一...

稿︿便

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  • 駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十五號 

    平成二十九年三月

    一二九

    『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)

    角 田 泰 隆

    凡例

    一、本稿は、二〇一六年における、駒澤大学大学院の角田ゼミ(宗学特講Ⅱ︻演習︼)で作成した資料を基に作成したも

    のである。

    二、︻本文︼は、本山版『正法眼蔵』(寛政十一年︿一七九九﹀刊)を底本とし、左記の『正法眼蔵』諸本と校異して作

    成した。「校異」は本文下段に示した。諸写本によって底本の本文を改めた部分もあるが、その場合は校異に示した。

    校異した諸本の略号は次の通りである。なお、これらの写本は全て『蒐書大成』に収録されている。

      

    懐奘書写本︙懐  

    正法眼蔵抄︙抄   

    乾坤院所蔵本︙乾 

    正法寺所蔵本︙正 

    龍門寺所蔵本︙龍

      

    洞雲寺所蔵本︙洞 

    瑠璃光寺所蔵本︙瑠 

    長円寺所蔵本︙長 

    玉雲寺所蔵本︙玉 

    徳雲寺所蔵本︙徳

    三、︻本文︼は便宜的に適宜分割し、最初に段落分けを示すため︻本文︼のみをまとめて掲げ、番号を付した。底本の

    片仮名は平仮名に改め(子↓ね、ヰ↓ゐ、ヱ↓ゑ)、内容解釈に基づいて独自の句読点とルビを付した。︻本文︼・︻懐

    奘書写本︼の漢字は原典の字体をそのまま用いたが、︻本文︼以外は、︻本文︼からの引用も含めて、原則として新字

    体に改めた。

    四、︻語註︼は既刊の辞典等を参照して新たに作成したが、辞典等をそのまま引用したものについては典拠を明記した。

    ︻語註︼・︻解説︼で『正法眼蔵』を引用する場合は、大久保道舟編『古本

    校訂正法眼蔵全』(筑摩書房、一九七一年四月)よ

    り引用し、頁数のみ記した。引用文中の傍点・傍線は、全て筆者が付したものである。参照文献・辞典の略号は次の

    通りである。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三〇

      『大正新脩大蔵経』︙『大正蔵』   『景徳伝燈録』(禅文化研究所、一九九〇年五月)︙『禅文化本』

      

    中村元編『仏教語大辞典』(東京書籍、一九八一年五月)︙『中村仏教』

      『新版禅学大辞典』(大修館書店、一九八五年十一月)︙『禅学』

      

    入矢義高・古賀英彦編『禅語辞典』(思文閣出版、一九九一年七月)︙『禅語』

      『大漢和辞典』︙『大漢和』     『漢辞海』第三版(三省堂、二〇一一年二月)︙『漢辞海』

      

    大久保道舟編『道元禅師全集』下巻(筑摩書房、一九七〇年五月)︙『大久保本』

      『道元禅師全集』(春秋社︿原典版﹀)︙『春秋社本』

      『永平正法眼蔵蒐書大成』(大修館書店)︙『蒐書大成』

    、︻直訳︼は、できる限り本文に忠実に訳し、基本的に古文を現代語に訳すにとどめ、一部便宜的に漢字用語の現代

    語訳も行った。

    、︻現代語訳︼は、︻直訳︼に基づいて漢字用語の解説を加え、理解しやすくするために︿

    ﹀内に本文にない言葉を

    補い、必要に応じて(

    )内に直前の語の解釈を付した。

    、︻懐奘書写本に見られる書き改めについて︼は、懐奘書写本の書き改めの前後でどのように本文が変化したかにつ

    いて特に解説した。この段は︻解説︼に続いて配置するのを原則とするが、特に書き改めが多い場合は、︻懐奘書写

    本︼の直後に配置した。合わせて、︻懐奘書写本︼の書き改めの前後を上下段で示し、便宜的に番号を付すことで、

    本文の比較ができるようにした。また、書き改めが少ない場合は、︻解説︼の中で簡単に言及した。︻懐奘書写本︼掲

    載の理由については、角田泰隆「『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(一)」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』七十四号、二〇一

    六年三月、七七頁)を参照されたい。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三一

    【本文】

    ① 

    佛ほとけ

    言のたまはク、欲よく知ち佛ぶつ性しよう義ぎ、當とう觀かん時じ節せつ因いん緣ねん。時じ節せつ若にやく至し、佛ぶつ性しよう現げん前ぜん。

     

     

    いま佛ぶつ性しよう義ぎをしらんとおもはばといふは、ただ知ちのみにあらず、行ぎようぜんとおもはば、證しようせんとおもはば、とかん

    とおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説せつ・行ぎよう・證しよう・亡もう・錯しやく・不ふ錯しやく等とうも、しかしながら時じ節せつの因いん

    緣ねんなり。時じ節せつの因いん緣ねんを觀かんずるには、時じ節せつの因いんねん緣をもて觀かんずるなり。拂ほつ子す・拄しゆ杖じよう等とうをもて相そうかん觀するなり。さらに有う漏ろ

    智ち・無むろ

    ち漏智、本ほんがく覺・始し覺かく、無む覺かく・正しよう

    覺がく等とうの智ちをもちゐるには觀かんぜられざるなり。

     

     

    當とうかん觀といふは、能のうかん觀・所しよかん觀にかかはれず、正しよう

    觀かん・邪じやかんとう

    觀等に準じゆんずべきにあらず、これ當とうかん觀なり。當とうかん觀なるがゆゑに

    不ふ自じ觀かんなり、不ふ他た觀かんなり。時じ節せつ因いんねんにい

    緣聻なり、超ちよう

    越おつ因いんねん緣なり。佛ぶつ性しよう聻にいなり、脱だつたい體佛ぶつ性しようなり。佛ぶつぶつにい

    佛聻なり、性しよう

    性しよう聻にいな

    り。

    ②  

    時じ節せつ若にやく至しの道どうを、古こ今こんのやから往おうおう往におもはく、佛ぶつ性しようの現げんぜん前する時じ節せつの向こう後ごにあらんずるをまつなりとおもへ

    り。かくのごとく修しゆ行ぎようしゆくところに、自じ然ねんに佛ぶつ性しよう現げんぜん前の時じ節せつにあふ。時じ節せついたらざれば、參さん師し問もんぽう法するにも、辦べん

    道どう功く夫ふうするにも、現げんぜん前せずといふ。恁いん麼も見けんしゆ取して、いたづらに紅こうじん塵にかへり、むなしく雲うんかん漢をまぼる。かくのごとく

    のたぐひ、おそらくは天てんねん然外げ道どうの流る類るいなり。

     

     

    いはゆる欲よく知ち佛ぶつ性しよう義ぎは、たとへば當とう知ち佛ぶつ性しよう義ぎといふなり。當とう觀かん時じ節せつ因いんねん緣といふは、當とう知ち時じ節せつ因いんねん緣といふなり。い

    はゆる佛ぶつ性しようをしらんとおもはば、しるべし、時じ節せつ因いんねん緣これなり。時じ節せつ若にやく至しといふは、すでに時節いたれり、なにの

    疑ぎ著ぢやくすべきところかあらん、となり。疑ぎ著ぢやく時じ節せつさもあらばあれ、還げん我が佛ぶつ性しよう來らいなり。しるべし、時じ節せつ若にやく至しは、十じゆう

    二に

    時じ中ちゆう不ふ空くう過かなり。若にやく

    至しは既き至しといはんがごとし。時じ節せつ若にやく至しすれば、佛ぶつ性しよう不ふ至しなり。しかあればすなはち、時じ節せつす

    でにいたれば、これ佛ぶつ性しようの現げんぜん前なり。あるひは其ご理り自じ彰しようなり。おほよそ時じ節せつの若にやく

    至しせざる時じ節せついまだあらず。佛ぶつ

    性しようの現げんぜん前せざる佛ぶつ性しようあらざるなり。

    ③ 

    第だい十じゆう二に祖そ馬め鳴みよう尊そん者じや、十じゆう

    三さん祖そのために佛ぶつ性しよう海かいをとくにいはく、山せん河が大だい地ち、皆かい依え建こん立りゆう、三ざんまいろくづう

    昧六通、由ゆう茲じ發ほつげん現。

     

     

    しかあれば、この山せん河が大だい地ち、みな佛ぶつ性しよう海かいなり。皆かい依え建こん立りゆうといふは、建こん立りゆうせる正しよう

    當とう恁いん麼も時じ、これ山せん河が大だい地ちなり。

    すでに皆かい依え建こん立りゆうといふ、しるべし、佛ぶつ性しよう海かいのかたちはかくのごとし。さらに内ない外げ中ちゆう間げんにかかはるべきにあらず。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三二

    恁いん麼もならば、山せん河がをみるは佛ぶつ性しようをみるなり、佛ぶつ性しようをみるは驢ろ腮さい馬ば觜しをみるなり。皆かい依えは全ぜん依えなり、依え全ぜんなりと、會え

