3 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム たって...

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  • 3 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

      

    ―三年前。

     

    まるで文明が崩ほう

    かい壊

    し、長い長い時間が過ぎたかのように森に侵

    しんしょく蝕

    された街中で、彼はビル

    の壁に背を預けると、小さく息をついた。

     

    敵がまだ、こちらを発見していないことは、わかっている。

     

    ずっとこのままというわけにはいかない。だが、木々が遮しゃ

    へいぶつ

    蔽物になっているお陰かげで、すぐ

    に捕捉されるということもないだろう。

    「さあって……どれだけ時間を稼かせげばいいんだ、俺おれぁよ」

     

    どこか古めかしい言い回しだが、彼の外見は、それほどの年寄りには見えない。

     

    むしろ若い。それどころか、まだ幼さすら残している。

     

    だがそれでも、着ている服 

    ―合うサイズがなかったのだろう、ややだぶつき、要所要所

    をベルトで絞っている迷彩服は、すり切れ、色褪あせ、くたびれ、そして彼に馴な

    じ染んでいた。

    「いや、こいつは弱気ってもんか……これくらいどうにかできなきゃ、目標には逆立ちし

    たって届かねえ」

  • 45 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    呟つぶや

    きつつ、彼は手持ちの武装を確認した。

     

    位置を間違えたかのように、銃身の先の方に回転弾倉がある拳銃、その弾倉に残っている

    のは二発、手持ちは五発……この銃の最大装弾数は八発、残弾を全すべて弾倉に詰め込む。

     

    左腰にある、主武装にして切り札、神剣《布ふ

    つのみたま

    都御魂》の位置を微調整。今まで走り回って

    いたせいか、若干ズレていたような気がしたのだ。

     

    他ほかには、苦く

    ない無

    が三本。ちゃんと、ワンモーションで取り出せる位置にある。

     

    あとは 

    ―自分の肉体。

     

    奇跡的に残っていたビルのガラスに映る自分の身か

    らだ体

    を、彼は眺めた。

     

    十四歳の自分 

    ―歳とし相応の背格好だと思う。

     

    つまりは十四という歳相応の身長で、骨格で、肉付きだ。どれもこれも、平凡の域に収まっ

    ている。

     

    ただ……表情だけは、歳不相応に醒さめているような気もする。

    (……そうでもねえか)

     

    彼は憂ゆう

    うつ鬱

    な気分で思い直すと、空を見上げた。木の枝が作る天てん

    がい蓋

    で、少ししか見えない空を。

     

    森に覆おおわれた街 

    ―かつては、そうではなかったはずだ。普通の街だったはずだ。

     

    それが十年ほど前、突如として森に呑のみ込こまれた。砂漠化したところもあったし、吹ふ

    ぶき雪

    閉ざされたところもあった。

     

    ともかく、なにがしかの異変に見舞われ……それ

    0

    0

    はやってきた。

      

    ―オークやゴブリン、ドラゴンといった、幻想種たち。

     

    友好的ではなく、敵対的な存在として、それはやってきた。

     

    あとは、阿あ

    び鼻叫

    きょうかん喚

    の地獄絵図だ。

     

    当然、国は軍を出動させたが、さしたる効果は得られなかった。

     

    なにしろ、通常兵器はまるで威力を発揮しなかったのだから。

     

    連中は、動き回り、そしてひとを殺す幻想 

    ―存在するが実在しない半幽体なのだから、

    当然である。

     

    だから、と、彼は思う。

     

    自分と同じくらいの歳ならば皆、その惨劇の生き残りだ。だから、似たように醒めた表情

    をしているだろうと。

     

    だが 

    ―醒めきってなど、いないはずだ。

     

    まだ、心のどこかが熱を帯びている。まだ守りたいものがあり、まだやりたいと思うこと

    があり、まだやろうとする意志がある。

    (だから……まだだ)

     

    失ったと諦

    あきら

    めて、醒めていい状況には、まだまだ遠い。

     

    だからこうやって、戦っている 

    ―戦っていられる。

  • 6

    「……まったく、無ぶ

    すい粋

    だねえ……浸ひたってる時間もありゃしない。これで人生、一巻の終わり

    かもしれねえってのによ……」

     

    彼は薄く、覚悟を決めた笑みを浮かべた。

     

    わずかな地響きが聞こえたのはそれから、敵が姿を見せたのは、さらにその後だった。

     

    それは、ただでさえごくわずかな魔術的作用を持つ武器しか通用しない幻想種だというの

    に、そのごくわずかな武器の大部分を弾はじく強固な鱗

    うろこ

    で身を包んでいる。

     

    それは、人間程度は簡単に消し去る威力のブレスを吐く。

     

    それは、魔術すら行使する、高度な知性を持つ。

     

    それは、最低でもマイクロバス、大型ともなれば、地球史上最大の動物種であるシロナガス

    クジラをも上回る巨き

    ょく躯

    を持つ。

     

    ドラゴン 

    ―それが、現在最強と目される幻想種の名。

     

    そんな最強の幻想種が、ビルの間から、アスファルトを踏み砕いて現れる。

  • 9 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    電車が出発する直前、奏そうじろう

    示郎は慌ててホームへと駆け降りた。

    「危ねえ……寝過ごすところだった……」

     

    そう呟つぶやく彼の姿は、まだ若い。

     

    格好は、真新しいパーカージャケットに、着古したカーゴパンツ。

     

    そんな出いで立たちに、親から譲り受けでもしたのか、頑がんじょう丈な布製だがすっかりくたびれた

    バッグを肩に掛けている。

     

    まるでスポーツ少年のようであり、春という季節柄、真新しいパーカージャケットも相まっ

    て、上京してきた新入生のようにも感じられる。

     

    だが、そう思わせる格好の印象を裏切って、髪はぼさぼさだ。

     

    不潔な感じはしないし寝ねぐせ癖

    を放置しているわけでもなさそうなのだが、髪は好き放題跳はね

    ている。その上しばらく散髪をしていないのか、長髪ではないものの、鬱うっとう陶しく感じる程度

    には伸びている。

    「ま、なんにせよ、到着、と」

     

    そんな、こざっぱりした格好だというのに、どうにも野やぼ暮

    ったい雰囲気を否いなめない少年、

    奏示郎は、慌てて降りたために忘れ物でもしていないかと、一通り確認してから軽く息を

    吐いた。

     

    と 

    ―なにかを思い出したらしい。

     

    彼はしばし周囲を見回したかと思いきや、目当てのものを見つけたか、軽い足取りで歩き

    出した。

    「到着証明、と」

     

    独りごちつつ、彼は、これも真新しい携帯端末を取り出すと、見るからにぎこちない手つ

    きで、駅名が書かれた看板を撮影した。

    「でもって……アドレス帳の、メールの……」

     

    撮影時の「ぎこちない」は、ひとつアクションを起こす度たびに悪化して、もはや「覚おぼつか束

    ない」

    の領域に達している。

     

    それでもなんとかメールソフトを起動させると、眉みけん間に皺しわを刻みつつ、本文を入力開始する。

    「………………到着、だけでいいやな、うん。あいつならそれで、全部理解すんだろ」

     

    何度もフリック入力に失敗した彼は、長い沈黙の後、妥協した。

     

    伝えたいことも、どうしてそんな単語だけの文面になったかも、相手は間違いなく理解し

    てくれるはずだ。

  • 1011 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    半ば諦あきらめに似た気持ちで送信し、彼が携帯端末をポケットに戻そうとした瞬間、小さな

    音がした。

     

    本当に小さな、普通なら聞き逃してしまうような電子音。

     

    だが奏示郎は、よほど耳がいいのか、それを聞き逃さなかった。

    「あれ、新着メールか……引っかけてリロードでもしたか……?」

     

    ぶつくさと言いつつ、彼はメールを開き、文面を見た。

    『どこに? 

    わかるからいいけど、写真がやたらと綺きれい麗

    に撮れてるだけに、笑えるよね』

    「はやっ! 

