種まくもの 最終版

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小説を書いてみました。

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『種まくもの』

日差しが容赦なく私を襲う。それは「暑い」という感覚ではない。灼熱の太陽とはこう

いうことを言うのかと思う。

これは私の好きな季節でない。私は春を好む。特に雤上がりの春の朝だ。日が昇り、日

光が地面を照らすと花や草たちが喜びだす。木々の葉は、日差しにいらっしゃいませを言

わんばかりにお辞儀をする。小鳥たちは、朝の挨拶を始める。そんな様子を眺めると体内

にあるスイッチが入り、エンジンが動き出す、「さぁ一日の始まりだぞ」と。

汗が額から顔へ、そして体全体へと広がってゆく。

「なぜ私はこんなところにいるのだろう?」

そんな問いが頭の中をめぐる。しかし、理由がわからない。昨夜食べたご飯を思い出そ

うとするも全く思いつかない。身内はいないため、一日で誰かとしゃべると言うことはほ

とんどないが、独り言はよく言う。だがそれも思い出せない。どうも過去へは遡れないよ

うだ。唯一認識できるのは、目の前に見える現実だけ。私は過去を思い出すことを諦め、

現実を掴もうとする。

明らかにここは先進国ではない。高層ビルや飛行機、電車や車、そういった先進国特有

の風景とは皆無の景色が広がる。体を軸に一回転をしても、どこまでも広がる地平線が見

える。雑草と疎らな木々たち、そして縦横無尽に歩き回る動物たち。私は、思わずため息

を付いてしまう。なぜ自分がここにいるのかも、なにをすればいいのかもわからないのだ

から。とりあえず私は、直感で惹かれる方角へと歩き出す。理由なんてない。ただ、立ち

止まっていても意味がないのだと、そう思ったからだ。

私は今自分がいるところに名前を付けることを思いついた。人類が名のないものに対し

て恐怖心を抱き、名前をつけだしたように、私も今自分がいるところがどこなのかに対し

て恐怖感を抱き、自分がどこにいるのかを仮定しようと考えたのだ。私は、地理に詳しい

方でなかった。もちろん、七大大陸をすべて挙げることはできたし、七大海洋も覚えてい

る。先進国と言われている国々の場所くらいは指で指し示すことはできるし、各大陸尐な

くても十の国を列挙することはできる。ただ、その国々の首都がどこだとか、有名な川は

なんだとか、そういった細かいことは知り得てなかった。さてどうしようかと考えたとき、

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小さい頃アフリカ大陸の国々について学んだことをふと思い出した。この大陸に住んでい

る人たちは狩りをして暮らしていること。人々を苦しめていた太陽が、地平線の彼方へと

消えると、空には光のパレードが始まるということ。昔、この大陸に住んでいる人々があ

ちらこちらで売買されていたこと―。現状と重なる部分が多いことと夜の光のパレードを

是非とも目に焼き付けてみたいという希望からここを「アフリカ大陸のどこかの国」とし

た。

小学校、中学校、高校、大学と学んだことは全く役に立たないと思っていた私だが、ま

さか還暦を越した今になって、昔の知識を使うなど想像もしていなかった。嫌々ながらも

覚えた知識がまさかこんなところで活かされると思ってなかった私は、思わず笑ってしま

う。

「待てよ?」

私はふと疑問に感じる。昨日の夕食は思い出せないのに、なぜ昔のことは思い出せるの

だろうかと。私はもう一度昨日の夕食について考えてみる。しかしながら、やはりどうし

たってナイフとフォークの間に何も思い浮かばない。ステーキやオムレツ、自分の大好物

を当てはめてみるのだが、どれもピンと来るものはない。一方、昔に得た知識や昔の経験

はすぐに頭に思い浮かぶことが出来る。

こんな灼熱の中を一人で途方もなく歩いたのは初めてだった。体がまだまだ元気だった

ときの私は、たまの休日でお天道様が顔を出しているときには必ず外へ飛び出していた。

自分が大好きだった赤のマスタングに乗り込み、『R

ollin

g Ston

es

』の音楽を車中に鳴り響

かせ、意味もなく街に繰り出していた。

妻のザミューに先立たれてからというもの、毎日が白黒になったようだった。ザミュ

ーに死なれて初めて、大切な人を失って初めて、もっと妻との時間を大事にして来ればよ

かったと感じた。朝起きて朝食を食べ、何も考えずに家の周りを散歩し、帰ったと思うと

ひと眠り。日が沈めば夕食を食べ、風呂に入り寝床につく。そんな生活の繰り返しだった。

庭は、たまに近所のボランティアの人が手入れをしてくれるので、ある程度は整えられ

ているものの、その他の物質たちは、時が止まったかのように何年も同じ所で同じ格好を

している。

若いころ乗り回したマスタングは、まるで魂が無くなったようにもう動かない。昔は太

陽の光で輝いていた赤い色は、今は塗装がはげ落ち悲しい色をしている。もちろん直そう

と思えば直せるが、そんなことはする必要などなかった。五人の子供たちは、すでに成人

しそれぞれの家庭を持っている。クリスマスや年末年始に会いに行こうかと電話で言われ

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るものの断り続けている。子供たちと会うことは、過去を思い出すことに繋がる。それだ

けは嫌だった。過去は振り返れば振り返るほど悲しくなる。

「逃げているだけではないのか?」

そう思う時もある。過去から目をそむけて、淡白な日々を過ごしていていいのかと昔の

元気な自分が頭の中に居て、問いかけてくるときがある。しかし、どうしても過去は振り

返りたくないという拒否反応が出る。そんな時は耳をふさぎ、寝床へ就く。

私は思わず天を見上げた。元気な太陽が、私の目を細くさせる。

その時だった。ふと目の前を見ると、緑が生い茂った大きな木の下で女の子が座ってい

るのが見えるではないか。いつもは人との接触を避けていた私だったが、この時ばかりは

嬉しくなった。「人がいるではないか!」と。

正直このまま大地のど真ん中で餓死してライオンやチーター、豹などの肉食動物に食わ

れてしまうのだろうと思っていた私だったがゆえに、たとえ子供の女の子であっても嬉し

かったのだ。尐女に近づくにつれて私の鼓動が大きくなっていくのがわかる。小さい子と

話をすることは、久しくなかった。自分の子どもたちが小さかった頃も出来るだけ父親と

母親の役割を区別したかった私は、子どもたちとの接触は最小限にしていた。母親は絶対

的な愛を、父親は嫌われ役を担うのだと、子どもが生まれる前からザミューと話し合って

いた。息子達は自分がそういう役割を演じているのだと薄々気づいているようだった。し

かし、娘達は成人するまで私がそういう人間なのだという風に思っているのだと妻からひ

そかに聞いていた。そのように子どもとの接触を避けてきた私には、どのように声をかけ

ればいいのだろう?なんと言えば怖がられないだろうか?そんなことを考えながら尐女に

徐々に近づく。近づくにつれて、尐女が黒人であることに気づく。

「やはりここはアフリカなのか?」

と小さいころの知識が役立っていることへの嬉しさとなぜアフリカに自分がいるのだろ

うという疑問が頭の中を縦横無尽に巡って、よくわからなくなってしまう。

尐女の一メートル手前で立ち止まった私は恐る恐る声を掛ける。

「こんにちは」

「・・・・・・・・・」

「こんにちは」

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「・・・・・・・・・・・・・・・」

尐女の反応はない。

今の自分はナイトクラブの前で泤酔している女性に対して声を掛けている男のような気

分がしてどうも気が引ける。周りに雑草と木、そして野生動物以外にはなにもいないとは

わかっていながらも、恥ずかしい気がしてならない。普段ならば気に掛けない彼らが、今

度ばかりは自分を冷たい目で見ているのではないかと感じずにはいられない。

「じいさんが尐女にナンパしてるぜ!」

「いい年して結構やり手だな!」

そんな声が聞こえて来そうでならない。しかしながら、このまま尐女を無視してしまう

のは自分の性に合わない。今度は彼らから、

「尐女を置き去りにしてどっか行っちまうつもりだぜ!」

「なんて冷酷なやつなんだ!」

そんな声が聞こえて来そうでならないからだ。しかたがなく、私は声を再度掛ける。

「どうかしたのかい?」

自分にしては掛ける言葉を変えたことに満足していた。とにかく私は、彼らの批判の目

を逃れたいという一心だったのだ。

「野郎ども見たか?私は、ナンパをしているのでない、尐女の心配..をしているのだ!」

「○○○○・・・・・」

私は尐女が何を言ったのかわからなかった。しかし、彼女の言葉は全力を振り絞って腹

から出している感じがしていた。故に、尐女が発した言葉を聞き取れなかった自分がもど

かしくて堪らない。心配をしているはずの自分は、やはり自分自身のプライドを守るため

の虚像でしかなかったのか、と悔やんでしまう。とはいうものの、このまま会話をしない

わけにはいかない。会話のキャッチボールを始めたのは、まぎれもなく私であるし、ボー

ルを持っているのも私であるからだ。

「どうかしたのかい?」

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もう一度聞くことに対して謝るのも自分に合わないと思った私は、とりあえずもう一度

