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改革派認識論と悪の論理的問題 Reformed Epistemology and the Logical Problem of Evil 三宅威仁 Takehito Miyake キーワード 改革派認識論、神義論、アルヴィン・プランティンガ、古典的基礎付け主義、証拠主 義、ディフィーター、悪の論理的問題、ジョン・マッキー、自由意志による弁護論、 可能世界、貫世界的堕落 KEY WORDS: Reformed epistemology, theodicy, Alvin Plantinga, classical foundationalism, evidentialism, defeater, logical problem of evil, John Mackie, Free Will Defense, possible world, transworld depravity 要旨 改革派認識論は有神論的信念がキリスト者にとって適正に基本的であり、如何なる 証拠によって基礎付けられていなくとも合理的であると主張する。そうした有神論に 対して、この世界における悪の存在を根拠として投げ掛けられる疑義に答えるため、 プランティンガらは「自由意志による弁護論」を展開した。自由意志による弁護論の 核心は「道徳上の悪を含んだ世界を創造することなしに、道徳上の善を含んだ世界を 創造することは、神の力の及ぶ範囲内にはなかった」という主張が可能であると示す ことにある。改革派認識論が「神義論」と「弁護論」を峻別し、悪の存在は全知全能 で善なる神の存在と論理的に矛盾するものではないことを論証した点は評価できるが、 その有効性は様々な前提を受け入れることに懸かっているとも言える。 31 改革派認識論と悪の論理的問題

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改革派認識論と悪の論理的問題Reformed Epistemology and the Logical Problem

of Evil

三 宅 威 仁Takehito Miyake

キーワード

改革派認識論、神義論、アルヴィン・プランティンガ、古典的基礎付け主義、証拠主

義、ディフィーター、悪の論理的問題、ジョン・マッキー、自由意志による弁護論、

可能世界、貫世界的堕落

KEY WORDS:

Reformed epistemology, theodicy, Alvin Plantinga, classical foundationalism,

evidentialism,defeater,logical problem of evil,John Mackie,Free Will Defense,possible

world,transworld depravity

要旨

改革派認識論は有神論的信念がキリスト者にとって適正に基本的であり、如何なる

証拠によって基礎付けられていなくとも合理的であると主張する。そうした有神論に

対して、この世界における悪の存在を根拠として投げ掛けられる疑義に答えるため、

プランティンガらは「自由意志による弁護論」を展開した。自由意志による弁護論の

核心は「道徳上の悪を含んだ世界を創造することなしに、道徳上の善を含んだ世界を

創造することは、神の力の及ぶ範囲内にはなかった」という主張が可能であると示す

ことにある。改革派認識論が「神義論」と「弁護論」を峻別し、悪の存在は全知全能

で善なる神の存在と論理的に矛盾するものではないことを論証した点は評価できるが、

その有効性は様々な前提を受け入れることに懸かっているとも言える。

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改革派認識論と悪の論理的問題

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SUMMARY

Reformed epistemology maintains that for Christians theistic beliefs are properly basic

and rational without any evidential foundation.To defend theism against challenges based

on the existence of evil in this world Plantinga, the foremost Reformed epistemologist,

employs Free Will Defense.The main thrust of the Free Will Defense is to show that it

is possible that“it was not within God’s power to create a world containing moral good

but no moral evil.”Reformed epistemology should be given a positive recognition for the

fact that it clearly distinguishes between“theodicy”and“defense”and that it has shown

that the existence of evil is not logically incompatible with God’s omnipotence and good-

ness. It can be said, however, that the validity of its argument rests on whether or not

one is willing to accept divers assumptions it postulates.

神義論への恰好の入門書としてアメリカ合衆国において定評のあるStephen T.

