。

・第 2条 日本語科目及び日本事情に関する科目(以下「日本語科目等」という)

として開設する授業科目とその単位数は、次のとおりとする。

区分 授業科目 区分 授業科目

日本語科目

(単位数全て 1)

日 本 語 I

日 本 語 II

日 本 語 III

日 本 語 IV

日 本 語 V

日 本 語 VI

日 本 語 VII

日 本 語 VIII

日本事情に

関する科目

(単位数全て 2)

日本事情 I

日本事情 II

日本事情 III

日本事情 IV

日本事情 V

日本事情 VI

日本事情 VII

日本事情 VIII

日本事情 IX

2 授業計画上やむを得ない場合は、一般教育等運営委員会の議を経て、

前項の授業科目及び単位数の一部を変更することがある。

・第 3条 日本語科目等の単位の計算方法は、1単位の履修時間を教室内及

び教室外を併せて 45 時間とし、15 時間の講義(日本語科目等にあって

は 30 時間の講義)をもって 1単位とする。

・第 4条 留学生が日本語科目等に関する授業科目を履修し、単位を修得したと

きは、次の各号に掲げる一般教育科目、外国語科目又は保健体育科目の

単位と代えることができる。

(1) 一般教育科目については 16 単位まで

(2) 外国語科目については1の外国語につき 8 単位

(3) 保健体育科目については体育理論 2 単位

*高野先生の「日本事情」のクラスは、その受講生

たちによる「発表会」が公開された。自分で選んだ

テーマで作文をし、それができれば暗誦して発表す

るという形式で行われた。留学生たちから見た日本

(文化)論を聞くことができて、聞き手にも大いに勉

強になった。残念なことは、いろいろな形で開催を

通知していたにもかかわらず、日本人学生があまり

興味を示さず、聞きに来なかったことである。1991

年 9 月に開催された「発表会」での学生のタイトル <発表の講評をする高野先生>

― 119 ―

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のいくつかを紹介すると:「私の目から見た日本」「日本人の印象」「日本の子供

の教育」「日本の大学教育制度」「日本のマンガと女性に対する暴力的言動」など

興味をそそるものが並んでいた。

*高野先生の日本語クラスと並行して、非公式の日本語クラスが教育学部英語科

事務の小園公美子さんと平瀬教員によって開講された。小園さんはもともと日

本語教育に興味を持っており、彼女の勤務終了時間である 4 時過ぎにクラスを

設定することで英語科の了承を取った。彼女は 1993 年に英語科事務の仕事を辞

し、日本語教育の勉強をさらに深めるべくオーストラリアへ行くことになった。

その後、市内在住の日本語教師の松井洋子さんが講師を引き受けてくださり、

このクラスを継続することができた。また、1997 年 9 月に平瀬教員が長期在外

研修のためアメリカに渡航したため、松井さん一人がこのクラスを引き継ぐこ

とになった。

<「日本語クラス」の受講生による小園さん(左から6人目)の歓送会 (1993 年 2 月 15 日 LL教室)>

*残念なことに高野先生が 2003 年 3 月に長崎大学へ転出することになり、その後

任として 4月にお茶の水女子大から長友和彦氏を迎えることになった。彼は学

部レベルの日本語教育に尽力されたのはもちろんのことであるが、同時に大学

院「日本語支援教育専修」を学部の語学教員たちと一緒に立ち上げ、日本語教

員の養成も開始した。

*上記の「宮崎大学における外国人留学生の履修方法の特例に関する内規」は

1998 年(2 月 24 日)に以下のように改正された。長友先生はこのカリキュラムに

従って「日本語」と「日本事情」を担当した。

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・第 2条 初級日本語・中級日本語・日本語科目及び日本事情に関する科目(以

下「日本語科目等」という)として開設する授業科目及び単位数は次

のとおりとする。

区分 授業科目 単位数

初級日本語 ※ 初 級 日 本 語 I-A

※ 初 級 日 本 語 I-B

※ 初 級 日 本 語 II

※ 初 級 日 本 語 III

※ 初 級 日 本 語 IV

※ 初 級 日 本 語 V-A

※ 初 級 日 本 語 V-B

※ 初 級 日 本 語 VI

※ 初 級 日 本 語 VII

※ 初 級 日 本 語 VIII

1

1

1

1

1

1

1

1

1

1

中級日本語 ※ 中 級 日 本 語 I

※ 中 級 日 本 語 II

※ 中 級 日 本 語 III

※ 中 級 日 本 語 IV

※ 中 級 日 本 語 V

※ 中 級 日 本 語 VI

1

1

1

1

1

1

日本語科目 日 本 語 I

日 本 語 II

日 本 語 III

日 本 語 IV

1

1

1

1

日本事情に

関する科目

日 本 事 情 I

日 本 事 情 II

日 本 事 情 III

日 本 事 情 IV

日 本 事 情 V

日 本 事 情 VI

日 本 事 情 VII

日 本 事 情 VIII

2

2

2

2

2

2

2

2 (※印は特別聴講生/交換留学生/日本語・日本文化研修 留学生に限って単位取得が可能である。)

*初級日本語と中級日本語は一部(中級日本語Ⅲ、Ⅵ)を除いて原則、非常勤講師が

担当した。(中級日本語Ⅲ、Ⅵは農学部の留学生担当専門教員が担当した。)

*その他のクラスのうち、日本語Ⅰ〜Ⅳと日本事情Ⅰ〜Ⅳは長友先生が担当した。

上級者を対象に新聞などの時事日本語、受講生の専門に関わる課題発表、学習記

録ノート作り、インターネットを活用した国内外の他大学の日本人、日本語学習

― 121 ―

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者との作文交換などに取り組んだ。

*日本事情Ⅴ〜Ⅷは、4学部の担当教員が毎学期一つずつ持ち回りで担当し、それ

ぞれの専門領域に関わる内容の授業が展開された。なかでも、教育文化学部の竹

井教授の茶道に関わる体験授業は非常にユニークで、受講生に好評だった(p.122

(2) 参照)。

*留学生の家族向け日本語教室

* 長友先生の赴任前に開設されたもので、赴任後(2003 年~)は国際連携センタ

ーの委任を受けた長友先生が統括した。

* 担当者は謝金講師としての身分で、当初、外部の先生に頼んでいたが、大学院

日本語支援教育専修での日本語教員養成が始まって(2005 年~)からは、その専

修に所属する大学院生が謝金講師として担当するようになった。

* 受講生は留学生か、留学生の家族に限られていた。

(2)茶道を通しての国際交流(竹井 成美(宮崎大学名誉教授))

