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1.甲州(葡萄)のルーツ
甲州(葡萄)は、平成 10 年、酒類総合研究所の DNA 解析により“ヴィティス・ヴィニフェ
ラ(ヨーロッパ系ブドウ)”の“東洋系品種”と検証された。
2.ヴィティス・ヴィニフェラ発祥の地から甲州へ
「市民講座ワイン学入門」より森本作成
東方系(夏乾帯地方)の葡萄は、紀元前 128 年にペルシャ西方フェルガーナから支那*1に伝
わったといわれている。漢の武帝が西域にいる汗かん
血けつ
馬ば
*2 を求めて張騫ちょうけん
を西域さいいき
に派遣し、張騫ちょうけん
は
苦難の十数年を経て帰国した際、葡萄という芳香な酒を醸す果実について報告し、種子を持ち帰
った(史記;大宛国伝、博物志等)。
日本には支那から仏教とともに薬として種子で渡来し、名前もフェルガーナ語(古いイラン語)
で Budaw ブ―ダウ、ペルシャ語で Budawa ブーダウから、蒲萄さらに葡萄となった(飯田信
次:甲州の葡萄栽培について)。甲州には大善寺薬師堂の建立(971 年)時に薬として伝わり、
薬園で栽培されたのが始まりとされ、勝沼、岩崎は、夏に高温で雨が少なく乾燥した、葡萄の栽
培適地であったため、甲州葡萄発生の地となった(上野晴郎:勝沼町と葡萄の歴史)(複数の説がある)。*1 支那:中国とその周辺地域に対して用いられた地理的呼称。王朝・政権の名を超えた通史的な
呼称。*2 汗かん
血けつ
馬ば
:1 日に千里を走り、血のような汗を流したと伝わる名馬。
葡萄の原産地:コーカ
サス地方
地中海沿岸地方 ギリシャ
エジプト
欧州(欧州系)
中央アジア ペルシャ、トルコ
パキスタン
アフガニスタン
東方(東方orアジア系)
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西暦
時代
事柄(出典) 説明・詳細
718 年
(奈良時代)
僧行基が柏尾(勝沼町)に大善寺
を創設する。
仏教の法典覚禅鈔かくぜんしょう
に「薬師仏右手
に葡萄を取る、葡萄は諸病を治す
法薬なり」との記述がある。
大善寺葡萄導入伝
説
覚禅鈔は、僧覚禅かくぜん
が
平安末期から鎌倉
初期に撰した図像
集
僧行基
(勝沼町ぶどうの国文化館)
971 年
(平安時代)
大善寺薬師堂の建立時に葡萄が薬
として伝わり、薬園で栽培される
(上野晴郎:勝沼町と葡萄の歴史)。
(大善寺:勝沼町)
薬食い:滋養となる
物を食べること
1186 年
(鎌倉時代)
勝沼町上岩崎の住人雨宮あめみや
勘解由か げ ゆ
が
野生の葡萄を発見し、移植し栽培
する(福羽逸人:甲州葡萄栽培法)。
雨宮あめみや
勘解由か げ ゆ
伝説
1198 年
(鎌倉時代)
雨宮勘解由が栽培した葡萄がよう
やく 13 株になり、鎌倉右大将源
頼朝が長野善光寺に参詣の際、献
上したとされる(出典:同上)。
1615 年
(江戸時代)
(元和1年)
甲斐の医師永田な が た
(長田な が た
)徳本とくほん
が葡
萄の棚架け法(明代の中国の葡萄
作りの方法を参考)を考案する。
1601 年に徳川家康が甲州田圃
で行った『検地帳簿』では葡萄の
木164本と記されているが、
1716 年の『正徳しょうとく
検地帳簿』で
は、「上、下岩崎・勝沼・菱山の4
村(いずれも現在の勝沼町)の葡
萄畑14町7反3畝8歩で3000
本(2 本/1 畝)の葡萄苗が栽培
される。」と記述されている。
葡萄生産の技術革
新により作付面積
が増大し、農家経済
における地位を急
速に高めた。勝沼周
辺では、水田耕作地
よりも山添い傾斜
面を利用した畑耕
作地が多く、商品作
物生産が発展し、葡
萄は生糸に次ぐ換
金作物となった。(上
野晴郎:村明細帳より)
永田(長田)徳本
(勝沼町ぶどうの国文化館)
