天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978)...

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天明3年浅間山噴火とその被害 (1977年10月31日受理) 1 〔1)浅間山噴火の歴史 天武天皇の白鳳14年 一是月灰零於信濃国草木皆枯……(日本書紀)1) とあるのは,浅間山の恐ろしい噴火を記録したも のと思われるが,その後における浅間山の活動 も,古記録の随所にみられ,その歴史は長い。 浅間奇談2)にみられる浅間山の噴火の歴史は,大 永7年から天明3年までに15回を記録している が,これを他の古記録,天明雑変記3)・天明卯辰 物語4)・信濃国佐久郡浅聞山古今大焼記5〉・信濃 国浅間岳之記6)や先学の研究業績になる浅間山爆 発史集7)・日本災異志8)・日本噴火志9)および理科 年表10)によって比較検討を加えると1期(大永7 ~天文1)・H期(天正10~慶長17)・皿期(正保 1~延宝3)・IV期(元録4~享保18)・V期(宝 暦3~天明5)・VI期(享和3~文化12)の10年 ~40年間にわたる活動期と,20年~50年の休止期 を繰返しており,活動期はじめに大爆発をし,最 後にまた大爆発して休止期に入るというパターン の繰返しで現在に至っている。天明3年の大爆発 も,仮称V期最後の大爆発で,その後約20年間の 休止期に入ったとみることができる。 明治中期以後における浅間山噴火記録について は,地元新聞11)はじめ,中央新聞12)や長野・群馬 両県の報告,中央気象台・測候所・観測所調査報 告,研究活動諸団体や個人の研究報告等,調査研 究報道機関の発達が,藩政期における伝承口碑記 録の比ではなく,内容はもちろん,爆発頻度など 両者④比較は,かならずしも適当とは思われない が,それでも,活動期と休止期とに一線を画すこ とのできる点に注意したい。 (2)過去の研究業績 天明3年の浅間山噴火は,記録の多いこと,被 災の甚大であったこと,一火山の噴火による死者 の多数にのぽったことなどから言えば,日本はお ろか世界でもその類をみない最大クラスのもので あった13)といわれている。 凌明院殿御実紀(徳川実紀)14)によれば 信濃上野両国の人民流亡しあさまへ石にうたれ砂に うつもれ死するもの弐万余人牛馬はその数を知らず 凡その災にかかりし地四拾里余におよふ…… と,膨大な被害が記録されている。 当時の噴火の状況とその被害の詳細は,地元に 残された古記録,浅間記15)・天明信上変異記16)・ 浅間奇談17)をはじめとする数多い記録によってみ ることができる。また,竣明院殿御実紀・徳川禁 令考や,小諸18)・前橋19)・川越20)など諸藩の公の 日記類,斉藤月恩の武江年表21)・杉田玄白の後見 草22)・松浦静山の甲子夜話23)・高山彦九郎の日記 24)・太田蜀山人の一話一言25)・神沢貞幹の翁草26〉 ・根岸鎮衛の耳袋27)など,民間文人墨客識者の取 材記録するところとなって伝えられている。 こうしたことは,天明3年の浅間山噴火がいか に世人を驚愕させたか,また一大関心事であった かを物語るものである。このように古来より一般 に知られた浅間山であるが,その著名度の割合に は研究対象としては多くはない。特に天明3年浅 間山噴火のみについてみても,火山学・地震学・ 地球物理学・地質学・化学などの自然科学的研究 に対して,歴史学・地理学など人文・社会両科学 一27一

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Page 1: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

菊 池 万 雄

(1977年10月31日受理)

1 資 料

 〔1)浅間山噴火の歴史

 天武天皇の白鳳14年

  一是月灰零於信濃国草木皆枯……(日本書紀)1)

とあるのは,浅間山の恐ろしい噴火を記録したも

のと思われるが,その後における浅間山の活動

も,古記録の随所にみられ,その歴史は長い。

浅間奇談2)にみられる浅間山の噴火の歴史は,大

永7年から天明3年までに15回を記録している

が,これを他の古記録,天明雑変記3)・天明卯辰

物語4)・信濃国佐久郡浅聞山古今大焼記5〉・信濃

国浅間岳之記6)や先学の研究業績になる浅間山爆

発史集7)・日本災異志8)・日本噴火志9)および理科

年表10)によって比較検討を加えると1期(大永7

~天文1)・H期(天正10~慶長17)・皿期(正保

1~延宝3)・IV期(元録4~享保18)・V期(宝

暦3~天明5)・VI期(享和3~文化12)の10年

~40年間にわたる活動期と,20年~50年の休止期

を繰返しており,活動期はじめに大爆発をし,最

後にまた大爆発して休止期に入るというパターン

の繰返しで現在に至っている。天明3年の大爆発

も,仮称V期最後の大爆発で,その後約20年間の

休止期に入ったとみることができる。

 明治中期以後における浅間山噴火記録について

は,地元新聞11)はじめ,中央新聞12)や長野・群馬

両県の報告,中央気象台・測候所・観測所調査報

告,研究活動諸団体や個人の研究報告等,調査研

究報道機関の発達が,藩政期における伝承口碑記

録の比ではなく,内容はもちろん,爆発頻度など

両者④比較は,かならずしも適当とは思われない

が,それでも,活動期と休止期とに一線を画すこ

とのできる点に注意したい。

 (2)過去の研究業績

 天明3年の浅間山噴火は,記録の多いこと,被

災の甚大であったこと,一火山の噴火による死者

の多数にのぽったことなどから言えば,日本はお

ろか世界でもその類をみない最大クラスのもので

あった13)といわれている。

 凌明院殿御実紀(徳川実紀)14)によれば

  信濃上野両国の人民流亡しあさまへ石にうたれ砂に

 うつもれ死するもの弐万余人牛馬はその数を知らず

 凡その災にかかりし地四拾里余におよふ……

と,膨大な被害が記録されている。

 当時の噴火の状況とその被害の詳細は,地元に

残された古記録,浅間記15)・天明信上変異記16)・

浅間奇談17)をはじめとする数多い記録によってみ

ることができる。また,竣明院殿御実紀・徳川禁

令考や,小諸18)・前橋19)・川越20)など諸藩の公の

日記類,斉藤月恩の武江年表21)・杉田玄白の後見

草22)・松浦静山の甲子夜話23)・高山彦九郎の日記

24)・太田蜀山人の一話一言25)・神沢貞幹の翁草26〉

・根岸鎮衛の耳袋27)など,民間文人墨客識者の取

材記録するところとなって伝えられている。

 こうしたことは,天明3年の浅間山噴火がいか

に世人を驚愕させたか,また一大関心事であった

かを物語るものである。このように古来より一般

に知られた浅間山であるが,その著名度の割合に

は研究対象としては多くはない。特に天明3年浅

間山噴火のみについてみても,火山学・地震学・

地球物理学・地質学・化学などの自然科学的研究

に対して,歴史学・地理学など人文・社会両科学

一27一

Page 2: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

研究紀要(1978)

面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。

 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

のに大日本地震史料29)と日本噴火志30)など立派な

業績はあるが,これらも研究というよりは研究資

料となる古記録の集録である。両者は震災予防調

査会の事業報告で,同じ事業の一環として行なわ

れた大森房吉・山崎直方両氏の論文が本格的研究

とみられる最初のものである31)。その後専門分野

から追求した八木貞助氏の浅間山32)・浅間火山33)

があり,地質調査所出版の地質図,草津・須坂の

5万分の1発刊後,守屋以智雄・関谷博・荒牧重

雄諸氏の火山地質面からの研究と,美斉津一夫・

萩原進・大角留吉・白倉盛男諸氏の文献記録によ

る研究という二方面からの追究などがみられる程

度である34)。

 そこで筆者のねらいとするところは,

 ① 数多い古文書記録を吟味し信愚性をただす

  ことと,さらに,

 ② 寺院過去帳の死亡者数による考察を加える

  ことン

 ③ こうした記録にみられる被害を自然環境,

  特に地形との関連でとらえること

など,従来完全に分離した二分野からの研究を統

合一元化してみることである。

 (3)古文書

 浅間噴火に関する文書記録は多い。東北日本に

おける天明飢鰹関係の文書記録などにはかならず

といってよい程浅間山噴火についての記録がある

し,上信越地方の諸村における当時の名主文書に

も随所にみられ,また,遠く江戸の瓦版にも取材

されるなど,世人の一大関心であったことがわか

る。この大災害について記録したものは原本・写

本ともに多く,それだけに誤記や故意と思われる

誇張があったものとみられるが,採訪できた文書

35)のみについて分類すると,

 ① 噴火直後の地元(浅間北麓)で,富沢家

  文書の浅間記ほか         11点

   同       (浅間西麓)小諸火山博物

  館所蔵の信濃国浅間岳之記ほか    3点

   同      (浅間東麓)浅間山大焼

  一件記ほか              2点

   同       (浅間南麓)浅間山大変

  日記ほか           2点 ② 噴火直後の上申書報書には,東京大学地

  震研究所所蔵の浅間岳震動実記ほか  2点

 ③ 噴火後日の見聞記録,群馬大学図書館所

  蔵の浅間岳火記ほか         11点

になる。これらをみると,地域的には当然のこと

であるが,浅間山麓周辺に集中しており,最も被

害の甚大だった北麓の吾妻川流域諸村で書き残し

たものが多い。中でも原町富沢久兵工記録になる

 “浅間記”は信愚性の最も高いものの一つであ

る。また,浅間西麓の塩名田村丸山祠則記録“信

濃国浅間岳之記”東麓の“浅間山大焼一件記”南

麓の“浅間山大変日記”などは,代表的基本資料

である。

 記録は心掛けていても実行は困難なもの,まし

て当時は記録できる人も限られた極少数の人であ

ったろうし,また,直接被災した人は,自分や家

族の安全と被災後の対処に心身を使い果たして,

実態の記録などする余裕はなかったと考えられ,

記録を期待することは無理であったはずである

が,そうした悪条件の中でも,書き残さずにはお

られなかった程の大変事であったのである。

 “浅間記”は,吾妻川流域で割合被害の少なか

った原町の名主によって記録された被災現地にお

ける記録で,吾妻川流域諸村における被害状況を

克明に記した特色あるものである。

 “信濃国浅間岳之記”は“日本書紀日天武天皇

白鳳十四年三月……”と冒頭から余裕ある書き出

しで,風上に位置していたため降灰被害も僅少で

あり,泥流被害もなかった。しかも,浅間西麓と

いう最も近接した地点にあって観察が容易だった

ことが,噴火の刻々と変化する様子をつぶさに表

現させたものと思われる。内容は中山道宿々の様

子に重点をおき,被害最大だった吾妻川流捧およ

一28一

Page 3: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

び,下流の利根川沿岸諸村については風聞として

書き記したものである。

 浅間の東,妙義山麓管原村名主長左工門の記録

になる“浅間山大焼一件記”は,浅間山噴火によ

る被害の実状と災害後の村々の暴動を主として記

録している。

 “浅間山大変日記”は筆者不詳であるが,軽井

沢居住の人になること疑いなしといわれ・当時の

軽井沢における実況目撃に加えて,吾妻川・利根

川沿岸諸村の被害風聞を記録したものである。

 以上は,それぞれ浅間山を中心として東西南北

に位置し,被災も見聞も異るので,特に注意し・

比較検討を加えつつ詳察したい。

1)乗竹孝太郎(1906)国史大系 1 p,536

 黒板 勝美(1952)新訂国吏大系 1一下 p.376

 小鹿島 果(1967)日本災異誌 8~p。1

 東京天文台(1972)理科年表 地~p。15

2)荒川 秀俊(1963)近世気象災害誌 p。4~

3)御代田町教育委員会(1969)天明三年浅間山大焼記

 録集 P.22

4)      〃      天明三年浅間山大焼記

 録集 p.120~

5)      〃      天明三年浅間山大焼記

 録集P.1316)小諸市立火山博物館所蔵文書 信濃国浅間岳之記

7)関谷 薄(1955)浅間山爆発史集(軽井沢測侯所)

8)小鹿島果(1967)日本災異誌 8 p.1~

9)震災予防調査会(1918)日本災異誌 p・53~

10)東京天文台(1972)理科年表 地~ p。15

11)上毛新聞・信濃毎日新聞・両毛新聞・下野新聞・群

 馬新聞

12)東京朝目新聞・報知新聞・時事新報

13)小鹿島果(1967)日本災異誌(噴火之部)

  安永8(1779)大隅桜島岳 16,000人死亡 p.15一

  天明3(1783)信濃浅間山 36,000人死亡 p.18一

  寛政4(1792)肥前温泉岳 27,000人死亡 p・20一

 荒川秀俊(1963)近世気象災害誌 p,2

14)西島政之(1904)続国吏大系 15-p.711

 黒板勝美(1935)新訂増補国史大系 47-p.725

15)冨沢久兵工著浅間記 冨沢家文書(群馬県吾妻郡吾

 妻町原 冨沢亘氏所蔵)

16)金長諮著天明信上変異記 与良文書(長野県小諸市

 与良町 与良清氏所蔵)

      〃      飯島文書(群馬県伊勢崎

 市戸谷塚 飯島幹夫氏所蔵)