    取しゆし、不ふ會え取しゆするなり。三ざんまいろくづう

    昧六通、由ゆう茲じ發ほつげん現。しるべし、諸しよざんまい

    三昧の發ほつげん現・未み現げん、おなじく皆かい依え佛ぶつ性しようなり。全ぜんろくづう

    六通の

    由ゆう茲じ・不ふ由ゆう茲じ、ともに皆かい依え佛ぶつ性しようなり。六ろくじんづう

    神通はただ阿あ笈ぎゆう摩ま敎きようにいふ六ろくじんづう

    神通にあらず。六ろくといふは、前ぜんさんさん

    三三後ご三さんさん三を

    六ろく神じんづう通波は羅ら蜜みつといふ。しかあれば、六ろくじんづう

    神通は明めいめい明百ひやく艸そうとう頭、明めいめいぶつ

    明佛祖そ意いなりと參さん究きゆうすることなかれ。六ろくじんづう

    神通に滯たいるい累せ

    しむといへども、佛ぶつ性しよう海かいの朝ちよう

    宗そうに罣けい礙げするものなり。

    ※各段の資料作成担当者は左記の通りである(課程年次は本稿提出当時のもの)。

     

    ①秦慧州(修士課程二年) 

    ②藤川直子(修士課程二年) 

    ③横山龍顯(博士後期課程三年)

     

    なお本稿は、右記の資料作成者に加えて、以下のゼミの参加者を加えて検討した共同研究である。

     

    秋津秀彰(博士後期課程三年)、塩澤眞澄、玉井宏道、日高哲男(以上聴講生)

    ※資料作成に当たっては、左記の諸氏が過去において同ゼミで作成した資料を参考にした。記して謝意を表する。

     

    釜田尚紀、奥山いをり、高崎秀一(順不同、敬称略)

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三三

     

    佛ほとけ言のたまはク、欲よく知ち佛ぶつ性しよう義ぎ、當とう觀かん時じ節せつ因いん緣ねん。時じ節せつ若にやく至し、佛ぶつ性しよう現げん前ぜん。

     

    いま佛ぶつ性しよう義ぎをしらんとおもはばといふは、ただ知ちのみにあらず、行ぎようぜん*と

    おもはば、證しようせんとお*もはば、と*かんとおもはばとも、わすれんとおもはばと

    もいふなり。かの説せつ・行ぎよう・證しよう・亡もう・錯しやく・不ふ錯しやく等とうも、しかしながら時じ節せつの因いん緣ねん

    な*り。時じ節せつの因いん緣ねんを觀かんずるには、時じ節せつの因いんねん緣をもて觀かんずるなり。拂ほつ子す・拄しゆ杖じよう等とう

    をもて相そうかん觀するなり。さらに有う漏ろ智ち・無むろ

    ち漏智、本ほんがく覺・始し覺かく、無む覺かく・正しよう

    覺がく等とうの

    智ちをもちゐるには觀かんぜられざるなり。

     

    當とうかん觀といふは、能のうかん觀・所しよかん觀にかかはれず、正しよう

    觀かん・邪じやかんとう

    觀等に準じゆんず*べきにあら

    ず、こ*れ當とうかん觀なり。當とうかん觀なるがゆ*ゑに不ふ自じ觀かんなり、不ふ他た觀かんなり。時じ節せつ因いんねん緣聻にいな

    り、超ちよう越おつ因いんねん緣なり。佛ぶつ性しよう聻にいなり、脱だつ體たい佛ぶつ性しようなり。佛ぶつぶつにい

    佛聻なり、性しよう

    性しよう聻にいなり。

    仏―上、涅槃経トアル(瑠)

    欲―右、ヲモハバ(瑠)

    行―左、ヲコナハン(瑠)

    ん―む(洞)

    おもはば―思はば(洞)(抄)、をもはば(乾)、以下略

    とかん―とかむ(懐)(抄)

    説・行・証・亡―右、セツ・ギヤウ・セウ・マウ(瑠)

    亡―底本「忘」、(長)(玉)同ジ、(懐)(洞)(乾)(正)

    (龍)(抄)ニヨリ訂。

     

    ※�

    (抄)ハ「亡」ノ右、「マウ」、左、「ヒ(見セ消チ

    ノ記号)」アリ、下、「忘」、右、「ハウ」、左、「ハ

    スルル」トアリ、「忘」ヲ二重線デ消シ、朱書デ

    「亡」二改メテイル

    錯―右、サク(抄)

    なり―也(正)(瑠)、以下略 

    払子―右、ホツス(抄)

    拄杖―柱杖(洞)(龍)(抄)、右、「シユチヤウ」(抄)

    相観―相イ観(龍)観ノ右、「クワン」(抄)

    準―准(長)(玉)右、「シュン」、左、「ナスラフ」

    (瑠)、右、「シユム」(抄)

    ずべきにあらず―ずべからず(洞)(乾)(正)(瑠)(龍)

    (長)(抄)(玉)

    これ―是(瑠)(抄)

    ゆゑ―ゆへ(懐)(洞)(乾)(徳)(龍)(長)(玉)、

    故(抄)

    不自観―不ル二�

    自観一(龍)

    不他観―底本「不佗観」、(懐)(洞)(乾)(正)(瑠)(龍)

    (長)(玉)ニヨリ訂、不二他観一(龍)

    聻―ナシ(洞)右、「ニイ」、(瑠)(龍)、左、「コレナ

    リト云ナリ」(徳)(長)、右、「二」、左、「コレコレ」

    (抄)

    超越因縁―超越因縁聻、聻ノ右、「ニ」、聻ノ�

    左、「コ

    レイニナシ」(抄)

    脱―右、トツ(瑠)(玉)、右、タツ(抄)

    体―髄(玉)

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三四

    ︻懐奘書写本︼

     

    佛言、欲知佛性義、當觀時節因緣。時節若至、佛性現前。

     

    いま佛性義をしらんとおもはゞといふは、たゞ知のみにあらず。行ぜんとおもはゞ、證せんとおもはゞ、とかむとお

    もはゞとも、わすれんとおもはゞともいふなり。かの説・行・證・亡・錯・不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。

    時節の因緣を觀ずるには、時節の因緣をもて觀ずるなり。さらに本覺・始覺・無覺・正覺等の智をもちゐるには觀ぜら

    れざるなり。

     

    當觀といふは、能觀・所觀にか〻はるべきにあらず、正觀・邪觀等に準ずべきにあらず、これ當觀なり。當觀なるが

    ゆへに不自觀なり、不他觀なり。時節因緣聻なり。佛性聻なり。佛〻聻なり、性〻聻なり。

    ︻語註︼

    仏言︑欲知仏性義︑当観時節因縁︒時節若至︑仏性現前︙出典は、鏡島元隆氏が『道元禅師の引用経典・語録の研究』

    (木耳社、一九六五年十月、六四~六六頁)で指摘する通り、『聯燈会要』巻七の「経云、欲識仏性義、当観時節因縁。

    時節若至、其理自彰(経に云く、仏性の義を識しらんと欲はば、当に時節の因縁を観ずべし。時節若もし至れば、其の理自おのずか

    ら彰あらわる)」(『五山版中国禅籍叢刊』二︿上﹀、臨川書店、二〇一四年十月、二七八頁)であり、この「其理自彰」を道元

    禅師が「仏性現前」に改めたものと考えられる。『宗門統要集』巻四には「欲知0仏性義、当観時節因縁。時節若至、其

    理自契0」(『禅学典籍叢刊』一、臨川書店、一九九九年四月、八三頁)とあるが、次段に「其理自彰」という語が出るた

    め、『聯燈会要』を出典とした。この「経」とは『大般涅槃経』のことであり、北本『大般涅槃経』巻第二十八「師子

    吼菩薩品」には、「欲見仏性、応当観察時節形色、是故我説一切衆生悉有仏性(仏性を見んと欲はば、応ま

    さ当に時節形色

    を観ずべし、是の故に我れ一切衆生悉有仏性と説かん)」(『大正蔵』十二・五三二頁上段)とある。一般的には、前二句

    「欲知仏性義、当観時節因縁」は「仏性の義を知らんと欲はば、当に時節の因縁を観ずべし」と読み、「仏性がどういう

    ものであるかを見て取りたいならば、そのための時機が熟したかどうかが自ら感得できねばならない。百丈懐海(七四

    九~八一四)と潙山霊祐(七七一~八五三)の師資の機縁にもとづく語」(『禅語』四六四頁、「欲知仏性義、当観時節因

    縁」項)などと訳され、後二句「時節若至、其理自彰」は「時節若もし至れば、其の理自おのずから彰あらわる」と読み、「時機がも

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三五

    し至れば、その理(仏性)は自然に現れるであろう」と未来のことと訳される。しかし道元禅師はこの語を、鏡島氏が

    前掲書において指摘しているように(六五頁)、「時節若至といふは、すでに時節いたれり」、「若至は既至といはんがご

    とし」(本稿一四一頁)等と示されるように、現在只今の事実として解釈している。そしてそれを強調するために、「其

    理自彰」を「仏性現前(仏性現前す)」に改め、「時節は︿修行している今﹀既に至っており、仏性は現前している」と

    表現しているものと思われる。尚『正法眼蔵聞書抄』には、「時節若至ノ若至ハ既

    スデニイタル至ト云道理ナリ。若ニハ既ト云読ア

    リ云々」(『蒐書大成』十一・七六頁、鏡島氏前掲書六六頁参照)とあり、「若」を「すでに」と読むべきであるとし、ま

    た『正法眼蔵聞解』には、「若至之若ハ如也然也之意デ、時節シカク至ルナリ

    0

    0

    0

    0

    0

    0

    0

    0

    0

    」(『蒐書大成』十七・一二頁)とあり、

    「若」を「シカク」と読んでいる。説・行・証・亡・錯・不錯等︙︿仏性義を﹀言葉によって説くこと(説)、実践する

    こと(行)、実証すること(証)、忘れること(亡)、誤ること(錯)、徹底的に誤ること(不錯)。前文の「いま仏性義

    をしらんとおもはば︙わすれんとおもはばともいふなり」を受け、略して示したもの。ここでは、仏性義を知るという

    ことは、知解に留まらず、説・行・証・亡・錯・不錯等も含まれることをいう。なお「証」と「亡」(「忘」と同義)は

    「現成公案」巻の「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己を

    わするるといふは、万法に証せらるるなり」(七頁)と関わると考えられ、「亡」とは"自己を忘れ、仏性に証せられる

    (仏性そのものになる)"ことを示したものか。また「錯」は、「即心是仏」巻の「仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任し

    きたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるに

    よりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」(四二頁)という説示の「将錯就錯」の「錯」と

    関わると考えられ、これは「究尽」の意と思われる(角田泰隆『道元禅師の思想的研究』、春秋社、二〇一五年二月、

    第八章第四節「将錯就錯」、五二七~五三二頁)。つまり、仏性を究め尽くす、仏性そのものになりきる、というような

    意味であり、「不錯」は「錯」の徹底を示したものと考えられる。ところで「亡」は「忘」と同義であり、「忘」とする

    のは梵清本以降の写本であるため、本文を「亡」に改めた。なお『大久保本』では、「忘・錯」という部分を、「亡錯」

    (一六頁)と(・)を打たず、熟語として理解している。しかし、「亡錯」という熟語としての用例は見当たらない。

    「亡」に「忘れる」という意味があり、前文にある「わすれんとおもはば」との関係を考慮すれば、ここでは「亡・錯」

    としたほうが適切と思われる。諸写本でも「亡・錯」とする写本(正法寺本)、連続符で「亡︵忘︶錯」という熟語として読

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三六

    ませている写本(徳雲寺本・龍門寺本)、どちらともとれない写本に分かれている。しかしながら︙副詞。「そのまま、

    全く、すべて」の意(『岩波古語辞典補訂版』、岩波書店、一九九〇年二月、六一二頁)。時節の因縁︙この段における

    最初の︻語註︼「仏言︙」で述べたように、通常は、将来に仏性が現前する時節が熟すという因縁(因果関係)を意味す

    ると思われる。しかし道元禅師は、「説・行・証・亡・錯・不錯等」も「時節の因縁」であるとし、「時節の因縁を観ず

    るには、時節の因縁をもて観ずるなり」というのであるから、すべてが「時節の因縁」である、すなわちすべてが仏性

    であると解釈する。道元禅師は「三界唯心」巻で『法華経』「如来寿量品」の「不如三界、見於三界」(『大正蔵』九・四

    二頁下段)の語を引き、「今此三界は、三界の所見なり」(三五三~三五四頁)と示しているが、これは"三界が三界を

    見る"という意であり、ひいてはすべてが心であり、すべてが三界であることを示している。そして「仏性」巻におけ

    る「時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり」も、この「三界唯心」巻の例と同様の表現方法であると

    考えられる。払子・拄杖︙払子・拄杖は、いずれも学人を接得するために用いるものであり、『正法眼蔵』においては

    「仏法」を表わす象徴として、例に挙げられることが多い。例えば「仏教」巻には、「しるべし、恒ごう

    しや沙の仏教は竹しつぺい篦・払

    子なり、仏教の恒沙は拄杖・拳頭なり」(三一四頁)とある。「仏性」巻では、時節因縁として存在する具体的事例とし

    て挙げている。「払子」は、元来蚊などを払う為の道具であったが、後世では、仏事法要の際に導師が用いる道具へと

    変化する(『禅学』一一五六頁)。「拄杖」は、行脚の際に用いる杖であるが、弟子に対しての戒めや上堂における説法

    の際にも用いる道具である(『禅学』五〇六頁)。相観︙龍門寺本では「相あい観かんず」(『蒐書大成』二・一九頁)と読むよ

    うに、相は「互いに」の意と思われる(『漢辞海』九八三頁)。ここでは、前文との対応から、「時節因縁を観ずるには、

    ︿同じく時節因縁として存在する﹀払子・拄杖によって互いに観ずる」と読み取れる。つまり、「払子・拄杖を観ずるに

    は、同じく払子・拄杖で観ずる」しかないから、「相観」という表現がなされている。「三界唯心」巻でも「三界は全界

    なり。三界はすなはち心といふにあらず。そのゆえは、三界はいく玲れい

    ろう瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤

    錯すといふとも、総不著なり。内外中間、初中後際、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし。三界にあらざるもの

    の所見は、三界を見不正なり」(三五三頁)と示しているように、「心」(主観)でもって、「三界」(客観)を捉えようと

    する二元論的思考を否定し、あくまで「三界」は「三界」であり、「心」は「心」であるとしている。有漏智・無漏智

    ︙「有漏智」は、凡夫の智慧、世俗智。「無漏智」は、煩悩を離れた般若の智慧。本覚・始覚︙本来、悟りの本性を具え

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三七

    ているとする本覚に対して、修行して迷いを捨てて悟りに至るのを始覚という。『大乗起信論』では、不覚・始覚・本

    覚の相関の上で、悟らない不覚があるから、はじめて悟る始覚がいわれ、また、悟りの本性を具えている本覚があるか

    ら、はじめて悟る始覚があると説かれる(石田瑞麿『例文仏教語大辞典』、小学館、一九九七年三月、四〇七頁「始覚」

    項)。無覚︙一切の知覚分別を離れたものをいう(『中村仏教』一三一七頁)。始覚・本覚等の覚(さとり)のないこと

    (『禅学』一二〇一頁)。正覚︙「無上等正覚」の略。「この上なく完全なさとり

    0

    0

    0

    」。阿耨多羅三藐三菩提(岩本裕『日本仏

    教語辞典』、平凡社、一九八八年五月、四二六頁)。三菩提。仏教の正しいさとり(『禅学』五三二頁)。当観︙能所自他

    を超えて、そのものを観取すること(『禅学』九一二頁)。分別なくありのままに観ずること。能観・所観︙見るものと

    見られるもの。認識作用の主体(主観)と客体(客観)(『中村仏教』一〇八四頁)。ここでは、「当観」が二元論的認識、

    つまり分別した思考を超えたものとしている。正観・邪観︙正観は、偏見を離れてものを正しく観察すること(『禅学』

    五三三頁)で、邪観は、偏見でもって誤って観察すること。正邪とは、分別による認識から生じた概念であり、「当観」

    においては不必要な捉え方として排除している。不自観・不他観︙自らの主体的認識ではなく(不自観)、他者の主体

    的認識でもない(不他観)こと。そもそも、「当観」は能所を離れているため、自他の分別もないことをいう。聻︙端

    的を指すことば。それそのまま、これだ、という意(『禅学』九五七頁)。詰問、注意、指示、感嘆等を示す多用の詞

    で、ここではそのものを端的に指示し断定する語で、これのみだ、の意(『春秋社本』一・一七頁)。脱体仏性︙無自性

    で空なる仏性そのまま(『禅学』八二七頁)。「脱体」は、身ごと、そっくりそのまま(『禅語』二九七頁)。仏仏聻・性

    性聻︙仏性を「仏の性」という言葉としてとらわれるのでなく、「当観」した時は「仏」は「仏」であり、「性」は

    「性」であるといった、分別を超えた絶対的表現と考えられる。『正法眼蔵聞解』には、「今ハ一仏〳〵ニソレガソレ

    ジャ、性々ハ一性〳〵ニ性アルモノハ皆仏性ト云意、仏性ハ内ニ蔵シテアルモノト云邪見ヲ破スル也」(『蒐書大成』十

    七・一二頁)とある。

    ︻直訳︼

     

    仏は仰っている、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」と。

     

    ここで「仏性義を知ろうとするなら」というのは、ただ「知」のみでない。「行じようとするなら」、「証しようとす

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三八

    るなら」、「説こうとするなら」、「忘れようとするなら」、ともいうのである。その説・行・証・亡(忘)・錯・不錯等

    も、全てが時節の因縁である。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁でもって観ずるのである。払子・拄杖等でもって

    相観するのである。決して有漏智・無漏智・本覚・始覚・無覚・正覚等の智を用いることによっては、観ずることは出

    来ないのである。

     

    当観というのは、能観・所観に関わらず、正観・邪観等に準ずるべきではない、これが当観である。当観であるがゆ

    えに不自観であり、不他観である。時節因縁聻であり、超越因縁である。仏性聻であり、脱体仏性である。仏仏聻であ

    り、性性聻である。

    ︻現代語訳︼

     

    仏は仰っている、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」と。

     

    ここで「仏性の道理を知ろうとするなら」というのは、ただ「知る」のみでなく、「行じようとするなら」、「証しよ

    うとするなら」、「説こうとするなら」、「忘れようとするなら」、とも言えるのである。それらの︿仏性の道理に対する﹀

    説・行・証・亡(忘)・錯・不錯なども、全てが時節の因縁である。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁︿そのもの﹀

