再考:アメリカの未公開企業投資組織の発展形態

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2011 11 1 再考アカの未公企業投資組織の発展形態 1970年代以前のベチキピタの史的考察― 城西大学 小野 正人 1970年代以前の米国未公企業投資組織の発展を再考察し、以下の特徴を確認した。①組織形 態が同族型から会社型を経て個人集団型へと変態している。②株式会社組織では利益配分と組織 運営をめぐって運営者で意見が衝突し、人材のスピアウトを通じて新しい組織と形態が生ま れている。③LPSによる投資組織は従来の株式会社型やSBICに比べて、規制、利益配分、組織運 営の側面で柔軟性と自由度を確保できたためにベチ投資の実態に適合し、米国のベチ キピタでは次第にLPSの導入が拡大していった。 1 1 1 1 序考察 考察 考察 考察の対象 対象 対象 対象と視点 視点 視点 視点 米国のベチキピタは60数年の歴史を 持つにすぎないが、 2010年末現在で1767億ドの資 産を運用する巨大な産業に成している。その成 要因は一言で説明できないが、50年前には「risk capital」危険な投資と呼ばれて金融エスタブ ッシトも手をつけようとしなかった新興企業 投資が、専スタッフにより洗練された投資手法を 用いて行う機投資家集団に進化した「組織の進化」 がその発展に寄与したという点にしては、踏み込 んだ分析はなされていないものの、肯定意見が多い ように思われる。 以下は、米国の1970年代までの未公企業投資の 組織発展にして、組織、運営、規制の各側面から 再考察を試みて要約を記したものである。 未公企業投資 未公企業投資 未公企業投資 未公企業投資の組織化 組織化 組織化 組織化 2.1 2.1 2.1 2.1 投資組織 投資組織 投資組織 投資組織の創始 創始 創始 創始 「ベチキピタ」という言葉を自社の事 業に初めて使ったのは1946年のJ.H. Whitneyの幹 部であったBenno Schmidtとされているが 、それ に遡る1920年には「ベチキピタ」という 言葉が用いられたように (1) 、第二次大戦以前から新 興の未公企業に投資する業態は存在した。 1920代から1930年代にはックフェ家やイット ニ家等の富豪の手によって個人資産運用の一手段 として投資が行われていた。それらの個人運用には 充分に整備された運用組織や独立した会計勘定は存 在しなかったが、ックフェ家はEastern AirlinesMcDonnell Aircraftの新興の航空産業に 投資を行い、イットニ家はTechnicolor 映画技術発会社や「風と共に去りぬ」等の映画 に発資金を提供するなど、将来の収益拡大に先ん じて株式を取得するという新興企業への投資手法の 原型は成立していた。 第二次大戦後、こうした個人の未公企業投資が 組織化されていった。ックフェ家の投資運用 は、戦後1946年にRockefeller Brothers, Inc. へと組 織を変え、その後1969年にVenrock Associates と改 組され、現在もベチキピタとして活動を 続けている。また、イットニ家も1946年にJ.H. Whitney & Companyへと会社組織に改組されて組 織的な運用が始まった。同じく1946年、現在では世 界初のベチキピタとされるAmerican Research and Development CorporationARD が発足した。 2.2 2.2 2.2 2.2 ARD ARD ARD ARDの発足 発足 発足 発足 19466月に発足したARDは、独立した私的な投 資組織というよりも、ニイグド地域の過 去十数年の新産業振興運動が結晶化されたもので あり、実質的には当地の財界や学界が出資した「連 合投資会社」の特徴を持っていた。 スクは高いが将来に大きな経済価値と社会貢献

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19世紀後半から1972年までにおけるアメリカ未公開企業投資組織の発展の再考察。

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Page 1: 再考:アメリカの未公開企業投資組織の発展形態

