イスラーム社会における インドネシアのキリスト教 · sarekat...

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イスラーム社会における インドネシアのキリスト教 1 Christian Church In Indonesia Among Islamic Society 1 ジャン・S・アリトナン Jan S. Aritonang イスラーム社会におけるインドネシアのキリスト教 1 はじめに キリスト教教会は500年前から(1511年から現在まで)インドネシア社会に根を下 ろし、現地のムスリムと共存してきました 3 。本稿では、両者の衝突の歴史を簡単に 振り返った上で(歴史を紐解かなくては現在の関係を理解することはできません)、 現実の問題や課題も含め、最近10年間の状況を紹介してゆきたいと思います。 インドネシアにおけるキリスト教徒とムスリムの衝突について語る場合、1つの重 い問いをその端緒とするべきでしょう。「インドネシアでは、宗教対立、とくにキリ スト教とイスラーム教徒の対立が頻発し、ときに流血の惨事に発展することもある が、それはなぜなのだろうか」。この問いに答えるには、両者の衝突の歴史を紐解く しかありません。これまでは政治的な意味での衝突ばかりが注目を集めてきました が、実はこうした衝突はもっと広い範囲に及んでいることをお分かりいただきたいと 思います。この衝突の歴史を紐解くうちに、日本の役割、すなわち第二次世界大戦前 の日本政府と、インドネシアが日本占領下にあった時代(1942~45年)に日本の軍部 が果たした役割が明らかになってくるはずです。 Ⅰ.衝突の歴史 4 1.ポルトガル・スペイン植民地時代およびオランダ東インド会社時代 (1511~1799年) インドネシアにおけるキリスト教とイスラームの衝突は、ポルトガルとスペインに よる植民地時代にまで遡ります(1511~1600年代)。すでにヌサンタラ 5 では、その数 世紀前からイスラームが信仰されており、16世紀初頭以降は多くの王国がイスラーム

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イスラーム社会におけるインドネシアのキリスト教1

Christian Church In Indonesia Among Islamic Society1

ジャン・S・アリトナンJan S. Aritonang

イスラーム社会におけるインドネシアのキリスト教

1

はじめに

 キリスト教教会は500年前から(1511年から現在まで)インドネシア社会に根を下ろし、現地のムスリムと共存してきました3。本稿では、両者の衝突の歴史を簡単に振り返った上で(歴史を紐解かなくては現在の関係を理解することはできません)、現実の問題や課題も含め、最近10年間の状況を紹介してゆきたいと思います。 インドネシアにおけるキリスト教徒とムスリムの衝突について語る場合、1つの重い問いをその端緒とするべきでしょう。「インドネシアでは、宗教対立、とくにキリスト教とイスラーム教徒の対立が頻発し、ときに流血の惨事に発展することもあるが、それはなぜなのだろうか」。この問いに答えるには、両者の衝突の歴史を紐解くしかありません。これまでは政治的な意味での衝突ばかりが注目を集めてきましたが、実はこうした衝突はもっと広い範囲に及んでいることをお分かりいただきたいと思います。この衝突の歴史を紐解くうちに、日本の役割、すなわち第二次世界大戦前の日本政府と、インドネシアが日本占領下にあった時代(1942~45年)に日本の軍部が果たした役割が明らかになってくるはずです。

Ⅰ.衝突の歴史4

1. ポルトガル・スペイン植民地時代およびオランダ東インド会社時代(1511~1799年)

 インドネシアにおけるキリスト教とイスラームの衝突は、ポルトガルとスペインによる植民地時代にまで遡ります(1511~1600年代)。すでにヌサンタラ5では、その数世紀前からイスラームが信仰されており、16世紀初頭以降は多くの王国がイスラーム

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国家となっていました。やがてポルトガルとスペインの探検隊がインドネシアに到達し、それとともに大勢のローマカトリックの僧侶と宣教師がこの地に足を踏み入れました。それは、歴史の負の遺産が持ち込まれることでもありました。十字軍(11世紀末~13世紀)の苦い経験と、同時期スペインを席巻したレコンキスタの精神です。このため宣教師らはイスラームを邪教とみなし、その信者は異教徒、すなわち征服すべき敵であると考えたのです。 やがてポルトガル人とスペイン人はこの地に定住し、マルク(モルッカ諸島)を中心に貿易の拠点を築きます。そうなると当然のように、イスラームを信奉するスルタンとの間でたびたび衝突が起きるようになりました。経済的な利益を手に入れてこの地を支配したいという思惑が当事者を紛争に駆り立てていたことは確かですが、ポルトガルとスペインがローマ教皇から伝道という宗教的使命を託されていたことを考えると、こうした紛争の宗教的な意味や性質にも注目すべきでしょう。イスラーム国家のスルタンが紛争に勝つと、ヨーロッパ人だけでなく現地のキリスト教徒も犠牲になり、逆の場合はムスリムが犠牲になりました。ポルトガル人やスペイン人が卑劣な策を弄して紛争を起こしたり、通商合意にこぎつけたりした例も少なくはありません。その典型的な例が、スルタン・ハイルンが暗殺された事件です。ハイルンの後を継いだ息子のバブラは復讐を誓い、何千人もの現地のキリスト教徒を容赦なく虐殺しました6。フランシスコ・ザビエル7のように、現地の人たちを理解し、友好的に宣教活動を行った者もいましたが、帝国主義的宗教と言う烙印は、その後数世紀の間、キリスト教について回ることになりました。 16世紀末にオランダ人がこの地に東インド会社を設立してからは、両者の関係は一層険悪なものになりました。東インド会社もまた、オランダ改革派(Gereformeerd)教会から、1561年のオランダ信条第36条に基づく宗教的使命を託されていたのですが、オランダ人はポルトガル人やスペイン人ほど福音伝道やキリスト教の布教に熱心ではなく、むしろ商業的利益の追求に力を注いでおり、一部のイスラーム王国やスルタンと頻繁に接触してその関係強化に努めていました。その一方で、ムスリムたちを深く傷つける事件も起こりました。1621年3月にバンダネイラで起きたムスリム虐殺事件もその1つです。東インド会社に雇われていたプロテスタントの牧師、A. Hulsebos 師は、何千人もの原住民が殺害されたこの大惨事を指して、「神に祝福された征服であり、私たちは神に尽きることのない感謝と崇拝の念を捧げなくてはならない」と述べています。またカレル・スティンブリンクは、自著「Dutch Colonialism

and Indonesian Islam(オランダ植民地主義とインドネシアのイスラーム )」(Amsterdam, 1993)のインドネシア語版の中で、東インド会社時代でさえ、両者は「対立する友人同士」の関係にあったと指摘しています。