同じ言葉で問いかけることを選択する。

「私、○○○○・・・・」

うむ。今度はなんとなく聞き取れた。アフリカ訛りの英語が私の理解を難しくする。ど

うも尐女自身の問題のようだ。主語は絶対「私」だということは聞き取れていた。しかし、

状態を表す箇所が聞き取れていない。もう一度問い直すのも可能だが、さすがにそれは気

が引ける。主語が「私」である以上、尐女自身の体に関することか尐女の考えであった。

後者はどうしようもないので、前者であると仮定し、観察をし始める。

するとどうだろう、尐女の体は骨の形がくっきりとわかるくらい痩せ細っていることに

気づく。

そう言えば、昔働いているころ、社内で募金活動があったことを思い出す。その募金は

アフリカの飢餓で苦しむ人たちのために使用されるものだと担当者から聞き、そこで苦し

んでいる人たちの写真を見せてもらったことがあった。彼らは食糧が無く、一日一度食事

をするのが精一杯なんです。と訴えかけられたことが頭に浮かぶ。

結局その時は募金をしなかった。というのも、そもそもそのお金は直接苦しむ人たちに

届けられるわけではない。なぜなら、例えお金が彼らの手に渡っても使うところがないか

らだ。結局、募金されたお金は、彼らを支援する団体に寄付されて団体の方々が、彼らに

対して物質的な支援をするというわけである。

私は、寄付したお金が団体の人の懐に一度入ることを嫌っていた。なぜなら、そのお金

が本当に彼らのために使用されたかどうかなどわかるはずもないし、募金されたお金を私

的流用する団体などごまんといることを友人から聞いていたからだ。

しかしながらどうであろう。目の前に空腹で痩せ細った尐女がいるではないか!私は、

自分自身が昔募金しなかったことへの後悔と、支援団体は何をしているのだ!という憤り

を感じていた。尐女の周りには、彼女の死を待ち望んでいるかのようにハゲタカが何羽も

木々に止まっている。

私は、彼女のために何が出来るのかを考え出した。というよりも、この状況下で何もせ

ずにはいられないのだ。とはいうものの、私は何も持ち合わせていない。水もなければ、

食糧もない。その現実を考えたときに、ふと、自分もそのうち尐女のようになってしまう

のではないかと想像してしまう。手で自分の出っ張った腹を撫で、長年アメリカンビーフ

を食べ続けた結果付いた脂肪を摘まんでみる。この長年の偏食によって付着した脂肪がは

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たして、無くなるのだろうかと疑問を持つと同時に、さてどうしたもんかと腹をまた撫で

る。

すると、突然肩が重くなった気がした。まるで、自分の顔くらいの石をバッグに詰めて

背負ったような重量感だ。私は、この重量感をハゲタカではないかと思っていた。なぜな

ら、彼らがしびれを切らして、尐女をそして私を!襲いに来たと思ったからだ。

私は、恐る恐る背中を確認する。すると、一週間ほどバックパックできそうな大きな緑

のバッグを背負っているではないか。

私は、混乱せずには居られなかった。夢でもないのにこんなことが起こりえるのだろう

か。夢でもなければ、私は一体どこにいるのだろう。そんなことを考えしまう。しかしな

がら、どんなに考えてもわからない。U

FO

が存在するかどうかを考えてもわからないよう

に、死後の世界がどうなっているのかを考えてもわからないように、全知の神が存在する

かどうかを考えてもわからないように、わからないのである。

バッグの中身を確認してみる。すると、そこには一週間は食べていけるであろう食料と

水、そしてテントが入っているのが見えた。明らかにこれらは尐女のために用意されたも

のだと想像できる。

私は、あたかも自分が尐女になったように、それらを丁寧に一つずつ取り出し始める。

母国であれば、きっと私はバッグをひっくり返して中身を出していたであろう。しかし、

今のような、なにもない土地では、そんなことはできやしない。一つ一つを手にとって、

しゃぶりつくすように確認して地面に置く。その繰り返しだ。

私が目で確認できたもの達をすべて出し終わると、バッグの一番下に何か掌に収まるほ

どのノートが入っていることに気づく。厚さはそれほどでもない。ただぽつんと、まるで

公園のベンチに置き忘れた本のように、置いてある。私は、おそるおそるそれを取り出す。

そして、パンドラの箱を開けてしまう時のように、高ぶる心臓を抑えながら、表紙を開く。

すると、そこには『食』と一言書かれている。手のひらサイズの本のちょうど真ん中に、

小さく、しかしながらしっかりとした文字で書かれている。私は、この次のページが気に

なって仕方がない。確かにそれほど厚みはないものの、本であることは間違いない。次の

ページから始まる物語に私は興味を抱かざるをえない。どんなファンタジーが私を待って

いるのだろう。ローマチックな絵が私を出迎えるのだろうか、それとも五歳ほどの子ども

が描いた絵が出迎えるのだろうか、はたまたびっしりと整列された字が私を出迎えるの

か・・・・。

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私は、『食』と書かれたページの下をゆっくりと人差し指で触り、その指を右にスライ

ドさせながら次のページに進む。

「世界には七人に一人、九億二千五百万人が飢餓で苦しんでいる。」

その一文が本のページの真ん中にぽつんと書いてあった。七人に一人という事実には驚か

ずには居られなかった。自分の家族、子ども五人と妻と自分、の中の一人は飢餓に苦しん

でいるということになるからだ。アメリカに住んでいるときには食に困ることはまずなか

った。自分自身がしっかり働いていたからということはあるものの、一日三食、妻の手料

理を食していた。広い地球の中に飢餓で苦しんでいる人たちがいると言うことは知ってい

た。テレビを見れば、国連の飢餓に関する団体のコマーシャルが流れているし、新聞や雑

誌を見れば国際的に有名なN

GO

(非政府組織)の広告を見ることが出来る。しかし、そ

れらには現実味がなかった。この問題は地球環境問題とは違う。後者の問題は、地球規模

で影響がある。地球が温暖化し、氷が解け海面が上昇すれば自分が

...死ぬかもしれない。異

常気象が増加して洪水や地震、ハリケーンなどが多く発生すれば自分が

...死ぬかもしない。

しかしながら、飢餓は違う。例え飢餓で苦しむ人が増加したとしても、自分は死ぬわけで

はない。苦しむ彼らが

...死ぬだけなのだ。ところが今は状況が異なる。目の前で小さな尐女

が飢餓に苦しんでいる。生きようとしている。必死に声を振り絞って私に声を返してくれ

た。そんな尐女をどうして無視することが出来ようか。目の前に座る尐女を私は見つめた。

その時手に持っていた本がほんの尐し重くなった気がした。衝撃の一文のページ下に指を

なぞらせ、右へ動かす。一枚の紙がペラリとめくれる。

「飢餓の主な原因は、自然災害・紛争・慢性的貧困である。」

「自然災害・・・」

思わず私は声を漏らしてしまった。自然災害と言えば、地震や津波、洪水、旱魃などで

あり、異常気象の結果として近年それらの災害が多く発生していることを知っていたから

だ。その時私は一つの事実に気が付く。私自身も飢餓の問題に関わっているのだと。私自

身も飢餓の問題の間接的な加害者なのだと、そう気づいたのだ。太陽の日差しが突然強く

なったような感じがした。太陽が気づくのが遅いぞと私を批判するような感じがした。私

は自分を悔やまずには居られなかった。今までの人生をいかに自分中心で生きてきたかを

悟らずには居られなかった。

「私には関係ない」

私はそうやって世界で起きている問題に目を背けてきた。

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「私一人が募金なんぞしたところで何も変わりはしない」

そうやって一人ひとりが協力することの重要性を否定してきた。しかし今、目の前に居

る尐女を見ていかに自分の考えが薄っぺらいものだったかを思い知らされた。飢餓の問題

は私にも原因がある。私が稼ぎの一パーセントを募金に回せば救えた命があったかもしれ

ない。この尐女は私が作り出した飢餓の犠牲者なのではないのか。様々な思いが私の頭の

中を駆け巡る。ふと我に戻り、再度尐女を見つめる。尐女は骨の浮き出た、痩せ細った腕

で自分の体をなんとか支えている。脚は地面にバタリとつけ、腰から上を空間に浮かせて

うつむいたまま座っている。私は、テントと食料を持ち自分の腕に広げてみる。

これで彼女を本当に救えるのだろうか?

彼女はこの後どうするのだろうか?

そんな問いが頭によぎる。食糧は確かにあるが一週間分程度しかない。それがそこを尽

けば・・・。テントも特別頑丈に出来ているわけではない。夜になり夜行性の肉食動物が

活動しだして、彼女を襲ったら・・・。しかし、今の私にはどうすることも出来ない。手

に持っているもの達を尐女にあげる以外に何もできないのである。心が晴れるわけがない。

空は真っ青な綺麗な色を描いているのに、自分の心の空はグレーで今にも雤が降りそうだ

った。

私は尐女の座っている目の前で立ち止まった。自分の影が尐女を覆う。尐女の体がちょ

っとずつ私の方を向きだす。九十度の体の回転という動作に緊張を覚えたのは六十年ちょ

っと生きてきて初めてだった。尐女が一度一度体を回転させるたびに、自分の鼓動が高ま

って行くのがわかった。どのように渡せばいいのだろうか。笑顔を振る舞った方がいいの

だろうか。真剣な顔が良いのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。自分自身が

作り出した犠牲者かもしれない尐女に対して笑顔を見せるのは礼儀としてもっての外であ

る。しかしながら、真剣な顔をして渡すのも、ものの渡し方としてどうなのだろうか、と

感じてしまう。尐女の体が九十度自分の方を向き終わった。今度は頭が尐しずつ上がり始

めた。私は、昔のロボットのようなカクカクとした動作に尐し奇妙な感じを覚える。尐女

の顔が徐々に見え始める。チリチリのパーマ頭に、大きな目、鼻は鉤鼻だった。大きな目

をしているものの、空腹のためなのだろうか、目は半分程度しか開けられていない。彼女

の目を見つめてみるものの、そこに生きている感じはしなかった。将来を見捨ててしまっ

たような目。いや、見捨てたくないのだが自分の身の回りの状況かそうさせているようだ

った。私はこんな目をしている人間に会ったのは初めてだった。働いていた時の同僚は皆

競争心に燃えていた。もっと自分の給料をあげてやろう、それだけを求めて働いていた。

目にもそれが見て取れた。実際は私も同様だった。妻や子どものことは後回しだった。す

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べてを妻に任せ、私は仕事に没頭した。朝から晩まで働き続けた。妻が癌で亡くなった時