      〃      小諸市立図書館

17)なからのみちたけ著浅間奇談 荒川秀俊(1963)

 近世気象災害誌収録

18)小諸藩目記与良文書(長野県小諸市与良町 与良

 清氏所蔵)

19)前橋藩日記 前橋市立図書館

20)川越藩日記 前橋市立図書館

21)斉藤月恩著金子光晴校訂(1972)武江年表1-p,211

22)森嘉兵工・谷川健一(1970)目本庶民生活史料集成

 7-p。70~

23)震災予防調査会(1904)大日本地震史料 p・143~

24)高山彦九郎日記 前橋市立図書館

25)古事類苑刊行会(1929)古事類苑 地部 p・875一

 震災予防調査会(1904)大日本地震吏料 p425-

26)古事類苑刊行会(1929)古事類苑 地部 p・335-

27)谷川健一・竹村一(1970)日本庶民生活史料集成16

 -p,335

28)表2参照

29)震災予防調査会(1904)大日本地震史料(震災予防

 調査会報告46)

30)震災予防調査会(1918)日本噴火志(震災予防調査

 会報告86)

31)震災予防調査会(1910・1911)震災予防調査会報告

 67・63

32)八木貞助(1932)浅間山(信濃郷土叢書 1期下巻

 P.51一)

33)八木貞助(1936)浅間火山 p.104~

34)表2参照

35)天明三年浅間山噴火関係古記録(筆者採訪分)

 信濃国浅間岳之記(丸山憲一氏所蔵)

 天明信上変異記   (与良清氏所蔵)

 天明三発卯歳日記  (  〃  )

 発卯目記天明三歳七月(  〃  )

 天明三年浅間焼覚帳 (  〃  )

 信州浅間山焼来状之写    (小諸市立火山博物館)

 御役所様被御渡御書付之写 請印(   〃   )

 き\ん井浅間山見聞書   (   〃   )

一29一

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研究紀要(1978)

浅間大変記拝絵図付飢饅   (    〃

天明三年信州浅間山焼井吾妻津浪書( 〃

浅間山講中勧誘録     (    〃

浅間山焦出之記      (    〃

浅間天明録        (    “

浅間山大変実記      (    〃

浅間焼大変記       (    〃

信陽浅間焼年代記      (    〃

浅間山大焼記       (    〃

信州浅間山の事      (    〃天明茎年卯七月朔分九日迄日(    “々江斥表訴出候事松平藩史料(前橋藩日記) (前橋市立図書館所蔵)

川越藩史料(川越藩日記) (    〃    )

信濃国浅間岳之記      (小諸市立図書館所蔵)

信州佐久郡浅間山焼砂石降ル事(   〃    )

天明信上変異記      (   〃    )

信濃国浅間山大変日記    (    が    )

沙 降 記    (東京大学地震研究所所蔵)

浅間山焼出記   (    〃     )

信州浅間山大焼次第(     〃     )

浅間ケ岳震動実記  (    〃     )

浅 間 記(冨沢亘所蔵)

天明三浅間山焼灰砂降畑方不作小前帳

            (美斉津一夫氏所蔵)

天明雑変記(藤森太平氏所蔵)

御浅間山大焼(内堀忠義氏所蔵)

てんめいうたつものかたり(内堀典浩氏所蔵)

信濃国佐久郡浅間山古今大焼記(佐々木茂氏所蔵)

浅間焼出し山津波大変記(高山美弥雄氏所蔵)

浅間岳火記(群馬大学図書館所蔵)

沙 降記(   〃   )浅間砂降実録  (前橋市立図書館所蔵)

浅間ケ岳大変記(    〃    )

浅間山記録   (    〃    )

沙鳳降 記      (伊勢崎市立図書館所蔵)

石砂降土慈悲浅間震旦記(    〃    )

慈悲太平記      (    〃    )

天明追懐録      (    〃    )

天明信上変異記(飯島幹夫氏所蔵)

沙 降 記   (相川徹子氏所蔵)

慈悲太平記   (  〃  )

浅間山大変実録(  〃  )

浅間山大焼崩大変前代未聞之事(堀口啓吉氏所蔵)

浅間山大変諸作違大飢饅記録(木暮久弥氏所蔵)

浅間山大変記(市村平八郎氏所蔵)

浅間山大変記(浦野英彦氏所蔵)

浅間山大変記(渡 軍平氏所蔵)

浅間焼出し大変記(浄清寺所蔵)

浅間山焼大変実記(曽根克己氏所蔵)

浅問山焼崩出候節段々書留(渡 軍平氏所蔵)

乍恐必書付御訴請奉上候  (  〃  )

差上申一札之事     (  〃  )

乍恐書付を以奉御願申上候(  〃  )

一札之事        (  〃  )

流死過去帳(上・下)  (常林寺所蔵)

過去帳(雲林寺所蔵)

過去帳(遍照院所蔵)浅間山発卯之変 小諸小学校(1911)浅閤山 p.50

信濃国浅間岳の記脇水鉄五郎(1892)浅間山の記

 地学雑誌W-39・42

浅間山大変日記 上毛郷土史研究会(1914)浅問山大

 変日記上毛及上毛入 1号浅間山焚災記 上毛郷土史研究会(1919)浅間山焚災

 記上毛及上毛人29号浅間山焼荒一件 森嘉兵衛・谷川健一(1920)日本庶

 民生活史料集成7

浅間山焼荒之日井其外家井名前帳 森嘉兵衛・谷川健

 一(1970)日本庶民生活史料集成7

天明三年浅間大焼一件記 森嘉兵衛・谷川健一(1970)

 日本庶民生活史料集成7

浅間奇談     荒川秀俊(1963)近世気象災害誌

浅間記(浅間焼崩実記)      〃

浅間岳炎上記 震災予防調査会(1904)大目本地震史

 料

浅間大変日記 群馬県碓氷郡役所(1923)碓氷郡誌

浅間山自焼老人先見の事

  図書刊行会(1907)燕石十種〔1)(後見草付録)

浅間山自焼の事    〃

村民争喰の事     〃

近郷へ雨る砂石の事  〃

一30一

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天明3年浅間山噴火とその被害

一噴火の経過

 (1}周辺近村

 浅間山は桜島・クラカトア・ブルカノと同じタ

イプの極めて危険な火山であり1),爆発型で空気

震動の大きい爆音強烈な,しかも多量な火砕流溶

岩流をともない,その上第二次災害ともいうべき

火山泥流をもともなうことが立証されている新期

成層火山である2)。

 天明3年の噴火活動状況について古文書によっ

て整理すると次のようになる。Nは浅間山・Wは

信濃国浅間岳之記・Eは浅間山大焼一件記・Sは

浅間山大変日記1(よる。

 4月9日 噴火初 浅間山焼初(S) 度々焼

      (E)

 5月26日 噴火・鳴動巳刻半雷のことく鳴……

      これより日夜姻太く絶えず(W)

 5月27EI降灰 大焼……諸国に灰降ル(S)

 6月18日 鳴動・転石降下 浅間麓田代大笹大

     前鎌原へ小石三寸程降(N)

 6月29臼 大噴火 別而焼る事甚し(S)

 7月1日 鳴動・大噴火大に鳴燗太く数十丈吹

     上(W)

 7月2日 大噴火 別而焼る事甚し(S)

 7月4日 大噴火夜五ツ浅間山吹出火石五十丈

     余高く見え(S)

 7月5日 鳴動・大噴火・降灰・軽石降下 夜

      亥刻鳴出火焔煙の中に飛散る雷すさ

      まじく戸障子ひびき碓氷峠夜明石降

       一(W)

      降灰・軽石降下 夜此辺え五分四方

      くらいよりしたの石砂降(E)

 7月6日 鳴動・噴火 未刻大二鳴渡黒姻吹焼

      すさまじく戸障子唐紙地震の如く

      (W)

      降灰・軽石降下 夜此辺米くらいの

      砂少々降(E)

     鳴動・軽石降下 震動石砂降(S)

 7月7日 大噴火・軽石降下焼弥強く……礁氷

     軽井沢大石砂硫黄火ニテ焼……塩名

     田も踏所二足あらず(W)

     夜降石の音は屋根を打ぬく斗り(E)

     大噴火・大地震 七日申ノ刻頃浅間

     より少し押出しなぎの原にぬっと押

     ひろがり二里四方ばかり押ちらし止

     七日ばんより八日ノ朝迄其焼ようの

     すさまじさ拾里四方二而戸がきもは

     づるる程ゆれわたり大地にひびき

      (N)一吾妻火砕流発生一

 7月8日 大爆発・火砕流・溶岩流 只雷神数

     万一度に落たるや地底より天江ひび

     き(W)

     四ツ時浅間山煙り廿丈斗り之柱ヲ立

     たるごとくまっくろなるもの吹出ス

     と見るまもなく直に鎌原ノ方へ(N)

     一鎌原火砕流発生一

     降灰 いまた降も不止(E)

 7月9日 焼候所十里四方(N)

 被害を最も大きくした火砕流を方向づけたのは

噴火前の火口縁で,東・南・西側が絶壁をなして

いたのに対して北側だけは切れ込みがあったこ

と3),火口内の釜山が噴火数年前から急に隆起し・

釜山全体がドーム状の丘となって火砕流の北流し

やすい状態で噴火におよんでいた4)ことである。

 天明三年卯四月九日より度々焼(浅間山大焼一件記)

と4月9日にはじまった浅間山の噴火は

  …焼候所拾里四方二而雷電かじしんかと思ヘハ…

  (浅間記)

とあるごとく鳴動すさまじく関東・甲信越・奥州の

一部におよぶ遠隔の地においてきかれたという。

その後,40日余の休止期間をおいて爆発し,さら

に20日足らずの休止後噴火鳴動降灰があり,その

後1週間程間をおいて26日から,それまでの断続

的な噴火活動から本格的な噴火活動へ移り

  六月二十九日同七月朔二日別而焼る事甚しく軽井沢

一31一

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研究紀要(1978)

 宿碓氷峠坂本松井田安中板鼻高崎より武州児玉郡榛沢

 郡三十余里の間灰砂とも二尺又……(浅間山大変日記)

  七月に相成毎日焼音雷のことく…家鳴しんどうする

 事じしんのことし……(浅間山大焼一件記)

  七月二成リ毎日毎日焼ル信州上州相州武州越州野州

 常州迄灰二三寸より五六寸程ノ白毛降ル・・…<浅間記)

  七月朔日申刻より大に鳴姻太く数十丈吹上ケ・…

  (信濃国浅間岳之記)

の記録がある。四月以降はいよいよ荒れ

  同四日の夜五ッ時浅間山吹出し火石五十丈余も高く

  ・・石砂雨の降る如し。……昼中に家々に行燈をつけ

 道行く人は下げ提燈にて歩行す 同五日の朝関八州並

 に信濃加賀能登越中越前出羽奥州迄白き毛降り・…・

  七月六日より昼夜止事なく焼ル七日午刻より申刻迄

 砂降かるい沢よりうすい峠それより高崎辺迄ハ別而降

 り熊谷幸のす辺迄余程ふりわらび板橋迄竪三十四五里

 横ハ七八里之所彩敷砂降り……(浅間記)

  南面へ飛石は山伝へに転び裾野へ落かかり山の腰を

 焼く数万の松明桟道にならふる如し一…・戸障子唐紙地

 震の如く……沓掛杯ハ明るを遅しと逃出……昼中提燈

 を下げて来るも有七日になり焼弥強く……碓氷山軽井

 沢も大石降り硫黄火にて焼(信濃国浅間岳之記)

と噴火の激しさと山麓諸村のろうばいは大変なも

のであった。その上,8日一大爆発がおき,南麓

からその折見られなかったが,北麓では

  七日申ノ刻頃浅間より少し押出しなぎの原江ぬっと

 押ひろがり二里四方斗り押ちらし止ル・一…(浅間記)

の吾妻火砕流に相当するものが北側へ流下したこ

とを立証する記録がある。この火砕流は,天明3

年浅間噴火の最初の流出物で,堆積分布状態をみ

ると5),火口から三方向に分れて流下しているこ

と,北北東方向約9㎞流下した中央の流れが最大

主流であること,それは,前期流出溶岩流の低地

を通りながら,それを覆うように地形に敏感に対

応して流下していること,現在溶結している点か

ら,現在でも溶結していない後述の鎌原火砕流に

比して粘性がかなり大であったことなどが考えら

れる。

 なお,吾妻火砕流流下後流動性に富んだ鎌原火

砕流がその上を流下したことは

  八日之四ツ時既二押出ス浅間山煙り中二廿丈斗り之

 柱ヲ立たるごとくまっくろのもの吹出スとみるまもな

 く直に鎌原ノ方へぶつかへり鎌原より横江三里余り押

 ひろがり鎌原小宿大前細久保四ケ村一度に押はらい…

  (浅間記)

の記録によって立証でき,さらに,これを草津へ

湯治にいっていた人が目の当り見たという

   一八目四ツ時浅間山北東江向候所焼抜ケ草津より

 見る二……高廿丈二も見へ二筋二泥押出し大き成火石

 交恐敷体二て有之……(浅間奇談)

