名曲探偵 ミュ~ジック・ホ~ムズ...

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“会議は踊る”ウイーン会議の風刺画 名曲探偵 ミュ~ジック・ホ~ムズ 《荘厳ミサ曲》の謎を解く !! 激動の時代と空白の6年間 1812 年は、当時のヨーロッパにとって、またベートーヴェン(当時 42 )にとっても、変化の多い年なんじゃ。実はこの年、《第 78 交響曲》の成功で得意の絶頂にあったはずのベートーヴェンだが、極度のスランプに陥ってしまう。その後、1818 年頃までの 6 年間に作曲されたのは、後に自身も駄作と認めた《ウェリントンの勝利(戦争交響曲)作品 91》とわずかな器楽曲だけじゃ。 この年に、有名な「不滅の恋人」に失恋をしているが、これも原因の一つではないかと言われている。 古今東西、女性の力は大きいのうおほん!! さ~て、1789 年に端を発したフランス革命だが、実は自国に革命が波及するのを恐れた 周辺諸国は同盟を結び、軍隊を送って革命を押さえようとした。そんな折、ナポレオンが登場 し、こうした外圧との戦いに連勝を重ねると、一躍フランス民衆の英雄となる。しかし、彼が皇 帝となりヨーロッパ征服の野心をもち領土拡大戦争に乗り出すと、周辺諸国は、彼を打ち破る ことがヨーロッパの自由の解放につながると考えるようになった。1812 年、ナポレオンがモスクワ 遠征に失敗し、翌年ビトリアの戦いでウェリントン侯爵率いるイギリス軍に負けると、ウイーンで は愛国的な気運が高まった。ベートーヴェンもこれに乗じて《ウェリントンの勝利》を作曲すると、 これが大受けし、各地で演奏され絶賛されるようになるんじゃ。 ナポレオンが失脚しエルバ島に流されると、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すた め、オーストリアのメッテルニヒの提唱でウイーン会議(18141815)が開かれる。ウイーンでは 《ウェリントンの勝利》を始めベートーヴェンの作品がこれまで以上に数多く演奏 された。歌劇《フィデリオ》は何と 16 回も演奏されたんじゃぞ。しかし、「会議は 踊る、されど進まず」と酷評されるように、連日行われたのは舞踏会ばかりで、ナ ポレオンがエルバ島脱出との知らせが入ると散会してしまう。ベートーヴェンの世 俗的名声は、はかなく消えてしまう。彼はウイーン体制自体が王政復古のため のもので、自分が会議の気運を盛り上げるために利用され、自分も安易にそれ に乗じていたと気付くんじゃ。 Mr. Music Holmes えへん!! 諸君、こんにちわ。前号を参考に《荘厳ミサ曲》を聴いてくれたかな。 どうじゃ、カトリックのミサ曲としては少々違和感はなかったかな? 例えば、第3 曲クレドの最大の山場、最後の「Et vitam venturi saeculi. Amen」とか、 同じクレドの『昇天』を表す上昇旋律の躍動感や『最後の審判』を表すトローンボーンの響き、 また、第 5 曲のアニス・デイ後半の突如として割り込んでくるトランペットや打楽器の響き等、 どうであろう? ・・・ドラマティックでもあり、およそ教会音楽らしくないな。どうしてかのう? ・・・ 実は後にワーグナーはな、この曲について、 「人声はまったく人間的楽器というような意味で取り扱われている」とか、 「最も純正なベートーヴェン的精神を持つ純交響曲的な作品」とまで言っているんじゃぞ。 今回は、そうした《荘厳ミサ曲》にまつわる謎、また作曲された経緯や、 ベートーヴェンの人生でどのような意味を持つ作品なのかについても明らかにしていく。 いくぶん長くなるが、よ~く読んでくれたまえ。 落ち込んだ?ナポレオン 7/22 名古屋市民コーラス 作成/ベートーヴェン研究会 No.5 あれこれ情報満載 2014 -1-

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  • “会議は踊る”ウイーン会議の風刺画

    名曲探偵 ミュ~ジック・ホ~ムズ 《荘厳ミサ曲》の謎を解く!!