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2.オランダ領インド植民地時代(1800~1942年) 東インド会社は1799年末に解散し、1800年からはオランダ政府が植民地統治を引き継ぎます。これを機に、ヌサンタラはオランダ領東インド(インドネシア語でHindia-Belanda)と呼ばれるようになりました8。ヨーロッパで啓蒙主義が台頭してくると、オランダ植民地政府は、名目上は宗教的中立の原則を採択しましたが、(ジャワのディポネンゴロ、スマトラのイマム・ボンジョル、カリマンタンのヒダヤット、スラウェシ/セレベスのハサヌディンなどの)ムスリムの王や君主が猛然とこの方針に反発すると、一転してイスラームの活動を厳しく制約する施策を打ち出し、メッカ巡礼(naik haji)やモスク建設を制限しました。ムスリムたちはこうした施策に抵抗し、とくに中東から再生と純化の精神(サウジアラビアのワッハーブ派が提唱し、エジプトのムハンマド・アブドゥーとその一派によって継承された精神)が導入され、 適用されてからは、一層反発の声が強まることになりました。 その一方で、ヨーロッパとアメリカで信仰復興および信仰覚醒運動が起こると、ほぼ時を同じくして多くの宣教団体が布教と福音伝道に力を入れ始めました。植民地政府は原則的に、いわゆる異教徒を対象とした布教活動だけを認めていましたが、植民地政府の幹部の中には、現地人のキリスト教徒の方がムスリムよりも忠誠心が高く、従順であるという理由から、(G・J・ウェステンバーグやA・W・F・イーデンブルフのように)布教活動を積極的に支援する者も現れました。このようなちぐはぐな施策を目の当たりにしたムスリムたちは、植民地政府とキリスト教団体、およびキリスト教信者に対して反発と敵意を募らせてゆきました。 こうした問題の解決をはかるため、植民地政府は、クリスチアン・スヌーク・ヒュルフローニエを Adviseur voor Inlandsche/Islamitische Zaken職(顧問)に任命し、Het

Kantoor voor Inlandsche/Islamitische Zakenという部門を立ち上げました。スヌーク・ヒュルフローニエは政府に対して、イスラームの宗教儀式やその社会・経済・文化的活動を制約してはならないとアドバイスし、これを受けて政府はこうした活動の支援・促進に向けた方針転換を余儀なくされました。その一方で政府は、抵抗を最小限に抑えるために、イスラームの政治活動を厳しく取り締まりました。またスヌーク・ヒュルフローニエは、貴族の子どもたちを西洋社会になじませるために、西洋の教育と文化に接する機会を与えるべきだともアドバイスしています(これは親近化政策と呼ばれています)。 政府はこのアドバイスを受け入れ、その実行に努めましたが、イスラームの全体主義的性格、すなわちムスリムにとって信仰が生活のあらゆる面に及んでいることを理解するまでには至りませんでした。西洋の空気に触れた若いムスリムたちは、植民地主義や帝国主義から自由になりたいという気持ちを募らせてゆき、西洋のイデオロ

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ギーと価値観から持ち込まれた平等、自由、民主主義という概念に触発されて、独自の社会政治的団体を立ち上げるようになりました。こうして20世紀の前半に、Sarekat Islam、Muhammadiyah、Nahdlatul Ulama (NU)、Persatuan Islam (Persis)をはじめとする数多くのイスラーム組織が誕生したのです。何百万人ものムスリムたちの参加を得て、こうした組織は植民地体制を脅かす勢力へと成長してゆきました。政府は、こうした組織の重鎮を植民地議会(Volksraad)の要職に迎え入れたり、組織の存続や拡大を禁じたりするなど、様々な策を講じてこの一大政治勢力を抑え込もうとしましたが、こうした試みは失敗に終わりました。 一方キリスト教徒の側でも、Rencono Budiyo、Mardi Pracoyo、Perserikatan Kaum

Christenなど、様々な社会政治団体を設立して政治の世界に関わろうとする動きが出始め、さらにアミル・シャリフディンや G.S.S.J.(サム)ラトゥランギなど、キリスト教団体の枠を越えて政界で活躍する者も現れました。彼らは、政治的目的を達成する手段として、世俗的愛国者の政党と手を組みたがりました。中には、キリスト教団体として、または「世俗的」団体として、ムスリムとの間に友好的で平和的な関係を築くことに成功したケースもありましたが、キリスト教徒の多くは依然としてムスリムを敵対視していました。

3.日本軍占領時代・独立革命時代(1942~1949年) 第二次世界大戦中、1942年から1945年にかけて、インドネシアは日本軍の占領下に置かれます。この時期はインドネシアにとって、大きな転機となりました。日本政府は、インドネシアを占領するかなり以前から、現地の宗教指導者や政治指導者に取り入るために代表団を派遣するなどして(スパイや女性さえ送り込んでいたのです)、占領に向け着々と準備を進めていました。当時日本にはムスリムがほとんど暮らしていなかったにもかかわらず、日本政府は1938年に大日本回教協会を設立し、1939年には東京と大阪でイスラームをテーマとした大規模な博覧会と会議を開催しています9。この会議には、インドネシアからも大勢のイスラーム指導者たちが出席しました。ですから日本軍がインドネシアに上陸したときに、偉大な同胞として、また西洋の植民地支配からの解放者として大歓迎を受けたのも当然のことでした。ところがインドネシアのムスリムたちは、日本人の方がはるかに非道で残虐であることに程なく気付かされます。また日本軍政はすべての政党を解散させ、インドネシア・イスラーム協議会(Masyumi)という傀儡政党を立ち上げて、政治活動を厳しく制限しました。 キリスト教徒には容赦ない迫害が加えられました。オランダ植民地政府に協力したとして、西洋人も現地人も含め、大勢のキリスト教徒が殺されたのです。一方で現地のキリスト教徒の多くが、日本軍を救援者、ときには救世主として歓迎し称賛したこ

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とが、1942年のクリスマスシーズンに発行された一連のパンフレットや定期刊行物に書かれています。とはいえ、日本軍政に対して批判的な目を向けるキリスト教指導者も大勢おり、彼らは現地のムスリムと結束してインドネシア独立に向けた準備を進めてゆきました。 連合軍に対して勝ち目がないと見るや、占領政府はインドネシアの支援を取り付けるために、独立準備調査会という委員会を立ち上げました。独立準備調査会はインドネシア独立のために準備を進めることを目的とした組織で、68人のメンバーは、「世俗的愛国者」、ムスリム、キリスト教徒で構成されていました。自分たちが少数派であることを認識していたキリスト教徒は、世俗的愛国者のグループと手を結びました。独立準備調査会の仕事の1つは、インドネシア独立国家の憲法を制定することであり、これには憲法の前文に盛り込む国是(当時これはパンチャシラと呼ばれていました)の起草も含まれていました。ごく短期間で小委員会が設立され、憲法の前文がまとめられました。後に「ジャカルタ宣言」(Piagam Djakarta)と呼ばれるこの前文に は、 最 初 の 理 念 と し て「dengan kewajiban menjalankan Syariat Islam bagi

