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松浦 誠先生追悼文集 2006 12 i

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松浦 誠先生追悼文集

2006 年 12 月

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在りし日の松浦先生,生物資源学部校舎居室にて

(加藤展朗氏提供)

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松浦 誠先生略歴

1941 年 10 月 15 日 札幌市に生まれる

1960 年 3 月 大阪府立春日丘高等学校卒業

1964 年 3 月 三重大学農学部農学科卒業

1964 年 4 月 和歌山県農業試験場就職

1964 年 7 月 和歌山県果樹園芸試験場へ移動

1976 年 4 月 三重大学農学部昆虫学研究室助手

1978 年 9 月 三重大学農学部昆虫学研究室助教授

1984 年 3 月 北海道大学理学博士習得

1987 年 10 月 三重大学生物資源学部昆虫学研究室助教授

1991 年 4 月 三重大学生物資源学部昆虫学研究室教授

1992 年 9 月 日本応用動物昆虫学会賞受賞

2005 年 3 月 三重大学生物資源学部退職

2005 年 12 月 27 日 三重大学病院にて逝去(享年 64)

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目次

松浦誠氏を悼む 岸本良一 1

松浦誠先生の死を悼んで 山田佳廣 2

松浦先生の思い出 塚田森生 4

松浦誠先生を偲んで 間野隆裕 7

パンダバチのこと 本藤 勝 9

君知るやスズメバチの味 杉浦正昭 11

松浦先生の凄さ・やさしさ 春井 勝 13

松浦先生を偲んで 笹井隆邦 16

松浦先生の思い出-私の中の月光仮面- 北上 達 18

松浦先生を偲んで-私がハチ屋になったわけ- 小出哲哉 20

松浦先生の思い出 小出直哉 24

松浦先生の思い出 山崎努 29

In memoriam Makoto Matsuura (1941‐2005) 米田昌浩 30

松浦先生と私とタヌキ 長屋百合 32

松浦先生の思い出 坂本泰隆 34

松浦先生の偲んで 向瀬貴子 37

松浦先生の思い出 安藤晋一 38

松浦誠先生へ 加藤展朗 39

編集後記 41

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松浦誠氏を悼む

岸本良一

松浦誠氏のご訃報に接し、その早世に驚かなかった人はなかったのではない

でしょうか。わたしに限らす、彼を知る人は、氏の見るからに頑丈な体格と風

貌から長生きと立派な業績を期待したと思います。社会性昆虫の研究を志した

人は個性豊かで、粘り強く、私のあまり多くない知り合いの中にも、傑出した

人が少なくありません。そのうちの一人でした。たくさんの著書を残されまし

たが、まだまだ残念の一語です。

氏の民謡や詩吟に示された声量の豊かさと節回しの巧みさには圧倒されまし

た。思い出されるのは、先年ウンカの話をたのまれて中国を訪れ、たまたま蘇

州を見物したとき、記念に買った張継の漢詩、楓橋夜泊(月落烏啼霜満天…寒

山寺…)の拓本をお見せしたところ,たいへん大変興味を示されたのでしばらく

お貸ししました。三重大の詩吟同好会で吟じられたそうですが、残念ながら聞

かせていただくことはできませんでした。

ご冥福をお祈りいたします。

1

松浦誠先生の死を悼んで

山田佳廣

松浦先生と初めてお会いしたのは 26 年前で,私が京大の院生のときであっ

た。先生は集中講義の講師で京大においでになっていた。講義では,スズメバ

チ各種の生活史について,ごく最近得たデータを基に実に楽しそうに説明をな

さった。懇親会の後,学生だけで 2 次会を設けたが,先生は心安く参加してく

ださり,先生を囲んで大学周辺の洋風レストランで夜遅くまで歓談した。その

ときの先生は誠に上機嫌で,民謡,股旅物の歌を何曲も歌われた。

次に先生にお会いしたのは,それから数年後、私が三重大学に就職が決まっ

て,初めて昆虫学研究室に訪れたときである。先生は、私をホンダスーパーカ

ブに乗せ、上浜町、白塚、江戸橋付近を回り、私のアパートを一緒に探してく

ださった。カブに大の大人が二人乗りとは、今なら日本ではまず見ることは無

い光景であろう。とにかく、恐縮して後ろに乗っていたことを覚えている。

私が三重大学に就職した後,数回,スズメバチ採りに連れて行ってもらった。

蜂の後を全力で先生と一緒に走った。コガタスズメの大型の巣を見つけたとき

に,先生は巣の写真を撮りやすいようにと,周りの枝を無造作に切り,しかも,

働き蜂が巣の表面にいたほうが面白いだろうと,巣をゆすって中の蜂を外に導

いた。先生にかかると,さすがのスズメバチもサーカスのライオンであった。

しかし,私が巣に近づき写真を撮った後,下がろうとしたとき,黒いものが私

の胸部にぶつかった。「山田さん,危なかった。今の顔だったら刺されていた。」

思わず,背筋が震えた。

昭和 56~59 年の間に 3 度,先生はスマトラに行き,熱帯のスズメバチの生

態解明に心血を注がれた。スマトラでは,まさに水を得た魚の如く,先生の本

領発揮であった。これまで,全く知られていなかった熱帯スズメバチの生態を

2

次々に明らかにしていった。「帰国してしばらくは,蜂の針が残っていて顔がよ

く痒くなる。」と笑いながら語られていたのを思い出す。しかし,スマトラでは

さすがに蜂に刺されすぎたのか,その後,先生がお酒を飲むことはほとんどな

かった。

先生は,私たちの間は「仙人」と呼ばれていた。言動が,ひどく浮世離れし

ていることが多いのである。先生の価値観は,すべてハチ中心であって,それ

以外は,ほとんどどうでもよい,先生にとってなるべくなら時間を取られたく

ないことであったように思われる。旧館から新館に引越しの際も,すべて,「山

田さんよろしく頼む。」であった。ただし,後でどうのこうのと言われることは

全くなく,本当にプランから実際の引越しまで全部任せるのである。しかし,

さすがに,松浦先生の居室の整理をするわけにはいかず。それは,松浦先生に

お願いした。しかし,引越しの日は近づくのに,全く整理をする気配がない。

そして,いよいよ月曜から引越しという段になって,まさに奥の手が出てきた。

奥さんと娘さんが応援に来て土日で片付けられたのである。松浦先生の家族は

大変であっただろうと思ったが,うらやましい気がした。

昨年 12 月上旬に,先生から突然の電話があった。病院からであった。中途

になっている教官室等の片付けできそうにないことのお詫びであった。電話の

声はひどく弱々しかった。私は,気の利いたことばが出ず,ただうなずくだけ

であった。先生の誠実さが痛いほど分った。電話が切れてしばらく茫然自失と

なり立ち尽くしてしまった。それが,私が聞いた先生の最後の言葉となった。

松浦先生が亡くなられて,はや 10 ヶ月がたとうとしている。旧居室のドア

の横には松浦先生の名札がまだつけられたままである。先生は,天国とやらで

ハチを追っかけて毎日を過ごされているに違いない。ひょっこり部屋から先生

が,長靴をはいて,ビニール袋に入れたスズメバチの巣を持って出てきそうで

ある。「先生、そちらには面白いハチがいますか。」「山田さん,こちらには,日

本では見たこともないような色をした,夜行性のハチがいて毎日観察していま

す。凶暴なやつですが,その行動が面白くて仕方ない。また,ほんとうにおい

しい透明色の蜜をつくるミツバチもいるのです。」先生お幸せに。

3

松浦先生の思い出

塚田森生

私が松浦先生に初めてお会いしたのは、三重大学の助手として採用される少

し前、公募に応じた私の顔を見ておこうと言うことで三重大学に呼び出された

ときのことである。先生はスズメバチの研究者としてその名をとどろかせた有

名人ではあるが、学会にはほとんど顔を出されず、どんな人かしらと少々不安

を抱いての訪問であった。この面接では私にこれまでの研究のことや今後の抱

負などを述べさせたあとで、「それで、君はここで何をしたいの?」とたずねら

れた。私は、この人ぼくの話聞いてくれてたのかなあ、と不安に思ったが、先

生はさっさと話を進めたかったようで、横の山田先生に、「じゃあもうこれでい

いよね、採用決定と言うことで」と、教授会やらなんやらの正式な手続きなど