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1618 年
(江戸時代)
(元和4年)
甲州街道の武州の小仏山の切り通
しにより勝沼宿駅が設置される。
勝沼宿付近の農村
では農業生産品(煙
草、梨、柿、葡萄、
木綿、茶)が貨幣取
得の手段であった。
(上野晴郎:村明細帳よ
り)
1680 年
(江戸時代)
(延宝8年)
『坂田日記抄』に「甲府に御樹木
畑があり、青梨子、りんご、柿、
クルミ、栗とともに葡萄が栽培さ
れ、幕府御用に供された。」と記述
される。
幕府への献上物と
しての価値をもっ
たことで、不作や災
害、諸費用高値等の
場合でも葡萄栽培
を保持しようとす
る原動力となる。(上
野晴郎:村明細帳より)
甲州八珍果(左記 6 種+桃、ざ
くろ)
1693 年
(江戸時代)
(元禄6年)
森川許六もりかわきょりく
の紀行文『癸酉記行き ゆ う き こ う
』で
勝沼の葡萄棚が描かれる。4年後
の 1697 年に刊行された『農業全
書』(宮崎安貞著)には甲州葡萄の
栽培法の記述があるものの、「棚づ
くり」についての記述はない。封
建社会の閉鎖性、葡萄栽培の地域
的限定を表している。
森川許六もりかわきょりく
は俳人で
松尾芭蕉晩年の門
人。紀行文では、勝
沼辺りを通りかか
り、「鳴渡す 蒲萄
の棚や ほととぎ
す」の句を詠む。画
は狩野安信に学ぶ。
癸勇記行
(勝沼町ぶどうの国文化館)
1695 年
(江戸時代)
(元禄8年)
『本朝食鑑ほんちょうしょくかん
』で「葡萄の産地と
して、甲州を第一とし、駿州之に
次ぎ、武州八王子、京師及び洛外
にも産地あり・・・」と記述され
る。
『本朝食鑑ほんちょうしょくかん
』は、
医師人見必大ひとみひつだい
が地
域の食生活や食物
の身体への効能等
を記述したもの。
本朝食艦
1704 年
(宝永 1 年)
柳沢吉保、甲府城主となる。 吉保が甲斐国を支
配した時から、吉保
の献上物として甲
州葡萄が江戸へ送
られるようになり、
有名になる。
柳沢吉保
1705 年
(江戸時代)
(宝永2年)
『宝永二年引渡目録』に「勝沼村
葡萄を江戸幕府に御用として差し
出す」と記述される。
1706 年
(江戸時代)
(宝永3年)
荻生徂徠おぎゅうそらい
の『峡中紀行』に「勝沼
の宿は人家多く繁昌なるところ甲
州街道で第一番地、甲州葡萄は此
国の名物なり」と記述される。
荻生徂徠おぎゅうそらい
は 1696
年以来柳沢吉保に
仕え、政治顧問的役
割を果たす。
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1713 年
(江戸時代)
(正徳3年)
『倭漢わ か ん
三才さんさい
図会ず え
』に、「葡萄は甲州
産が第一で、粒が大きく味が甚だ
佳い。駿州がこれに次ぎ、河州かしゅう
富田林とんだばやし
などがあげられる。」と記述
される。
中国の三菜図会の
編集に習ってでき
た本邦最初の百科
事典で、動植物およ
び鉱物を収載する。
倭漢三才図会
1724 年
(江戸時代)
(享保9年)
野田の だ
成方しげかた
が『裏見寒和う ら み か ん わ
』に「名産
品として葡萄 栗原、岩崎、勝沼
よろし」と記す。
『裏見寒和う ら み か ん わ
』は、甲
府勤藩士野田の だ
成方しげかた
が当時の風俗をま
とめたもの。
1760 年
(江戸時代)
(宝暦10年)
『上岩崎村かみいわさきむら
村むら
鑑かがみ
明細帳めいさいちょう
』に、上
岩崎の葡萄栽培の作付面積は6町
2反で、葡萄を江戸の問屋に出荷
した状況が記される。
村むら
鑑かがみ
明細帳めいさいちょう
は、村
高、人数、主要産物、
作付面積など村の
概要を記したもの。
1832 年
(江戸時代)
(天保3年)
佐藤信淵さとうのぶひろ
が『草木そうもく
六部ろ く ぶ
耕こう
種法しゅほう
』の
中で、勝沼、岩崎方面の甲州葡萄
の栽培法を記す。干し葡萄の製法