    あいつ、どんだけ俺おれのメール楽しみにしてんだよ⁉」

     

    返答の早さにぎょっとして呻うめいた奏示郎は、ひどい文面を気にした様子もなく、今度こそ

    携帯端末をポケットにしまうと、改めて周囲を見回した。

     

    朝ならば、そんな悠ゆうちょう長

    な真まね似

    は許されないほどごった返していただろう。

     

    だが今は昼過ぎだ、周囲は閑かんさん散としている。

    「……たった二年しか経たってねえとは、信じられねえよなあ……」

     

    そんな人ひとけ気

    のないホームに立って、彼はそう呟いた。

     

    だがそれは、眺めている街についての呟きではない。

     

    この世界、そのものに対しての呟きだ。

      

    ―戦争が終わったとされるのが、約二年前。

     

    全世界のおよそ半分を残ざんがい骸

    にしたこの戦争は、人類間の戦争ではない。

     

    正式には『第一次異界

    0

    0

    迎撃戦』と呼称されるその戦争の敵は、その名の通り異世界であり、

    幻想生物だった。

     

    もっとも、異世界による侵イクリプス

    蝕現象だとか、今では《終エンド・ファウナ

    末の獣たち》と呼称される幻想生物

    だとか、ある種ばかばかしいような情報は、戦時中に突き止められたものではない。

     

    当然のことながら、この戦争が人類初の世界間戦争ではあるのだが、それでもそういった

    情報は、もたらされたものだ 

    ―敵と同じくお伽とぎばなし話

    に語られる存在でありながら、敵では

    なく味方である存在、つまりは騎士や魔術士、錬金術士に退魔士といった存在によって。

     

    ともあれ、そういった者たちから得た情報と、通常兵器が一いっさい切通用しない《終エンド・ファウナ

    末の獣たち》

    を害せる少量の武器を駆使して、戦争は終わった 

    「……いや、終わったってわけじゃねえのか……」

      

    ―そう、終わったわけではない。少なくとも、人類側の勝利という形ではない。

     

    単に、二年前から新たな侵イクリプス

    蝕現象が起きなくなっただけだ。

     

    世界には未いまだに夥おびただ

    しい《侵イクリプス・レルム

    蝕領域》 

    ―異世界に侵しんしょく蝕

    され、《終エンド・ファウナ

    末の獣たち》が闊かっぽ歩

    する領域があり、人類はそれを排除できていない。

     

    だが、とりあえず人類側も戦争行動をすることもなくなったので、『第一次異界迎撃戦は

    二年前に終わった』としているだけであり……《侵イクリプス・レルム

    蝕領域》を腫はれ物もののように避よけながら、

  • 1213 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    社会の再構築を始めたのも、同時期だ。

     

    そして現在、広大な生活圏を失いながら、人間社会はかつてと同じような姿を、わずか

    二年で取り戻している。

     

    もっとも、変化した点もある。

     

    それは、社会の表側に帰還した魔術や錬金術の存在であり、そして、

    「統合戦術学院《高たかまがはら

    天原》、ね……」

     

    第一次異界迎撃戦において、人類軍最大の戦果を生み出した第06混成部隊に倣ならい、全陣営

    の戦力を統合した部隊を創り出すための学院である。

    「有効性は折り紙付きなのに、どうしてできないかねえ……」

     

    遠い目をして小さく息を吐いた奏示郎は、気を取り直すようにかぶりを振って、バッグか

    ら一枚の紙を取り出した。

    「徒歩で二十分とか、あのひとのチョイスらしい、微妙に不便そうな宿だよなあ……まあ、

    俺の脚ならその半分てとこだろうが……」

     

    印刷されている地図を一いちべつ瞥

    し、そう判断した彼は、紙を折りたたんでバッグにしまうと、

    空を見上げた。

     

    まだまだ日は高い。借りた部屋についたら一休みして、学院までの道を確認しておくべき

    だろう。

      

    ―そして、日が暮れた。

     

    そこは、洋館だった。

     

    手入れなどされずに荒れ放題な庭の向こうに見える、蔦つたが外壁を覆おおい尽くしている館やかたは、

    夕暮れの西日に色濃い陰いんえい影を作っている。

     

    そんな、非常に雰囲気のある洋館だった。

    「……雰囲気ありすぎて、妖気が漂ただよってら……」

     

    その洋館の庭を歩きつつ、奏示郎は乾いた笑みをこぼした。

     

    いかにもホラー映画に出てきそうな洋館の佇たたずまいに、ではない。

     

    駅を出てからざっと四時間、街を彷さまよ徨っていたからだ。

    「……誰だれだよ、徒歩二十分とか言ったヤツ……いや、一歩目から正反対に進んだ俺が悪ぃん

    だけどさ……」

  • 1415 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    彼は愚ぐち痴

    りつつ、さすがに疲労の色濃い足取りで庭を踏破して、洋館の入り口へとたどり

    着いた。

     

    そして、頑丈そうな木製の、自家用車でもそのまま通れそうな幅を持つドアに、嘆息する。

    「筋トレ用かよ、おい 

    ―って、なんだこりゃ?」

     

    どう考えても見栄優先、生活の便利さなど無視したドアの脇わきに、木製の看板が吊つり下げら

    れているのに気付いて、彼は首を傾かしげた。

    「『魔術士連合日本支部・第六宿舎』……なんでアパートじゃなく洋館かと思ったら、こう

    いうことか……」

     

    彼にこの洋館を斡あっせん旋した人物の顔は広い。

     

    その顔の広さを活いかし、魔術士連合から、この洋館の一室を借り受けたのだろう。

     

    そうでもなければ、いささか妖気が漂うような雰囲気があるとはいえ、アパートのものだ

    としても安い家賃で、洋館の一室を借りられるとは思えないのだ。

    「まあ、中身が外見通りなら……いや、外見通りだったら、むしろぼったくりなのか……?」

     

    そもそも奏示郎に、洋館の知識などない。

     

    あるのは映画や本で得たイメージであり、実物がどういうものかなど、さっぱりわからな

    いのだ。

    「ここまできて悩んだって仕方ねえか。つーかもー、とっとと休みたいよ、俺ぁ……」

     

    奏示郎は肺を絞るようにして息を吐き出し、それから気合を入れて空気を吸い込む。

     

    休むためには部屋にたどり着かねばならず、部屋にたどり着くためには、眼前にある、い

    かにも重そうなドアを開けねばならない。

    「よし 

    ―」

     

    クラシカルなデザインのハンドルレバーを倒し、ドアに手を添え、体重を掛けて引く 

    前に、ドアは、拍子抜けするほどあっさりと開いた。

     

    それどころか、しっかりと油を差してあるのだろう、彼の手から離れても、軋きしみひとつ

    立てずに開いていった。

     

    荒れ放題な庭からして、蝶ちょうつがい番も手入れされずに錆さびついていると思っていたのだが……

    どうやら、違うらしい。

    「それにしても……本当に誰か、住んでるのか……?」

     

    玄関ホールに埃ほこりは見当たらない。だが、天てんじょう井に吊り下げられている、想像通りのシャン

    デリアに灯あかりはともっていない。だからなのか、広いホールは、やけに荒涼と感じる。

     

    もしかしたら、軋みのないドアも塵ちりひとつない床も、住人ではなく、業者がやったのかも

    しれない 

    ―むしろその方が、納得がいく雰囲気だった。

    「……ここまできて悩んだって、仕方ねえしな……」

     

    つい先ほど使った言葉を、自身を鼓こぶ舞

    するためにもう一度口にした奏示郎は、人ひと喰くい屋敷

  • 1617 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    にでも踏み込むような気分でホールに入ると、ドアを閉めた。

     

    ……ドアは、開けた時のように無音で閉まった。

     

    当然といえば当然なのだが、そのことに恐怖心を助長されるのを感じつつ、奏示郎はおっ

    かなびっくり、差し込む夕日で血のように赤く染まったホールを進む。

      

    ―ひたり。

     

    そんな、かすかな音がしたのは、彼がホール中央についた時だ。

    ―……」

     

    思わず身からだ体を強こわば張らせ、彼は立ち止まった。

     

    音がしたのは左手側、影に沈む通路からだ。

    「…………」

     

    見ない方がいいと主張する理性が、見た方がいいという衝動をかろうじて押さえ込み、

    彼は頬ほおを引きつらせて硬直した。

    (ええっと……今のはそう、なんつーか、裸はだし足で廊下を歩くような感じの音だ)

     

    ぼんやりと、ほぼ無意識にそんなことを奏示郎は思った。

     

    だが……いるのだろうか? 

    洋館の廊下を、裸足で歩き回るような人間が。それも、より

    にもよって、こんな黄たそがれ昏

    時に。

    「……いるわけねーやな、そんな奇きてれつ

    天烈な真似するヤツ。うん、今のは気のせい 

    ―」

     

    言い聞かせるように呟く、その言葉半ばで 

      

    ―ひたり。

     

    また、聞こえた。

     

    気のせいでは済ませられないほど、はっきりと聞こえた。

     

    しかも、ほんのわずかにだが、先ほどより近づいているような気がする。

    「っ!」

     

    ついに、衝動が理性を上回った。

     

    奏示郎は全身で相対するように振り向くと、肩に担かついでいたバッグを、盾のように身体の

    前に構えた。

     

    さらに腰を落とし、どの方向にでも跳とべるように膝ひざの力を抜き、しかし脚は緊張させて

    爪つまさき先立だちに。

     

    思考すらなく、身につけた技が身体を突き動かし、全すべては一瞬で完了する。

     

    そして 

    ―彼は見た。

  • 2021 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「………… 

    ―」

     

    少女がいた。

     

    暗い通路から、血のような黄昏の日ひざ差しに照らされるホールへと入ったばかりの位置に、

    少女が立っていた。

     

    あどけなさの強い、生気に欠けた顔。

     

    気の強そうな猫目なのに、翠みどり色の瞳ひとみはぼんやりとして曖あいまい昧。

     

    長い髪は、色素が薄いのだろう、受けた夕日の赤を淡くして薄うすべに紅

    に染まり、その輝きを、

    まるで霊気のように周囲に漂わせている。

     

    身に纏まとっているのは浴ゆかた衣、だが帯が解ほどけかけ、着崩れている。

     

    そこから覗のぞく肢したい体は、豊かな双丘に細い腰、程よい肉付きの脚と、やけに艶なまめかしい。

     

    昼と夜の狭はざま間

    。なにもかも、世界の常識すらも曖昧となり、ひとと、忍び込んだひとでな

    いものが出会う時間 

    ―逢おうま魔が時。

     

    時代がかったその言葉を奏示郎が思い浮かべたのは、ややあってからだった。

     

    つまりは、見みほ惚

    れていたのだ。魅入られていたのだ。

     

    そんな言葉を思い出すほどに人間味の欠けた、この、まるで亡霊のような少女に 

    「……あん?」

     

    それも束つかの間のこと、奏示郎はふと、怪けげん訝

    そうに首を捻ひねった。

    (……洋館で、浴衣……?)

