宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論...

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西 西 o- sm i- tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての

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Page 1: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

〈研

3〉

宗教的実在論と「公共の哲学」の形成

一 

はじ

めに

教は個人の内面に深く浸透しその人格を形成する。と同

時に

公共性をも

っている。西

洋において

宗教思想はこの「私事性」と

「公

共性」の両面の緊張を保ち

つつ発展

させてき

たが、東洋

にお

いて

はどうであ

ったか。特に日本で

は明

治近代以

降、国家神道へ

の反動

もあり、宗教は極端に「私

事化」

の傾向をもち内面

化の一

途をたどり、その結果社会全体

に世

俗主

義が行

きわたり、モラル

が低下し

た。しかし宗教の公共性

は洋

の東西

を問わず「文明

の衝

突」「文明

の対

話」

の根

底にあ

って、

二十一世

の課題

の一つと

なりつつあ

る。で

は、それ

はどのよう

にして理

論的

に整理できる

のであろう

か。筆者

は宗教的実在論の立場

からこ

のテーマに迫

てみたいと思う。

稲 

垣 久 和

「公

”政

(Religio-Scientific Realism

二 

(リ

(cogni-

tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての

(実

Page 2: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

世界

実在

の上

に倫

った

に基

いた

(創

い。

1 宗教的意味の次元とジョン・ヒックの認知的宗教論

に、

は実

(3R)

ーポ

―、

「世

」(霊

う名

で導

論証

こで

いが

が意

と深

て再

度強

調

おき

と思

は複

が力

(物

理系

だけ

情報

まり

はじ

は物

って

「生

。「生

。情

に表

情報

受け

「選

に目

って

いう

る。

には

「生

から

「人

とし

とき

に、

に人

とき

に、

っと

なこ

の情

の受

(世界

「選択

の概

であ

「意

であ

。「情

「意

って

『宗

』(An Interpretation of

Religion)

「宗

(実

こと

(epistemology)

あてられている。ヒックの宗教論の特徴は、宗教経験を認知的な

(cognitive)

とす

る。

めに

の手

を使

と経

いて

する。まず彼は意味を二つのグループに分ける。一つはseman‐

tic(言語的)な意味。もう一つは非言語的な意味つまり出来事、

〔こ

dispositional(配

いう

言葉

〕。

以下

「非

な側

味」

議論

(こ

われ

言葉

味局

いう

るで

)。

の意

を四

論し

「自

」、

して

「倫

」「美

意味

、「宗

が議

意味

た上

かれ

る。

認知

的意

の階

る。

~と

る」(ex-

periencing-

は外

から

のと

に衝

して

。情

解釈

(誤

)で

る。

で宗

は非

を区

は難

験と

って

いも

越的

(神

仏)

(psyche)

って

Page 3: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

。情報”