    でもって観ずるのである。︿だから﹀払子・拄杖等といった︿それ自体も時節の因縁である﹀具体的な事物でもって、

    ︿時節因縁を﹀観ずるのである。決して有漏智・無漏智・本覚・始覚・無覚・正覚といった︿語によって示されるよう

    な﹀智によって、︿時節因縁を﹀観ずることは出来ないのである。

     

    当観というのは、能観・所観︿といった二元論的認識﹀に関わるのではなく、正観・邪観等︿の二元論的認識に基づ

    いた判断﹀に準ずるべきではない、︿まさに﹀これが当観である。当観であるから、自分が観ずるのではなく、他人が

    観ずるわけでもない。︿当観するとは﹀時節因縁そのものであり、因縁を超えたものである。︿当観するとは﹀仏性その

    ものであり、そっくりそのまま仏性である。︿仏と性は一体であるから、﹀仏仏そのものであるとも言え、性性そのもの

    である︿とも言うことができるのである﹀。

    ︻解説︼

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一三九

     

    本段から、『涅槃経』に基づく百丈の拈提語を引用し、解釈を加えている。

     

    まず「欲知仏性義」の「知」とは、単なる「知る」ではなく、「説く」「行ずる」「証する」「忘れる」等とも言えるこ

    とを示し、それらがそのまま「時節因縁」であるとする。このような説示は道元禅師にとって当然のことと考えられ

    る。仏性は単に「知る」ものではなく、「説く」ものであり、説かなければならないものであることは、「諸方の粥飯

    頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるひはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅

    の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり」(「仏性」巻、二六頁)という説示にも明らかであ

    る。また、仏性は修行のところに現前し実証されるのであるから、「行ずる」「証する」とも言えるのである。「忘れる」

    ということについては︻語註︼(本稿一三五頁)で述べたとおりである。

     

    次に、「時節の因縁」に関する説示であるが、通常は修行という因に、縁が熟して、将来において仏性が現前すると

    いうことになり、そのような時節の因縁を観じ、期待することになるが、道元禅師にとっては「時節の因縁」は今現在

    にあるのであって、故に今現在「時節の因縁」にある私(修行している私)が「時節の因縁」を観ずるのであり、「時

    節の因縁」が「時節の因縁」を観ずることになる。すなわち、仏性が仏性を観ずるのであり、そのものがそのものを観

    ずることになり、「当観」とはそのような観じ方を言うのであり、そのものがそのものを観ずるのであるから、能所に

    関わらないと言われるのである。それを示すのが「聻」という語である。

     「仏仏聻なり、性性聻なり」を、ここでは「︿仏と性は一体であるから、﹀仏仏そのものであり、性性そのものである

    ︿とも言うことができるのである﹀」と現代語訳したが、類似する言語表現として、「葛藤」巻において「いま参学の眼

    目をそなへたらんに、汝得吾皮の印をうるは、祖師をうる参究なり。通身皮の祖師あり、通身肉の祖師あり、通身骨の

    祖師あり、通身髄の祖師あり。通身心

    0

    0

    0

    の祖師あり、通身身

    0

    0

    0

    の祖師あり、通心心

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    0

    0

    の祖師あり、通祖師の祖師あり、通身得

    吾汝等の祖師あり」(三三三頁)と、「心」と「身」が一体のものであると示していることを参考に訳した。

     

    懐奘書写本に見られる書き改めについては、前段と比べると大幅な書き改めは見られないが、加筆が中心となってい

    る。例えば、「拂子・拄杖等をもて相觀するなり」・「有漏智・無漏智」・「超越因緣なり」・「脱體佛性なり」等の言葉の追

    加や、「能觀・所觀にか〻はるべきにあらず」を「能觀・所觀にかかはれず」に修正している。ここでは、本文を整

    理・簡素化していくよりも、言葉を加えて説明を重ねていくことを重視しているように思われる。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四〇

     

    時じ節せつ若にやく至しの道どうを、古こ今こんのやから往おうおう往にお*もはく、佛ぶつ性しようの現げんぜん前する時じ節せつの向こう

    後ごにあ*らんずるをま*つなりとお*もへり。かくのごとく修しゆ行ぎようしゆくと*ころに、自じ

    然ねんに佛ぶつ性しよう現げんぜん前の時じ節せつにあふ。時じ節せつい*

    たらざれば、參さん師し問もん法ぽうす*

    るにも、辦べん道どう功く夫ふう

    するにも、現げんぜん前せずといふ。恁いん麼も見けんしゆ取して、いたづらに紅こうじん塵にか*へり、むなし

    く雲うんかん漢をま*ぼる。かくのごとくのた*ぐひ、お*そらくは天てんねん然外げ道どうの*流る類るいな*り。

     

    いはゆる

    *欲よく知ち佛ぶつ性しよう義ぎは、た*とへば當とう知ち佛ぶつ性しよう義ぎとい*ふなり。當とう觀かん時じ節せつ因いんねん緣と

    いふは、當とう知ち時じ節せつ因いんねん緣といふなり。いはゆる佛ぶつ性しようをし*らんとお*もはば、しる

    べし、時じ節せつ因いんねん緣こ*れなり。時じ節せつ若にやく至しといふは、すでに時節いたれり、なにの

    疑ぎ著ぢやくす*

    べきところかあ*らん、となり。疑ぎ著ぢやく時じ節せつさもあらばあれ、還げん我が佛ぶつ性しよう來らい

    な*り。しるべし、時じ節せつ若にやく至しは、十じゆう

    二に時じ中ちゆう不ふ空くう過かなり。若にやく

    至しは既き至しとい*はん

    がごとし。時じ節せつ若にやく至しすれば、佛ぶつ性しよう不ふ至しなり。しかあればすなはち、時じ節せつすで

    にいたれば、こ*れ佛ぶつ性しようの現げんぜん前なり。あ*るひは其ご理り自じ彰しようなり。お*ほよそ時じ節せつの

    若にやく

    至しせざる時じ節せついまだあらず。佛ぶつ性しようの現げんぜん前せざる佛ぶつ性しようあらざるなり。

    **

    若至―「若」ノ右、「モシ」(乾)、右、ニャクシ(瑠)、

    若シ至ル(龍)

    往往―往々(懐)(洞)(乾)(龍)(瑠)(正)、右、ワ

    ウ〳〵、左、トコロ〴〵(瑠)

    おもはく―をもはく(瑠)

    向後―右、キヤウコウ(瑠)

    あらんずるを―あらむずるを(洞)、あらわるるを

    (長)(玉)(徳)、左、アランスルヲ異本(長)(徳)

    まつ―右、待(龍)

    おもへり―をもへり(乾)(瑠)、おもえり(正)

    ところ―処(瑠)

    自然―右、シネン、右下、「ニ」アリ(瑠)

    節―ナシ(乾)   

    法―右、ホウ(瑠)

    辦―底本「辨」、(乾)(瑠)(正)(龍)(長)(玉)同ジ、

    (徳)及ビ伝真蹟「嗣書」巻(『道元禅師真蹟関係

    資料集』六九頁)ニヨリ訂。

    功―右、ク(龍)   

    恁麼―恁麼ニ(龍)

    かへり―かえり(瑠)(正)

    まぼる―底本、「

    まもる」

    、(抄)(洞)同ジ、(懐)(乾)

    (龍)(瑠)(正)(長)(玉)(徳)ニヨリ訂。

    たぐひ―たぐい(乾)(瑠)

    おそらく―をそらく(瑠)

    の―ナシ(乾)   

    なり―也(瑠)

    欲知佛性義―「欲知」ノ右、ヨクチ(瑠)

    たとへば―たとえば(正)  

    いふなり―ゆうなり(瑠)

    しらん―しらむ(洞)   

    おもはば―をもはば(瑠)

    これなり―是なり(瑠)   

    疑著―疑着(正)

    あらん―あらむ(洞)

    還―右、クアン(瑠)   

    來―右、ライ(瑠)

    なり―也(瑠)   

    いはん―いはむ(洞)

    若至すれば―若至ラズレハ(乾)、若シ至リヌレハ(龍)

    不至―右、フシ(瑠)   

    これ―是(瑠)

    あるひは―或は(瑠)、あるいは(懐)

    理自彰―右、リジショウ(瑠)、理自影(玉)

    おほよそ―をよそ(瑠)