も私は仕事場にいた。

尐女の顔が完全に見えるようになった。私は地面に膝をついた。そして、手に持ってい

たすべてのものを彼女に差し出した。四割くらいのスマイルと共に。尐女は手をぶるぶる

と震わせながら、私からの差し出し物に手を伸ばし始める。それはゆっくりでなんとも貧

弱そうに見えるかもしれない。しかし、私にはそれは彼女の力強さを感じた。最後の力を

振り絞って何かを掴もうとしている姿はとても印象的だった。私から近寄って掴みやすい

ようにはしなかった。というか、そうしてはいけないと直感的に感じたのだ。私は彼女の

弱くも力強い手を待った。三〇㎝、二〇㎝・・・・と尐しずつ手が近付いてくる。そして、

彼女の手がものに届く。彼女は細く、骨のむき出しの腕でしっかりとそれを掴んだ。私は、

思わず十割のスマイルをしてしまった。

ふと私と彼女の姿がスナップショットのように切り取られたような気分になった。そし

て、一瞬の光とともに私は空間に吸い込まれた。空間の中は白くキラキラとしていた。暑

くもなく寒くもない。無重力の空間だった。ふわふわと自分が浮き、天使になったような

気分だった。五十mくらい先だろうか、明らかに今自分がいる空間とは異なる光が見える。

私は期待と不安と覚えた。この変な時間から解き放たれるのだろうか。それとも、またこ

の変な時間が続くのだろうか。距離が縮まるにつれて、心臓の鼓動が高まっていく。光が

私を包み込む。私は思わず目を閉じた。

地球の引力を感じる。

「地球に戻ったみたいだぞ」

私は心の中でそう呟いた。まだ私は目を開けなかった。開けるのが怖かった。ニューヨ

ークあたりに降り立ったとすれば、誰かが街の真ん中で目をつぶっている可笑しなじいさ

んに声をかけてくれるはずだ。三分ほどそれを期待して待ち続けてみた。しかし、誰も声

をかけてくれない。そもそも人々の足音すら聞こえない。太陽の日差しが禿げかかった自

分の頭を照らす。この暑さ、見覚えがあった。諦めの気持ちと共に、徐々に目を開いてみ

る。そこはさっきの尐女と出会ったのと同じ場所だった。私は思わずため息をついた。

「今度はなんなのだろう・・・」

そう思った。空を見上げて太陽を見つめてみる。さっきと位置が変わった気がしない。

日差しの暑さや風の向き、風の強さ、すべてが最初の時と同じように感じた。まるで、テ

レビゲームをリセットした時のような感覚だった。テレビゲームですべてがリセットされ

るが、自分がリセットしたということは知っているように、環境はすべてリセットされた

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が、自分が経験した尐女とのことは覚えていた。もし、もし先ほどと同様の世界に戻った

のならば、尐女が座っていた木があるはずだと思った。私はすぐさま自分の体を百八十度

回転させ木があるかを確認した。そこには木は..あった。しかし尐女の姿は無かった。なん

とも寂しい気持ちになった。

「また一人か・・・」

そんな言葉が口からこぼれる。とりあえず尐女がいた木まで歩くことにした。もしかし

たら何か今後の行動に役立つ手がかりが得られると思ったからだ。一歩ずつアフリカであ

ろうと思われる大地を歩く。風が地面の砂利を空中へと手招きする。そして私を襲うかの

ようにそれらが降りかかってくる。私はシワくちゃになった手で自分の顔を覆いながら木

へと近づいて行った。そういえば先ほどのリュックはどうしたのだろうと気になった。一

方の手で風を避け、一方の手で背中を確認してみる。手が空を切る。リュックの中には自

分のためになりそうなものが入っていなかったのは知っていた。尐女の時はテントと食料、

本が一冊だった。本一冊が自分の命を助けてくれるとは思っていない。ただ、それがある

とないとでは孤独感が異なった。あの本は特別な本だ。私が知らない真実が一文、本の真

ん中に書きつづられているだけだったが、なぜかそれが私にエネルギーをくれた。昔夜遅

くに仕事から帰った時に妻が用意してくれたオニオングラタンスープを思い出す。細かく

刻んだオニオンを煮込むときに妻は隠し味にビールを入れていた。それがオニオンの甘さ

をさらに引き立ててくれるのだ。それにたっぷりのチーズをのせて食べる。カップ一杯だ

けだったが、なぜかそれは私に元気をくれた。それを食べると明日も頑張ろうという気に

させてくれるのだ。だから、自分の元気がなくなった時にあれを読めば元気を貰えるだろ

うと考えたのである。

私は木に近づいた。尐女が居たであろうところを何かないかと隈なく探してみる。しか

し、まるでそこは尐女がいなかったようになにも残っていなかった。彼女の髪の毛や座っ

ていた跡、私が膝をついた跡、すべてが無くなっていた。私は立ちあがって木を見上げた。

幹から無数に生えた枝、その枝からさらに派生した枝、そしてそこに生えている葉たちが

私をいじめた風達でダンスを踊っている。右に腰を振ったと思えば、左へと振り返す。そ

して時たま上下に頭を振るのだ。今はダンスなど踊らなくなったが、大学や社会に出ても

二十代の時にはよくクラブに行って踊り明かしていた。お気に入りの尐しタイトなストレ

ートデニムにフレッドペリーのポロシャツ、黒いローファーの靴をいつも身に着けていた。

ザミューにもクラブで出会った。大学三年の夏にニューヨークの有名なナイトクラブに友

人五人と行った時だ。友人からお酒を頼まれていた私はカウンターにお酒を購入しに行っ

た際に椅子に座っている彼女を発見した。彼女は薄い青のドレスを着ていた。白い肌に尐

しパーマがかった茶色の髪に金色の丸いイアリングをしていた。とても美しい顔立ちをし

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ていた。どうしてこんな彼女を男どもがバーカウンターで放っておくのだろうと疑問で仕

方がなかった。彼女が私に気づき、顔を私の方に向ける。自分の心臓の奥底が締め付けら

れるのを感じた。これが恋だと気づき、彼女を自分のパートナーにしたいと思うまでにそ

う時間はかからなかった。彼女との話はとても楽しかった。彼女は友人三人とクラブに来

ているということだった。彼女は、普通にクラブに来ていた女の子とは彼女は異なってい

た。なんというか知的だった。今まで私が相手のしたことがある女の子は、あの男がカッ

コいいとか私はあなたの出会った女性の中でどれくらい可愛いのかとか、前の彼氏の話と

か、そういう生産性のない話しかしなかった。しかしながら、彼女、ザミューは違った。

むしろそういった類の話を嫌がっていた嫌いがあった。皆が楽しく踊っている横のバーカ

ウンターで一人お酒を飲んでいる君はおかしいと私が指摘した。楽しく踊れば良いじゃな

いかと私は言った。彼女は、踊るのはあまり得意ではないし、そもそも踊りだすと体目当

ての男が寄ってきて面倒だと返答した。私にはその尐し捻くれた感じが魅力的にしか見え

なかった。その後の彼女との話は、哲学や政治、いかに一般人がつまらないことを考えて

いるのか、そんな話で盛り上がった。私たちはすぐに惹かれあった。自分というものを忘

れて話に没頭した。そして自分を取り戻した時、私たちはホテルのベッドの上に居た。自

分の横で彼女が寝ている。彼女の寝顔は、起きている時以上に美しかった。彼女の体が作

り出す曲線美は言葉では表現できないほどであった。私は寝ている彼女を再度温かく包み

こんだ。そして、彼女の頬にやさしく口づけをした。

大学を卒業してすぐに私とザミューは将来を誓った。最初は給料と家計のやりくりに苦

労したが、年が経つにつれ私の給料は右肩上がりになり心配する必要は無くなった。三〇

までの間に五人の子供に恵まれた。五五になり、そろそろ退職して妻と残りの人生を過ご

そうという時に妻がこの世を去った。

木々を見上げていた目から一線の水が流れた。その瞬間自分というものを取り戻した。

腕で濡れた目を擦る。上を見上げるのを止め、木の奥にある景色を眺めてみる。すると一

軒の家らしきものを見つけた。私は目を疑った。見渡す限り草原だったこの地に家らしき

ものを見受けられるのだから。私は思わず駈け出した。あの家に行けばなんとなく助かる

気がした。自分がいるこの土地がどこなのか、この世界がなんなのか、すべてがわかる気

がしたのだ。もしあの家が豪華な一軒屋だったならば、きっとそこには神様のような人物

が住んでいて私に何か手解きをしてくれるのではないかと考えたからだ。私は何十年も使

わなかった脚の筋肉を精いっぱいに使った。

「なんだ走れるじゃないか。私は!」

年を取ってからは転ぶのが怖くて走ろうとしなかったのだが、今日改めて走って見ると

自分が思っているほか走れることに驚いた。今の自分は鳥のように軽やかでチーターのよ

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うに素早く走っているように感じた。家の大きさが段々と確認できるようになってきた。