     

    よくよく見れば、おかしいのはそれだけではない。

    (ええっと……古式ゆかしい日本の幽霊は、ブラだのパンツだのを着用しねえよな……?)

     

    確証があるわけではないが、しないだろうと奏示郎は判断した。

    (てか、するにしたって、しましま

    0

    0

    0

    0

    はねえだろ、しましま

    0

    0

    0

    0

    は……どんな迎合主義だよ)

     

    フリーズしていた意識が再起動を終え、思考が平常運転に戻る。

    (まあ、アレかね? 

    女の子的には、横縞は太く見える錯覚を起こすってのが重要だったり

    するのかね? 

    だとしたら、他ほかのパーツとつながってんだから、胸が大きくも見えないし、

    対比で腰が細く見えたりもしねえと思うんだが……)

     

    益やくたい体もないことを考えつつ、奏示郎は、まるで当然のようにポケットから携帯端末を取り

    出すと、少女を撮影した。

     

    シャッター音がいっそ心地良く響き、それは少女の耳にも届いたらしい。

     

    曖昧だった瞳が光を取り戻し、焦点を結んだ。

     

    おそらく今初めて、彼女は奏示郎を認識したのだろう。

     

    彼女は何度か瞬まばたきし、それから、着崩れてほとんど用をなしていない浴衣とか、微妙に

    隠れつつダイナミックに露出しているブラジャーとか、パンツとかを見下ろした。

    「…………」

  • 2223 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    ぎこちない動きで顔を上げると、彼女は無言のまま、もう一度、確認するかのように 

    有あり体ていに言えば、「とっとと消えろよ、この悪い幻覚め」という目で、奏示郎を見た。

    (気持ちはわかるんだが、俺ぁ幻覚なんかじゃねえしなあ……)

     

    お互いのため、消えることができたらどんなにいいだろうと思うが、生あいにく憎、奏示郎は魔術

    士ではない。消えるなどという芸当は、できないのだ。

     

    だから困った顔で、そのまま彼女の瞳を見返した。

    「………………」

     

    痛いほどの沈黙が、場を支配する。

     

    その中で、彼女は奏示郎が幻覚ではないと、理解したのだろう。

     

    翠色の瞳にゆっくりと涙が滲にじみ、それとは対照的に、まるで音が聞こえそうな勢いで、

    頬のみならず全身を紅潮させて 

      

    ―凄すさまじい悲鳴が、洋館に轟とどろいた。

    「先ほどは、大変お見、お見ぐ、ぐるしい 

    ―」

     

    テーブルの向こうで、彼女が深々と頭を下げた。

     

    その動きで長い髪がさらさらと前へと流れ落ち、露あらわになった首筋は、思い出しても恥ず

    かしいのか、紅潮している。

    「悪ぃ、なんとなく言ってることはわかるんだが、今ちょっと耳が馬ばか鹿になってるんで、も

    うちょい待ってくれ」

     

    テーブルの向こうで深々と頭を下げる彼女を見つつ、奏示郎は耳の付け根に、指を押しつ

    けた。

     

    彼女が悲鳴を上げたのは、この食堂らしき部屋に案内されて、かつ彼女が着替えに行って

    戻ってきてという過程を経へる前なのだから、もう数分は過去になる。

     

    だが脳のうり裏には、未だにその残響がこだましていて、声を聞き取れないのだ。

    「視界

    0

    0

    が悲鳴で埋まる、なんてのは、さすがに初めてだわ……」

     

    なんというか、頭をトンカチで殴られたような感じだったと思う。あの、視界がよくわか

    らない色で塗りつぶされる感覚は。

    「?」

    「気にせんでくれ。俺ぁ、どうも日本語が下手らしくてな、時々妙な言い回しになっちまう

    んだ」

     

    なにかを言ったわけではないが、なによりも雄弁に、表情だけで疑問を投げてきた彼女に、

    奏示郎はひらひらと手を振ってみせた。

  • 2425 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    (というかまあ、疑問を投げたいのはこっちだよ……)

     

    返答されても、今はうまく聞き取れる自信がない。

     

    だから奏示郎は、周囲を見回しつつ、声にはせずに胸きょうちゅう中でぼやいた。

     

    ホールから移動してきたここは、おそらく食堂だろう。

     

    天井には皓こうこう々

    と輝くシャンデリア、壁には現代らしく、大きなテレビとスピーカーが設置

    されている。

     

    フローリングの床は磨き上げられており、そして長大なテーブルがある 

    ―いや、あった。

     

    なにしろその大テーブルは端に寄せられており、ふたりが差し向かいで着いているテーブ

    ルは、違うテーブルなのだ。

     

    それは、卓ちゃぶだい

    袱台と呼ばれるテーブルだった。

     

    フローリングの床には、二畳だけ畳が敷かれており、そこに卓袱台が置かれているのだ。

    (なんというか……なんなんだろうな、こりゃ……)

     

    珍妙な光景ではあるが、正直なところ、奏示郎としては助かっている。

     

    こうも純度の高い洋風では、生きっすい粋

    の日本人である奏示郎は、どうにも場違いな気がして

    落ち着かないのだ。

     

    だから珍妙だろうがなんだろうが、畳に卓袱台というのは、安らげる。

     

    だが……彼女はどうなのだろう?

    (どう見たって、日本人じゃねえもん……)

     

    奏示郎はぼんやりと、素直に黙ったまま、こちらの回復を待っている彼女を見た。

     

    明るいところで見る彼女は、先ほどとは随ずいぶん分と雰囲気が違う。

     

    服装が浴衣ではなく、カーディガンにハイウエストのミニスカートと激変しているせいも

    あるだろうが、それだけでなく、気の強そうな猫目には生気がある。

     

    そして、夕日に染まっていた長い髪は、こうやって見ると、淡く赤みを帯びた白だった。

    (初めてってんなら、この髪こそ初めて見るよなあ……)

     

    染めた不自然さは見当たらないから、地毛なのだろう。

     

    きっと、珍しい髪色なのだと思う。この、桜色とでも呼べばそれらしい色の髪は。

    「…………」

     

    ふと彼女が警戒心も露わな顔をしていることで、奏示郎はようやく、自分がぼんやりとし

    たまま見つめていたことに気付いた。

    「すまん、不ぶしつけ躾だった。珍しい髪なもんで、見惚れてた」

    「……そうでしょうね。実際、珍しいですし」

    「?」

     

    不機嫌さを隠そうともしない顔で、ぶっきらぼうに言う彼女に、今度は奏示郎が疑問符を

    浮かべた。

  • 2627 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「気にしないでください。珍しいせいで、いい思い出がないだけですから」

     

    その表情に応こたえた彼女の言葉に、奏示郎はようやく察しがついた。

     

    珍しいとはすなわち異質であり、そして異質であるということは、揶やゆ揄のネタになるとい

    うことだ。

     

    彼女の見た目からして周囲はまだまだ子供社会だろうから、からかわれることは、なおさ

    らに多いだろう。

     

    しかしそんなことは、奏示郎の知ったことではない。

     

    気遣いもなにもなく、彼はただ、思ったことをそのまま口にした。

    「あんたの周りにゃ、見る目がないヤツしかいなかったのか? 