2011 年 11 月

1

再考:アメリカの未公開企業投資組織の発展形態

―1970年代以前のベンチャーキャピタルの史的考察―

城西大学 小野 正人

1970年代以前の米国未公開企業投資組織の発展を再考察し、以下の特徴を確認した。①組織形

態が同族型から会社型を経て個人集団型へと変態している。②株式会社組織では利益配分と組織

運営をめぐって運営者間で意見が衝突し、人材のスピンアウトを通じて新しい組織と形態が生ま

れている。③LPSによる投資組織は従来の株式会社型やSBICに比べて、規制、利益配分、組織運

営の側面で柔軟性と自由度を確保できたためにベンチャー投資の実態に適合し、米国のベンチャ

ーキャピタルでは次第にLPSの導入が拡大していった。

1 1 1 1 序序序序::::考察考察考察考察のののの対象対象対象対象とととと視点視点視点視点

米国のベンチャーキャピタルは60数年の歴史を

持つにすぎないが、2010年末現在で1767億ドルの資

産を運用する巨大な産業に成長している。その成長

要因は一言で説明できないが、50年前には「risk

capital」(危険な投資)と呼ばれて金融エスタブリ

ッシュメントも手をつけようとしなかった新興企業

投資が、専門スタッフにより洗練された投資手法を

用いて行う機関投資家集団に進化した「組織の進化」

がその発展に寄与したという点に関しては、踏み込

んだ分析はなされていないものの、肯定意見が多い

ように思われる。

以下は、米国の1970年代までの未公開企業投資の

組織発展に関して、組織、運営、規制の各側面から

再考察を試みて要約を記したものである。

2222 未公開企業投資未公開企業投資未公開企業投資未公開企業投資のののの組織化組織化組織化組織化

2.12.12.12.1 投資組織投資組織投資組織投資組織のののの創始創始創始創始

「ベンチャーキャピタル」という言葉を自社の事

業に初めて使ったのは1946年のJ.H. Whitneyの幹

部であったBenno Schmidtとされているが 、それ

に遡る1920年には「ベンチャーキャピタル」という

言葉が用いられたように(1)、第二次大戦以前から新

興の未公開企業に投資する業態は存在した。1920年

代から1930年代にはロックフェラー家やホイット

ニー家等の富豪の手によって個人資産運用の一手段

として投資が行われていた。それらの個人運用には

充分に整備された運用組織や独立した会計勘定は存

在しなかったが、ロックフェラー家はEastern

Airlines、McDonnell Aircraftの新興の航空産業に

投資を行い、ホイットニー家はTechnicolor(カラー

映画技術開発会社)や「風と共に去りぬ」等の映画

に開発資金を提供するなど、将来の収益拡大に先ん

じて株式を取得するという新興企業への投資手法の

原型は成立していた。

第二次大戦後、こうした個人の未公開企業投資が

組織化されていった。ロックフェラー家の投資運用

は、戦後1946年にRockefeller Brothers, Inc.へと組

織を変え、その後1969年にVenrock Associatesと改

組され、現在もベンチャーキャピタルとして活動を

続けている。また、ホイットニー家も1946年にJ.H.

Whitney & Companyへと会社組織に改組されて組

織的な運用が始まった。同じく1946年、現在では世

界初のベンチャーキャピタルとされるAmerican

Research and Development Corporation(ARD)

