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宝泉寺 宿泊仏教実践会ご法話 2009 6 5 日(3 日目) 足るを知る(s ㋚ン㋣ゥッ㋢ィ antuwwhiそれでは、よろしくお願いします。 だいたい日本では、皆様方だけじゃなくて誰でも知っている言葉がありますね。「小欲 知足」というね。これは仏教の言葉ですけど、日本では何か一つの単語で考えていますけ ど、あれは二つなんです。今日はこの「知足」というね。「足を知る」。 お釈迦さまが何か言葉一つを語ると、ものすごく面白いんですね。ものすごいことを観 察した上で語るんですね。いつでも、「全ての生命の生き方は何なのか」ということで語 るんですけど、まあ全ての生命の生き方だからね、個人個人にも適応はします。だから、 「仏陀の言葉は小さい」とかね、「これは人間にわかりやすく喋っただけで、もっとすごい 教えが別にある」とかね、そういうのは全く邪見で、良くない危ない考えで、仏陀の言葉 はそのまま、小さいでも大きいでもなく、それで完成した概念なんですね、何でも。 だからそれは、一言葉でもすごい言葉で——ということを証明するために、「知足」と いうことを説明しようかなと思ったんですね。説明の仕方が沢山あります。まあ、今日は ただ一つだけ。 「足を知る」ということですね。パーリ語では santuwwhi(サントゥッティ)という言葉 ですからね。santuwwhi というのは、「喜び」という意味なんです。「喜び」ということは もうちょっと変えて、「満足」なんです。ですから正しく訳する場合は、santuwwhi という のは、「満足」というふうに訳しなくてはならない。この「満足」ということが、伝統的 に漢文に訳すときは、恐らく「知足」というふうになったでしょうね。 それで、何か一見「知足…そんな大した意味じゃないんではないかな」と思ったりする。 santuwwhi ということは、楽に言えば「喜んで生活しなさい」と。「なんだこれ、別に当た り前でしょう。 『満足しなさい』ということも何かすごい当たり前の話じゃないかな」と思っ てしまうんですね。そう聞こえても、問題は、「当たり前なんですけどなかなか実行でき ない」という人間の弱味もあります。

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Page 1: 宝泉寺 - whhousen.main.jp/bukkyou/santutthi_.pdf宝泉寺 宿泊仏教実践会ご法話 2009 年6 月5 日(3 日目) 足るを知る(s aンn tゥuッw whィi) それでは、よろしくお願いします。

宝泉寺 宿泊仏教実践会ご法話

2009 年 6 月 5 日(3 日目)

足るを知る(s㋚ン㋣ゥッ㋢ィ

antuwwhi)

 それでは、よろしくお願いします。

 だいたい日本では、皆様方だけじゃなくて誰でも知っている言葉がありますね。「小欲

知足」というね。これは仏教の言葉ですけど、日本では何か一つの単語で考えていますけ

ど、あれは二つなんです。今日はこの「知足」というね。「足を知る」。

 お釈迦さまが何か言葉一つを語ると、ものすごく面白いんですね。ものすごいことを観

察した上で語るんですね。いつでも、「全ての生命の生き方は何なのか」ということで語

るんですけど、まあ全ての生命の生き方だからね、個人個人にも適応はします。だから、

「仏陀の言葉は小さい」とかね、「これは人間にわかりやすく喋っただけで、もっとすごい

教えが別にある」とかね、そういうのは全く邪見で、良くない危ない考えで、仏陀の言葉

はそのまま、小さいでも大きいでもなく、それで完成した概念なんですね、何でも。

 だからそれは、一言葉でもすごい言葉で——ということを証明するために、「知足」と

いうことを説明しようかなと思ったんですね。説明の仕方が沢山あります。まあ、今日は

ただ一つだけ。

 「足を知る」ということですね。パーリ語では santuwwhi(サントゥッティ)という言葉

ですからね。santuwwhi というのは、「喜び」という意味なんです。「喜び」ということは

もうちょっと変えて、「満足」なんです。ですから正しく訳する場合は、santuwwhi という

のは、「満足」というふうに訳しなくてはならない。この「満足」ということが、伝統的

に漢文に訳すときは、恐らく「知足」というふうになったでしょうね。

 それで、何か一見「知足…そんな大した意味じゃないんではないかな」と思ったりする。

santuwwhi ということは、楽に言えば「喜んで生活しなさい」と。「なんだこれ、別に当た

り前でしょう。『満足しなさい』ということも何かすごい当たり前の話じゃないかな」と思っ

てしまうんですね。そう聞こえても、問題は、「当たり前なんですけどなかなか実行でき

ない」という人間の弱味もあります。

笛泰
テキストボックス
スマナサーラ長老のご説法 (高橋優子さん文字データ・PDF制作 2009.8.27)
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 それで「満足する」ということは、生命はやらないんですね。それだけじゃなくて、「そ

れはどうったことがない」と思います。しかしたったそれだけで、「全ての生命の問題、

苦しみはどういうものか」ということが、「一切生命の問題はどうなっているのか」とい

うことは、説明はできます。

 「満足しない」ということは、すごい俗っぽい言葉に入れてみると「もうちょっと」と

いうことなんです。「もう少々」。

 満足しない人にとっては「もう少々」と思って、この「もう少々」を取ったところでも

満足しないんだから、「もう少々」になるんです。これで大変です。きりがなくなっちゃう。

 確実にもう少々必要ならば、「欠けている」という意味なんですね。欠けているものに

対しては、ガチャガチャ言う必要はないんですよ。お腹がすいている人にはご飯がなかっ

たら、それは欠けているでしょうに。「ああご飯が欲しい」と思ったら、それは別に。

 問題は「もう少々」なんですね。それをやめて欲しいんです。

 まず分かりやすい例は、今現代社会は、金という何か変なもので動いているんですね。

それは、本当はいらないんですよ。一応、金の場合は「金が必要でしょうか」といったら、

当然現代社会は全て金で動いていますから、生きることは金で動いているんですね。だか

ら当然、生きる必要がありますね。だったら「金が必要」ということになります。だから

「金が必要でしょうか」といえば、必要です。「どれぐらい?」それに誰も答えを持ってな

いんです。

 だから、そこはものすごい巨大な問題なんですよ。誰一人も、「どれぐらい」というこ

とのリミットを持ってないんです。これは途轍もない危険なことなんです。

 だから金が必要だから頑張るし、頑張ると金が入るし、入っても「もう少々」でしょう?