pemeluk2nya(信者としてイスラームの規律を実践する責務を有する)」という7語から成る一節が掲げられていました。 1945年8月17日、インドネシアは独立を宣言します。その翌日、独立国家の憲法を宣言するために召集された委員会の会合で、ヨハネス・ラトゥハルハリが、国是からこの7語の条文を削除することを求めるインドネシア東部のキリスト教徒の要望と決議を伝え、この要望が受け入れられなかった場合はインドネシアから退去し、新たな国家を建設するという決意を明らかにしました。これを受けて、独立宣言の署名者であるスカルノとモハマッド・ハッタ、および世俗的愛国者の主な政党指導者たちは、独立したばかりの新国家の分裂を阻止するためにもこの決議を受け入れるべきだとして、ムスリムの指導者たちの説得に当たりました。最終的に、「この憲法はあくまでも暫定的なものにすぎず、後日包括的な憲法を制定する際に、その中にイスラーム法(シャリア)を盛り込むことを求めればよい」というスカルノの約束に促されて、ムスリム指導者はこの決議を受け入れました。新たな独立政府は、いわば「中和剤」として、イスラーム問題への対応を主な仕事とする宗教省を内閣に設けました。またキリスト教徒とムスリムの両方を閣僚に登用しましたが、その後も閣僚の顔ぶれは目まぐるしく入れ替わりました。このようにして二大勢力(ムスリムとキリスト教徒)は、オランダの支配から独立を維持することも含め、一致団結することができたのです。ところがその後、新憲法制定時に7語の条文を回復するという約束が果たされることはなく、多くのムスリムは今も約束の実行を求めています。

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4.旧秩序時代(1950~1965年) 1949年12月27日、オランダからインドネシアへ主権が譲渡され、新しい時代が幕を開けました。スカルノが主役となったこの時代(1950~1965年)は、後に Orde

Lama(旧秩序時代)と呼ばれるようになります。当初は平和で穏やかな時代が来るものと期待されていましたが、実際はその正反対で、国は分裂し、動乱が国土を覆いました。その嚆矢となったのが、1949年の Darul Islam/ Tentara Islam Indonesia/

Negara Islam Indonesia(インドネシア・イスラーム軍/国家)の反乱です。西ジャワで局地的に勃発した反政府運動が、セカルマンディ・M・カルトスウィロヨの指揮下でアチェから南カリマンタン、南スラウェシへと飛び火し、やがてインドネシア全土を巻き込む大反乱へと発展したのです。彼らが樹立したイスラーム国家の憲法には、ムスリム以外の者が政府の役職に就くことを禁じる条項が盛り込まれていました。また西ジャワや南スラウェシをはじめとする各地のキリスト教徒と教会にも深刻な被害が及びました。 1950年4月25日に独立を宣言したRepublik Maluku Selatan(RMS:南マルク共和国)も反乱と位置付けることができるでしょう。というのもこの国は、1950年8月17日に、Republik Indonesia Serikat(インドネシア連邦共和国)を廃し Negara Kesatuan

RI(単一国家インドネシア共和国)を樹立することをスカルノが宣言したときに、共和国への編入を拒否したからです。1990年代後半から2000年代にかけて RMS運動が勢いを盛り返したときには、一部のムスリムの間から、あれはキリスト教分離主義者の運動だという非難の声が上がりましたが、マルクのキリスト教徒はそれを否定しました。その運動には、マルクのムスリムも大勢参加していたからです。 Pemerintahan Revolusioner Republik Indonesia/Perjuangan Semesta(PRRI /プルメスタ:インドネシア共和国革命政府/全体闘争)の反乱も紹介しておきましょう。この反乱の主目的は、インドネシア共産党(PKI)の勢いを阻むことでした。PKI は以前(1948年)反政府運動を展開していたのですが、その当時は勢力と影響力を増しつつあったのです。また中央政府と州政府の間で国家予算を公平、公正に分配することも第二の目的に掲げられていました。この反乱もやはり政府によって鎮圧されたのですが、この運動は、キリスト教徒とムスリムが、民間人も軍人も含め、一致協力してスカルノ体制に反旗を翻したという点で特筆に値するものです。共産主義のイデオロギーと共産党の勢力に立ち向かい、これを打ち砕くための両者の協力は、次の時代にも引き継がれてゆきました。 この時期、正確には1955年に、インドネシア初の総選挙が実施されました。イスラーム政党は選挙戦勝利を確信しており、勝利の暁には7語の条文を再び憲法に盛り込むとともに、イスラーム法、シャリアを全国に広めようという思惑を持っていまし

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た。ところがその思惑は実現しませんでした。選挙戦を制したのは、キリスト教政党とカトリック政党の支持を受けた「世俗的」愛国者の政党だったのです。しかしイスラーム政党は決してあきらめませんでした。彼らは独立直後のスカルノの約束を引き合いに出し、今回の選挙のために設立された Konstituante(制憲団体)という機関を通して、Piagam Djakarta(ジャカルタ宣言)を憲法に復帰させ、シャリアをムスリムの間に広げるべきだと訴えました。これに対し「世俗的」愛国者たちはキリスト教徒とカトリック教徒と手を結び、こうした動きに抵抗しました。やがて政局の悪化を懸念したスカルノは、1959年7月5日に布告を出し、Konstituanteの解散と1945年の旧憲法への復帰を宣言するとともに、PRRI の反乱に関わったとして、最大のイスラーム政党Masyumiを解散させました。この措置は多くのムスリムをひどく憤慨させました。 1959年7月の布告は、スカルノの独裁的、権威主義的性格を露呈するものとなりましたが、多くのキリスト教徒はスカルノを熱心に支持しており、スカルノを終身大統領に任命する案にすら賛成を表明していました。イスラーム組織の中には、NUのようにこの案を支持するところもありましたが、そのほとんどは反対の立場を取っており、キリスト教側のこうした動きをイスラームに敵対する行為としてとらえていました。 旧秩序体制時代のキリスト教とイスラームの関係については、当時の刊行物から別の側面をうかがうことができます。こうした刊行物が主に扱っていたテーマは、⑴聖典に関するもの(コーランと聖書)、⑵イエス(Isa)とムハンマドに関するもの、⑶それぞれの宗教の布教に関するものの3つでした。確かにスカルノは、両方の宗教に対して深い敬意と理解を示し、両者の融和に向けて前向きな役割を果たすとともに多大な貢献を残しました。ところがそれ以前は、ヨーロッパでもインドネシアでも、キリスト教とイスラームが互いを否定的な目で見ていたために、それぞれが発行した刊行物は相手に対する攻撃と自己弁護に終始しており、協調や健全な交流とは程遠いものでした。

5.新秩序時代(1966~1998年) Gerakan 30 September/PKI(インドネシア共産党による9月30日事件)と呼ばれるクーデター未遂事件を受けて、スカルノの旧秩序時代は終わりを告げました。代わって実権を握ったのがスハルトです。スハルトは、複雑で不透明な手続きを経て憲法上の権限を引き継いだ上で大統領の座に就き、新政権を新秩序体制と名付けました。当時多くのムスリムが、共産党と共産主義を一掃することができたのは自分たちの功績だと自負しており、それゆえにスハルトから厚遇を受けることを期待していました。