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四一

    ︻懐奘書写本︼

    書き改め前

    書き改め後

    ①時節若至の道をききて、古今のやから往々におもはく、

    佛性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとお

    もへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に佛性

    現前の時節にあふ。時節いたらざれば、參師問法するに

    も、辦道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、

    いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かく

    のごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。

    ①時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、佛性

    の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへ

    り。かくのごとく修行しゆくところに、自然に佛性現前

    の時節にあふ。時節いたらざれば、參師問法するにも、

    辦道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、い

    たづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくの

    ごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。

    ②いはゆる欲知佛性義は、たとへば當知佛性義といふな

    り。當觀時節因緣といふは、當知時節因緣といふなり。

    いはゆる佛性をしらんとおもはば、しるべし、時節因緣

    これなり。

    ②いはゆる欲知佛性義は、たとへば當知佛性義といふな

    り。當觀時節因緣といふは、當知時節因緣といふなり。

    いはゆる佛性をしらんとおもはば、しるべし、時節因緣

    これなり。

    ③この時節いかなりとあきらめがたしといゑども、佛時

    節因縁わづかに説著するに、これこの道得あり。しりぬ、

    これ仏性なりといふことを。

    ④時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著

    すべきところかあらん、となり。

    ④時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著

    すべきところかあらん、となり。疑著時節さもあらばあ

    れ、還我佛性來なり。

    ⑤しるべし、時節若至にてあれば、十二時中不空過なる

    仏性なり。若至は既至といはんがごとし。しかあればす

    なはち、時節すでにいたれば、これ佛性の現前なり。お

    ほよそ、時節の若至せざる時節いまだあらず。佛性の現

    前せざる佛性あらざるなり。佛性因緣中不依倚一物なり。

    ⑤しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は既

    至といはんがごとし。時節若至すれば、佛性不至なり。し

    かあればすなはち、時節すでにいたれば、これ佛性の現前

    なり。あるいは其理自彰なり。おほよそ時節の若至せざる

    時節いまだあらず。佛性の現前せざる佛性あらざるなり。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四二

    ︻懐奘書写本に見られる書き改めについて︼

     

    この段での書き改めは、削除された箇所が三ケ所、修正された箇所が一ケ所、追加された箇所が三ケ所ある。

    一、削除された箇所

     

    ①「ききて」は文意に大きな影響を与えていない。簡潔にするためと考えられる。

     

    「この時節いかなりとあきらめかたしといゑども、仏時節因縁わづかに説著するに、これこの道得あり。しりぬ、

    これ仏性なりといふことを(ここで言われている時節がどのようなものであるかを理解することは難しいとはい

    え、仏道の時節因縁をどうにか説き明かしてみると、このように言葉にすることができる。まさにこれが仏性であ

    るということがわかる)」と記載しているが、説明として冗長であるから削除したと考えられる。

     

    「仏性因縁中不依倚一物なり(仏性は因縁の中で一物にも寄りかかっていない)」と記載している。これは、「仏性」

    巻の後段にある、黄檗と南泉との問答(二九頁)の中で詳述するために削除したと考えられる。

    二、修正された箇所

     

    「時節若至にてあれば十二時中不空過なる仏性なり」が「時節若至は十二時中不空過なり」と変更されている。「時

    節若至であるから一日中空しく過ごさない︿ことが﹀仏性である」との言葉から「「時節若至」というのは一日中

    空しく過ごさないことである」と言い替えて、端的にするため修正されたと考えられる。

    三、追加された箇所

     

    「疑著時節さもあらばあれ還我仏性来なり」を追加することにより、「疑うこと」から一歩進んで、「正に来ている」

    ことを明確化する意図があるためと考えられる。

     

    「時節若至すれば仏性不至なり」の追加により、「若至は既至」である以上、「仏性が更に到来することはない」と

    するためと考えられる。

     

    ⑤「あるいは其理自彰なり」の言葉を用いて、「仏性現前」との関連付けを再確認させるためと考えられる。

    ︻語註︼

    時節若至︙前段参照。往往︙ときどき、をりをり、ともすれば(『大漢和』四・八一六頁)。向後︙今後。これから。向

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四三

    去(『禅学』三○九頁)。参師問法︙師家に参じて仏法上の問題について質問すること。師家と問答商量すること(『禅

    学』三九五頁)。弁道功夫︙修行に専心、努力すること。弁道は道に力をいたす。功夫、弁道は同義語で、二語重ねて、

    意味を強める(『禅学』二五二頁「功夫弁道」項)。見取︙理解する、判断する。「三十七品菩提分法」巻には、「たれか

    これを知取見取せる」(五〇五頁)と、「知取」と「見取」が並列して用いられているため、両者は同義であると思われ

    る。「取」は、動詞の後について動作を意図的かつ積極的に行なうという気分を示す(『禅語』一九五頁)。紅塵︙往来

    にたつ塵。転じて、俗世間。また世のわずらわしい俗事(『禅学』三一五頁)。『永平広録』偈頌に、「西来祖道我伝東、

    瑩月耕雲慕古風、世俗紅塵

    0

    0

    飛豈到、深山雪夜草庵中(西来の祖道我れ東に伝う、月を瑩みがき雲を耕して古風を慕う、世俗

    の紅塵飛んで豈に到らんや、深山の雪夜草庵の中)」(『大久保本』一九八頁)とある。雲漢をまぼる︙「雲漢」は、天の

    川のこと。また、大空をさしていう(『禅学』七一頁)。『景徳伝燈録』巻二十八(『禅文化本』五七一頁)、『正法眼蔵』

    「即心是仏」巻(四三頁)に、「聚却三五百衆、目視雲漢

    0

    0

    云、是南方宗旨(三五百衆を聚あつめ却て、目に雲漢を視て云く、是

    れ南方の宗旨なり)」とある。「まぼる」は、︿「目ま守もる」の意﹀見つめる(『角川古語辞典』一〇七六頁)。瞎道本光

    『正法眼蔵却退一字参(参註)』には、「守雲漢者、憍心慢心痴心貌(雲漢を守るとは、憍心慢心痴心の貌なり)」(『蒐書

    大成』十八・二八六頁)とある。天然外道︙自然外道とも。人は本来霊妙なる自性を具有しているから、修行しなくと

    も、天然自然に涅槃を証することができるとする。すなわち因果を撥無して天然自然にまかせる者(『禅学』九〇〇

    頁)。流類︙仲間(『中村仏教』一四三四頁)。当観・時節因縁︙前段参照。還我仏性来︙『禅語』によれば、「還す」と

    は、元来は借りているものを人に返却することである。︙従って「︙を私に返せ」という言い方は、「お前に預けてある

    それ

    0

    0

    を返却せよ」という口吻なのであり、それの提示をいやおうなしに相手に義務づけた言い方である(七一頁「還我

    ︙来」項)。これに従えば、「我に仏性を還し来たれ」と訓読し、"私に仏性を返せ"という意となり、たとえ、時節が

    至っていることを疑うなら疑えばよいが、「私に仏性を返してくれ」という意味になる。また『聞書抄』には、「『疑著

    時節サモアラバアレ、還我仏性来』トアリ。擬著スル時節モ仏性ナリ。此道理ガ還我仏性来トハ云ハルルナリ。仏性ニ

    仏性ヲカヘセト云心地ナリ」(『蒐書大成』十一・七六頁)とある。しかし本稿では、「還って私に仏性が到来している」

    と現代語訳した。これについては︻解説︼を参照のこと。十二時中不空過︙一日中無駄に過ごさない、の意。「十二時」

    は、一昼夜。一日中(『禅学』四九一頁)。「空過」は、むだにすごす(『大漢和』八・六四六頁)。『景徳伝燈録』巻十

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四四

    九、「雲門文偃章」(『禅文化本』三八四頁)、『真字正法眼蔵』二六一則(『春秋社本』五・二六〇頁)には、「十二時中、

    如何即得不空過(十二時中、如何が即ち空しく過さざることを得ん)」とある。其理自彰(其の理自おのずから彰あらわる)︙通常

    は、「︿未来において﹀もし時節が至れば、仏性が現前する道理は彰らかになるであろう」という意味として解釈される

    が、ここでは、「若至」は「既至」と同じであって、「時節は既に至っているのであり、仏性が現前しているのであるか

    ら、その道理は明らかである」としている。出典は『聯燈会要』巻七(前段参照)である。また、義雲『正法眼蔵品目

    頌』には、「直到今其理自彰」(直に今に到れば其理自ら彰る)とある。(角田泰隆「『正法眼蔵』「仏性」巻訳註︿一﹀」

    一〇五頁参照)

    ︻直訳︼

     「時節若至」の言葉を、古今の輩は往往にして思う、「仏性が現前する時節が未来にあるであろうことを待つのであ

    る」と思っている。「このように修行していくところに、自然に仏性が現前する時節に逢う。時節が至っていなければ、

    参師問法しても、弁道功夫しても、現前しない」という。このように理解して、徒に紅塵に還り、空しく雲漢(天の

    川)を見つめる。このような類は、おそらくは天然外道の仲間である。

     

    いわゆる「欲知仏性義」は、たとえば「当知仏性義」というのである。「当観時節因縁」というのは、「当知時節因

    縁」というのである。いわゆる仏性を知ろうと思えば、知るべきである、「時節因縁」がこれである。「時節若至」とい

    うのは、「既に時節が到っている、何か疑わなければならないところがあろうか」、というのである。「疑著時節」はさ

    ておき、還我仏性来である。知るべきである、「時節若至」は、十二時中不空過である。「若至」は「既至」というのと

    同じである。「時節若至」すれば、「仏性不至」である。そうであるからつまり、時節は既に至っているので、これが仏

    性の現前である。あるいは「其理自彰」である。決して時節が若至しない時節はいまだない。仏性が現前しない仏性は

    ないのである。

    ︻現代語訳︼

     「時節若至」という言葉を、古今の者どもはたいがい、「仏性が現前する時節が未来にあるであろうことを待つのであ

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四五

    る」と思っている。「このようにして修行していくところに、自然に仏性が現前する時節に出会う。時節が至っていな

    ければ、「参師問法」しても、「弁道功夫」しても、︿仏性は﹀現前しない」という。このように誤って思い込んで、無

    駄に俗世間に還り、空しく天の川を見つめる。このような連中はおそらくは天然外道の仲間である。

     