    綺麗じゃんよ、その髪。

    桜みたいな色で」

    「…………

    ―」

     

    彼女は鳩はとが豆鉄砲を喰らったような顔で何度か口を開閉し、しかし結局はなにも言わない

    まま、ただ息を吐いた。

     

    それから瞬まばたきをして、小首を傾げ、不思議なものを見る眼まなざ差

    しを奏示郎に向けると、

    「……もしかして、ナンパですか?」

    「俺ぁそんなに軟派じゃねえよ 

    ―っと、普通に聞き取れるようになってるか」

     

    そんなことを言い出した彼女に渋じゅうめん面

    になるも、聴覚が正常に戻ったのに気付くと、彼は

    出し抜けに居いず住

    まいを正した。

    「今日からここで世話になる、桜さくらが河

    奏示郎だ。よろしく頼む」

    「展開が早すぎて、なにがなんやら……」

     

    折り目正しく一礼する奏示郎に、彼女は困惑顔になった。

     

    名前は大切であるが、耳が治るなり即座に名乗った彼の行動は、極端すぎるのだ。

     

    だが、無礼よりはずっといい。彼がこの洋館に住まう以上、長い付き合いになるし、なに

    より性別が違うのだ。それを考えれば、堅苦しいほどに礼儀正しい方が、安全だろう。

     

    そう思い直した彼女は、彼に合わせるように居住まいを正すと、名乗りを返した。

    「初めまして、フィオレンツァ・ラヴェリーです。魔術士連合日本支部、第六宿舎へようこ

    そ。歓迎いたします」

    「ご丁寧に、痛み入る 

    ―で、だ。フィオレンツァ」

     

    厳格な言葉は最初だけ、すぐに元の砕けた口調に戻った彼に、フィオレンツァは軽く笑み

    を浮かべて言った。

    「フィオレ、で、いいですよ。言いにくいでしょう? 

    長ったらしくて」

    「長いのは否ひてい定しないが、俺ぁ気に入ったよ。特に最後の『ツァ』がいい」

     

    迷うことなくそう言い切った奏示郎に、フィオレンツァは再び、不思議なものを見る目に

    なった。

  • 2829 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「斬新な意見……初めて言われました、そういうこと」

    「この調子じゃ、『初めて』で館が溢あふれかえっちまいそうだ 

    ―まあ、それはさておき、

    フィオレ」

    「……なぜ、そこまで言って略しますか……」

    「親愛の証あかしとしてだ」

     

    気の抜けた顔で半眼となったフィオレンツァに、これもまた迷いなく言い切ってから、

    奏示郎は続けた。

    「それもさておき、だ。さっきのありゃ、なんなんだ? 

    夢遊病とか、そういった感じのな

    にかか?」

    「あれは、ですね……」

     

    先ほどの、半裸で館内を徘はいかい徊

    するという醜しゅうたい態

    を持ち出されたフィオレンツァは、赤面し

    つつ、恨みがましい視線を奏示郎に向けた。

    「気持ちはわかるし、根掘り葉掘りは趣味じゃねえんだが……俺もこれからここで暮らすん

    だ、知っておかにゃあならんだろ? 

    あんたがうろついてるってわかってれば、びっくりし

    て寿命を減らさずに済むんだし」

     

    そんな視線を受けた奏示郎は、困り顔で、弁明するように言った。

     

    奏示郎とて、こんな扱いにくい話題は、できれば触れたくない。

     

    だが、こんないかにも幽霊が出てきそうな洋館で暮らす以上、フィオレンツァにそういう

    性せいへき癖

    だか趣味だかがあるのなら、はっきりさせておきたいのだ。

    「…………」

     

    そういった事情はわかったが、それでもフィオレンツァは躊ちゅうちょ躇した。

     

    確かに、違う意味で性癖だか趣味だかのことだが、そういったものを、出会ったばかりの

    相手に教えるのは、いささか憚はばかられる。

     

    だが、彼もここで暮らすのだから、遅かれ早かれ露見するだろう。

    「…………」

     

    選択肢は少ないし、どちらを選ぶかも決まっている。

     

    それでもなお、抗あらがうように沈黙を続けていたフィオレンツァは、やがて観念したように

    息を吐いた。

    「……この部屋、一番環境がいいんですよ」

    「? 

    さっぱりわからねえんだが……そりゃあ、魔術とか、そういったことか?」

    「いえ、AV設備とか、そういったことです」

    「確かに、金かけてんなー、とは思うが……」

     

    奏示郎は、訝いぶかしげな顔つきになった。

     

    答えそのもののような気もするし、まだその近辺のような気もする。

  • 3031 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    ともあれ奏示郎は、答える気になったらしい彼女の、言葉を待った。

    「それで先日だったんですよ、発売日が」

    「……なんの?」

    「ゲームです」

    「…………」

     

    フィオレンツァの答えを聞いて、奏示郎は遠い目になった。

     

    つまり彼女は、新作のゲームを買い、設備が整っている食堂でやっていたということなの

    だろうが……ここは魔術士連合の宿舎で、そこに住んでいるということは、彼女は魔術士の

    はずだ、今ひとつ、イメージがつながらない。

    (いや、まあ……魔術士だって人間だ、ゲームをしたって不思議はねえけどよ……)

     

    そういった理解はあるのだが、なんとなく釈しゃくぜん然

    としないのだ。

     

    だがフィオレンツァは、彼のそんな胸中など知る由よしもなく、気恥ずかしげに続けた。

    「それがすこぶる面おもしろ白

    くて、つい熱中してしまって……さすがに限界を感じて部屋に戻ろう

    としたら、あなたとばったり、と、いった次しだい第

    でして」

    「打ち込み始めたら限界まで止まらないってのは、魔術士っぽいけどな……」

     

    半眼となり、奏示郎は呻くように言った。

     

    魔術士とはつまり、研究者だ。昨今は戦場に出ることが多いものの、基本はあくまでそこ

    にある。

     

    そんな人間が熱中し始めたら、時間を忘れてやり続けても不思議はない。

    「とりあえず、これからは俺がいるってことは忘れないようにしてくれ。一応言っておくが、

    俺ぁ男だからな? 

    あんな格好でうろつかれたら、目の毒だ」

    「ええ、留意しておきます。とはいえ、二にてつ徹

    できるほどの傑作が、そうそう出るとは思えま

    せんけど」

     

    できるものなら、そうそう出てほしい。

     

    そんな感情をありありと滲ませて言うフィオレンツァに、奏示郎は溜ためいき息

    をついた。

    「誰か、止めようってヤツぁ、いなかったのかよ……食堂で延々ゲームやってりゃ、イヤで

    も目に入るだろうに……」

     

    魔術士が『二徹』というからには、それは正まさしく、寝しんしょく食

    を忘れてやり続けたということ

    なのだろう。

     

    ならば当然、誰かが気付くはずだ。

     

    もっとも、住人の全員が全員、食事もせずに、自室に引きこもっていれば話は別だが……

    (案外、そうかもな。なにしろ全員魔術士なんだ、そういうことがあっても、不思議じゃねえ)

     

    さすがにいつもそうだとは思わないが、時々そうなることくらいはあるだろう。

     

    だが、フィオレンツァの応えは、そんな奏示郎の想像とはまったく別の、そして、もっと

  • 3233 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    単純なものだった。

    「誰かもなにも、ここの住人は、さっきふたりになったばかりですよ?」

    「……俺が言うのもおかしな話だが……」

     

    まるでなにも感じるものがないといった様子のフィオレンツァに、奏示郎は頭痛でもする

    かのように、額ひたいへと手をやって嘆息した。

    「この状況に、危機感とか感じねえのか? 

    どう考えたってマズいだろ? 

    さっきも言った

    が俺は男で、あんたは女だぞ。なんだったら、可かわい愛

    いって形容詞を付け加えてもいい」

    「可愛い男の子なんですか?」

    「あんたが男の子だなんて、言った覚えはねえな」

     

    ボケを即座に切り返してのけた奏示郎に、フィオレンツァは軽く笑ってみせた。

     

    それとは対照的な渋面になると、奏示郎は、

    「俺ぁ、そんなに的の外れたことを言ってるかね?」

    「はい、言ってますね」

     

    ころころと、鈴の音ねのような笑い声を漏もらしつつ、フィオレンツァは笑みを深めた。

    「だってあなた、そういうことができるタイプじゃないでしょう? 

