title [巻頭論考]琉球使節の解体 琉球王国評定所文書,...
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Title [巻頭論考]琉球使節の解体
Author(s) 紙屋, 敦之
Citation 琉球王国評定所文書, 5: 8-25
Issue Date 1990-03-20
URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/19505
Rights 浦添市立図書館
〔巻頭論考〕
Jへ
琉球使節の解体
章氏
屋
敦
之
はじめに
一六三四(寛永一二年に始まった琉球使節の江戸上りは、
一八五
O(嘉永三)年に尚泰が襲封を徳川将軍に感謝
するために派遣した謝恩使をもって終わりをつげた。これが通説の説くところであるが、その後も一一一一、
一四、
五
代と三回将軍の代替わりが行われているから、当然、将軍代替わりを祝う慶賀使が企画されたはずである。しかし、
その検討は長いあいだ行われてこなかった。
私の知るかぎりでは、宮城栄昌氏の『琉球使者の江戸上呪』(一九八二年)が、そのことに言及した最初である。
Lかし、宮城氏は二ニ、一四代将軍に対する慶賀使の計画と延期という事実を指摘しただけである、と私は批判して、
一九八八年に「琉球使節の最後に関する考震」を発表した。そのなかで私は、江戸幕府が慶賀使の派遣を延期したと
きにあげた理由の「国事多端」について検討し、琉球使節が薩摩藩の政治目的を達成するための軍事計画に利用され
る可能性があったことを指摘した。それでは薩摩藩が琉球使節を軍事的に利用する動きの背景には何があったのか。
前稿では、この点の追究が不十分であった。
宮城氏は、琉球使節の江戸上りが中止されるに至った理由を、
(
原
文
7
7
)
最後の江戸上りとなった一八五
O年から二年後の一八五二年(嘉永五)
のペリ!の来航は、琉球の支配権がやが
て形成される日本国家に移譲される第一段階であり、その意味では幕府に対する江戸上りが中止されるべき第一
歩でもあった。そして一八七二年(明治五)
の維新慶賀使の東京上りは、琉球の統治者の完全なる交代を意味し
ていた。
と、江戸幕府から明治政府へという国家権力の交代のなかで説明している。私は、前稿を著した段階では、氏の指摘
をよく理解できなかった。そのため、
ペリl来航に伴、つ開国が琉球使節が中止されるに至った理由ではない、その証
拠に、慶賀使が
一八五三
(嘉永六)年と一八五九(安政六)年に計画されている事実を強調した。しかし、宮城氏の
問題提起を念頭において、
いま改めてなぜ琉球使節が中止されたのかという問題を考えてみると、その方法として、
幕末の朝廷と琉球という問題設定が有効なのではないか、と考えるに至った。本稿は、そうした枠組みのなかで、琉
球使節の解体という問題を考えてみたい。
国事多端と琉球使節の延期
一八五
O
(嘉永三)年の江戸上り以降襲職した三人の将軍のうち、慶賀使の派遣が実際に企てられたのは一三、
考
四代将軍の二人についてである。本節は、その計画と延期に至った経緯について述べる。
論
一三代将軍徳川家定に対する慶賀使については、琉球館聞役新納太郎左衛門が記録した『江戸立ニ付仰波留』と題
巻 頭
する一件史料がある。それによると、
一八五三(嘉永六)年六月一一一一日に一二代将軍徳川家慶が亡くなると、薩摩藩
は八月、琉球館に対し、
九
。
公方家慶公莞御ニ付而者、自一一近々
一将軍宣下可レ被一一仰出一、左候得者、先例之通中山王より以ニ使者一御祝儀可レ
被一一申上一候、左候而、右使者、来辰年御参勤之節可レ被一一召列一旨、被一一思召上一候、依レ之勝五和か帰国之上、国
王江致一一内達一、無一一異儀一御受被一面上
一候様被一一仰付一候事、
但正使初附々之役々人柄取しらへ、先例之通可レ被一一相伺一候、此段茂申達候、
丑八月
と、「来辰年」
つまり一八五六(安政三)年に新将軍をお祝いする慶賀使を召し連れたい旨を内達した。新将軍徳川
家定が将軍宣下を受けたのは、このあと一一月一一一二日のことである。そこで薩摩藩は一二月、正式に、幕府に慶賀使