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彼らの願いは、Piagam Djakarta(ジャカルタ宣言)とMasyumiの回復でした。ところがスハルトは政権発足後間もなくその要求をはねつけ、彼らを失望に陥れます。スハルトは、民間人も軍人も含め、多くのキリスト教徒を閣僚や政府の役職に登用し、与党 Golongan Karya(ゴルカル)にさえキリスト教徒を迎え入れました。こうした現実は、ムスリムたちの失望を深めてゆきました。 キリスト教人口が急速に増加し、キリスト教徒が政府や社会の要職に就いて数の面でも質の面でもムスリムを圧倒するようになると、ムスリムたちの挫折感と失望感と怒りはますます深まり、あちこちで衝突が起きるようになりました。1967年のマカッサル事件、会堂の建設を制約することを記した2大臣(宗教大臣と内務大臣)の1969年付決定通知、1974年の婚姻法制定、元共産党員の逮捕に対する教会の寛大な処置、世界教会協議会総会をジャカルタで開催するという1975年の計画はじめ、新秩序体制確立直後の10年の間に数々の出来事が起こり、キリスト教徒とムスリムの関係は緊張を高めてゆきました。 何度も失望を味わったにもかかわらず、ムスリムは決して絶望しませんでした。彼らはきわめて体系的に計画を立て、行動を起こして、力を蓄えてゆきました。大勢のムスリムの学生がヨーロッパやアメリカや中東に派遣され、宗教だけでなく、イスラームを発展させ過去の勝利と栄光を取り戻すために必要と目される分野で学問を修めました。国内ではMajelis Ulama(MUI)というイスラーム聖職者のための団体が設立され、ムスリムの女性と非ムスリムの男性の結婚を禁じたり(後にムスリムの男性と非ムスリムの女性の結婚も禁じられました)、ムスリムがクリスマスを祝うことを禁じたりするファトゥア(宗教令)が次々と発行されました。1978年、ムスリムは宗教大臣に働きかけて、他宗教の信者に対する布教、宗教目的による外部資金の導入、および国外からの伝道者の受け入れを法的に制限することに成功し、また1989年には、宗教裁判所に関する特別法の制定にこぎつけました。1988年以降は、キリスト教系の学校に通うムスリムの生徒を主な対象として、生徒の信仰に応じた宗教教育の実施と教師の配置を求める活動を展開し、2003年のインドネシア国民教育システム法の下で全面的な合法化を果たしています。 新秩序体制の最後の10年間、スハルトは大きな方針転換をはかります。軍部からこれまでのような支持が得られないことを察したスハルトは、政府側についてくれそうなイスラーム界の要人や影響力を持つ組織に接近しました。こうした新たな動きの結果、1990年12月に B・J・ハビビを長とする Ikatan Cendekiawan Muslim Indonesia

(ICMI:イスラーム知識人協会)が設立されました。それ以降、キリスト教徒は、政府の役職への登用も含め、様々な面で制約を科せられ、弾圧を受けることになります。キリスト教徒に対する弾圧はその後もますます熾烈化し、1996年6月10日東ジャ

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ワ州スラバヤ Sidotopo、1996年10月10日東ジャワ州シトゥボンド、1996年12月26日西ジャワ州タシクマラヤ、1997年1月30日西ジャワ州レンガスデンクロック、1997年5月23日南カリマンタン州バンジャルマシンでの出来事はじめ、暴動や破壊行為が続発して、大勢のキリスト教徒や教会の建物が犠牲になりました。 ただ長期にわたるこの新秩序時代は、宗教対立と暴力に終始していたわけではありません。この時期にも、キリスト教徒、ムスリムの双方が自分たちを正当化し、相手を非難する刊行物を発行していたことは事実です。しかしその一方では、友好的な対話関係を構築しようという本格的な取組が継続されていました。この時期、キリスト教徒とムスリムの間で、または他の宗教(ヒンズー教や仏教)関係者も交えて、多くの対話集会が開かれています。インドネシア教会協議会(後に PGI[インドネシア教会聖餐共同体]に改称)がムスリムを含む他の団体と主催した一連の Seminar

Agama-agama(宗教に関するセミナー)も対話に向けた機運の醸成に一役買いました。政府ですら、何度も宗教間対話の場を提供しました。キリスト教徒とムスリムのすべてがこうした機運を支持あるいは肯定していたわけではありません。どちらの側にも保守的な考えの持ち主や原理主義的な一派がいたからです。政府がおぜん立てした対話集会は、両宗教のエリート層だけを対象としたものがほとんどであり、草の根レベルまでは達していませんでした。けれども、こうした取組は新たな段階への一歩であり、これまで対立関係にあったキリスト教徒とムスリムに相互理解と交流の道を開いたのです。

6.「革新」の時代(1998~2008年) 1997年後半の多重危機はインドネシアを財政破綻に追い込みました。Kees van Dijk は1997年から2000年のインドネシアを「絶望した国」(Leiden: KITLV, 2001)と呼び、Bapak Pembangunan(開発の父)ことスハルトは退陣を迫られました。当時の混乱の影響は1997年の総選挙にも及びました。1998年3月に新政府が発足し、スハルトとその一派が権力の座に居座る姿勢を見せると、国民から次々と辞任要求の声がわきあがりました。そしてついに1998年5月13日から15日にかけて、宗教関係者も巻き込んだ大規模な流血の暴動が勃発し、スハルトは退陣を余儀なくされ、ハビビに大統領の座を明け渡したのです。 その後目まぐるしい政権交代が続きますが(B・J・ハビビ政権:1998年5月~1999年10月、アブドゥルラフマン・ワヒド政権:1999年10月~2001年7月、メガワティ・スカルノプトリ政権:2001年7月~2004年10月、スシロ・バンバン・ユドヨノ政権:2004年~現在)、国民はその間も、また政権が交代するたびに、今度こそ暴動と対立の時代が終わるだろうと期待していました。ところがその期待はことごとく裏切られ

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ます。1998年11月にジャカルタのクタパン地区とその一帯で暴動が起こったのを皮切りに、翌1998年12月にはポソで10、1999年1月にはモルッカ諸島で紛争が勃発し、長期化しました。2000年から2001年にかけてはカリマンタンでダヤック族とマドゥーラ族の間に民族紛争が生じ、2000年のクリスマスイブには爆破事件が起こりました。2001年9月11日にニューヨークのワールドトレードセンターを襲った同時多発テロの余波はインドネシアにも及び、2002年10月12日にはバリが爆弾テロの犠牲になりました。こうした出来事は、いわゆる「革新の」時代が(少なくとも2005年までは)流血の惨事と宗教間対立に血塗られた時代だったことを物語っています。 この混乱の時期、一部のイスラーム勢力が憲法改正を画策し、Masyarakat Madani

(市民社会くらいの意味)という概念を打ち出しましたが、ここには、インドネシアに構築する市民社会はイスラーム社会であるべきだという意味合いが込められていました。この動きと並行して、1945年の改正憲法に Piagam Djakarta(ジャカルタ宣言)を盛り込もうとするいつもながらの取組が進められ、また1999年の地方自治法を根拠に、多くの州や県(kabupaten)にイスラーム法シャリアが導入されました。忘れてはならないのが、2003年のインドネシア国民教育システム法です。この法律には、信心深く従順な生徒を育成するという国の教育の主目的が掲げられており、自分の信仰に応じた宗教教育を、同じ宗教を信仰する教師から受ける権利が生徒一人一人に認められました。また生徒の信仰に応じた宗教施設を設けることが学校に義務づけられています。この法律に対しては、多くのキリスト教徒やキリスト教団体が抗議し、反対の声をあげましたが、メガワティ政権は反対を押し切ってこの問題だらけの法律の発布に踏み切りました。こうした重大な問題については、後ほどさらに詳しく解説します。