が発足した。

2.22.22.22.2 ARDARDARDARDのののの発足発足発足発足

1946年6月に発足したARDは、独立した私的な投

資組織というよりも、ニューイングランド地域の過

去十数年間の新産業振興運動が結晶化されたもので

あり、実質的には当地の財界や学界が出資した「連

合投資会社」の特徴を持っていた。

リスクは高いが将来に大きな経済価値と社会貢献

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2011 年 11 月

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をもたらす可能性のある新興企業に対する資金供給

の必要性は、既に広く認識されていた。ボストンで

は、1930年代から新興企業への投資育成に関して、

財界や学界のリーダー達が会合や提言を重ね、一部

では投資組織も準備が進んでいた(2)。しかし1939年

に第二次大戦が勃発したために組織設立の構想は中

断され、大戦後に主導者の一人であったハーバード

大学ビジネススクールのGeorge Doriot教授(1899

~1987年)が米軍勤務から復帰し、環境が整った

1946年に設立されるに至った。

2.32.32.32.3 公募公募公募公募株式会社型組織株式会社型組織株式会社型組織株式会社型組織のののの制約制約制約制約

ARDは未公開企業投資事業を行う株式型投資信

託であり、公募増資によって資金調達がなされてい

る。出資した株主は、ニューイングランド地域の金

融機関や事業会社、個人投資家である。創業後の10

余年は苦闘の時期であった。第1回増資は500万ドル

の調達目標に対し1947年2月までに358万ドルを調

達した。1949年の増資時には発行株式の57%が売れ

残り、1954年には1件も投資を実行しないほどであ

った(3)。しかし、1957年にDEC(Digital Equipment

Company)のスタートアップに出資した7万ドルの

資金は、同社の急成長とIPO(1966年)により3億

ドルを超える価値(出資額の約5千倍)をもたらし、

ARDが26年間で得た利益の半分はDECの売却益と

される程の成果をもたらした。ARDはDECの大成

功によって新興企業への投資が利益を生む事業とし

て成立することを世に示した。

その一方で、ARDには二つの内部問題が生じ、そ

れらが人材流出と競争力低下につながっていった。

第一の内部問題はスタッフの個人報酬である。ARD

は公募株式で資金調達を行うクローズド・エンド投

資信託であったために、1940年投資会社法に基づく

SEC(証券取引委員会)の諸規則が適用された。SEC

はARDに利益相反ルールに基づき、ARDの従業員

に対し同社と投資先会社のいずれについても株式と

ストックオプションを取得することを禁じた(4)。こ

の規制はARDの従業員の不満を募らせた。担当する

投資先がIPOを果たして創業者が1000万ドルを超

える富を得ても、ARDの投資担当者は2000ドルの

ボーナスを支給されただけであり 、その担当者は結

果としてARDを退社した。従業員からみれば、ARD

の給与賞与は他より低い上に増額は投資先の株式売

却次第であり、将来に多額の利益を受け取る可能性

がある投資先のエクイティは大きな魅力であった。

第二に、組織運営の硬直性である。先のように上

場会社としてのSECによる諸規則が適応されてい

た投資決定や投資先評価のルールと開示が厳格に要

求された。また、ARDはDoriotが最終決定者であり、

かつ精神的な唯一の支柱でもあったために、従業員

は彼の方針に従うしかないという上意下達の体制で

あった。こうした社内構造のために、ARDは機動的

で柔軟な投資運営が行いにくく、従業員の間に鬱蒼

とした不満が長年にわたり生じていたとされる(5)。

2.2.2.2.4444 人材流出人材流出人材流出人材流出

特にARDで起きた個人報酬問題は、ベンチャーキ

ャピタル組織が株式会社型から後述するLPS型に

移行する重要な要因の一つとなった。スタッフの要

求だけであれば社内問題に留まったであろうが、

ARDの内部問題は人材のスピンアウトの形で顕在

化したのである。

1951年にはARD創業以来Doriotの右腕と目され

ていたJoseph PowellがARDを去り、その後1960年

にはSBICのBoston Capital Corporationの社長に

就任してARDの競争相手となった。また、1965年

にはARDのスタッフであったWilliam Elfersと

James Morganが退社してGreylock Partnersを立

ち上げ、西海岸で考案されたLPS(リミテッド・パ

ートナーシップ)による投資手法を導入した。1970

年以降もARD出身の人材がボストン近郊でCharles

River Ventures、TA AssociatesのLPS型のベンチャ

ーキャピタルを開始した。

ARDは内部問題が解決しないまま、人材流出とい

う形で組織の競争力が低下していった。1972年、

ARDはTextron社に1株813ドル(設立当初は1株25

ドル)と設立当時の約32倍の株価で売却された。長

年の低迷があったにせよ、ARDは株主に応分の利益

をもたらした。しかしARDの人材は既にスピンアウ

トし、LPSを活用した私募ファンド型の投資組織を

創設した。ARDは公募増資により投資資金を募った

株式会社の形態を維持したために、存続する力は残

っていなかったと考えることができよう。

2.52.52.52.5 SBICSBICSBICSBICのののの導入導入導入導入とととと問題問題問題問題

このように、ARDは1950年代から株式会社型の

組織運営に帰する問題を抱えていたが、当時の米国

はARDと同形態の未公開投資組織が拡がっていた。

連邦政府が1958年にSBIC(Small Business

Investment Companies)による支援制度を創設し