留学生に日本らしい内容の授業を提供したいという声に応えて、

「宗成(そうせい)」という裏千家の茶名を有する私は、記憶では平

成 4年度(1992)から、茶道の最初の手習い「盆略点前(ぼんりゃくて

まえ)」を教えることになった。とりあえず研究室に自前の茶道具一

式を備え、アップライトピアノなどの楽器や机、椅子が林立する中で

行うことから始めた。まず、風炉先屛風(ふろさきびょうぶ)、電熱

風炉、鉄瓶、建水、お盆、毛氈(もうせん)をはじめ、受講生一人ず

つに、扇子、棗(なつめ)、袱紗(ふくさ:当初は男子学生にも私の

手持ちの女性用袱紗を使用)、茶杓(ちゃしゃく)、茶巾、懐紙(かいし)、お抹茶茶

碗などを、人数分そろえた。最終的に、その数は 10 数個ずつ。

中でも大変だったのは、毎週、季節に応じたお菓子をそろえること。普段は、桜の

花びらや、水紋、紅葉などの形を模したお干菓子を、ときには全国の名菓を取り寄せ

ることもあった。また最後の授業では、季節の主菓子(おもがし)をそろえ、菓子器

から懐紙に(最初に教えた正しい箸遣いも復習しながら)お箸でとる作法も行った。

毎回違うお菓子は、留学生に大好評だった。

茶道の最初の難関は正座だ。“しびれ”の解消方法をまず教えたが、中には立ち上

がれない者も。次第に体重を分散する方法をマスターし、「盆略点前」の一連の作法

を学び終わるころには、長時間正座できるようになっていた。

苦いお抹茶も、先に甘いお菓子をいただくため、ほどよく中和され美味しく感じる

― 122 ―

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ものだが、ケニアからの留学生は「お砂糖を入れてほしい」と、ボソッと気の毒そう

につぶやいた。初の試みで、お抹茶にお砂糖を混ぜ、茶筅をふることに…。次から彼

の姿はなかった。苦〜い苦い思い出だ。

超難関は、割稽古の中でも「袱紗さばき」だろう。その仕草は、さながらマジック

ショーのようだが、竹井マジック?で、すぐさまマスター。ある学生に「先生は教え

方が上手ですね」とほめていただいたことも。いえいえ、まじめで覚えの良い留学生

が多かったのです。次の写真を見れば納得だ。

袱紗さばき 茶筅をふる 正座して 主菓子を箸で

<最初のころの研究室での授業風景>

こうして、割稽古から始めた授業も、13・14 回目となる頃には、扇子を使っての

ご挨拶の仕方や、お菓子・お抹茶のいただき方、一連の「盆略点前」をマスターする

こととなる。あんなに四苦八苦した「袱紗さばき」も「茶筅通し」なども、なんのそ

の。茶筅でみごとに細かい泡を点て、手順通りにお抹茶を出し、最後のお仕舞いの挨

拶までスムーズにできるようになり、まとめとして撮影したビデオには、最初の苦戦

が嘘のような仕上がりが収録されている。

平成 7 年(1995)度に受講したマレーシアからの国費留学生のレポートの一部を紹

介しよう:

「『苦~い!!!』、『足が痛~い!!!』『そんなに苦いお茶は初めて...』『このお茶は

毎週飲むの?』そういう風な日本茶の味をしたの最初の言った言葉です。その時はやっ

ぱりお茶はお砂糖とミルクを混ぜて一番旨いと思いました。でもそんな不満な気持ちが

ただ 1 回目の茶道のクラスを出たのことです。2 回目に出ると少しずつ茶道のクラスの

楽しさまたは面白さを感じ始まって着ました。又、次々のクラスに出て段段好きになっ

て最後まで一生懸命やりたいと思う気持ちも大きくなりました」(原文のまま)

留学生の教養教育の読み替え科目(2 単位)として始まった授業は、「日本事情」

という科目(2単位)になるころから、音楽棟の広い日本音楽演習室に、茶道具一式

を移して行うことになった。多いときには、20 名もの留学生が登録した年度もあっ

た。当初は、インドネシアやマレーシアからの国費留学生が多かったが、次第にアメ

リカやニュージーランドなどからの交換留学生や、中国や韓国などからの私費・交換

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留学生が大半を占めるようになった。毎回の授業は、留学生それぞれのお国柄を知る

機会にもなった。

あるとき留学生にたずねた。「ねえ、カラスの鳴き声はどんな風に表すの?日本で

はカーカーだよ」。アメリカの男子学生がすぐさま「先生のような人がそんなことを

聞くのはおかしい。聞こえるようにしか聞こえないから!」と、さえぎる。インドネ

シアの男子学生は気の毒がってか、「あえて言えばアーク・アークかな」。赤面するし

かない私。楽しくも、また違った学びの場であった。

この他、外国からの視察団や1週間程度の交換留学生に、お抹茶を振る舞うこと

もあった。我慢して正座する姿は、ほほ笑ましかった。

竹井がお手本を いただき方を真剣に 足が痛いよ!