それは、立派な一軒屋というよりは、倉庫のようにものを蓄えておくために作られた家の

ように感じられた。尐し足が重くなったように感じた。今まで抱いていた期待と異なって

いる現実を直視して、残念に思ったからだ。汗が額から顔全体、背中から上半身全体、太

ももから下半身全体と流れだす。何十年も貯めていた汗をすべて吐き出すかのように、汗

腺から汗が噴き出すのだ。

家の前まで来た。とても古風で古びた家だった。家は上に高く横は狭かった。所どこと

は木で修復されており、色の違う壁がとても目立つ。修復されているとは言ってもそれは

十分ではなかった。家を支えている木はすでに限界に来ていた。もし、台風や大雪などが

起これば簡単に崩れ落ちてしまいそうな感じだった。私は中に入ることを躊躇した。自分

が入った途端に崩れてきたら・・・と考えると寒気がしたからだ。しかしながら、先ほど

走ったおかげでどっぷりと汗が出て、日陰で休みたかった。それに水も一杯飲みたかった。

私は仕方なくその古びた家のドアを二度ノックした。するとまるで自動ドアのように腐り

かかった木のドアが勝手に開き始めた。中の様子が尐しずつ見え始める。自分の影が家の

なかに映りだす。

すべてが開ききった。部屋の中は目の前にぽつんとベッドが一つとその横に椅子が一脚、

ベッドの真上の天井にファンが取り付けられているだけだった。ファンの回る音がドアか

らでも聞こえた。年老いた今にでも壊れてしまいそうな音だ。私は、右足を一歩中に踏み

入れる。ギィっと木の床が声をあげる。ファンの音で完全に静かではなかったものの、コ

ンサート会場のあの静寂な状況の中にドアを開けその静けさを打ち破るくらい緊張感が走

った。ギィと音を立ててからどれくらい経ったであろうか。私は次の一歩を踏み出せない

でいた。誰かに声をかけられたり、見られたりしていないだろうか。そんなことが頭を巡

る。しかし、このまま留まっていたってどうしようもない。私は思い切って家の前で留ま

っている左足を前に出した。ギィと先ほどと同じ音が鳴る。また私は停止した。ギィとい

う音が宇宙の果てまで消え去るまでは次の一歩を踏み出そうとは思えなかったのだ。消え

去ったことが確認できるとまた次の一歩を踏み出すことができたのだ。しかし、六歩目を

踏み出し終えたとき、もうその行動がどうでも良くなった。そもそも変な世界にいる私だ。

どうにでもなれと思ったのだ。隠れているやつに殺されたらそれでかまわない。それで仕

方ない。そう思ったのだ。私はそのベッドまで駈け出した。ギィギィと床が鳴り響く。し

かし今の私にはどうでも良かった。とにかくすぐにベッドにいるであろう人物と出会い話

が聞きたかった。私の手がベッドの飾りに届いた。そして、ベッドを覗き込んで見る。そ

れは刑事が犯人を追いつめて、これですべてが解決するんだ!と意気込んで部屋に突入す

るときのような気分だった。私は目を疑った。完全に期待は裏切られた。今まで自分が期

待を馳せていたことがばかばかしくなり、虚しくなり、苛立ちを感じた。何をやっていた

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のだろうかと思わずにはいられなかった。私の瞳には一人の黒人の尐女しか映っていなか

った。一人の尐女が白いベッドの中で何か苦しんでいるようだった。

「またか・・・・」

そう思わずにはいられなかった。あの無視されたあとのやるせなさをもう一度味わいた

くないと思ったのだ。とはいっても死にかけている尐女を目の前にして無視することはで

きなかった。身の回りには私を嘲笑するようなものは見受けられなかったが、また何か起

きそうでならなかった。ベッドの横に置いてあった椅子に腰かけ尐女に声を掛けようとし

た時、ふと昔を思い出した。それはザミューが地球上を去る日の時であった。

ザミューが自分の病気に気付いた時、癌が体中を虫食んでいた。ザミューは三男の結婚

準備と二男の交通事故で毎日十分に寝られていなかった。彼女が長い風邪を引いたとき、

私は病院に行ってみた方が良いと言った。ザミューは了解したものの、実際は行かなかっ

た。彼女はいつもそうだった。何かに理解を示しても、私が一緒に付き添わないと行動に

移したがらなかった。それが彼女にとって恐怖心を抱くことであればなおさらだった。一

ヵ月と半月しても治癒しない彼女の病気を見て、私は有給休暇を取りザミューと一緒に病

院に向かった。彼女は何度も大丈夫だと言い張った。今取りこんでいることが終わったら

しっかり寝るからと、しっかり休息を取るから心配することはないと私に言った。しかし、

今まで大きな病気をしたことがなかった彼女だったが故に私は半ば強制的に連れて行った

のだ。彼女の病状がはっきりするまでに長くはかからなかった。彼女の余命三週間と医者

から言われた。私は頭が真っ白になった。青天のキャンバスにどす黒い雲が現れ、雤が降

り出した。大雤だった。なんとかその雲をかき分けて太陽を見ようとするが出来なかった。

かき分けてもかき分けても、雲が現れるだけだった。妻は泣き崩れた。私は彼女を抱きし

めるほかなかった。手術についても尋ねてみたが、「時すでに遅し」ということだった。

医者は病院ではなく家にザミューを連れて帰ることを勧めた。そっちの方がストレスモ溜

まらなくいいと言った。私は、妻と一緒に車に乗った。そこで交わされた会話はたった一

つ。

「寒くないかい?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

長男家族が妻の息を引き取るまでの間、一緒に住んでくれることになった。私は大事な

プロジェクトの途中だったから妻が呼ぶようにと言った。私は、今すぐにでも会社を辞め

て君の看病をすると言った。しかし彼女は拒んだ。

「私はあなたの頑張っている姿が好きなの。私は大丈夫だから」

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そう言った。そこまで言われたら辞めるわけにはいかなかった。妻の容体は日に日に悪

くなっていった。私が夜遅く仕事から帰ると、眠れない妻がお帰りの挨拶をしてくれた。

寝室のベッドの上でやさしく、温かい言葉で迎えてくれた。私は、寝床で弱っている妻の

額にキスをして彼女の横で寝た。私が横で寝ると妻は深い眠りに入った。私が横にいると

安心するのだろうか。それまでは苦しんでいた咳が止まり、ぐっすりと寝た。一緒のタイ

ミングに寝るのは何年振りだろうと感じたものだった。収入が高くなってからは帰りが遅

くなり、彼女が先に寝て私が後から入り、彼女が起きる前に仕事に出るという日々ばかり

だったからだ。若く入社したての時は毎日彼女の手作り料理を食していた。ディナーはワ

インを片手にザミューの手作り料理という最高の食事と一緒に食べていた、妻はあまりお

酒に強い方でなかったから私の半分程度の量だったが、いつも私が飲む速度を見計らって

飲んでいてくれた。私が飲み終わると妻も飲み終わる。そして必ず一言こう言った。

「同じタイミングね」

そして笑い合うのだ。時間があるときは一緒にお風呂に入った。そのままでは恥ずかし

いということでいつも泡ぶろにして入った。お互いに髪を流しあったり、体を流しあった

りするのが楽しかった。寒い冬の日も、妻の体の温もりでその寒さを吹き飛ばすことが出

来た。一緒にお風呂を上がるもいつも私が先にベッドに入った。そして、妻が来るまで本

を読んでいた。ザミューは化粧水をつけたり、髪を乾かしたり、明日の朝食の準備をして

から寝どこに入った。彼女がベッドに入ると、「ありがとう」と一言言って口づけをした。

それが一日家のことを頑張ってくれた妻への感謝の気持ちの体現だったのだ。翌日が休日

だったり、まだ寝るまでに時間があったりした時は愛を交した。私たちはとにかく抱きし

めあった。入れている時間よりもおそらく抱きしめあう時間の方が長かった気がした。抱

きしめあい、温もりを感じた。その温もりがストレスや疲れを癒やしてくれるのだ。同僚

の妻の話やこれまでの自分の彼女と比較する限り、私の妻はあまり感じる方ではなかった

のかもしれない。でもそんなことどうでもよかった。感じようが感じまいがどうでもいい。

大切なのは私たち二人が時間と場所を共有することだった。共有さえしていればなにが起

ころうと関係ない。もちろん、綺麗な景色を見に行ったり、美味しいものを食べたり、買

い物に行くことは楽しかった。そういったことが記憶を探ろうとした時の手がかりとして

重要な役割を果たしてくれていた。しかしながら、それらは副次的なことに過ぎなかった

のだ。

この考え方はザミュー譲りだった。私は彼女を喜ばせようと色々なことを考えた。ちょ

っとでも綺麗な夜景の見えるところに連れて行ってあげようとか、サプライズのプレゼン

トをあげようとか、そういう通常の男ならば考えるであろうことを考えていた。しかし一

年目の結婚記念日の時だった。私たちはスウェーデンへ三泊四日の旅行に行っていて、そ

の最終日が結婚記念日だった。私はガイドブックに従って、とても綺麗なレストランを探

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し当てていた。しかし、ガイドブックによれば予約は不要だということだった。実際別の