全く無視したようなことを候補者の前で言われた。山田先生の困惑した表情が

思い浮かんで、いつ思い出しても笑ってしまう。ちなみに、4月に採用されて

すぐ、確か8月に旧校舎から現在の新校舎への引っ越しがあり、それが済んだ

あとで、「いやあ、絶対引っ越しには間に合わせようと思ってたのや」(引っ越

しに伴う雑用をやらせると言う意)と打ち明けられた。

とはいえ、私はその面接で、絶対ここに就職したいと思った。それは、その

ときに厚かましくも「好きなことを研究して良いでしょうか」と尋ねた私に、

間髪入れず「もちろん何でも好きなことをしてください」と答えてくださった

からである。ハチやアリの極めて優れた研究者が多く応募したこの公募で私を

採用したこと自体、研究は自分でやるものという先生の姿勢のあらわれだった

に違いない。おかげで私は自由に研究させていただいた。これは本当に贅沢に

つきるが、いま先生を亡くしてみると、もう少し先生にこき使っていただいた

4

ら良かったと思う。余人を持って代え難い存在の松浦先生から直々に知識や技

能をいただく多くの機会を逸したのだから。そんな中でも、10年ほども傍に

いれば何やかやはあるもので、よく覚えているのは作物学の長屋さん、遺伝育

種学の土屋さんと一緒にオオスズメバチ退治に同行したことである。津市南部

の神戸の林でオオスズメバチがいて危ないと言うことで、駆除作業に同行した

のである。実際にはオオスズメバチはそこにいたものの、巣とおぼしき穴への

ハチの出入りがない。そこで先生は、ずぼっとその穴に腕をつっこんで(素手

である)中をまさぐり、一匹のハチをつまみ出した。そして、「これはヒメスズ

メ(記憶があいまいである)や。オオスズメが巣を作ってたのは間違いないが、

何かの理由で放棄したところにこれが入ったんだろう」というようなことをお

っしゃった。この一件は私たち3人の心に強く刻まれ、今でも時々その話で盛

り上がる。

先生は昭和三十九年に三重大学をご卒業後、和歌山県果樹園芸試験場にお勤

めになり、昭和五十一年に当時の山下善平教授に助手として呼び戻され、定年

まで本学で研究された。和歌山県に就職が決まったときには「ハチの研究が出

来ないなら就職を辞退すると言った」そうである。それでもハチばかりという

わけにはいかず、果樹害虫についていろいろとお仕事なされたようである。こ

れは先生には苦痛であったかも知れないが、応用昆虫学に関する現場での体験

は大学の授業でもきっと役立ったことと思う。「昆虫管理学」に対する学生の授

業評価が学部で一番だった由、うれしそうに言っておられた。私は数年前に和

歌山県吉備町にあるこの試験場を訪れたとき、先生の使っておられた小屋を職

員の方に案内していただいた。それは窓ガラスもほとんど割れた廃屋であった

が、中には鯨か何かの缶詰の空いたものや食器、布団、ペンなどが散乱してお

り、当時の先生の仕事姿が目に浮かぶようであった。

アマチュアの昆虫研究家と親交を暖められ、三重昆虫談話会の事務局を長く

務められた。また民謡の会の主要メンバーで、お昼休みに練習されていた。そ

の歌声は玲瓏の一言に尽きた。このように多方面の方々と親交がある一方で、

研究の面ではハチの専門家以外とはあまり交流がなかったようである。前述の

5

通り学会にもほとんど顔を出されなかった。「タバコの煙が嫌だから」と学会の

評議委員会に代理で出席させられたこともある。集中講義で他大学の先生に来

ていただいたとき、お酒の席で「ところでこの人なんの研究してるの?」と耳

打ちされたことも一度ではない。そんなときはハチのことをしゃべりまくって

「では私はこれで」とさっと引き上げるのだった。自らの生物学的センスに自

信があるからこそ、堂々と独自の道を歩まれたと思う。

余命を告知された後も、比較的落ち着いて見えた。体調が思わしくなくとも、

残された時間を執筆にあてるべく努力された。告知のおかげで時間を有効に使

えるから決して不幸ではない、と言ってもくださった。この言葉は私をずいぶ

ん楽にしてくれた。だが、危険なスズメバチの巣を生きたまま丸裸にしてその

生態を記述する先生のやり方は、他の人による検証が不可能という点から、科

学ではないとさえ言われている。先生の頭の中にだけ確かに存在していたハチ

たちの生き様は、今後何十年も私たちに知られることはないのだ。なんともっ

たいないことかと考えずにはおられない。

6

松浦 誠 先生を偲んで

間野隆裕

昭和 54 年(1979)3 月卒業

小生は松浦先生の最初の卒論指導学生です。専攻室に所属する 4 月、昆虫学

研究室では新 3 年生 3 人に一つずつ机を与えられ、早速卒論テーマを決める作

業に取り掛かりました。そして丁度小生が大学 3 年から 4 年になるとき山下善

平先生が退官され、その後を引き継ぐ形で松浦先生に指導をしていただいたの

です。

卒論テーマは自由に選ぶことが出来ました。小生は当時研究室におられた南

尊敬先輩(滋賀県高校教員)や杉山章先輩(名古屋女子大学教授)から誘殺灯

に多く集まるメイガの仲間をやったらどうかと紹介され、同期のほかの 2 人は

アリにササラダニと全く異なったテーマに取り組みました。非常にフランクな

雰囲気の研究室だったこともあり、研究内容・計画についても指導教官として

口を出されることはあまりなかったように記憶しています。それは院生や研究

生など大先輩が多く見え、直接指導を受けていたこともあったからと思います。

それでも時折進捗報告会などで、山下先生の厳しい毒舌に泣かされました(後

でそれはやさしさの裏返しとわかりましたが)。しかし松浦先生は非常に温厚で、

卒業論文下書きの時も、しっかりと赤筆を入れていただき、細かなところまで

丁寧に見ていただいた記憶があります。

そんな松浦先生は、スズメバチを追いかけて東奔西走しておりました。地元

養蜂家からスズメバチ駆除依頼があり、研究室総出で駆除に出掛けたこともあ

りました。防具を一切つけないのに、誰一人オオスズメバチに刺されることが

なく帰還した(!)時には、その的確な首尾に驚かされたものでした(収穫物

7

は貴重な蛋白源として腹に収まり、大きな巣の一部を下宿に長く飾りました)。

でも松浦先生は、スズメバチに刺され顔中はらして大学に戻られることがしば

しばありました。常に平気な顔をしていましたが、その強靱な神経を(?)、恐

ろしいとさえ思ったことがありました。そのスズメバチに対するひたむきな取

り組みは、小生にとってかけがえのない心の宝となっています。

密葬ということで、御霊前に駆けつけ線香を手向けることが出来ませんでし

たが、2006年2月5日、池田一二高・石田昇三・市橋甫・宗林正人・冨田

靖男・村井俊郎ら大先輩らとともにご自宅でお参りし、奥様から生前のご様子

を伺う機会がありました。ささやかな偲ぶ会も催し、それらの中で、学生時代

からお亡くなりになるまで、スズメバチに対する情熱は並はずれたものであっ

たことをあらためて知り、そのご研究を最後まで貫徹された先生は素晴らしい

人生であったのではないかと想像できました。願わくばその教えと共に小生も

生きていきたいと思っています。

8

パンダバチのこと

本藤 勝

昭和 55 年(1980)修士修了

私が三重大学の大学院に入学した時は、松浦先生は試験場から移ってこられ

て1、2年で、まだ助手でおられた頃に相当します。上のお二人の先生が大先

生でやや近寄りにくかったのに対し、まだ30代後半と若く気さくな松浦先生

の存在は、当時の研究室の学生には大変ありがたい存在でした。当時私の研究

テーマはクワゴマダラヒトリというガの1種の生態でしたので、社会性のハチ

が専門の松浦先生とは直接のかかわりは少なかったのですが、クワゴマダラヒ

トリは丁度その頃から10年ほど前に西南暖地で大発生をし、ミカンなどに甚

大な被害を与えたことがあり、その頃和歌山県の果樹試験場におられた松浦先

生もこの昆虫を研究されていました。そのため、私がこの虫を研究するのにあ

たっては、文献をいただいたり、当時の大発生の様子をお聞かせいただいたり

し、これからこの虫を研究するにあたって、とても心強く感じたのを覚えてい

ます。実は三重大学を卒業し、一般の企業に入社してからも、お会いするたび

に研究を続けるように励ましていただき、上記の虫の生態学研究ということで

学位が取得できたのもそのおかげが大きかったと思っています。

ところで、大学院も2年目の夏だと記憶していますが、津の蒸し暑い夏を少

しでも快適に過ごすために、毎日研究室に出かけ、近くの低温室(15℃の部屋)