 これで、できる人は「もう少々、もう少々」でむちゃくちゃ大量に貯めちゃうんです。

そうなってくると、人類は生きることができなくなるんです。金と人間とは関係がありま

すからね。人間がいないと金がないんです。だから必ずそれは、人間に関わるもので。だ

から人間努力するのは、自分が生きるためなんです。その人間の努力は金で計算する。そ

こで一人が無数に大量に貯めておくと、他の人々の努力を全部搾取しているんです。

 だからその病気でどんな人も悩んでいるんです。金持ちであろうか、一円も持ってない

貧乏であろうか、「もう少々」の病気は無いわけじゃないんです。

 それで「豊かで誰にでも『もう少々』得られる」ということも有り得ないんです。成り

立たない。なぜならば、みんな「もう少々」だからね。だからそれは成り立たない。

 バーレーンかな、小さな国がありまして、石油がすごいありまして。国民は誰一人も仕

事はしない。誰も仕事しない。税金もない。全部政府で、むちゃ金をみんなにあげている

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んです。これもできるし、すごい小さな国でそんなに人々もいないし。じゃあそういうふ

うな国だったら有り難いんじゃないかと、イスラム教だからやっぱりみんなに生活できる

ように全部金を配っている。それなら国の財産は国を維持管理するために使って、残りは

全部均等に分けなくちゃあかんですけど、やっぱり王様がいるんですよ。それであと王様

の家来やら色々、そちらはもう想像できん状態でまた生活している。

 じゃあそういうところで、「もう少々」の問題を解決しているのかと、それはないんです。

結局はこちらより問題は一杯あるんです。そういうふうに、成り立たないんです。

 なぜならば、そこは世界に石油を売って、世界の財産を自分の国に入れているだけで。

それで石油の値段が上がると、貧乏な国でも豊かな国でもお金を払わなくちゃいけないで

しょうに。だからそういう国々に国民みんなに国から給料貰いますよと、税金もゼロだよ

と、なんだらかんだら言ったっても、そのためにどれぐらい人が苦しんでるんですかね。

他の国々で。借金で石油を買っている国々もいますから。

 だから理想的にでも成り立たないんです。理想的というか、観念的にでも。どんな人間

にでも、この「もう少々」の病気があるんです。そういう人々にもあります。

 だから常に人間が互いに憎しみ合う、殺し合い、戦い、ということが成り立つんです。

仲良く和合して生活することは有り得ないんです。「もう少々」という気持ちがある限りは、

同じ人間であっても他人がライバルなんです。敵なんです。

 それは金が現れる前にはなかったかなというと、そうでもないんです。やっぱり、山に

入って山の野菜を採って生活する人だとしたっても、足が速い人は沢山採って帰ってくる。

余分に採るんです。

 やっぱりいつでも昔からも、生命みんなにその病気があるんです。

 それから「じゃあ勉強する」ということになったらどうですかね。それも、「もう少々」

の問題でひっかかるんです。

 充分生きるために必要なことを知っても、またあれやこれや、いらんことやら、あれや

これやと頭に溜めるんです。だから知識にしたっても、必要で役に立つ知識よりは、どう

でもいいものというのは大量に溜めておく。だから教育社会も、すごく厳しい、恐ろしい

社会に、弱肉強食の社会になっています。すごい恐ろしい社会なんです。

 ウォールストリートとなんの変わりもないんです。研究する人々も、人の研究を盗むわ、

ものすごい激しいことで競争するわ。だからあらゆる問題が起きてくるんです。

 社会問題は私は別にどうでもいいやと思いますけど、人間どこまで心を痛めつけて、壊

れて、生きることが不可能になっているのかと。

 だから壊してはならないものは、心です。汚してはならないものは、心です。心が命な

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んですね。

 だから「生きるために」と思って、生きること、命そのものに自分で害を与える。だか

らそこで、矛盾な生き方をしているんです。「私は幸福で生きていきたいんだから毒を飲

みます」という生き方なんです。「私は美味しいものを食べたいんだからフグの肝を食べ

ます」と。それで死んじゃいますからね。だから人間の生き方は、いつでも自殺行為になっ

ているんです。

 だから命はすうっと輪廻転生して絶えず続くんだから、自殺しちゃえば簡単ですけど、

止まらないんですね。

 まあ例えば、普通のストーリーで考えましょう。ある人に、死に神が特権を与えます。「君

は死なないことにします」と。命を持って行かないんだと。有り難いことに見えるでしょ

うに。そこでこの人が八十歳に、二百歳に、三百歳になったりすると、身体はぼろぼろに

なっても死なないんです、それでも。そこでヨタヨタ歩くとトラックに撥ねられちゃうん

です。トラックが身体の上をサーッと行っちゃいます。ぐちゃぐちゃになるんだけど、死

なないんです。しかし、あの苦しみは味わわなくちゃいけないんです。私たちが心臓発作

を起こしたら、ぽっと死んじゃいますよ。だからそんなに沢山苦しみを味わえないんです。

もう死んじゃいますからね。これで、肋骨全部カチャッと潰されて、心臓も潰されて動か

ない状態になっても死なないんだから。どれほど苦しみを味わわなくちゃいけないんです

かね。

 だからこの生命っていうのは、瞬間瞬間、生滅変化します。だから無限に続いちゃいま

す。今の瞬間の命がなくなって、次の瞬間の命が現れる。それが消えて次が現れる。止ま

らないんです。

 だから「自殺行為」という単語は、すごく軽すぎ。こういうことだから、無量に苦しむ

んですよ。

 だから我々はこの病気で、「もうちょっと」という病気で、知識を得ることにしたって

も「もう少々、もう少々」、技術を得ることにしたっても「もう少々、もう少々」、おしゃ

れすることにしたっても「もう少々」、服を買うことにしたっても「もう少々」。それは全

て、何であっても、自分を極限に苦しませる、いじめられる行為なんです。心がいじめて

いるんです。

 で、身体もいろいろダメージ受けていますけど、それはそんなに大袈裟なことではない

んです。「もう少々」食べたことで、26 歳なのに高血圧と糖尿病があるんだよとかね。ま

あそんなにどうったことはないんですよ。身体が壊れて死にますけど。

 心に与えるダメージというのは、苦しみというのは、大量、無量ですよ。極限なんです。

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だから肉体が壊れて命も終わったということはないんです。だから病気は心にあるんです。

また悪いことに。ここで死んでも、命は続いちゃいますからね。あの病気を持って行くん

です。そこでまた同じ事をやっちゃいます。

 何で動物であろうか喧嘩する、縄張り争いする。ひどく怪我したりして。

 猿とか、喧嘩してものすごい怪我して、噛みつくんだから。私は見ると、ものすごく悲

しいし見ていられないんですね。しかし、しょうがないんです。猿の世界だからね。猿の

山もありますからね。見てみると、あんまり美しい社会じゃないんです。残酷な社会なん

です。あんな汚い身体で噛まれたら、歯も磨かない猿たちでしょうに、歯も磨かない猿が

キッと噛んだら肉が離れてしまいますよ。それで怪我した猿が、それ痛くて痛くて、舐め

るしかないんです。それで病気が大きくなったり化膿したり、そうなってくると餌を捕れ

なくなったり。

 何でそんなことをするのかと。やっぱり「もう少々」論理なんですよ。

 ボス猿は全部雌猿を捕まえていて、他の雄猿がちょっと誰かに恋をしたら、もうやられ

ちゃいます。

 このあいだ猿の山に行ったんですけど、私はあまり面白くないんだけど、日本の方々は

猿はものすごく好きだからね。私は猿ということじゃなくて、動物は全然嫌いじゃないん

だからね。虫でも何でも、すごい喜んで見ていますけど。でも、猿の群れを見るとやっぱ

り楽しくはないんですね。出家したくなるんです(笑)。「もう嫌や、何だこの生き方は」と。

 そこで、雌たちが自分の子供は大事に守る。こちらは関係ないんだけど、猿たちは自由

に走ったりするし、子供の猿でもちょっと勝手に来て何か身体に触ったりして。でも母親

が見たら、こちらに攻撃するんです。「いい加減にしろよ。お前、自分の子供を躾しなさい」

と言いたいんだけど、こちらに攻撃するんです。だから「皆気をつけて。可愛い可愛いか

らといって、小猿が側に来ても触るなよ」と。私は一生懸命「ただ知らない顔をして見て

ください。目を合わせたら何するかわからないんだ」と。

 それほど子供のことを可愛がってますけど、餌配る時は子供にはあげないんです。追い

出すんです。「なんだこれ」と。だから子供は本当に大変ですよ。

 だからいいことは、猿っていうのは「もう少々」病気がひどいんだから、取れるやつを

いっぱい取って走り回るんですね。どこかに行って全部食べて、落ちるんですね。こぼれ

るんですね。そこは、他の弱い猿たちとかね。だから母親が沢山持って歯を見せたりして

逃げるんですけど、やっぱり一つ二つ落ちるんです。それを子供が拾って食べなくちゃい

けない。だから頭も悪くて「もう少々」の病気もひどいんだから、何となく小猿は生きて

いますけど、人間になってくると逆なんです。生きていられなくなっちゃうんです。

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 だから動物にしたっても戦う。猿だけじゃなくてね。どんな動物もすごく強烈に戦うん