    1 激動の時代と空白の6年間

    1812 年は、当時のヨーロッパにとって、またベートーヴェン(当時 42 歳)にとっても、変化の多い年なんじゃ。実はこの年、《第 7、

    第 8 交響曲》の成功で得意の絶頂にあったはずのベートーヴェンだが、極度のスランプに陥ってしまう。その後、1818 年頃までの 6

    年間に作曲されたのは、後に自身も駄作と認めた《ウェリントンの勝利(戦争交響曲)作品 91》とわずかな器楽曲だけじゃ。

    この年に、有名な「不滅の恋人」に失恋をしているが、これも原因の一つではないかと言われている。

    古今東西、女性の力は大きいのう!おほん!!

    さ~て、1789 年に端を発したフランス革命だが、実は自国に革命が波及するのを恐れた

    周辺諸国は同盟を結び、軍隊を送って革命を押さえようとした。そんな折、ナポレオンが登場

    し、こうした外圧との戦いに連勝を重ねると、一躍フランス民衆の英雄となる。しかし、彼が皇

    帝となりヨーロッパ征服の野心をもち領土拡大戦争に乗り出すと、周辺諸国は、彼を打ち破る

    ことがヨーロッパの自由の解放につながると考えるようになった。1812 年、ナポレオンがモスクワ

    遠征に失敗し、翌年ビトリアの戦いでウェリントン侯爵率いるイギリス軍に負けると、ウイーンで

    は愛国的な気運が高まった。ベートーヴェンもこれに乗じて《ウェリントンの勝利》を作曲すると、

    これが大受けし、各地で演奏され絶賛されるようになるんじゃ。

    ナポレオンが失脚しエルバ島に流されると、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すた

    め、オーストリアのメッテルニヒの提唱でウイーン会議(1814~1815)が開かれる。ウイーンでは

    《ウェリントンの勝利》を始めベートーヴェンの作品がこれまで以上に数多く演奏

    された。歌劇《フィデリオ》は何と 16 回も演奏されたんじゃぞ。しかし、「会議は

    踊る、されど進まず」と酷評されるように、連日行われたのは舞踏会ばかりで、ナ

    ポレオンがエルバ島脱出との知らせが入ると散会してしまう。ベートーヴェンの世

    俗的名声は、はかなく消えてしまう。彼はウイーン体制自体が王政復古のため

    のもので、自分が会議の気運を盛り上げるために利用され、自分も安易にそれ

    に乗じていたと気付くんじゃ。

    Mr. Music Holmes

    えへん!!諸君、こんにちわ。前号を参考に《荘厳ミサ曲》を聴いてくれたかな。

    どうじゃ、カトリックのミサ曲としては少々違和感はなかったかな?

    例えば、第3 曲クレドの最大の山場、最後の「Et vitam venturi saeculi. Amen」とか、

    同じクレドの『昇天』を表す上昇旋律の躍動感や『最後の審判』を表すトローンボーンの響き、

    また、第 5曲のアニス・デイ後半の突如として割り込んでくるトランペットや打楽器の響き等、

    どうであろう? ・・・ドラマティックでもあり、およそ教会音楽らしくないな。どうしてかのう? ・・・

    実は後にワーグナーはな、この曲について、

    「人声はまったく人間的楽器というような意味で取り扱われている」とか、

    「最も純正なベートーヴェン的精神を持つ純交響曲的な作品」とまで言っているんじゃぞ。

    今回は、そうした《荘厳ミサ曲》にまつわる謎、また作曲された経緯や、

    ベートーヴェンの人生でどのような意味を持つ作品なのかについても明らかにしていく。

    いくぶん長くなるが、よ~く読んでくれたまえ。

    落ち込んだ?ナポレオン

    7/22

    名古屋市民コーラス

    作成/ベートーヴェン研究会

    No.5

    あれこれ情報満載 2014

    -1-

  • うん?コーヒーブレイク?