の参府時期を伺った。それに対し、幕府老中阿部正弘は、翌一八五四(安政ニ年一月一一一目、「将軍家御継続ニ就テ、
琉球王使江戸参賀、来ル辰秋(安政三丙辰)タルベキ町」を薩摩藩に命じた。ところでそれより前の九日、薩摩藩は
家老新納駿河久仰に「琉球政務ノ改革及ヒ御内用航」を命じ、一一日には琉球人参府掛をあらかた決めている}。
そし
て二二日、新納久仰に「琉人参府取調掛」を申し付けた。九月一
O日には、家老末川久平が琉球使節の護衛役を仰せ
付けられ目。
一方琉球では、一八五三(嘉永六)年九月、伊江王子朝忠(尚健)に、将軍代替わりを祝う慶賀使の正使の役を内
命し、麻姓一五世の呉儀を旅方蔵役に任命した。翌一八五四(安政ニ五月、伊江王子を正式に正使に任命し、柳姓
八世の康兼を正使伊江王子の従者に任命し問。八月には小禄親方良泰(馬克承)が副使に任命され問。また琉球は、
一八五六年の慶賀使のため銀八
O貫目の拝借を許されていたが、さらに一八五
O(嘉永三)年の謝恩使のさい拝借し
た銀八
OO貫目の返済猶予を薩摩藩に願い出た。これについては、薩摩藩は来る一八六O(万延こ年から六四
治一)年までの五カ年賦返済を許印、
フじ
一時的に琉球側の財政負担を軽減した。こうして琉球は慶賀使の派遣体制を調
えていった。
琉球使節は、一八五五(安政二)年五月一九日那覇を出船し、同二九日鹿児島に到着、鶴丸城の東隣りに位置する
琉球館に入つ問。琉球使節の到着に呼応して薩摩藩は六月、高橋縫殿に琉球人参府への同行を命じ、七月、新納太郎
左衛門を旅聞役に、八月、伊集院太郎右衛門を御側役格に、九月、伊集院周右衛門を御側役に任じ、江戸上りの準備
を進めていった。ところがそのさなか、
一O月二目、江戸を大地震が襲った。この安政大地震によって、薩摩藩では
上屋敷(芝屋敷)大破、中屋敷桜田邸半分崩壊・表御殿一棟焼失などの大被害を被った。そのため、薩摩藩は老中阿
部正弘と相談したうえで二五日、琉球使節の江戸上りを「来ル午年」(一八五八年)に延期したい旨を幕府に申し入
れ問。
一一月二日、幕府はそれを許した。同三
O目、そのことが、左記のとおり、薩摩藩から琉球館に伝えられた。
公儀御代替付、中山王ぷ御祝儀之使者、来辰年被二召連
一被レ遊二御参府一候様被ニ仰出置-候得共、此節江戸地震
弁大火付御屋敷御殿廻等別而及一一一破損
一、来秋迄者御普請等成就不レ致候付、被一一召延
一来ル午年御参勤之節被
(広周)
二召連一度御賦、御老中久世大和守様江御伺害被ニ召出
一候処、去二日御伺書之通被ニ仰渡一候段申来候、此旨中山
王御承知有レ之御請被二申上
一候様、早々可二申越一旨琉球館開役江可ニ申渡一候、
卯十一月
(末川久平)
近
江
よって翌年、伊江王子ら琉球使節一行は、
いったん琉球に帰国した。
考
一八五七(安政四)年一一一月一一六日、幕府は来年秋の琉球使節を名目に、薩摩藩に対し金一万両の拝借を許した。
論
翌年一月二七日には琉球人参府用掛を任命した。薩摩藩でも一月以降、この秋の江戸上りに向けた準備が先例どおり
頭l
進められていった。その具体的な内容については『江戸立ニ付仰渡留』が詳しい。また、鹿児島大学図書館の玉里文
i
庫には、上月行敬が描いた「琉球人行装之図一巻」と「琉球人往来筋賑之図一都」が所蔵されている。後者には、流
球人の参府来歴が、「慶長後
慶安二年九月
(中略)
嘉永三年九月
以上拾六度来ル」(慶安二年以降一六回とあ
るのは事実誤認か)と注記されているから、二つの図巻は一三代将軍の代替わりを祝う慶賀使を描く目的で制作され
た、と考えて間違いない(「琉球人行装之図一巻L
には、正・副使らの人名は記されていない)。琉球では四月二九日、
尚泰が正使伊江王子朝忠らに対し館別の宴を賜った。伊江王子は五月一九日那覇を出船し、同二七日鹿児島に到着し
た。副使与那原親方良恭は同三
O日到着した。
七月九日、琉球使節一行は藩主島津斉彬に詩見した。江戸への出発は八月一一一日と決まった。このように、江戸上
りの準備は滞りなく調った。ところが一六日、藩主斉彬が病気のため急逝した。薩摩藩は二五日、琉球館に対し、