も紹介される。1806~1814 年
に松平定能が編纂した『甲斐国志』
にも葡萄の産地、干し葡萄につい
ての記述がある。
『草木そうもく
六部ろ く ぶ
耕こう
種法しゅほう
』
は、草木の栽培法を
詳細に記述したも
の。竹材の棚はほぼ
一株毎で、支柱、縄
等の経費や手数が
かかったとされる。
草木六部耕種法
1845 年
(江戸時代)
(弘化2年)
江戸の問屋から勝沼宿、上岩崎に
議定書が差し出され、勝沼、岩崎
以外の葡萄は品質が悪いことを記
している。
他の場所でも葡萄
栽培が普及したが、
品質が悪いので、も
し一緒に入ってい
たら弁納金を出す
由の議定書。
議定書
(勝沼町ぶどうの国文化館)
1857 年
(江戸時代)
(安政4年)
仮名垣魯文か な が き ろ ぶ ん
作、一光斎芳盛いっこうさいよしもり
画によ
る『甲州道中膝栗毛』に甲州道中
勝沼宿の葡萄が描かれる。
甲州道中膝栗毛
(勝沼町ぶどうの国文化館)
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4.甲州葡萄から甲州ワインへ
西暦
時代
事柄 説明・詳細(出典)
1869 年
(明治 2 年)
内務省勧業寮が醸造業研究のため大藤松五郎をアメ
リカに派遣(カリフォルニアで果樹栽培とワイン醸造
の実地を8年間履修)し、明治9年に帰国後祝村葡萄
酒会社に派遣して実地指導をさせる。
葡萄栽培と葡萄酒生産が国家
的規模の事業として展開され
る(殖産興業)。西洋農業の理
解と産業育成を目的とした醸
造用葡萄栽培が推進される。
1873 年
(明治 6 年)
藤村紫朗氏山梨県権令(副知事)として山梨県に赴き、
明治7年に県令(知事)に昇格し、葡萄樹の栽培、葡
萄酒の醸造を勧誘する。
1874 年
(明治7年)
山田宥ひろ
教のり
、詫間憲久共同で葡萄酒製造を企て、葡萄酒
会社を設立するが、明治9年に廃業する。
山梨県勧業第1回年報(明治
12 年)
山梨県で白ワイン四石八斗(約 900L)、赤ワイン十
石(約 1800L)を生産する。
府県物産表(明治7年)
1875 年
(明治 8 年)
甲府八日町詫間氏の醸造法の概要が記載される。「白
葡萄酒-山梨郡勝沼駅並びに八代郡岩崎村両所の産
を上品とす。但し昨年は勝沼産品にて醸造す」「赤葡
萄酒の原料には山葡萄を用いた」「葡萄を破砕せず、
直接圧搾して果汁をとる」
2 月 10 日付甲府新聞(現在の
山梨日日新聞)
文献資料として、日本で最初の
ワイン醸造記録
津田仙が学農社を興し、農学校を設立して西洋農学を
教授する傍ら輸入穀物野菜の頒布と栽培指導行う。ま
た、機関誌「農業雑誌」を発刊して西洋農法の普及に
努める。明治9年祝村葡萄酒会社を訪れ、ワインを評
価し、原料葡萄の品質が問題と指摘する。
農業雑誌弟29号(明治10年)
1877 年
(明治10年)
甲府の舞鶴城跡の山梨県立勧業試験場の中に県立葡
萄酒醸造場が建設される。大藤松五郎を配して模範醸
造に着手する。
殖産興業政策の推進
米国産のブドウ品種の栽培
大蔵卿佐野常民氏が県令藤村紫朗氏の勧告に基づき、
県内有志者(雨宮彦兵衛、内田作右衛門、土屋勝右衛
門、宮崎市左衛門志村市兵衛等株主)と図って祝村葡
萄酒会社(大日本山梨葡萄酒会社:明治 14 年 1 月、
株券発行時に社名として登場)を創設する。
東八代郡誌(大正2年)(山梨
鑑:明治 27 年)
土屋竜憲・高野正誠両氏がボルドー産赤ワイン(英語
名「クラレット」、日本での通称「カラリット」)の製
法の習得を目的として、フランスに派遣(1年7ヶ月)
される。最初はオーブ郡トロア市の醸造場(シャンパ
ーニュ地方の最南部)、その後モングー村の醸造場に
移動する。ワインを産地名で呼ぶ例の多いこと、ワイ
ンの品質を決定する要素として、風土特産の葡萄と固
土屋竜憲 高野正誠