の鎌原火砕流を目撃した記録がある。

 これらの文書は,鎌原火砕流は吾妻火砕流の翌

日の大爆発にともなったものであること,吾妻火

砕流よりはるかに急速に斜面を流れ下って山麓諸

村鎌原をはじめ小宿・大前・細久保・芦生田その

他に大被害をもたらしたことなどを立証するもの

である。また,現地踏査や地形図地質図などで観

察すると,鎌原火砕流の流下経路は,上部はその

後噴出した鬼押出溶岩流によって覆われて不明で

あるが,溶岩流末端付近から中流は西側が垂直に

浸食された急崖をなしていて,火砕流流下の際の

側方浸食の状態を示している。このことは,噴出

物の絶対量が多かったのみならず何らか付帯物質

を考えさせるもので,山麓諸村の大被害を肯定さ

せるものである。

 なお,この大被害の原動力となった火砕流の泥

流化については,明確な解答をする充分な資料は

ないといわれているが,多量の地表水や噴火のた

め生じた雨水などが二次的に加わった故ともいわ

れている6)。

 鬼押出溶岩は,火口からほぼ北へ約6㎞(図1)

流下して,急傾斜の上部は,その後の噴出物によ

って埋められているが,下流部を含む大部分は,

現在鬼押出し観光として利用されているように,

噴出当時のままの地形がそのまま保たれて,鬼の

名にふさわしい怪奇な景観をみせ,火砕流地帯と

の境界線も明瞭で極めて対照的である。ただ,古

文書に溶岩流出の記録の見えないのは,溶岩流出

の見えたはずの北麓は,鬼押出溶岩流は粘性が強

一32一

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天明3年浅間山噴火とその被害

鎌原火砕流

吾妻火扉流

,ノ

宝o。

o

鬼押出し溶岩流

5km

 図1 火砕流・溶岩流分布

荒牧:浅問火山の地質より作成

お,風上にあたる北西の加賀国においても

  六月廿九日朝より微雨 午上刻より三刻迄雷鳴不止

  P甲七日暁寅より八日右の刻限まで一昼夜の間一円無

 絶間鳴動強き時者百千の大鼓を於隣里打が如く(政隣

 記一加賀藩吏料)10)

とあるのは,浅間山噴火と明記がなくても,日時

の点からも明らかに浅間の鳴動・震動とうなずか

れるものがあって,しかも,意外に強烈であった

ことがうかがえる。また上野国佐位郡今泉村(現

在の伊勢崎市今泉町)赤石麟次郎の記録した浅閲

岳火記11)には

   一震動も江戸ハ少しく 京都へはとどかずして大

 阪や播州姫路辺なぞ余程強く轟きて

とあり,遠隔の地のこと故もちろん風聞を記録し

たものであろうが,それにしても注意をひく記録

である。しかも,近代科学の粋を集めた現在の火

山観測結果から,このことが立証できるとなれ

ば,この古文書内容は高く評価されてよい。すな

わち,火山の大爆発の際には内聴域と外聴域とが

現われるのが一般的で,図2は昭和33年11月10日

く,火口から流出しても10㎞以内にとどまって実

害をひき起さなかったことと,溶岩流出前の鎌原

火砕流による被害が甚大であったため,その対処

に追われてその後の溶岩流に注意することもな

く,従って記録する余裕もなかったし必要もなか

ったものと考えられる。

 (2)遠隔地

 浅間山中心に直線100㎞以上の遠隔地における

浅間山噴火に関する記録をみると

   ・7月6日……西北の方鳴動すること雷のごとし

   (徳川実紀)7)

  江戸にて七月六日夕七ツ半時より西北の方鳴動し

 翌七日猶甚だし天闇く夜の如く・…・り(武江年表)8)

   一六日夜半頃西北の方鳴動し雷神かと聞はさにあ

 らす一声々々鳴渡れり……(後見草)9)

などは,江戸において浅間噴火の際の鳴動・震動

が感じられ,日光をさえぎる程の不純物を多量に

空中に噴出したことを裏づけるものである。な

o

爆発音.空気振動を感じた地点

X上記硯象のなかった地点

x ×

♂知

5GO

250

  κx ,く へ×

、く 照

0

盛岡

200㎞

図2 浅間山爆発音感知地域分布(1958年11月10日)

     関谷:火山観測より

一33一

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研究紀要(1978)

22時50分の浅間山爆発に際して得た爆発音感知地

域分布図であり,中部地方東部から関東地方の内

聴域・中部地方西部・南部と近畿地方東部および

東北地方の一部の外聴域・さらに大阪潮岬の第2

次外聴域が明瞭にでているなどの点からも言える

ことである。

 音波の伝わり方は上層の気温・風向・風速など

によって左右されて複雑であるが,風かみでは,

音波線が著しく上方にまげられ,風下では流され

て延ばされる。しかも,内聴域では音波線が低い

所を通るため地形の影響を直接に受ける。また,

爆発によって発生する爆音は低層を伝わって直接

波として付近に達するものと,地上から上向きに

伝播し数十キロの高温層(数十キロの上空で地上

温に近い)に達して屈折して地上に戻ってくる間

接波があるが,この間接波が外聴域になる。さら

に,地表と高温層との間で反射・屈折を繰り返し

て第2次外聴域を形成するといわれる12)。

 図2は,西風の卓越した時で,天明3年の爆発

時と同じ条件に近かったと考えられることから,

京都にとどかず大阪・姫路に達したという記録は

充分納得できるものであると同時に“浅間岳火

記”の真価を高めるものと評したい。

 なお,高栗寛喬の‘‘浅間山発卯之変”に

   ・・二毛二総二陸武蔵安房相模越後州佐渡州亦雨沙

 石七日八日地動固亡論其邦内武相二総参峡三越江尾勢

 及備筑亦皆然云……

とあるのは,降灰は浅間山の東へ流れて東北日本

に至り,震動は浅間山の西南日本に感知されたこ

とを示すものである13)。

1)関谷 博(1967)火山観測 p.22

2)守屋以智雄(1960)吾妻川流域の地形発達 地理学

 言平論39-1 p.51

 荒牧重雄(1968)浅間火山の地質 地団研専報14

 P.23

3)荒牧重雄(1968)浅間火山の地質 地団研専報14

 P.29

4)信濃国浅間岳之記 小諸市立火山博物館所蔵文書

 天明雑変記 藤森家文書 長野県北佐久郡御代田町

 小田井 藤森太平氏所蔵

 御代田町教育委員会(1969)天明三年浅間山大焼記

 録集

5)荒牧重雄(1962)浅間火山の地質図

 荒井房夫(1964)群馬県の地質と地下資源 20万分

 の16)荒牧重雄(1968)浅間火山の地質 地団研専報14

 P.32

 関谷 博(1967)火山観測 p.85

 八木貞助(1936)浅問火山 p.122

  “大笹の黒岩長七郎氏の古文書には,鬼押出溶岩下

 に池があって常に水を湛え,嘗て三人の旅人が溺死し

 たことが記されて居り,又群馬県安中町美濃部氏所蔵

 の「浅間大焼真図」には柳井と称する池が記されて居

 る。

 此付近は小屋沢・高羽根沢・小熊沢・赤川等の水源

 に当り到処清水渡々として湧出し今日でもr鬼の泉

 水」など呼ばれる程であるから此地一帯の低湿地であ

 ったことは推定される……強粘土等に比して約十分の

 一程度の粘性であり従って此泥土に其容積の三分の一

 以上の水分を加えれば平面上に於ても容易に流動する

 に至るのである”

7)黒板勝美(1935)新訂増補国史大系47- p、725

 竣明院殿御実紀

8)斉藤月答著・金子光晴校訂(1972)増訂武江年表

 p,211

9)森嘉兵工・谷川健一(1970)日本庶民生活史料集成

 7- p,70

10)萩原 進(1942)浅聞山風土記 p.13

11)赤石麟次郎著浅間岳火記 群馬大学教養部図書館

12)関谷 薄(1967)火山観測 p.72

13) 小諸尋常高等小学校編(1911)浅間山 p.52

一34一

Page 9: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

皿 被 害

 (1)被害の特色

 火山爆発にともなう被害は,爆発時の爆風・爆

音・震動から噴出物および流出物によって異なり

多様であるが,天明の浅間山噴火にともなった被

害を大別すると,地域別には,広域にわたる被害

と近接地域の被害,噴出物質中心にみると,降灰

被害と火砕流被害とになる。

 いずれの場合でも,近接地域の被害の方が甚大

であるのは当然ではあるが,天明の場合は遠近の

みに限らず・浅間山北麓に被害が集中し,たこと,

さらには北麓を流域とする吾妻川,および,その

下流の利根川中流の両河川流域に極端な被害をあ

たえたという特色がある。

 広域的にみた場合には,降灰による作物被害と

凶作を助長したといわれる成層圏に達した,噴出

物拡散による日照率減少という,間接的被害があ

る1)。

 これに対して,近接地域之おける被害は複雑多

岐で,爆風・爆音・ガス・火山灰・火山砂・火山

弾はもちろん,火砕流・溶岩流などによる被害も

大きく,最も特色あるのは,火口から北流した火

砕流泥流による埋没被災と,流出泥流によって派

生した堰止洪水・崩壊洪水波の被害である。

 (21降灰被害

 降灰の広範にわたることについては,浅間北麓

の文書,浅間記や,南麓の浅間山大変日記の中に

   一五月廿七日二諸国に灰降ル其後も度々灰降り…

  (浅間記)

   一同五日(七月)の朝関八州並に信濃・加賀・能

 登・越中・越前・出羽・奥州迄白き毛降り…・一(浅間

 山大変日記)

と記録してあるが,その他の文書にも,江戸にお

ける竣明公記2)・武江年表3)・後見草4)・甲子夜

話5)の記載をはじめ,上信武州に関する記録も多

数にのぼっていることなどによって知ることがで

きる6)。

 これらの多数の記録の中で異色なものとして利

根川中流武蔵国埼玉郡尾崎村(現在の羽生市尾崎

町)遍照院の過去帳に記載されたものがある。寺

院過去帳という性格上,それを傷つけるが如き余

事など記すべきでないが,後世のために書き残さ

ずにはおられなかったという意味を付しての

  今年七月五日ヨリ信州浅間山大焼初諸方江砂降即五

 日六日ハ少々降七日二至而大降一坪二八升斗此日ヨリ

 震動雷電言語同断八日朝五ツ時ヨリ世間真闇二相成此

 日ノ砂一坪六斗九目朝利根川一時二満水財木死人大石

 一度引後卜旱水ト成又半時過テ赤キ濃水ニテ満水翌年

 大キキン 右者妥二記非モ後代二知シメン為也(遍照

 院過去帳)7)

は,いかにも生々しい記録である。

 なお,上信越州の外縁地域の降灰を記したもの

に浅間岳火記8)をはじめ諸記録9)にみられるが,

最も遠隔地の降灰を記録したものに,陸奥国八戸

(孫謀録)や現在の岩手県和賀郡沢内村(沢内年

代記)10)に残る

  此卯(天明3)七月七日には灰降り……(孫謀録)

  六月廿九日夜土か砂か不知物ふる……(沢内年代

 記)

がある。時ならぬ異状な異物の降ったことを記録

したものであるが,これは武江年表11)やその他の

文献によっても12),時期的な点から考え,浅間山

の噴出したものと断言できるものである。

 これらは,浅間山噴火にともなう降灰が広範な

地域に拡散したことを立証するものであるが,そ

の降灰量は物理的化学的に,災害に直接結びつく

ものではなかった。しかし,これについて,降灰

の二次災害といわれる凶作との関連がある。吾妻

郡濡恋村観光協会発行の鎌原観音堂の由来には

  天明の全国的飢謹は実に此の噴煙が成層圏をただよ

 い太陽熱を遮ぎった影響と想像される

とのべているが,これは,天明3年浅間山大噴火

と東北地方の大凶作との因果関係を

  噴煙が亜成層圏に達した陽熱を吸収したためにひき

 おこされた冷害

一35一

Page 10: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

研究紀要(1978)

と指摘した田中館博士の論によったものであろ

う13)。

 降灰の影響を火山の爆発と凶作との関連でとら

えた荒川秀俊氏は

  成層圏へ微細な火山灰を相当の量だけ送りこむ火山

 の爆発はいたって少ない しかし一たび全世界の日射

 量を15%以上も激減せしめる位の火山灰を成層圏に送

 りこむような火山の大爆発があると 必ず北海道や東

 北地方に大凶作をおこしており それに例外のないこ

 とに とくに注目したい……

表1

と,クラカトア火山の大爆発やアラスカのカトマ

イ火山の大爆発を例にしてのべているのは,前説

を肯定するものである14)。

 しかし,筆者は浅間噴火即東北奥羽の飢饅とす

ることには疑問の多い点を指摘したい。それは,

天明3年の天候が最悪であったことは否めない事

実で,大飢鐘の直接原因となったが,安永から天

明にかけての10か年に8か年は凶作続きで,その

悪条件のしわ寄せが天明3年であったということ

が大きく影響していること15),天明3年の悪天候

は奥州では3月4月にすでにはじまっていたこと

が八戸藩日記16)・天明卯辰簗17)・天明三癸卯才大

凶作天明四才飢喝聞書18)などでわかること,仮に

浅間山噴火の火山灰が成層圏で日照率を下げたと

譲歩しても,陸奥凶作の最大原因といわれる北東

風の卓越を立証することにはならないことなどの

点があげられる。

(3)降灰量分布

  ・うすい峠砂五尺余り降り坂本三四尺降家三拾七

軒砂二而潰レ坂本より……妙義より一ノ宮在々松井田

安中板鼻近所迄横三里斗りノ所砂弐尺程降ル高崎倉か

ね辺壱尺余それより下野国佐野辺迄ハニ三寸降ル……

(浅間記)