に入り浸っていた私は、ある日松浦先生の部屋から物音がするのに気づき(夏

休み中はめったにお見かけしなかった)、そちらを覗いてみました。すると先生

が丁度部屋に入ろうとされているところで、目が会うとニコニコされています。

「君、丁度いいときに来た。珍しいものを見せてあげよう。」と言って、見せて

いただいたのが、タイトルにあるパンダバチとその巣でした。パンダバチはも

ちろん俗称で、当時人気が高まっていたジャイアントパンダに配色が似ていた

9

ので、研究室の学生がつけたもので、正式和名はノサップマルハナバチという

のだそうです。先生は満面に笑みを浮かべながら、このハチが何年か前に採集

されて以来ずっと発見されていなかったコト、巣(コロニー)はもちろん新発

見であるコト、これからこのハチを飼育して新しい知見が得られるコトなどを

実に楽しそうに話されました。マルハナバチを間近で見ること自体初めての私

は、そのユニークな巣やパンダのようなハチを見てすごく感動したのを覚えて

います。あまり昆虫に対して「かわいい」という感覚を持つことは、それまで

なかったのですが、このハチはホントに「かわいい」といえる種類だと感じま

した。今回の北海道採集旅行では、ノサップマルハナバチの発見・採集以外に

も新発見がたくさんあったそうで、「これだけうまく行くという事は、オレもそ

う長くないということ、かもしれん。」と、普段めったに冗談を言わない先生が、

珍しく冗談を言われたのが印象的でした。時々、仕事でトマトのハウスに入っ

た際に、花粉媒介用のマルハナバチが飛んでいるのを目にすると、今でもこの

ときの情景が思い出されることがあります。

先生が退官前に大手術をして退院された後、当時の学生仲間数名と先生のお

宅を訪問しました。庭のミカンが咲くには少し早い季節でしたが、アゲハチョ

ウが時々産卵に訪れている頃でした。先生はまだお体がつらそうでしたが、遠

くから来た教え子のために数時間も付き合ってくださりました。

松浦先生、ありがとうございました。安らかにお休みください。

10

君知るやスズメバチの味

杉浦正昭

昭和 57 年(1982)3 月修士修了

我々の世代ほど、松浦先生とともにオオスズメバチの巣を頻繁に採りに行っ

た世代はあるまい。オオスズメバチに襲わせるために飼われていた松浦先生の

ミツバチの巣箱は、毎年秋になると期待通り多数のオオスズメバチに占拠され

た。たっぷりと蜂蜜を飲んだオオスズメバチは腹をだらりと下げ、ゆっくりと

我々の周りを旋回し、やがて自らの巣へと向かう。それを追いかけ、見失った

地点までたどりつくと、あらかじめ捕獲しておいたオオスズメバチに蜂蜜を飲

ませて飛ばし、また追いかける。このようなことを 1 日中繰り返し、運が良け

ればやつらが山腹の巣穴に消えるのを見ることができた。

こうして発見したオオスズメバチの巣を掘りに行くのは、当時の昆虫研の一

大イベントであった。その日は皆が護身用ネット、カメラ、スコップなどを手

にし、朝からわくわくしていたものである。出発前の松浦先生の決まり文句は

「今のうちに会いたい人があったら会っておけ」。悲しいかな、誰一人としてそ

のような人がいる者はいなかった。夜であれば赤子の手をひねるような捕り物

を、あえて危険極まりない昼間におこなったのは、ひとえに皆がスリリングで

血のたぎる経験を欲していたからである。白昼、多数の凶暴なハチが飛び交う

中で、防御服も着けず、素手で巣穴をふさぐことができるのは、全国広しとい

えども松浦先生以外にはそうざらにいるものではない。援護をまかされた我々

も、握りしめたネットの柄に汗がにじむ。まさに、松浦先生なしには経験しえ

ない貴重な体験であった。秋の日は短い。松浦先生が巣穴をふさいだ後も次々

と帰巣する巨大なハチを、皆で大騒ぎしながらネットで捕獲し、ようやく巣を

掘り出して帰途につく頃には、すでにあたりは真っ暗であった。

研究室に持ち帰ったオオスズメバチの巣は、松浦先生により種々のデータが

取られた後、我々に払い下げとなった。直ちに幼虫、蛹、前蛹が取り出され、

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いくつものどんぶりが山盛りとなった。幼虫はさらに体内の糞が除去され、蛹、

前蛹とともに大鍋に投入された。これらの獲物は砂糖と醤油で煮込まれ、佃煮

へと変っていった。至高の味であったのは言うまでもない。これを肴に、夜遅

くまで酒盛りが続いたのである。古き良き時代であった。

後日、松浦先生に、とある料亭でご馳走になる機会があり、「ハチの子」なる

ものがあったので注文してみた。出てきたものは、お猪口のような小さな容器

に数匹入っているだけで数百円もしたので、「こんなことなら、こないだ採った

巣は数万円くらいするんじゃないか?」と言い合って大笑いしたのであった。

その後、私の人生において、昼間にオオスズメバチの巣を採りに行ったこと

は一度もない。惜しい人を亡くしたものである。 ご冥福をお祈りいたします。

12

松浦先生の凄さ・やさしさ

春井 勝

昭和 57 年(1982)3 月卒業

今年も秋が来ると、また、スズメバチについて問い合わせが来るようになり

ました。そうすると、学生時代にオオスズメバチの巣をいくつか採りにいった

ことが想い出されます。

今年(2006)の春先は私の蜂場(神戸市北区で約 30 群、セイヨウミツバチを飼

っています)にも、オオスズメバチの新女王がよく飛来していたけれど、春の低

温・長雨、それに続く梅雨が明けてからはほとんど来なくなっていました(今年

は、ハナバチ、カリバチどちらも発生数が少なかったように思います)。それで

少し安心していたけれど、それでも9月になると、オオスズメバチの働き蜂が

捕獲器やトリモチ(粘着板)にも若干かかるようになっていました(結局、例年よ

りもオオスズメバチの飛来数は少なかった)。

私は、地元(阪神間)では、一応、「ハチの専門家」ということになっていて、

自治体の公園管理、農業関係の部署、また、植木業者からもよく相談がありま

す。ほとんどがコガタスズメバチで「外部の業者に頼む予算がないので自分た

ちで駆除する方法を教えてほしい」というのがほとんどです。

この時、「松浦先生なら巣ごと生け捕りにして家に持って帰るだろうなあ」と

思いながら、(可哀想だが)殺虫剤で駆除する方法を教えたり、また、駆除に立

ち会ったりしながらも、自分の実力のなさを痛感するとともに、松浦先生の凄

さを今更ながら痛感しているこのごろです。

私が大学3年の時、当時、昆虫学実験という実習講座があり、先生が学内に

13

置いてあったミツバチの巣箱を開けてくださり、巣板を持たせていただきまし

た。その時、「恐くはないか」と聞かれて、「別に何ともありません」と答えた

ら、「君はミツバチを飼う素質があるね」と言われ、その言葉を真に受けてしま

いました。それからミツバチに関わってしまい、現在に至っています。

ミツバチに関わったのは、「刺されて痛い思いをすることもあるが、甘い蜂蜜

を手に入れることができる」というスリルも少なからずあったと思います。し

かし、ミツバチの巣を襲撃するオオスズメバチを目の前にして、ミツバチが遮

二無二突っかかっていってもかみ殺され、為すすべもなく死骸の山をこしらえ

るオオスズメバチはさすがに恐ろしさ、憎さが先に立ちました。そのスズメバ

チを愛しく扱われる松浦先生に「これが人間か?」と驚異を感じたことも一度や

二度ではありません。

また、学生当時は、植物病理の研究室に籍を置きながら、オオスズメバチの

調査(ハチ取り:先生が巣の調査した後にハチの子を料理してみんなで食べまし

た)にはできるだけ関わりました。先生は始め「本当にハチ取りに参加するのか

ね、どうなっても知らないよ」といわれていましたが、何回か参加(お邪魔むし)

しているとそのうち、「今日ハチ取りに行くがどうかね」と誘ってくださるよう

になりました。

ハチ取りでは加藤実先輩とお互い「笑うに笑えない」事件もありましたが、

学生時代に松浦先生から学んだこと(スズメバチとミツバチ)が今の私の生活に

も非常に役に立っています。学生時代のことは実社会では役に立たないことが

多いといわれていますが、ミツバチに関しては役に立っています。養蜂(産業面)