の変換であろう。そ

のような経験

には二種類ある。

一つはその"情報”が物質的環境を媒介として伝達される場合、

つまり世界

の物。出来事、プ

ロセスが超越の存

在を明

白に示して

いるよ

うな宗

教的性格や意味

を持

って

経験される場

合。例えば癒

しが神

的な奇蹟として経験

されるような場合、礼

拝や

ミサ、聖餐

式を通

して

媒介される経験。

もう一

つは神秘的と名づけ

られ

るよ

うなもの。つまり二人の人

の心の間

のテ

レパ

シーのよう

に、。情

報”が直接の影響によって受け取

られ、そののちに視覚

的、聴覚

的言語

に変換されるような場

合。両方ともに程度は様々であ

る。

たとえ

ば人によ

って

は、手で

くる

ロザリオがいきなり超

越を示す

場合もあるで

あろうから。

この種の議論は神や仏の存

在を証明する議論で

はない。そうで

はなく、人の意識は物的世

界や倫理的世界の次元とは明

らかに別

の次元で、「世界の物、出来事

、プ

ロセスが超越

の存在を明

白に

示して

いるような宗教的性格や意味を持

って経験される」という

認知的状況を認

めるのである。つまり物的次元(世界1)や価値

的次元

(世界3)とは別に宗教的次元

(世界4)があるというこ

とであ

る。これが宗教的実在論の発想であ

る。つまり認識論的な

意味で

の宗教的実在論とは、われわれが宗教的

に信じている対象

がすで

にわれわれの外にあると見る

立場で

、この対象に人間意識

が応答す

る。それに対して非実在論

の立場と

は、そうい

った対象

は結局

は人間意識によ

って造られ

たも

の、と見

る立場である。

ヒックはこ

の非実在論の立場を退ける実在論者である。われわれ

の今

まで展開してきた言葉で言えば、非実在論とは一種の還元主

であ

る。

つまり世界4を世

界3

に還元

るか

(デ

ュル

ム、

ヴィトゲン

シュタイ

ユア

ーフィデイ

ストなど)、または世界2

(自己意識の次元)に還元するか(フォイェルバッハ、フロイト

など)そのどちら

かの立場である。

2 信仰と宗教的実在論

上のような認

知的な宗教経験論において

、信仰をどのように

定義するか。人

には宗教的な仕方で、また非宗教的な仕方で経験

するような(experiencing-

認知的選択のより深

いレベ

ルの

経験が存在する(この"深いレベル”を創発的解釈学ではアルケ

(始源) への応答

ないしは

Jm教

的根本動因”と呼

んだ)。信

仰とはこの宗教経験への「強

いられな

い解釈的活動」

のことであ

(例えば人格神への応答など)。

しかし同時

に、信仰

はあいま

いな宇宙

に直面したとき

の認

知的決断でもある、と

いう面も残さ

れて

いるのである。

宗教的経験

は物理的、倫理

的経験と連続的

につなが

って

いる

(つまり物理的、倫理的な意味

の上

に宗教的意味が築かれて

いる)。

ただし、物理的

(身体的)経

験は生物としての生存の方向

に選択

され。自由度があまりないが

、倫理的経験は身体的経

験より認知

的自由度をもち、宗教的経験

はさら

にそれ以上に認

知的自由度を

つ。し

かしそれでも、宗教

的経験の「認知的な選択

の活動」を

Page 4: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

こと

って

る。

の選

る方

なさ

のが

実在

論で

、逆

され

が宗

から

だ。

た、

は認

が人

言え

うで

なく、ヒックによれば、。人間存在の自己中心から実在中心への

転換"という救済/解放の基準を持つ。これは救済論的(宗教

が、

は愛/

って

る。

たが

って

に宗

は倫

験を

にし

はな

い。

は、

世界

認知

はな

い。

って

い。

の信

は、

の仕

のみ

愛/

いう

って

にあ

われ

るが

に。

つ自

に影

つま

、そ

ぞれ

つ世

―に影

を及

る、

(g

R)

る。

われ

は認

「そ

の信

仕方

経験

る」

づけ

わけ

だが

合理

主義

に、

から

世界

「実

体」(the Real an sich)

る、

いう

い。

ト的

観念

の飛

躍で

在論

立場

され

とで

い。

うで

なく

「そ

の信

の仕

う」

(fam

ily

resem

blance)

る、

(霊

世界

とど

めて

おけ

い。

宗教

ろ合

的で

り、

回避

的で

、〈超

(信

は人

意識

(世界

は社

的状

(世

の事

にも

いう

ので

る。

論で

有神

の信

の信

ハム宗

教で

ろう

た実

有神

の典

は仏

るが

ただ

は非

の典

来信

のよ

強調

る場

は宗

る証

に基

いて

わけ

の認

ち宗

的意

(experienc-

ing-as)

そし

その

る人

の生

はむ

ろ合

る。

『哲

と現

の中

、「

類比

の概

って

つけ

合理

本論

稿

な表

。「自

は実

環境

中で

生き

る人

を信

合理

」。

(私

的)

ると

に、

に顕

「公

的」

な事

を付

えて

おき

たい

われ

、複

「創

び実

の還

Page 5: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

性という観点から、

ヒッ

クの意味

の経験論を拡張して、これを創

発的

解釈学として

提起す

ること

ができ

る。

それ

は世界

(自然

的)を世界1(数的、空間的、運動的、物理的、生物的)

に、世

界2(意識的)を世

界2(感覚的、論理的)に、世界3

(言語的、

社会的、美的、倫理的)を世界3

(歴史的、言語的、社会的、経

済的、美的、法律的、倫理的、信念的)

に拡張する。そして世界

4(宗教的)

を世界

4(霊的=宗教的根本動因)と見なすのであ

、「

(自

調

(図

)。

三 

「公

(法

非政府組織(NGO)や非市場的結社(NPO)などと連携して公

(interest - ”in

ter-esse”