    ここで言う「欲知仏性義」というのは、換言すれば「当知仏性義」(仏性の道理を今まさに知っている)というのであ

    る。「当観時節因縁」(まさに時節の因縁を観ずる)というのは、「当知時節因縁」(まさに時節の因縁を知っている)と

    いうことである。ここで言う仏性を知ろうと思うならば、知るべきである、時節因縁がこれである。「時節若至」とい

    うことは、「既に時節が到来している。何を疑うことがあるというのであろうか︿疑うことはない﹀」というのである。

    「疑著時節」(時節が至っていることを疑うこと)はさておき、「還我仏性来」(還って私に仏性が到来している)という

    ことである。知るべきである、「時節若至」というのは、一日中空しく過ごさないことである。「若至」は、既に至って

    いるのと同義である。「時節若至」(時節が既に至っており、仏性がやって来ている)であるから、「仏性不至」(さらに

    仏性がやって来ることはない)である。そうであるから、時節は既に至っているので、仏性は現前しているのである。

    あるいは、その道理が自ずから彰われているのである。決して時節が至らない時節は未だない。仏性が現前しない仏性

    はないのである。

    ︻解説︼

     

    この段では「時節若至」という語について、道元禅師独自の解釈がなされている。即ち「時節若至」とは、"時節が

    もし至れば"という意味ではなく、"時節は既に至っていから"という意味であるとする。未来において、修行の結果

    として仏性が現れるのではなく、いま修行している当体に仏性が現前しているとするのである。

     

    このことは「欲知仏性義」という語に対する道元禅師の解説にも表れている。つまり「欲知仏性義」は「当知仏性

    義」と言い換えることができるというのであり、「欲知仏性義」は"仏性の義を知ろうと思うなら"という意味ではな

    く、「当知仏性義」(仏性の道理を今まさに知っている)という意味であるとする。よって「当観時節因縁」という語も、

    "まさに時節の因縁を観じなさい"というのではなく「当知時節因縁」(まさに時節の因縁を知っている)ということで

    あり、今現在修行している当体が仏性現前という時節は既に至っているという因縁を明らかに知っているということで

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四六

    あるというのである。

     

    ところで「還我仏性来」の語義について︻語註︼において『禅語』の用例を紹介し、これに従えば、この語は「我れ

    に仏性を還し来たれ」と訓読し「私に仏性を返してくれ」と解釈できることを述べたが、本稿では、そのような解釈に

    は無理があると考え、前後関係から「還って我に仏性来たる」と訓読し、現代語訳は「還って私に仏性が到来してい

    る」と訳した。即ち、「時節若至」は"時節がもし至れば"ではなく"時節が既に至っている"ということであること

    を疑う者は疑ってもかまわないが、事実として「仏性」は"もう私に到来している""いま修行している私に仏性が現れ

    ている"ことを示された語であると解釈した。

     

    さて、"時節が既に至っている""仏性現前の時節は既に到来している"と言っても、その必要条件として「修行」が

    重要である。故に道元禅師は「十二時中不空過」と、一日中空しく過ごさず修行すべきことを強調されたのであり、そ

    の"十二時中修行が行じられている"ということが"時節が既に至っている"ということであり、そこに仏性がやって

    来ているのであるから「仏性不至」(さらに重ねて仏性がやって来ることはない)というのである。そして、時節は既に

    至っているので、仏性が既に現前しており、十二時中の修行において「其理自彰」(その道理は自ずから彰われている)

    と示されたと解釈できる。「其理自彰」については前段の︻語註︼(本稿一三四~一三五頁)を参照されたい。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四七

     

    第だい十じゆう二に祖そ馬め鳴みよう尊そん者じや、十じゆう

    三さん祖そのた*めに佛ぶつ性しよう海かいをと*くにい*はく、山せん河が大だい地ち、

    皆かい依え建こん立りゆう、三ざんまいろくづう

    昧六通、由ゆう茲じ發ほつげん現。

     

    しかあれば、こ*の山せん河が大だい地ち、み*な佛ぶつ性しよう海かいな*り。皆かい依え建こん立りゆうといふは、建こん立りゆうせ*

    正しよう當とう恁いん麼も時じ、こ*れ山せん河が大だい地ちな*り。すでに皆かい依え建こん立りゆうといふ、しるべし、佛ぶつ

    性しよう

    海かいのかたちはか*くのごとし。さ*らに内ない外げ中ちゆう間げんにかかはるべきにあらず。恁いん

    麼もならば、山せん河がをみ*るは佛ぶつ性しようをみ*るなり、佛ぶつ性しようをみ*る

    は*驢ろ腮さい馬ば觜しを*

    み*るなり。

    皆かい依えは全ぜん依えなり、依え全ぜんなりと、會え取しゆし、不ふ會え取しゆするなり。三ざんまいろくづう

    昧六通、由ゆう茲じ發ほつげん現。

    しるべし、諸しよざんまい

    三昧の發ほつげん現・未み現げん、お*なじく*皆かい依え佛ぶつ性しようなり。全ぜんろくづう

    六通の由ゆう茲じ・不ふ由ゆう

    茲じ、ともに*皆かい依え佛ぶつ性しような*り。六ろくじんづう

    神通は

    た*だ*阿あ笈ぎゆう摩ま敎きように*

    い*ふ六ろくじんづう

    神通にあ*らず。

    六ろくといふは、前ぜん三さん三さん後ご三さん三さんを六ろく神じんづう通波は羅ら蜜みつといふ。しかあれば、六ろくじんづう

    神通は明めい明めい

    百ひやく

    艸そうとう頭、明めい明めい佛ぶつ祖そ意いなりと參さん究きゆうするこ*となか*れ。六ろくじんづう

    神通に*滯たい

    るい累せしむとい*へ*

    ども、佛ぶつ性しよう海かいの朝ちよう

    宗そうに*罣けい礙げするものなり。

    二―弐(正)

    祖―祖(懐)(乾)(正)(洞)(瑠)(長)(玉)(徳)

    ため―爲(抄)  

    とく―説詞(抄)

    いはく―曰(抄) 

    は―わ(瑠)

    皆依建立―「皆依ル二建立ニ一」(龍)、「皆ナ依テ建立タツ」(瑠)

    由茲發現―「由テレ茲コレニ發現ス」(龍)、「由ユ茲シ發現ス」(瑠)

    こ―此(瑠) 

    みな―皆(瑠) 

    なり―也(瑠)

    皆依建立―「皆依ルレ建立ニ」(龍)

    せる―也(抄)(乾)(正)(龍)、「也」ヲ消シテ「せる」

    ニス(徳) 

    麼―广(乾)(瑠)、右下、ノ(龍)

    これ―是(瑠)  

    なり―也(洞)(瑠)

    皆依建立―右、「皆依ルレ建立」(龍)

    かくのごとし―如此(抄)

    さらに~ならば(二十三字)―「驢腮馬觜をみるなり」

    ノ後ニアリ(抄)(乾)(正)(龍)(長)(玉)(徳)

    みる―見(抄) 

    驢―馿(乾)(正)(龍)(洞)(瑠)(長)

    (玉)(徳)、右、ロ(瑠)

    腮―右、エクボ(正)、右、エクボ、ナギト、左、サイ(龍)

    觜―右、ク(正)、右、シ(龍)  

    依全―全依(瑠)

    會―右、ウイ(瑠) 

    由茲發現―「由レ茲レニ發現ス」(龍)

    未―來(底)、(抄)(懐)(乾)(正)(龍)(洞)(瑠)(長)

    ニヨリ訂。 

    現―來(玉)

    おなじく―同(抄) 

    皆依佛性―「皆依レ佛性ニ」(龍)

    由茲・不由茲―「由ヨルトレ茲レニ不レルト由レ茲レニ」(龍)

    不由茲―ナシ(玉) 

    皆依佛性―「皆依レ佛性」(龍)

    なり―ナシ(瑠)

    神―神(懐)(乾)(正)(洞)(瑠)(長)(玉)(徳)

    阿笈摩教―右、アキウマケウ(長)(玉)、左、小乗経

    ナリ(長) 

    ただ―只(抄) 

    だ―(ヽ乾)(正)(龍)

    (洞)(瑠) 

    笈―右、キウ(龍)(瑠)

    敎―教(懐)(乾)(正)(洞)(瑠) 

    い―右、イ(乾)

    あらず―非(抄) 

    三―(ヽ乾)(正)、(々龍)(洞)

    波羅―ハラ(乾)(正)(龍)

    明―(々乾)(正)(龍)(洞)(瑠)(徳)

    艸―草(乾)(正)(龍)(洞)(瑠) 

    參―参(瑠)

    こと―事(抄)

    かれ―右下、ナゼニカ、左下、ナカレト(乾)

    滯累―左、トトコヲリ(瑠) 

    い―云(抄)

    へ―え(正)(瑠) 

    罣礙―㝵礙(洞)、ケケ(瑠)