    月並みですけど、そう

    いうことをしようってひとは、わざわざそんな注意をしたりなんかしません」

    「……魔が差すって言葉を知らねえのか?」

    「それを気にし始めたら、相手が誰でも、ここに何人住んでいても、なにもできなくなって

    しまうじゃないですか」

    「いや、まあ、そうだが……そうなのかなあ……?」

     

    どうにも釈然としない面おもも持ちで、奏示郎は首を捻った。

     

    なにかが間違っていることはわかる。なのに、なにが間違っているかを指摘できないのだ。

     

    そんな彼を見て、フィオレンツァはますます笑みを深めると、こんなことを口にした。

    「最大で、三十倍です」

    「あんたの、唐突さがか?」

    「カイロス倍率が、です」

     

    得意満面で言い切る彼女に、奏示郎は眉まゆね根を寄せた。

      

    ―カイロスバイリツ。

     

    知らない言葉だった。脳のどこを探しても、見つからない。

    「……いきなり専門用語を持ち出されても、さっぱりわからんのだが……」

    「……え?」

     

    だから素直に白旗を振った奏示郎に、フィオレンツァは愕がくぜん然とした顔で硬直した。

     

    それからまじまじと、信じられないという顔で奏示郎を見る。

    「 

    ―奏示郎さん。カイロスとクロノスは、習ったはずですが……」

  • 3435 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「そんなこと言われても……俺ぁ小学校中退だし……」

    「いえ、そういうことではなくて、ですね……」

     

    混乱する思考をまとめるように、額に立てた指を当てて、フィオレンツァは呻いた。

     

    しているのは、あくまで魔術士としての教育課程の話であり、小学校中退とかどうだとか、

    そういった話はしていないのだ。

     

    そして魔術士連合の宿舎に入居できるということは、連合の教育規格において、相応に優

    秀な魔術士であるということだ。ならば、クロノスとカイロスについて知らないはずがない。

    なにしろ、言った通り初等課程で習うものであり、その後もついて回る基礎の基礎なのだから。

     

    もっとも、名家のごり押しという線も 

    (……ないですね。宿舎に入れるというのは、そう大した箔はくでもないですし、そもそも奏示

    郎さんは名家の子息というより、ちゃきちゃきの江えど戸

    っ子ですし……江戸っ子。いいですね、

    実にいい 

    ―)

    「なんかこう、貶けなされてんだか褒められてんだか、判断しづらいことを考えてねえか?」

    「いえ、まったく」

     

    内心を見透かしたことを言う奏示郎に、フィオレンツァはさらりと応えた。

     

    だからといって奏示郎に信じた様子はなく、しばし彼女を見据えた後、口を開いた。

    「まあ、いいけどな 

    ―ところで俺、魔術士じゃねえぞ?」

    「ああ、なるほど。道理で 

    ―え?」

     

    つい先ほど見た表情で、再びフィオレンツァは硬直した。

    「……魔術士じゃ、ない?」

    「言いたいことはわかるが……知り合いに頼んだら、ここを紹介されたんだ。連合としても、

    部屋を遊ばせておくよりかはマシと思ったんじゃねえかな?」

    「……こんな時代ですし、連合も開明化してるというわけですか……」

     

    そう考えれば、筋は通る。

     

    魔術が表に出て十年以上になるし、いわゆる市民権というものも獲得している。

     

    ならば確かに、宿舎の部屋が余っていて、信頼できる筋からの頼みなら、貸すことがあっ

    ても不思議ではない。

    「納得できたか? 

    納得できたなら、さっきのカイロスバイリツってのがなんなのか、説明

    してほしいんだが……いや、別に魔術士的に部外者に教えるものじゃないってんなら、無理

    強じいはしねえけど」

    「正直、今さらなんですけど……」

     

    気乗りしない顔で、フィオレンツァはそう前置きした。

     

    とはいえ、知らないものを知ろうとする姿勢は、嫌いではない。むしろ好感すら覚える。

     

    だから軽く脳内で内容をまとめて、彼女は続けた。

  • 3637 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「私の魔術構築速度は平均の三十倍、その秘ひけつ訣

    はカイロス倍率です 

    ―と、いう意味です。

    つまりは、あなたがなにか良からぬことをしようとしても、即座に消し炭にできますよ、と、

    言っていたわけです」

    「……なる、ほど……」

     

    まるでピンときてない様子で、奏示郎は呟いた。

     

    だが、聞いた手前、とりあえずわかった振りをしました、というわけでもない。

     

    目を閉じ、腕を組み、首を捻り、しばらく押し黙ってから 

    ―なにやら、自分にとって

    一番適切な言葉を見つけたらしい。

     

    ぱっと目を開くと、先生に問題の解答を、自信満々に言う小学生めいた顔で、口を開いた。

    「つまり、パンチスピードが三十倍ってことか。威力は変わらねえけど、通常一発のところ

    を、三十発殴れる。で、それだけ殴れる秘密は、カイロス倍率」

     

    そんな顔の割には、先の説明と、大して違いのない解答だったが。

    「ええ、そんな感じの理解でいいです。とはいえ、事が魔術というか、実際の動きを伴わな

    いものに限るので、少々違いますが」

    「随分と違う気もするが……まあ、イメージはできた。なるほど、フィオレは凄すげぇ魔術士な

    んだな」

    「さあ? 

    まあ、この時期にこの街に来たということは、奏示郎さんは《高たかまがはら

    天原》の新入生

    なんでしょう? 

    なら、すぐにわかりますよ」

     

    素直に感心する奏示郎に、秘密めかしたことを言い、フィオレンツァは立ち上がった。

    「もう少し話していたい気もしますけど……そろそろ寝ないと、明日、起きられませんから」

    「そういやフィオレは、二徹だったか……」

     

    まだ日が暮れたばかりという時間だが、なにしろ彼女は極きわめて寝不足だ。

     

    納得し、奏示郎も彼女に続いて立ち上がった。

    「それじゃ、おやすみ、フィオレ。また明日」

    「ええ、おやすみなさい、奏示郎さん。また、明日」

     

    きっと、この洋館にひとりで暮らしていた時間が長かったのだろう。

     

    言葉を返したフィオレンツァの顔は、どうにも面おもは映ゆそうなものだった。

     

    軽い音を立てて閉じたドアに、背を預け 

    「凄い魔術士、ですか……」

     

    フィオレンツァは、呟いた。

     

    平均的な魔術士より、優れているという自信はあった。

  • 3839 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

     

    確認したことはないが、おそらく同学年の、いや、同年代の魔術士の中では、トップクラ

    スの実力だという自負もある。

     

    そしてそれを、他人に言われるのは、初めてというわけではない。

     

    だが、あそこまで素直に、純粋に、邪気なく感心されたことは、初めてだったのだ。

      

    ―フィオレは凄ぇ魔術士なんだな。

     

    思い出した彼の言葉に頬が緩ゆるむのを感じつつ、フィオレンツァはふらふらと歩いて、ベッ

    ドに倒れ込んだ。

      

    ―桜河奏示郎。

     

    悪い人間ではないと思う。

     

    それなりに勇気が必要だった、ゲームをやっていて二日ほど寝ていない、という告白でも、

    彼は馬鹿にするような真似をしなかった。

     

    彼はただ、ごく当たり前に、趣味に没頭して徹夜したと受け止めて、そういう注意をして

    きた。

     

    異性であるということを含めても、他の人間が入居してくるよりは、ずっと気楽な相手で

    あろう。

    「それに……」

     

    続けようとして、フィオレンツァは困ったような笑みを浮かべた。

     

    いろいろと、ありすぎたのだ。

     

    髪の色を褒めてくれたこととか、古くさいが妙に似合っている口調とか、打てば響くよう

    な会話とか……つまりは、隣人として、とても好ましい。

    「……まあ、文字通りの隣人というところに、作為を感じますけど……」

     

    そっと息を吐いて、フィオレンツァはベッドサイドの壁を見やった。

     

    そこに貼はり付けた、まるで、水を掬すくうような格好で描かれた北斗七星の描かれた旗 

    北ベネトナシュ・フラッグ

    斗揺光破軍星旗の裏から、静かな夜だからこそなんとか聞き取れるくらいの、小さな音が

    している。

     

    彼 

    ―桜河奏示郎の部屋が、隣のせいだ。

     

    この、空あき部屋だらけの洋館で、性別も違うのに、隣室なのだ。

     

    フィオレンツァが、ただの魔術士連合の構成員ではない、この極東地区における魔術士

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    連合の影響力拡大のために送り込まれたスタッフである

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    、ということを考えれば、なにか

    しらの意いと図を感じずにはいられない事態である。

    「……願わくば、奏示郎さんと争うことなんて、ありませんように」

     

    小さく呟いて、そしてフィオレンツァは、目を閉じた。

  • 41 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

      

    ―三年前。

    「冗談じゃねえぞっ!」

     

    腹部に血の滲にじむ包帯を巻いた男は、簡易ベッドで半身を起こして怒声を張り上げた。

    「暴あばれるんじゃないよ。アンタがせっかく塞ふさいだ腹の穴を開くのは勝手だがね、医療品にゃ

    限りがあるんだ、無駄にするんじゃないよ」

    「うぐ……」

     

    中年女性の看護師にそう言われたせいか、それとも腹部の傷が痛んだのか、彼は呻うめくと

    口を閉ざした。

     

    彼 

    ―そう、彼だ。

     

    年の頃は、まだ若い。二は

    十歳をいくつか過ぎた程度、そんな頃こ

    ろあ合

    いだろう。

     

    着ているのは、迷彩服。上半身は手術のために着ていないが、ズボンは森林用のパターン

    がプリントされた迷彩服だ。

     

    そしてそんな彼が横たわる簡易ベッドは、病室にあるわけではない。

     

    強力なライトで内部を皓こう

    こう々

    と照らされている、トレーラーにつながれた、移動式手術室の

    中だ。

    「……納得なんて、するもんかよ。あいつはまだガキだぞ。それに時間稼かせぎをさせるなんざ、

    まるで話になってねえじゃねえか」

    「そうだな。まるで話になっていない、まったく以もってその通りだ。あんな子供を死地に向かわ

    せるなど、順番が間違っている。年寄りから死んでいくのが、正しい順番というものだろう」

     

    力ない彼の呟

    つぶや

    きに応こたえたのは、手術室の壁に背を預けていた男だった。

     

    いっそ凶悪と呼んでも差し支えのない強こわ

    もて面

    に、髭ひげを蓄えた、壮年の男。

     

    だがその声には深みがあり、冷静で、理知的だった。

    「そこまでわかってんなら、どうしてあいつに行かせたよ? 