Ⅱ.現状

 このようにキリスト教徒とムスリムの衝突の歴史をざっと振り返ると、両者の関係をめぐる数々の重要な問題が浮かび上がってきます。いずれの問題もいきなり現れたわけではなく、その裏には長い歴史と背景がありました。またインドネシアのキリスト教徒にとって、これほど緊張の高まった状況の中で生き延び、信仰を発展させることが、どれだけ困難なことであったかがお分かりいただけたことと思います。ただ、歴史が証明しているように、こうした問題の第一原因(causa prima)としてムスリムだけを責めるのはお門違いです。キリスト教徒の側がムスリムに対して不正や欺瞞を働いてきた例は過去にいくらもあり、それがムスリムを復讐に駆り立てた側面もあるからです。

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 幸いなことに、ここ5年間で流血を伴う衝突は過去最低レベルにまで減少しています(もっとも一部の地域では今も偶発的な衝突が起きていますが)。本稿の第2部では、過去の出来事にルーツを持つ今日的な問題を幾つか取り上げて、簡単に検証したいと思います。こうした問題の中には相互に関連し合っているものもあります。

1.教会の建設の禁止と建物の破壊 教会が破壊される事件はすでに1950年代当時から起きていましたが、その件数がピークに達するのは1996年から2005年にかけてのことです。この「ピーク・シーズン」中に破壊された教会の建物は1000軒以上にのぼりました。1969年9月13日、事件の増加を見越した宗教大臣と内務大臣が、すべての宗教を対象に、礼拝施設の建築を制約する旨の共同決定通知第1/1969号を発行しました。ところが一部のムスリムの団体がこの共同決定を逆手に取り、周辺住民の合意に基づく政府の建設許可証(Izin

Mendirikan Bangunan)を得ていないとして、教会の建築を禁じたり、教会を次々と破壊したりする暴挙に出たのです(ときには建物を焼き払ったこともありました)。 ムスリムがこうした行為に出た理由の1つに、教会が一部の地域に集中していたという事情がありました。これは数多くの教会組織が宗教省に登録していたためでした(2004年までにローマカトリック組織1団体と非ローマカトリック組織323団体、計324の組織が宗教省に登録を済ませていました。この他に未登録の組織が数十ありました)。どの組織も信者の暮らす場所毎に礼拝施設を建てたいと考えており、その当然の帰結として、一部の地域ではモスクが1棟しかないのに対し、キリスト教教会が何棟も(ときには十数棟も)存在するという事態が生じたのです。 2006年3月21日、宗教大臣と内部大臣は、⑴多宗教の共存、⑵多宗教共存のためのフォーラムの強化、⑶礼拝施設の建設に関する新しい規制を共同で発表し、その中で礼拝施設を建設するための条件を定めました。すなわち、施設の利用者が90人を超えていること、そして他宗教を信じている周辺住民60人以上が書面で建設に合意することを建設許可の条件としたのです11。 それ以降教会の破壊行為は下火になりましたが、それでも2008年までに100棟前後の教会が破壊されました。一部のムスリム団体が、この規制を盾に、条件を満たしていない教会を次々と破壊し出したのです。その一方で、正式な許可を得ずにムスリムの礼拝施設が建設されるケースも多数ありました。こうした困難な事態に直面し、宗派の異なる多くの教会組織の間で、礼拝施設を統合する動きが出始めました。Persekutuan gereja-gereja di Indonesia/PGI(インドネシア教会聖餐共同体:インドネシア教会協議会)も、教会一致運動の精神に則り、繰り返し教会組織の統合を呼び掛けましたが、その訴えは虚しく虚空に響くだけでした。

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2.法律文におけるイスラーム法シャリア 一部のムスリム団体の間では、1950年代から憲法をはじめとする法律文にイスラーム法を盛り込もうとする動きが出ていましたが、「革新の」時代(1998年)に入るとこの動きはさらに加速しました。具体例を幾つかご紹介しましょう。a.憲法改正 一部のムスリム(とくに強硬派や過激派)は今も「ジャカルタ宣言の7語の条文」を憲法に盛り込みたいと考えています(Ⅰ .3項参照)。つまり彼らは、インドネシアがイスラーム法に基づいた国家となることを願っているのです。彼らがよく口にする理由に、インドネシアは世界最大のムスリム人口を擁する国である、というものがあります。現在インドネシアの総人口は2億3500万人で、公式の統計によると、ムスリムがそのうちの85%を占めており、キリスト教人口は10%12前後、その他の「認定」宗教の人口(ヒンズー教、仏教、儒教など政府に認可された宗教)はおよそ5%という内訳になっています。 1945年憲法は、1999年から2002年にかけて、国民協議会(MPR)総会の場で4度にわたって改正されましたが、上記のムスリムの思惑は実現しませんでした。Nahdlatul UlamaやMuhammadiyah(いずれも1億人近いメンバーを擁すると公称しています)などの穏健派イスラーム組織が、7語の条文の回復を目指す取組に加担しなかったためです。こうした展開は、イスラーム法シャリアを国や社会の生活に導入したいと考えているムスリムたちを大いに失望させました。それでも彼らは決してあきらめず、他の立法手順や様々な法的手段を通して取組を継続しています。一方で近代的な穏健派集団は、イスラーム市民社会(Masyarakat Madani:預言者ムハンマドがマディーナに建設した初期のムスリム社会を指す)という概念を打ち出し、「イスラーム国家にノーを! イスラーム社会にイエスを!」というスローガンの下、イスラーム法を国の憲法に盛り込むのではなく、イスラーム的価値観を社会生活に導入し、その浸透をはかるという路線で活動を進めています。彼らの目指すのは、マディーナのように、ムスリム以外の信者にも信仰の場が確保されているイスラーム社会です。b.地方自治と地方条例 一部のムスリムは、イスラーム法シャリアを法律化することを決してあきらめませんでした。憲法にイスラーム法を盛り込むことに失敗した彼らが次に狙いを定めたのは、地方の条例でした。きっかけとなったのは、革新運動を受けて、1999年地方自治法が制定されたことでした。この法律により、独自の条例を制定する権限が(州、県のレベルも含め)地方自治体に与えられたのです。こうして設けられた地方条例の中には、すべての学校の生徒(とくに女子生徒)にムスリムの服装の着用を義務づけた

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り、公務員志願者にコーランを朗読させることや、ラマダーン(断食月)の間に飲食した者に懲役刑を科すことを定めたりしたものがありました。多くのキリスト教教会や PGIなどのキリスト教組織がこうした条例に反対し、憲法裁判所に提訴して司法の判断を求めています。c.婚姻法13