日に何気なくそのレストランの前を通った時も他の客が待つことなく店へ入るのを確認し

ていた。だから、心配ないと思って予約をしていなかった。ところが実際にそこへ行って

みるとその日に限って行列が出来ていた。結局その日は閉店まで入ることが出来ないとわ

かり、私たちは近くのチェーンのレストランで食事を済ました。私は悔しかった。結婚記

念日の夜にちゃんとしたディナーを愛する妻に提供できなかったのだから。その夜私は妻

に謝った。きちんとしたレストランで食事が出来なくてごめんとそう謝罪した。私が予約

さえしていれば・・・と悔しくて仕方がなかったのだ。悔しさが目から流れ出した。私は

彼女の膝に頭をついて謝り続けた。彼女は何も言わず私を包み込んだ。彼女の上半身をそ

のまま私の上半身に乗せて包み込んだ。妻は言った。

「今夜のディナーは最高のディナーだったわ。だってあなたと一緒だったのだもの。あ

なたと結婚記念日の夜を一緒に過ごせたことは幸せだわ。とても美味しい食事をありがと

う」

彼女の心のこもった「ありがとう」は私の顔をさらに濡らした。そして私は学んだ。本

当に大切なことはお金でも、地位でもない。大切なのは一緒にいる時間なんだと。一緒に

いる場所なんだと。そうザミューが気づかせてくれた。

そんな色々と教えてくれた妻が横で苦しんでいる。私にできることは一つだけだった。

そう。同じ時間、同じ場所を共有することだった。私は出来るだけ家に帰るようにした。

部下たちが私を早く帰宅の途に就かせてあげようと張り切ってくれたのだ。私は残りの妻

の時間をできるだけ一緒に共有した。

金曜日の午後八時。私が家に帰る一時間前に妻は息を引き取った。彼女の顔はまだ温か

かった。長男が何度も死にかけたが親父が帰るまで持ちこたえるんだと言って頑張ったの

だと教えてくれた。私は椅子に座り妻の手を握り、最後のキスをした。

目の前の尐女は確かに黒人で妻とは異なっていた。しかし、妻のことを思い出してから

は面倒くさいという感情は消えて助けてあげたいという感情に変わっていた。

尐女はものすごい量の汗をかいていた。なにかに魘されて何度も声をあげていた。私は

医者ではないし、医学的知識など持ち合わせていなかった。しかし、どう見たって彼女は

病気だった。そしておそらく難病なのであろうと予想が出来た。彼女を見る限り話せるよ

うな状況じゃない。話せなければ私は見守ることしかできない。残念なことに不思議なリ

ュックもまだ私の背中に現われてこない。その間にも尐女は汗とうめき声をあげていた。

私は、見ていられなくなりとっさに尐女に声をかけようとした。自分の声がのどを通り、

口から外へ出る直前だった。

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「尐女はエイズに侵されているのです」

私は後ろを振り向いた。そこには私より年上に見える男が立っていた。男は長い白髪と

長い白い髭を蓄え、白いトガを羽織っていた。私が、男が何者なのかを尋ねようとした瞬

間男は言った。

「彼女はあと一週間の命なのですよ」

私がなんとか助けてあげることはできないのかと尋ねたところ、男は無理だときっぱりと

言った。男の態度に尐し苛立ちを覚えた私は、男にあんたは何者なのだと、この子をしっ

かりと介護する義務があるのではないかと尋ねた。しかし、男は言った。

「私は彼女の父親でもなければ、親戚でもない。確かに私はエイズにかかった患者を引

き取り、看病をする団体の長をしています。しかし、見ての通りこの地域一帯には十分な

医療機関など存在しやしません。三ヶ月に一度、N

GO

の団体が医療物資を届けに来ます

がすぐに底を尽いてしまいます。彼女は我々の所に来た時、すでに手遅れだったのです。

十分な医療器具がないから詳しいことはわかりませんが、何百人と患者を見ていればどの

子が延命の可能性があり、どの子がないかくらいはわかるものです。そしてその子は無か

った・・・・。私とて、好きで薬をあげないのではないのですよ。ただ、彼女の他に多く

の苦しむ人たちがいる中で、どうしたって優先順位を付けざる得なくなります。出来るこ

となら全員救いたい。しかしそれが出来ないのならば、やることは一つしかありませ

ん・・・」

男は下を向き、終始黙っていた。私も椅子に座りながら、この地域の現実を聞き落胆し

た。すると、私の肩に「何か」がのるのがわかった。私はすぐにリュックを下し中身を確

認した。期待と不安が入り混じっていた。エイズに効く特効薬など無いことは知っていた。

エイズにかかれば、死を待つしかないことは知っていた。しかし、このリュックは不思議

なリュックだ。もしかしたら何か尐女を救う何かを授けてくれるのではないかと思ったの

だ。今の私は目の前の尐女を助けたいという思い、それだけだった。これ以上私の前で人

を死なせたくないと思った。死なせてはいけない、そう思った。

本が見つかった。それだけだった。手のひらサイズの本、以前の尐女の時に開いた本、

それだけが見つかった。悔しかった。不思議なリュックを以てしても、何もできない。妻

を亡くし、毎日無意味な生活をしていた私が尐女の前で生きている。しかも大きな病気を

抱えずに。きっと今の私ならあと二十年は生きられるだろう。しかし、これから将来を担

う一つの希望の灯が消えようとしている。彼女と変わってあげたいと思った。しかし、そ

んなこと出来るはずがなかった。おそらくここは現実世界ではない。しかしながらそれと

同時に、ここは魔法の世界ではない。私は顔をあげ、本を開いてみることにした。それは

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最後の望みだった。ここで何もなければ私が出来ることは、尐女のそばにいてあげること

だけだった。おそるおそる手を本の端にあてる。そして、宝箱を開けるかのようにそっと

開いてみる。

「病」

一言そう書いてあった。私は諦めた。この本は以前を同じものだ。これ以上のことは望

めないと私は思った。私は次のページをめくった。

「世界でエイズ患者は三三三〇万人いると言われている。」

数字の大きさには驚かされた。一時期自分の国でエイズが問題になったことを思い出し

た。若者の間でエイズが流行したというものだ。同性愛、麻薬、不特定多数との性行為、

それらの行為が蔓延し、エイズが広がったということで私も驚かされたものだった。次の

ページをめくる。

「英国国籍を持つ異性愛者でエイズに感染した男性の六五%は海外で感染している。」

「この尐女はどうしてエイズにかかったのですか?」

私はこの文章を見たとき、反射的に男に尋ねていた。男は顔をあげて応える。

「私の部下から聞いたところによれば、セックスワーカーとして働いていて、それで感

染したと聞いているよ。私たちの地域を含め貧困で苦しむ地域というものは、お金を手に

入れる産業など皆無だからね。作物と育てて売ってお金にすることも取り組まれているが、

なんせ作物は天候に左右される。あなたも地面を見てきて気付いただろうが、この辺は雤

があまり降らない。つまり水が不足しているのだよ。十分な水がなければ食物は育たない。

食物がなければお金は得られない。でもお金は欲しい。じゃあどうするか。もちろん奪う

という方法もあるが、それはリスクを伴うからね。結局どうするかと言えば体ということ

になるわけだよ。先進国のやつらは性に飢えている。こっちとしてもお金は欲しい。ニー

ズとウォンツの一致さ。だからその産業は成り立つのだ。性欲というのは厄介なものだよ、

本当に」

私は妻の友人がそういった産業で働いていてエイズになったという話を思い出した。彼

女はエイズのことは知っていた。不特定多数の男性と性行為をすればエイズのリスクが高

まるということも知っていた。妻は何度も辞めるようにと言った。しかし彼女は大丈夫だ

と言い張った。私は大丈夫だと。十年程経って彼女の容体がおかしくなり、妻が彼女と一

緒に病院に付き添って行った。診断結果を聞いた時彼女は泣き崩れた。その時の彼女は既

に夫がいたし、そういった職とは程遠い会社に勤めていたからだ。発見が早かったため、

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多尐の延命は出来ると言われた。しかし、彼女は五年後この世を去った。愛する夫を残し

て。

「皆は自分から望んでそういった職を選ぶのではないのでしょう?」

「うむ。もちろん自分から望む者もいる。自分の生活費を得るためでね。しかし、それ

以上に家族のために働くという者が多い。それは両親からの強制のこともあればそうでな

いこともある。とにかく事情は様々だよ。一言で語れることじゃない。彼女は両親や弟、

妹のために働いた一人だよ。彼女の両親は彼女がそういう類の職業で稼ぎを得ていたのは

知っていたようだよ。しかし、止められなかった。止めれば今度は家族全体の生活が脅か

されるのだからね」

「そんな・・・・・・・・」

「あなただったらどうしますか?自分の生活が貧困でどうにもならないと。今日の食事

さえ十分に確保できないと。そんなときあなたの娘が体を使って働いて家にお金を入れる

と言った時止めますか?それとも?先進国で悠々と過ごしていたあなたには理解するのが

難しいとは思いますがね。ただ、これが現実なのですよ。貧困地域に住む人々を取り巻く

現実なのです」

私は俯いたままだった。そういう環境を想像したこともなかったし、しようとすらしな

かった。自分の家族が、そして自分がいかに恵まれた環境にいるかということを感じずに

はいられなかった。確かに私は家庭を顧みず仕事をした。妻に家庭のことをすべて任せて

いた。しかし、それは決して娘が他人に体を売るということにはならなかった。それは決

して家族が今日の食事に困って飢えるということにはならなかった。五人の子どもは大学

まで公立の学校でしっかりと学び、皆大学へ行った。そのなかでお金に困ったりすること

は無かったし、何不便なく勉強に集中することが出来た。今では職を得て、自分達の力で、

自分達の家族とともに暮らしている。それとは一八〇度異なる彼女たちの現状。ここまで

貧富の差は広がっているのかと思わずにはいられなかった。

「私たちは何が出来るのでしょうか?私たち恵まれた国に生まれた人々は、彼女たちに

何が出来るのでしょうか?」

男は難しいことはないと、そう言い切った。そのあとでこう付け加えた。

「まずは外の世界を見て、自分達がどれだけ幸せな環境にいるのかということを感じて

みてください。そうすればおのずと自分がやるべきことが見えて来ますよ。正解なんてあ

りません。医療の分野で働いている人が偉いとか、N

GO

で働いている人が偉いとか、国

連で働いている人が偉いとか、そんなのはありませんよ。そもそもそういうものに対して

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基準をつけようとすること自体間違っているのですから。見て、あなたが正しいと思った

ことをやればいいのです。実際、私だってこうやって彼女のような子たちを保護すること

が偉いのかどうかなど気にしてはいません。ただ、自分に出来ることはなんだろうと考え

たとき、今の仕事が浮かんだのです。そしてそれを実行している。ただ、それだけなので

す」

私は尐女を見た。先ほどよりも落ち着いてはいるように見えるが、それでも汗はまだ描

き続けていた。自分の汗のことやのどの渇きなど、とっくの昔に忘れていた。そんなこと

はどうでもいい。私は目の前の子を助けたいと、なにかしてやりたいとそれだけを考えて

いた。尐女が大きく咳き込みだした。ベッドも病を患っているかのように、彼女が咳をす

るとベッドも同時に揺れた。何度も何度も咳き込む彼女を見て、私は我慢できなくなった。

とっさに彼女を起こし、抱擁し、背中を手で軽く撫でてやった。大丈夫だ。大丈夫だ。と

彼女だけが聞こえるような声で言ってやった。すると彼女の咳は徐々にではあるものの落

ち着きを見せた。

そのときだった。一瞬の光と共に私は別空間へと吸い込まれた。先ほどの空間と同じよ

うだった。天使になったような体の軽やかさを感じた。椅子やベッド、尐女、そして男の

姿はそこには無かった。尐女を抱きかかえた姿のままの私しかいなかった。私は立ち上が

った。叫んだってどうしようもないことは知っていた。しかしながら、今の私は叫びたく

て仕方がなかった。尐女を最後まで見守れなかったことへの悔しさと妻への申し訳ない気

持ちが込み上げていたのだ。私は気が済むまで叫び続けた。目から涙が流れ落ちた。私を

包み込んでいる空間はそれでもキラキラと輝いていた。楽観的なまま輝き続ける空間にい

らだちを感じた私は意味もなく殴りかかってみる。握りこぶしが空を切る。

「くそぉ!」

と私は悔しさを露わにした。ここまで悔しさを表に出したのは久しぶりだった。そうだ

妻との別れ以来だった。妻への最後のキスの後、私は長男夫婦に一緒に住まないかと尋ね

られた。あの場ではわからなかったが、後から聞いた話によれば長男夫婦は前々から私と

の同居について話し合っていたようだ。妻の容体が悪くなってから子どもたち五人が集ま

り、今後について話し合ったのだとその後になって二男から聞いた。結局その申し入れを

私は断った。

「ありがとう。そういってもらえることは嬉しいよ。しかし、幸せなお前の家庭に闇を

落としたくないんだ。私は必ず落ち込むだろう。今は平常心を保っているが、一人になっ

た時にどうなるかなんてわからない。それが怖いのだよ」

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「でも、父さん。食事や家事はどうするんだい?今までほとんどやったことないんだろ