では松浦先生の後継者の一人として(先生はどう思っておられるかは知りませ

んが)、今後も頑張っていきたいと思っています。

最後に、先生は人の名前を覚えるのが苦手らしいですが、私の名前は覚えて

いただいていました。1995 年の阪神大震災の時、私のところはあまり被害はあ

りませんでしたが、「大丈夫か?」と安否確認の電話をいただいたことです。通

じにくかったなか、何回もかけていただいたようでした。卒業後、10 年以上経

14

っていたのに、気に留めていただいていたことに家族ともども感激しました。

15

松浦先生を偲んで

笹井隆邦

昭和 59(1984)年 3 月修士修了

大学3回生の時に昆虫学研究室に入らせていただいた時からのお付き合いで

したから、25 年、松浦先生には本当にいろいろお世話になりました。

大学院、研究生としての2年間を合わせると、計6年間、先生のおそばにい

たことになります。その間の松浦先生との印象深い思い出は、やはりハチがら

みのことばかり。スズメバチの巣の回収作業はとても楽しかった。とにかく充

実して、わくわくして。怖いもの知らずの大学生でしたが、スズメバチの恐ろ

しさは身をもって知ることができました。先生がデータを取った後に食べるハ

チの子は、楽しみのひとつで、とてもおいしかった。これらの経験は今の生活

にもかなり影響していて、近所のハチの巣を回収したり、家族みんなでハチの

子を食べたり…。高校生の息子も学校からハチの巣を取ってきては、家の軒下

につけたりしています。

大学時代の忘れられないエピソードは、ご自宅に遊びに行かせていただいた

時、小さなお嬢さんがお庭で、目の前にスズメバチが飛んでいても全く平気で、

蜂蜜を葉っぱに掛け、スズメバチを集めていたこと。「流石、先生のお嬢さん!!」

もうひとつ忘れられないのが、天気のいい日に、研究室にいるといつも「体の

具合が悪いのか?」と真顔で心配してくださったこと。つまり、先生の感覚で

は、お天気のいい日に室内にいるのはおかしい、ということだった訳です。(次

は妻とかわります。)

私が初めて松浦先生にお会いしたのは、主人との結婚が決まり、お仲人をお

願いするため、ご自宅にお邪魔させていただいた時のことです。第一印象は、

“大らかで、気さくで、お優しい”。そして、それはその後 20 年近く、変わる

ことはありませんでした。

16

新婚旅行はアマゾンへ行きたいという主人に「それは、やめた方がいいんじ

ゃないか。新婚旅行は奥さんの行きたい所へ行ったほうがいいよ。」なんてアド

バイスをしてくださったりしました。

松浦先生ご夫妻にとって、私たちが“お仲人第一号”でした。結婚式の時に

はとてもいいお声で東北地方の長持歌を歌ってくださって、感激したのを今で

も覚えています。

ご自宅にはその後も何度かお邪魔させていただき、息子が小さい頃には、お

膝にのせていただいたこともありました。主人は松浦先生の影響を大分受けて

いたようで、変わった??行動が似ていて、よく、奥様と一緒に笑ったりしま

した。とても暖かいご家庭で、私たちの目標でもありました。

もっともっとおそばにいて、いろいろ教えていただきたかったです。

17

松浦先生の思い出─私の中の月光仮面─

北上 達

昭和 59 年(1984)3 月卒業

おそらく私は“虫好きの人”から見れば,優秀な学生ではなかったように思

います。もちろん,小さい頃には人並みに虫採りにも行きましたし,標本を作

る真似事もしていました。しかし,いわゆる“一線を越えて,のめり込む”こ

とはありませんでした。そんな私が昆虫を専攻したのは,3 歳年上の兄(同じ

く昆虫の卒業生の北上充弥です。)から聞いた,松浦先生の数々の武勇伝がきっ

かけでした。「ハチの巣を採りに行った上に,ハチの子まで食べられる・・・。」

そんな不純な動機が心の中にあったことは,否定できません。

残念ながら,私が専攻していた 2 年間はインドネシアのスマトラ島(だった

と記憶しています)での調査と重なり,松浦先生は出張で不在の期間が長い時

期でした。このため,先生がスズメバチの巣を採る“神業”を在学中は直に体

験できませんでした。唯一のチャンスは,鈴鹿市役所から依頼されてクロスズ

メバチ(?)の巣を採ったときでした。午後の講義後に大学を出発し,先生は

愛用のスーパーカブで,私は車で鈴鹿市役所に向かいました。折悪しく夕方の

渋滞に巻き込まれ,それでもスーパーカブは車の横をスルスルと前に進んでい

きます。「待ってくださ~い。」との心の叫びも虚しく,先生の姿は見えなくな

ってしまいました。やっとの思いで市役所に辿り着きましたが,先生の姿はあ

りません。しばらくすると,ひと仕事を終えた充実感あふれるお顔で戻られ,

案内の人を待たせられないし,暗くなる前に終わらせないといけないので,作

業は終了したことを伺いました。そして,興味本位でくっついていった私に,

「せっかく来たのに,すまなかったね。」と優しい言葉をかけてくださいました。

今思い返しても,先生の妙技が見られなかったことは残念ですが,不思議と悔

しいと感じないのは,そんなお人柄に触れることができたからかもしれません。

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松浦先生が颯爽とスーパーカブを駆る姿は,子供向けの図鑑にも掲載されて

いたと思います。そして,私の記憶の中では,先生が愛車にまたがる後ろ姿が

何度もリフレインするのです。そう,あのテーマソングとともに・・・。[ど~

このだ~れかは知~ってるけれど,だ~れもが知~ってるわ~けじゃない・・・

(中略)・・・疾風のように現れて,ハチの巣採って去ってゆく・・・(後略)]

兄と話をしながら,“松浦先生の人となりを知る,それぞれの人にそれぞれの想

い出があるのだろうな・・・”と,懐かしくも,寂しくも感じました。

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松浦先生を偲んで─私がハチ屋になったわけ─

小出哲哉

昭和 60 年(1985)3月卒業(現在 博士前期課程 2 年)

私が「ハチ屋」になったわけは、ずばり松浦先生の“影響”であると断言で

きる。「ハチ屋」といっても蝶屋や甲虫屋などと呼ばれる収集家ではない。私の

今の生活自体を表している。現在は農業試験場でマルハナバチの研究に取り組

んでいるため、毎日マルハナバチに接して朝から晩までマルハナバチの事を考

えている。また、趣味はミツバチの飼育で、セイヨウミツバチ 2 群、ニホンミ

ツバチ 5 群を飼っている。たまの休みはミツバチの手入れである。更に大学院

に社会人入学し、マルハナバチをテーマに修士論文を作成中である。昨年まで

はシダクロスズメバチをテーマにしていたため、シダクロスズメバチを 2 巣飼

育していた。このようなハチ漬けの生活になった元々のきっかけはもちろん松

浦先生との出会いである。

松浦先生との最初の出会いはもう 25 年以上も前になるが、昆虫学研究室に

入った時である。しかし、学生時代は岸本先生に師事し、直接ハチの手ほどき

を松浦先生から受けたわけではない。とは言っても、オオスズメの採集やハチ

の子のご相伴にあずかったことは言うまでもない。私の学生時代の松浦先生に

まつわるエピソードはきっと誰かが書いてくれているだろうから、大学卒業し

た後の松浦先生とのかかわりについて書いてみたい。

松浦先生とのかかわりの最初はミツバチである。私が就職した 1 年目の秋の

ことである。私は農業大学校に赴任しており、野菜科で野菜つくりを教えてい

た。そこでは、イチゴの受粉に養蜂業者からレンタルしたミツバチを使ってい

たのだが、毎年レンタル料を払うのはもったいないので、自分で飼おうと思い

たち、松浦先生にミツバチを譲ってくださいとお願いした次第である。すると

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先生は、私のずうずうしいお願いにもかかわらず快くミツバチ 2 群とさらにハ