当秋琉球人被一一召列一御参府之筈候処、被レ遊二御逝去一候付而者公辺伺之上、追市何分可二申渡一候問、此旨中山王
御承知候様、左候而、上国之王子副使等江茂可二相達一旨、琉球館聞役江可ニ申渡一候、
七月
(新納久仰)
駿
河
と、江戸上りの延期を示唆した。ところがその五目前の一一目、すでに、幕府老中内藤紀伊守信親から島津斉彬に対
し、「御代替に付、当秋琉球人召連参府候様先達て相違置候処、難レ被二差置一御国事多端之折柄に付、琉球人参府の
儀は先つ御差延被レ成候段被ニ仰出一傑」と、江戸上りの延期が命じられている。八月二日、薩摩藩は、左記のとおり、
幕府が慶賀使の延期を命じた命令を琉球館に伝えた。
当秋琉球人被一一召速一被レ遊ニ御参府一候様鼓一仰渡置一候処、難レ被-差置一御国事多端之折柄ニ付、琉人参府之儀者、
先被レ成二御差延一候旨被一一仰出一候段、御老中内藤紀伊守様ぷ被ニ仰渡一候段申来候、此旨中山王御承知候様、左
候而、上国之王子副使等江茂可二相達一旨、琉球館聞役江可二申渡一候、
}¥ 月
(新納久仰)
駿
河
九月一八日、伊江王子ら琉球使節一行は鹿児島をたって同二六日、琉球に帰国した。
島津斉彬に仕えた市来四郎が明治時代に編纂した『斉彬公史料』によると、この「国事多端」とは「将軍病気及外
{却】
舶渡来」、言い換えると、
一八五七l五人(安政四1五)年にかけての一
三代将軍徳川家定の継嗣問題と日米修好通
商条約の勅許問題であった。
一橋派と南紀派の対立という構図で争われたこの幕府内部の権力闘争は、南紀派の彦根
藩主井伊直弼が大老に就任(四月二一二日)して、日米修好通商条約を調印(六月一九日)し、また和歌山藩主徳川慶
福を継嗣に定める(六月二五日)というかたちで決着した。
後幕府ニ
大老井伊直弼の専横に憤った一橋派の島津斉彬は、「一大策アリ、三四千ノ兵ヲ引テ上洛イ夕、ン、其意ヲ堅フシテ
勅詫ヲ以処分スルノ心街」を家臣に語った。「安政紀事紗」にはこのことが、「時ニ井伊以下政事ヲ素ルヲ
聞キ、親藩ノ幽セラル、ニ及テ、言語文辞ノ能救フ所ニアラサルヲ知リ、将ニ大兵ヲ率ヒテ京師ニ入リ、王室ヲ擁護
{担}
シテ以テ幕府/政ヲ匡正セント欲ス」と記されている。すなわち、斉彬は大軍を率いて京都に入り、朝廷を擁護して、
天皇の勅命によって幕府の政治を改革することを決意したのである。そのため斉彬は、家臣に、「不レ遠九月末比ニ
ハ琉人召列参府致ニ付入用アルニヨリ、長崎ニテ小銃ノ近代式ノモノ弐千丁余、野戦砲モ十丁計、蒸気船一一一般都合
{担}
致セ」と命じ、軍備の強化を企図した。
しかし、斉彬が構想する「一大策」にとって問題は、いかなる方法で多くの軍勢を京都まで率いていくかである。
考斉彬は琉球使節の護衛を隠れ蓑に大軍を動かす計画であった。事実、
論というのが目的であった。たとえば、「琉使ハ(中略)東海道ハ歯簿ニ従テ江戸ニ入ルノ例規ナリ、然ルニ此回ハ朝
頭
g
巻廷ノ密命ヲ奉セラレ、其実ハ御滞京、大ニ為スコトアラセラレムノ御計画ナリシ」とか、「安政五年ノ秋八月末、琉
(出}
人被ニ召列一御参府ノ賦ニテ、琉球ヨリモ其手当ナリシニ、内実ハ京都迄御出掛ノ御密定」と、斉彬に仕えた人々が、
一八五人(安政五)年の琉球使節は京都まで、
四
後日、当時を回想して語っている。前年(一八五七年)
五月、参勤交代で薩摩に帰国する途中、斉彬は京都の左大臣
近衛忠照邸で三条実万・中山忠能らの公家と密談し、日米修好通商条約に伴う大坂開市・兵庫開港の結果変事が発生
{甜}
した場合の御所警衛の問題を話し合っている。このとき、琉球使節を京都まで召し連れる密約が朝廷側と交わされた
のであろう。
七月六日、将軍徳川家定が亡くなった
(八月八日発喪)。慶賀を受けるべき将軍が亡くなったことが、
二日、幕
府が慶賀使の延期を打ち出した理由であった、という解釈が成り立つ。それと、上述した斉彬の軍事計画が重なって、
幕府が慶賀使の延期を命じたのではなかったか。
一O月二五日、徳川慶福改め家茂が一四代将軍を襲職した。『大和江御使者記』の一八五九(安政六)年条によると、