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四八

    ︻懐奘書写本︼

    書き改め前

    書き改め後

    ①第十二祖馬鳴尊者、十三祖のために仏性海をとくにい

    はく、山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲發現。

    ①第十二祖馬鳴尊者、十三祖のために佛性海をとくにい

    はく、山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲發現。

    ②しかあれば、この山河大地、みな佛性海なり。すでに

    建立の正當なり。

    ②しかあれば、この山河大地、みな佛性海なり。皆依建

    立といふは、建立せる正當恁麼時、これ山河大地なり。

    すでに皆依建立といふ、しるべし、佛性海のかたちはか

    くのごとし。

    ③さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、

    山をみるは佛性をみるなり。河をみるは佛性をみるなり。③さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、

    山河をみるは佛性をみるなり、佛性をみるは驢腮馬觜を

    みるなり。

    ④皆依は全依なり、依全なりと、會取し、不會取する皆

    依なり。佛性はかならず山河大地に皆依なりと参究すべ

    きなり。

    ④皆依は全依なり、依全なりと、會取し、不會取するな

    り。

    ⑤三昧六通、由茲發現。しるべし、諸三昧の發現・未現、

    おなじく皆依佛性なり。全六通の由茲・不由茲、ともに

    皆依佛性なり。六神通はたゝ阿笈摩教にいふ六神通にあ

    らず。六といふは、前三々後三々なるべし。

    ⑤三昧六通、由茲發現。しるべし、諸三昧の發現・來現、

    おなじく皆依佛性なり。全六通の由茲・不由茲、ともに

    皆依佛性なり。六神通はただ阿笈摩敎にいふ六神通にあ

    らず。六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。

    ⑥しかあれば、六神通は明々百草頭、明々佛祖意なり と

    参究することなかれ。六神通すでに發現する参究なり。

    六神通に滞累せしむといへども、佛性海の朝宗に罣礙す

    るものなり。

    ⑥しかあれば、六神通は明明百草頭、明明佛祖意なりと

    參究することなかれ。六神通に滯累せしむといへども、

    佛性海の朝宗に罣礙するものなり。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一四九

    ︻懐奘書写本に見られる書き改めについて︼

     

    本段は、修訂が数多く見られる箇所である。草稿からの書き入れや表現の修正、文章の大幅な削除等がなされてい

    る。便宜を図るため、懐奘書写本と本山版を二段に分けて示し、六段落に分割して示した。以下に順次検討していく。

    本則(①)は変更が加えられていないが、②以下は随所に、修訂の跡を見ることが出来る。

     

    ②では、山河大地と仏性海の同質性をより明確にするために大幅に増広され、理解しやすくなっていると思われる。

     

    ③においては、当初、山河大地の「山河」を「山」と「河」に分け、どちらを見ることも仏性を見ることであるとし

    ていたのを、山河を一つにまとめ、代わりに「驢腮馬觜」という山河大地の具体例を挙げている。

     

    ④は、「皆依建立」の「皆依」を説明する段であるが、ここでは、②で「皆依建立」についての説示を増広した分、

    言葉を削除している。

     

    ⑤では、六通の「六」が無量であることを示すために「前三三後三三」という語が用いられるが、前三三後三三であ

    る様を「六神通波羅蜜」とし、阿含経典における六通との差異をより明確なものとしている。

     

    ⑥では、「六神通すでに發現する参究なり」という一文が削除されている。

    ︻語註︼

    第十二祖馬鳴尊者︑十三祖のために仏性海をとくにいはく︑山河大地︑皆依建立︑三昧六通︑由茲発現(山河大地︑皆

    な依って建立し︑三昧六通︑茲これ由より発現す)︙『道元引用語録の研究』(春秋社、一九九五年三月、五二五頁)等の先

    行研究は出典を『景徳伝燈録』巻一「馬鳴章」の、「師即為説性海云、山河大地、皆依建立、三昧六神通、由茲発現」

    (『禅文化本』一二頁、『大正蔵』五十一・二〇九頁下段)とするが、宋版『伝燈録』には「三昧六神0通」とあり、厳密

    には一致しない。宋版『天聖広燈録』巻三「馬鳴章」には「尊者即為説性海云、山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲

    発現」(柳田聖山主編『禅学叢書』五、中文出版、一九八三年十月、三七二頁)とあり、ほぼ同文であるため、本稿では

    こちらを出典としておきたい。「馬鳴尊者」は、西天(インド)の十二祖。禅宗では阿あ

    ぼ那菩底ていとも呼ばれる。「十三祖」

    は、馬鳴の弟子、迦か

    毘摩羅のこと。『景徳伝燈録』等では、馬鳴の仏性海の説示を聞いて発心し、三千の徒衆と共に出

    家したとされる(『大正蔵』五十一・二〇九頁下段)。この古則は、『伝光録』「迦毘摩羅尊者章」にも引用されており、

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一五〇

    「第十三祖迦毘摩羅尊者、馬鳴尊者、仏性海ヲ聞ニ云、山河大地、皆依建立、三明六通、由茲発現。師聞信悟ス」(乾坤

    院本、徧冊四一丁表)とある。仏性海︙仏性の広大にして無限なことを、海の広大なことにたとえていう(『禅学』一

    〇八七頁)。山河大地︙世界・宇宙のこと。宇宙の一切の現象(自然現象)、または自然世界のこと。禅宗でいう語。

    山・河・大地の三つで、すべての客観を表現している。主観の見聞覚知に対する語(『中村仏教』八三五頁)。山と河と

    大地。地上を構成するもの。日月星辰とともに用いられ、山河大地日月星辰で、地上と天空を構成するもの、全宇宙の

    意に用いられる。また、山河大地で自然界のすべてを示す。禅では、われわれの心に対する自然界を象徴することばと

    して山河大地の語を用いることが多く、自然世界のいちいちが仏性の現成、仏のすがたであると説く。また、山河大地

    と自己との関係が重要な問題とされ、この問題を取り扱った問答が語録の中に多く見られ、本来両者が同一であるとす

    る。例えば、道元の「山河大地心」(『正法眼蔵』「即心是仏」)という語は、山河大地と心(真如・仏性)と同一である

    ことを説き、外なる全世界のあらゆるものと、内なる心とは、本来一如であるとするのである(『禅の思想辞典』、東京

    書籍、二〇〇八年三月、三二三頁)。「建立」は現われること(『中村仏教』四二四頁)。三昧六通︙三昧と六通のこと。

    三昧とは、Sam

    ādhi

    の音写。三摩地・三摩提とも音写。正受・等持などと漢訳する。心が静かに統一されて、安らかに

    なっている状態。何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ることである。禅定と同義語(『中村

    仏教』四八九頁)。道元は、『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻において、「あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧な

    り」(五四〇頁)と述べ、結跏趺坐の坐禅こそが、正しい三昧であると説く。六通とは、「六神通」すなわち六種の超人

    間的な能力。(一)宿命智(自他の前世における生存の状態を知る力)、(二)天眼智(世の中のすべてのことを見通す

    力)、(三)漏尽智(煩悩をすべてなくして、再び迷いの世界に生まれないことをさとる力)、(四)天耳智(あらゆるこ

    とを尽く聞きわけることのできる力)、(五)他心智(他人の心の中にある善悪を尽く知る力)、(六)神作智(種々の奇

    跡を現わしうる力)の六者をいう(『日本仏教語辞典』七四三頁)。また、六通の(一)~(三)を特に三明と呼ぶ。発現

    ︙あらわれ出ること(『大漢和』七・一二二一頁)。正当恁麼時︙「まさにこのようなとき」という意。「正当」は、まさ

    に、ちょうどの意。「恁麼」は、ここでは形容詞として用いられている。角田泰隆「『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(一)」