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有の製造技術が、ワインの生産地名によって特定され
うるものとの理解を持って明治 12 年 5 月帰国する。
(シャトー・メルシャン資料
館)
1879 年
~85 年
(明治 12 年
~18 年)
明治 12 年に 150 石(27kL)を醸造、明治 13 年
には 30 石(5.4kL)を醸造したものの、醸造法が精
妙でなく酸敗し、明治 15 年~18 年には醸造を休止
する。
石井研道『明治事物起源』(大
正 15 年)
1886 年
(明治19年)
大日本山梨葡萄酒会社(祝村葡萄酒会社)廃止。
「葡萄を潰す」操作の実行は画期的な出来事であった
が、微生物の働きを知らないため、技術抜きのワイン
作りに限界があった。また、原料に生食用品種を用い
ることによる価格の高騰も、販売推進の障害となる。
ワイン作りの未熟さ(醸造設備
の不備不足、技術的な欠陥、品
質の問題)(西洋においても、
ワイン醸造は生活体験の「技」
であった)
土屋竜憲、宮崎光太郎、土屋保幸が共同で祝村葡萄酒
会社の事業を受け継ぎ、醸造を再開する。
1888 年
~90 年
(明治21年)
東京日本橋に甲斐産商店(販売所)設置し、「薬用」
という実利性を訴える。甘味葡萄酒との競合により生
葡萄酒の販売は不振となる。
1890 年
(明治23年)
宮崎光太郎が独立して、品質的欠
陥を改善するため、設備(破砕機、
発酵桶、圧搾機)の改良を行う。
西洋風俗の模倣により都会での洋
酒販売が好況となり、伸長著しい
甘味葡萄酒へ生産をシフトする。
(シャトー・メルシャンワイン資料館)
1897 年
(明治 30 年
代)
葡萄酒の品質向上(醸造用葡萄と醸造設備の改良)が
図られる。勝沼近郊では、水田や桑畑を葡萄畑に切り
替える農家が増加し、清酒に変わる地域の酒として自
家用の葡萄酒製造を行うようになる。醸造だけを請け
負う農家が生まれ、ワインメーカーへと発展する。
(甲州市近代産業遺産宮光園)
1907 年
(明治 40 年
以降)
ワインは甘いものとの固定観念が形成される。
「赤玉ポートワイン」が発売され、滋養酒的「大黒ブ
ドウ酒」「蜂ブドウ酒」とともにワインの主流となる。
1930 年
(昭和 5 年)
山梨県「県醸造研究所」の開設により、純粋培養した
ワイン酵母の配布やワイン醸造場での醸造試験が行
われ、品質の向上が図られる。
1970 年
(昭和 45 年
頃から)
万国博でワインへの関心が高まり、食生活の欧米化
(肉と油-ワインの酸味との相性が良い)、経済成長
にともなって、ワイン消費量が増加する。
甘味葡萄酒の消費量は、昭和
42 年をピークに減少し、本格
ワインに取って代わられる。
1983 年
(昭和 58 年
頃から)
消費者のワインに対する嗜好の高まりや、甲州ワイン
の醸造に関する研究開発が進み、ワイン業界全体の技
術が向上する。甲州葡萄の味や香りを活かした、優れ
た甲州ワインの製造が推し進められている。
「シュール・リー」方式、「ハ
イパーオキシデーション」法、
「樽発酵・樽貯蔵」法などによ
り品質の向上が図られている。
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山梨県・山梨学院大学連携企画
制作:山梨学院大学健康栄養学部
教員:松本晴美 表紙制作:相田彩圭(健康栄養学部 3 年)
辻 敏子 杉山 茜(健康栄養学部 3 年)
森本美里 土橋 澪(健康栄養学部 3 年)
中野琴恵(健康栄養学部 3 年)
表紙編集:辻 敏子
参考施設
勝沼町ぶどうの国文化館
甲州市近代産業遺産 宮光園
シャトー・メルシャンワイン資料館
大善寺
参考資料
上野晴郎:勝沼町と葡萄の歴史
麻井宇介:日本のワイン・誕生と揺籃時代
山本 博:山梨県のワイン
山梨大学:市民講座ワイン学入門
山梨県HP:山梨とぶどう年表
山梨のワインの歴史
ぶどう資料の紹介