イブツール、薫煙器、面布などハチ道具一式を譲ってくださったのである。今

思うとよくそんなずうずうしいお願いをしたなあと思うが、当時は学生気分も

抜けていなかったので出来たのであろう。そして、ハチを譲っていただく際に

「一人でも多くの人にハチに親しんでもらいたい」という旨と「薫煙器で火種

を切らさず長時間使えるようになれば一人前だ」と先生がおっしゃっていたこ

とを覚えている。その時いただいた薫煙器は私の自慢の物で、今でも私の養蜂

道具として大切に使わせていただいている。そして、ミツバチを実際に飼い始

め、ミツバチの生態の面白さ、蜂蜜を集める能力の高さを知り、松浦先生のハ

チを愛する気持ちの一端が少しはわかったような気がする。これをきっかけに

20 年以上もセイヨウミツバチをずーっと飼い続けることになった。

次の松浦先生とのかかわりはマルハナバチである。1991 年にトマトの受粉用

にセイヨウオオマルハナバチが日本に初めて 14 箱輸入されたが、その時私は

農業試験場に勤務しており、運よく初めて輸入されたセイヨウオオマルハナバ

チを使って、マルハナバチの普及に役立つ試験に携わることが出来た。当然な

がらその一部は松浦先生の手元にも渡されていた。マルハナバチでも第一人者

である松浦先生は全国各地の講演会に引っ張り凧であったが、私も幾度かはご

一緒できたことは光栄であった。当時、静岡の講演会で、私は、農家向けにマ

ルハナバチの上手な利用法などを説明したことがあった。松浦先生はマルハナ

バチの生態についてお話をされ、講演後に、私がマルハナバチに対する研究方

向について迷っていることを話した際に、「今の調子でやればよい」とアドバイ

スしていただき、自分の研究方向に自信を持てたことを覚えている。

三番目の松浦先生とのかかわりは“ヘボ”である。私は野菜研究室に所属し、

野菜の栽培技術の研究を行っているかたわら、如何に昆虫を野菜栽培に利用す

るかを考えていた。数年前にシダクロスズメバチ(地域名:ヘボ)をキャベツ

の害虫であるチョウ目幼虫の天敵として利用するための研究を始めていた。こ

の「ヘボ」を利用するためにはヘボを手に入れる必要があり、ヘボの神様と呼

ばれていた串原村の三宅さんを訪ねた。三宅さんはヘボサミットと呼ばれる全

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国大会を年に 1 度行い、ヘボ採りや飼育の技術の情報交換を行っている。この

三宅さんと話しているうちに話は松浦先生の話題になり、ヘボサミットで松浦

先生は何度も講演をされていることを知った。ここでも松浦先生はヘボを愛す

る人々から尊敬されており、先生の偉大さを改めて感じた。私もヘボの研究を

行い、このヘボサミットでいつかは松浦先生のように講師として呼ばれるよう

になれればいいなあと思ったものである。その後、天敵として利用するために

は大量増殖が不可欠であるため、スズメバチの人工増殖について松浦先生の教

えを請おうと思い、松浦先生退官の 1 年前である 2004年に三重大学大学院に

社会人入学した。研究の相談に松浦先生を訪ねたとき、お昼を学食でご一緒し

た時は、手術をされて退院されたばかりであったにもかかわらず、「食べていか

んものはないんや」とおっしゃってカレーライスを美味しそうに食べられてい

るのが印象的であった。内心私は本当にカレーなどの刺激物を食べていいのか

と心配したものである。

大学院入学後は、ヘボの人工増殖に対してもすぐに結果を求めてしまうせっ

かちな私に対して、松浦先生は「そう、あせるな、そんなにすぐに結果が出た

ら、今までに誰かが出来ている。」とたしなめられた。また、私がヘボ採りの人

から聞いたり、考えた色々な実験方法を提示すると、決してダメとは言わず、

「いろいろな角度や素人からの見方がひょっとするとうまくいくかもわからな

いからどんどんやってみなさい。そしてよく観察しなさい」と言われて、いろ

いろやってみたが全部失敗だったこともあった。先生はきっと私が試験を行う

前から失敗するとわかっていたと思われるが、私自身は色々やってみることで、

失敗しても納得出来たし、よく観察するようになったことで次へのステップに

繋がったことは間違いない。

松浦先生は今まで、学生にスズメバチのテーマを持たせたことはなかったの

で、私が最初で最後のスズメバチのテーマを持った学生であると自負し、頑張

っていたのであるが、仕事をしながらの研究は、予想以上に大変なことであっ

た。

翌年には松浦先生は退官され、私も異動があり、マルハナバチの研究を仕事

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で行うことになった。シダクロスズメの観察巣箱を開発し、結構面白い結果は

出ていたのであるが、大学院の研究テーマを仕事に合わせてマルハナバチに切

り替えることにした。今は山田先生にお世話になっている次第である。しかし、

シダクロスズメに対する研究は、松浦先生の足元にも及ばないが、折を見て続

けて行きたいと思っている。

今年の 3 月、ご自宅に飼われていたニホンミツバチを、先生亡き後、奥様が

面倒を見ることが出来ないとの連絡を先輩の春井さんからいただいた。早速、

譲っていただくため先生のご自宅に伺った時に、かの有名なハチ部屋を実際に

見て、先生がいつもこの部屋でスズメバチの観察をなされている姿を想像し、

先生には足元にも及ばないが、私もハチの研究をしているものの一人として、

頑張ろうと気が引き締まった思いがした。その時、奥様の話から初めて知った

ことは、松浦先生も趣味でミツバチを結婚当初から飼われていたこと。そして、

奥様はハチミツ搾りをよく手伝っていたが、あまり快く手伝っていなかったと

いうことである。私も趣味でミツバチを飼っていることは先にも述べたが、松

浦先生と同様、ハチミツ搾りを妻に手伝ってもらっている。てっきり手伝う人

もハチミツを得る喜びを味わっていると思いきや、先生の奥様と妻とが意気投

合し、どれだけ手伝いが大変なのか私は二人から責められてしまった。きっと、

松浦先生も天国から苦笑されていたのではないだろうか。その時いただいたニ

ホンミツバチは今年の五月に分蜂し順調に成育している。もし、松浦先生のニ

ホンミツバチの子孫を飼ってみたいと思われる方はご連絡いただきたい。

このように松浦先生には本当に長い間お世話になったのであるが、先生はハ

チのことについてもあまり細かく教えて下さることはなさらず、観察するに当

たって、人から教わった予備知識を持って見るのではなく、疑問点については

自分でとことん観察し、自分で解明することが本当の力になり、その後に続い

ていくことを教えて下さった。現在、マルハナバチの研究も松浦先生流とでも

言える「よく観察すること」を基本スタンスとして取り組んでいる。

心より先生のご冥福を祈りいたします。合掌

23

松浦先生の思い出

小出直哉

昭和 62 年(1987)3 月修士修了

私は、昆虫学教室に入って 3、4 年生の時は、コマルハナバチ、大学院の時

はクロマルハナバチを研究課題にしていましたので、松浦先生には 4 年間お世

話になりました。

また、就職してからも松浦先生にはお世話になりましたので、その中から特

に思い出に残っていることをいくつか書いていきたいと思います。

◆オオスズメの巣にエーテルを入れて綿でふたをする神業

昆虫学教室では、秋になるとオオスズメバチの巣の採集(駆除)に何度か出か

けました。夜に採集するのは、ハチがすべて巣の中に入っているので、とても

簡単ですが、昼に採集する時は、ものすごくスリルがあります。昼の採集を簡

単に説明すると、まず、松浦先生を筆頭に数人のチームで出かけます。松浦先

生は普通の格好ですが、学生は、できるだけ白い服に身を包み、白いタオルで

ほっかむりするといったスタイルです。そして、外役から帰ってくるハチを採

集する人、採集したハチを毒ビンで殺す人に分かれ、それぞれの持ち場につき

ます。ポジショニングが決まるといよいよ採集の始まりです。松浦先生が巣の

中にエーテルを入れ、綿でふたをします。外役から帰ってくるハチをすべて採

集します。帰ってくるハチがいなくなるまで(2 時間ほど)続けます。捕虫網

は数本用意し、採集したら捕虫網ごと殺虫班に渡し、すぐに新しい捕虫網で採

集します。規模の大きな巣の場合は、どんどん帰巣してくるので、捕虫網の数

が足らなくなり、一度に何頭ものオオスズメを捕虫網に入れながら、さらに採

集するといったこともありました。働きバチの採集が終わると掘り取りです。

この掘り取り作業で、営巣規模(巣板が何枚で、幼虫、蛹がどれぐらいあるか)

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が明らかになるで、とてもワクワクする一瞬です。また、女王蜂を見ることが

