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はじめに 今回の企画展は、館蔵の戦没学徒の軍事郵便と、北上平和記念展示館から借用の軍事郵便を展示しま
す。北上平和記念展示館からは、岩手県和賀郡藤根村の藤根小学校の先生や藤根青年学校の指導員をつ
とめ、卒業生の兵士に『真友』という新聞を作り送っていた高橋峯次郎宛の返信「7000通の軍事郵便」
と、『戦没農民兵士の手紙』を編集した「岩手県農村文化懇談会」が収集した「岩手戦没農民兵士の軍事
郵便」のうち一部を借用し展示します。「岩手戦没農民兵士の軍事郵便」については、以前の特別展でも
展示したことがありましたが、「7000通の軍事郵便」については、東京では初めての展示となります。
軍事郵便は検閲があり、戦場の生々しい悲惨な様子は書かれていないと言われていますが、実際に展
示する軍事郵便には、日本軍兵士や中国軍兵士・遊撃隊員だけでなく、民間人・女性・子どもまで殺さ
れるという、戦場の悲惨な様子が生々しく書かれているものもあります。また、毒ガスや空襲による被
害を書いたものもあります。これらの軍事郵便は検閲のがれをしたものもありますが、それだけではな
く、軍隊内の地位・職務を利用して、先生や家族に戦場の様子を伝えることが可能だったようです。
農民兵士の手紙には、戦場となった中国の農村での農作業の様子だけでなく、都市でも農村でも、中
国人の民家が壊されたり、家や家具が焼かれたり、食べ物がなくなっている様子も見聞したことや、そ
れと絡めて、郷里の農作業や収穫について思いをめぐらしたり、家族のことを案じて、書かれた軍事郵
便もあります。
戦没学徒の軍事郵便には、家族への願いや希望さらには思いを書いたものが多いですが、食糧難や空
襲による家族の被害を心配したものもあります。中には友人への経済学の学習の勧めや、姉妹に文化の
継承者になるように勉強してほしいと書いているものもあります。
これらの軍事郵便を通して、戦争の実相や兵士たちの思いを知り、考えていただきたいと思います。
屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋 認定NPO法人 わだつみのこえ記念館 屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋屋 2020年1月
凡 例
・本冊子は、2020年1月22日より2月29日まで、わだつみのこえ記念館において開催される第6回企画展「戦没学生と岩手農民兵士の軍事郵便展」の展示史料の画像と翻刻を収録した図録である。・岩手農民兵士の軍事郵便は『北上平和記念展示館』が所蔵されるものであり、同館のご厚意により、借用し、展示及び画像の図録への収録することができた。厚くお礼を申上げたい。また、史料の紹介や岩手農民兵士の履歴の作成などは、『北上平和記念展示館』の川島茂裕学芸員にご教示いただいた、あわせて厚くお礼申上げたい。・史料の翻刻、履歴の作成などにあたって、『北上平和記念展示館の軍事郵便』『国立歴史民俗博物館研究報告第101集 [共同研究]近現代の兵士の実像1 村と戦場』、『戦没農民兵士の手紙』などを参考にした。・漢字は常用字体に統一した。・仮名遣いは変更していない。・促音は原文表記にかかわらず、すべて小書きにした。・変体仮名や合略仮名は通常の仮名に置き換えた。・二字分の繰り返し記号(踊り字)は使用せず、字を繰り返した。仮名の繰り返し符号は仮名に置き換えた。・脱字を本文中に〔 〕で補った。誤字は本文中に正字を〔 〕内に示した。判読できなかった字は□で示した。・適宜句読点を加除した。
史料の選択・翻刻、履歴の作成などは山辺昌彦館長が担当した。
目 次
1 わだつみのこえ記念館所蔵軍事郵便害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害
篠崎 二郎 ………(3) 田村 正 ………(4) 大島 欽二 ………(4)木下 浩 ………(5) 小倉 正久 ………(5) 柳田 陽一 ………(6)宇田川 達 ………(7) 上村 元太 ………(8) 石下 英雄 ………(9)奥村 克郎 ………(9) 石岡 俊蔵 ………(10) 吉村 友男 ………(10)田中 敬治 ………(11) 中島 愛作 ………(11) 山隅 観 ………(12)松岡 欣平 ………(13) 関口 清 ………(14) 白井 成徳 ………(14)上藤 憲三 ………(15) 田辺 利宏 ………(15)
2 藤根小学校・藤根青年学校高橋峯次郎先生宛軍事郵便害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害