 浅問山の東……水茶屋あり此はしら砂石に埋りて漸

く壱尺程出たり・一・(信濃国浅間岳の記)

 碓氷峠山中茶屋砂石四尺余降……(信濃国浅間岳の

記)

 軽井沢宿碓氷峠より……武州児玉郡榛沢郡三十余里

の間灰砂……(浅間山大変日記)

古文書記載による降灰量(天明3年浅間山噴火)                (単位寸)

N

大 笹

鼻田峠

碓氷峠

軽井沢

追分坂本五料松井田

安 中

高崎,

倉賀野

榛 名

前橋玉 村

妙 義

下仁田

富 岡

吉井藤岡児 玉

新町本庄深谷熊谷桶 川

鴻巣栗橋古河幸手岩槻大宮後閑佐 野

那 須

白 河

野州常州香取銚子江戸日 光

二本松i

仙 台

20

20

11

wlsIE

31

33

100

41

40

20

10

10

10

6

557

88

60

30

20

20

40

16

92

GrT

40[

10

10

10

60

40

30

020

10

85

O

K

50

50

H

381

31

61

541

50

40

20

20

20

20

15

10

55

90

80

40

20

10

10

8

66

B

1

9

78,

8

30

15

15

49

YI・

590

60

45

040

20

14

14

60

50・

4G

50

15,

  63

6 61511

3114

81

71

1

2

23

15

155222-

11

95 3、

  22 2

43

1 1

N浅間記,W信濃国浅間岳之記,S浅間山大変日記E 浅間山大焼一件記,G 浅間山火記,丁 天明雑変記K 浅間奇談,H 浅間山変異記,B 武江年表,Y 八木1貞助“浅間火山”,0 前橋藩日記その他の古文書

一36一

9

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天明3年浅間山噴火とその被害

20’白河15

93

_、浅間山     12 10

loo一                  .50

    ・前橋

 \    206155

11一一13 6

1

4

天明5

14

2

0 40㎞

5δ.

1・臥

8

2-5明治555    42

7    45

8    44

9  大正 1

10     2

図3 天明3年浅間山噴火降灰量分布

         (古文書より,単位分)

 一 諸戸村(妙義町諸戸)にて六尺四方弐石七斗降

 候よし……(浅間山大焼一件記)

以上は,浅間周辺近接地域の代表的文書にみられ

る,降灰量記載例の一部である。こうした記録に

みられる降灰量は,記録する人によって精疎があ

り,比較・検討には必ずしも最適のものとはいえ

ないが,他の諸記録・文献などによって,その分

布をみると表1・図3の如くである。

 これらによると,浅間噴火に際しての降灰分布

地域は,浅間山火口を頂点とした狭長な鋭角三角

形をなして東方に拡散し,東西の延長に比して南

北の幅が狭少なものであることがわかる。

 この降灰量分布状態については,関谷搏氏もそ

の著書19)のなかで肯定しており,八木貞助氏も,

天明3年以降の主なる噴火十数回を例に,降灰方

向中心軸をもとめているが20),前述の分布地域と

傾向として一致するものである(図4)。

 なお,浅間山大焼一件記21)の降灰記録にある

  信州は佐久郡辺えも焼音斗石砂一向降不申よし……

は,降灰の西限を物語るものであり,そのほかの

文書(阿州飛脚物語22)・浅間山焼二見付分覚書23))

にみられる記載も,当時の西風卓越と浅間噴火に

ともなう降灰の特色“東北偏重の分布”を裏づけ

図4 浅闇山噴火による降灰主軸方向

るものである。

 以上の如き降灰範囲の広域にわたることは,爆

発規模の大きいことを示すものであるが,それだ

けに,周辺近接地域における被害を大にしたこと

も考えられる。

 この降灰による直接被害としての潰家・焼失家

渥をみると,八木貞助氏24)は,高崎で5戸潰れ,

坂本で172戸中59戸潰れ,軽井沢では70戸潰れ51

戸焼失とし,軽井沢町誌は70戸潰れ51戸焼失,人

口1,166人中死亡1人としているが25),筆者採訪

の諸文書で検討すると,

  碓氷峠熊野権現社家御師町 古家四五軒 松井田

 古家(信濃国浅間岳之記)

  軽井沢焼失五十二軒 潰れ屋裏屋とも八十二軒 死

 一人(浅間山大変日記)

  安中家四軒潰御城内にて一軒潰仲間一人死坂本四五

 軒坂鼻六七軒潰軽井沢三分ノー焼失(浅間山大焼一件

 記)

  軽井沢焼失表三十五軒裏十七軒 潰家表二十七軒裏

 五十五軒 坂本七八軒潰 二軒焼失 松井田潰五十軒

 余(天明雑変記)

  軽井沢西の端草屋根に燃付南側家数五十六軒焼失せ

 り……(天明信上変異記)

の如くで,降灰・火石による倒壊・焼失の直接被

一37一

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研究紀要(1978)

害は,浅間南麓諸村のうち浅間火口より半径約30

㎞内にあったとみることができる。しかし,被害

はこれにとどまったものではなく,倒壊焼失家屋

こそなかったが降灰による耕地の荒廃は,上州一

円に広く分布していたことが武江年表26)にみられ

  一上州一円の民 二三日途方に暮れ信州から上州熊

 谷辺迄四五年の間作物ならず……

の如くで,後年に長く影響をあたえたもので,高

崎市郊外の柴崎佐雄神社(天壬様)・三倉稲荷神社

・八幡原(高崎競馬場)などに残存する灰塚27)と

呼ばれるものが,天明浅間噴火の降灰を人工的に

集積したものであることなどによっても考えられ

ることである。なお,

  一軽井沢より坂本近辺砂灰深く降たる在所扇畑皆無

 なり……(天明雑変記)28)

の記録を,てんめいうたつものかたり・浅間山大

焼一件記・知行所ヨリ訴出書付・その他などによ

ってもみることができる。さらにまた,これを明

確に裏づけるものに為政者による調査にもとづい

た報告書 (浅間山大焼一件記)があり,また,

被害後その困窮を訴えて,助郷免除を願い出たり

(浅間山大焼一件記)公の手になる復興事業がな

されたもの(天明雑変記)からみられるなど,官

民一致しての災害対策もうかがわれる。

 (4)火砕流被害

 (ω 1 天明以前

 浅間山の噴火は爆発型で,多量の噴出物をとも

なって大被害をもたらすことで知られているが,

その最大の被害は泥流によるものである。

 天明以前の浅間山噴火にともなう泥流被害つい

ても,扶桑略記に記録された仁和年間の

  仁和三年七月升日大山頽崩山河盗六郡之城盧沸地漂

 流牛馬男女流死成丘……按に千曲川の変なるべし佐久

 小県埴科更級水内高井右六郡なり(信濃国浅間岳之記)

や,応永年間の

  応永元戌二月廿五日浅間山大焼砂石礫降此時大雪一

 丈計降南へ吹出し千曲川へ押出し川辺通りかいえきふ

 もと三里の間の人諸方へ越参ると成 古老の日此時追

 分流失漸家五七軒残る人馬多く死す今有黒き焼石此時

 押出し候由(天明雑変記)

と,慶安元年の

  慶安元戌子年閏正月廿六日辰刻大焼古老の日此時大

 雪四尺余雪解けて追分駅流失すと云……(信濃国浅間

 岳之記)

などがあり,これらは荒牧重雄氏の前掛山の降下

火砕堆積物の層序や29),関谷薄氏の流れ山説によ

ってもうなずくことができる30)。

 (4)一2 鎌原火砕流被害

 浅間山東側中腹にあたる峠の茶屋から,鬼押出

し園を通って三原へ通じる有料道路のかたわら,

三原寄りに鎌原観音堂がある。このお堂は,鎌原

部落の西にあたり部落よりは今でもやや小高い丘

の上にある。十一面観音菩薩をまつる由緒ある,

部落はじまって以来の祈願所でもある。吾妻郡嬬

恋村観光協会でパンフレットに

  天明三年浅間大爆発の際埋没をまぬかれた鎌原部落

 唯一の建物で 当時部落より石段が百五十余あったそ

 うであるが 現在僅か十五段しか地表に現われていな

 い

と記録しているが,現在残っている15段から下は

埋没してしまったのであるから,i50段あったも

のとすれば,1段14㎝として約21m,113段あっ

たとしても約14mが埋積した深度ということにな

る鋤。丘の上にあった観音堂一宇を残したのみ

で,部落全体150軒余が一瞬のうちに泥土に流さ

れ,あるいは埋められた惨事がおもわれる。

 天明の浅間噴火は,3年4月9日から活動をは

じめ,7月8日に至っているが,火砕流を流出し

たのは7月7日夜の吾妻火砕流と,7月8日朝の

鎌原火砕流とである。吾妻火砕流は図1でもわか

るように,麓に流れ落ちることなく凝固してお

り,鎌原火砕流は,噴出量や粘性,地形・傾斜・

水質などの関係もあり,泥流化して被害を大にし

たものである。この被害が,天明の浅間噴火被害

を代表する最大の惨事をおこしたものといって過

言ではない。

 この火砕流は,山頂火口から流出し中腹で下方

一38一

Page 13: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

・側方の浸食をし,下流鎌原付近から低地を埋め

堆積し,大部分は吾妻川に流入,狭隆部で逆水を

繰返し流れ下り,平野部に出て異常な洪水波とな

って両岸の諸村に被害をあたえたものである。

 被害のタイプ・規模・地域によって仮に便宜的

な被害地域の分類をすると次のようになる。

 ① 浅間山北麓泥流直撃地域

 ② 吾妻川流域逆水・洪水地域

 ③ 利根川中流域異常洪水波地域

これは,信濃国浅間岳の記32)にみられる被災村々

を大別した

  大前村蒲原村芦生田村西窪村小宿村袋倉村中居村赤

 羽子村斧谷村羽尾村右拾ケ村田畑家居人馬不残流失人

 別凡千八百余人 坪井村不残流出……田畑泥入村々…

 ・・利根川筋両川辺村々流失泥入……

に相当するものである。

 (4〉一3 浅間山北麓泥流直撃被害

 鎌原を直撃した泥流についての記録には

  ・まっくろなるもの噴き出……直に鎌原の方へぶつ

 かり……鎌原・小宿・大前・細久保四ケ村一度にどっ

 と押しはらひ…… (浅間記)

  一七月八日の朝五ッ時右之林焼立泥涌出して大木根

 貫き押出す焼石泥ともに炎ながら鎌原七ケ村江押いだ

 す高さ何丈と云事しらず……(天明信上変異記)

  一鎌原・小宿・芦生田村一推に抜て吾妻川の谷に入

 る泥はあとより推つつき……(浅間岳火記)

などをはじめ多々あるが,これを立証するものは

現在の地形地質である(図1)。

 この時の浅閻山最後の流出物は,鬼押出し溶岩

流であるが,これは,最初の大量流出物である吾

妻火砕流が,北と北東の二方向に分れて流出し,

凝固して形成した北北東方向の鞍部を流出して現

状をなしたものである。大被害の直接関接の誘因

となった鎌原火砕流は,吾妻火砕流の形成した鞍

部を溶岩流出の直前に流出して,急斜面を流下し

溶岩流の流下する道筋を下方・側方浸食をしなが

ら形成したものである。

 鎌原付近の地質図でみると,応桑泥流・軽石流

堆積物・追分火砕流などの上にそれらをおうよう

に流出した鎌原火砕流をふくめて,層序が鎌原部

落東側の小さな浸食谷に明瞭にでて,浅間山の基

盤三原層まで露出し,鎌原から芦生田を攻撃した

激しい泥流の実態をみることができる。

   一鎌原九十五軒の内より九十三人逃助かり四百六

 十三人死……(浅間記)

をはじめ吾妻川・利根川流域の泥流ならびにそれ

らにともなう洪水波による大被害を記録したもの

は多いが,主要文書によってそれらを整理し,耕

地・家屋・死亡者などについて被害率を算出して

みると(表2),被災地の三大地域区分が妥当な線

であることと,泥流直撃被害がいかに甚大なもの

であったかなどが明らかになる。

  鎌原・小宿・大前・細久保四ケ村一度二づっと押は

中之条

 18●覧8.翁

撃㌔   ’23   18。

                  ●61

  遍     8’    長野原       。31     69’ 30 ’ 。80  ■88川湯原      ,48   リヨ ◎…  047 61   69.59 .47

  奮鎌原

  15●57

●37

 ・286D  ・33   910

     07且 048

     川島

5 06 ・4 76

 33.