Davis (ed.), Encountering Evil: Live Options in Theodicy が『神は悪の問題に答えら

れるか 神義論をめぐる五つの答え』という邦題の下に翻訳・出版され、版を重

ねている。この書にはロス(John K.Roth)の主張する「抗議の神義論」(theodicy of

protest)もしくは「反神義論」(antitheodicy)、ヒック(John Hick)の「エイレナイ

オス型神義論」(Irenaean theodicy)、デイヴィス(Stephen T.Davis)の「自由意志に

よる弁護論」(Free Will Defense)、グリフィン(David Ray Griffin)の「プロセス神

学の神義論」(process theodicy)、フィリップス(D.Z.Phillips)の「神義論なしの有

神論」(theism without theodicy)が、そしてこれら5者による相互批判と、さらには

カブ(John B.Cobb Jr.)、アダムズ(Marilyn McCord Adams)、ソンタグ(Frederick

Sontag)の3者による後記も掲載され、有神論と悪の問題を巡る様々な立場を概観す

ることができる(ちなみに、「アウシュヴィッツ」と「ホロコースト」は呪文のよう

に繰り返し唱えられるのに、「ヒロシマ」と「原子爆弾」は言及されないなど、英米

の研究者の偏見も垣間見ることができる)。このうちデイヴィスは、プランティンガ

(Alvin C.Plantinga、1932―)によって構築された「自由意志による弁護論」に全面

的に依拠している。しかし、残念ながらこの書においては、プランティンガやウォル

ターストーフ(Nicholas Wolterstorff、1932―)やオールストン(William P.Alston、

1921―) らがこの20年間にわたって推進し、アメリカにおいて多くの議論を呼び起

こしてきた「改革派認識論」(Reformed epistemology)については殆ど論じられてい

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ない。だが、改革派認識論は自由意志による弁護論の背景を成すものであり、神義論

を巡る改革派認識論の立場を知ることは、自由意志による弁護論を理解するためにも、

さらには広く近年の英語圏における神義論を巡る議論の全体像を把握するうえでも不

可欠であろう。

また、この世界における悪の存在はキリスト教信仰に対する挑戦となり兼ねないの

で、神義論の問題は、有神論の合理的受容可能性の弁護を目指す改革派認識論にとっ

て避けて通ることのできない課題である。そこで、改革派認識論と神義論の関係につ

いて問うことは、改革派認識論そのものを理解するためにも必要である。

こうして、神義論から研究を始めても、改革派認識論から考察を進めても、やがて

両者の関係を問わざるを得ないことになる。

ところで、一口に「悪の問題」と言っても、その取り扱い方には様々なレベルが考

えられる。不治の病に罹った人や突然の災害に見舞われた人が、なぜ他ならぬ私がこ

のような苦しみに遭わなければならないのかと問うような場合、その人は「悪の実存

的問題」に苦しんでいると言えよう。また、そのような苦難に直面している人々を慰

め励ます立場にある聖職者は「悪の牧会的問題」を抱えていると言ってよい。しかし、

キリスト教の合理的受容可能性の擁衛を目的とする改革派認識論が取り上げるのは、

そうした深刻な問題ではなく、あくまで認識論的な問題、つまりまず「悪の論理的

(logical)問題」であり、次に「悪の証拠的╱確率論的(evidential/probabilistic)問

題」であり、さらに「悪の非議論的(nonargumentative)問題」である。

「悪の論理的問題」とは、「キリスト者は『神は全知全能である』や『神は絶対善で

ある』といった一連の命題を真であると信じているが、その中の幾つかの命題は『こ

の世界に悪が存在する』という命題と矛盾しており、論理的に共立不可能(incompat-

ible)である。従って、キリスト教の諸信念は整合性(consistency)に欠け、それら

を信ずることは非合理的(irrational)である」という挑戦である。「悪の証拠的╱確

率論的問題」とは、「この世界に悪が存在するという事実および悪の質・量は、有神

論にとって不利な証拠となり、キリスト教の諸信念の真である確率を著しく減ずる」

という批判である。「悪の非議論的問題」とは、「この世界における悪の存在は、キリ

スト教の諸信念を反証する論理的な或いは証拠的╱確率論的な議論とはなり得ないか

も知れないが、有神論的信念を基本的・直接的に打ち砕くものである」という主張で

ある。

そこで、神義論と改革派認識論の関係について理解するためには、こうした様々な

レベルにおける悪の問題を一つひとつ取り上げ、その各々に対する改革派認識論の応

答を調べる必要がある。しかし、紙幅の制約もあり、本論では「悪の論理的問題」の

みを取り上げ、「悪の証拠的╱確率論的問題」や「悪の非議論的問題」については稿

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改革派認識論と悪の論理的問題

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を改めて論じたい。従って、本論では、まず(1a)改革派認識論の基本的主張を略述し、