高橋千太郎1……(17) 菊池喜代蔵 ………(18) 菊池 克巳 ………(19)桜井 伝 ………(21) 宮本 満 ………(22) 石川 庄七 ………(23)高橋 徳孝 ………(25) 高橋千太郎2 ……(26) 高橋徳兵衛1 ……(28)高橋 長市 ………(29) 菅沼 清美 ………(30) 高橋徳兵衛2 ……(31)高橋 七三 ………(32) 加藤 孝志 ………(33) 石田 武 ………(34)加藤 清逸 ………(35) 高橋 栄 ………(36) 高橋 善司 ………(36)柏木 慶作 ………(37) 高橋 久 ………(38) 高橋 寿悦 ………(39)伊藤長次郎 ………(40) 高橋 勘作 ………(40)
3 岩手戦没農民兵士の軍事郵便害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害害
安部 勝雄1,2…(41) 及川 一男 ………(43) 千田 懿清 ………(44)伊藤仁太郎 ………(45) 瀬川四五郎 ………(46) 岩泉 武正 ………(46)伊藤 秀 ………(47)
篠崎 二郎
しのざき
じ
ろ
う
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篠崎二郎軍事郵便書簡 篠崎寿子宛
一九三九年二月付
第六十一信
七十四・五信落手しました。多忙で暫らく文通おくれて
すまなかった。
絶へず気になりつつ、疲れて寝るので仕方なく…
其后相変らずの張り切りです。最近情報活溌です。
一面復興都市のN市も相変らず潜入分子活動し、全市は
悪化/しつつあります。上海のテロ化と相通じてゐます。
警備司令部だけあって/小生らの緊張特別です。日直も
十一時迄、相当なもの。
当市と相対応して近効〔郊〕の守備地区も大討伐をやって
ゐます。
江南地区も(全面的に重慶政府の密令らしい)活溌となり
ました。
今日は不幸なニュースを書かねばならぬ…と云ふのは
武村隊は当市より十五里東方の山中の部落にゐるが、突
然/敵主力と衝突、直ちに討伐に移ったが、三日三晩の
追撃戦/に多数の行方不明と戦死を聞ひたが、本部への
情報により、/山本大隊だけで八十名近く、中隊だけで
二十名と判明、思はず黙冥を捧げ/ました。奥ノ坊、坂
本、第三機関銃隊等各々相当出してゐます。
今は再起不能に陥ってゐるそうです。お前も朝夕仏前に
英霊を悼/んでやって下さい。今日はそのニュースに哀
悼の一日でした。
かくの如くN市を中心に江南地区は旧正を控へ緊張で
す。
敗残兵、土匪、大刀会匪、正規軍、雑軍には閉口です。
近く二次討伐をやるでせう。小生も本部より何かの形
で護国の/英霊に対してとむらひをやります。日直など
情報のある時は/賢明な連絡をとり、措置の対策に歯を
食ひしばって、奔走してゐます。
3 2020年企画展「戦没学生と岩手農民兵士の軍事郵便展」
1910年(明治43)3月2日生。奈良県出身。同志社大学予科を経て、31年(昭和6)、同文学部英文学科進学。
35年卒業。新聞記者を希望するが果たせず、大阪市立東第二商業学校の英語科の教員となる。
37年2月、結婚。37年11月、大阪逓信局逓信講習所英語科教官となる。
38年4月、補充兵として応召、奈良の歩兵第38連隊に入営。
38年8月、南京の中支派遣軍岩松部隊司令部付となり、新聞班に配属。のち警備班に配属。
40年1月、前線に配置され、討伐戦に参加。40年5月、召集解除。41年1月、女児誕生。41年8月、再度応召。41年9月、平壌の尼崎隊に所属。後、南海派遣軍に属し、東部ニューギニアに転戦。
44年1月18日、東部ニューギニアにて戦死。享年33歳。
1 わだつみのこえ記念館所蔵軍事郵便
高橋 千太郎
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高橋千太郎軍事郵便書簡
艶艶艶艶艶艶艶 高橋峯次郎宛
謹啓
時下炎暑之此ろ其の后は意外の御無音/に打過ぎ居り候
処、御家内様には如何/御起居を遊候哉。定めし御勇健
の由と/乍蔭も推察仕り候。小生に於ても元気時々/盛
在勤罷在り候間、乍他事御安心/下され度、当地は此の
頃は毎日の如く/雨天にて閉口致し居り候。尤も昨年/
に比して降雨多きとの事に御座候。
露人の噂には当地は雨多ければ/豊年と云ふので目下作
物は上景/気に御座候。作物としては内地と左程/相違
ひなく候。□□駐兵も永引く/事と存じ、其のつもりに
て諸準備致/し居り候ところ、遂に本年中に再び/内地
に帰還成し得る様子に御/座候。当守備地は右翼第一線、
/而も元来全部赤パルなりし炭鉱/地に在之候故、堡畳
も設け泥港/の二の舞をせざる様中々警備/至極厳に致