「間

Page 6: 宗 tive freedom)が大きくなる。それでも批判的実在論としての … · 研 究 論 文 3 〉 宗 教 的 実 在 論 と 「 公 共 の 哲 学 」 の 形 成 一

「公共性」と

は「複数

の価値や

意見の

〈間〉

に生成す

る空間」で

り、逆

にそうした

〈間〉

が失われ

るところ

は公共

は成

ない。また国

家と個人の間

の社

会領域

を重要

と考え

るという意

味でも

、〈間〉にこだわって

いる。

倫理的世界

(世界3)

は私

的領域

と共同体と公

共的領域(公

空間)

とに大別でき

る。私

的領域

の典型は家庭である。共同

体と

は教会(寺社)や会社

など同質

の価値観による集まりで

あり、公

空間とは異質な複数の価

値観をもった人々の討議空間である。

われわれはここで

、図1

の存在論的な領域主権(実在全体が各

領域に分かれていて

それぞれが独立に主権を持

っているというこ

と)と世界3

に属す

る市民

社会の各組織に分割して与え

られてい

る領域

主権(これは

シャソ

ーボ

タソ流の国家主権の分割で

ある)

とが構造的に並行関係にあることを示

したい。そのために基本的

機能と

性格的

機能という

二つの用語

を導

入す

る。あ

る社会

(領

域)制度が一五に分かれた意味局面の中で意味づけられている最

低位の意味局面が基本的機能であり、そ

の最高位の意味局面が性

格的機能であ

る。例えば家庭は男女の結婚

によ

って生ずるので、

男性・女性と

いう性の違い

(生物学的

差異)が基本

にある。

そこ

で家庭

の基本

的機能

は、実在の意味局面

の五番目

の生物的局面

あると

いう言

い方をする。し

かし家庭が

家庭

として本来的

に性格

づけら

れて

いるの

は、その男女が互

いに尊敬

と愛をも

って共

に生

活す

ること

によ

ってである。一組

の男女

が一

緒に住

めば経済

的に

割安で

あるとか、法的

に財産所有権が生じるとか、そう

いうこと

によって

は真の家庭

は成り立だない。夫婦とそこ

に生まれ

た子供

たちの間で

愛と尊敬が

なけ

れば

、家庭

を形成することができな

い。

そもそも、愛とは倫理的局面

の意味核であり、したがって

、家庭

はその性格的機能を、一四番

目の倫理的局面

に持って

いる、と

う言い方をする。

同様に教会(寺院や神社)は歴史的に形成されて

きたから、そ

の基本的機能を八番目の歴史的局面

に持って

いる。またそれは宗

教的信仰のゆえ

に集ま

っている共同

体であ

るから一五番

目の信念

的局面にその性格的機能を持って

いる。ま

た会社企業体は一一番

目の経済的局面にその性格的機能をもって

いる。同様に国家は歴

史的局面に基本的機能を持ち、正

義と公平の遂行という目的を達

する制度であるがゆえ

に、一三番目の法律的局面に性格的機能を

いて

いる。四

 