国頭王子正秀が島津茂久(忠義、斉彬の弟久光の子)
の家督相続(一八五八年一
二月二八日)を祝う使者として鹿児
島に派遣されている。国頭王子はほかに、「紀伊宰相様御養君被ニ仰出一、
上様与可レ奉レ称旨被一一仰出一候付、江戸江御
祝儀為レ可レ被ニ仰上
一、当夏鹿児島迄之御使者」も兼ねていた。鹿児島到着は六月一五日である。国頭王子は徳川慶
福の将軍継嗣を祝う鹿児島までの使者(江戸へは薩摩藩が取り次ぐ)として琉球をたったが、そのときにはすでに琉
球側に、一四代将軍の代替わりを祝う慶賀使を一八六二(文久二)年に召し連れるニとが命じられていた。「柳姓家譜」
の八世康兼の項に、「成豊九年五月、成年朝廷江戸への遺使の届下に因り、密に王命を奉じ旅方蔵役として充り、翌
申年四月に至りて現に王命を奉じて其の役に充り座敷位に擢す。以て酉年薩州に赴く準備をな持」と記されている。
成豊九年は一八五九年、成年は
一八六二年である。
家議資料(四)那覇・泊系』所収の
「柳姓家譜」の重要な事実は、「成年朝廷江戸への遺使の届下に因り」という記述である。この文言は、『那覇市史
A
甜)
「因三下届成年朝廷要遣ニ使子江戸一」とある。
「柳姓家譜L
八世康兼の項には、
これを、『那覇市史
かかい
「下届」は「次の」という意味である。そうするとここの意味は、次の成年、
家譜資料(一)』は「要」の一字を省いて読み下している。要は「かならず」と読む。また、
一八六二年に朝廷すなわち首里王府は
かならず江戸に使いを派遣せよとの通達が薩摩藩からあったので、ということになる。
一八六二年というと、島津忠
義の実父島津久光が率兵上京、勅使大原重徳をいただいて江戸に下り、幕政改革を行っている。これは斉彬の「一大
策」が実行に移されたことを意味している。斉彬は、七月
一六日、「琉球人ノ事ハ宰相様
(斉興様)江伺候テ、ヨロ
(担)
シキ様ニ忠孝ニ有ルト恩へト(京都ヨリ御召ノコトナラムト)」と遺言して亡くなっている。薩摩藩は、斉彬の意思、
言い換えると「一大策」を実現するために、
一八六二年に慶賀使を派遣するよう琉球に命じたときから、斉彬の遺言
に従って琉球使節を京都の朝廷のために役だてる、琉球使節の軍事的利用を考えていたのではないか。
一八六
O(万延一)年四月、王府は康兼を旅方蔵役に任命した。そして、翌年慶賀使が薩摩に上国し江戸へ赴くた
めの準備が進められていったもようである。ところが、「柳姓家盛岡」康兼の項は続けて、「申年六月に致り薩州の愈令
を蒙り年期を寛延せしめ、遂に江戸への遺使を拝めて薩州に致らず」と記し、慶賀使の延期を命じる薩摩藩からの通
{却)
逮を、左記のとおり掲載している。
来々成年、琉球人被二召連一被レ遊二御参府一候様被一一仰渡置一候処、御国事多端の折柄に付御差延被レ成候、追而参
府比合の儀者被-一仰出一候段、御老中久世大和守様より被一一仰渡-候段申来候、此旨中山王御承知有レ之、御請被-一
考
申出一候様可ニ申越一旨琉球館聞役江可二申渡-候、
申六月
(島津久福)
伯
香
論頭
一四代将軍の代替わりを祝う慶賀使が延期されるに至った事情はこうである。斉彬の跡を継いで二九代目の家督を
巻
相続した島津忠義は、一八六O(万延一)年三月二二日、参勤交代のため鹿児島を出発した。同二三日筑後国松崎(福
五
一・六
岡県小郡市)に至ったとき、大老井伊直弼が暗殺された
(桜田門外の変)との知らせを受けた。ただちに忠義は、病
気(関節炎)を理由に参勤交代を中止して鹿児島に帰った(関三月二日帰着)。そして、五月三日、幕府に一八六二(文
久二)年の慶賀使の延期を願い出た(後掲)。それに対して同六日、幕府は老中久世大和守広周宅において、島津忠
義の家来に、
(島津忠義)
松平修理大夫へ
御代替ニ付、来々成年琉球人参府之義、御国事多端之折柄ニ付御差延被レ成候、追テ参府頃合之義ハ可二相達一候、
と、「国事多端」を理由に、慶賀使の延期を申し渡した。それを受けて薩摩藩は六月、家老島津伯香久福が、慶賀使
の延期を関係する各方面に通達した。「柳姓家譜」に記された通達は、その一つであった。島津久福の通選に、『忠義
公史料』は、