 22,●28

唇18

図5 耕地被害率分布

一39一

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研究紀要(1978)

表2天面5年浅間山噴火にょる吾妻川利根川両岸諸村の被害状況

高で石) 被害率 高塾こ

人 別

 レ9死 亡

 囚被害率 家 数 流 失 被害率 焼 失 馬 被害馬

吾 妻 郡 大 笹 178大 前 151

15490 59 452 茎ヲ 4 81 瓢 100

可540 4

西久保 量1 24 47 160 5464 54 40

58 鋸 てoo100

41 29

鎌 原 葦諮 524 98 597 会蛇 78 呂奮 発 珊200 170

小 宿 145、15

98 69 290 1努 51 28 含8 1eo窪00

8~ 70

中 居 42 (26)62 (54)

10 29 29 1D口(9)

赤羽根

芦生田

6:

1き茎

(58)

151

95 185141616 9

55含毒

35

お100100100

45(8)

45

袋 倉 96 (45)47 (子舅)

25 25 10〔} (8)

今 井 145 (5ハ4D (47) (27)

(7)

半出来 40 27 27 100古 森

羽根尾46

茎葦暮f22)179

48

69 253142727 18

132葦

156565

100188 27

(5)

15

立 石

坪 井

σ3婁)

蟹(9)

25 850

140 1馨 6 妻早

72¶21

ア0

10D50 18

与喜屋

長野原¶26

郷(アo)

201

56

80 428 51葦萎 56

87171

871フ1

100

珊36

(1)

56

林川原湯

て95

鷺(8)

64488

74181414 19 51

111919

81 17 11

川原畑 159 (8)5 (24)

4 21 (8)

岩 下 607 〔570)61 4 14 (5)

三 島響,可81 (570)

3113 5ア

矢.倉 175 (100)57

11 2D (9)

厚 田 255 (88)57 7 19 (1)

郷 原 釜茎蓋 20 9 0一川 月 717 (IO5)

15 11 1て(5)

原 町 t概 128 12 0 229 2425

10

岩 井ア25 ‘44) 6

中之糸 ヲη (珊) 18 D

伊勢町

横 屋652

極(119)

98

18

ア5 15499

7 55 4墾

69 20 12

松 尾 室呂含 107 56 454 塁 1 11666

5 52 2

植 栗 (771) (24) 5青 山

市 城207

2T8

(1TD)

(50)

53

25

1015

21

〔5)

小 泉 412 (76)18

奥 田 180五町田 267 (17) 6 6村 .L

(909) (250)28 (ス)

T(書含)

箱 島 550 (184)55

群 馬 郡 小野子

祖母島

川 島

北 牧

1,046

2穏螺暑29

4D

486

409

¶0

71

48

768

756

(9)

 2

 5

飛麗

15

7

¶20

↑68

171

1227

 z1移

揖含

26

50

76

76

101

7912860南 牧 98 70 71 ↑01 葦 5 24 多乏 100 8 8

渋 川 梶婁 29 5 o 中

半 田細野

242

28776

55

4¶8

787

209

51

191 42 22541

55漆 原 1:御 250 22 0 245 7 5 0

植 野 謝 o 0

中 島 250 210 84 0 57 54 60〔〕

勢 多 郡 上八崎 書鋸 56 6 o o

下八崎 420 15 4 o o

田  口 垂秀 192 28 96 29 50

邦 波 郡

関 根沼 上(五科)

上福島

矧471608

go

450

186

18

91

51

85

246

101

24

50

24

28

12

24 21 51柴 宿 750 308 42 140 2 τ (2)

高ハく。ヒ段

  F段大日本地震象料群馬県史(兀録)

浅間記 耀蟻認難鯉、補足

一40一

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天明3年浅間山噴火とその被害

 らいそれより芦生田・赤羽……長野原迄竹木不及申二

 土蔵家壱軒も無之流失……(浅間記)

の記録は,表2や,さらに耕地被害率の分布図を

作って(図5),家屋流出被害率などと比較して

も,泥流の方向とその直撃被害箇所を知ることが

できる。

 泥流の直撃をうけて全村埋没した鎌原について

は,鎌原村名主山崎金兵工が記録した浅間山焼荒

之日井其外家名前帳33)に

  当鎌原村の儀は天明三癸卯年浅間山押出し焼荒の節

 田畑近所は勿論民家山林不残流失いたし諸書物等品に

 よらず不残押払ひ土中にうつみ何品に不限天明二年以

 前の姿形は無之……

と壊滅的打撃をうけた点を力説しており,隣村小

宿にあった常林寺過去帳にも鋤

  新命日尚浅き天明三年七月八日浅問山大噴火し火石

 を降らし熱泥を流し数十里ノ間全く焦土と化す人畜の

 死傷算なく満月荒涼一樹の生くものなし当山亦た斯の

 災に加はり二百余年の苦心経営に係る殿堂迦濫を始め

 とし一切の財宝夢滅幻亡一物の形あるものなし 観鳳

 和尚時に東都に出張巾にして幸に生き延びれたりども

 帰山して唖然手を下す道もなく流泊五年僅かに檀務を

 執る此間流死者過去幌を整備して大供養を営み且又世

 代の墓地を再設し石碑数基を建立す……

と,本来過去帳に記載すべきことではないもの

を,天明3年以前の過去帳消失の経緯と噴火泥流

による被災者供養のため過去帳を整備した旨をふ

くめて,被害の甚大であったことを述べている・

 なお,嬬恋村大笹にある無量院住職の当時の手

言己にも35)

  八日昼時分は近所村々(大笹へ)逃来り其騒く事狂

 乱の如し 物をかふやらもろうやら借りるやら 食よ

 茶よとなきさけび逃迷ひ 七転八倒の有様は 山に登

 り銘々かり屋をかけ二三日居り念仏の外他事なし

とあり,泥流直撃をうけて右往左往する被災避難

民の困惑の状態をほうふつとさせるものがある。

 この時の惨状を八木貞助氏は36),

   一泥流……裾野六里ケ原に汎濫・・…・それに次きて

 灼熱した熔岩が引続いて数回にも押出して……

と解説し,萩原進氏37)も,浅間山焼荒一件の記録

を引用しながら

  天明三卯七月八日浅間山焼 山津波二而火石泥入一

と記載しているが,当時この地方の代官であった

原田清右工門が御勘定所へあてた・上州村々山津

浪に而流出失仕候趣御届書β8)にも

   一上州吾妻郡群馬郡村々山津波に而泥水大岩大石

 等五六丈程高く……

と述べ,山津波と表現し,異常災害と報告してい

る。

 -浅間言己じま39)

  …・此度外村より見舞二来ル人いわるるに何事も七

 分のまこと三分のうそといふに此度は見た人の嘱より

 来て見て大きにと驚き入る前代未聞之大変只半時ノ事

 なれども中々一日二目咄しても誕尽筆紙二……

と,まさに,筆舌に尽し難いと強調している。

 鎌原村を直撃した泥流の勢いが,いかに強烈で

あったか,流出の量やその速度も正確に知ること

は困難ではあるが,その強さを推定できる物的証

拠に,常林寺梵鐘と延命寺の標石がある。常林寺

は小宿,延命寺は鎌原にあった寺院であぐが,梵

鐘・標石のいずれも,天明3年の災害にあい泥流

に押流されたものである。

 常林寺の梵鐘40)は,その後不明のままであった

が,明治43年の吾妻川洪水の折に堆石していた泥

土が押はらわれて,吾妻渓谷の川原畑で発見され

た。強烈な水勢や焼泥でゆがめられながらも,寺

院の銘は明瞭であったから常林寺に返却された

が・長野原町で浅間山噴火にちなむ資料として,

現在長野原町立火山博物館浅間園に陳列され・参

観者に貴重な参考資料となって,当時の噴火のす

ごさを目のあたり示してくれる。

 延命寺の標石41)は,同様押流されて吾妻渓谷の

出口に近い中之条寄りの矢倉まで達し,大正6年

秋に川岸で発見され,鳥頭神社の境内で保存され

ていたが,戦後ゆかりの地鎌原に返され,現在観

音堂境内におかれてある。

 これらは,いずれも100kg以上の重量あるもの

であるが,定位置から20㎞もの下流へ運ばれた事

一41一

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研究紀要(1978)

表3 寺院過去帳よりみた被災状況

    常林寺過去帳

\ \\  月8日被災寛政4村\、 者数(A)10か年間計

1天明3年7吠明3~・か年平均被災率

 40人1

死亡者数

鎌 原小 宿小  代

芦生田袋  倉

古  森   今  井

石  津

半出木赤  羽

中 居』

門貝干  又

西久保大  前

羽  尾

与喜屋狩宿新田

大  笹

田  代

砂  井新  田   滝之上 他

456人130

17

117

18

M3

 1

48

16

11

3 1

55

35

867000000

12

29

16

64

41

71

24

16

43

34

103

128

31

120

24

90

32

138

59

15

73

824

(M) A/M;a

4。0人  114.0

 1.2    108.3

2.9    5。g

 1.6   73.1

6.4   2.8

4.1   3.4

7.1   0.4

2、4   0.4

1.6   30.0

4.3   3.7

3.4   3.2

10.3   0.3

12.8   0

3、1   17、7

12。0   2.9

2.4   3.3

9.0   0.7

3,2   2.2

13.8   0

5,9   0

1.5   0

7,3   0

0.8    0

2.4   0

計 946人11,235人1123.5人,

  雲林寺過去帳

村 、、

麗魏,講計奮舗被災率144人   51人

2    26

 1    1

1     3

1    25

4    17

23    34

4     0

19    88

1     g

1     2

4    17

0     1

0    19

1   113

A/M-a

          長野原.1        睾σ     2§  o   D                    2    ・0

     4 ・73・3 も ・1       乙n8        ’o  O  3・      ●5

長野原貝  瀬

尾  坂

火打花

羽口坪  井

羽 殉湯 原 林

与喜屋横 谷川原畑1

河原湯横 壁

 他 

5.1人

2.6

0.1

0.3

2.5

1.7

3.4

00,8

0.9

0.2

1.7

0.1

1.9 1

11。3 

28.2

0.8

10.0

3.3

0.4

1,2

6.8

2、2

1,1

5.0

2.4

000

図6 過去帳による被災率分布

計 206人1406人 40.6人

実を示すもので,その折の泥流の勢がいかに急で

あったかを立証するものである。同時に泥流直撃

地域の被害の大であるゆえんもうなずけるもので

ある。

 (ω一4 寺院過去帳にみる鎌原火砕流被害

 表2で考察した耕地被害や家屋被害について

は,地形や地質から一応の検討はなされるが,死

亡者についての検討は,自然の状態からのみでは

不可能である。そこで,吾妻川流域に壇家をも

ち・しかも・天明3年当時の記載がある過去帳に

ょった。条件を満足させる寺院42)は,小宿の常林

寺と長野原の雲林寺である。

 死亡者数によって被害率を算出するにあたって

は,当時の村別人口が判明すれば容易であるが,

今と違って人口の記載が得られず,寺院過去帳か

ら計算して比較検討することにした。

 過去帳では,生存者を知ることはできないの

で,全人口に対する被災者の割合は,もちろん求

めることはできない。しかし,年度に多小の差は

あっても,何か年かの集計から1か年平均の死亡

者数を村毎につかむことは可能である。その年平

均死亡者数に対する被災者数を村毎に算出して被

災の度合を考察した。

 表3は,両寺院の壇家について旧村別(現在の

部落別)に整理したものである。

 A……天明3年7月8日浅間噴出の鎌原火砕流

一42一

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天明3年浅間山噴火とその被害

850

800

! 下村

[0 100 200m

」 

吾妻川本流

図7 三原付近吾妻川横断面と推定増水面

   泥流による被

   災死亡者数

 M……天明3年(除

   A)~寛政4

   年より算出の

   年平均死亡者

   数被災率

   a二A/Mとして,図6を作成し

考察すると,鎌原村は.