です。それは、この「もう少々」の病気なんです。それでひどいこと。

 思考っていうのは、私は言うでしょう、ものすごい間違いなんです。人間には…人間じゃ

なくて生命には、正しい思考をするということは有り得ないんです。認識は、「捏造して

認識するプロセス」なんです。法則なんです。だから捏造している認識だから、これは正

しいわけじゃないんです。

 だから何も考えなくたっても、考えない方が、すごい人生は幸福になるんです。安全に

なるんです。

 しかし、見ると心は刺激を受けるし、味を感じると刺激を受けるし、この刺激で心は回

転するんですね。だから、心にもこの「もう少々」病気がひどく——まあ心にありますか

らね。心はこの刺激に対して、決して満足しないんです。刺激は腐るほどあるんです。

 心は刺激がないと、次の心を作るエネルギーが生まれないんです。エネルギーがなくなっ

ちゃうと、心はそれでストップするんです。だから「ずっと輪廻転生して苦しみたい」と

いう欲求があるんだから。それで刺激を要求するんです。

 だから目でいくら見ても足らないんです。目が見えなくなっても「また見たい、見たい」

と。「見えないほど見たんだからいいかげんにしろよ」と言いたいんだけど。耳が壊れる

まで音、音楽などなど聞いたら、それで耳が神経も壊れちゃって聞こえなくなる。それで

悲しがるんですね。「何とか聞く方法がないのか」と。

 いくら刺激があっても足らない。しかし、一分間でも大量に刺激が入るんです。そのエ

ネルギーで、もう二百年ぐらいでも心は続けます。一分間で溜まる刺激で。これは、一分

たりとも絶やすことなく刺激を与えるんだから、どれぐらい悪いエネルギーが溜まってい

るかというと、もう知らないんですね。すごい沢山。知れないんです。

 それで刺激を得る一番手っ取り早い方法は、「いらんことを考えること」なんです。根

拠のあることを考えると、長い時間考えられないんです。証拠あること、根拠あることを

考えると、すぐ考えて終わっちゃうんです。

 例えば、「今日は新聞来ましたかなあ」と思考が現れる。それは、ある現実についての

思考でしょう。「新聞、はい来ました。ありますよ」と言われたら、話は終わりですね。

それには一週間悩んで妄想することはできないでしょう? だから具体的な現実的な思考

はすぐ終わっちゃう。

 それにこの愚かな心が、現実離れの、どうでもいい、終わらない、結論は出ない思考を

することにするんです。いくらでも妄想で。妄想というのは、そういうこと。現実じゃな

いんだから、いくらでも考えることができます。

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 それで、感情・煩悩・汚れというのは、現実思考ではそれほど現れません。

 例えば、どこかで雇われたりする。で、給料は一時間千円だとすると。で、自分が現実

的に計算する。そうすると一週間どれぐらい収入があるのかとわかる。それで話が終わり。

「収入はこれぐらいだ」と。あまり刺激がないんですね。ではなくて、「金が欲しいなあ」

と考えてください。どれぐらい妄想できるのかと。

 現実離れするといくらでも恐ろしく、これが自己破壊に持って行くんですよ。自己破壊、

自己いじめ、ものすごい残酷に心は痛めつけられます。心はストップしないんだから。

 だから人間が悟れない理由も、そちらにあるでしょう。「もう少々」なんです、病気は。

「満足しない」という。

「まあ当たり前の話でしょう」と見えますけど、そうじゃないんです。すごい教えなんです。

生命の病気の原因を、ものの見事に見いだして、誰にでも理解できる言葉で語っているん

です。だからヴィパッサナー冥想も妄想を遮断するためにやってますけど、遮断しません

ね。その代わりに、もっともっと倍率を上げてやっちゃいます。冥想しない時よりも沢山

しちゃう、という。「もういい加減やめろ」ということにはならないんですよ。あの「も

う少々」の病気に罹っているんです。

 だから「過去と将来を捨てろ」とお釈迦様がおっしゃっているのは、ものの見事な教え

なんです。過去は死んじゃってもう無いんだと。将来っていうのは現れてないものだから

無いでしょうし、形がまだできていないんだから、考えたっても無駄なんです。

 だから今日・今だけになってくると、そんなに病気になるまで考えることはないんです。

すごくニコニコと笑っていられます。別に、今の問題だけだから。大袈裟なことは何もな

いんです。

 だから別の言葉で言えば、「私に今の 10 秒で問題があるのか」と。「ひどく悩んだり、

落ち込んだり、人を殺したくなったりするほど、人の家に火を点けたくなるほど大きい問

題が今の 10 秒でありますか」と、「自分に解決できない問題が、今の 10 秒でありますか」

と訊いてみてください。「今の 10 秒」で無いでしょう? 「今の 10 秒」なら、ニコッと笑っ

て生活できない何かある? 原因は? 何もないでしょう。 

 「今の 10 秒」なら、何かあったってもどうったことない。「『今の 10 秒』といったっても、

足が痛いんだ」と、これって大袈裟な問題じゃないでしょうに。「じゃあ、伸ばしちゃえば」

と、それで解決。

 だからいつでも「今の 10 秒」である問題は、ものの見事に解決できるでしょう? だっ

たら死ぬまで、一生同じことでしょうに。何でそうならないんですかね。「じゃあ、『今の

10 秒』だけ生きてみる」と。そうしたらいつでも…まあ 10 秒も長いんだけど、我々は悟っ

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てないんだから 10 秒ぐらいにしましょう。「じゃあ、この 10 秒だけ頑張る」と。その哲