流人参府御猶予ハ当時天下多事ナルニ依リ、幕府モ慶賀ノ使札ヲ受ルニ暇ナク、本藩ニ於テハ今春井伊家遭難ノ
事ニ関シ、御途中筑後松崎駅ヨリ御病気ノ御申取リヲ以テ御引返シ、御帰国等非常ノ事ナリシ故、中山王賀慶使
参府ノ御猶予アランコトヲ懇願セラレシニ、本書ノ知ク開届ケラレタリ、
と、桜田門外の変
(井伊直弼の暗殺に加わった浪士
一八名のなかに一人薩摩藩の脱藩士有村次左衛門兼清がいた)が
護摩藩が慶賀使の延期を願い出た理由であった、と解説している。しかしそうした理由で、はたして二年先の慶賀使
が延期されるだろうか。上述した薩摩藩の、
一八六二年の慶賀使への取り組み方をみると、事前に幕府から延期を命
じる指図があったのではないか。
日琉関係の公然化と琉球使節
一八六
O(万延一)年五月一一一日、薩摩藩が幕府に対し慶賀使の延期を願い出たときの理由は次のとおりであっ問。
御代替ニ付、為ニ御祝儀-来々成年琉球人召連参府之義、伺之通被-一仰渡置-候、然ル処当時外夷多人数御府内へ
入込居候折柄ニ候得ハ、内実唐国へ之響合等懸念之次第モ御座候段申遺候得共、此節ハ御祝儀之使節ニモ候得ハ、
御猶予等何分奉レ願兼候次第二御座候、知何取計可レ然哉、此段無二急度一御内慮奉レ伺候、以上、
(烏津忠義)
松平修理大夫内
筑右衛門
五月三日
西
覚
御代替ニ付、琉球人召連参府之儀ニ付内意申立候趣、無レ拠筋ニ付唐国ヘ響合等之場合、琉球国ヨリ何レトカ唐
の固覚ヘ害 及は示薩歩摩 、
藩表が立幕 参
府 長に致
ユ〆四差代支将鉦1ft レ
の之代様替取わ計
2模祝 様つ泡臨々貢申使聞の'w史
派様遺可を斗
戸長ド事出たときの願書
添え
られてし、
た文
言であったと思われる。伺書の中の「然ル処当時:::申遺候得共」の文言は、薩摩藩が慶賀使の派遣を願い出たとき
にもっとも懸念したことで、覚書はその場合の対策を幕府に説明している。
考
「当時外夷多人数御府内へ入込居候折柄」というのは、
一八五八(安政五)年に幕府がアメリカ
・オランダ・ロ
シ
論
ア・イギリス・フランスといわゆる安政五ヵ国条約を調印し、翌年五月イギリス・アメリカが、続いて八月フランス
頭巻が江戸(御府内)に駐日公使館を開設して、外国人が多数江戸に滞在するようになったことを指している。次に「内
実唐国へ之響合等懸念之次第モ御座候」というのは、外国人が滞在する江戸に、琉球使節が江戸上りを行った場合、
七
J¥
外国人を通じて、これまで中国・清朝に対して内密にしてきた日本の琉球支配という事実が露見する恐れがあり、そ
れが懸念されるところである、ということを意味している。覚書は、そうした場合、琉球に中国と交渉させ、公然と
江戸上りができるようにする、と薩摩藩が幕府に対してその実現を保証したのである。
ここからわかることは、これまで日本が中国に対してとってきた日琉関係の隠蔽政策が、いま琉球使節の江戸上り
にとって障害になっている、そのため、それを公然と行うために、日流関係の公然化が企てられていることである。
明朝に対しては、ことさら日琉関係を隠蔽する必要はなかった。ところが清朝の時代になって、とくに清が三藩の
乱(一六七三l八一年)を平定して中国支配を確立したころから、薩摩藩の隠蔽政策が現れてく刻。それは、
一六八
三(天和三)年に尚貞を琉球国中山王に冊封する清の冊封使が渡来したとき、薩摩務の役人と船頭が宝島人と偽称し
て冊封使と対面したことから始まった。次回一七一九(享保四)年の尚敬冊封のとき、宝島人と冊封使の対面は禁止
され、隠蔽政策が確立した。
一七二五(享保一
O)年に察温が改訂した『中山世譜』に、「度佳酬との通交」を主張
する論理が初めて登場するが、それはそのことを反映している。宝島・度佳刷は七島のことである。日琉関係の隠蔽
は、日本の「鎖国」体制の安定にとって中国の存在が重要な役割を果たしていたから、日本の琉球支配が日中間の紛
A
畠}
争の火種になることを避けるための政策であった。以後幕末に至るまで、
冊封使が琉球に渡来すると、その滞在中、
琉球在番奉行以下の薩摩藩の役人たちは城間村
(浦添市)に引き篭もり、琉球は中国側の質問に対してあれは七島人