(1b)なぜ悪の存在が改革派認識論にとって重大な問題となるのかを解明する。次に

(2a)この世界における悪の存在を根拠として有神論に対して提起される疑義のうち

「論理的問題」を紹介し、(2b)悪の論理的問題に対する改革派認識論の応答、即ち自

由意志による弁護論を考察し、(2c)自由意志による弁護論の問題点を検討する。

1-a. 改革派認識論(Reformed epistemology)

私は先に著した論文 において、改革派認識論の中心思想について論述した。なぜ

改革派認識論が悪の問題に執拗にこだわるのかを理解するために、その主要点を今一

度ここで確認したい。

改革派認識論は、アメリカ合衆国に移入された「オランダ新カルヴァン主義運動」

(Dutch neo-Calvinist movement)を母体とし、「古典的基礎付け主義」(classical foun-

dationalism)および「証拠主義」(evidentialism)を論駁する意図をもって登場した。

オランダ新カルヴァン主義運動を母体とする改革派認識論の根底には、信仰の内容を

理性の光に照らして吟味する従来の宗教哲学とは反対に、(改革派の)信仰は堅持し

たまま、他のあらゆる事象を信仰の内容と整合するように説明しようとする衝動があ

る。そうした護教的な衝動に駆り立てられてプランティンガやウォルターストーフら

は、有神論に挑戦する証拠主義や古典的基礎付け主義を論敵とみなし、それらに対抗

する認識論を構築したのであった。

証拠主義によれば、「信念」(belief)の確かさはその信念を支持する証拠の堅固さ

に比例し、証拠によって基礎付けられていない信念を抱くのは合理的ではないとされ

る。有神論的信念を抱く場合も、即ち「神は存在する」と主張するためにも、この

「命題」(proposition)が証拠によって支持されている必要がある。そのため、有神論

的証拠主義者は数多くの「神の存在証明」を考案してきたが、無神論的証拠主義者は

この命題を基礎付ける証拠は見出せないと考える。

プランティンガやウォルターストーフら改革派認識論者は、有神論にせよ無神論に

せよ証拠主義的な主張がなされる背景には古典的基礎付け主義があるとみなす。古典

的基礎付け主義は、信念、即ち人間の信ずる命題には2種類あると考える(この点に

関しては改革派認識論も同意する)。他の命題に基づいて(他の命題を証拠として)

信ぜられている命題と、他の如何なる命題にも基づかずに端的にそれ自体で信ぜられ

ている命題である。後者のような信念のことを、プランティンガは「基本的信念」

(basic belief)と、ウォルターストーフは「直接的信念」(immediate belief)と呼ぶ 。

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基督教研究 第67巻 第2号

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古典的基礎付け主義によれば、「命題pが主体Sにとって適正に基本的であるのは、

pが Sにとって自明であるか、Sにとって訂正不可能であるか、Sの感覚にとって明

らかな場合であり、かつその場合に限る」 。従って、信念が合理的であるのは、そ

の信念がこうした適正に基本的な信念であるか、適正に基本的な信念によって証拠付

けられている場合のみである。古典的基礎付け主義者によれば、「神は存在する」と

いう命題は、自明でも訂正不可能でも感覚にとって明らかでもなく、従って適正に基

本的とはみなされ得ない。

それに対し、改革派認識論者は適正に基本的・直接的な信念を得るために、古典的

基礎付け主義者の規準にこだわる必要はないと考える。そして、キリスト者にとって

は(即ち、予めキリスト教信仰を抱いている者にとっては)神の存在への信念も適正

に基本的であるとみなす。厳密に言えば、「神は存在する」という命題そのものが基

本的・直接的なのではなく、キリスト者は日々の生活において「神は私に語り掛けて

いる」「神は万物を創造された」「神は私のしたことを非とされる」「神は私を赦され

る」「神は誉め称えられるべきである」といった信念を抱く。こうした信念は他の命

題から導き出されたり証拠付けられたりしておらず、キリスト者が直接的に経験する

ものであり、適正に基本的であると考えられる。そして、こうした信念には必然的に

「神は存在する」という命題が含意されているのである 。

1-b. ディフィーター(defeater)