し居り候。五月至六月/に於ては所々鉄道爆破の事/件
も多く、時々汽車不通と成りし時/有之候得共、本月に
入りてはパルチザン/不逞鮮人馬賊等の暴動も減少/す
るに至り従来是彼等の出没を聞/知し、其の都度吾人の
志気を刺激/する事幾間ならざるに知らざるは聊か/物
足らぬ感ならん。是れ或は/日本軍の撤退近くに有るを
知しに/非らざやと判断せられ候。情報に/依れば赤パ
17 2020年企画展「戦没学生と岩手農民兵士の軍事郵便展」
岩手県和賀郡藤根村長沼出身。1900年10月10日生まれ。1920年12月10日弘前の歩兵31連隊に入営。
1921年2月2日機関銃隊に選抜。1922年8月下旬西シベリアへ。1930年1月頃盛岡の騎兵第23連隊機関銃隊の4入隊。
1931年1月9日上等兵になる。11月23日除隊。1937年8月31日入隊。11月頃から山西省太原派遣。1939年2月1日藤根に帰還。1991年11月20日死去。
2 藤根小学校・藤根青年学校高橋峯次郎先生宛軍事郵便
岩手県江刺郡岩谷堂出身。1904年生まれ。(推算)結婚し子ども2人いる。1939年4月19日 中国華北山西省浮山県米家垣郷にて戦死。
35歳。陸軍曹長。書簡執筆時、北支派遣軍 第108師団 歩兵第52連隊所属か。
安部 勝雄
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安部勝雄軍事郵便書簡 妻輝宛
一九三八年六月十五日付
拝啓 其後は御無沙汰致しました。家の中には御変りあ
りませんか。日に増し御忙し/い事で御座いませう。先
頃甫君から御手紙頂きましたが、聞く所に依れば仕事は
案外進ん/で居るとか。日出田では遅れて居るとてね。
林檎も相当成った話に喜こんで居ります。/袋掛けさへ、
あんまり遅れなければ、良いがと思って居ります。
左野向では買った小屋を二間半に五間の馬屋に建てたと
か、御父さんも幾等喜こんで/居ることやら、喜び勇さ
んで若い者よりも元気で御励みの事でせう。
降て、私は無事で御奉公致して居りますから、御安心下
さい。先頃御守を/送って頂いてから間も無くでしたが、
自動車にて荷物を運搬して行く時、敵の/居る所を前進
せんとして包囲せられ、余り敵の数が多いので引き帰り
ました/が、帰る時部落の中で小銃、機関銃、手榴弾を
頭上や四方八方から射たれ/自動車に沢山あたり、戦死
者もあり負傷者もありましたが、俺の乗って/居る自動
車は機関部をつらぬき、運転手の右手をかすったのみ。
其の外の弾丸は/機関部に止ったり鉄板で止まったりし
て運良く傷も付かずに帰りました。
六月十五日 安部
輝様
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安部勝雄軍事郵便書簡 妻輝宛
一九三八年九月頃
近頃どうも家の方の夢を見るので、何か変った事がなけ
ればよいがと思って居りました。
父さんや御母さんの所も見ましたので、ハテハテと思っ
て居りましたが、云ってやれば心配する/事だらうと思
って、だまって居りましたが、四、五日になるが、何等
当方には変った事/がありません。子供に手紙書いた日
でした。家の事は先ず火の用心、子供等の注意、/飲食、
水、火に注意するより外はありますまい。作柄は如何です。
二百十日、二十日と過/ぎれば、其の作も大体相場がき
まったでせふ。豆、小豆もあかるみ初めた頃でせう。
林檎や梨、ブドウも御金になる頃となりました。物価の
高い時だが、無駄を/はぶく時節だから主食物以外のも
のは格高にもなりますまい。次に俺等です/が、近頃、
一ケ所に一ケ月余りも警備して居りましたら、様々な噂
が飛び廻り、交代兵が/内地を立って来たから、大正十
三年以前徴集の兵隊は交代して帰るんだなどと云って
居りました所、若い兵隊さん達が沢山来ました。今日の
汽車にも乗って来ると/云った形でしたが、なんのこっ
た。交代などとは大きな間違ひで欠員になって居る部/
隊の補充員です。多分此の部隊にも来る事でせう。漢口
の陥落も近い/内だらうと思って居ります。今日、西安
も攻撃開始になりませう。私等も近い内に/動く事と思
ひます。こんなことは話せない事ですけれど、君に丈申
上て置きます。
北支は、雨不足な所ですが、二百十日過ぎは割に雨降り
が多く、今日もサラサラと/降って居ります。昨夜も電
線を切断されて迷惑しましたが、土民を一ち一ちいじ/
めても居られないから、愛撫して幾等でも仕事に従事す
る様にと思って居/りますと、それに付け込んで土民の
ふりして悪戯して歩かれますので、ほんとに/こまりま
す。長い距離だから守り切れない様な訳、又、何れが悪
41 2020年企画展「戦没学生と岩手農民兵士の軍事郵便展」
3 岩手戦没農民兵士の軍事郵便