であると答えて追及をかわした。七島(度佳剛)
は中国に対して日琉関係を隠蔽するためのキーワードであった。
日琉関係の隠蔽政策が琉球使節の江戸上りにと
って障害であったことは、
一八五
O(嘉永三)年の謝恩使の場合に
一八四七(弘化四)年に国王尚育が亡くなった。翌一八四八
{ua}
訴える使者摩文仁按司朝健が薩摩に上回し、同年、尚泰が即位した。よって先例どおり、薩摩藩は、琉球国王が徳川
よく表れている。
(嘉永一
)年
一月、尚泰の王位継承を
将軍に対して襲封を感謝する謝恩使の派遣を企てた。このとき、島津斉彬は腹心の山口定救に宛てた同年三月二九日
付の害状に、
一琉江又異船も参り候よし、弥之事ニ候ゃ、委しく承り札シ可二申遺一候、又滞留異人在番所江参り、漸々作大夫
等も忍ひ候よし、是又委敷可ニ申遺一、最早追々時節ニ相成候問、篤と承り札シ細事可ニ申遺一候、
呉々極秘ニ
可レ致候、
一来々年琉人之事弥と存候、しかし異人次第追々根深く相成候ハ、、六ケしきもの御座候、
と、琉球に滞留している外国人(イギリス人のベ
ッテルハイム)が琉球在番奉行所を訪れるので、在番奉行の倉山作
大夫らがだんだん姿を隠すという状況である。もしもこのまま外国人の滞留が長引くようなことがあれば「来々年」
すなわち一八五
O(嘉永三)年の謝恩使の派遣が難しいことになる、という認識を述べている。また、斉彬の同人宛
§
(
二
階堂行健)
五月二九日付の害状には、「二事出立之義、是れは琉球代替使者是非成年ニ被一一仰出
一候様、万一異人滞留中ゆへ延
(島津久宝)
ひ候ては不レ宣旨、豊後も承知ニ御座候、(中略)、琉飛舟も琉よりは成年御断申出候へ共、御手当被レ下候問、是非
と申処ニて、飛舟出候て夫か帰り、琉も御受申出候よし、内々豊後江申遺候もの御座候との事ゆへ、多分其事と存申
候」と、薩摩藩が成年、
一八五
O年の謝恩使派遣にこだわるのに対し、琉球側はそれに難色を示した。そのため薩摩
藩が「御手当」を与えて納得させた(前述した銀人
OO貫目の拝借銀を許したことを指す)ことを述べている。
(却}
考さらに、斉彬は徳川斉昭に宛てた一八五
O年二月二四日付の害状に、
論頭
一琉人参府之事、代替(琉球王襲位謝恩使)
ニ参府仕候御沙汰之事、誠ニ的中恐入奉レ存候、此儀は内実心配仕
巻
候事ニて、色々勘考仕候得共、致かたも無レ之意味ニ御座候、公辺より被二仰出一候訳ニは無二御座一候、滞夷(英
人)中々帰国之様子無一一御座-候、
九
。
と、謝恩使の派遣がイギリス人の滞留とかち合って困っている、このことは内心心配したことであるが仕方がない、
幕府が(謝恩使の)中止を言い出すはずがない、と述べている。
アヘン戦争(一八四
Ol四二年)後、
日本の開国を企図した欧米諸国が琉球を目指して渡航した。
一八四四
(弘化
一)年にフランスの軍艦アルクメlヌ号が来航して通信
・貿易
・布教の三つを要求した。二年後の一八四六年、今度
はイギリスの軍艦スターリング号が来航し、宣教師のベッテルハイム一家を滞留させて引き揚げた。この年はまた、
フランスインドシナ艦隊のサピ
1ヌ号が来航して、先年の要求に対する回答を琉球側に求めている。
薩摩藩と琉球は、琉球外艦渡来事情が、ことにイギリス人の滞留が、
一八五
O(嘉永三)年の謝恩使の実施にとっ
て障害になると考えたのである。要するに、両者はこれまで日本がとってきた日琉関係の隠蔽政策が、イギリスを通
じて中国に露見することを恐れていたのである。
そこで薩摩藩は、公然と琉球使節の江戸上りが行えるように、日琉関係の公然化を模索していった。島津斉彬は、
松平慶永に宛てた一八五四(安政こ年六月三日付の害状に、
(阿部正弘)
阿関へ面会之儀ハ琉国之義ニテ、是迄日本通信、清朝へ対シ押シ隠シニ相成候得共、此節之場合ニテハ打捨置、
異人自侭ニ被レ致候テハ不二相成一候問、此方ヨリ打明ケ、是迄不二申間一候得共、琉国ハ属国ニ相違無レ之訳申開
候方可レ然評議ニ候、弥夫ニテ可レ然哉トノ事ニ御座候、
と、薩摩藩は、琉球が日本と通信の国の関係にあり、日本の属国であることを外国に明らかにする決定をした、と述
(白同律斉彬)