    その後、メッテルニヒは民衆の自由な主張を取り締まり、政治的な弾圧を始める。そして、

    国民の関心を政治からそらす文化政策をとるようになる。真面目に考えたり議論するのは時

    代遅れとし、軽薄な振る舞いや気風を流行させたのじゃ。ウイーンはみるみる低俗化し、文化

    水準も堕落の一途をたどるようになる。ベートーヴェンも常に監視され、作曲や演奏会も政府

    の検閲を通過しなくてはならず、自由に活動することが難しくなってしまった。交響曲第3番

    や第 5 番に代表される英雄的な作品は好まれなくなり、彼と交流した多くの貴族たちも彼と

    距離を置くようになる。ナポレオンの戦争がもたらした極度のインフレのため物価は高騰し、

    ベートーヴェンの暮らしも極端に悪化していった。また、リュウマチを始め様々な病気にかかり、

    健康を回復する自信を無くしてしまう。こうした様々な要素が重なり、彼をさらに無気力のど

    ん底に陥れていったんじゃ。

    2 復調と《荘厳ミサ曲》の作曲

    こうした状況の中で、彼が求めていったのは神なんじゃ。別に、キリスト教会に足を運び始めたというわけでは無いぞ。彼はインドの

    哲学書をもあさって、神は何かを極めようともしている。青少年期、ボンのカトリック教会で音楽師として過ごしたが、信仰心を持つま

    でには到っていなかったようじゃ。ベートーヴェンがこの時ほど神を身近に感じたことは無かったであろうな。彼が求めたのは全知全能で

    自然を創造した神じゃ。彼の音楽を創造する精神のよりどころを、こうした彼の心にある神に求めたのじゃ。

    1818 年になると、少しずつ気力がよみがえり、回復の兆しが見えてくるようになる。

    それを反映させるかのように、《ピアノソナタ第 29 番変ホ長調『ハンマークラビア』作

    品 106》の作曲に取りかかる。そしてこの頃、「自分の心の中にあるのは宗教的主

    題だけ」と知人に漏らすようになる。宗教的な作品を作り上げたいという意欲が高ま

    り、宗教曲の具体的な構想も始めているんじゃ。

    1819 年、技術的にも難曲中の難曲として知られるこの巨大なピアノソナタを完

    成させ、本来の作曲活動を再開するんじゃ。

    この年、ルドルフ大公の大司教就任決定に伴い、ベートーヴェンと大公との間でミ

    サ曲献呈の約束がなされると、彼は大公の図書館に通い始め古今のミサ曲を徹底

    的に研究し始める。その結果、「ヘンデルとバッハだけが真に天分のある宗教音楽を

    書いている。」とまで言っている。こうして、古くから築きあげられてきた教会ミサ曲の伝

    統が、《荘厳ミサ曲》の作曲に反映せられていくことになるのじゃ。

    3 作曲姿勢の転換

    《荘厳ミサ曲》の作曲は、あらかじめカトリックの世界観が与えられているので、これまでのような、表現したい思想や感情が先にあ

    り、ソナタや交響曲の形式で音楽にしていくやり方とは随分異なる。バッハは敬虔なプロテスタントだが、《ロ短調ミサ》は、自分の主

    義主張とは関係なくカトリックのミサ曲として曲を書いているし、ヘンデルやモーツアルトも同じじゃ。しかし、ベートーヴェンにはそれがで

    きないんじゃな。彼はカトリック教会のミサの世界に自らを投入し、自分の心の中にある神、思想・世界観とを納得のいくまで比較し

    検討し理解しようと奮闘した。このため、《荘厳ミサ曲》の作曲には、当初から膨大な時間とエネルギーを費やすことになるんじゃ。

    やがて、ベートーヴェンは自分の世界観とカトリックの神との間に、大きなずれがあると感ずるようになる。そして、クレドの作曲を意

    識する頃から、作曲の方向を大きく変えていこうとする。心にある神を中心とした自分自身の世界観をもとに曲を作っていく。つまり、

    カトリックの信仰や儀典の内容にとらわれず、自分独自の《荘厳ミサ曲》を創造していくことにしたのじゃ。例えば、クレドで最も自分が

    重視する「来世の生命を待ち望む アーメン “Et vitam venturi saeculi. Amen.”」の一文を、曲全体の三分の一をも占め

    る長大なフーガとして構成する。反面、カトリックの教典に関する部分は、早口で歌わせる等いとも簡単に扱っていることじゃな。

    ベートーヴェンは精神的に完全に立ち直り、気力も一層充実していく。1822年には《ピアノソナタ第30番ホ長調作品109》《第

    31番イ長調作品 110》《第 32番ハ短調作品 111》を次々に完成させる。ベートーヴェンは自分の心の大きな変わり目に、ピアノ

    ソナタを作曲するんじゃな。実~に、興味深い話しじゃろ。そして、《荘厳ミサ曲》の作曲も、効率よ~く進められていったんじゃな。

    苦悩するベートーヴェン

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  • ベートーヴェンホール前のモニュメント

    (ドイツ、ボン)