まさに泥流攻撃の真正

面に位置していたと思

一43一

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研究紀要(1978)

直前に鎌原火砕流をして鎌原村を直撃し,泥砂で

全村を埋め,あるいは押流して後,吾妻川に突入

して,比重の高い土石流とか,山津波とよばれる

洪水波を形成したことは,浅間記・浅間山大焼崩

大変前代未聞之事をはじめ諸記録で明瞭である。

 泥流は吾妻川に流れ込んで,家屋・立木・橋梁

などの流木をふくめて,川の狭さく部をせき止め

て逆水し,冠水洪水をひきおこし,せき止め崩壊

後は,洪水波を増大して下流地域に流失や,埋没

の被害をあたえた。

 古文書記載内容によって吾妻川流域両岸の地形

との関連をみると

   一中居上村ハ残ル能谷上村ハ残ル横かべ上湯原下

 湯原河原畑下タ村林下タ村通リハ不残流レ(浅間記)

と,現在の三原地区(旧中居・赤羽根)では上位

段丘面の集落は完全に残ったことは容易にうなず

ける。というのは集落のある上位段丘面は海抜約

    表4 吾妻川増水量(古文書より)

増水面標高

河床面標高

増 水 量

三  原

810 m770

40,0

坪  井  川原湯

670 m615.5

55.5

550 m486

64

         簸難

難i馨載           賑一 1.…・窺二

         転・.愚ぐ.章、

         難灘  ・こ.,奨許、γ‘

  q「

800mで,鎌原火砕流泥流堆積物の末端部が三原の

対岸で840~860mあり,両者の間に幅約350m,

上位段丘まで比高約40mの谷底を吾妻川が流れて

いるから,谷を埋めたとはいっても,上位段丘面

まで泥流は達しなかった。しかし,下タ村流失の

記録に従えば,この辺では河床から約40mの高さ

に達したことになり,最高増水量は約40mという

ことになる。

 能谷(与喜屋)上村の残ったのは,下タ村は,

熊川・吾妻川合流点から近接していたことと,海

抜660m台(お堂付近644,7)に位置していたのに

対して,上村は合流点から約2㎞も上流にあって

逆水故の衰えもあったろうし,680mの位置にあ

った故でもある。

 対岸の海抜上位段丘面670m(鉄道は下位段丘

面を走り上位段丘をトンネルでくぐっている)に

おいて多い(表2・表3)のとあわせて,この付

近では615・5mの河床から約55・5m程度の洪水波

があったことになる。

 なお,下流の吾妻渓谷に続く,上湯原・下湯原

の壊滅,川原畑下タ村の流出に対して,川原湯の

一44一

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天明3年浅間山噴火とその被害

750

700

一、\、今井

   、、    、    、㌧

     、     、     し 増水面   、      、

   半出来

0  ゆ1DO現河床

図8 今井・半出来付近の横断面

記載がなく,安全だったことについては,地形図

吾妻渓谷付近にみられる等高線550mが明瞭な限

界線になっていることで説明することができる。

 川原湯の八ツ場橋付近で地形図に注意すると,

橋上での標高は5i4m,橋から河床まで約28mで,

河床面は,486mである。

 前述の洪水波が550mとすると増水分が64mで

あるが,川原湯温泉柏屋本店で聴取したところで

は,温泉の湯口(560m)まで泥水がきたと言伝

えられているということであるから,川原湯村は

流失するまでにいたらなかったにしても泥水に洗

われたことは事実ということになる。そうすれば

64mの増水分にさらに数メートルを考慮しなけれ

ばならないことになるが,最小値をとって,古文

書記載の内容を整理してみると表4の如で,三原

・坪井・川原湯と下流へいく程洪水波が高くなっ

ていて,狭さく部による逆水をよく物語っている。

 逆水被害については,能谷下タ村の流失被害が

好例であるが,常林寺過去帳による被災率で直撃

地域に次ぐ,被災率高を示した半出木について

は,地形図を詳察して集落の立地する場所を注目

するほかない。そこで,半出来を,同じ左岸で被

災率の割合低い隣村今井と比較すると,今井の集

落位置は標高780~800mで吾妻川河床(707。7m〉

との比高が70m以上あるのに対して半出来は集落

位置の標高は710~720m,河床675mで比高39.8

mであり,三原と坪井間に位置する両者は,当然

40~50mの洪水波に見舞われたから,冠水しない

今井と,完全に冠水した半出来とでは・当然大き

な差があるはずである。この半出来村の被害を増

大したものも,長野原の小盆地へ出る前の半出来

のすぐ下流で極端にせまくなった狭さく部が災し

た故である。

 吾妻川流域の地形からみて,ほかにも逆水氾濫

は所々にあったと思われるが,古記録には割合少

ないo   …四戸川上リエ巻寄迄流レル……(浅間記)

は,郷原付近の地形がよくこれを説明してくれる。

 郷原村(現在の郷原駅標高415m)は,410m以

上のところに立地する村で,耕地に多少の被害が

あったが,家屋や人員には被災はなく,被害時の

洪水波は最高410mとすると,対岸までの距離は,

最狭部で400m弱になり,四戸村での逆水現象は

当然である。

 この洪水波は,約3km下流の原町入口で,

   一川上より煙立満水押来ル直二河戸ノ田のぼより

 善導寺さうもん根迄一めんに成り……(浅問記)

とあるように,善導寺総門の位置は標高380mで。

対岸の川戸へ最短距離をとっても1kmに近く,水

田も冠水して郷原よりもはるかに広がったため,

水勢も衰え水位も下がり,原町(標高357m)は流

失の難を免がれたのである。したがって,原町

(357m)よりも高い位置にある中之条(現中之条

役場387m)は,もちろん無難で,中之条の町続き

の旧伊勢町(中之条駅340m)および,青山付近に

ついては浅間記には特記してないが,現中之条町

只則の木暮久弥氏所蔵文書の天明三発卯年浅間山

大餓饅記録がある。木暮文書は,

   一八日之朝四ツ時押出し来る 予其時青山村駒形

 之辺り家にあり大勢騒立候故往還江走り出見候処 伊

 勢町うら迄押出し其様川面高サ五丈ばかりも真黒に押

 来る雲か泥か難分伊勢町河原松の木あり(是ハ地頭之

一45一

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研究紀要(1978)

御林也)余程之大木有之

処 松の上より高く押来

り松の木をうちのりこへ

巻込其折る音麻からの如

しすでに青山村下へ押下

1鴛濠撫

下に見おろし候に其すさ

ましき事川原表数十町泥

/’ 上川島

中川島    一一ρ’一

     下川島

図9 川島付近の地形と洪水波

北牧  洪水波方向

吾妻川現河道

 \

段丘崖、

駄表5 鎌原火砕流による吾妻川下流付近の被害  軒は流失家屋,人は流死者

鐙石瓢驚亙璽醤沢讐1灘購器轡難堕麗鳶灘五六本其儘土ともに持て

押なカ)るる事さなカ∫ら嶋

の動き出るが如く 又ハ

家ハ屋根ばかり見へる事

焼ながら流泥中に火おこ

り泥上一面也 是ハいわ

村  上

小野子祖母島川  島

北  牧

南  牧

金  井

一軒12

 2

117

147

24

一人

 2

 5

113

53

 5 1

 う焔硝の火故雷火にひとしく水中にてもへる也…

と,目のあたりに見た火砕流の泥流化による異常

な洪水を記録しているが,伊勢町裏の流出は,当

然中之条・伊勢町の被害僅少なこと,青山村下村

を攻撃してその下流狭さく部で逆水したことを明

確にとらえ記載している。現在の吾妻神社のある

高台が,木暮文書の記載者が避難し眼下に暴水の

乱舞する姿を見下した場所で,現在東側浸食谷に

点在する只則・宇妻・七日市・小塚から中沢・長

石辺まで逆水が達したと語り伝えられている43)。

(中之条町誌編集室金井幸佐久氏談)

 (4)一6 吾妻川下流

 利根川合流地点に近い吾妻川下流の被害につい

て,古文書を整理すると表5の如くになり,記録

によって被害数に若干の差がある。また,上記以

外の文書,例えば,浅間焼出の山津波大変記44)に

  南牧村流死百三人 ここは浅間より十三里川下なれ

 ば 晴天に水出べきとは知らず居候処二満水泥押かけ

 逃るにも間なく 明神のけやき大木に上り 大勢をり

一軒

27

120

190

30

23

一人1 一軒 一人1 一軒  一人  一軒 一人

   45    23     10     9     20    160

鱒嘘…1蕪11ii鷲

一 24 5 25 5 30 一

候所其木根こぎにして 百人余り一時に流れ死したり

とあり,川島・北牧・南牧に被害甚大であった点

は共通しているが,数的には相当の隔たりがある

のもある。しかし,後述する如く,地形的にみた

場合,急激な洪水波の攻撃をうけたという点は納

得できる。北牧・南牧付近の被害状況については

山吹日言己45)‘こ

   ・・此あたり殊に田畠をも流し人も余多うせけるな

 ん 河のむかひを北牧とそいふ 田はたのうへにかの

 泥ととまりかさなりたるを たち木もてはかれは お

 ほよそ二丈はかり……

と,南・北牧村地域に堆積した泥土の多大だった

点にふれているし,榛名山東麓箕郷に残る青山数

馬覚え書き日記46)には

   一浅間山降より泥わき出だし北の平へ押流る吾

 妻川へ押出す……川口せまき所にては土路あたり田畑

 川原のごとく死人不知数……

とあり,同和田山極楽院文書47)にも

  以書付ヲ流失御届ケ奉申上候 一,当卯六月廿八日

一46一

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天明3年浅間山噴火とその被害

 ヨリ浅間山焼出シテ砂石降リ申候 来ル八日二至ワ甚

 敷吾妻川へ吹出シ泥火石ヲ押出シ大満水二御座候 拙

 僧院地石不残流失 人馬等怪我無ゴ座候 村方南杢村

 (南牧)諸檀中不残流失仕候・一・

  一,田畑一反歩畑五畝歩流出……

とある。極楽院の末寺である北牧村東学院から差

出した報告嘆願書では,土石が吾妻川をせきとめ

て逆水洪水となり,田畑や森までも冠水したと記

録・山吹日記にみられる泥土堆積ともあわせ,南

・北牧村の被災度が察しられるものである。

 こうした吾妻川下流地域の被害について,現地

に近いしかも,被害にあわなかった桐生の長沢家

文書48)も

   一北もく家数百三十軒計流れ也 白井無難 岩井

 村不残 五丁田下通不残 川島不残……

と述べているが,鎌原火砕流・泥流の直撃地域に

次ぐ高い被害率を示す川島村・北牧村について,

河岸の地形から考察を加えてみたい。

 吾妻川現河道と20G~250mの等高線に注意し

て,両岸の山地・急崖(洪水ののらない)と平野

・平坦部(洪水冠水地)の分布状態を検討した。

川島(地形図・図9)についてみると,対岸吾妻

川左岸の振興付近で,水勢が南方に方向を転じて

川島を攻撃するように山地・崖が迫っていること

と・それを助長し導くが如く対岸は平坦で洪水波

の曲折を容易にしている点を見逃すことができな

い○

 北牧の場合は,川島の場合と全く関係位置を逆

にして,川島・南牧境界にある長野原線トンネル

付近で,右岸から急崖が河道に迫り,対岸の左岸

に平坦部が北牧までひらけて,北牧に対する洪水

波の攻撃を容易にし被害を増大したものである。

 塚上は,吾妻川流域における三原から坪井・川

原湯・郷原・中之条・川島の諸地域の洪水波を,

逆水をもふくめてその増減に注意し,古文書記録

を現地の地形に照しながら考察を加え,被害状態

を確認したものである。なお,当地方の代官であ

った原田清右工門が,幕府勘定方へ報告した上州

村々山津浪に而流失仕候趣御届書49)に

m’85

’80

〃5

’70

‘852

.ヒ

越線鉄橋

’7δ’

道 路

『 皿  臼  } 大 一17幻増水面 正

河床面’

ノ乃σ

’図2

図m 吾妻川,利根川合流点における増水量(群馬県河

   川課資料より作成)

  私御代官所上州吾妻郡群馬郡村々山津浪之趣……当

 月八日四ッ時信州浅間山抜津波に而泥水大岩大石等五

 六丈程高く上り……浅間山井吾妻川通村々流死人数者

 不相知田畑家居等流失仕候

と記載したり,噴火をテーマにした絵図5D)などに

明記され,暴水洪水は,峡谷で水位を高め逆水現

象をおこしたり,あるいは,小盆地で低水位にな

りながらも,広範に耕地被害をあたえ多大のこん

一47一

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研究紀要(1978)

m’qo

’箔0

八ツ崎

’50

’30

〃0

中村 利根川河道

東川合流点

吉岡川合流点

群馬学駝

0 ’σ0 200配

図11利根川本流両岸地形と集落立地(渋川・前橋間)

表6 古文書による利根川沿岸村々の泥入

泥   入   村    々 無難 の 地

井泥入川  〃 家屋 1

村    〃 127

田     〃 80

島   田畑流

八ツ崎

田ノロ

      板  井

  家屋流…斉 田   〃 571玉  村      ヨ  田畑流i新町獄  い泉〃      上ノ宮

       田 中

泥入

泥入

下ノ宮川  井

 柴八町川原

1長 沼擁 上i五 料

泥入1前橋l  

佐劃泥入 六供1            野矢島泥入!工副〃  横手

  ”  大内

棒丸i平塚   1樋越 徳川堀口[中瀬戸谷塚 江曽下福島1上新田

黒 領 大 窪

中 島 惣社

跡を残して平野部に流出している。

 (41-7 利根川合流地域

 吾妻郡誌51)は,この時の洪水について

  天明大噴火の惨劇は 山麓鎌原村をまたたく闇に埋

 めて吾妻川の河谷に入り 熔岩泥流渾然として吾妻の

 渓谷を東に奔流し 四ツ六七歩に原町に押来り 八ツ

 時頃には利根川に入りて……

と洪水波の急激な流出を指摘し,谷地形によって

は,南牧村における避難の間がなく被災する如き

不意の増水も考えられる。このような,急激な利

根川への合流は万日記52)にある

   一北牧村南牧村御関所共に不残押し流し白井とが

 の門左工門殿の外へ泥上り申候 それより利根川へ押

 し出し 利根川を上へ差上げて 白井渡舟川上へ五六

 百間流れ申候 それより中村不残押流し 関根宿不残

 流し申候 半田島不残押し流しそれより川下多数流し

 申候……

は,合流点白井で逆流し,下流でまた両岸に多大

の被害を与えている点を立証している。

 これを地形図でみると,合流地点における吾妻

川流水の攻撃正面は,現在の大正橋・上越線鉄橋

の場所で約標高178m,対岸渋川市との間に500m

の狭さく部をもっていたことが,利根本流の水位

が低かったこととあわせて,合流点からの逆水と

なったものである。この際,白井は被害をうけて

いないとあるから,河道面174m地点まで逆水し

たことになり,合流点における河道面の標高169,2

mから算出して,静水の場合としても約5m弱の

増水で,文書の記載の

  …・其たけ二丈ばかりに高成して押来る……53)