    ああ、あんたはボスだ、代わ

    りに行けだなんて言わねえがな、俺おれでも誰だれでも行くべき奴やつはいるだろうが……!」

     

    先に言った通り、納得するつもりなどないのだろう。

     

    忸じくじ怩

    たるものを滲ませて、震える声を出した彼に、壮年の男は小さく呟いた。

    「 

    ―『どうして』?」

     

    手術室内の温度が下がったと誤認するほど、その一言は容よう

    しゃ赦

    なく冷たかった。

    「それを聞くか? 

    お前はそれを、そんなこともわかっていないのか?」

     

    まるで呪じ

    ゅそ詛

    のように言い、壮年の男は彼へと歩を進めながら、継ぐ。

  • 4243 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「決まっているだろう 

    ―」

     

    言葉と同時、手が出た。

     

    壮年の男は彼の顔面を掴つかむと同時、その頭を枕

    まくら

    に叩たたきつける。

    「俺たちが、弱いからだ。無力だからだ。だから、強いという理由だけで、子供を死地に

    送り込む羽目になった」

     

    喉のどから搾しぼり出すように出された声は、決して激してなどいない。むしろ淡々としていた。

     

    だがそれでも、だからこそ、その奥にある感情が窺

    うかが

    えた。

     

    それは、激怒などという言葉ではまるで足りない、強い強い怒りだ。

     

    おそらくこの壮年の男は、なにもかもに怒っている。弱い自分に、無力な他人に、子供を

    死地に送り込まねばならない世界の在り方に、およそ全すべてを呪うように怒っている。

    「……オーケー、ボス。その通りだ。あんたのその怒りは正しい、嫌になるほどな」

    「わかったら、もう口を開くな。腹の傷も開かせるなよ」

     

    つまらなそうに言ってから、壮年の男はようやっと、彼の頭を枕へと押しつけていた手を

    放した。

     

    そして外へと続くドアへと向かいながら、看護師に問いかけた。

    「撤退を開始する。こいつはもう、動かしても死にゃあせんのだろう?」

    「それだけは、保証するよ」

    「……それだけしか保証がないのかよ……」

     

    げんなりとした彼の言葉に、それだけあれば御の字だと言わんばかりに皮肉っぽい笑みを

    浮かべると、壮年の男はドアを開いた。

     

    まだ高い日の光が差し込み、当たり前のことながら、外界が見えるようになった。

     

    その外界の光景は街 

    ―いや、もはや街ではない。街だったものだ。

     

    なにしろ、森に覆おおい尽くされている。

     

    ある日、突然こうなった。フィルムを繋つなぎ間違えたかのように、一瞬で緑に侵

    しんしょく蝕

    された。

     

    それは、この街に限ったことでもなければ、珍しいことでもない。

     

    森か、砂漠か、吹ふ

    ぶき雪

    か、あるいは得体の知れない遺い

    こう構

    か、そんな程度の違いはある。

     

    だが、一瞬でなにかに街が侵蝕されるという現象は、珍しくない。

     

    世界中のどこででも起きていることである。

     

    曰いわく、『侵イ

    蝕現象』。

     

    始まりは、およそ十年前 

    (……いや、数百年前、か?)

     

    森を睨にらみ据え、壮年の男は内心で訂正した。

     

    明白に、隠しようもなく大規模に侵イ

    蝕現象が起き始めたのは、およそ十年前だ。

     

    しかし、人知れず小規模に起き続け、お伽

    とぎばなし話

    に語られていることから考えると、数百年

  • 4445 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    前は昔から起きている。

     

    つまり侵イ

    蝕現象は、ただの環境変化現象ではない。

     

    それ以上のことを伴う。

     

    たとえばそれは、オークやゴブリン、オーガ、ドラゴンといった幻想生物たちのことだ。

     

    そして、そういったものたちが出現するならば 

    「隊長殿。騎士隊

    0

    0

    0

    の移動準備、完了しました。魔術士団

    0

    0

    0

    0

    の準備が遅れているので、その手伝

    いに回しています」

     

    手の平が見えないようにした海軍式の敬礼をしつつ報告してくる相手 

    ―金きん

    ぱつへきがん

    髪碧眼で、

    傷や凹へこみが戦歴を物語る甲

    かっちゅう冑

    を身に纏まとう、絵本から抜け出してきた騎士そのものである

    相手へと壮年の男は頷

    うなず

    き、内心でそっと溜ため

    いき息

    をついた。

     

    そう。オークやゴブリン、オーガ、ドラゴンといった幻想生物たちがいるならば、それに

    対応するものもまた、いるのだ 

    ―華々しく戦う騎士、超常の技を振るう魔術士、伝説に

    謳うたわれる武具を鍛きたえる錬金術士といったものたちが。

    『隊長』と呼ばれる通り、壮年の男が率いる部隊には、そういったものたちもいる。

     

    しかしそれは、最初からそうだったわけではない。

     

    身に纏う迷彩服が示す通り、彼はただの、そして真っ当な軍人だった。部下もまた、全員

    そうだった。

     

    だが、敗走を重ね、数の減った他ほかの部隊と合流を繰り返す内に、こうなっていた。

     

    第06混成部隊 

    ―それが彼の率いる部隊の名前だ。同時、おそらく現状唯一の、軍人、騎士、

    魔術士、錬金術士といった、ありとあらゆる戦う者たちが揃そろっている部隊の名でもある。

    (十年も戦い続ければ、どこもこうなりそうなものなのだが、な……)

     

    およそ十年前、隠いん

    ぺい蔽

    しようもなく世界の表側のものとして侵イ

    蝕現象が起きて以来、彼だけ

    でなく、表も裏もなく、全ての戦える人間は戦っている。戦い続けている。

     

    だというのに、全所属の人員が揃っている部隊は、第06混成部隊のみなのだ。

     

    軍人は、幻想の住人たちに、不信感を持っている。

     

    宗教を母体とする騎士たちと、彼らから迫害され続けた魔術士たちは、相あ

    いい容

    れない。

     

    錬金術士たちは、そのどちらにも武器を供給しているが故に、どちらからも蔑べ

    っし視

    されている。

     

    この期ごに及およんでなお、それは改善されていない 

    ―控え目に言ったとしても、人類の危機

    だというのに、だ。

    「……隊長殿?」

    「いや、なんでもない」

     

    物思いに耽ふけっていたせいで、返事が遅れたのだろう。

     

    怪けげん訝

    そうな顔で問うてくる騎士に、壮年の男はゆるゆると首を振ってから、続けた。

    「魔術士団を急がせろ。代替品が存在しないものでもない限り、物資は全て破棄だ。どうせ、

  • 4647 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    負傷兵を回収するスペースが必要になる」

    「了解です。その、隊長殿……」

     

    即答した騎士はそれだけで話を終えず、実に歯切れ悪く言葉を継いだ。

    「増援の許可を 

    ―」

    「許可はできない」

     

    その要請を、壮年の男は皆まで言わせずに切り捨てた。

    「志願者のみです。そして皆、許可がないなら、離隊してでも、と」

    「離隊も、許可はできない」

     

    どこまでも冷徹に言い、男は騎士を見据えた。

     

    そして一度だけ、疲れ切った溜息をこぼすと、

    「あいつはまだ未熟だ、加減ができん。我々が戦場にいたところで、足手まといにしかなら

    ん 

    ―以上だ」

     

    感情の抜け落ちた声で、誰よりも自身を納得させるように、理屈を口にした。

     

    それも束つかの間、意識を切り替えたのだろう、壮年の男は力のある声を出した。

    「これより撤退戦を開始する。一秒でも早く、ひとりでも多く、侵イク

    リプスレルム

    蝕領域から脱出すること

    だけを考えろ」

    「……了解」

     

    割り切れない、納得できない、やりたくない。だが、そうするしかない。

     

    そういった感情をありありと滲ませ、騎士は頷いた。

     

    統合戦術学院《高たか

    まがはら

    天原》 

    ―第一次異界迎撃戦において最大の戦果を上げた第06混成部隊

    に倣ならい、魔術士や騎士、錬金術士に兵士といった、全陣営が参加する部隊を編成し、それに

    最適な戦術を模索するための場、というのが、公式な説明である。

     

    だが、中に入ってしまえば、

    「ただの、学校じゃねえか……」

     

    そう呟き、午前の授業を終えた奏そうじろう

    示郎は、校舎内にある食堂の長机に突っ伏した。

     