    4 「第九」への道

    作曲が進み、第 5 曲アニュスデイに取りかかった頃、彼はある結論を下す。人々の自由や

    平等な活動の保障は、教会の神に求めて得られるものではなく、人が力を合わせ、自分たち

    の力で勝ち得ていくものだとな。彼はそのことを音楽にしたいと考えるようになるんじゃ。アニュス

    デイ後半の「dona nobis pacem.平安を授けて下さい」は、本来カトリックのミサに参加した

    人々の、心の安らぎを祈るものだが、ベートーヴェンはここに「戦争、暴力、略奪や弾圧のない

    平和への願い」を持ち込んだ。心の平安と安らぎを表すメロディーと、トランペットや打楽器に

    よる不安を表す部分が交互に表れ、最後には平和を求めるものの満たされない現実を表し

    て曲を閉じてしまう。冒頭の「Bitte um inneren und äußern frieden『どうか、内なる平

    安と 外なる平安を(お願いします)』」の書き込みは、出版後に記入されたとされるが、当

    時のベートーヴェンの境遇や心境をオーバーラップさせたのじゃ。

    そして、彼の心の中には、ある巨大な構想が頭をもたげていく。自由・平等という人間が生まれながらにして持つ権利を、自分たちの

    手で勝ち得る勇気をたたえた、人間賛歌の音楽を創造することをじゃ。

    ベートーヴェンは1812年にすでに《ニ短調の交響曲(第九)》を書くことを決意していた。実際に取り組んだのは、スランプから復

    調しはじめる 1818年じゃ。その頃作曲中の作品の下書きに、第九の第 1楽章のスケッチが書かれているんじゃぞ。

    《荘厳ミサ曲》の作曲と平行しその後も第 2、第 3楽章が構想されていくが、第 4楽章はまだ歓喜とは異なるものであった。当初彼

    は下の譜例のような物を考えていた。これは後に別の作品《弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132》に用いている。(譜例参照)

    1822 年《荘厳ミサ曲》を完成させた後、ベートーヴェンは第九の第4楽章に直ちに取りかり、ここではじめて「相愛」やシラーの

    「歓喜によす」が登場するんじゃ。そして、《第九》の作曲が本格的に進められるのじゃ。

    5 《荘厳ミサ曲》作曲の意義

    《荘厳ミサ曲》の作曲に費やした 1818年から 1822年までの年月そのものが、

    ベートーヴェンの自己回復の歴史と言ってよい。その 4 年間で自分という存在が何であ

    るのかを追究し、形作られた新しい自分(自我)の上に、さらに発展させていく創造

    の足場を固め、新しく歓喜への道に立つことができたと言えるのじゃ。

    「ベートーヴェンは《荘厳ミサ曲》を通して彼の後期の扉を開いた」とも言われている。

    彼の後期とは、《第九》以後に作曲された、5曲の《弦楽四重奏曲 作品 127、130

    ~132、135》と《大フーガ 作品 133》を指す。ベートーヴェンは器楽曲の完全なる調

    和を、最終的に弦楽器に求めたのじゃ。

    《交響曲第9番ニ短調作品 125》は、紛れもなくベートーヴェンの人生の総決算で

    あり、彼の人生哲学の結論と言える。そして、《荘厳ミサ曲ニ長調 作品 123》は、その

    偉大なる結論に到達するための、彼が踏みしめていった足跡であり、壮大かつ崇高な

    軌跡であると言えるのじゃ。

    以上のことを十分理解して、11 月の定期演奏会では、

    ベートーヴェンの思いを存分に表現してくれ給えよ。

    それでは、諸君の素晴らしい演奏会を期待している。

    《弦楽四重奏曲第 15番イ短調作品 132》 第 5楽章

    From Music Holmes

    Oh! I’m sorry !! ヒゲ sorry!!