<平成11年度:韓国・順天大学の交換留学生の茶道体験から>

20 余年、何人の留学生に茶道の心得を教えてさしあげただろうか。手元に残るそ

の時々の写真をひもとくと、彼らの最初のあの驚きと喚声がよみがえる。茶道のこ

と、竹井のこと、今でも覚えていてくれるだろうか……。ときどき忘れたころに今

でも電話やメールをくれる、インドネシアから工学部に在籍していた国費留学生で、

初の茶道の授業を受け、もう半期だけ特別に「柄杓扱い」などを学び、裏千家の「盆

略点前」の入門許可書を取得したヘル・ドゥイ・ワヒ

ヨノさんは、思い出に残る留学生の一人だ。インドネ

シアでは 18 歳になると、以後は、誕生日に本人がお世

話になった人に振る舞う慣習なのだそうで、茶道仲間

とともに美味しいグリーンカレーをごちそうになった。

Lc630 のパソコンを教えてくれたのもヘルさん。帰国後、

アルファベットの日本語によるチャットを楽しんだこ

ともあった。

こうした一連の茶道の授業を通して、日本の作法や

細やかな気配りの一端を、留学生に教えることができ

たのであれば幸いである。私も、多くのことを学ばせ

<平成4年度:最初の受講生・ヘルさんの予備練習> ていただいた。平成26年3月に退官する

まで、茶道を通してのささやかな国際交流は、むしろ、私にとっての「人生初の有意

義な国際交流」であった。

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(3)「宮崎大学外国人学生の会」(MUFSA)

(ⅰ)3 学部統合~木花キャンパスへ~

1988 年 8 月に教育学部の木花移

転が完了し、3学部が木花キャンパ

スに統合された。この時の全学の留

学生数は約 20 名で、10 年前(1979

年)に 5 名であったことを考えると、

大幅な増加である。木花キャンパス

の留学生が一同に会した最初の機

会は、教育学部に交換留学していた

2 人(ウオード・クランツとリズ・テ

イト)の歓送会であった。彼らは 1 <新しいカフェテリアでの留学生歓送会(1988 年 9 月 28 日)>

年間(1987年 10月~1988年 9月)の留学生活を送ったのは移転前の船塚キャンパス

であったが、最後に新装になったキャンパスを訪れ、11 名の留学生が集まったカ

フェテリアでの歓送会に出席した。

当時農学部の国際交流委員長をしていた足立泰二先生と話し合って、全学の留学

生が定期的に集まる機会を設けようということになり、月 1回のランチタイム・ミ

ーティングの開催を企画した。

(ⅱ)ランチタイム・ミーティング

*第 1回の会合(1988 年 10 月 31 日)は、それほど人数も多くなかったので、カフ

ェテリアでの開催となった。ランチタイム・ミーティングでは、それぞれ弁当持参

で集まり、昼食をとりながら、大学側(留学生担当事務員)からの連絡事項や留学生

たちからの要望事項などが話し合われ、お互いの近況報告など様々な情報交換の場

となった。年が明けて 1 月 30 日の会合からは大学会館 2階にあった和室が会合場

所となった。この会合では以下のようなことが話し合われた:

<大学側からの連絡事項>

* 「市営住宅」について:木花台に建築中の市営住宅への入居募集(8 戸)

* 留学生用掲示板、生協横に設置

<留学生からの要望事項>

* 図書館に英字新聞(Japan Times/Daily Mainichi など)と雑誌(Newsweek

など)を置いて欲しい。

* 日本人学生との交流の機会がほしい(生花/茶道/ボーリング大会など)

<その他>

*「留学生の会」設立の話

* 2 月のランチタイム・ミーティングの予定。3 月の第 1週に帰国留学生のた

めの「歓送会」をする。

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<帰国留学生歓送ランチタイム・ミーティング(1991 年 3 月 14 日)>

*ランチタイム・ミーティングの時は毎回『留学生ニュース』(B4 サイズ 1枚程度)

を配布していた。この『留学生ニュース』には新着留学生や帰国留学生のこと、

市営住宅のこと、国際交流宿舎のこと、宮崎での催し物のことなど留学生に関連

した情報を載せていた。

(ⅲ)「留学生会議」(設立準備委員会)そして MUFSA 設立(1994 年)

*ランチタイム・ミーティングの話し合いの中から、ミーティングの中心になって

この集まりを動かす留学生を選出する動きが出て、1989 年 5 月にマレーシアから

の留学生ロスラン(農学部)を中心とした 5、6名のメンバーが選出され、「留学生

会議」として動き出すことになった。その年の 5月 19 日に農学部 2階にあった留

学生の部屋に集まって、第 1回留学生会議を開催した。学生部学生課の青木俊夫

氏や農学部の足立泰二先生や教育学部の平瀬清教員も都合の許す限り出席して、

側面から支援した。留学生に関連する様々な問題を話し合うなかで、ランチタイ

ム・ミ-ティングでも再三話題に上った「留学生の会」設立の議題が主流を占め

るようになっていく。その後、留学生会議メンバーが帰国などのために入れ替わ

りがあったが、「留学生の会」設立の議題は継続的に話し合われていった。その中

で、「会則(案)」の作成が大きな比重を占めるようになった。平瀬教員が他大学の

ものを参考に「叩き台」(日本語版と英語版)を作り、それをメンバーで何度も検

討した[英語版に関しては教育学部のバタワース先生に校正を依頼した]。それと

並行して、会の正式名称を何にするか(結局「宮崎大学外国人学生の会」[The Miyazaki University Foreign Student Association(MUFSA)]に落ち着いた)、ど

のような活動を行っていくか、委員の選出をどうやって行うか、など、様々な議

題が話し合われた。

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*1993 年 9 月に『留学生ニュース No.38』で、「宮崎大学外国人学生の会」の設立

を呼びかけ、「会則(案)」を同時に配布した。翌 10 月に開いたランチタイム・ミ

ーティングにおいて、出席者から「会則(案)」に関する意見聴取を行ない、『留学

生ニュース No.40』(1993 年 11 月 17 日)で改定案を提示し、おおむねの了承を得

た。

*1994 年 4 月に留学生会議のメンバーがそのまま「宮崎大学外国人学生の会」の「設

立準備委員会」のメンバーとなり、4 月 21 日の「設立総会」に向けての準備を進

めた。:

・プリオソエリヤント・バンバン・ポンジョ(インドネシア)