とほぼ一致する増水量である(図10)。

 また,渋川・前橋間の利根川両岸で被害の顕著

な,中村・関根・半田島は, (半田島は中州にあ

った集落で洪水後は集葉立地の場所とはならなか

った)利根川両岸と河道との比高をみれば(図11)

中村および関根の集落で被害率の高かった点につ

いて容易に理解できる。

 利根川に流入した砂泥の混入した比重の重い洪

水波は,破壊力も大きく,水位が高ければそれだ

け流失家屋も多くなるのは当然であるが,谷から

氾濫原の広がった利根川流入後は,前橋から次第

に水勢が衰えをみせ,前橋より下流地域ではほと

一48一

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天明3年浅間山噴火とその被害

    8

\  ヌ 7ακα5α斥10

勿○    ㊨

㊨ 易も ㊨    ㊨○

0     5K血_    。匂10κα        図12 利根川両岸泥入村々分布

んど流失死亡はみられず,耕地への氾濫のみが特

色である。

 文書には(信濃国浅間岳の記・天明雑変記)無

難の村と泥入の村とを表6の如く,明確に区別し

てある。松平藩史料前橋藩日記54)にも

  天明三癸卯年七月八日今昼時頃俄利根川広瀬川満水

 虎ケ渕水一呑押込柳原土手江茂水押上竪町橋茂押流第

 一柳原土手危ク 追々水之増様申出候所一体水黒土を

 ねり候様成水二而火石之由利根広瀬ともに煙之如く燃

 立家共に多流其外家材大木等種々様々成品流通り右流

 家二は人も多取付相流候様見請候増水之模様雨天二而

 茂無之処右之通之変水有之候段申出候也

とあるが,前橋領内の被害については55)

 1 石砂灰田畑に降る。

 2 利根川大洪水。増水三丈余 田畑家屋流失。

  焼石砂埋堆のため耕地潰れ損耗六万八千石。

 3 前橋城跡の利根川長さ三百間,幅六十間崩

  れ落ちる。

 4 城外柳原林長さ四百五十間,幅五間欠け,

  前橋町洪水危険にさらされる。

 5 五料関所石泥一丈程堆積 五料宿も一丈程

  泥砂が押埋め家屋二百軒流失,埋没。

 6 福島関所泥押上流失。

 7 桃の木堰の本流と排水路長さ二千七百間程

  幅平均七間余,深さ九尺余埋まる。

 8 広瀬堰も同様,長さ千九百八十七聞,幅九

㊨被災村○無難村

○○○

  ぴ

  間,深さ八尺焼石と泥で埋

  る。

 9 植野堰長さ三千二百三十

  間,平均幅八間,深さ一丈

  五尺焼石泥で埋る。

 10 漆原村用水の利賀野堰も

  長さ二里余,幅五間,深さ

  一丈五尺程焼石泥に埋る。

 11 新村用水堀二百間同じ状

  況。

などと,その甚大な被害につい

てのべてあるが,吾妻川流域と

比較して,人命や家屋には被害

⑪大泥入村

○小 〃

一洪水波進行方向

     8     ロ     竃

        、        、

σ

○ 寺家

○善光寺

       ’       ’

’、⑪   ジ

、 長堀

阿円

⑪ 下阿内

σo

85

’㎞

図13前橋南下の洪水波方向

75

一49一

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研究紀要(1978)

    図14萩原付近河川断面と洪水量

は少なく,耕地や農業用水路における埋没被害に

特色あることを示している。このことについて

   ・・余勢利根川を埋めて十月頃までは栗橋以西舟を

 通ずる能はざるに至らしめたり(吾妻郡誌)56)

   ・・七月八日の下刻頃利根川へ泥土満水押来る 尤

 も此水色は黒色水より煙もえ立ち川辺の家居並大木其

 外一面に流来り人馬泥水に溺れて・・…・(総社町誌)57)

   ・・前橋といふ所……川の上,二ひろばかり高く山

 のやうにうねりて……水は硯の海の色して三ひろ計な

 る火石黒姻うづまひて行中に幽かに人の声……(信州

 浅間焼)58〉

など,泥土流出堆積を裏づける記録が残っている。

 古文書によって,利根川両岸の泥入村々と無難

の村々との分布状態をみると(図12), ①前橋付

近では右岸に被害をうけた村々が分布し,②鳥川

の合流付近では両岸に被害村々があり,③広瀬川

合流付近から下流で被害がないことが判明する。

 現在の前橋市南部地域における泥押し状況を記

録した信濃国浅間岳焼荒記59)によると,利根本流

沿いの公田・下公田・横牛・新堀は大泥入となっ

ており,阿内・下阿内も大泥入であるが,その中

間地にあたる寺家・善光寺は少となっているの

は,後背低地にあたる分

流が阿内・下阿内を直撃       ・して,寺家.善光寺は本  \》

流・分流の中州という関     ○

黛膿雛鑑 瀬ア3.のは,上公田における90              0      40Kmmコンターが示す,わず

かな両岸の高さの差にほ

かならない(図13)。

 この点について大縮尺の地形図を読むと,左岸

は熊野神社(86.9m)の面がそのまま河岸にせま

って,河水面と約10m以上の崖をなしているのに

対して,右岸の萩原の面は83・1~86.1mの段丘上

にあたり,対岸に対して比高80cm以上の差があっ

て氾濫しやすい条件をそなえていたことが,両者

の被害差になったものである。したがって,前橋

下流萩原付近での増水量は9.5m~10.3mと推定

できる(図14)。

 鳥川合流地点付近でこれをみると,左岸の急崖

は75。8mで,右岸の斉田水位観測所付近で河水面

65・9m,氾濫原(観測所位置)66.8m,現堤防上

77.3m,段丘上板井集落73・3mは,往時は現堤防

はなかったから,板井・斉田が洪水波の直撃をう

ける可能性は充分あったわけである。

 以上は,渋川地区で利根川に流れ込んだ洪水波

が,両岸の家屋や人的被害こそ僅少だったが,耕

地のうけた被害は甚大だったことを示すもので,

現在でも,伊勢崎・高崎・本庄諸市の利根川沿岸

地域農民に“アサマ”60)とよばれる天明3年噴火

にともなう泥砂の堆積物が,厚い層をなしている

ことによってもうかがい知ることができる。

 このように,利根川へ流入した浅間噴火泥流に

よる洪水波は,泥土の運搬と堆積が主で,直撃地

域(鎌原)での家屋・人命埋没被害,吾妻川流域

での家屋流失被害と異なったタイプの泥砂堆積に

よる耕地被害が顕著であることが指摘できる。

 (5〉金石分布よりみた天明3年浅間山噴火

前橋  伊勢崎

○幸手

O

図15 天明3年浅間山噴火関係金石分布(筆者確認のもののみ)

\銚子

一50一

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天明3年浅間山噴火とその被害

 一のあわれは鎌原よ 人畜田畑家屋まで皆泥海の下

 となり 牛馬の数を数うれば 一百と六十五頭なり

 人間数を数うれば 老若男女諸共に 四百七十七人が

 十万億土へ誘われて・…

は,全村浅間の泥流下に埋没した鎌原に残る浅間

山噴火大和讃61)の一節である。命日を期して現在

でも被災者の冥福を祈ってとなえられるものであ

るが,この鎌原をはじめ吾妻川沿岸諸村の人命・

家屋にあたえた甚大な被害は,江戸川下流の全町

村名主の訴出を取りあげた代官伊奈半左工門の浅

間山焼記録62)にも

  昨九日八ッ時頃より江戸川水泥之様に相成何方より

 流来候哉……犬人之死骸井馬等 是又切々相見へ 移

 敷流通候……

の如く,公式文書としてある。

 吾妻川・利根川沿岸諸村の惨事を下流諸村で伝

えたものは多々あるが63),浅間焼之書付64)の

   一行徳川岸に死人霜激流れ懸り候故 其辺の寺方

 より麺を着せ回向致候 莚数凡そ五百枚計遣ひ切候由

 其死人或ハ首無し或ハ手足無きも多く候由…

浅間岳火記65)の

  下総の江戸川ハ刀称川の枝川ゆへ死骸移敷流行たる

 を 行徳の徳願寺取揚させ千五百人塚に簗しとぞ 其

 内本所のおなぎ川にも少々ハゆきなん一一

は,利根川・江戸川を流れ下った被災者の死骸や

家屋のあったことを立証するものであり,武江年

表66)にみられる

   一江戸にても硫黄の香ある川水 中川より行徳へ

 通じ 伊豆の海辺迄悉く濁る……

の如く,江戸から相模の海・伊豆近くまで影響を

あたえたことと相通じるものである。行徳の徳願

寺は地域における古山名刹であるが,現在は訪ね

ても被災者供養についての跡は不明である。

 しかし,利根川沿岸に浅間噴火被害の跡をとど

めた金石は行徳の近くにも現存して,文書記載内

容を実証している。図15は筆者が実地踏査の上確

認できたもののみであるが,当然のことながら被

害の甚大だった吾妻川流域に集中している。

 鎌原観音堂前のわずか百余の石段が,600余人

の生死の分れ目だったときいては,誰しも感無量

にならざるをえない。ひなびた堂の前に被災をま

ぬがれた村人達が,肉親・知人の冥福を祈って建

立した供養の碑が,表に

  天明三癸卯歳七月八日巳刻 従浅間山火石泥沙押出

 於当村四百七十七人流死 為菩提建之

            文化十二乙亥歳七月八日

と彫刻み,他の碑面一ぱいに四百七十七名の戒名

が見え,耳袋67)も鎌原村異変の節奇特の取計致候

者の事と被災後の村のたてなおしの苦心について

述べている程である。

 また,大笹にあった燭山人の碑68)といわれた浅

間噴火記念碑は(現在鬼押出し園内)鎌原の被災

を戒めとして永く後世に伝える努力をし,原町

(現吾妻町)の善導寺門前にある供養碑69〉も

  此災にかかりて死ぬるもの千をもて数ふべし,人々

 ただいさごのふる事をおそれて,川には心つかず,百

 とせのいのち忽水の泡ときえし事ふかくあはれみいた

 むに堪へたり,此時からうじて蒜なきものも父子相失

 ひ夫婦相分かれて悲嘆の声野にみち家をうつみ宝を流

 してこごえたりとさけびうえたりとよばふ

と銘記して,5回忌から23・33・50・150回忌と

回を重ねて現在にまで語り伝えられ引継がれてき

たことを物語っている。

 吾妻川の利根合流点に近い子持村北牧興福寺門

前の賑貸感恩の碑70)は,浅間焼被害から46年後の

文政12年に,忘れられない被害状況と当時の救済

復興への意を表わして建てたものであるが,碑文

にある被害状況は,当時の惨状を後世に伝えて注

意をうながしたもので,被災地における前車のて

つを踏ませまいとのせつなる願いがこめられたも

のである。

 利根川中流・下流には,上流で災禍にあって流

れ着いた無縁者の供養を意図した

              供養塔71)前橋市総社町元景寺境内

藤岡市緑野部落内

伊勢崎市戸谷塚部落内

東京都葛飾区題経寺墓地

   江戸川区善養寺門前

供養塔72)

供養塔

供養塚

供養碑

一51一

Page 26: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

研究紀要(1978)

    墨田区回向院境内  供養碑

などがあり,また,浅間焼および同年後の飢鰹を

も含めて,救済事業や篤志家への感謝の意をこめ

  熊谷市奈良集福寺墓地  吉田宗敬墓碑73)

  埼玉県幸手町正福寺境内 知久文左工門碑74)

  銚子市高神町    庄川杢左工門頒徳碑75)