宗教

的信仰と

は、一五番目の信念的局面が一人一人の心

に働く

教的根

本動因

に応答し

た結果である。それは歴史的

に多様な形

をとってき

た。

そこで宗教的信仰を公共空間の中

に取り入れよう

とすれば、その信仰

は多元的

に取り扱われねばなら

ない。このよ

うに宗教的信仰

の多元性と公共性と

は非常に親和

性があ

る概念

のであるが、この二つ

の議

論はこれまで別々になされてき

た。

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の理由

は宗教

の多元性が神

学/

教学や宗教哲学

のテーマで

あった

こと、それ

に対して公共性

は社会哲学や政治哲

学のテー

マで

あっ

たこと

による。し

かも社

会哲学

や政治哲学が啓

蒙主義を暗

黙の前

提にも

って

いるために、理性の自

律を強調し

、宗教的信仰を初め

から議論の土俵

から

排除して

いるためであ

った。政治哲学が宗教

を排除す

るこ

とは「政教分離」

の名のも

とに憲法的にも保障され

いるかのごとき

感がある。しかしそも

そも

「政教分離」が社会

制度論と

の関

係で

一体何を意味して

いるのかが、社会哲学的に問

われなけれ

ばなら

ない。ま

た憲法の「良

心の

自由」

がも

もと

「信

教の自由」と深

く結びついて

いたことが改

めて

想起され

ねば

ならない。宗

教的信

仰の「私事性」

はこ

こで

く「公

共性」

なって出現して

くるので

ある。

日本でのこのテーマの極めて重要な具体例が、二00一年八月

一三日になされた当時の小泉純一郎首相による「靖国神社公式参

拝」

の問題で

ある。参拝が「公的」か「私的」かで大きな政治的

問題となったからである。

マスコミはこの問題を憲法論

のいわゆ

る「政教分離」との関係でとりあげたが、宗教的実在論

の側

から

確に表現すれば「教会

(寺社)と国家の分離」の問題であ

る。

宗教的信仰は公共の場から排除されるべきで

はな

い、と

いう宗教

的実在論の立場から言えば、小泉氏個人に真面目な神道信仰があ

るならば私

人としての小泉氏の「靖国参拝」は何ら否定され

るべ

きことで

はな

い。

ただ

「二

拝二拍手一

拝」

の神

道形

式で

はなく

「一礼

する」

のみ

でかつ「お払

い」も拒否

したとこ

ろを見ると、

泉氏

の「靖国参拝」は神道信仰の真面

目な表明で

はなく、首相

という「公的」立場にあるものの「政治的儀式」

として

しか受け

れない。このような形で「政治」が「宗教」

を利用す

ることに

何ら疑いをさしはさまないのであれば、日本において

真に良心に

基づく「公共の哲学」の確立はありえない。この点で

「政治」と

「宗教」をめぐ

った学問的な公

共的討議空

間が今後

に確保されて

いくべきであろう。このよ

うな事態を批判

的に問

い、「政治」を

凌駕しうる神道者の「宗教者としての良心」からの言説に筆者は

期待したい。五

 

「公共

の哲

宗教を人間

の営み

にとって

根源的なことと再

認識し、これ

を公

共の場

から排除し

ない。いやむしろ、宗教的価値を持

ったグルー

プが各種

ボラ

ンテ

ィア団体、学校、病院、福祉施設、NGO

など

を公共空間

に形成していくことはそれらが他者破壊的でなく人道

的であ

る限り倫理

的、法律的に保証

され

るべきである。それによ

り、行き過ぎ

たミーイズ

ムと社会全体の

モラルの低下が阻止

され

物質主義、世俗主義。国家主義(国家宗教)が抑止され、"人間

の尊厳を擁護す

る自由な社会”の到来を期待でき

るであろう(米

国でのリベラリズムvs.コミュニタリアユズムの論争参照)。ただ

し、新

たな

「非国

家的、非市場的な」市民社会の形成

に宗教的価

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lig

io-

ie

tific

 

ea

lism

(c

it

iz

(1) 詳細は拙著『公共の哲学の構築をめざして』(教文館、二〇〇一

) 

Jo

hn

 

ic

, A

 

In

terp

re

ta

tion

 ofo

elig

io

。 M

ac

illa

, 

198

9・

)  

ib

id

., p

・240

) 

稿

) 

ホーキングホーン『科学時代の知と信』(岩波書店、一九九九年)

(6) 斎藤純一『公共性』「思考のフロンティア」(岩波書店、二〇○○

(7) 詳細

は拙著

『知と信の構造』(

ヨルダ

ン社、

一九九三

年)

二八一

頁参照。

(8) 例えば、

カソトは『たんな

る理性の限界内

の宗

教』

において

「道

徳が宗教

にいたるのは避けられず。道徳は宗

教により人間以外の力

をも

った道徳的

立法者という理念にまで拡

大され

るのであ

る」(『カ

ソト全集

ー10』

第一版序文

(岩波書店、二〇

〇〇

年) 一一頁)とし

て純粋理性宗教

を提示す

るのである。し

かし

そこで

は諸宗教

は彼の

いう理性宗教

を一番内側とす

る同心円を描くこと

になり

(第二版序

文、同

一九頁)、いわゆ

る啓示宗教、実定宗教

は外側

にあ

って、理

性の優位性の下

に位置す

る。

(9) J・

ハーバ

ーマス『公共

性の構造転換』(未来社、一

九九四年)

序言三

八頁。

(10) ホセ・カサノヴァ『近代世界

の公共宗教』(玉

川大学

出版部。一

九九七年)七

八頁。

(11) 拙稿「日本の宗教状況における公

私と公共性」佐

々木毅・金泰昌

『公共哲学』第三巻

(東京大学出版会、二〇〇二年)所収論文参

照。

いな

かず

、東

大学