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2011 年 11 月

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たためである。

当時のSBICの仕組みは、一定の資本額以上で出

資された投資会社に対して払込資本の2倍までの15

年の長期ローンまたは20年の劣後債を連邦政府が

引き受ける制度であった。このスキームは未公開投

資事業への資金調達を容易にする効果を発揮し、

1961年末には590社のSBICが営業を開始していた。

当時のSBICの大半は株式会社型の投資組織であ

った。SBICは1960年代後半から業績不振に陥り、

不祥事も多発した。一説によると9割のSBICが規則

違反を起こし、数十社が犯罪行為を起こしたという

(6)。SBICは一定の要件を満たせば認定され、投資判

断や経験等の実務上の能力要件は問われず、設立後

の投資運営と財務報告について一律に詳細なルール

の遵守を求めるという「民主的」な仕組みであった。

このため、経験能力の乏しい会社も認定を受ければ

連邦政府より融資が受けられた。SBICの制度創設

によりベンチャー投資に乗り出そうとした民間企業

や商業銀行が多かったことも、実力が伴わない投資

会社を粗製濫造させる問題が生じた。さらに、SBIC

各社は景気後退によって投資先の不良債権を多数抱

え、連邦政府向け長期債務の返済に支障が生じた。

このように、当時のSBICによる公的な支援は全

米に未公開投資事業を拡げる効果を発揮したものの、

SBIC各社の組織運営と財務構造(資産負債のマッ

チング)の側面において大きな問題点を持っていた。

3333 独立独立独立独立プライベートプライベートプライベートプライベート投資組織投資組織投資組織投資組織のののの形成形成形成形成

3333.1.1.1.1 西海岸西海岸西海岸西海岸におけるにおけるにおけるにおける投資組織投資組織投資組織投資組織のののの誕生誕生誕生誕生

新興企業が電子産業を中心にサンフランシスコ湾

近郊で徐々に形成されていた1950年代から60年代

には、西海岸の新興企業投資はDraperとRockとい

う二人の東海岸出身者を中心に形成されていった。

ニューヨークの投資銀行幹部や陸軍省次官を歴任

したWilliam Henry Draper Jr.(1894~1974年)は、

1959年にサンフランシスコの法律家Rowan

Gaither 等と共に投資事務所Draper, Gaither and

Anderson(DGA)を西海岸のパロアルトに創設し、ロ

ックフェラー家の個人出資等によってベンチャーキ

ャピタル初のリミテッド・パートナーシップ(LPS)

を使ったファンドを組成した。彼らが導入したLPS

ファンドは現地パロアルトのCooley法律事務所が

考案したスキームであったが、当時は既にテキサス

州の油田開発事業や不動産開発等でLPSの仕組み

が使われており、出資者にも支障なく受け入れられ

たという(7)。DGAのファンドは、Draper、Gaither、

Andersonの3名がジェネラルパートナーに就任し、

ロックフェラー家等の個人投資家と投資銀行

Lazard Frèresがリミテッドパートナーとして出資

し、総額600万ドルの資金規模でスタートした。こ

のGDAはLPSファンドの大口出資者であったロッ

クフェラー家が資金を引き上げたために1967年に

わずか8年間で解散したが、先のARDと同じように、

スタッフであったWilliam Draper III(1965年に

Sutter Hill Venturesを創業)、Donald Lucas(エン

ジェル投資家としてNational Semiconductorや

Oracleに投資)等がその後もベンチャー投資活動を

続け業界の発展に名を残している。

Arthur Rock(1926年~)は東海岸のニューヨー

ク州で育ちハーバード大学でDoriot教授の講義を受

けた。ビジネススクール卒業後はニューヨークの証

券会社Hayden Stoneに勤務し、1957年にFairchild

Semiconductorの創業時の資金調達を手掛けた。

Rockはこの仕事を機にサンフランシスコへ移り、

Thomas Davisと共に投資事務所Davis & Rock を

創設し、1961年にDGAと同様にLPSによるベンチ

ャーキャピタル・ファンドを組成した。このDavis &

RockのファンドはScientific Data Systemsや

Teledyneの投資によって大成功を収め、投資額300

万ドルに対し1億ドルの分配を行っている 。

3333.2.2.2.2 LPSLPSLPSLPSによるによるによるによる投資運営投資運営投資運営投資運営モデルモデルモデルモデル

LPSの導入は、ベンチャーキャピタルが組織運営

を行う上で以下のメリットがあった。第一に、LPS

を活用した組織では関連法規(各州の会社法)以外

の公的規制がほとんど存在しないために、運営上の

自由度が確保できる。第二に、事業を運営するジェ

ネラルパートナー個人に対する経常報酬(マネジメ

ントフィー)と投資の成功失敗に応じた成果分配(キ

ャリード・インタレスト)を、LPSファンドを設立

する段階で確定することが可能であり、ベンチャー

キャピタルの運営において個人報酬問題は発生しに

くい。第三に、LPSファンドはパススルー課税であ

り、株式会社型のベンチャーキャピタルへの出資で

は二重課税であった出資者は、LPSファンドの利益

に対して課税されない利点を持っている。以上の

LPSの特徴は、ARDの内部問題を解決するに相応し

く、同時にSBICで生じたような諸規制や資産負債

のミスマッチの問題を回避できる仕組みでもあった。

Page 4: 再考:アメリカの未公開企業投資組織の発展形態

2011 年 11 月

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Davis & RockのLPSファンドの成功は投資家達