改革派認識論者は、或る主体によって基本的・直接的に抱かれているあらゆる信念

が「適正」(proper)だと主張するのではない。実は、適正に基本的・直接的として

抱かれている信念、また直接的・基本的な信念に基礎付けられている信念も、すべて

「暫定的」(prima facie、「一見したところでは」「第一印象では」を意味するラテン

語)という性格を有している。つまり、その信念が真であると信ぜられているのは、

その適正性を打ち破るような「条件」(condition)が現れない限りにおいてである。

この信念の適正さを打ち破る条件のことをプランティンガはポロック(John L.

Pollock)の用語を借りて「ディフィーター」(defeater)と呼ぶ 。

プランティンガの用いている(奇妙な)例を挙げれば、もし「私」が「樹木論理障

害」という病気に罹っていて、眼前に木のないときに限って木が見えるとする。「私」

が自分が病気であることを知らなければ、「私は木を見ている」という命題は「私」

にとって適正に基本的である。しかし、「私」が自分の病気を知っていれば、眼前に

木が見えるときに「私は木を見ている」という命題を適正に基本的な信念として抱く

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改革派認識論と悪の論理的問題

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権利は「私」にはない。この場合、「樹木論理障害」という病気の自覚は、その自覚

がなければ適正に基本的とみなしてよい信念を打ち破る条件となっている。こうした

条件が「ディフィーター」と呼ばれる 。

プランティンガの用いている上記の例は分かりにくいので、別の例を挙げてみよう。

例えば、「私」が友人宅を訪問すると、窓からピアノの音が聞こえてくる。友人宅に

ピアノがあり、かつ友人がピアノを弾けるということを知っている「私」は、「友人

がピアノを弾いている」という信念を基本的・直接的に抱く。ところが室内に入って

みると、「私」は友人がステレオ・セットでピアノ曲のCDを聞いているのを目撃す

る。この経験は「友人がピアノを弾いている」という信念に対するディフィーターと

して働く。「私」が依然としてこの信念を持ち続けるとすれば、「私」は非合理的・非

理性的であることになってしまう。「私」にとって合理的なのは、この信念を捨て去

り、「友人はCDを聞いている」という新たな信念を持つことである。このように、

或る主体Sが命題pを「暫定的に」真であると信じているとき、その信念を覆すよ

うな条件が「ディフィーター」である(ディフィーターとは、この例のように、信念

の誤りを「証明」する「理論」である必要はなく、直接的な経験でも構わないので、

「反証」や「反駁」といった訳語は当て嵌まらない。適切な訳語を思い付かないので、

「ディフィーター」と記しておく)。

これまでに何度も指摘したように、改革派認識論が自らの使命としたのは、有神論

的信念(特に福音主義的キリスト教信仰)の認識論的合理性を弁護することであった。

それ故、改革派認識論は、有神論的信念に対してディフィーターとなり兼ねない問題

点の一つひとつに答えていかなければならないのである。一見したところキリスト教

信仰に対するディフィーターででもあるかのように思われる問題点としてプランティ

ンガが挙げているのは、例えば、聖書の歴史批判的研究(historical biblical criticism)、

ポストモダニズム(postmodernism)、宗教的多元主義(religious pluralism)などであ

るが 、何と言ってもこの世界における悪や苦難の存在がディフィーターの第一の候

補であろう(ちなみに、こうしたディフィーターを取り上げて吟味し、もし本当に有

効なディフィーターであれば、自らの有神論的信念を捨て去る覚悟ができているとい

う点で、改革派認識論は頑なな教条主義〔dogmatism〕や信仰至上主義〔fideism〕と

は異なっている)。

繰り返し述べたように、改革派認識論者は「神は存在する」「神は全知全能である」

「神は善である」といった命題を、如何なる証拠にもよらず、適正に基本的・直接的

な信念として抱いている。しかし、この世界に悪が存在するという事実がそうした有