う?そんなことじゃ一人では暮らしていけないよ!父さんまで亡くなるってことになった

ら、僕らはどうすればいいんだい?」

「ばかもの。私だって学生時代はアパートで一人暮らしをしていたことがあるから、基

本的な家事ならできる。それに食事は今の時代ならなんとかなるだろう」

「でも!それじゃ父さん一人で抱え込んでしまう。僕たちと一緒に暮らせば尐しでも心

の傷を癒すことだって・・・・」

「残念ながら、心の傷ってものは簡単には癒すことができないのさ。それくらい厄介な

ものなのだよ」

「そんな・・・」

「彼は簡単に傷をつけてくれる。しかし、それが治癒されるには膨大な時間と膨大な努

力が必要なんだ。心の奥底に入りこみ、あらゆる方向へ傷をつけに向かう。そして、何千

何万という思い出に複雑に絡みついてしまうのだからね。トーマス、これだけは覚えてお

いた方が良いぞ。心の傷を癒すことが出来るのは、心の傷を負ったものだけだ。他のもの

じゃどうにもならん。確かに、癒すのを助けることはできるかもしれない。しかしな、数

十年来共にしてきたパートナーを失った哀しみは、例外なんだ。」

「あとは私に任せておけ。お前たちは帰りなさい。夜も遅い。明日は土曜だが、お前は

仕事があるのだろう?」

「そうだけど、でも・・・」

「いいから。葬式の日付やらが決まったらまた連絡するから」

長男夫婦はそのまましぶしぶと帰って行った。玄関ドアが閉まる音がしてからどれほど

立っていたのだろうか。私は現実を受け止めるまでに時間がかかっていた。そして、再度

妻のいる部屋に行き彼女の死を確認したとき、私は床に倒れ込んだ。床を叩いて何度も何

度も泣き声をあげた。妻との思い出が頭の中に込み上げてきた。なぜもっとやさしくして

あげなかったのだろうか、なぜもっと家庭の時間を取ってあげなかったのだろうか、なぜ

もっと仕事を終わらせなかったのだろうか・・・・。なぜなぜと自分への怒りが次々と込

み上げてきたのだ。

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確かに今回は十年来付き添ったパートナーではなかった。しかし、どうしても妻の死と

同じような悔しさを覚えるのだ。私が泣き続けているその間にも新たな光の扉との距離は

徐々に縮まっていた。

「ここでも時間は待ってくれないのか・・・。」

妻が亡くなった時、私は次の日も仕事があった。もしいつものように出勤するならばそ

ろそろ寝なければいけない時間だった。そうは言っても妻が亡くなった後だ。そんなこと

出来る訳もなかった。時間が止まり、私の哀しみがい癒えるまで待っていてくればいいの

にと思った。しかしながら、時間は泣き崩れる私をあざ笑うかのように過ぎていった。な

ぜみんな私を置いて行ってしまうのだろうか・・・。そう感じずにはいられなかった。

新たな光に到達し、また地球の重力を感じる空間へ出た。さっきまで哀しんでいたはず

の自分がなにも無かったかのように立っていた。アフリカであろう

........大陸の真ん中にぽつん

と立っていた。さっきまで泣き崩れていたはずだったのに、なぜこんなにきょとんとして

いるのだろう。なぜまた同じ空間に戻ってきたのだろう。様々な疑問が浮かび上がった。

私はまた意味もなく歩きだした。最初の尐女がいた木へと近づいた。もちろんそこには誰

もいなかった。そして、木の向こう側にある一軒の家へと歩き出す。今は走る気力もなか

った。二人の尐女との思い出や妻ザミューとの思い出が頭のなかを駆け巡ってはまた戻っ

てきた。こんなに思い出というものに浸ったのは久しぶりだった。今までずっと避けてき

たはずだった。しかしどうであろうか。この尐しの間に私は何度過去を遡るということを

しただろう。不思議な二人の尐女との出会い。それがすべての始まりのような気がした。

今まで自分の身の回りのことだけ考えて生きてきたことが、いかに愚かなことなのかとい

うことを始めの尐女と出会って教わった。私たち先進国の人間が発展途上国のエイズの拡

大に一役買ってしまっていることやザミューへの愛情の深さを二人目の尐女と出会って教

わった。

あの家に着いた。私はなんの迷いもなく扉を開いた。そこには尐女はいないだろうとい

うことが想像できていたからだ。扉の向こうには、天井に取り付けられている窓から差し

込む日差しが、尐女が寝ていたベッドと私の座っていた椅子を照らしていた。それは、尐

女に天使が降り立った後のような光景にも捉えられるし、逆に病状が良くなった彼女を日

差しが喜んでいる光景にも捉えられた。私はギシギシと軋む床の音を感じながら、光のも

とへ向かった。しんとした空間を破るように尐女が私を脅かしに来ればいいのにと思った。

しかしながら、彼女は現れなかった。ベッドを覗き込んだ時、そこには誰もいなかった。

今さっきまで尐女が寝込んでいたとは思えないくらい、枕やシーツ、布団が綺麗に整えら

れていた。私に尐女の詳細を話してくれた男の姿も見当たらなかった。私もこの光に連れ

られて妻のいるところへ行けたらいいのにと感じた。もしこのまま現実世界に戻ったとし

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てもまた一人になってしまう。また、人生の消化試合を始めなければいけないのだ。そう

であればいっその事このまま・・・と思わずにはいられなかった。考えるのに疲れた私が

椅子に座ろうとした時だった。どこからともなく教会のベルがなるのが聞こえた。人々の

大歓声が聞こえる。結婚式だろうか。私は座るのを止めて、すぐに外に飛び出した。そし

て周りを見渡した。すると東の方角からハトが空に飛び立っているのが見えた。

「あれだ!!」

私は全力で走りだした。あれだけの大歓声が聞こえるということは大勢の人がいるとい

うことだろう。そうすれば、自分がどこにいるのかということやこの世界の不思議さにつ

いて尋ねることが出来る。先ほどまで考えていたことは一時頭の隅っこに移動させて、教

会を目指すことに集中した。向かっている方向からハトが何羽か飛んできた。教会から放

たれたハトだ。ハトたちは私の頭の上で方向転換をして、私を教会へと導きだした。私は

楽しくなった。子どもの頃鳥と話を出来たらどれだけ楽しいのだろう、鳥と一緒に空を飛

べたらどれほど気持ちいのだろうと想像したものだった。もちろん、今は会話をしている

わけでも、飛んでいるわけでもなかったが、それでも鳥と共感し、一緒に一緒の方向へ向

かっているということがとても心を躍らせた。私が走る速度を上げれば、ハトたちも上げ、

私が速度を落とせば彼らも落とした。教会の全体像が見えてきた。白い壁はあまりに綺麗

過ぎて、最近完成したのではないかと思わせるくらいだった。雑草と木、そして野生の動

物たち以外に見つけることが出来ないこの土地には、その教会はあまりにも不適当だった。

そういえば、先ほどの声の主たちの姿見えないのに気づく。彼らがどこかへ去る姿もなけ

れば、彼らが立ち話をしている姿もなかった。教会の前まで来るとハト達はどこかへ去っ

て行ってしまった。私は頭を軽く下げ、彼らにお礼を言った。入口には確かにお祝いをし

たような跡が残っている。しかしながら、不思議なことに人の足跡は自分のもの以外には

見つけることが出来なかった。まさかここは天国なのだろうか。そう思ってしまった。天

使たちは空を飛べる。空を飛べるということは足跡が付くことがないからだ。教会の入り

口を恐る恐る開けてみる。鮮やかなステンドグラスが私を出迎えてくれた。太陽の光でそ

の鮮やかさが一層増して見えた。

妻との結婚式の日をふと私は思い出した。あの日も雲ひとつない晴天だった。前日まで

ハリケーンが来る、来ないで結婚式の実行が危ぶまれていた。私たちはテレビの天気予報

を貼りつくように見ていた。しかし、前日の午後九時くらいだろうか、突然ハリケーンの

進路が変わったというニュースが入った。私たちは抱き合って大喜びをした。ハリケーン

も私たちの結婚式を祝ってくれているのだと、そう冗談を言い合った。結婚式自体は大学

の友人や高校の友人が大勢来てくれた。妻の友人は、モデルやニュースキャスターなど輝

かしい顔ぶれだった。一方私の方はと言えば、プロのミュージシャンになるのだと言って

頑張り続けているものや、コメディで全米ナンバーワンになると言いきっているもの、エ

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ジプトへ遺跡を発掘に行っているものなど異色が揃っていた。そして、彼らが妻の友人達