    午前の授業というのはつまり 

    ―授業だったのだ。

     

    現代文に数学、歴史に英語といった、ごくごく普通の授業だったのだ。

    「そうは言うがな、桜さくらが河

    。戦うしか能のない者しかいなくなってしまっては、勝とうが負け

    ようが、先がなくなってしまうだろう」

     

    奏示郎のぼやきに応えたのは、正面の席に座る男だった。

     

    名は龍りゅうせん泉

    愛まなひこ彦

    といい、まるで岩のように重厚な体格に、どっしりとした佇たたずまい、そして

  • 4849 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    威圧的なスキンヘッドの頭と、同学年とは思えず、また、堅気の人間とも思えない。さらに

    は《高たかまがはら

    天原》の制服 

    ―軍服めいたデザインの制服のせいで、よくわからない凄すごみを持つ

    男である。

     

    事実彼は、奏示郎と同学年なのだが……歳としは十九歳だ。

     

    十年ほど続いた第一次異界迎撃戦のせいで、就学年齢が当てにならない昨今、それは別段

    珍しいことではない。

     

    そして威圧的なスキンヘッドも、どうということはない、ただ実家が寺だから、剃ていはつ髪

    して

    いるだけなのだ。

    『こんな御時世だ、寺に救いを求める衆しゅじょう生も多い。ならば坊主は坊主らしくあった方が、

    たとえ役立たずといえど、安心できよう』

      

    ―とは愛彦の弁であり、実に見上げた心意気だ。

     

    しかし周囲がそんな理由を知るはずもなく、結果、不良と思われて敬遠されてしまってい

    たのが実情である。

     

    奏示郎も奏示郎で、どうにも周囲に馴なじ染

    めず浮いていたので、孤立したもの同士、なんと

    なく一緒にいるという次しだい第だった。

    「そりゃそうなんだが……こういうのは久し振りで、どうにも疲れちまっていけねえ」

     

    不作法にも長机に突っ伏したままぼやいた奏示郎は、ふと顔を上げた。

    「そういや龍泉さんは 

    ―」

    「違う違う、桜河殿。マナティ、りぴーとあふたーみー?」

    「マナさんで勘弁してくれ……あんた、マナティほど愛あいきょう嬌ねえぞ」

     

    茶目っけか本気か、そんなことを言う愛彦に奏示郎は溜息をつくと、もう一度、尋ね直した。

    「マナさんは、いつまで学校に行ってたんだ?」

    「うむ、高校一年までだ」

     

    マナティと呼ばれたかったのか、愛彦はどことなく肩を落として答えた。

     

    だがそれも束の間、当時を思い出したのか、懐なつかしそうに目を細めて言葉を継ぐ。

    「当時は寺を継ぐのがイヤでイヤでたまらなくてな、アフロにしておったわ。若気の至りと

    いうのは、恐ろしいものよ……」

     

    その言葉に、奏示郎は目をどんよりとさせた。

    「……アフロに至る若気って、どんなんだよ……?」

    「お主ぬしの髪がアフロに向いておらなんだからといって、拗すねることはない。その蓬ほうはつ髪、似合っ

    ておるではないか。無論、アフロにした私の足下にも及ばんがな」

     

    からからと豪快に笑うと、愛彦は立ち上がった。

    「さて、私はそろそろ行かねばならん。ひとを待たせておるでな」

    「あいよ、達者でな 

    ―って、ちょっと待ってくれ。『ほうはつ』ってなんだ?」

  • 5051 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「お主のような、ぼうぼうに伸び放題の髪のことよ」

     

    無駄に重々しく説いて立ち去る愛彦を見送ってから、奏示郎は頬ほおづえ杖

    つくと、呟いた。

    「……味わい深いヤツだな……」

    「 

    ―今の、ご友人がですか?」

     

    呟きに言葉を返され、奏示郎は視線をそちらに向けた。

    「ああ、フィオレか 

    ―その通り。縁があったら紹介するよ」

     

    奏示郎と同じように、彼女も、制服を着ている。

     

    それもまた、どことなく軍服めいた雰囲気を漂ただよわせているものの、とどのつまりはブレ

    ザーであり、『ただの学校』感に拍車をかけていた。

    「隣、いいですか?」

    「おう、いいぞー」

     

    気の抜けた声で返答する奏示郎に、フィオレンツァは椅いす子に座りつつ、意外そうな声を

    出した。

    「やけに、疲れているようですが……なにか、ありましたか?」

    「みんなで席に座って授業、なんてのは久し振りでな……イヤなわけじゃねえんだが、とに

    かく疲れちまったよ……」

    「イヤじゃないのなら、すぐに慣れますよ……たぶん」

     

    軽い笑みを浮かべたまま、小気味良い音を立てて割り箸ばしを割ると、フィオレンツァは蕎そば麦

    を手たぐ繰

    り始めた。

    「最後の『たぶん』ってのを、聞き逃のがす俺じゃねー」

     

    至って自然、危うげなく箸を操あやつる彼女を眺めつつ、奏示郎はのんびりと続けた。

    「……別に、俺に気を遣う必要はねえぞ?」

     

    おそらくフィオレンツァも自分と同じく新入生だろうが……彼女は自分と違って目立つし、

    社交性に問題があるとも思えない。

     

    ならば、既すでに気の合う友人候補のひとりやふたりはいるだろうし、昼休みともなれば、

    奏示郎と愛彦のように、親しんぼく睦を深めているのが普通というものだろう。

     

    だが彼女は、そんな奏示郎の言葉にゆるゆると首を振ると、

    「そういうつもりはないですよ 

    ―と、までは言いませんけど、それほどはないですよ。

    午後からは戦闘訓練なので、ほとんどのひとは、そっちの所属 

    ―何人かで部隊を作って

    いるんですけど、そっちの方に行っちゃって、私もひとりでしたから」

    「……ふぅん……やっぱり連合とか騎士団とか出身だと、そういうのがもう決まってるもん

    なのか……」

     

    フィオレンツァを見つつ、奏示郎は気のない様子で呟いた。

     

    去り際に『ひとを待たせている』と言った愛彦も、そういうつながりがあるのかもしれない。

  • 5253 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「……うん?」

      

    ―ふと、疑問を覚えて、奏示郎は改めて口を開いた。

    「フィオレは、そういった所属部隊は決まってねえのか?」

     

    そうだ。フィオレンツァは歴れっきとした魔術士連合所属の魔術士であり、腕も立つはずだ。

     

    なら、所属していないはずがない。

    「決まってますよ。ただ、いろいろと問題がありまして、まるで人員が揃ってないんですよ」

     

    あっさりと応えるフィオレンツァに、奏示郎は確認するように言った。

    「つまり、取り立てて急ぐ必要がない、と」

    「ええ。事前のミーティングとかそういうのはないので、ゆっくりしていられます 

    ―人数

    が揃ったところで、部隊長が部隊長なので、やっぱりやりそうにないですけど」

    「真まじ

    め面目に取り組むのが悪いとは言わねえけど、メシの時間まで削けずってやるのもどうかと

    思うがな。そんなに張り詰めてたら、すぐにぷっつりいっちまうよ 

    ―それはさておき」

     

    気合を入れるように、大きく息をひとつ。

     

    弛しかん緩

    していた雰囲気を一掃してから、奏示郎は続けた。

    「急いでねえってんなら、頼みがあるんだが、聞いてくれねえかな?」

    「なんでしょう?」

    「職員室がどこにあるか、教えてくれ 

    ―宿舎を斡あっせん旋

    してくれたひとの関係でな、挨あいさつ拶

    回り

    をしなきゃならんのだ」

     

    統合戦術学院の設立は、第06混成部隊の影響が強い。

     

    もっとも、その第06混成部隊は名前通りの寄せ集め部隊であり、第一次異界迎撃戦の終了

    とともに、解散している。

     

    だから、いるのだ 

    ―元第06混成部隊所属であり、今は統合戦術学院に、教師待遇として

    異動となったものも。

     

    そして、やや小柄な体たいく躯に、邪魔になったら適当に切っているだけかのような、クセのな

    い黒髪の男 

    ―巴はずみ澄

    玖くら

    せ良世も、そんな英雄のひとりである。

    「……メシの時間まで削らにゃならんとか、しまいにゃぷっつりキレちまうぞ……」

     

    だがその英雄は現在、書類の山に埋もれるようにして、愚ぐち痴をこぼしていた。

    「あーもー……なんで招しょうへい聘

    受けたかな、俺は……」

     

    ぶつぶつと過去の自分を呪いつつ、次々と書類に目を通していく。

     

    備品の申請書、新装備の案内、そしてなにより季節柄、玖良世の部隊への入隊推薦書が多い。

    「知ーらーねー……こんな紙切れで、なにをわかれって言うんだ。俺の部下は、俺が自分の

  • 5455 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    目で見て決めるんだよ」

     

    その推薦書の山を、一読することすらなくまとめてゴミ箱行きにするという暴挙に出て、

    ようやく玖良世は一息ついた。

    「よし、片付いた」

    「……よし、ではないと思いますが……」

     