 多元的社会の当然の帰結として、また新秩序時代に入ってからのキリスト教人口の急速な伸びを背景に増えてきたのが、キリスト教徒とムスリムの perkawinan

campuran(混交結婚・異宗教間結婚)です。ところがこれまでは、この件について明確に定めた法令は存在していませんでした。政府内ではすでに1950年当時から、植民地時代の法令に代わる、またはこうした法令を一元化した新たな婚姻法を制定しようという動きがありました。1973年7月と8月、政府は婚姻法の草案を公開しましたが、イスラーム界の重鎮は、イスラームの法と教えに背くものだとしてこの草案を却下しました。異宗教間結婚を認めた条文や、宗教の違いは結婚の妨げとはならないという条文が盛り込まれていたためです。彼らは、これは「キリスト教化」の一端を担うものだとして、政府の姿勢を非難しました。 アルウィ・シハブ14は、ムスリムがこうした疑念を持つのはもっともであるとの見解を示しました。1969年からカトリック政党が議会(DPR[GR])の場で全国的な婚姻法の必要性を訴えるとともに、イスラーム婚姻規則の草案を却下していたという背景があったためです。また有力イスラーム組織Muhammadiyahの当時の指導者HAMKA15がこの件について「少数派が勢いを増し、多数派の道が狭められている」ようだとコメントしてからは、これは少数派と多数派の問題へと発展しました。これに対し、初の宗教相に就任した H・M・ラスジディは、当時中カリマンタン州知事を務めていたシルヴァヌス(キリスト教徒)とソロのスルタンの娘、B・R・A・クス・スピアーの結婚を引き合いに出して、政府の姿勢を正当化しようとしました。婚姻法は1974年1月2日に法律第1/1974号として施行されましたが、ムスリムと一部のムスリム団体の抗議を受け入れる形で、批判のあった条文は改定され、混交結婚が許可される旨を明記した条文は削除されました。 新婚姻法とその実施規則第9/1975号により、教会が発行する結婚証明書は法的効力を失いました。そのために教会のメンバーが正規の婚姻証明書を取得しようと思えば、住民登録局で婚姻を登録しなければならなくなりました。信仰を異にする男女間の結婚は禁止されているわけではありませんが、混交結婚の是非については今日になってもまだ決着がついていないのが現状です。婚姻法では混交結婚について一切言及されていないことから、教会は DGIおよびMAWI(後の PGI[インドネシア教会聖餐共同体]と KWI[インドネシア教会会議])と協力して、植民地時代の法令を引

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き合いに出すことにより、混交結婚の合法性を訴えました。新しい実施規則に、本新法に定めのある事項については、旧法の規定は効力を失うとする経過条項が盛り込まれていることを根拠に、混交結婚は合法的であるとの判断を下したのです。逆にいえば、新法が混交結婚について定めていない以上、この件については旧法の規定が今も適用されることになるからです。 この解釈と理屈に基づき、1980年前後までは、信仰を異にする男女同士の結婚を祝福することが教会に認められていました。一方、ムスリムたちは、キリスト教化を目論む企みだとしてこの動きを非難し、Majelis Ulama Indonesia(MUI:インドネシア・イスラーム聖職者協議会)は1980年6月1日と1986年9月30日の2度にわたって、混交結婚、すなわちムスリムと非ムスリムの結婚を禁じる(haram)旨のファトゥア(宗教令)を出しました。住民登録局が混交結婚の登録を拒否したこともあり、それ以降混交結婚の件数は大幅に減少しています。もっとも異宗教間のカップルでも国外に出れば合法的な結婚が可能であり、裕福な層を中心に、今もこうした形の婚姻が行われています。d.国民教育システム法16

 1988年5月、インドネシア政府は、フアド・ハッサン教育文化相を通して、国民教育法の草案を発表しました。この法律の下で宗教教育を実践することが可能かどうか、可能であればどの程度実践できるのか、また政府がこの問題を規制する権限をどの程度持つのかということが主な争点となりました。実際のところ、この問題は1970年、あるいはそれ以前からすでに検討されており、とくに目新しいものではありませんでした。基本的に問われたのは、宗教関係者が経営する私立学校で、生徒が自分の信仰に応じた宗教教育を受ける権利を持つか否かという点でした。具体的な問題点は次の通りです。キリスト教系の学校に通うムスリムの生徒は、イスラームの宗教教育を受ける権利を持つか。持つとすれば、キリスト教系の学校は、カリキュラムの一環として、授業時間中にイスラームの宗教教育を行い、専門の教師を配置し、専用礼拝室などの施設を整えなくてはならないのか。もしそうなら、それはそのキリスト教系学校の特色と目的に反することにはならないか。 こうした問題への回答はムスリムにとって非常に大きな意味を持っていました。これまで見てきたように、ムスリムたちは、キリスト教系学校はムスリムの生徒にキリスト教教育を施してキリスト教化をはかっていると考えていたからです。この件についてはすでに1960年代から O・ハシェムが抗議しており17、これを受けて1973年に国民協議会(MPR)総会でもこの件が審議されています。与党ゴルカルが、世俗国家のように、宗教教育は学校教育から切り離して家庭や社会に任せるべきだとの見解を示したのに対し、イスラーム政党である PPPはその案を退け、小学校から大学ま

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で、宗教教育を必須科目にすべきだと主張しました。両者の間で意見の一致を見なかったために、この問題は結局棚上げになりました。その後 PPPはMPR総会で再度この問題を提起しましたが、このときは投票により、PPP案は却下されています。 一方で新しい国民教育法を制定するための作業が開始され、1978年に特別委員会により草案が完成されました。けれどもこの草案が議会に提出されたのはフアド・ハッサンが教育文化相の座に就いてからのことで、このときはムスリム団体が反対を唱えました。これに対してキリスト教徒、インドネシア民主党(PDI)、および「世俗的」立場の議員は、宗教教育は個人の問題であり家庭に任せるべきだとの判断に基づき、草案に賛成しました。長時間にわたる審議の末、キリスト教政党の反対を押し切る形で、「宗教教育を担当する教師は、生徒と同じ宗教を信仰していなければならない」という条項が説明書に盛り込まれました。一方で、両者の間で基本的合意に達し、この第2/1989号国民教育システム法に定められた条項もありました。宗教教育を国民教育システムに付随するものとして位置づけ、小学校から大学まで、すべての学校で必須科目とするという条項です。 現実には、2005年までは、キリスト教系の学校はすべての生徒に対してキリスト教の宗教教育だけを行っており、イスラーム系の学校はイスラームの宗教教育だけを実践していました。キリスト教系の学校の多くが、学校の特色に応じた宗教教育を行うことに異存はない旨を明記した承諾書を生徒の父兄から取りつけていました。一方新しく施行された第20/2003号国民教育システム法では、キリスト教界の反対にもかかわらず、説明書ではなく本文の第12条に、問題となった条項が盛り込まれました。キリスト教界はそこに定められた教育目標にも反対を表明していたのですが、2007年10月5日、この新法の施行規則(Peraturan Pelaksanaan nr. 55)が発布されました。これを受けてキリスト教系学校では現在、新法を適用し、その規定に従うための諸準備が進められています。e.ポルノグラフィ禁止法 ポルノグラフィ禁止法の一般説明書(2008年10月30日発布)にも記載されているように、グローバル化と科学技術(とくに情報通信技術)の発達により、昨今ポルノが盛んに制作され、流通するようになりました。そのため、インドネシア国民の高い倫理観と高潔な人格に悪影響が及ぶとともに、インドネシア社会の生活と社会秩序に混乱が生じています。インドネシア国内のポルノの横行は、不道徳ないかがわしい行為の増加にもつながっています。 (キリスト教徒も含め)インドネシア社会の構成員は誰もがポルノを排除すべきだと考えています。けれども一部の構成員や集団(とくにムスリム)の要望や判断だけを基準にポルノを定義し、法律で規制するとなると、数々の問題が生じます。ポルノ