学で生きてみれば、その時点でもう人生は最高に幸福でしょうに。一切、何も問題無いで

しょうに。どんなトラブルが起きたっても、たった 10 秒のこと。解決できます。

 しかしどうですかね、人間、人類は。そんな幸福に誰一人でも生きている? みんな地

球が丸ごと自分の頭の上に乗っかったような感じで生きていますね。アトラスですね。あ

れって何ですかね、頭の上に乗っかっている地球は? 全て妄想でしょう。ギリシア物語

で出てくるアトラスも、地球は頭に乗せてないんですよ。背中で持っているんです。その

人はもうちょっと楽ですけど(笑)。これ、頭の上に乗せてますから。

 だから身動きできないんです。誰のせいでもないんです。何で地球ぐらいの問題を頭の

上に乗せて生きているのかというと、何でそうなったのかというと、この「もう少々」と

いう病気なんです。

 だから「満足しろよ。それを覚えておけ。満足の訓練しなさい」ということになるんで

すね。単純な教えじゃないんです。

 だから

Santuwwhassqya/ dhammo, サントゥッタッサーヤン ダンモー

nqya/ dhammo asantuwwhassa.ナーヤン ダンモー アサントゥッタッサ

という仏陀の言葉があるでしょう。

 「この教えは、満足をする人のためであって、満足を知らない人には管轄外や」と。

 どこを見ても我々は「もう少々」。だから今時計見えましたけど、腕時計一本あれば充

分でしょうしね。だから何で腕時計を作ったんですかね。行く行く所に持って行きたかっ

たんです。壁に掛けていたら、それ見たら時間も知ってそれで充分でしょうに。それでは

満足しない。「持って行かなくちゃいけない」と。それで懐中時計というんですか? …

それができたりして。それをポケットに入れてあって。で、「もっともっと技術開発して

小さくしなくてはいけないんだ」と。それで腕にはめることになって。それであるわある

わ、だいたい一人の、男性はどうかわかりませんだけど、まあ女性の場合はかなり持って

ますね。それにしたっても、見えているでしょうに。

 例えば時計のデザインにしたっても、どこまでそれを変化させるんですかね。変えるわ、

変えるわ、変えるわ、変えるわ。あまりにもデザインを開発しちゃって、買いたくなる腕

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時計というのは今は一つも無いんです。

 で、私はヨドバシの時計のセクションに行ってね、まあ 5 階の建物で。5 階か 4 階かな。

国へ帰る場合は、お土産とか色々買わなくちゃあかんだからね。子供たちにでも面白がる

デザインも無いんです。こちらのものを持って行ったら、「嫌や」と言うんです。高いのに。

 それで百万、二百万、三百万の時計もあって、そこからずうっと、千円で売っている時

計もあります。私は全部見るんです。あらゆるブランドのものとかね。では、あの三百万

円の時計を私はじいっと見て、「これっていうのは買って手にはめたくなるのか」と。「自

分なら買いませんし、はめませんよ。格好悪いんだ」と。

 だからそういうどんなことを見たっても、その世界なんですよ。満足しない世界。だか

らモノを作るわ、作るわ、作るわ、地球が破壊していくわ、環境が壊れていくわ、生きて

いられなくなっちゃうわ、海の魚たちも死んでいくわ、海も砂漠になっていくわ、砂漠だ

けじゃなくて。でもまだやるんです。中国にしてもどうですかね。もうあまりにも勢いで

開発、開発と、そのお陰でずっと砂漠化になっているんです。それでその砂やらあれやこ

れやと降ってきて、他の所もダメになっちゃう。しかし、やめませんね。「もっと欲しい」

ということでやっちゃいます。

 「もっと欲しい」ということは、満足してないんです。だからそれは、生きていきたい

人が「生きるために、苦しみを避けるために、幸福になるために毒を飲む」という生き方

なんです。

 しかし俗世間は、「満足しちゃうとそれで発展がないでしょう」と言うんです。自分が

言っていることが矛盾だと思ってもいない。「何で発展が必要ですか」と訊きたいんです。

発展というのは壊すことでしょう? 発展が必要なのは、人間が不満病で悩んでいる時な

んです。

 だから発展そのものが楽な道かというと、これは恐ろしい道でしょうに。みんな会社で

仕事する人々も、新しい品物を開発しようとどれほど苦しんでいますかね。だって新しい

品物は社会には要りませんし、だから強引に売らなくちゃいけないし。せっかく幸せに生

きていられるのに、だから「開発して良かった」ということはないんです。

 ずっとその病気で激しく悩んでいるんです。だから動物は何も開発しないでしょうに。

しっかりと生きているでしょうに。

 例えば、これから原子爆弾を落としたりして地球を破壊したとしますね。まあ、するだ

ろうと思いますけど、この満足しない病気で。原子爆弾でも作ったのは、その病気でしょ

う。「満足しない」「もうちょっと」。殺すことになったっても、「その程度ではダメですよ、

もっと殺さなくちゃ。それだったら百年経っても生きていられないぐらい、こいつらを殺

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してやるぞ」と思って、原子爆弾まで作る。

 まあそれは措いておいて、例えば何か隕石でも落ちちゃって地球を破壊したときでも、

やっぱり一部生命が残したとすると誰が残ると思いますか? 動物ですよ。地球が例えば

四分の三くらい破壊になったら、人間には生きていられないでしょう? 人間は先にきれ

いさっぱり消えちゃうんです。動物も死にますけど、どこかどこかで生き延びるんです。

一部だけでも。

 はい、まあ社会論はあんまり面白くないんですよ。とにかく私たちの心が恐ろしく、も

う癌ですねこれが。癌で蝕んで、蝕んでいく。死ねばいいのに、死なないことがとんでも

ない苦しみなんです。

 はい。それで仏陀の教えというのは実践するものだから、自分の心を観察してみてくだ

さい。やっぱりいつでも、「もう少々」ということが掛かってくると発見してください。「あ

あなるほど、あるんだ」と。

 それでレストランでご飯食べようと思ったらどうなるのかと。まあ一つしか注文できん

だけどね。三種類ぐらい一人で注文しちゃうと格好悪いしね。だから一つの、ワンセット

を注文するでしょうに。その時でも、一つ選ぶときはどうでしょうかね? いろんなとき、

「もう少々」。「あれも美味しいでしょう」とかね。自分が注文しても「やっぱりそれでも、

あれも結構美味しいだろう」と思う時は、「もう少々」の病気なんです。これは叶わない

んですね。一食分しか食べられませんし、しかし味は「もう少々」だから、やっぱり他の

料理の味も欲しいんですね。

 だから何で人類が今、健康が全くないものすごい弱い身体で生きているのかというと、

食べ物を全部毒にして食べる。「料理する」ということは、「いかに身体に悪い毒にするの

か」ということなんです。だから豪華な料理になればなるほど大変ですよ。もうカロリー

が一杯あるわ、コレステロール、油がぐちゃぐちゃあるわ。一番豪華な食べ物でキャビア

とか食べているでしょうに。あれはそのままコレステロールの塊ですけど。食ったものじゃ

ないんです。だからそういうことで、あの何とか鮫ですね——チョウザメ。どれほど可哀

想かというと。

 だからリンゴは皮ごとに食べたほうが身体にいいんだけど、皮は厚く切って捨てるんで

す。それは何なのかというと、皮を食べたらまた悪いんですね。何をかけているかわから

ないんです。だから「もう少々」だから、薬も何もかけないでそのままリンゴを育てると

いうことはしない。だからありったけの毒を撒いて撒いて、リンゴを育てる。そうすると

食べる人々は、どうしようもなく厚く皮をむかなくちゃいけない。そうするとこちらも、

リンゴの、身体を守ってくれるもの(成分)は全部捨てているんです。砂糖だけ食べてい

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るんです。

 で、果物は缶に入れて缶詰にしているでしょう? 結構みんな何か喜んで食べているみ

たいんですけどね。あれはただの砂糖ですけど。缶詰のみかんであろうか、缶詰の桃であ

ろうか、それから外国から輸入する缶詰のパイナップルとかね。

 ある日本の方に、私は店に行ってパイナップルの果物探すんですね。その人はすごくパ