[大学院農学研究科]

・ギジェン・ホセ・ルイス(グアテマラ)[大学院農学研究科]

・ワーユスワンウィト・ターウンポン(タイ)[大学院農学研究科]

・黄 文泉(中国)[教育学部(音楽)]

(支援教職員)・平瀬 清/高野泰邦/ガイ・バタワース[すべて教育学部]

・中村光臣 [学生部学生課]

*1994 年 4 月 21 日(木)の昼休み(12:00~12:45)に大学会館 3階大会議室において

「宮崎大学外国人の会」設立総会が開催された。約 40 名の留学生や関係者が出

席し、会の発足を祝った。

<設立準備委員会(左から:ポンさん、バンバンさん、ホセさん[説明中]、黄さん)による設立趣旨の説明>

<設立総会出席者たち>

(多くの留学生に混じって、草野先生[教育]、位田先生[農]や清武町の国際交流員の姿も見える)

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*設立総会では以下のような事項が決定された:

*「会則」を原案通り承認

* 役員選出:[会長] P.バンバン・ポンジョ(インドネシア)[農学研究科]

* 事業計画を原案通り承認

・連絡網の整備

・大学祭への参加

・月 1回の昼食会

・『留学生ニュース』の発行(月1回)

・『会報』の発行(年 2回)

・各種行事の開催(日本語弁論大会/スポーツ大会/歓送迎会など)

* 学内外への設立の通知

*早速翌日の宮崎日日新聞(1994 年 4 月 22 日)で「宮崎大学外国人学生の会」設立

のニュースが報じられた。

<設立総会の様子を知らせる宮日新聞(1994 年 4 月 23 日版)>

(ⅳ) MUFSA の活動内容

1994 年 4月に設立された MUFSA は行事計画に従って、さっそく活動を開始した。

バンバン会長をはじめとする役員が中心となって、約 90 名の留学生たちが大学行

事(大学祭、留学生歓送迎会など)に参加したり、独自のイベント(ランチタイム・

ミーティング、日本語弁論大会、スポーツ大会)を企画した。初年度の活動を追っ

てみる。

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*大学祭 (1994 年 5 月 28 日)

教室やテントに各国の産物などを展示・紹介した。また、各国自慢の料理を

販売するテントも設置した(ブラジル・中国など)。

<アジア各国の展示(教育学部 L303 教室)> <中国の餃子売店>

*ランチタイム・ミーティング(1994 年 9 月 22 日)

この頃になると、ミーティング参加者の幅が広がり、数も格段に多くなってき

ていた。留学生はもとより、日本人学生、関係教職員、宮崎市留学生担当職員、

清武町国際交流員、高岡町国際交流員、学外留学生支援団体(ソロプチミスト)の

会員などが参加していて、留学生に関連した様々な情報が提供された。また、こ

の月にブラジルからの県費留学生が帰国予定であったので、歓送会も兼ねた昼食

会になった。

<留学生を中心に大勢が集まった昼食会>

*日本語弁論大会(1994 年 10 月 29 日)

第 1 回「宮崎大学留学生 日本語弁論大会」は講義のない土曜日に教育文化学

部の教室を使用して河内進策学生部長を来賓として、高野泰邦先生を審査委員

長として迎え、大勢の聴衆を集めて開催された。宮崎大学の 6名の留学生が

「私の見た日本」「同じ言葉でも---日本語と中国語」などのタイトルでスピー

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チを行った。最優秀賞に選ばれたのは「本当に豊かな日本とは」のタイトルで

スピーチしたタイからの留学生ワーユスワンウィト・ターウンポンであった。

優秀賞はヘル・ドウイ・ワヒヨノ(インドネシア)とオン・チェン・チャン(マレ

ーシア)であった。参加者全員に「努力賞」が授与された。

<バンバン会長から最優秀賞を授与されるポンくん(左)>

*秋のスポーツ大会(1994 年 11 月 5 日)

留学生の大部分が参加して、秋のスポーツ大会(バレーボール/バドミント

ン)が MBF(「宮崎友情の架け橋」)の後援を受けて開催された。

<開会式>

*帰国留学生歓送会 (1995 年 3 月 15 日)

3 月に帰国予定の留学生の歓送会が生協食堂で開催された。河内学生部長から

の祝辞、MUFSA 会長の挨拶などがあり、帰国予定の留学生一人一人に色紙に参加

者全員がお別れの言葉を一言ずつ書いて手渡した。

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<楽しい仲間が揃って記念撮影>

(4)学外組織による諸行事

(ⅰ)宮崎地域留学生交流推進協議会

宮崎地域留学生交流推進協議会(事務局は宮崎大学)は 1990 年(平成 2年)6 月

に宮崎県内における外国人留学生の円滑な受入の促進と交流活動の推進を図る

ことを目的に設立され、県内の高等教育機関(10 大学と 3専門学校)、宮崎県を始

め各関係機関やボランティア団体が連携協力して、地域住民と留学生の交流事業

などを実施している。年間の主な事業として、「外国人のための防災セミナー(バ

スツアー)」(10 月)、「留学生のためのビジネスマナー講座」(11 月)、「在住外国

人による日本語スピーチコンテスト」(11 月)などがある。

*日本語弁論大会(11 月)

留学生たちの日本語能力の向上を目指すという目的ばかりでなく、留学生を

通して「外の眼」から日本を見直すという意味でも、主な聴衆である日本人にと

っても貴重な機会であるこのスピーチコンテストは、名称や形式を変えながら続

いている。初期のころは「宮崎地域留学生日本語弁論大会」という硬い名称であ

ったが以下の例に見るように副題(「留学生からのメッセージ」)が付いていた。

その後一時、スピーチコンテストに代わって、「留学生と大いに語ろう」という

タイトルの下、あるテーマ(「日本の教育について思うこと(2007 年)」、「日本で

生活する上で、外国人が不便だと思うこと(2008 年)」)を設定し、4,5 名の留学

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生の意見発表ののち、聴衆とグループごとに意見交換をするという形をとった。