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グラフィ禁止法には、キリスト教徒だけでなく、多くの愛国者や男女平等推進派からも反対の声があがっています。この法律に定められたポルノグラフィの定義には、伝統的な文化や美術に対する配慮がなく、また何の敬意も払われていない(たとえばパプア人が着用するペニスケース(コテカ)や、バリやジャワの彫刻や舞踊までもがポルノ扱いされている)というのがその理由です。またこの法律が女性だけをポルノの対象とみなし、扱っていることが、男女平等推進派やフェミニストなどの反発を招いています。さらに一部の団体は、この法律が、裸になることや性行為など、国の法律が規制すべきではないプライバシーにまで多くの制約を科していることを指摘しています。国が国民の私生活に干渉し、深入りしすぎるのは、人権侵害に当たるというわけです。 起草の段階から2008年10月の発布に至るまで、国内の多くの団体がこの法律に反対してきました。バリ、パプア、北スラウェシ、小スンダ列島南東部(ヌサトゥンガラティムール)などの州では、住民や自治体が、この法律が施行されたらインドネシア共和国から脱退するとまで宣言して、反対の意思を表明しました。MUIをはじめとするムスリムの団体は、ほとんどがこの法律の適用に賛成し、これを支持しましたが、2008年11月に PGI(CCI/NCC)が主催した第8回教会・社会会議では、神学的、社会学的根拠に基づき、この法律に反対するという姿勢が打ち出されています。

3.刊行物とメディアにおける衝突18

 インドネシアにおけるキリスト教徒とムスリムの(紛争とまでは言わないまでも)衝突は、すでに植民地時代から始まっていました。旧秩序時代から「革新の」時代に至るまで、キリスト教徒、ムスリムの双方が論争的な刊行物を発行し、その数は時代を追うごとに増えてゆきました。こうした刊行物は主として説教や討論を記録したものであり、主に次の3つのテーマが扱われていました。⑴聖典:最初に作られ、神の啓示を真に伝えているのはどちらの聖典か。⑵イエスキリスト(Isa Almasih)とムハンマド:イエスキリストは一預言者にすぎないのか(イエスが預言者であることは、ムスリムもコーランも認めています)、それとも主であり神の子であるのか。ムハンマドは最も偉大な預言者なのか。イエスよりも偉大なのか。⑶布教:他宗教の信者に対する布教活動は許されるのか。それとも布教活動はその宗教の信者だけを対象とすべきか。こうした論争は両者の緊張を高め、武力紛争の引き金となりました。 幸いなことに、宗教間対話に向けた取組(以下参照)が始まると、こうした論争的なものに加えて、両者の融和を促す刊行物も発行されるようになりました。キリスト教側からは、1981年以降、DGI/PGIの音頭で宗教に関するセミナーが開催されています。年に1度のこのセミナーには、「公認」宗教(当初はイスラーム、カトリックを

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含むキリスト教、ヒンズー教、仏教が公認されていましたが、後に儒教も追加されました)や、ときには部族宗教やスピリチュアルな信仰集団などの代表者が、聴衆として、あるいは講演者として参加しています。こうした場では、これまでにインドネシア国民の生活や苦境といった具体的な問題や、人類全体に関する普遍的な問題が話し合われました。セミナーの結果は文書にまとめられ出版されていますが、その他にも、セミナーに触発された各宗教の代表者が、宗教間の融和を訴える文書を執筆し、発行しています。

4.国民の生活と社会におけるキリスト教徒の立場と役割 ここまで本稿を読み進めてきた皆さんは、キリスト教教会と現地社会の交流や関係がほとんど一貫して緊張と対立に満ちていたような印象を持たれたかもしれません。またそうした結論に至った方もおられるでしょう。確かにそのようなニュアンスが完全になくなったことは、これまでに1度もありませんでした。とはいえ両者の間に、友愛と平等の精神に満ちた非常に友好的な触れ合いが多数生じていることも事実です。以下にそうした事例を幾つか紹介しましょう。a.日々の社会的交流 ムスリムに比較してキリスト教人口が少ないにもかかわらず、先に紹介した紛争地域を除き、両者の日々の関係は総じて良好です。紛争地域でさえ、ここ数年(2006年以降)、両者の関係は正常化しつつあります。拡大家族の場合、家人が別々の宗教を信仰しながらも仲良く暮らしている例はいくらでもあります。一方核家族の場合、夫と妻が異なる宗教を信仰し(子どもがそのどちらかの信仰を引き継ぐ)ケースは比較的少ないのですが、それでもこうしたケースは決して珍しくもなければ奇妙でもありません。教育現場でも、幼稚園から大学に至るまで、生徒や教師・講師は様々な宗教を信仰していますし、職場では、公的機関であれ民間企業であれ、信仰を異にする人たちが一緒に働いています。中央タパヌリ、シピロック‐アンコラのように、キリスト教徒とムスリムがごく当たり前に様々な社会行事に協力している地域もあります。一部の宗教政党の争いや反目が必ずしも社会生活にまで負の影響を及ぼしているわけではないのです。b.政府職員の雇用と昇進における「比例」政策 旧秩序(スカルノ)時代には多くのキリスト教徒が政府の要職に登用され、また新秩序(スハルト)時代に入ってからもそうした時期が長く続きました。ところがICMI(イスラーム知識人協会)の設立を境に、1996年以降は、キリスト教徒が政府の職員に採用されたり、昇進したりする機会は減りつつあります。理由の1つとしてよく引き合いに出されるのが「比例」政策です。キリスト教徒が人口に占める割合は

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10%であるため、政府の職員に占める割合も10%にとどめなくてはならないという政策です。けれどもこの政策は厳密に適用されているわけではなく、たとえば今現在も、多くのキリスト教徒が軍司令官や警察署長の職に就いています。この政策が全面的に施行されたとしても、キリスト教徒は民間部門に活路を開くだけのことでしょう。現に貿易、工業、通信、サービスなどの分野には、キリスト教徒が所有する大企業が数多く存在しています。

5.「第2トラック外交」などによる宗教間対話 紛争と論争の歴史を経て、多くの国民の間で平和な生活への思いが高まる中、キリスト教徒とムスリムをはじめとする様々な宗教の信者たちが政府と手を結んで、宗教間対話のための催しやフォーラムや機関を立ち上げています。1967年以降、とくに「革新の」時代を中心に、Paramadina Foundation(イスラーム穏健派)、Masyarakat