イナップルが好きなんですけど、私は「だったらこれを持って行って食べましょう。私が

ちゃんと切って食べれるようにしますよ」と。「いえいえ、俺は買わない、買わない」「何で?」

「これは当たりはずれがあるんだからね。缶詰はいいんだ」と。缶詰には当たりはずれが

ないんです。なぜかというとパイナップルを輪切りにして、砂糖を入れて茹でていますか

らね。その人はまた糖尿なんです。それですごい自慢げに缶詰のパイナップルを買ってき

て、私にも「はい、先生どうぞ」と。私は食べない。「私はいらん」(笑)。私ははずれてあっ

ても、味がちょこっとはずれても、普通のパイナップルを食べたい。

 だからそういう加工をする場合でも、身体に毒になるようになっているんですね。なぜ

かというと、やっぱり「もう少々」刺激が欲しい、味が欲しいということなんです。

 だから生命全体的に、人間に限らずに一切生命が、この病気で悩んで輪廻転生している

んです。これを取り除くことだけでも、悟りの境地と言えます。

 それでお釈迦様は、それはいろんな方法で教えていますよ。だから出家に「衣は一着し

か持ってはいけない」と、法律で禁止するんです。「一着です」と。一着には、一応三つ(三

衣)入っていますけど。これを言っちゃうと、みんな在家の人々は「嫌だなあ、この世界

は」と思っちゃうんですね。それは結構ですけどね。まあ、病気ですからね(笑)。

 そこでお釈迦様は何を教えていますかね。あの病気を治すことなんです。「一着以上あっ

てもいい」と思ったら、どれぐらい溜めるんですかね人間は。衣にしたっても。それで全

て崩れてしまいます。

 食べる場合でも、いつでも食べたり食べたり…はしないんですね。まあ午前中ですけど、

だいたいは一食なんですね。朝、森に入ったら村の人々はまだ料理を作ってないんだから、

お粥とか何とかくれたらそれを飲んだりして、そのまま托鉢して、「今日の一日の食事を

摂るぞ」ということを思って食べて、「終わりました」と頭で自分が確認したらもう食べ

てはあかん。例えば、自分がもう 10 時あたりで食べたならば、まだ時間があるんだから

といって食べてはいけません。それは苦行を言っているわけじゃなくて、あれで一日生き

ていられるんです。それで「もう少々」病気をいろんな方法で治してやるぞと。

 信者さんがいろいろお布施するんだから、「それはサンガとして受け取りなさい。あな

たの財産じゃないんだ」と。そうすると「もう一つ椅子があったほうがいいなあ」とかね、

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「もう一つソファがあったほうがいいんじゃないか」と、それは考えることができなくなっ

ちゃうんです。他人のものだから。自分が座りたければ、サンガの椅子を借りて座る。自

分のものじゃないんです。

 だから余分に財産が入るようになってくると、お釈迦様が、この病気が増えないように

とすごく気をつけているんです。

 あるお坊さんか誰かかな。人間がお布施するんだったらね、金銀宝石というそういう、

昔は金(かね)の代わりにそういうものでしたから。受け取ったっても、お釈迦様は「話

になりませんよ、こんなことをOKしたら。自分の教えには根本的に違いますよ」と、認

めていないんです。なぜかと、それだったら「もう少々」の病気はドーンと広げてしまう

んです。

 だから「必要な量を知る」ということで、ものの見事に心が穏やかになるんです。

 だから出家すると、比丘戒を受ける場合は、出家する人に戒律の「約束」はさせません。

沙弥戒の場合は戒律を授けます。それで比丘戒の場合は、戒律を授けることはしません。

認定するだけ。本人がお願いする、それから資格があるのかないか調べて認定する。「比

丘として認定します」と。それでその瞬間で、全て自由がなくなるんです。「あなたは今、

比丘になりましたよ」と本人に報告する。それから一方的に言うんです。「あなたはこの

戒律、この戒律を——まあ、基本的な四つの戒律しか言いませんだけど——絶対に守らな

くちゃいけない。ちょっとでも破ったら、石が二つに割れたことと同じくなりますよ。も

うこちらの人間ではなりません。石を二つに割ったら元に戻らないように、あなたもこち

らには戻れませんよ。これをしっかり覚えなさい。」「はい、喜んで受け取ります」とは、

これは聞かない。本人が黙って聞けいていればいいんです。「はいわかりました」というと、

「約束」になっちゃうんです。それは無いんです。えらい厳しいんです。「このこの戒律は

守りたまえ」それで終わり。

 それから、それ終わったら修行を教えてあげるんです。

 まあ、生きていなくちゃあかんだからね。「あなたの食事はね、托鉢に出たら鉢に人が

入れたものですよ。それで満足しなさい」と言うんです。「鉢の中に人々が、自分の、人々

の好みで勝手で入れたものを食べなさい。それで満足しなさい。それで充分です。もし信

者さんが接待したならば、特別に料理を作ってくれたならば、そんなのはプラスアルファ

で『特別に今日はついていた』ということにしなさい」と。additional, extra。「今日は

やけにちょっと余分に貰いました」と。

 で、「衣はどこかから布生地、ボロ切れを拾って縫い合わせて着なさい。それで充分だ。

満足しなさい」と。「信者さんがちゃんとした布を作って、いろいろ絹やらコットンとか

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そういうものをお布施したら、『これは余分に儲かったことや』と、その気持ちになりな

さい。標準より余計に沢山恵みが入りました」と。

 いつでもずうっと、「標準」ということを覚えておかなくちゃいけないんです。比丘は、

昔より今の比丘たちは楽に生活していますけど、しかし決まりはそのまま。「標準を覚え

ておけ」と。

 そういうふうに厳しくしている場合でも、お釈迦様がいかに真剣に。「この『満足しない』

ということが、生命の限りない苦しみの原因になる」ということを発見したんだからなん

です。

 だから在家の人々には、残念ながら「標準」は無いんです。だからどうしようもない状

態になっています。在家でいると、「標準」はなかなか成り立たないんですね。

 日本でもほんの少々前で、冷蔵庫があったら贅沢なこと。「何て贅沢ですか、何て金持

ちですか」と。今は二台三台ないと。学生の一部屋で住んでいるのに冷蔵庫があるんです

ね。だから「標準」が変わったんです。

 もうちょっと前、カラーテレビがあったらその家にみんな集めて見たんだそうですね。

今は各部屋に一台ないと。だから「標準」が変わったんです。二階建ての家だったら必ず

一階にも一つあって、二階に一つありますでしょうに。

 だから在家の世界では、なかなか「標準」を設定することはややこしいんですね。

 そこで私が来てからの変化なんですけど、ちょっと 32 の…、もうちょっと大きいテレ

ビでもかなり高かったし、それでそろそろハイビジョンのテレビが出たら「ああこれは映

像が奇麗だな。やっぱり買えないんだ、こんなのは 20 万…」とかね。それから恐ろしい

フラットパネルが出てきて。アメリカでも書いている新聞記事を読むと、何か冗談で言う

んですね。すごい無駄、無茶金を使う人々のことを言う場合は、「フラットパネルテレビ

でもこれから買うでしょう。壁掛けテレビでも買うでしょう」と。今どうなっているかと

いうと、それしかないでしょうし。だから今「標準」でテレビを買おうと思ったら、フラッ

トパネルの壁掛けテレビを買わなくちゃいけない。誰も壁に…壁に掛けてる場合もありま

すけど、どんなテレビでも壁に掛けられます。外国はみんなその標準になってないんだけ

ど、日本はそういう標準にはなっているんです。

 だから在家世界では、「標準」がずっと上がる上がる一方でね。だから病気がそのまま

なんですね。だから心の悩みはずっとそのまんま。苦しみもそのまま。

 だから昔は、生活するためにはそんなにお金がかからなかったでしょう。今はもう学生

さんであっても冷蔵庫が必要だし、電子レンジは必要だし、テレビも必要だし、パソコン

も必要だし、あれやこれやと金がかかるんですね。昔の日本人が「子供に教育させたいん

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だけどね…、これ三万もかかりますから。どうやって三万を探すのか」と悩んでいたん