できるときでもあります。この掘り取りが終わると働き蜂を一匹残らず回収し、

きれいに埋め戻して終了となります。

そして、研究室に帰り、松浦先生がセル数や幼虫、蛹数のカウントなどの必

要な調査を終えると、幼虫、蛹の詰まった巣板は巣板ごと学生がもらい受けま

す。これが、学生へのご褒美です。この後は、いよいよ「蜂の子パーティー」

の始まりです。私は、蜂の子が大好きですが、松浦先生は蜂の子は一度も食べ

られませんでした。松浦先生は、ハチに刺され過ぎて肝臓に負担がかかってお

り、絶対にハチに刺されてはいけないとドクターストップが掛かっていたので

ハチの毒を一緒に食べることになる蜂の子は、食べることを控えていたのだと

思います。

さて、このスズメバチの採集で、松浦先生からスズメバチの習性をいくつか

教えていただきました。例えば、スズメバチは黒いものを襲うこと。スズメバ

チの凶暴な順(オオスズメ、キイロスズメ、モンスズメ・・・最後にヒメスズ

メ)。スズメバチは巣を守るために襲うので、帰巣虫のハチは、巣に帰り着くま

では襲ってこないので、採り損ねても慌てずに採り直すことなどです。

また、オオスズメ採りのときには、最も感心し、絶対にまねできない(した

くない)神業を松浦先生が披露してくれます。それは、巣にエーテルを入れて

すぐに綿でふたをすることです。先生曰く、「オオスズメの働きバチが外役から

戻ってくると、門番バチが外役バチをチェックするため、外役バチが巣の中に

入り込むときに門番バチが外役バチの後を追って、一瞬、巣の中(後ろ)を見る。

そのわずかなスキにエーテルを巣の中に注入する」とのことでした。

オオスズメは凶暴な上、巣が地面の中にあるので、足音の震動で興奮しやす

く、巣のそばに寄るだけでもものすごく怖いのに、門番バチのスキをねらって、

エーテルを入れるなんて、まさに神業でした。

◆私の犠牲になってオオスズメに刺されたこと

大学院の 1 年生の時だと思いますが、見当山(津市内)の手前にある池の土手

25

に、オオスズメバチが巣を作っていました。

「ちょうど新女王バチが巣から飛び立つ時期なので、巣の前に雄バチが集ま

っていると思うので、その写真を撮り行くから一緒に行かないか」と松浦先生

からお誘いを受けました。こんなチャンスは滅多にありませんから、私もカメ

ラ道具を一式持って、喜んで付いて行きました。

現場に着くと、先生のおっしゃられたとおり巣の前は雄バチが群がりすごい

状態でした。先生が写真を撮り終えた後、私が写そうと思い、巣に近づくと、

門番バチが怒って私の目の前で威嚇のホバリングしながら、カチカチとあごを

鳴らし始めました。私は、恐ろしさのあまり後ずさりし、松浦先生の後ろに逃

げ隠れました。するとその怒ったハチが、松浦先生の頭に飛びかかり、先生は

頭を刺されてしまいました。しかし、先生は、特に慌てることもなく、「イテテ

テ」と言いながら指でツバを2,3回ぬっただけで終わりました。私は大変申

し訳なく先生に何度も謝りましたが、「あー大丈夫、大丈夫」と言って平気な顔

をされていました。どれほど痛かったかは、分かりませんでしたが、特に腫れ

ることもなく、見た目は本当に大丈夫でした。私が刺されていたら、ものすご

く腫れ(ミツバチでもかなり腫れます)、病院行きだったと思いますが、松浦先

生のスゴサをここでも実感しました。

◆キンモウアナバチとの出会い

これも私が院生だったときですが、松浦先生から「小出君は、キンモウアナ

バチを知っているか」と声をかけられました。私が知らなかったので、「腰のと

ころに金色の毛が生えている大きなアナバチが津八幡宮の境内に沢山いて、地

面に穴を掘って、そこへクダマキモドキ(樹上性のバッタ)を狩って連れてく

る光景が見られる」と教えていただきました。早速、出かけてみると沢山のキ

ンモウアナバチがあちこちに巣穴を掘っており、クダマキモドキを巣穴に引き

づり込む光景を写真に撮ることができました。写真を撮っていると津八幡宮の

奥さんが声を掛けてこられ、話しているうちに、松浦先生とこの奥さんとはハ

チを通してよくご存じの仲であることが分かり、私も津八幡宮の奥さんと親し

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くさせていただくようになりました。ちょうどそのとき、奥さんが「キンモウ

アナバチの生活」子供向けの科学読本)という本を出版され、その中に私が登

場することになりました。

その本は、自分の息子にお父さんが登場している本ということで、今でも大

切にしております。

◆図書館でのできごと

これは、私が修士論文を書き上げ、その原稿を製本するために、大学図書館

へ松浦先生と一緒に行ったときのことです。

製本のために行ったので、図書館の裏口から入ったのですが、その帰りに、

靴を履こうとしたら、小出君先に履きなさいと言われました。私がキョトンと

していると先生が理由を教えてくれました。その理由は、「私は自分が履いてき

た靴が分からないから残りの靴を履くから」ということでした。裏口に置いて

あった靴は、3 足で私の運動靴と先生のつっかけ(草履)、残りの一足は始めか

らあった革靴とまったく違うタイプの 3 足だったので、ちょっと驚きました。

すると、先生が自分の逸話を話してくれました。その話は、以前、大学の職員

旅行へ行ったとき、旅館のお風呂に入って、出てきたときに、自分の下着がど

れだか分からなくなってしまって、適当に履いて部屋へ戻ったら、大騒ぎにな

ってしまい、それ以後、最後に自分のものを取ることにしているとのことでし

た。

また、別の逸話も教えてくれました。それは、外国に数ヶ月間調査に行って

きて、日本へ戻ってきたとき、松浦先生の奥さんが空港まで迎えに来てくれて

いたのですが、奥さんを見つけることができなかったという話です。奥さんが

お化粧をして髪型を変えていたので分からなかったということです。

私に会うときの松浦先生の第一声は、毎回「申し訳ないけど哲哉君か直哉君

かどちらだったかな」だったのですが、この話を聞いてからどうして松浦先生

がいつも同じ質問をされるのかが理解できるようになりました。(私は、一卵性

の双子で、人からよく似ていると言われている上に、二人とも同じ昆虫学研究

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室に在籍していました。松浦先生は、最後まで二人を区別することができませ

んでした。)

松浦先生は、昆虫のこと全般に非常に詳しく、どんな虫でもすぐに同定して

くれるのですが、人や自分の持ち物のことになる見分けることが著しく苦手で、

虫のことしか興味がない、卓越した人だと思うところがありました。

◆結婚披露宴での詩吟

私が就職してからも松浦先生には、ミツバチの飼育のご指導をいただいたり

といろいろお世話になっていましたが、特にお世話になったのは、私が結婚し

たときに、披露宴に来賓として出席していただいたことです。

その結婚披露宴では、先生から身に余るような祝辞をいただいた後、詩吟を

披露していただきました。松浦先生が詩吟を練習されていることは以前から知

っていましたが、聞いたのはこのときが初めてで、その唄は、すごく声量があ

り、声質もよく、大変上手だったので、本当に驚きました。また、松浦先生に

虫以外の趣味があったんだと先生の一面を発見したのを覚えています。

思い出すままにいくつか書きましたが、私は、松浦先生の「申し訳ないけど

哲哉君か直哉君かどちらだったかな」という言葉に、最も先生らしさを感じて

います。上述したように虫意外にはほとんど興味関心がないから区別がつかな

いということだけではなく、それは、推測で話したり、どちらか分からないま

ま話を進めるのではなく、まず始めにきちんと相手を確認することで、逆に失

礼のないようにするための配慮であったと思います。先生のまじめさ、人を思

う優しさ、人柄を感じる言葉でもありました。

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松浦先生の思い出

山崎努

平成元年(1989)3 月卒業

私にとって昆虫学研究室は「ほのぼのした所」だった記憶があります。 江戸

っ子のように身軽にテキパキと行動される岸本先生、話し好きな山田先生、そ

して、常に穏やかな松浦先生。3人のバランスがここちよい雰囲気を作り上げ

ていました。

なかでも、松浦先生は、色々と武勇伝を聞かされていたこともあって、「ハチ

と結婚した仙人」のようなイメージを持っていました。そんな先生がある日、

黄色スズメバチ(?)の大きな巣(直径1m近く?)を留学生 (?)と研究室

に運んできました。こんな大きな巣を始めて見た私は、先生が黙々と行う巣の

解体作業をじっと目を凝らしていただけでした。作業が終わると、蜂の子と蜂

蜜を、ネスカフェ(?)コーヒーに瓶詰めにしてもらい実家に送らせてもらい

ました。当時、私にとって昆虫学研究室の特典は松浦先生経由で蜂の子と蜂蜜

を食べられることでした。

その後、社会人になってから、「昆虫学研究室ってどんな人達が集まってくる

の?」 と聞かれると、必ず「松浦先生のフィリピン武勇伝(私の記憶ではフィ

リピン?)」 の話をしました。その話は先生の武勇伝に、私が感じていた先生

の人柄を加えたもので、確か・・・ジャングル奥深くに無我夢中でズズメバチ

を追いかけた挙句、全身を刺された先生は覚悟を決め好物のビールを1ケース

飲み干して、そのまま熟睡したら次の日、何もなかったかのように目が覚め

た・・・というものでした。「虫が大好きな人達の人柄」を「虫嫌いの人」に紹

介するにはわかりやすい話としてよく使わせてもらいました。

まさに、私にとって松浦先生は「ハチと結婚した仙人」であり、「ハチ好きな

人」の象徴であったような思い出があります。

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In memoriam Makoto Matsuura (1941‐2005)

米田昌浩

平成 5 年(1993)3 月卒業

以下は Insectes Sociaux 53 (2006): 498 に載った米田氏の追悼文です。

Makoto Matsuura, a leading authority on the biology of vespine wasps, passed

away on December 27, 2005. In 2004, he retired from Mie University and became a

professor emeritus.