Dialog Indonesia (Madia)、Dian Interfidei、インドネシア宗教平和委員会(ICRP)をはじめとする数々の催しや機関が誕生しました。外務省でさえ、何度も繰り返されてきた武力対立のマイナスイメージを払拭するために、こうした催しや機会を活用しています。また同省は、いわゆる「第2トラック外交」を通して、内外で(国外では主にオランダ、スペイン、アメリカ、フィリピン、ニュージーランド、カンボジアなどで)多くの宗教間対話の催しを主催したり、参加したりしています。 こうした催しやフォーラムの場では、国内の問題だけでなく、国際的な問題も取り上げられています。イスラエル・パレスチナ紛争、デンマーク紙が預言者ムハンマドの戯画を掲載した事件、主流派のムスリムがアフマディヤ派を逸脱者と呼んだ事件(ただし人権関連文書に宗教の自由が保障されているとして、キリスト教徒からは共感の声が寄せられました)、中世の十字軍時代の対立をめぐるローマ教皇ベネディクト16世の発言など、インドネシア国外で起きた事件が信仰を異にする人々の生活に重大な影響を及ぼすケースがあるからです。強硬派のムスリムは、キリスト教徒がイスラエルを支援しているとして、あるいはこうした事件の黒幕であるとして、繰り返し非難の声を上げていますが、対話の催しを開催することにより、こうした誤解が解消されることが期待されています。 対話を促すこうした活動に胡散臭い目が向けられることもあります。とくに政府がそうした活動を開始したり、後援したり、組織したりしている場合は、その裏に、現体制の秘められた意図があるのではないかと疑われがちです。こうした対話の催しは社会の上層部だけを対象としており、草の根レベルにまで下りてきていないという批判もあります。こうした批判の声は、強硬派のムスリムだけでなく、保守的、原理主義的キリスト教徒からもあがっています。しかしながらこうした活動は、これから先

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も果てしなく続いてゆく長い道のりの一部にすぎないのです。

まとめ

 拙著「A History of the Encounter(衝突の歴史)」は、「まだ希望はあるのか」と題する最終章で締めくくられています。この中で私は多くの争点に対して結論を出すとともに、歴史的、神学的観点から個人的な考察を加え、その結果を基に、歴史の教訓を活かして平和で調和のとれた生活を実現し、共存をはかってほしいという心からの期待と願いを込めて、キリスト教徒とムスリムのそれぞれに、そしてその双方に対して、数々の提言を行いました。 この考察から明らかになったことは、インドネシアにおけるキリスト教徒とムスリムの衝突の歴史を教訓としなければならないということです。インドネシアの人たちは、現在およびこれから先、他宗教との接触や交流にどのように対応すべきかということを、この衝突の体験から学ぶことができるでしょう。そのためには、2000年にパランカラヤで開かれた PGI(インドネシア教会聖餐共同体)の総会で、オランダ改革派教会の Dr. Bas Plaizier総主事がそうしたように、自分の間違いを告白することも必要です19。また今や、日本はじめ世界中の多くの国でムスリム人口が増えており、相互理解と尊重のための新たなパラダイムを確立することが求められています。そうした国に対し、インドネシアにおけるキリスト教徒とムスリムの衝突の体験は、意義のある貢献をすることができるはずです。 インドネシアは、キリスト教徒とムスリムをはじめとする異宗教間の交流の歴史を重ね、数々の体験をしてきました。こうした体験を通して、私たちは多元主義への理解を深めるとともに、ますます多元化するグローバル社会で平和的な生活の実現に努めなくてはなりません。二者択一的なものではなく、双方を活かすことを志向しているアジア的な神学のパラダイムは、私たちの教会と社会生活において神学を実践する上で、大きな力となるでしょう。

注1 2009年2月13日金曜日、同志社大学神学部・神学研究科にて発表。

2 ジャカルタ神学大学(インドネシア)教会史教授兼学長、インドネシア教会聖餐共同体(CCI/NCC)

副議長

3 ヌサンタラでは、北スマトラの西海岸地方を中心に、7世紀からネストリウス派の教会・-共同体が存

在していたが、11世紀前後には姿を消している。その原因はまだ解明されていない。ネストリウス派

について詳しく知りたい場合は、HCI第1章が最も参考になる。

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4 このセクションはほとんどが拙著 Sejarah Perjumpaan Kristen dan Islam di Indonesia(インドネシア

におけるキリスト教とイスラームの出会いの歴史)(Jakarta: BPK Gunung Mulia, 2004; 32006)の要約

である。またカレル・スティンブリンクとの共編著インドネシアにおけるキリスト教の歴史(略称

HCI)(Leiden etc.: E.J. Brill, 2008)第2章と第6章にもこの部分の要約を記載している。

5 ヌサンタラとは、インドネシアそのものを指す本来の呼び名。インドネシアという国名が使われ出し

たのは19世紀末以降である。

6 1570年2月28日に起こったスルタン・ハイルン騙し討ち事件の顛末は、テルナテ市に建てられた記念

碑にはっきりと刻まれている。また2000年以降、テルナテで武力衝突が起きたときにも、この事件の

ことが引き合いに出されている。

7 ザビエルは、イエズス会の宣教師として、1549年から1551年まで日本でも布教活動を行っている。

8 1811年から1816年/24年までインドネシアは、トーマス・S・ラッフルズの指揮下で英国に占領され

ている。

9 ハリー・J・ベンダ「Bulan Sabit dan Matahari Terbit(三日月と日章旗)」(Jakarta: Pustaka Jaya, 3rd

print, 1985), p. 133f

10 以下の出来事により、ポソ紛争は2005年まで続いたとみなされている。2004年7月18日 GKSTエファ

ンタ教会(パル)における Susianty Tinulele牧師射殺事件。2004年12月12日爆破・乱射事件。2005年

5月 Irianto Kongkoli牧師(GKST総主事)射殺事件。2005年10月キリスト教系学校に通う女子学生数

人が頭部を切断され殺害された事件。

11 詳細については、Gomar Gultom (編): Seputar Izin Mendirikan Rumah Ibadah: Dari SKB ke PBM([政

府の]礼拝所建設許可について : From SKB [1/1969] to PBM [9/8-2006]). Jakarta: PGI, 2006を参照。

12 キリスト教人口を20%超とする「非公式」の「楽観的な」データもある。キリスト教徒が二重、三

重、ときには四重登録していることがこうした「水増し」の主な原因となっている。

13 本項目の内容のほとんどは、Aritonang et al. (eds) 2008:210fからの引用である。.

14 ア ル ウ ィ・ シ ハ ブ : Membendung Arus: Respons Gerakan Muhammadiyah terhadap Penetrasi Misi

Kristen di Indonesia (Bandung: Mizan,1998), p.180.

15 HAMKAについては Aritonang 2004:406に引用(HAMKAとはMuhammadiyah指導者のニックネー

ム。本名は Haji Abdul Malik Karim Amarullahという)。

16 ほとんどの部分は、Aritonang et al. (eds) 2008:215fからの引用による。

17 O・ハシェムについては、Aritonang 2004:444に引用。

18 詳細については、Aritonang 2004: 179f, 354-362, 479-494

19 Aritonang 2004:608f,