など,今に残って語り伝えられる程の大変だった

のである。

W むすび

 大地の活動・大気圏の現象は,大自然の節理と

して,地球の生成以来くりかえされて今日に至っ

ている。

 しかし,災害は,それをうけとめた人問生活の

所産であって,現在も人間生活につきまとってい

る。そればかりか,人聞が地球上に生活する限

り,今後も災害から逸脱することはできない。災

害は変化するがなくならない。なくならないばか

りか,ますます複雑化し多様化していくものと思

われる。しかも,災害は,緩急・強弱のリズムを

もち,その上,計り知れないエネルギーによる破

壊力をもち,予告なしにやってくる。

 過去の被災を教訓に,今後の対策を樹立してい

くことこそ,災害に対する最大の課題である。

 ここに,過去における火山噴火災害をとりあげ

たのは,近代科学の粋をあつめ,火山・地震・気

象などの観測網が整備した今日でも,それらのコ

ントロールはもちろん,特に噴火・地震について

は予知も実用化されていないのが現状である。

 火山や地震は・活動期と休止期をくりかえし,

東北日本の凶作形といわれる冷害は,昭和の今日

でも農民に不安をいだかせるなど,災害は何百年

の昔から今に至るまで変りない。また,いったん

起った災害の被害は,想像を絶する程大きい。い

かにして,被害を最小限にとどめるかは,防災上

の急務であろう。

 ここで力説したのは,あつかった災害は過去の

ものでも,同様の災害は必ずやってくるものと考

え,前車の轍を踏むことのないよう,また,少な

くとも,人為的にそれを助長することのないよう

過去の災害実態をみなおすことの重大さである。

 最後に,この小論をまとめるにあたって,種々適切な

ご指導とご示唆をくださった籠瀬良明・沢田清両教授な

らびに多大の激励と援助をいただいた目本大学文理学部

地理学教室の方々に心から深謝の意をささげたい。

1)荒川秀俊(1963) 近世気象災害誌 p.2

 荒川秀俊(1965) 災害の歴史 p.152

2)内藤恥嬰(1964)徳川十五代史 6-p.2329

3)斉藤月答著・金子光晴校訂(1972) 増訂武江年表

 1-p.211

4)森嘉兵工・谷川健一(1970) 日本庶民生活史料集成

 7-p,70

5)震災予防調査会(1904)大目本地震史料p・413

6)震災予防調査会(1904)大日本地震吏料 p.413・

p.423

 荒川秀俊(1963) 近世気象災害誌 p.7

7)遍照院文書 埼玉県羽生市尾崎 須永真乗氏所蔵

 篠原 順(1960) 珍らしい記録(その二) 遍照院

  過去帳 羽生市文化財保護審議委員会

8)群馬大学教養部図書館

9)荒川秀俊(1963)近世気象災害誌 p,8

 震災予防調査会(1904)大日本地震史料 p・415・

  P,420 小諸火山博物館所蔵“信州浅間山焼来状之写”

10)碧祥寺文書 岩手県和賀郡沢内村 碧祥寺所蔵

 (孫謀録)森嘉兵工・谷川健一(1970) 日本庶民生活

  史料集成 7-p.382

11)斉藤月答著・金子光晴校訂(1972) 増訂武江年表

 P.211

12)権堂成郷(1932) 日本震災凶饅放 p.251

 鈴木 勤(1970) 日本歴吏シリーズ 15文化文政

  P,3813)萩原 進(1975)村をのみこんだ泥流 国土と教育

一52一

Page 27: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

 32-p,55

14)荒川秀俊(1965)災害の歴史 p.152~

15)森嘉兵工(1969) 日本僻地の史的研究 上巻  p・

 92216)上村修氏所蔵 八戸市立図書館保管

17)新編青森県叢書刊行会(1973) 新編青森県叢書 3

 P。17~18)森嘉兵工・谷川健一(1970) 目本庶民生活史料集成

 7 P.420

19)関谷 薄(1967)火山観測 p.71

20)八木貞助(1936)浅間火山 p,140

21)森嘉兵工・谷川健一(1970) 日本庶民生活史料集成

 7 p.129

22)震災予防調査会(1904)大日本地震吏料 p・423

,23)震災予防調査会(1904)大日本地震吏料p・412

24)八木貞助(1936) 浅間火山 p。140

25)軽井沢町誌偏纂委員会(1954) 軽井沢町誌 歴吏篇

 P。299

26)徳富猪一郎(1936) 近世日本国民吏 田沼時代 p・

 47627)近藤章氏談(1976) 群馬県史編さん史料調査員(高

 崎市教委)

28)藤森家文書 長野県北佐久郡御代田町小田井 藤森

 太平氏所蔵

29)荒牧重雄(1968) 浅間火山の地質 地団研書報14

 P.23

30)関谷 博(1967)火山観測 p.85

31)観音堂の旧石段が何段あったかにっいては次の説が

 ある

  150段(嬬恋村役場観光課)

  120段(山崎直方 1911震災予防調査会報告)

  113段(関谷 博 1976火山観測)

    (八木貞助 1936 浅間火山)

  112段(萩原 進 1975村をのみこんだ泥流)

32)小諸市立火山博物館

33)森嘉兵工・谷川健一(1970) 日本庶民生活史料集成

 p.180

34)常林寺文書 群馬県吾妻郡長野原町小宿 常林寺所

 蔵

35)萩原 進(1975) 村をのみこんだ泥流 国土と教育

 32

  無量院は萩原氏が調査後火災にあって文書も焼失の

  由原本は不見文献より引用

36)八木貞助(1932)浅間山(信濃郷土叢書 下巻)

 P.38

37)萩原 進(1964) 南木山史話 p.130

38)震災予防調査会(1904)大目本地震史料p.393

39)富沢家文書 群馬県吾妻郡吾妻町原 富沢旦氏所蔵

 文書(現在長野原町立火山博物館浅間園二陳列)

40)萩原 進(1964)南木山史話 p・131

41)萩原 進(1964) 南木山史話 p。128

  群馬郡吾妻教育会(1922) 群馬県吾妻郡誌 p・1433

42)常林寺 群馬県吾妻郡長野原町小宿にある曹洞宗寺

 院 壇家3000あり

  壇家が吾妻川流域全体に分布

  雲林寺 長野原町長野原にある曹洞宗寺院

  壇家120043)中之条町誌編纂委員 金井幸佐久氏談 (昭和51・3・

 16)

44)高山家文書 長野県北佐久郡御代田町馬瀬口 高山

 美弥雄氏所蔵

45)上毛郷土史研究会(1933) 山吹目記 p,58

46)箕郷町誌纂委員会(1975) 箕郷町誌 p・846

47)   〃     〃 P・84648)桐生市史別巻編集委員会(1971) 桐生市史別巻 p・

 1303

49)震災予防調査会(1904)大日本地震吏料p・393

50)宮沢家文書(富沢 旦)

 渡家文書(渡 軍平)

 美斉津家文書(美斉津一夫)

 東京大学地震研究所

 小諸火山博物館51)群馬県吾妻教育会(1929)吾妻郡誌 p・1414

52)敷島村誌編纂委員会(1928) 敷島村誌 p.651

53)下川淵村誌編纂委員会(1958) 下川淵村誌 p・385

  利根川左岸新堀村(前橋市新堀)久保田春治氏所蔵

  。浅間山焼覚”

54)前橋市立図書館所蔵

55)前橋市史編さん委員会(1973)前橋市吏 第二巻

 P.799

56)群馬県吾妻教育会(1929) 吾妻郡誌 p・1414

57)総社町誌編纂委員会(1956) 総社町誌 p,319

58)吏籍集覧刊行会(1967)史籍集覧 雑部地理外藩編

 P.39

59)石原和造氏所蔵文書 下川淵村誌編纂委員会(1958)

 下川淵村誌 p。387

60)伊勢崎市戸谷塚 飯塚幹夫氏談(5L3、9訪問)

  “泥入の地域の泥砂堆積の層を土地の人々は今でも

  「アサマ」と呼んでいる。

  「アサマjは桑の成育には最適,旱魑に強くしかも

  湿気にも強い”

61)群馬県吾妻郡嬬恋村役場観光課(1973) 鎌原観音堂

 の由来

  萩原 進(1932) 浅間山風土記 p,26

62)震災予防調査会(1904)大日本地震史料 p・391

63)震災象防調査会(6904)大日本地震史料 p,391・

一53一

Page 28: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

研究紀要(1978)

 396・418

64)吏籍集覧刊行会(1967) 史籍集覧 雑部地理外藩編

 P.44

65)群馬大学教養部図書館所蔵

66)震災予防調査会(1904)大日本地震吏料 p・439

 斉藤月答著・金子光晴校訂(1972) 増訂武江年表

   1-p.212

67)根岸鎮衛著 耳袋(谷川健一・竹村一〔1970〕)目本

 庶民生活史料集成 16 p.335

68)萩原 進(1942) 浅間山風土記  p.98 吾妻郡嬬

 恋村大笹の記念碑

69)吾妻町原善導寺門前 浅間焼被災者無縁仏の供養碑

 1.天明8年7月8日 南無阿弥陀仏(表)

  天明三年発卯の四月より浅間たけやけたし…(表)

 2.文化2年7月8日 浅間山焼溺死霊二十二回追冥

  塔(表)

  吾妻郡群馬郡流死凡千五百人 施主原町中(側)

 3,文化12年7月8日 南無阿弥陀仏 為浅間山焼流

  流死霊井三十三回供養塔

 4. 天保3年7月8日 南無阿弥陀仏 京都誓願寺

  (表)

 往し天明三癸卯の年信濃国浅間の岳卯月の頃より…

  (裏)

 5. 昭和7年7月8日 浅間山焼死霊百五十回忌供養

  塔

70)角田恵重(1969)子持村教育委員会 子持村誌 p。

 170 北群馬・渋川の歴史編纂委員会(1971) 北群馬・渋

  川の歴史 p。335

 北毛の史蹟と文化財刊行会(1973)北毛の史蹟と文

  化財p,78 子持村役場企画広報課(1975) 広報こもち No,23

  (50.7.15)

71)総社町誌編纂委員会(1956) 総社町誌 p.319

72)藤岡町誌編纂委員会(1957)藤岡町誌 p.1017

73)吉田家は代々村名主を勤めた名家で 災害に際して

 私財を投じて救済するなど篤志家として現在まで名を

 伝えられる人が数人あるが宗敬はその1人 碑は吉凪

 家代々の墓地内にある。

74)芦田伊人(1929)新編武蔵国風土記稿6-p・185

75)銚子市青少年文化会館 伊勢崎清氏案内

一54一

Page 29: 天明3年浅間山噴火とその被害 - 日本大学文理学部研究紀要(1978) 面からの追求が意外に少ない点が指摘できる28)。 天明3年浅間山大噴火の史的考察を意図したも

天明3年浅間山噴火とその被害

A Study of sufferings by the Eruption of Mt.ASAMA in1783

Kazuo KIKUCHI

 1. Crustal activities and atmospheric phenomena have repeatedly occurred by provision of nature ever

since the earth came into being.

 NaturaI disasters arise with human beings I1v1ng on the earth.As Iong as human beings live on the

earth,they cannot be free from natural disasters.

 Moreover,natural disasters come without notice,attended by a varlety of quickness and strength,

and an immeasurably enormous amount of destructive energy.

 It is important to make preparations against inescapable natural disasters in the future,by leaming

by past suHlerings.

 In this paper the author deals with past disasters with the obiect of=

 1) establishing the fact that natural disasters caused a great deal of damage and casualty;

 2) making the study of past natural disasters useful for foreseeing;

 3) making the best use of past experiences in preparing against future disasters;and

 4) do1ng a unified research study in the丘elds of both natural and humane-soclal sciences.

 2.

 The eruptlon of Mt。Asama in1783(the3-rd year of Temmel)is characterized by wide・spread and

heavy damage and the casualty it caused.

 The whole area of eastem Japan suffered indirectly from a dedine in the rate of sunsh1ne due to a

fall of vomitted ash and dust,and neighboring areas suffered directly from volcanic ash,lapilli and a

pyroclastic now.

 It…s particularly noteworthy that the whole area of Kambara village was buried mder the Kambara

pyroclastic flow which headed northward from the crater,and that villages on the ri▽er Agatsuma sust-

ained heavy damage due to the flood,which was caused by the inflow,into the river,of the Kambara

pyroclastic rocks.

 The method of examinatlon=

 The author calculated the rate of damage and casualty on the basis of the number of houses which

were washed away and the number of persons ki11ed. He compared records in old documents w1th the

geograph玉cal and geological features of the areas concerned.

 Conclusions:

 1)Falling ash spread over almost the whole area of eastem Japan,ranging from Mutsu and Hachi-

nohe玉n the north to Hitachi and Edo圭n the south;

 2)Both Agatsuma pyroclastic How and Kambara pyroclastic flow were identi丘ed by checking up

the present geographical an{i geo[ogica【features of the areas concerned;

 3)The quantity of the water which overflowed from the river Agatsuma and the running direction

of the丑ood wアere restored;and

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研究紀要(1978)

4) The authenticity of necrologies and descriptions in old documents was veri丘ed.

   3.

   Th三s paper is characterized by the following points:

   1) The disasters were examined on the basis of old records and documents;and

   2) The extent of the disasters was measured by the number of deaths mentioned in necrologies.

   Natural disasters have invariable caused people great damage and casualty over a period of hundreds

of years,with volcanic eruptions and earthquakes having recurred with aItemations of an active stage

and a resting stage,and with cold-weather damage having caused much trouble to farmers in the north-

eastern section of Japan.

   It is to be emphasized that natural disasters are unavoidable and that it is important to review past

disasters and make the best use of experiences.

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