べている。これに先立つ五月一一一一日、「公卯ノ上刻、阿部侯ノ官邸ニ臨ム、正弘公ニ問フニ、若シ米人琉球日本領属
否ヤヲ問ハ、、其答弁如何、或ハ江戸其他防海ノ策ヲ懇問ス、公ハ帰邸直ニ筆ヲ執リ、外国処分且ツ琉球ニ於テノ対
策ヲ記サ純」と、斉彬は老中阿部正弘から、アメリカ人に日琉関係を問われたらどのように説明するのかと問われて
いる。また、斉彬が烏津久光に宛てた同二九日付の書拠に、「琉球も是迄日本服従内々に候得共、此節之場合にては
(阿部正弘)
夫にては相済問敷との事、辰より相談も有レ之候」とある。日琉関係の公然化は、日米和親条約の調印(一八五四年
一一一月一一一日)を契機に、阿部正弘すなわち幕府が指示したことだったのである。
薩摩藩に「琉球国是迄押包来候日本随従ニ而和人在番等之内実唐江打明ニ付願意之考草案」と題する史料がある。
(ママ)
これは中国に対して日琉関係を公然化することを意図している。この草案は年不詳であるが、その中に「去ル年以
来仏英等之異国船毎々渡来、剰英人致二滞留一難レ及レ手事共者追々奉レ訴通御座候」と、琉球外艦渡来事件なかんずく
ベッテルハイム滞留(一八四六l五四年)
のことに言及しているので、作成年代は、日琉関係の公然化が決定された
ころと考えられる。草案によると、護摩藩は、「昔年尚寧以来尚貞杯代明朝御処置之通、和人茂不レ及一一差控ニ
一、応
接向等何篇出会相互礼儀を本ニ/、不正之事共無レ之様、諸下知有レ之方、此上者可レ被レ宜与存訳御座候付、是迄之
多罪御恩赦被一一仰付一、何卒御寛優之一一筋を以、右体之仕向替宜様被二関召置一被レ下度奉レ願候、尤於ニ其通-者、康配…
初年之旧例ニ挽回シ進貢物調達彼此之便利万端行届」と、「康配…初年之旧例」すなわち二ハ六三(康照二)年の尚質
冊封のとき日本人が冊封使と対面を行っていた状態に引き戻すことを考えていた。しかし、中国と日琉関係の公然化
が交渉された形跡はない。
ところで、伊地知季安が文政頃(一八一八l三O年)
から編纂を始めた『薩藩旧記雑録』は、琉球関係文書の出所
考を「正文在
ニ琉球国司文庫一」と記している。薩摩藩は二ハ三五(寛永三乙年以降、尚氏に対し中国の皇帝から与
(柑)
論えられた「琉球国中山王」の称号をとどめて「琉球国司」号を称させた。それは、薩摩藩に従属する琉球国王である
頭巻
ことを尚氏に強く自覚させるための称号であった。しかし、日琉関係の隠蔽政策が進捗していく過程で、尚氏は一七
一一一(正徳二)年、琉球国司号からふたたび中山王号を称することが許された。それが、幕末、琉球国司の文言が持
ち出されてきたということは、日琉関係の公然化の動きに呼応して、薩摩藩に尚氏を「琉球団司」とみなす政治意識
が復活していたということを意味する。国司号には朝廷の政治的な台頭と呼応する意識はなかったか。
おわりに
以上、
一一一、
一四代将軍の代替わりを祝う慶賀使の計画とその延期について述べた。幕末開国期の琉球使節を通じ
でわかることは、第一に、薩摩藩が朝廷すなわち天皇を擁護して幕政改革を企てるさい、琉球使節を箪事的に利用す
るため、京都に召し連れようとしていたことである。琉球使節は、幕末、朝廷と琉球を結びつける契機をはらんでい
た。その意味するところを現在の私は明らかにすることができないが、そこに幕府が琉球使節を無用とした原因があ
るように思う。第二に、中国に対する日琉関係の隠蔽政策が、琉球外艦渡来事件を契機に、琉球使節の江戸上りにとっ
て障害になってきた、そのため薩摩藩は、日琉関係を公然化、すなわち琉球が日本の属国であることを明確にしたう
えで、公然と琉球使節の江戸上りを行うことを考えていたことである。日琉関係の公然化の動きに呼応して、薩摩藩
に尚氏を「琉球国司」とみなす政治意識が復活してきた。
琉球使節を京都
(朝廷)まで召し連れる動きと、日流関係の公然化H
「琉球国司」
意識の復活というこ
つの問題は、
おそらくやがて
一点で交差する。明治政府、
言い換えると近代天皇制国家が、琉球国を廃して琉球藩とし、琉球国王
尚泰を琉球藩王に冊封した、琉球を日本の藩堺とするための一八七二