    八一頁参照。内外中間︙内と外とその中間。空間上、時間上の一切の時処をいう(『禅学』九六三頁)。「内外中間」の

    語は、禅宗文献においてもしばしば用いられる。黄檗希運の『伝心法要』には、「情存学解、却成迷道。道無方所名大

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一五一

    乗心。此心不在内外中間、実無方所(情に学解を存せば、却って迷道と成る。道に方所無きを大乗心と名づく。此の心

    は内外中間に在らず、実に方所無し)」(入矢義高『禅の語録』八、筑摩書房、一九六九年十二月、六〇頁)とあるが、

    この「不在内外中間」は、『維摩経』巻上「弟子品」の「心亦不在内、不在外、不在中間(心も亦た内に在らず、外に

    在らず、中間に在らず)」(『大正蔵』十四・五四一頁中段)に基づくとされる(『禅の語録』八・六五頁)。驢腮馬觜︙驢

    の腮(あご)、馬の觜(くち)。道元は『正法眼蔵』「仏性」で、仏とは見なせないような常人を越えた異相であることに

    よって、かえってあらゆる事象が仏性の相であることをきわだたせるための具体例として選びとり、「この山河大地、

    みな仏性海なり。︙恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜なり」という。驢腮馬面・驢腮

    馬頷と表現されるほうが多く、仏・祖師・出格衲僧などの偉傑の貌をいう。また、驢唇馬嘴は大口をたたくこと(『禅

    の思想辞典』五〇六頁)。驢馬のあごと馬の口。ありふれたもの、だれにでも見るものとしてあげる(『中村仏教』一四

    四五~一四四六頁)。驢腮馬頷に同じ。馬觜は馬のくちばし。馬にくちばしはないが、言葉を奇にして、あらゆる事象

    を例示したもの(『禅学』一三二一頁)。全依・依全︙どちらも「皆依」を言い替えたもの。『正法眼蔵抄』では、「又皆

    依ト云ヘハイカニモ、猶能所依之心地サシイツ、故全依也ト被レ釈、然而是モ猶全依モ依ノ心地相ノコリヌヘシ、仍依

    全ト云時、能依所依ノ義ハ解脱スルナリ」(『蒐書大成』十一・八三頁)と解釈している。この語に関しては伊藤秀憲氏

    の考察があり、「「山河大地、皆依建立」と言えば、山河大地が皆、仏性海に依って建立しているという意味に理解され

    るが、『聞書抄』は「皆依」をそのようには解釈していない。『正法眼蔵』では、「皆依は全依なり、依全なり」と説か

    れる。「依」と言えば、「仏性海に依って」というように、能依所依が考えられるが、それを否定するために「全依」(全

    てが依)と説かれたのであり、それでもやはり「依」の意味が残るから、「依全」(依が全て)と説かれたと『抄』は注

    釈するのである。依が全てということは、山河大地は仏性海に依って建立しているのではなく、山河大地は仏性海にほ

    かならないのであって、全てが仏性海であるということを示している。「全依」を「依全」と打返すことにより、能依

    所依という相対を否定し、「依」が即ち「全」であるということを表している」(『道元禅研究』、大蔵出版、一九九八年

    十二月、六三七~六三八頁)とされる。会取・不会取︙会取は事理を了解すること。取は助詞。会得(『禅学』九七

    頁)。不会取は本来なら会取の否定形で了解(理解)しないことを言うが、ここでは「会取し不会取するなり」で、理

    解するかしないかに関わらないことを言っていると思われる(解説参照)。会や不会といった相対は存在しなくなる。

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一五二

    皆依仏性︙読み下せば、「皆な仏性に依る」となるであろうが、本段の「皆依は全依なり、依全なり」という説示をふ

    まえるならば、「全依仏性」(全てが依である仏性)あるいは「依全仏性」(依が全てである仏性)と読みかえることが出

    来る。つまり、「皆依仏性」は、「皆依」(皆が依)であるという「仏性」というほどの意味に捉えることが出来る。『正

    法眼蔵聞書』では、「先段ノ時節ト仏性トノ如ク、皆依与仏性同事也、由茲不由茲トモニ皆依仏性ナリト云、三昧六通

    ノ発現サラニ由茲トハ不可心得」(『蒐書大成』十一・八五頁)とする。阿笈摩教︙阿笈摩は阿含に同じ。阿含経の教え

    (『禅学』四頁)。『正法眼蔵』「伝衣」巻に「この儀は、諸声聞衆の見聞し、相伝するところにあらず、諸阿笈摩教の経典

    に、もらしとくにあらず」(二九二頁)とある。前三三後三三︙『玄沙広録』巻中に、招慶院を訪れた玄沙が麟上座に

    「什度生(なんと立派な)一院だ。寮舎(僧堂)は幾つあるか」と尋ねると、麟は「前六後六」と答えたとある。「前に

    六棟、後ろに六棟」という意で、ぎっしりと建ち並んださまをいう。それらには修行僧が満ちているという含みである

    が、その盛大な賑わいぶりをいうのであって、それの内実は別である。これがこの語の原義であろう。後世これに深遠

    な意味付けが加わって、「数量では計れぬ根本智の消息」などと説かれるが、原義とは別である(『禅語』二六〇頁)。

    『真字正法眼蔵』一二七則には、「文殊、問無著、近離甚処。著云、南方。殊云、南方仏法、如何住持。著曰、末法比

    丘、少奉戒律。殊曰、多少衆。著云、或三百、或五百。著、問文殊、此間仏法、如何住持。殊曰、凡聖同居、龍蛇混

    雑。著云、多少衆。殊曰、前三三、後三三(文殊、無著に問う、「近く甚いずれの処を離る。著云く、「南方」。殊云く、「南方

    の仏法、如何が住持する」。著曰く、「末法の比丘、戒律を奉ずること少し。殊曰く、「多少の衆ぞ」。著云く、或あるいは三

    百、或は五百」。著、文殊に問う、此す間かんの仏法、如何が住持する」。殊曰く、「凡聖同居し、龍蛇混雑す」。著云く、「多

    少の衆ぞ」。殊曰く、「前三三、後三三」)」とある(『春秋社本』五・一九五~一九七頁)。六神通波羅蜜︙波羅蜜は、

    パーラミターPāram

    itā

    の音写。「迷いの此岸からさとりの彼岸(パーラ)に到達した状態」の意で、漢訳では「到彼岸」

    とか「度」と訳される。大乗仏教に於て最も重要な述語の一で、菩薩が実践すべき修行の最高の完成をいう(『日本仏

    教語辞典』五九一頁)。菩薩が涅槃に至るために実践すべき六種の徳目として六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅

    定・智慧)を立てるが、「六神通波羅蜜」はこれになぞらえたものである。ただし、ここでの六とは、数としての六を

    表すのではなく、無量であることを示す。また、道元禅師が「神通」について説示する『正法眼蔵』「神通」巻では、一

    般的に言われる六神通などは、「小神通」とされ、仏祖の相伝してきた「大神通(仏神通)」とは異なるとされる。大神

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一五三

    通とは何かと言えば、それは、水や薪を運ぶことであり、眠りから覚めた人のために洗面用の盆と手ぬぐいを持って行

    き、その人が顔を洗った後にはお茶を出すといった、日常的な行為そのものであるとする。この大神通は、「人のしら

    ざるには、その法の廃するにあらず、その法の滅するにはあらず。人はしらざれども、法は法爾なり。運水の神通なり

    としらざれども、神通の運水なるは不退なり」(三一八頁)とあるように、日常的な行為が大神通の顕現であると理解さ

    れていなくても、その行為は大神通に他ならないとされる。明明百草頭︑明明仏祖意︙千草八千草の葉先のすべてに、

    祖師が伝えきたった禅の心が歴歴と生きている(『禅語』三九四頁)。出典は『龐居士語録』巻上における龐居士とその

    娘霊照との問答で、「居士一日坐次、問霊照曰、古人道、明明百草頭、明明祖師意。如何会。照曰、老老大大、作這箇

    語話。士曰、儞作麼生。照曰、明明百草頭、明明祖師意。士乃笑(居士、一日坐せる次とき、霊りんしよう照に問いて曰く、「古人道

    う、︿明明たり百草の頭はし、明明として祖師の意﹀と、如何に会すや」。照曰く、「老老大大、這こ箇の語話を作す」。士曰

    く、「儞は作い

    ん麼生」。照曰く、「明明たり百草の頭、明明として祖師の意」。士乃ち笑う)」(入矢義高『禅の語録』七、筑

    摩書房、一九七三年十一月、一九三~一九四頁)とある。この話は『真字正法眼蔵』八八則(『春秋社本』五・一六八

    頁)・『永平頌古』九則等にも引用され、後者では「古人云、明明百草頭、明明祖師意」に対して「欲結不留千万里、処

    門内未待他明、無情易失動容路、病耳猶悲夜雨声(欲の結は留まらず千万里、門内に処して未だ他明を待たず、情こころなう

    しては失い易し動容の路、病耳なお悲しむ夜雨の声)」(『大久保本』一六八頁)と頌している。参究︙師にしたしく参禅

    してその指導の下に一大事をきわめること(『禅学』三九〇頁)。滞累︙とらわれ、かかずらう(『禅学』八一九頁)。こ

    こでは、『正法眼蔵抄』に「六神通ニトヽコホルト云ヘトモ、仏性海ニトヽコホラレテ、六神通モ皆仏性也ト云心地也、

    此帯

    (ママ)累罣礙ハアシクナリタルニテハナシ、是モ仏性ノ上ノ帯累罣礙ト可心得」(『蒐書大成』十一・八四頁)とあるよう

    に、そこに留まることで、仏性と一体になっていることを示す。朝宗︙河水が海に集まり注ぐこと(『禅学』八六五

    頁)。罣礙︙一般には、妨げること。転じて菩提心を妨げる煩悩や妄想をいう(『禅学』二五八頁)が、ここでは、一体

    になっていることを指す。この点に関しては、森本和夫氏の、「「罣礙」というのは、「ひっかけ、引き止める」という

    ようなことを意味し、「関係づく」ことを表わす。その徹底的な在り方は、「一体化する」とか「合致する」ということ

    になる」(『正法眼蔵読解』︿一﹀、筑摩書房、二〇〇三年十一月、一一一頁)という考察が参考になる。また、朝日隆

    「『正法眼蔵』における「罣礙する」「罣礙せざる」について(一)」(『宗学研究』第四十号、一九九八年三月)では、「「罣

  • 『正法眼蔵』「仏性」巻訳註(二)(角田)

    一五四

    礙する」の意味は、「一法が究尽、独立する」ことと言え」(七一頁)、「諸法が仏法であるとき、諸法の中の一法が仏法

    として働く、(そのものがそのものとして働く)、その作用・活動に重点を置く場合に、「罣礙する」と表現する。そし

    て、仏法として働いている場合一法は、そのものがそのものとして働いているのであるから、一法と同様に仏法として

    働いている他法とは、当然、お互いに妨げあわない、その関係、有り様に重点を置く場合は、「罣礙しない」と表現す

    る」(七二頁)としている。

    ︻直訳︼

     

    第十二祖馬鳴尊