その後、「日本語発表会」に戻り、初級・中級・上級の 3 部門に分かれて実施さ

れている。最近は「在住外国人による日本語スピーチコンテスト」として、留学

生のみならず県内在住の ALT なども参加している。

毎年恒例となった宮崎県内の留学生による日本語弁論大会は、日本語能力を競

い合うだけでなく、参加各国の文化紹介の場にもなっている。コンテストの合間

には、出場者が自国の衣装を着て、芸能(唄、器楽演奏、踊りなど)を披露したり、

各国の写真や絵画などの作品や文化を紹介する物品が展示されたりしている。

<韓国留学生たちによる唄「ウルサン・アリラン」(1994 年 1月 22 日 宮日会館)>

*見学旅行 (1995 年 10 月 14 日)

「まほろばの里」(鹿児島県霧島)での焼き物(伝統工芸)の体験学習が宮崎大学の

留学生のために開催され、留学生と教職員合計 80 名近くが参加した。バス 2 台

に分乗して、霧島神宮と高千穂牧場の実地見学も行った。

<「まほろばの里」にて>

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*「21 世紀に向けての国際交流と留学生の役割」(1995 年 11 月 14 日)

21 世紀を目前にして、今後の国際交流のあり方、留学生の役割を語り合う

べく、かつて宮崎大学で留学生として学び、今は自国に戻ってそれぞれ重要な

地位を得て活躍している方々と、現在宮崎大学や宮崎産業経営大学で学んでい

る留学生、留学経験の宮崎大学生、宮崎大学教員、地方自治体(宮崎県国際交

流課)、留学生支援団体(ソロプチミスト/マリーンライオンズクラブ)、青年

会議所などのメンバーが一同に会して意見をぶつけ合った。

<左から:フレデリック(ガーナ)、ドミンゴ(フィリピン)、ヘル(インドネシア)、

ロスラン(マレーシア)、ジークフリート(ドイツ)、グエン(ベトナム)、

モーメン(バングラディッシュ)、アッチャリア(タイ)、グレイ(アメリカ)>

* MUFSA は、この「国際シンポジウム」開催を機に来日した先輩方の歓迎会(1995

年 11 月 15 日)を大学会館 3階の大会議室で開いた。

<MUFSA 主催の「先輩歓迎会」(1995 年 11 月 15 日 宮大学生会館)>

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(ⅱ)宮崎県国際交流協会

県民レベルでの国際交流を促進するために、各種イベントや事業などを企画し、

実施している。またその事業に関する情報や、宮崎在住外国人の生活に必要な情

報を提供している。ホームステイ、ホームビジット、国際交流ボランティア通訳

の登録、紹介なども行っている。また、外国人のための日本語講座の開催、日本

語ボランティア養成、多言語による生活相談なども行っている。

*日本語学習支援者ネットワーク事業

「日本語学習支援に係る団体・個人間のネットワーク化を図り、課題・情報・

ノウハウを共有し問題解決を共に図っていけるようにする」という事業目的をも

って県内の日本語学習支援者ネットワーク会議を開催し、メーリングリストの開

設や日本語教室リストの作成を行っている。

*「外国人が見た宮崎」作品展 (2010 年 1 月 20 日~30 日)

原則として宮崎に住んでいる外国人の手

になる「宮崎の印象・想い」などを表す

写真、絵画、書道、詩、手芸などを募集

し、カリーノ宮崎 8 階のフロアに展示

し、来場者の投票によって部門別に入賞

者を選考した。宮崎市での展示のあと、

延岡、都城、日南でも巡回展示を行っ

た。

2010 年にエヴァグリーン州立大から留

学中のエリック・マッキントシュ君が得

意のイラストで応募し、見事「優秀賞」

を獲得した。

<「外国人が見た宮崎展」開催を報じる

『South Wind Vol.78』(March 11, 2010)>

(ⅲ) 宮崎市国際交流協会

在住外国人や留学生の市民との交流を促進し、言語はもとより、彼らの宮崎で

の生活を支援することを目的として活動を続けている。

*「日本語れんしゅう会」:

日本語の会話や日常生活で使う表現などを学習する(週 1回、無料)

*「中国(韓国・ドイツ)学び塾」:

言語を含めた各国文化の紹介(連続)講座

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*「英語中級講座」など

*「まつりえれこっちゃみやざき市民総踊り&交流会」

このイベントには毎年、宮崎大学の

多くの留学生が他の大学や専門学校の

留学生たちと参加して、踊りを楽しみ、

そのあとの「打ち上げ」にも参加して、

多くの宮崎市民や市内在住外国人たち

との交流を楽しんでいる。(1993 年に

は約 40 名の留学生が総踊りに参加し、

懇親会には市民も含め 60 名が参加して

いる。) <「市民総踊り」での留学生グループ(1997 年 4 月)>

*「国際交流フェスティバル」:例:チキン南蛮国際交流料理講座(2016 年 6 月)

*「多文化共生セミナー」:

「みんなで楽しく防災訓練」「みやざき再発見ツアー」など

(ⅳ) 外国人留学生宮崎協力会(宮崎市)

外国人留学生宮崎協力会は外国人

留学生との交流を通じ、相互の理解と

親善の促進に務めるとともに、留学生

の研究・生活の利便供与に協力するこ

とを目的として、1983 年(昭和 58 年)

に発足した。宮崎市長を会長とし、多

数の会員で構成している。 市が開催

する主な行事への案内、協力会が開催

する行事への参加交流及び会員家庭

<長友市長(協力会会長)に帰国のあいさつ(1991 年 3 月)> への招待、施設見学会などがある。

「特に毎年 12 月中旬に開催している総会及び懇親パーティにはほとんど全員

(平成元年度は 20 名)の留学生に参加してもらい、会員、関係者ともども大いに交

流を深めています。この席では、宮崎市留学生としての市民証及びメダルの授

与を行っていますが、大変好評を得ており、帰国後家宝として大切にしている

という話も聞いています。」(宮崎国際交流通信『南風 Southern Wind』創刊号

1990 年 6 月発行)。1993 年 12 月に科学技術館を見学した後、厚生会館で開催さ

れた総会には留学生と指導教官約 90 名が参加。記念メダル授与のあとの懇親会

には会員などを含め約 200 名が参加している。

* 留学生専用の市営住宅 (1989 年 4 月)