ですけど、今は「三百万も掛かりますけど、三百万をどうやって」(笑)。昔三万は、今

三百万円になっている。親が払わなくちゃいけないんですね。

 だから苦しみは、結局は同じレベルで進んだりするんですね。

 だから昔、お釈迦様の話を聞いた人々が、すごい金持ちがすぐその場で全て金を捨てて

出家したのは、ものすごい真面目でしたからなんです。「ああこれが真理だ。生きる道だ。

生きる道から外れて、在家で何をやっているのか。一日だけでも生きてみたい」というこ

とで、億単位で、財産は何のことなくゴミの如く捨てるんです。それで「出家します」と。

 何でそれほど出家をありがたがるかというと、「標準」で生きているんだからなんです。

それはむちゃ金持ちにとっては、もう信じられないほど楽なんです。巨大なお城の中で家

来に守られて、すごい高価な山羊の毛で作った毛布を敷いてふわふわと寝ていた人が、何

か葉っぱでもシートでも、では衣でも敷いて、木の下でスヤスヤと寝ているんだからね。「こ

れでも寝られるんだ。何だこれ」と。

 だからその喜びは、心の喜びだからね。これは金には換えられません。

 ダニヤという牛飼いとお釈迦様が対話したときでもね。そこはいきなり読んじゃうと、

みんな意味がわからなくなります。私はそれほど美しい詩があるのか、と思うほど、美し

いんですけどね。

 すごい雨が降り出しそうな環境で、雲が覆っていて。インドの雨っていうのは、降ると

ものすごい厳しいんだからね。ダニヤさんが、「私は牛たちを高い所に連れて行って、ちゃ

んと安全な所に連れて行って、仔牛たちは分かれて別な所に縛っておいているんだから大

丈夫だ。朝、乳絞りもできるし。だから雨が降ったっても、私は大丈夫だ。」お釈迦様は

「私には何の牛も無い。一匹も無い。だから、仔牛の面倒を見るとか、それも無い。だから、

雨が降りたければどうぞ」と。

 最初の偈だけ覚えていますけど。

Pakkodano duddhakh]rohamisumi, パッコーダノー ドゥッダキーローハマスミ

anut]re mahiyq samqnavqso.アヌティーレー マヒヤー サマーナヴァーソー

 (出典:Khuddakanikqya,Suttanipqta /小部経典 スッタニパータ 第一章第二節「ダニヤ」)

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 Pakkodano(パッコーダノー)

 「家で奥さんがご飯を炊いて終わっています。牛の乳搾りも終わっている。川の高い所

に私は家を作っている。だから、雨が降っても構わないんだ」と。

 お釈迦様は、pakkodano という言葉はそのまま使うんです。その場合は、「怒りは取

り除いて」という意味になるんです。詩だから、ちょっと語呂を使うんですね。「怒りは

取り除いているし、この川の高いところで私は一晩しかいません」と。

 yekarattivqso(イェーカラッティヴァーソー)

 「今遅くなったんだから、夜になってくるんだから、じゃあこちらに泊まるぞ」と、そ

れだけ。お釈迦様は。「だから、降りたければどうぞ」と。

 だから、まるっきり正反対のことを詠っているんですよ。だから、知足に達した人と、

達しない人の差なんです。

 ずっとその対話が、お互いもうなかなか対立的に行って、それで終わったら空が振動し

ながら雷が落ちて、ものすごい雨が降りかかって来たんだと。そうすると、あの牛飼いの

人が怖くなっちゃったんです。ギリッと震えたんです。その瞬間で、その人は、今までお

釈迦様が何を説かれたのかわかったんです。それで「聖者に会うことは稀なことである。

私は帰依します」ということで、そこで彼が仏教徒になるんです。

 だから「あるほど満足」のようなことを言っても、満足していない。それでも不安は不

安なんです。

 それで、今日はその言葉をよく勉強してください。この「満足する」ということが仏道で、

人間にはこれはできない。だから一切の問題が全て起きている。「もうちょっと」という

ことが、「ひどい病気」であると。それでは心がきれいにならないんです。悟りにも達し

ないし、苦しみを乗り越えることもできないんです。増やすことはいくらでもできます。

 それで「満足する」といったら、金のことだけじゃないんです。食べ物にしたっても、

服にしたっても、住む所に

したっても、我々は満足しないんです。家族にも満足しないんです。結婚しても相手に満

足しないんです。勉強したっても、知識に満足しないんです。若い人々はその若さに、そ

の元気に満足しないんです。

 そのまま年取って行くんです、満足しなかったまんまで。ひどいでしょう。八十まで生

きていたっても、まだ満足していないんです。「まだいろんなことをやりたいんだ。仏教

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なんか、そんな暇はないんだ」と。

 それが心に入ってきて、心がずっとあれやこれやあれやこれやと、妄想ばっかりする。

いくら妄想しても満足しない。それで一向に捏造の問題を解決できません。

 だから、ただ「満足することに挑戦してみる」というね。それで結構その瞬間から、悟

りに達する前に、その瞬間から人生は楽になるんです。

 まず、自分の人生の中でいろんなものがあるでしょうに。本当に必要かないか、区別す

れば簡単ですよ。「これがなかったら生きていられない?」と、自分に訊いてみたら。リ

スト作っちゃえば。自分が持っているもの全部、知識も、リストに書いておく。それで、「無

かったら生きていられないものは何か」と。だからその場合は「本当に命に関わるのか」と。

 例えば、テレビは二つあると。これが無かったら生きていられないのかというと、生き

ていられるでしょうに。服は 20 着あるんだと。無かったら生きていられないのかと。やっ

ぱり一着ぐらいは必要ですね。まあ二着ぐらい、在家だからね。他は、無くなっても大丈

夫なんです。例えば、地震で家が破れて着ているもののままで出て行ったっても、あれで

結構、何のことなく二~三週間もちますからね。

 ですから、いかに我々は、そうやってリストして分けてみるだけででも——そんなやや

こしいことはやりたくないんだったら、何か自分の家にあるものを見たら、愛着がいくら

あっても関係なく「これが無かったら、私は死ぬ?」と自分に訊いてみたら。自分が分割

払いで買った鞄を持って、「これが無かったら、私は死にますかねえ? まあ、死なないか。」

それだけでも、区別でいかに人生が楽になるのかと。ものすごい楽しく、楽になるんです。

 はい。それで、その単語を覚えておいてください。話はそれで終了したいんです。

 では、質問とかはありますか?