Most of his doctoral thesis was published as "Comparative Ethology of

Japanese Vespine Wasps) (1984; in Japanese) in collaboration with Seiki Yamane.

The late Sh3ichi F. Sakagami, who was their supervisor, praised this book as one

of the century)s best books on wasps. The book was also translated into English

and published as)Biology of the Vespine Wasps) (1990).

The data accumulated over many years by Matsuura were outstanding, in

particular for understanding the behaviors of social wasps. He marked wasps

individually, even vespine wasps with notorious aggressiveness, and observed

them. Indeed, his outstanding courage and patience went far beyond my ability to

describe them. In his later years, he said to me while looking at a catalogue of video

cameras with night vision equipment, “I couldn’t easily observe the nocturnal

behaviors of Provespa anomala in Sumatra with a red light” and “I used to observe

the behaviors of vespine wasps nesting on trees while dangling from the trees by a

rope, but I am much less concerned about being stung by the wasps than I am about

falling to the ground. So, a video camera will mean that I can do my observations

without needing to do such laborious exercises!”

The scientific interests of Matsuura included not only vespine wasps but

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also paper wasps, bumblebees and other bees. In his how-to book on the observation

and breeding of bees and wasps for the general readers, he generously revealed his

special technique for breeding wasps and wrote, “Everybody who likes insects,

wants to have own an Armas ” quoting a section of Armas of Souvenirs

Entomologiques, written by Jean-Henri Fabre. Indeed, he had his own Armas at

his home; a room for observing vespine wasps, including Vespa mandarinia, nesting

within the room.

"Suzume-bachi wo Taberu” (2002) (Eating vespine wasps) was his last book.

He described the habit of eating wasps as part of the dietary culture in Asia,

especially in China and Japan. He considers that wasps evolved their

aggressiveness against humans because humans can be one of the most serious

predators for vespine wasps in this area. Regrettably, due to space limitations, his

last book did not include his original draft for Vespula and Dolichovespula. I am

deeply saddened that his unpublished draft will remain so forever.

Matsuura liked to chant Shigin, a form of Japanese poetry. He chanted for

his students, bearing the message “Life is always troublesome. It is like a big wall

in mountain climbing. You young guys do not give up to climb over the wall.” Now

we should climb over the big wall of Matsuura. I pray for the repose of his soul.

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松浦先生と私とタヌキ

長屋百合

平成 6 年(1994)3 月卒業

松浦先生に一番ご心配をおかけしたのは、私かもしれません。なにせ、研究

対象がタヌキでしたから、、、

私が昆虫学研究室を選んだのは、フィールドに出て野生動物の行動を研究

したかったからです。しかし、まさか哺乳類をやらせてもらえるとは、思って

いませんでした。松浦先生のもとですから、やはりハチをやるつもりでした。

しかし、先生に「本当は君は何がやりたいのか?」と聞かれ、思わず「哺乳類

です」と答えてしまいました。「自分でやれそうなテーマをいくつかあげてみな

さい」と言われました。私は、当初アマチュアで野生動物を調査している方に

くっついてお手伝いをさせてもらっていました。その方に相談して、自分の調

査できる行動範囲内でできそうな動物であげてみました。その方の専門がコウ

モリだったので、コウモリ、ネズミを対象としたテーマをもっていったと思い

ます。すると、先生から、その時はすでに退官されていた、山下善平先生がご

自宅の近くでタヌキの餌付けをされているので一度会ってみたらと言われまし

た。そこで、私は山下先生にお会いして、餌付け場所やその周辺のフィールド

を案内して頂きました。それをきっかけに、また別の方に県庁にタヌキの巣穴

があることを教えて頂いたりして、少しずつ調査をしてみることにしました。

県庁の巣穴を案内して頂いたその日に偶然にも巣穴を出て来るタヌキを目撃し

てしまったのが運命だったと思います。私のフィールド内でタヌキ本体にあっ

たのは、私が調査中、その時が最初で最後だったのですから、、、

先生から直接タヌキについては教わることはありませんでしたが、本当に

いろいろ気にかけて下さいました。

私がタヌキの研究をして、卒業させて頂いたのもひとえに松浦先生の懐の

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深さだと思います。本当に感謝しています。

また、私は、卒業後、結婚後も津市内に在住し、学生時代からやっていた

自然観察の活動を続けていました。自分のフィールドをみつけ、仲間と一緒に

自観察会を開いたり、調査したりする中、先生にいろいろ相談にのって頂きま

した。大学に知り合いを連れて行った際には研究室を案内して頂きました。ま

た、先生がご病気で大学病院に通われている時、私も2人目の出産で大学病院

の産婦人科に通っていたこともあって、時々お会いすることがありました。い

つも私の身重な体に気遣って下さいました。

先生には在学中も卒業後も本当にお世話になりました。今の私があるのは

先生のおかげです。本当にありがとうございました。

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松浦先生の思い出

坂本 泰隆

平成 7 年(1995)3 月修士修了

■はじめに

私は、松浦先生のもとでアシナガバチの研究をさせていただき、修士課程を

修了いたしました。

修士 1 年の夏にアシナガバチ毒アレルギーを発症してしまい、常識的にはハ

チの研究は断念せざるを得ない状況でしたが、松浦先生に無理にお願いし、そ

の後も1年間以上アシナガバチをテーマに研究を続けさせていただきました。

先生は学生を安全に指導するというお立場にあったことを考えると、本当に

大きなご迷惑をおかけしたことを反省するとともに、大変なご恩をいただいた

と感謝しております。

ここでは、私の大学生活を振り返って、松浦先生との印象深い思い出を紹介

したいと思います。

■―ナチュラリストとしての松浦先生―

昆虫の授業や研究のフィールドで先生とご一緒させていただいたとき、先生

が昆虫の名前を本当によくご存知なのと、それぞれの生態について知識が豊富

なのには、失礼かもしれませんが、いつも感心していました。

オオスズメバチは餌場の樹液に近づいても攻撃してくること、ツチバチがコ

ガネムシを狩るために土にもぐること、カバキコマチグモに毒があること、思

い返すと、基本的なことですが松浦先生にフィールドで教わったことがたくさ

んあります。

大学当時、私はあまり虫の名前を知らなかったので、先生のようなナチュラ

リストになりたいと、いつもあこがれていたように思います。

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■ハチ毒アレルギー(修士1年時)

私が修士論文研究の野外観察でコアシナガバチに刺され、ハチ毒アレルギー

と診断されたとき、松浦先生にアレルギーのショック症状というのはどういう

ものかをお聞きしました。私は頭がくらくらする程度で、当日は自力で大学ま

で戻ることもできたのですが、松浦先生曰く「俺もハチに刺されて毎年 1 回は

目の前が真っ白になるけども、目が覚めて、今度もやっぱり生きていた、と思

うんだ。」とのこと。

先生が毎年ハチに刺されて死にかけていることにも驚きましたが、「自分はこ

れまでハチの研究で生きてきたので、ハチに刺されて死ぬなら、変な病気で亡

くなるよりはいいと思っている」と続けられましたので、やはりこの方は筋金

入りのハチの研究者だ、と認識を新たにしました。

それからは、「だけど、君は将来もあるし、ハチに命を懸ける必要もないので、

別の研究を考えてみてはどうか」と以後の私の身の振り方についての話し合い

になりましたが、結局「私もハチが好きなので、あと 1 年間だけ研究を続けさ

せてください」という無茶なお願いを聞いていただきました。

今にして思うと、先生は「ハチが好き」という言葉には弱かったのではない

でしょうか。

■昆虫研 OB 会にて(2004 年)