の連絡先を必死に聞こうと頑張っている姿を見て私たちは笑いあった。私達が教会に入っ

た時、一緒にステンドグラスを見て、私は綺麗だねと一言そう言った。妻はそうねと、優

しく綺麗な口調で同意した。教会での儀式の後、場所を変えてパーティーを行った。そこ

では笑顔が絶えなかった。私の友人達が自分達の芸を披露しだしたのだ。極めつけはサー

カス団に所属している友人の動物による芸の披露だった。ペンギンや猿、犬や猫などが一

生懸命覚えたのであろう芸を披露して見せたのだ。一番ひどかったのは、エジプト探検隊

のミイラの右手の披露だった。あれは会場が静まり返った。晴れ舞台になぜ死体を持って

くるのだろうと疑問に思わずにはいられなかった。しかし、コメディアンのエジプト探検

隊へのつっこみから会場は息を吹き返したようにまた明るい雰囲気に戻った。パーティー

の後自宅で妻はこう言ってくれた。

「こんなに笑ったのは久しぶりよ」

「本当に?迷惑じゃなかったかい?・・・ほらミイラのこととか・・・」

「そりゃ最初は驚いたわよ!だって、式場に腐った死体でしょ?でも、あの面白い人の

おかげでまた明るくなったじゃない。結果良ければすべて良しよ。会場であなたの何人か

の友人は連絡先を交換していたみたいだし、実ると良いわね。小さな種たちが」

「どうだろうね。かなり僕の友人は癖のあるやつらが多いからな。君の友人はそういう

変人はだめだろう?」

「あら、私はあなたも十分癖のある人だと思うけど?」

私達は数秒の沈黙の後笑いあった。驚いたのはコメディアンとエジプト探検隊がしっか

りと妻の友人と結婚したことだった。コメディアンは今四人の子どもがいて、ドイツに土

壌を移して頑張っている。またエジプト探検隊は二人の娘と共に今は日本で教壇に立って

いる。妻が生きていた頃は時たまエジプト探検隊から電話があり、日本がいかに不思議な

国かを教えてくれた。

「こっちのサービスは世界最高級品だぞ!!アメリカなんて屑み

たいなものさ。こっちになれちまうと、チップなんて払うのが馬鹿らしくなるぞ」

そういう話を聞くたびに私たちは笑いあった。

そうやって昔の思い出に浸っていると、奥の方から泣き声が聞こえて来た。明らかに尐

女のものだった。なぜこんな華やかな事の後に泣いているのだろうと疑問で仕方がなかっ

た。私は、一席ずつ覗いて尐女を探した。そして、最前列から三列の所で尐女が椅子のお

尻を付ける部分に顔を押し付けて泣いているのが見えた。尐女はとても綺麗な装飾の施し

てある衣装を身に着けていた。しかし頭も隠れるような服装だったため、尐女がどのよう

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な子なのかはわからなかった。迷子にでもなったのだろうか、それとも両親とけんかして

置き去りにされたのだろうか。尐女が泣きやまないのに戸惑った私は、どうしたのかと声

を掛けてみた。予想はしていたことであるが、最初の声掛けには反応しなかった。二度も

苦しんでいる尐女と出会って来た私にとって、三人目の尐女にどのように対応するかを考

えることは容易だった。私は腰をおろし、床に膝をついた。そして、尐女の肩に手を置い

た。そして、覗き込むようにして大丈夫かと尋ねた。尐女は今まで顔の下に置いてあった

左手で私の手を握った。その左手を確認すると、薬指に指輪がはまっていることがわかる。

この華やかな結婚式はまぎれもなく尐女のためのものだった。尐女が身に付けていた綺麗

な衣装はやはり花嫁が着る用の特別なものだった。しかし、結婚式という女性にとっては

夢の一つである行事の後に、なぜ声をあげて泣いているのか私には理解できなかった。私

は、空いている右手で尐女の頭を優しく撫で、彼女が落ち着いてくれるように努力した。

尐女は突然顔を上げて私の顔を見た。私は驚いた。確かに体の大きさや声のトーン、手の

しわの感じから若いということは想像出来ていたが、目に映っている尐女はどうみても一

四~一六歳の、まだしっかりとした女性としての体が出来上がっていないような年齢だっ

た。今回の尐女は今までのような黒人の尐女ではなかった。アフリカ地域で見かけるよう

な人種というよりは、中東当たりの地域で見かけるような色をしていた。アフリカ大陸の

どこかの国に中東地域で見かける尐女がいることについては、別になんとも思わなかった。

これだけ世界がグローバル化している中で、どの大陸でもどの人種は見受けられて当たり

前だと思ったからだ。それよりも㈠こんなにも幼い尐女が、㈡晴れやかで喜ばしいはずの

結婚式で泣いていることに、私は疑問を抱いたのだ。尐女の目の瞳は緑色をしていた。そ

の瞳が私の瞳と合うと、私は尐女に裸にされ、心に抱いていることすべてを見透かされて

いるような気分になった。尐女はすっと目線をはずし、私の懐で泣いた。

私は妻とけんかをする方ではなかったため、あまり妻の泣いた顔は見たことがなかった。

妻の友人がエイズで亡くなった時、彼女は哀しさのあまり泣いていた。しかしそれは死に

対する哀しさからの涙だった。決して悔しさややるせなさからの涙ではなかった。私が覚

えている限り、妻がそういった理由から涙を見せたのは一度きりだったと思う。私が順調

に昇進していた三〇前半の頃、いつものように仕事のために夜遅く帰宅した。子どもは全

員寝ている時間で基本的に部屋の明かりは消えているのだが、常に居間の電気は付いてい

た。それはセキュリティのためということもあったし、真っ暗なところがあまり好きでな

かった私への妻の気遣いであった。しかしながら、その日だけは部屋の電気がすべて消え

ていた。居間の明かりは外からも確認できるのだが、やはり消えていたのだ。どうしたも

のかと思った私は、恐る恐る玄関の鍵を開けた。そして、もしかしたら強盗か何かいるの

ではないかと考えた私は、音を立てぬよう忍び足で居間へ向かった。居間に近づくにつれ

て、何かの声が聞こえてきた。それは強盗が誰かを脅かすようなものでもなければ、男性

や女性の夜の声ではなかった。息継ぎが聞こえる。居間の手前まできた私はどうしようか

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と考えた。このまま自分の部屋に向かって寝床に着くか、それとも目の前のドアを開けて

電気をつけるか。この時の私は、暗所が怖い人間ということは忘れていた。とにかく自分

が直面している現実から逃げるのか、それとも向き合うのか、それだけを考えていた。最

終決断をするためにもう一度音を聞いてみようということになった。するとどうであろう

か、音の主が妻であるように思えた。私はすぐにドアを開けて電気をつけた。そこには椅

子に座って机に顔を伏せ泣いている妻の姿があった。私が電気をつけたのだから、私の方

に反応してもいいのに全くもって動きもしなかった。家で妻が泣いている姿を見るのが初

めてだったからなのか、この状況が上手く把握できなかった。妻以外のものがすべて白黒

になり、妻だけがカラーで見えた。私はすぐに駆け寄り、隣のいすに座った。

「どうしたんだい?」

私は右手を妻の右肩にかけながら言った。しかしながら、妻は反応がなかった。もちろ

んいきなりまともな返答など期待していなかったから驚くことはなかった。しかし、手が

痛いとか、お腹が痛いとか、そういった類からの涙ではないことは悟ることが出来た。何

かに哀しむことから来る涙なんだろうと想像した。私はもう一度妻へ質問を投げかけよう

とした。泣いている妻を一刻も早く慰めたいと思ったからだ。そのときだった。妻が私の

方へ体を寄せてくるのがわかった。ゆっくりとではあったが、徐々に私の懐に収まろうと

していた。妻は顔伏せていたが、体を私の方へ寄せ、泣いていた。彼女が息継ぎをするた

びに私の方へ振動が伝わってきた。妻と抱き合った時に伝わってくる、いつもの振動とは

違っていた。温かくも冷たくもない、なんとも不思議な感覚だった。私は妻の髪にキスを

したまま、彼女を包み込み続けた。

「哀しかった・・・・」

妻は針に糸を通すような細く、弱々しい声で言った。しかしながらその声は、私の心臓

の奥底まで到達するくらいすぅと私の中へ入ってきた。理由は聞かずともなんとなく理解

できた。最近の私の夜遅くの帰宅。それがきっと彼女の口からその言葉を出させたのだろ

う。

「ごめん」

その言葉が自然と自分の口から発せられた。確かに最近の私は、家のことをすべて妻に

押し付けていた。子どものことから家事、学校など、私に相談したいことや愚痴が言いた

いこともあるだろうに、その毒を出せる時間を作ってあげられていなかった。きっと友人

達と食事に行きたかっただろうに、私が家にいないために外出させてあげられなかった。

「ごめん」

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今度は心の奥底からすべての罪を許してもらうように言った。そして妻の体を起こし、

正面から彼女を包み込んだ。強く、そして温かく、彼女を包み込んだのだ。その夜はベッ

ドで一緒に横になりながら、ゆっくり妻の話を聞いた。三男が立てるようになったことや

長男が、算数が得意なこと。長女が女の子らしくない青色に興味を示していることや、二

男が、かけっこがクラスで一番早いこと。次女がパパと遊びたいと言っていることなど子

どもの話を中心にした。泣いていた妻の顔には笑顔が見えた。それからというものは、時

間があるときは妻から子どもの話を積極的に聞くようにした。妻は妻で友人を家に呼び、

子どもたちは子ども達で遊ばせておいて、自分達は世間話をするというようにして、工夫

をして息抜きを始めた。後にも先にも妻が私の前であんなに泣いていたのは、この時だけ

だった。

「私の妻に何をしてるんだ!」

その一言が私を現実に戻させた。ふと右を見ると、男がバージンロードの上に立ってい

た。遠くからでよく見えなかったが、明らかに男はこの尐女に似合うような年齢ではない。

おそらく三〇代後半から四〇代前半ではないかと感じた。尐女とは違う伝統的な衣装を着

た男は、怒りをあらわにしながら近づいてきた。男が近付くにつれて、男が長い顎鬚を生

やしていることや身長が私よりも尐し小さいくらいだということ、体型はすらりとしてい

て私とは正反対であることがわかった。男の足音が教会中に鳴り響く。足音が近付くにつ

れて尐女の私を掴む手の圧力が尐しずつ大きくなっていくことに気づく。

「いいから離れろ!」

男の怒りは次第に大きくなっていた。尐女の私を掴む手を見れば、この子がこの夫らし

き男を嫌いなことは明らかだった。

「あなたはこの子のなんなんですか?」

「言っただろう!私はその子の夫だと!」

男が私の一メートル手前くらいで立ち止まった。男の顔は決して整っているとは言える

ようなものではなかった。堀の深い目、その堀からすっと伸びる鼻。目の下には年からな

のだろうか、既に皺が尐しあった。鼻の口の間の髭と顎鬚が繋がっており、欧米人の私に

は尐し奇妙に見えた。髪型はターバンのようなもので隠れていたため、禿げているのか、

白髪なのか、それともしっかりとしているのかはわからなかった。

「そんなことはないでしょう。この子はどう見ても一〇代ですよ。それに比べてあなた

は四〇代だ。そんなに年のかけ離れた結婚をだれが認めるというのですか」

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「私達の村ではそれは珍しくないことなのだよ。大人達が誰と結婚するかを決める。そ