宮崎大学の留学生の利便性を図るために、市は 1989 年 4 月に学園木花台に

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留学生専用の市営住宅を建設し、1990 年には 8 名の家族同伴の留学生が入居

していた。この支援は、家族を伴って在住している宮崎大学の特に大学院生あ

るいは研究生にとっては、非常に有り難いものである。一般のアパートを借り

る場合には、敷金・礼金などのために当初に多額の費用が掛かり、家賃も決し

て安くはないからである。

* 国際理解セミナー(1989 年 2 月)

シンポジウム形式で行われ

た。パネラーとして市内在住の

外国人、宮﨑大学留学生、市内

専門学校の留学生、留学生担当

教員などが「宮崎の国際化」に

ついて様々な視点から意見をの

べ、それに関してフロアーとの

質疑応答が展開された。時間の

関係で十分な意見交換が行われ

なかったのは残念であった。 <第1回「トーク・イン・ミヤザキ」(1989 年 2 月 18 日)>

(ⅴ) 清武町国際交流協会

宮崎大学に最も近いという地理的な利点も手伝って、1990 年 2 月に設立され

て以来、常に宮崎大学の留学生たちに温かい支援の手を差し伸べていただいて

いる国際交流協会です。

* ホームステイ・プログラム

宮崎大学の留学生たちが最もお世話になるのが、2007 年から宮崎大学が毎年 7

月から 8 月にかけて開催している「サマープログラム」や「宮崎大学と順天大

学校(韓国)の交流授業」などに参加する留学生たちを家庭に招いて宿泊させる

「ホームステイ・プログラム」(通常 2泊)です。日本人の一般的な家庭に入り、

日本人の普段通りの生活を体験することは留学生たちにとって本当に貴重な体

験になっている。教育文化学部でも、2007 年 11 月末日から 12 月初頭にかけて

行った「ダニーデン教育大生の宮崎での短期研修プログラム」の際に、ダニー

デン教育大学生 6名を清武町国際交流協会のご紹介を受けて、6 名の会員のご

家庭に 4 泊させていただいている(p.34 参照)。家庭に滞在中には、歴史館の見

学や華道・茶道などの日本文化を体験させてもらっている。

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* BQ 懇親会(5 月)

協会の総会後に行われるバーベキューパーティには、いつも多くの留学生た

ちが招かれ、協会会員の皆様や一般町民の方々との交流を楽しんでいる。

* 国際料理教室

留学生の何人かはこの「国際料理教室」に講師として招かれ、お国自慢の

料理を紹介し、実際に会員の皆様と一緒に作って、ひととき故国に思いをは

せた。

* バスツアー

毎年 3月に開かれる綾町の「雛山まつり」に貸し切りバスで出かける。多

くの留学生たちが参加し、日本伝統のまつりを堪能している。

(ⅵ) 宮崎友情の架け橋(MBF)

「宮崎友情の架け橋(Miyazaki Bridge of Fellowship)」は留学生を含めた在

住外国人の語学面(主に英語)と異文化交流面の支援を目的として 1982 年 6 月

に設立されている。主に英語による一般通訳(在住外国人対象)や観光通訳(来

宮外国人対象)の仕事を行っている。2001 年度(平成 13 年)にはメンバーの一

人である高島江身子さんが 22 名の「優良善意通訳者」の一人として国際観光

振興会(JNTO)から表彰されている。また、将来英語で仕事をしたいと考えて

いる高校生を対象として「通訳者として今の高校生に伝えたいこと」と題し

て MBF 代表の窪田理佳さんが講演会(2014 年 10 月)を開催した。

* MBF バザー

MBF メンバーが(寄付の)品物を持ち寄って、格安の値段で、生活必需品な

どを留学生に提供した(1994 年 6 月と 11 月に木花市営住宅集会所で開催)。

* イヤー・エンド・パーティ

宮崎在住の外国人と日本人との交流の場を設けることを目的としたこのパ

ーティ。宮崎大学や南日本カルチャーセンターなどからの留学生は無料招待

された。参加者は 170 名の多きを数えた。(1993 年 12 月 4 日に 西村ガーデ

ィニアで開催)

* 国際講演会(1994 年 5 月)

宮崎公立大のスタンレー氏による「ベトナムの現況」というタイトルでの

講演会が開催され、スライドを用いた説明とそれに引き続いて行われた質疑

応答では、盛んなやり取りが見られた。外国人・日本人合わせて 70 名が参加

した。

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(ⅶ)宮崎ロータリークラブ

*「米山記念奨学金」

ロータリークラブは「米山記念奨学金」という形で、多くの宮崎大学留学生

を財政的に支援してきた。ロータリー米山記念奨学金は、将来母国と日本との

懸け橋となって国際社会で活躍する優秀な留学生を奨学することを目的として

いる。年間の奨学生採用数は全国で 720 人(枠)。

宮崎大学教育文化学部留学生への支給(2000 年~2011 年)

年度 氏 名 所属 出身国 年度 氏名 所属 出身国

2000 楊 肖力 院 中 国 2004 李 志剛 院 中 国

2000 金 炷 院 中 国 2005 陳 麗 院 中 国

2001 林 超 院 中 国 2006 Xie Xinmei 院 中 国

2001 楊 肖力 院 中 国 2009 Li Binshi 院 中 国

2002 林 超 院 中 国 2009 Lin Yu-Hui 院 台 湾

2002 金 恩惠 院 中 国 2011 Wang Nanyan 院 中 国

2004 スヘバートル 院 モンゴル

*その他の留学生支援

・「ロータリー財団 国際親善奨学金」

1993 年 12 月~1994 年 11 月: 孟 翔(中国・宮崎大学農学部大学院)