に広がった。1960年代後半以降、スピンアウト組や

新規参入してきたグループは、ARDや大半のSBIC

のように株式会社が投資組織の運営者となるのでは

なく、LPSファンドを組成し個人集団がファンド運

営者たるジェネラルパートナーとなって投資事業を

始めた。

その後、全米のベンチャーキャピタルが一挙に株

式会社型からLPS型に組織改編された訳ではなか

ったが、新規参入した組織がLPSを導入し、現在は

米国のベンチャーキャピタルの大半がLPSによっ

て運営され、株式会社組織を採用するベンチャーキ

ャピタルはSBICなどの一部に留まっている。

なお、この運営組織の発展は新スキームの導入だ

けで実現できたものではない。不満を持った人間が

既存組織からスピンアウトして新組織を始めるとい

う米国における積極的な人材流動性、換言すれば自

由な労働市場を通じた解決が、新しいLPS型の組織

運営を導入し実現させていったと考えるべきだろう。

4444.... 結語結語結語結語

21世紀に入るとNVCA(全米ベンチャーキャピタ

ル協会)やカリフォルニア大学によってベンチャー

キャピタリストの個人史を記録するプロジェクトが

実施され(8)、これらの作業によって新たな史実が明

らかになっている。本考察はそれらの関連文献を収

集した上で、米国ベンチャーキャピタルについて組

織進化における特徴の考察を加えた。

しかしながら、本考察は日本のベンチャーキャピ

タルを含めた同時代の国際比較の側面には全く触れ

ておらず、今後の研究課題として残されている。く

しくもARDで人材が流出し会社売却の構想が具体

的に進んでいた(9)1971年の秋、京都経済同友会は米

国ハイテク産業の視察を目的にボストンを訪問し

ARDを視察している。京都経済同友会はARDにな

らって新興企業投資の組織運営を構想した結果、

1972年に日本初のベンチャーキャピタルとなる京

都エンタープライズ・ディベロップメント(KED)

を発足させた。KEDと同じ1972年、現在は世界的

に超一流の評価を得ているKleiner Parkins(現在の

KPCB)とSequoia Capitalのベンチャーキャピタル

がスタートした。両者は最初からLPSを用いて事業

を始めたように、既に当時の米国のベンチャーキャ

ピタルはLPSの時代を迎えていたのである。

[注]

(1) Rao and Scaruffi (2011), p.108。

(2) Hsu and Kenney (2005), pp.584-585に詳しい記述がある。

(3) Rao and Scaruffi (2011), p.110。

(4) Hsu and Kenney (2005),p.608。

(5) Ante (2008), chapter 9, pp.147-174に詳しい記述がある。

(6) Bartzokas and Mani (2004), p.54。

(7) DGAに勤務していたWilliam Draper IIIの口述録による。

Hughes(2008), p.20。

(8) 例えばカリフォルニア大学では以下のサイトで公表している。

http://bancroft.berkeley.edu/ROHO/projects/vc/

(9) Ante (2008), p.213。

[参考文献]

1.Ante, S.E. (2008) Creative Capital: George Doriot and the

Birth of Venture Capital, Harvard Business Press

2.Bartzokas, A. and S. Mani (2004), Financial Systems,

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Edward Elgar Pub

3.Gompers, P. (1994) “The Rise and Fall of Venture Capital”,

Business and Economic History, Vo.23, pp. 1-24

4.Gupta, U.(2000) Done Deals: Venture Capitalists Tell Their

Stories, Harvard Business Press

5.秦信行(2001)「シリコンバレーとベンチャーキャピタル」日

本証券アナリスト協会『証券アナリストジャーナル』第39号

6.Hsu, D.H. and M. Kenney (2005)“Organizing Venture

Capital: The Rise and Demise of American Research &

Development Corporation, 1946-1973”, Industrial and

Corporate Change, vol.14, pp.579-616

7.Hughes S. (2008) “WILLIAM H. DRAPER, III : Early Bay

Area Venture Capitalists”, Regional Oral History Office,

University of California, Berkeley

8.Lebret, H. (2007) Start-Up: What We May Still Learn From

Silicon Valley, Create Space

9.小野正人(1997)『ベンチャー 起業と投資の実際知識』東洋

経済新報社

10.Rao, A. and P. Scaruffi (2011) A History of Silicon Valley: The

Greatest Creation of Wealth in the History of the Planet,

Omniware

11.Reiner, M. (1991) “Innovation and the Creation of Venture

Capital Organizations”, Business and Economic History,

Vol. 20, pp.200-209

12.Riekert, P. (2004), Venture governance: venture

capital-backed startups in Silicon Valley and Tokyo, DUV

(本稿は、2011 JASVE第14回全国大会の研究報告である)