質問 Aさん:あの、先生。先月の名古屋の冥想会で動物の生き方の話をされていて、「人

間に飼われている動物とそうでない動物」の話を譬えにされて、その中で「犀の角のよう

に独りで歩め」というところを引用されたんですけど、犀の角というのは一本だから「独

りで歩め」という意味の他に、犀ということで何か意味があるのかなと思ってお尋ねした

いんですが。

答え:うーん、あまり意味がないと思いますね。

 インド的、インド人の思考では、犀はすごく珍しい稀な動物ですね。そう簡単に目に入

ることもできないという。

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 だから「稀な人」のことを詠っているんです。あの経典でもう悟りに達した人のことを

言っているんだから、「人間の中でもそう沢山いるわけじゃない」というね。

 だから動物の中で、とても物珍しい稀な動物といえば犀で、犀は独りで生活しているん

です。群れは作らないんです。だから見にくいんです。見つかりっこはないんです。

 面白いことには、角っていうのは二本付いているのが普通でしょう? これが一本だか

ら。それもすごい稀で珍しい。

 海にも何かいますね。長いぐるぐるぐる回っている——イッカク。あれ角じゃないね。

あれ歯? だから当時では、インドでは知らなかったと思いますね。知ったならば、それ

も譬えに使いますけどね(笑)。だからその角一本ということも珍しい。

 だから「悟りに達する人々というのはすごく珍しい」という意味で、評価するんですよ。

すごい高い価値があるんだと。

 おそらく生物学的には、角はやっぱり二本なんです。どうしても二本でなきゃダメなん

ですね。そういうふうに生物ができているんです。半分半分、二つ合体して身体ができて

いますからね。あれ、何かわかりませんだけど。虫を見たっても、半分半分をちゃんと合

体させているんだからね。だから我々も二つに割れますね。割れないのは心臓だけですけ

ど、心臓もやっぱり左右別々にありますしね。脳もちゃんと二つでしょうし。だから結構、

殆どの部品は二つ二つですからね。

 だから角は二つですよ。だから犀には何で一本かと。まあ生物学的には、本当はあれは

角じゃないんです。何か皮膚の何とか固めて固めて固めて、伸びるんです。頭蓋骨から出

ててくるものじゃないんです。

 まあ、そんな生物学はお釈迦様に関係無いんだからね。一応、「珍しい」ということでしょ

うね。

 はい。では、質問が無さそうで。

質問 Bさん:昨日、お話で「貪瞋痴」から「善と悪と聖」というお話で、悪というのは「犯

す」んじゃなくて「起きる」というか、そういう形のものであると。でも「罪」というの

とイコールみたいな感じのところもあるんですが、やっぱり「罪」といった場合は、やっ

ぱり「起こる」というより「犯す」という感じになると思うんです。そのへんをちょっと

教えていただきたいんですが。

答え:だから、繰り返して言いたくはないし——何か説明するべき問題点があるならば。

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質問 Bさん:「罪」ということ…

答え:ああ、「罪」は「犯す」んですね。ということは、やらないでいることもできるでしょ

うに。でもやっちゃいますから。それは「犯す」なんです。

 悪の場合はどうしようもないんです。だから「起きる」。

 例えば、嫌な人がいると。嫌な人がいるんだから、気持ちは嫌なんです。それは、もう

怒りが「起きて」いるんです。

 だから仏道を知らない限りは、怒りが起こらないようにすることはできないんです。怒

りたくない場合は、この人はそれを強引に制御しなくちゃいけないんですね。だから善は

「起こさ」なくちゃいけないんですね。

 しかし嫌な人といったって、その人をぶん殴ったり殺したりするのは、罪を「犯す」こ

とです。そこまでやる必要はないでしょう? だから罪は、人間には犯さないでいられま

す。

 悪は、できないんです。悪は「起き」ますからね。それはかなり、かなり頑張らないと。

だから悪が「起きない」生き方は仏道でしかないんですね。それは昨日、明確にしたんです。

 罪をコントロールすることは、まあ、宗教があってもなくてもできます。

質問 Cさん:先生。「『あの人は私のことを嫌っている』というのは、実は私があの人の

ことを嫌っているんだ」というようなことを随分前に確かおっしゃったような気がするん

ですけれども。

 それで立川の朝日カルチャーの方で、「人間は一つの面しか見ることができない。それ

は結局自分の経験とか情報とかで、一つの面しか見ることができない」ということをおっ

しゃっていましたけども。

 で、さらにずっと前の「パティパダー(協会の会員向け月刊誌)」で、他心通のところで「次

元を破った者には『私』は無い」という、そういったことを書いていらっしゃった所があっ

て。要するに、「一般の人は、よっぽど親しい人じゃない限り何を考えているか何を感じ

ているかわからないけれども、次元を破った人というのは、他人の苦しみや何かを自分が

感じているように全てわかることができる」というようなことを確か書いてあったような

気がするんですけれども。

 要するに、次元を破って「『私』は無い」という人は、立川でおっしゃった「一つの面

しか見ることができない」んじゃなくて、多角的にいろんな面から見ることができるとい

うことなんでしょうか。

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答え:うーん、それは見方が違いますね。多角で見たっても間違いなんです。上から下か

らあちこちから見たっても見えないんです。別な方法があるんです。

 だからそれにはやっぱり、自我の次元を破らなくちゃいけないんです。

質問 Cさん:そうすると、自分のその「一面しか見えない」ということは、自分の想念

が相手に反映しているということもあり得ますか? 

答え:だいたい我々は自分で自分勝手に当てて見るんだから、赤い光を当てて見るか、青

い光を当てて見るか、ということはあります。だから「あの人は私のことを嫌っている」

というふうに我々は判断しますけどね。だから「その人はその人で、自由で勝手や」とそ

ういう光が当たったら、別に嫌いか好きかというのは関係ないでしょう。

質問 Cさん:「『私』は無い」ということは、逆に言えば「全ては『私』である」という

ふうに考えることもできませんでしょうか。

答え:まあ、いらんこと考えない方がいいんじゃないの(笑)。

 「『私』が無い」といったっても、我々にとっては、実感的には「いる」んですよ。

 だからそれは「幻覚」と、私は言うんですね。幻覚というのは怖いもんですよ。本人が

知らないんですね。幻覚だから。本人にとっては本物です。だから冥想修行で幻覚が解決

します。

 だから「『私』がいない」ということについて語れるのは、やっぱりこれはもう自分で

幻覚を何とかしない限りはね。考えちゃうと頭が痛くなるだけ。かなり難しいんですね。

 頭で考えられる範囲ギリギリまで、私は喋っているんです。で、私はもうちょっと喋っ

てますからね。だから全部、私の話は理解できないと思いますけど、私の話からまた組み

立てて組み立てて考えたっても、結構大変だとは思いますね。だから講演の場合でも、私

は一つ一つテーマだけに絞って、それはその時点で完成させるんです。

 で、「このあいだ言った話も、このあいだ言った話も、このあいだ言った話も、参考に

しなさい」と言ったら、話は不完全なんですね。理解するために、沢山参考にしなくちゃ

いけなくなっちゃいますからね。しかしお釈迦様が完全に語ったんだから、私はテーマが

何であろうとも完成させちゃうんです。だから他に参考は要りません。

 例えば今日の単語「満足する santuwwhi」、それで解脱まで完成して喋るんだから、そ

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れだけで別個、一個別として、理解した方が楽だと思いますね。この話を補うために、ど