の際に年が離れた者の第二夫人となったり、もしくは隣村との友好関係を築くためにその

嫁になったりするのだ」

「じゃあ女性には相手を選ぶ権利がないということかい?」

「おいおい、そんな言い方はやめてくれないかな。私達男性も完全に相手を選べるわけ

ではないのだからね」

「つまり恋愛は自由じゃないと?」

「まぁ、あなたのような欧米人の感覚での恋愛は存在しないね。ここには。獣のような

恋愛をするあなたたちのようになりたいと一度も思ったことは無いけれど」

男は私を見下すような言葉を並べた。私はここで怒っても意味がないことを悟った。私

がしなければならないことは、まずこの尐女の話を聞いてあげることなのだから。

「尐しこの子と話させてくれないかい?このまま泣いていたのではあなたも困るだろ

う?」

男は自分の顎鬚を触りながら何かを考えていた。その間にも尐女の手は私の服を握って

いた。尐女の手から汗が出て、私の服に染みているのがわかった。

「うむ。わかった。あなたと話をしている以上、妻を横取りしようとかそういう意図は

なさそうだ。私は外にいるから終わったら声を掛けてくれ。ただし、今日は死ぬほど暑い

からな。あまり長くはならないようにしてくれよ。動物達も日向で行動したがっていない

ほどなんだからね」

わかったと私は男に告げた。男が教会を出たのを確認し、尐女に意識を戻すと彼女はす

でに泣きやんでいた。彼女が顔をあげて私を見た。目は真っ赤になり、緑の瞳の島が赤色

の海に囲まれていて、まるで溶岩に囲まれた島のようであった。尐女はなお哀しい顔をし

ていた。

「あの男の人は好きなのかい?」

尐女は首を横に振った。頭にかぶっているスカーフのようなものが左右に空を切るのを

見て、いつもなら縦に空を切るはずなのになぜ今回は左右なの?とスカーフ自身が疑問を

抱いているように見えた。

「親に強制的にあの男と結婚するように言われたのかい?」

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今度は尐女が縦に首を振った。ふうと私はため息をついた。男が言っていたことを信じ

ていなかった訳ではないが、本当にそういう現実があるのだと実感した。自分の若いこと

を思い出すと色々なことをしてきたとふと思った。妻と出会う前にも何人かの女性と実際

に恋に落ちたことはあるし、夜を共にしたこともあった。恋愛なんて必要ないという人に

何人か出会ったことがあったが、頭がどうかしていると私は感じた。恋愛は人を育てると

私は本気で思っていたからだ。相手をいかにして笑顔にするか、いかに相手を幸せにする

か、この二つは恋愛をしていない限り本気で考えるチャンスなどないと私は思っていたの

だ。

「好きな子がいたのかい?」

私は唐突に質問をした。尐女はコクリと頭を動かした。そか、と口だけが動いた。数分

の間沈黙が続いた。好きな子がいたのにもかかわらず宗教や慣習といった理由で他の好き

でもない男と結婚させられてしまうことがどんなにつらいことなのかを想像していた。確

かに私は女性ではない。女性では無いゆえに尐女の気持ちを完全に理解することはできな

い。自分が妻ではなく他の女性の強制的に結婚させられてしまうと、妻が私ではなく他の

男性と強制的に結婚させられてしまうのは、発生する事象は同じかもしれないが、感情は

全く異なる。私の妻が他の男性を強制的に結婚させられてしまうのと、恋愛もまともにし

たこともない小さな尐女が、よくわからないおっさんと結婚させられてしまうのは、全く

異なる。

私は尐女を懐からはずし、腰を下ろした。尐女が泣いた跡がはっきりとわかる赤い目で

私を見つめた。私はすっと自分の左手にはめてある結婚指輪をはずした。そして尐女の右

手を取り、左の薬指に私の指輪をはめてあげた。

「これはお守りだよ。きみが将来本当に好きな男の子と結婚出来るようにするね。確か

に今はあの人の妻かもしれない。でも、将来いつかどこかで君は君の夢を叶えられる。絶

対にね」

「・・・本当?」

「本当だよ。おじいさんを信じなさい。私は不可能を可能にする不思議な力を持ってい

るんだからね」

尐女の顔が笑顔になった。今まで見てきた笑顔の中で一番美しいような感じがした。太

陽の光が彼女の顔を照らし、まるで彼女の顔から光が漏れているようだった。私も笑い返

した。ブカブカな指輪はなんとも尐女の手には不格好だったが、尐女自身は気に入ったよ

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うだった。指輪を指にしたまま回して遊ぶ姿は、天使が遊んでいるかのようだった。金色

の指輪と彼女の姿が太陽の光に包まれ、そこだけが輝いて見えたからだ。

「ありがとう。おじいさん」

胸の奥で何かぎゅっとするものを感じた。尐女のたった十文字の言葉は私の何かを変え

た気がした。スナップショットのような感覚を覚えた。私はキラキラと輝く空間へと戻っ

た。私は尐女の顔が頭から離れなかった。目を閉じればそこには尐女がいた。尐女が私の

あげた指輪で笑いながら遊んでいる。そんな姿を想像する度に私の顔からは笑顔がこぼれ

た。戻ってすぐに私は背中に何か重いものを感じた。手で探ってみるとそれはあのリュッ

クだった。私は中身をいつものように確認した。本が一冊、ぽつんと入っていた。その本

を手に取り、本の真ん中の文章を確認した。「恋」という一言と、次のページには事実が

記述されていた。パタンと本を閉じるともう目の前は明るい世界だった。光が私を包み込

んだ。

地球の重力を感じた。しかし、そこはいままでのような暑さは全くなかった。広大な大

地に吹く風や鳥や動物達の声、木々たちが生み出す合唱、そういうものは一切聞こえてこ

なかった。むしろ、自分自身が横たわっていて、自分の上に何か乗っているのが感じられ

た。私は恐る恐る目を開いた。太陽の光を目が感じ取る、白い壁が見えた。これは見覚え

がある。そう私の部屋だ。私はベッドの上にいた。体を起こし、あたりを見回してみたが、

やはり自分の部屋だった。

「現実世界に戻ったのか・・・?」

私は指を確認してみた。するとそこには妻と交換し合った指輪がたしかにあった。やは

り夢だったのだろうかと結論付けようとしたその時だった。あのリュックがベッドのすぐ

隣においてあるのに気付いた。ベッドが床より高かったためにすぐには気付かなかったが、

ベッドから降りようと下を確認したときに、それを発見した。私はすぐに中身を確認した。

そこには手のひらサイズの小さな本が一冊ぽつんと置いてあった。私の眼球が捉えている

ものは、三度手にしたあの本だった。私は本の中を確認した。そこにはしっかりと今まで

の軌跡が残っていた。

「テイラーさん!!」

玄関の向こうから私を呼ぶ声が聞こえた。

「ボランティアの者です。庭の掃除に来ましたよ」

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私はすぐにベッドから降りて玄関へと向かった。その足取りはいままでより格段に軽や

かになっていた。これまでの白黒の現実からカラフルな現実にやってきた感じがした。す

べてが楽しく感じられる世界。目標を持って、前進を続けられる世界。そんな世界にやっ

てきた気がした。玄関を開けるとそこにはいつも掃除に来てくれる四十代くらいの女性が

立っていた。

「おはようございます。調子はどうですか?」

「最高ですね」

私は満面の笑みを浮かべながら答えた。女性は尐し戸惑ったような顔をしていた。おそ

らく今までの私と百八十度異なることに驚いたのだろうと思った。

「どうかされたんですか?今日のテイラーさん、なんだか嬉しそうですよ」

「いやいや、なにも無いですよ。それよりもいつも掃除して頂いてありがとうございま

す。本当に助かってますよ」

「そうだ、来週から庭の掃除来て頂かなくても大丈夫ですよ。私、これから旅に出ます

ので」

「えっ?」

私はそういうと玄関を離れて、自分の部屋へと向かった。タンスの中から必要なものを

引っ張り出して大きなバッグへと詰めていった。これから私はどこへ向かうのか、それは

全く考えていなかった。ただ、自分の気の向く方へ行こうとそう決めていた。あの不思議

な世界で出会った尐女達が教えてくれたこと。それは、『自分が出来ることをやること』

だった。私は神でも何でもない。特別な力があるわけでもない。しかしながら、だからと

いって何もしないで良いかといったらそうではない。自分が出来る範囲ですればいいだけ

のことなのだ。それで一人でも笑顔が増えたらそれでいいのだと私は思った。私は旅に出

る。一人でも多くの人を笑顔にするために。一人でも多くの人に愛を与えるために。

私は不思議なバックも持っていくことにした。このバッグを見れば今度の経験を思い出

せると思ったからだ。それに何かあった時には助けてくれるのではないかという小さな期

待も込めていた。不思議なバッグにも必要なものを入れた私は、最後に不思議な本と妻と

の写真をバッグの一番上に置いた。今の私は、妻なしにはありえなかった。そんな妻への

感謝の気持ちとたとえ彼女がこの世にいなくとも一緒にずっとそばにいたいという気持ち

からだった。私のドアは開かれた。そして、私の新たな旅が始まるのだ。私は世界に種を

まくために旅立つのだ。

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