松浦先生がガンになられたという話をおききしたとき、学生時代の「変な病

気で亡くなるよりは…」というお言葉を思い出しました。まさに「変な病気」

にかかってしまったのですから、さぞや無念かと心配しておりました。

しかし、松浦先生は病巣がハチの巣の形によく似ていたことをうれしそうに

話された上で、突然亡くなるのではなく、病気とつきあいながら、ご自分の意

思で余命のすごし方を決められることに感謝している、ということをおっしゃ

っていました。

何という達観された人生観でしょう。長年、スズメバチ研究という生死のは

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ざまに身をおかれてきたゆえの、研ぎ澄まされた生死観だと思いました。

■おわりに

私は、現在縁があって環境関係の仕事で昆虫を扱う仕事もしており、近年は

ハチの巣を食べるワシタカ類であるハチクマの食痕分析(ハチの廃巣)という

形で、アシナガバチやスズメバチとつきあう機会もあります。

私が三重大学を離れ 10 年以上を経て、いまだにハチというすばらしい生き

物と少しでもつきあえるのは、無理に研究を続けさせていただいた松浦先生の

おかげ以外の何ものでもありません。

松浦先生から受けたご恩の大きさを考えると、私は何もご恩返しができなか

ったような気がして、とても心残りです。

私の昆虫の知識はたいしたことはありませんが、せっかく松浦先生や研究室

の方々と縁があって得た財産ですから、自分のできる範囲で有効に活用し、一

生、虫といい形でつきあっていけたらいいなと思います。

末筆になりましたが、松浦先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

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松浦先生の偲んで

向瀬 貴子

平成 8 年(1996)3 月修士修了

大学を出てから10年になりますが、毎年、セイダカアワダチソウの黄色い

穂が風に波打つこの時期に思い浮かぶのは、少し心配そうに夜の研究室の扉を

明けてのぞく松浦先生の姿です。修士論文をまとめ始める頃ではありましたが、

私はまだ、夜明けから日暮れまで晩秋の野登山を歩き回っていました。野登山

のハナバチ相の調査とあっては、ハナバチがいなくなるまでフィールドワーク

を中断するわけにはいきません。先生は、研究室に戻ってからも夜遅くまでハ

ナバチの同定を続ける私に、「地味な作業と観察が、大きな結果になる」と励ま

してくださり、夜帰宅なさる時には必ず研究室によって「体を壊すな」と気遣

ってくださいました。学生の素朴な疑問を大切にし、観察や実験を最初から最

後まで自分なりの方法でさせてみる先生の方針は、行動力と忍耐力が養われた

経験となりました。現在農業とも昆虫とも全く関係の無い仕事をしていますが、

自分で判断し行動をおこすということは、今の生活にもプラスになっていると

思っております。

自然の豊かな石川県の田舎町に住んでいるため、休日には子供たちを連れて、

野や山に散歩に出かけます。子供たちにとっては、花が開くのも、ハチが虫を

狩り巣を造るのも、全てが珍しく、「どうして?どうして?」の連発です。その

疑問に答えるだけの知識が無く、学生時代もっと勉強しておくべきだったと悔

やむことが多い今日この頃ですが、普段の何気ない生活の中でも、いろいろな

ことに興味を持ち、生き物を愛しむ心を大切にしていきたいと思っております。

たぶんそれが、松浦先生が私たち学生に伝えたかったことではないでしょうか。

児ら連れて 萩の葉陰で翅音きく

この時の輝きに 師の教え思う

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松浦先生の思い出

安藤 晋一

平成10年 (1998) 修士修了

松浦先生には学部2年と修士課程2年の計4年、教えていただきました。ハ

チのことだけではなく、フィールドワークの素晴らしさ、園芸の楽しさ、読み

手にきちんと伝わる文章の書き方の大切さ、など私の人生に大きなものをいた

だいたと思います。特にこれといったエピソードは思い浮かばないのですが、

研究室にいた時間、そして卒業後何度かお会いしたときの時間すべてが思い出

です。もう新しい思い出はできないのかと思うと残念でなりません。

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松浦誠先生へ

加藤 展朗

平成 16 年(2004)3 月修士修了

先生に初めてお会いしたのは大学 2 年の夏、農場合宿でした。昆虫学実習を

担当されていた先生は、生徒にビニール袋 1 枚だけを配布して昆虫採集をさせ

るという特異な講義をされました。そしてどんな虫の名前も性別も即答なされ

ていました。また、ゴマ畑ではスズメガの幼虫を捕まえてほおずりされたのも

覚えています。この講義は私にとってかつてない印象的なものでした。また、

先生の通常講義もとても明快でおもしろかったので、昆虫に対しての興味がい

っそう湧いていきました(後に先生の講義が人気№1 であったことを嬉しそう

におっしゃっていました)。そして、あの凶暴で猛毒を持つスズメバチの研究を

されていることも知りました。当時は遺伝子系の研究室に入りたいと考えてい

た私でしたが、こうしたことが重なり次第に先生の魅力に惹かれていきました。

「松浦先生のようにたくさんの虫の名前を覚えたい。ハチの研究をしてみたい」

と思うようになり、最終的には昆虫研を第一志望したのです。

めでたく昆虫研に入ることができ、先生のもとで研究させていただくことに

なった私は、同期の田中さんと一緒にあいさつに訪れました。先生は初対面に

もかかわらずとてもフレンドリーに接してくれました。そしてオオスズメバチ

の女王を素手でつかんで見せ、「これが世界最大のスズメバチだ。君たちは真似

するなよ」とおっしゃいました。私達はかなりの衝撃を受けました。体長 6c

m程もある巨大なスズメバチを初めて目にし、またこんなものを素手でつかむ

人がいるなんて・・。これを見て私は研究に対する意欲がみなぎって来ました。

世間では嫌われ者のハチを題材として研究させていただいたことはある意味

鼻が高かったです。ハチは害虫とのイメージしかありませんでしたが、その生

態や利用を研究することのおもしろさにのめり込んでいきました。また、研究

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の合間に各種昆虫を捕まえて先生を訪ねてみると、お忙しいにもかかわらず嬉

しそうな顔をされて名前や生態を教えていただきました。私はこうした先生と

の会話が楽しくなり昆虫採集を始めました。そんなある日、いつものように虫

を捕まえて先生を訪ねると、「これが君の人生の楽しみの一つになればいいけど

な」とおっしゃってくれました。

私が修士 2 年目の時に先生は体長を崩されました。入退院を繰り返しておら

れ、この年はなかなかお会いして話す機会がありませんでした。しかし、体調

が優れない中先生に修論発表を聞いていただけたのはとても光栄でした。卒業

前には、農薬会社に勤めることが決まっていた私に「次は仕事で会おう」と声

を掛けていただきました。また、「俺だって最初は農学部でハチの研究だなん

て・・とバカにされていたんだ。それが後にスズメバチが注目されるようにな

ったおかげで今の俺がいるんだ。人生はどこでうまいように転がるかわからな

いぞ」とおっしゃいました。これらの言葉は初めて社会に出る私にとってどれ

だけの励みになったことでしょうか。

山形で働きはじめて 3 年が経とうとしています。こちらに来ても先生がご存

命だったらなあと思うことが多々あります。会社が扱う農薬がミツバチに対し

て薬害がでたそうです。工場で働く私には直接関係はないものの先生がいらっ

しゃれば専門的な意見をお伺いできたのにと思いました。また、チャイロスズ

メバチの巣を初めて見る機会に恵まれました。ぜひ先生に報告したかったです。

松浦先生のもとでハチの研究と昆虫採集ができたことは、私にとってとても

貴重な経験であり、人生においてかけがえの無いものとなりました。きっと私

は先生におっしゃっていただいたように、昆虫採集や観察を人生の楽しみの一

つとしてこの先も生きていくのだと思います。このような機会を与えていただ

いた先生に深く感謝しております。本当にありがとうございました。先生は生

前とてもご多忙な方でしたので、どうぞ安らかにおやすみください。

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編集後記

忙しい中,原稿を寄せてくださったみなさんに感謝申し上げます。先生が亡

くなられてから早 1 年が経ちます。先生の元居室はまだ完全には整理ができて

いません。たまにその部屋に入ると,先生の薫りを感じることができます。先

生の笑顔が思い出されます。先生のご冥福を心よりお祈りします。

山田佳廣