こかどこかの講演から何か持ってくる必要は無いんです。そういうふうに喋ることという

のは相当難しいんですよ。

 まあ、考えてみる自由はありますけど、あまり悩む羽目になるまでは考える必要は無い

んですね。

 とにかく考える時は、気をつけて欲しいポイントは、「安らぎを求めて」考える。そうやっ

て、やっぱり尺度を作った方がいいんです。人間には何か尺度がないと認識することはで

きないんです。ですから良い尺度を作るんですね。危険でないものを。「安らぎを求めて」

というね。

 例えば、「あの人は私のことが嫌いや」と思っちゃうと安らぎがなくなる。「じゃあ『嫌

いじゃない』と思うためにどうすれば良いか」という方向へ考える。あるいは、「嫌な気

持ちを無くすためにどうすれば良いか、どんな説法が役に立つのか」というふうに思考を

持って行くと、結果として、自分の心の問題が消えて楽になるんですね。「心の安らぎを

求めて」考えるんだから。それでかなり妄想も減っちゃうし、要らんことは考えないでい

ることもできるしね。

 我々の一つの病気ですよ。要らんことはどうしても考えちゃう。それで苦しいなのに考

えちゃう。「何か意味がある」と思ったりするんですね。それも尺度の問題で、「自己をい

じめる」という尺度が入ったりしてそうなっちゃいますね。

 だから「安らぎを求めて考えよう」と思うと、新しい尺度が安らぎを与えるし、余計な

思考はやめてくれるし。

 時々言うんです、「そんなこと考えていたっても、頭が悪くなるだけだからやめましょう」

とかね。私も結構、口癖みたいに言うでしょう。「そんなこと考えていても、結論出る?」

とかね。「何の意味もないでしょう。別なことを考えましょう」と。

質問 Cさん:ただ先生、私がこのお話を訊いたのは、慈悲の冥想で「私の嫌いな人も、

私を嫌っている人も幸せでありますように」というのは、「全体の一つの大きな『私』」と

考えたらやりやすいかなと思ったんですけれども。

答え:だから「私」という中心点によって、全ての概念が成り立つんだから。「私」がいなかっ

たら、もう言語も全部そこで消えちゃうでしょうに。だからまあ、慈悲の冥想はそうなる

んです。

 それは「実際に『私』が存在する」という意味じゃなくて、ただ言葉上の普通の常識的

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な単語に過ぎないんです。だから「私の親しい人々」「私を嫌っている人々」の、「私」と

いう言葉は付けておくんです。

 だから何やっても、やっぱり心は解脱を目指していくことだから、これはもうどうすれ

ばいいんですかね。これはもう、必ず必要なんです。

 だから慈悲の冥想で最終的に達するところは、「生きとし生けるものが幸せであります

ように」ということなんですね。

 お釈迦様はそれだけしか教えてないんです。「私は幸せでありますように」という言葉

は経典に無いんです。お釈迦様は要らんことは語りません。すごく厳密に、宝石やらダイ

ヤやらを採るような感じで全部余計なものは取り出して、必要なことだけ語るんですね。

それをお坊さん達はそのまま丸暗記して、大事に理解しようとする。一個一個、完成作品

ですね。

 それで具体的に実践する場合は、実践・プラティカルになってくると、またいろいろ改

良になります……、改良にはなりませんね。順番で、どのようにその境地にたつのかとい

うことはね。それはお釈迦様がなさっていたんですけど、それは仏陀の言葉として残して

おかないんですね。

 お釈迦様が 45 年間喋ったものを全部残しているわけじゃなくて、大胆な講演だけ。私

が月一回講演やっているような感じで、それは私はスライドまで作って結構苦労してやり

ますね。そういうのは世に対する一つの発表であって、普通喋る場合は、いろんなことを

ダラダラダラダラと喋ったりはします。お釈迦様もこういう公で比丘たちに説法する時は、

それは全部記録として残す。

 一人のお坊さんが冥想につまづいていると、その人にやり方を「あんたこうしなさい、

こうしなさい」とね。それはそんなに残されてはいないんですね。その代わりに、他の阿

羅漢たちも皆、先輩のお坊さんたちは、後輩に指導する。それでずっと、伝統は絶やすこ

となく守ってきたんです。

 だから慈しみは論理的に「生きとし生けるものが幸せでありますように」、それでお釈

迦様は終了するんです。

 そこで、自分の心で慈しみを育てなくちゃいけないんですね。それで先輩のお坊さんた

ちが、「まず自分に慈しむことや。それができない奴らには何もできん」というところで

味わってもらう。「自分が幸せになりたい」と言えば、本物で、本気で、願っているんで

すね。

 「はい、その気持ちを親しい人にも持って行ってください。その気持ちは、この人に、

あの人に、この村人にも持って行ってください」というふうに広げていくんです。「あな

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たはこの村に住んでいて、この村人はあなたを養っている。だったら『自分が幸福になり

たい』という気持ちは、この村人の人々みんなみんな一人一人、幸福になりたい、なって

欲しいと。」

 だから自分の気持ちをどんどん強化して、拡大して持って行くんです。それでリミット

が崩れてしまう。「一切の生命」になっちゃうと、もう把握できないところになっちゃう

んですね。それは「無量」と言うんですね。そうすると慈しみはあるんだけど、何かもう

自分自身でも把握できない。もうかなり無量で。

 その状態が、この禅定状態なんですね。「自分」よりは、慈しみの気持ちが拡大してい

るんです。禅定状態のその時は思考も止めて、一つの思考だけに、一本の流れになっちゃ

うし、自我の気持ちは消えちゃうし。だからサマーディに達するまで、慈悲の冥想を持っ

て行くんです。まあ、ここまで日本では私は教えていないんですけど。

 だからお釈迦様が「母があたかも自分の我が一人の子を愛するように、一切の生命に対

して慈しみを持ちなさい」と、そういうふうに持って行くんですよ。

 「まず自分に慈しみを、それから親しい人、それからあれ、それから…」というふうな

ことは、「実践上どういうふうにやるのか」ということは、大学でも大教授の授業を聞い

てから、セミナーで他の助教授やらアシスタントの先生たちが一緒になって、学生に教え

るでしょう? そういうやり方ですね。

 だからああいう順番が、伝統的にそうなっています。それはもう変えられませんし、ど

う見たってもその順番で行かなくちゃいけないんです。

 「私のことはどうでもいいんだから、人々は幸せになれ」というのは、それは偽善であっ

て、インチキ、嘘です。自分にも親切でない奴らは、人に親切にする筈がないんです。

 「私は逮捕して欲しくない」と思う人は犯罪を犯しませんし、人に迷惑を掛けませんね。

「俺はどうなっても気にしない。お前を刺し殺すぞ」ということで人を殺すでしょうに。

 だから人を殺す人は、自分に対して慈しみはひとかけらもないんです。自分に対しても

怒っているんです。だって、人を刺してから自分が逮捕されて死刑になりますから。それ

は自分がやったことでしょうに。裁判官が人を殺しているわけじゃないんです。

 本人が、法律で殺されるその権利を取っているんです。だから自分のことを優しく思う

人は、わざわざ殺される権利は取らないでしょうに。

 そういうことで、テキストではかなり説明はありますよ。「なぜ自分から始まるのか」

とかね。またいろんなやり方で実践していたんです。すごいいろんな方法で。

 はい、まあそういうところで。頑張ってください。

(了)