(明治五)年の維新慶賀使は、その帰結である。
このように、私は琉球使節の解体後を見通すが、具体的な究明はこれからの課題である。
考論頭巻
〔注〕(1)
第一書房。後掲する引用文は一九i二O頁。
(2)
『七隈』第二五号(福岡大学歴史研究部。拙著『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房、
一九九
O年、に再録)。
(3)
東京大学史料編纂所所蔵。注
(2)の拙稿でとりあげた。とくに断らないかぎり、史料は『江戸立ニ付仰渡
留』による。
(4)
斉彬公史料第二巻』
一号。以下、『鹿児島県史料』からの引用は、『斉彬公史料』二|一号
『鹿児島県史料
のごとく略記する。
(5)
注
(4)参照。
(6)
「照国公日記」(『斉彬公史料』四)安政一年一月一日条。
(7)
「照固公日記」安政一年一月一一一一日条。
(8)
「順聖公御事蹟並年譜」(『斉彬公史料』四)。
(9)
『大和江御使者記』(東京大学史料編纂所所蔵)成豊八年条。
(叩)
一九七六年)五五四頁。
『那覇市史
家譜資料(一)』資料篇第1巻5
(那覇市役所、
(日)
家譜資料(一)』五六六頁。
『那覇市史
(ロ)
『那覇市史
家譜資料(一)』五六五頁。
(日)
「竪山利武公用控」(『斉彬公史料』四)安政一年七月二四日条に「琉球拝借銀八貫目年延し之伺書面壱通」
とあるが、『大和江御使者記』道光二八、成豊八年条によって銀八
OO貫目とした。
(H)
注(叩)参照。
(日)
(日)
(口)(日)
「竪山利武公用控」安政一年八月一一一日条。
「竪山利武公用控」安政二年一
O月二四、二五日条。
四
一九八九年一一月二五日、鹿児烏大学で開催された南島史学会大会のとき展覧された。
『大和江御使者記』成豊八年条に、「最初伊是名親方江被一一仰付置一候処、三司官御役被ニ仰出-候付、小禄親
(印)
方江被一一仰付置一候処、小禄親方ニ茂右御役被一一仰出一候付、与那原親方江被一一仰付一候」とある。
「安政録」(『野史台維新史料叢書』一一八、東京大学出版会、
一九七三年覆刻)一一一四頁。
(却)
(紅)
(詑)
(お)
(但)
(お)
(お)
(幻)
(お)
(却)
(却)
(訂)
『斉彬公史料』一一一ーー三八八号。
『斉彬公史料』三|二四八号。
『斉彬公史料』一一一ーl三九九号。
注(幻)参照。
『斉彬公史料』一一|四七五号。
注(幻)参照。
『斉彬公史料』一一|五七八号。
注(日)参照。
『那覇市史
{ゑ譜資料(四)那覇・泊系』資料篇第1巻8
『斉彬公史料』三|一一一一一六号。
注(日)参照。
『忠義公史料』
一ー一八四号。
(那覇市役所、
一九八三年)七八七頁。
(泣)
(お)
(鈍)
(お)
(お)
(訂)
(犯)
(却)
(的)
(担)
(位)
考
(必)
論
(叫)
頭巻
(日)
『忠義公史料』
一|二
O七号。
注(泊)参照。
日琉関係の隠蔽政策については、注
(2)にあげた拙著第三部「明清交替と琉球支配」を参照して欲しい。
一九八九年一一月九日、シンガポール国立大学日本研究学科主催の日本研究会議で、「九州の国際関係鎖
国と東アジア|」と題し、発表した(報告書刊行予定)。
『大和江御使者記』道光二七年条。
『斉彬公史料』
一三七八号。
『斉彬公史料』
一ll一一一七九号。
『斉彬公史料』
一ー一一一一号。
上原兼善「天保十五
i弘化三年の沖縄への外艦来航と薩摩藩|調所笑左衛門の動きを中心に|」(『南島史
"'"、、旨岡
富村真演教授還暦記念論文集』琉球大学史学会、
一九七二年)
島尻克美「幕末期における琉球王府の異
国船対策|仏艦来航事件を中心に」(『琉球・沖縄ーその歴史と日本史像』雄山関、
一九八七年)を参照。
『斉彬公史料』一一|二三九号。
『斉彬公史料』一一-|一号。
『斉彬公史料』一一一|五五三号。
伊地知季安『琉球御掛衆愚按之覚』(東京大学史料編纂所所蔵)。
琉球国司については、注
(2)にあげた拙著第二部第三章「琉球国司考」を参照して欲しい。
二五
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