・「宮崎西ロータリークラブ 研究助成金(30 万円)」

1994 年 2 年:ローナック・ファイビー・カーン

(バングラディッシュ・宮崎医科大大学院)

*「例会」での講演

留学生が例会に招待され、昼食をはさんで講演を依頼されることもあっ

た。自国の紹介などを日本語で行った。

(ⅷ)各種教育機関

「国際化」が叫ばれる昨今、外国人を学校に招いて文化の紹介をしてもらい、子

供(生徒)たちにじかに外国人に接して交流させようとする機会が増えている。若者

であり、ある程度の時間的な余裕を持ち、一か所で一定の人数の留学生を確保でき

る大学は非常に手頃な派遣依頼先になるわけである。1988 年当時 25 名であった宮

崎大学の留学生数は、その後年々急増し、2009 年 5 月には 100 名に達し、2015 年

5 月には 141 名を数えている。他の大学や専門学校ではそれほど多くの留学生を抱

えていないような状況において、宮﨑大学に派遣依頼が来るのは当然であった。私

に直接来ることもあったが、その場合は大学あるいは学部の総務課を通して派遣依

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頼書を提出してもらうようにしていた。大学あるいは学部から私のところに依頼が

来た時点で、日本語クラスなどの時に直接留学生に訪問希望を尋ねて、何名かの留

学生のリストを作成して大学を通して先方の学校へ通知してもらうという方法を

採った。その後の細かい打ち合わせは、当該学校の担当の先生と私が直接行った。

教育(文化)学部に来ていた交換留学生(特にダニーデン教育大の学生のほとんど)

が将来「教師」を志望していたので、彼らにとっても日本の小・中学生や若者たち

と直接触れ合い、学校の実情の一端を見ることには非常に深い興味を示したので、

派遣する留学生探しに苦労することはなかった。もちろん他学部留学生たちも、積

極的に学校訪問に参加した。

(a) 幼稚園訪問(1989 年 11 月 25 日 桜ケ丘幼稚園)

幼稚園からの派遣依頼もかなりあった。

児童確保の手段の一つとして、外国人が週

に何回か来て、子供たちに「英語」を教え

てくれる、というのが宣伝文句になりうる

時代だったわけである。今ではそれほど珍

しいことではないが。留学生たちは、そん

な構えた姿勢で幼稚園を訪問したわけでは

なく、半日子供たちとお話したり、走り回

ったりして、楽しく過ごしてきた。夏に、 <園児たちと遊ぶジリアン・ウィルソン>

週 1 回幼稚園に出向いて園児たちに水泳を教えていた留学生もいた。

(b) 小学生が宮大留学生を訪問 (1990 年 11 月 2 日 小松台小学校生)

留学生数名が小学校を訪問するという形が普通であったが、まれに小学生が宮

崎大学を訪問し、留学生たちと交流するという形をとることもあった。宮崎市の

小松台小学校 6年生 4名が、二人の先生に引率されて宮崎大学を訪問した。4名

の児童たちは、それぞれに留学生

に対する質問を準備してきていた。

木花キャンパスの芝生に向い合う

ように座って、お互いの質問に答

える形で話し合いが行われた。エ

ヴァグリーン州立大(アメリカ)か

らの留学生二人(ミッチとジョシ

ュア)とマレーシアとタン

<前列:小松台小6年生 後列左から:ロスラン(マレーシア)、 ザニアからの留学生が対応した。

マトベロ(タンザニア)、平瀬、ミッチ、戸高先生、ジョシュア>

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(c) 中学校訪問 (1992 年 7 月 18 日 木花中学校)

お隣の木花中学校からは何度か派

遣依頼があった。歩いていけるとい

う手軽さもあって、多くの留学生が

参加した。この訪問には、中米のグ

アテマラとコスタリカ、東南アジア

のインドネシアとマレーシア、韓国

(2 名)そしてニュージーランドから

の留学生が、木花中学校の全校生徒

たちとの交流を楽しんだ。体育館に <参加留学生たちの自己紹介>

全校生徒が集まり、留学生たちの自己紹介から始まり、その後留学生の数(7)のグ

ループに分かれて、留学生を中心に質疑応答形式で交流を深めた。

(d) 専門学校訪問 (1991 年 9 月 3日 宮崎リハビリテーション学院)

宮崎市内小松にある宮崎リハビリテ

ーション学院で私が非常勤講師をして

いた関係で、「英語」のクラスに、アメ

リカとニュージーランドから来ていた

教育学部の留学生 3 名を招いて、学院

の学生たちとの交流を行った。約 40 名

のクラスに入ってもらい、自分の国の

紹介とそれに対する質疑応答、グル

<ニュージーランドの紹介をするジョイシ―> ープごとにトピック(「若者の好きな音

楽」「ファッション」など)を設けて、意見交換などを行った。極力英語を使ってコ

ミュニケーションをするようにしたが、アメリカからの留学生たちは日本語能力が

高いので、つい日本語を使ってしまい、日本人学生の英語の練習にならなかったこ

とも多かった。

(e) 生涯学習教育機関訪問 (1999 年 6 月 19 日 放送大学宮崎学習センター[日向市])

日向市にある放送大学宮崎学習センターは 1996 年に設立され、2016 年で 20 年に

なる。20 代の若者から 70 代の高齢者まで幅広い学生を持つ放送大学は、20 歳前後

の若者が圧倒的な通常の大学とは違った、独特の雰囲気のある「学習の場」である。

私はそこで 1998 年から 2011 年まで、客員教員として月2回、主に「英語サークル」

の指導をしていた。そんな中、留学生をサークルに招いて、ともに色々な勉強をす

る機会を設けた。アメリカの大学では「非伝統的な学生」(25 歳以上)が珍しいこと

ではないが、20 歳前後の若者だけからなる日本の大学を見慣れている目には、70 歳

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の男性が一所懸命辞書をめくりながら英語に取り組んでいる姿は二人の留学生たち