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  • ◆ピアノの革新と作品

    1787年16歳のベートーヴェンが最初に所有したピアノはシュタイン製作のピアノだった。ウィーン式アクション

    で軽やか(鍵盤の重さは今の1/5)で透明な音をもち、弱音が美しい。音域は5オクターヴでペダルは膝レバー。

    1792年21歳でウィーンに移住したベートーヴェンは、ヴァルター製作のピアノを使用。低音が豊かに響き、低

    音と高音、弱い音と強い音の対照がシュタイン製より明確。

    1796年ピアノ製作者シュトライヒャーから贈られたイギリス製ピアノを使用。 《悲愴》 《月光》 《テンペスト》

    1803年パリのエラールからイギリス式アクションを備えたピアノが贈られた。(挿絵1)各キーに 3本の弦が対応

    し、膝ではなく足で操作する4本のペダルを使用することにより、革新的なソナタが生まれる誘因となった。

    音域は5オクターヴ半。 《ワルトシュタイン》 《熱情》

    ベートーヴェンが《告別》(1809~1810 年)に取り組んだころには、ウィーンのピアノも大型化しており、足ペダル

    が3本から5本に増え、音域も6オクターヴから7オクターヴ近くまで拡大されていた。

    1818年ロンドンからブロードウッドのピアノ(挿絵2)が届いた。6オクターヴだがウィーンのピアノより低音が豊か

    な響き。 《ハンマークラヴィーア》 《最後の3つのソナタ》

    1825年にはウィーンのグラフが6オクターヴと4度の音域をもち、低音側の各キーに4本の弦を張った新しいピ

    アノをベートーヴェンに提供しているが、ベートーヴェンには実際に鳴る音がもう聞こえなかった。

    19 世紀になるとウィーン式かイギリス式かは消え、工業が発展していたイギリスのブロードウッドやフランスのエ

    ラールが発明した金属枠を使用した現代のピアノの基礎となる変革がされた。だがベートーヴェンは生存中に

    それを見ることはなかった。

    ◆最後まで衰えることがなかった楽器への好奇心 ベートーヴェンの時代のオーケストラは、現代の楽器と外見は似ているようでも、実際

    には構造や演奏法が異なっているものが多い。ヴァイオリンの駒は現代より低く、弓の持

    ち方も違い、あごあてやチェロのエンドピンはまだ普及していなかった。フルートの蓋付

    をベームが発明したのは、1847 年のことである。管楽器においても、ヴァルブやキーは

    ほとんど使用されていない。

    ピアノの場合と同様、オーケストラの楽器でも音量の増大、音域の拡大、半音の容易な

    演奏をするための試みが行われたり、今までにない楽器が使用される。

    《交響曲第5番》第4楽章で、ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンが初めて加わる。こ

    れらの楽器はそれまでの交響曲に使われていない。またホルンのソロが用いられている。

    《交響曲第6番田園》の第4楽章では、弦楽器、管楽器とともにティンパニ、ピッコロ、

    トロンボーンが激しい嵐を効果的に描き出している。

    《交響曲第9番合唱付き》の第4楽章 で、コントラファゴットがファゴットと大太鼓とともにトルコ風の行進を先導する。

    最新技術に魅了されるベートーヴェン

    優れた演奏家でもあったベートーヴェンは、楽器そのものにも深い関心をもっていた。日進月歩の発達を遂げていたピアノの最新型を

    手に入れては、それに合わせた作品を次々 と創っていく。ピアノの技術革新は、彼の創作活動の一役を担っていたといえる。

    ベートーヴェンはウィーンをはじめ、パリ、ロンドンからも新型ピアノを提供され、彼が実際に弾いたことのあるピアノだけでも 10 台以上

    ある。当時はピアノばかりでなくオーケストラの様々 な楽器の製造に革新的な改造がなされた時代であった。

    (挿絵1)エラール・ピアノ

    (挿絵2)ブロードウッドのピアノ

    メトロノームを初めて使ったのはベートーヴェン! メトロノームは 1815年にメルツェルによって発明された。

    難聴者であったベートーヴェンにとって、曲のテンポが視覚的に把握できるメトロノームは、うってつけの

    道具であったといえる。1816年以降に作曲された楽曲のすべてにメトロノームの速さが指定されている。

    ただこの速さは、あくまで『ベート-ヴェンがメトロノームから割り出した適切な速

    さ』で、なかには現実的に「演奏不可能寸前の速さ」もあった。

    当時のメトロノームは機械式の為、湿度や部品の精度によっても速さが違って

    きたそうだ。とはいえ、速度を数値化するこの機械に基づき、具体的な数字を

    挙げて自作のテンポを折に触れて指定した作曲家といえばベート-ヴェンが

    パイオニアといえるだろう。なんと!お墓がメトロノーム型だ。

    ベートーヴェンが所有した弦楽器

    参考文献:「ベートーヴェン・ミサソレムニス」「ベートーヴェン・第九・フランス革命に生きる」小松雄一郎 「ベートーヴェン」音楽之友社 「モストリー・クラシック」産経新聞出版

    メルツェルが 1815年制作

    ベートーヴェンのお墓

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