    とてもいい笑顔を浮かべる玖良世の背後で呻いたのは、フィオレンツァだった。

     

    彼女はなんともやるせない顔になると、盛大に溜息をついた。

    「……第06混成部隊の切り込み隊長、《地カズィクル・ベイ

    祇水晶剣》ともなれば、かなり上の方からの推薦書

    もあるでしょうに……いいんですか?」

    「かなり上の方の連中なんざ、顔も知らねえしな。そんなの信用できるかってんだ。そもそ

    もお前も、知り合いからの推薦だからって取ったわけじゃねえぞ」

     

    まるで悪びれることなく言い切ると、玖良世は続いて、新装備の案内書をまとめ始めた。

    「これ、新装備。使うのはお前たちなんだから、米まいばら原

    と相談して決めてくれ。それとラヴェ

    リー、なんだその、いかにも解説的な発言は。つーかどうしてこう、プロパガンダ用の通り

    名ってのは恥ずかしい……」

     

    それを渡すために振り返った玖良世は、ぴたりと停止した。

     

    フィオレンツァの背後に立つ、奏示郎が目に入ったからだ。

    「ええ、ご覧の通り、いかにも解説的な発言だったのは、解説が必要なひとがいたからです

    が……隊長、どうかしましたか?」

     

    玖良世の様子は、第三者がいたから内輪の話をやめた、というものとは違うことに気付き、

    フィオレンツァは尋ねた。

     

    だが、それに玖良世が応える前に、奏示郎が口を開いた。

    「なるほど、なるほど、なるほど。いやいやいや、いい隊長振りじゃないか、くーちゃん 

    ―まるで似合ってねえ」

     

    実に小憎たらしい顔での悪口だったのだが、玖良世にそれを気に留めた様子はなかった。

     

    椅子を倒して立ち上がるなり、奏示郎を指さして、喚わめく。

    「奏示郎?  

    ―てめ、今までどこほっつき歩いてやがった⁉」

    「どこって……まあ、山に籠こもってた」

    「 

    ―眉まゆを片方、剃そり落としたんですか?」

    「…………」

    「…………」

     

    喧けんけんごうごう

    々囂々やり合い始めようとした瞬間、なにやら妙な発言が聞こえて、奏示郎と玖良世は

    沈黙した。

      

    ―山籠もりをしたものの、どうにも町に行きたくてたまらない空からてか

    手家が、眉を片方剃り

  • 5657 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    落として己おのれを戒いましめた、というのは、それなりに有名なエピソードであり、漫画化もされて

    いるほどだが……だからといって、フィオレンツァが知っているものだろうか? 

    なにしろ、

    古い話なのだ。

     

    同じ疑問を抱いたふたりは、黙ったままアイコンタクトだけで意思疎通してから頷き合い、

    最終的に、奏示郎が口を開いた。

    「……フィオレ。今なんか、変なこと言わなかったか?」

    「いえ。知り合いなんですか? 

    と、尋ねましたが、変なことはなにも」

     

    フィオレンツァはしれっと言い切ったものの……そんなことは言っていないと断言できる

    ほどはっきりと、先の発言は聞き取れていた。

     

    だがそれでも奏示郎は聞き間違いだったということにして、その問いに答えた。

    「知り合いっつーか、まあ……近所に住んでた変な兄ちゃん?」

    「その、いらん角の立つ説明はやめろ 

    ―ラヴェリー、こいつ、今じゃすっかり捻ひねくれち

    まってるけどな、昔はそりゃもう素直で可かわい愛

    げのあるガキだったんだぞ? 

    信じられるか?」

     

    妙な説明をされた報復とばかりに、しみじみと皮肉を飛ばしてから、玖良世はふと、首を

    捻った。

    「奏示郎。お前にしちゃ随ずいぶん分

    と珍しいな、その呼び方」

    「あん? 

    俺ぁあんたのことは、昔っから『くーちゃん』て呼んでたはずだぞ?」

     

    兄弟というわけでもあるまいに、奏示郎は玖良世とそっくりな様子で首を捻った。

    「いや、そっちじゃなくてだな」

     

    玖良世が言っているのは、そういうことではない。

     

    フィオレンツァを指で示し、言う。

    「愛称で呼んでただろ? 

    少々、意外だな」

    「? 

    そりゃまあ、お隣さんだしな。仲良くした方がいいだろ」

    「いや、そういうことでもなくてだな……お前確か、今年で十六だったよな?」

     

    別段考えるような問いではないはずだが、それでもしばし奏示郎は考え込んだ。

    「……たぶん」

     

    その上で曖あいまい昧な返答をした彼に、玖良世は溜息をついた。

    「俺より丁度十じゅっさいした

    歳下だから、十六なんだよ。で、ラヴェリー。お前いくつだ?」

    「十七ですね」

    「 

    ―え⁉」

     

    即答したフィオレンツァに、奏示郎は愕がくぜん然

    とした。

     

    そして、心底信じられないといった顔で、まじまじと彼女を凝視する。

     

    それに気分を害したか、彼女はいささか険のある目で奏示郎を睨むと、口を尖とがらせた。

    「な……! 

    そこまで意外ですか」

  • 58

    「いや、だって……どう見たって年下って顔 

    ―……」

     

    言いかけ、奏示郎は黙り込んだ。

     

    視線を彼女の顔から下へと移動させると、しばし黙考。

    「ごめん。年上だわ」

    「……今、どこを見て、どういう判断をしました?」

     

    ますます険を強めて睨みつけてくる彼女に、奏示郎はさらりと言い返した。

    「生意気そうな胸を見て、この完成度で年下ってのはねえな、と」

    「……すごく、殴りたいんですけど……」

    「……正直、今のは俺が悪かった。くーちゃんの誘導尋問に引っ掛かった、俺が悪かった」

    「随分と無理筋な責せきにん任転てんか嫁だな、おい……」

     

    守るように自身を抱きしめた結果、胸の谷間にネクタイを挟み込んで攻撃性が増している

    ことに気付かないまま、顔を真ま  か

    っ赤にしているフィオレンツァと、反省はしているようだが

    口の減らない奏示郎を見比べて、玖良世は溜息をついた。

    「ま、いいや。奏示郎、お前、今から俺の部下な」

    「了解。桜河奏示郎、これより巴澄玖良世の指揮下に入ります」

     

    わざとらしいが、様になっている敬礼を返す奏示郎へと適当な礼を返し、玖良世はぎょっ

    とした顔をしているフィオレンツァを見た。

  • 6061 変奏神話群 剣風斬花のソーサリーライム

    「ラヴェリー、なにか問題はあるか?」

    「大ありです! 

    今のやり取りを見て、なんで問題がないと思えるんですか⁉」

    「いつも澄まし顔のお前が、感情を剥むき出しにしているからだ 

    ―本ほんね音が見えなきゃ信頼な

    んてできんし、それがないと部隊は脆もろくなる。そして俺は、そんな脆い部隊なんざ真っ平ご

    免だ」

    「……っ……」

     

    まさか即座に、それも滔とうとう々

    と反論されるとは思わなかったのだろう。

     

    フィオレンツァは言葉を失って、何度か口を開閉させた後、諦あきらめたように息を吐いた。

    「……了解」

    「そんな不ふしょうぶしょう

    承不承って顔すんなよ。大丈夫だって、こいつ口だけで、なんもしねえから」

    「……奏示郎さんが安全なのは、理解できますが……」

     

    昨夜の会話、そして態度を思い出しつつ、フィオレンツァは自問自答した。

     

    実際、言うほど嫌というわけではないのだ、奏示郎が同じ部隊になるのは。

     

    なにしろ、信頼云うんぬん々

    はさておいて、奏示郎は気楽に接することができる相手だ。

     

    現状不明な実力以外は、合格点に達しているといっていい。

     

    ただ 

    「奏示郎さん。今回は目を瞑つむってあげますけど、セクハラは、査問会であなたを破滅させら

    れるネタですからね?」

     

    釘くぎを刺すのは、忘れなかったが。

    「肝きもに銘じておく 

    ―てか、俺だってここまで恥ずかしい思いをするとは、思わんかったわ。

    二度と言わねえよ。先輩

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    に嫌われたくはねえしな」

    「さて。先任として、あなたにいろいろ説明しなくてはならなくなったわけですが 

    ―」

    「悪かったって。懐かしい顔に会って、はしゃぎすぎた俺が悪かったって。だから先輩、そ

    ろそろ機嫌を直してくれねえかな?」

     

    目を瞑る、とは言ったものの、まだ機嫌は傾かしいだままらしい。

     

    先導しているのに、まるで後続を気に掛ける様子もなく、廊下をどんどん先へ先へと進ん

    でいくフィオレンツァに、奏示郎は心底困った顔になった。

    「……本当に、反省してますか?」

      

    ―と、唐突に止まるや否いなやくるりと振り返ってきた彼