には一種の驚きであったようだ。アメリカとニュージーランドの紹介、質疑応答な

ど活発な活動が展開された。

<アイザック・ヘイズくんとジェニファー・キーンさんを迎えて>

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元宮崎大学教育学部/教育文化学部

学生国際交流委員会委員長

平瀬 清

最近特に、大学の国際化が声高に叫ばれている。2008 年に文部科学省は「2020 年ま

でに 30 万人の留学生を受け入れる」という政策を明らかにしている。二つの点で日本

の国際交流の特徴が見られる。一つは質的な観点よりも量的な観点が優先されているこ

とだ。それぞれの大学、地域の事情を考慮することなく、数多くの留学生を受け入れる

ことのみが「国際交流」の指標になってしまう。もう一つは「受け入れること」のみに

重点が置かれ、「送り出すこと」の視点が弱いことである。このような見方に従うと、

これからの大学は留学生をどんどん受け入れて「国際化」することにのみ重点がおかれ、

国際交流の一面的な発想に陥ってしまうことになるが、果たしてそれで良いのだろうか。

1974年 4月に宮崎大学教育学部外国人教師として着任したガイ・バタワース氏の発想

は、上記のものとは正反対のものであった。つまり、いかに宮崎大学生、特に教育学部

英語科生を海外に派遣して、英語力だけでなく広い視野を身に付けさせるか、という考

えの下に、あらゆる努力を惜しまなかったのである。まず、こちらの学生を相手大学に

送り込み、その後、協定を締結して、その協定を基に相手大学との学生相互交換を行う

という手順を踏んで行った。アメリカ・ワシントン州・オリンピアのエヴァグリーン州

立大とニュージーランド・ダニーデンのダニーデン教育大との交流はまさにこの方式で

あった。もちろん社会的背景として、日本の驚異的経済発展のおかげで、日本語を学び

たいという若者が増加していたことも協定締結の追い風になっていたことは否定でき

ない。

しかし 1970 年代中盤ころまでは、宮崎大学の他の学部(農・工学部)においても、まだ

教員の個人的な繋がりに基づく教員や院生レベルの交流が多少あった程度である。3学

部の木花キャンパスへの移転統合が完了した 1988 年の時点での受け入れ留学生の数は

20 名弱であり、教育学部の協定に基づく受け入れ交換留学生 2 名以外はすべて教員の

個人的つながりによって宮崎大学に来ている院生であり、出身国もドイツ、シリア、フ

ィリピン、台湾、中国、タイなど様々であった。宮崎大学において先端的な研究が行わ

れている農学や工学の分野の勉強をするために教授を頼って留学してくるという形が

最も一般的な時期であった。学部間にしろ、大学間にしろ、宮崎大学が海外の大学と協

定締結を始めるのは、1980 年代の末から 1990 年代にかけてである。しかし、たとえ協

定を締結しても、実質的な交流がなされないでその後形骸化したものも多数ある。

そんな中、バタワース氏の協定校の選択基準には、あくまでも学部学生(英語科生)

のレベルに相応しいか、勉学の環境は整っているか、経済的な負担はどうか、という学

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第1部 あ と が き

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生中心に考えたこの三原則があった。このことが、エヴァグリーンと 2017 年で 30 年、

ダニーデンとは残念ながらオタゴ大学との再編成によって 2007 年で終止符を打ったが、

20 年という長きに亘って交流が継続した理由であると考える。バタワース氏が切り開

いた道を英語科教員を中心とした学部教員や学部学生国際交流委員が協力して維持し、

途切れることなく学生を送り出し、受け入れることをしてきたのである。

2003 年にお茶の水女子大学から教育文化学部に着任した長友和彦氏は、学部の国際

交流に関して第二弾の大きなショックを教職員や学生に与えた。お茶の水女子大学在職

時代から台湾との繋がりが強かった氏は、積極的に台湾の大学との学生・教員交流を計

画し、それを着実に実行に移して行った。2004 年 9 月に東呉大学との間に学部間協定

を締結し(2013 年からは大学間協定となる)、さらに 2009 年 3 月には国立政治大学との

間に学部間協定を締結し、その協定に基づいた数々の実質的な学生交換・学術交流が展

開され、まさに中身の濃い交流が今日も続いている。長友氏は定年退職(2012 年)後、

台湾の開南大学(2012 年~2015 年)そして大葉大学(2015 年~)で教鞭を執っているが、

彼の尽力で宮崎大学は両大学とも大学間交流協定を結んでいる。

バタワース氏が宮崎大学教育学部に着任した 1974 年から私が宮崎大学を定年退職し

た 2012 年までの間に、教育(文化)学部が歩んで来た「国際交流」の道を振り返ってみ

ようと考え、この記録を編んだものである。なるべく正確な事実を記録しようと努めた

が、忘却、勘違い、資料の欠落、その他様々な理由により、正しくない記述があるかも

しれないが、その点は容赦願いたい。『国際交流の歩み』は確かに過去の記録ではある

が、同時にこれは今後宮崎大学あるいは教育学部が更なる国際交流を展開していく時に、

その一助となれば幸いであると考える。

バタワース氏と長友氏という二人の「開拓者」のあとに続いて、教育(文化)学部の国

際交流は展開してきた。もちろん、歴代の学部長のご理解、学部国際交流委員の活躍、

指導教員として学生を送り出しあるいは留学生を受け入れてくれた学部教員、財政的に

留学生を支援してくれた学部学生国際交流後援会の学外理事の方々と会員の皆様、学部

教務の留学生係の職員の方々、学外の国際交流支援団体の皆様、留学生訪問を快く引き

受けてくれた学外の諸教育機関など数え上げればきりのない人々の支援のもとに学部

の「国際交流」が成り立っていたのである。私も長年、英語科教員として、あるいは学

部国際交流委員長として、この仕事に深く関わって来ることができたことを嬉しく思い、

誇りに思っている。

今回、この記録をまとめるに当たって、数え切れないほど多くの方々からの資料提供、

口頭での情報提供、アドバイスなどをいただいた。逐一名前を挙げる煩雑さは避けるが、

ここに謝意を表明するものである。

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