神論的信念に対するディフィーターとして働くのであれば、彼らは神への信仰を持ち

続ける権利を奪われてしまう。そうしたディフィーターがありながら有神論を抱き続

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けるのは非合理的・非理性的なことになる。それ故、改革派認識論者はこの世界にお

ける悪の存在が神の存在や性質と矛盾するものではないことを示さなければならない。

これが、改革派認識論が悪の問題を取り上げざるを得ない所以である。改革派認識論

はこの難問に、「神義論」(theodicy)と「弁護論」(defense)を峻別することによっ

て、またアウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354―430)に由来する「自由意志

による弁護論」(Free Will Defense)をもって答えようとする。

「神義論」と「弁護論」の違いは何であろうか。“Theodicy”という語の原義に忠実

に表現すれば、この世界に悪が存在するにも拘らず神が義であることを弁明するのが

「神義論」であるが、その際、神義論は神の創造した世界に悪が存在する真の理由を

説明しようとする。それに対し、「弁護論」には、神が悪の存在を容認している真の

理由が何であるかを説き明かす必要は全くない。弁護論は、この世界に悪が存在する

にも拘らず、有神論的信念を抱き続けることは合理的であること、即ち認識論上の過

誤を犯していないということだけを指摘すればよいのである。従って、神義論は「神

がこの世界に悪の実在を許諾しているのは……の理由である」という議論になり、弁

護論は「確かに悪は実在するが、……と仮定すれば(その仮説が現実に合致している

という意味で真であるかどうかは分からないが)、有神論的信念を持ち続け得る」と

いう語り方になる。

これまでに論じてきたように、改革派認識論の目的は、有神論的信念を抱くことが

認識論的に合理的であることを弁護することにある。それ故、神義論を構築するとい

った大それた望みを抱くのではなく、弁護論を展開するという控え目な試みをなすわ

けである。悪の存在はキリスト教信仰にとってディフィーターとはならないというこ

とだけを示せばよいのである。

2-a. 悪の論理的問題(The Logical Problem of Evil)

二つ以上の命題が共に真であることが論理的に不可能な場合、それらの命題は共立

不可能であり、それらを共に真であると信じるのは論理的な過誤を犯すことになる。

「悪の論理的問題」とは「有神論者は一連の命題を真であると信じているが、その中

の幾つかの命題は『悪が存在する』という命題と論理的に共立不可能である。従って、

有神論は虚偽であり、それを信ずることは非合理的である」という攻撃のことである。

些か時代遅れになってしまったが、最も有名なマッキー(John Mackie、1917―1981)

の理論 を、かなり簡略化して紹介してみよう。

マッキーは

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改革派認識論と悪の論理的問題

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(命題1)神は全能(omnipotent)である。

(命題2)神は全善(wholly good)である。

(命題3)悪が存在する。

という三つの命題が同時に真であることは論理的に不可能である、と主張する。

しかし、このままの形ではどうして論理的に共立不可能であるのかまだ不明なので、

マッキーは有神論に必然的に含意されていると思われる次のような命題を付け加える。

(命題4)善者は常にできる限り悪を排除しようとする。

(命題5)全能者がなし得ることには限界がない。

(命題4)と(命題5)から

(命題6)全善・全能者は悪を完全に排除する。

が導き出される。

(命題1)(命題2)(命題6)が正しければ、「悪は存在しない」という結論が導かれ

るが、実際には

(命題3)悪が存在する。

それ故、(命題1)(命題2)(命題3)は共立不可能であり、これらを同時に真で

あるとみなしている有神論者は論理的な矛盾を犯していることになる 。

マッキーは、悪の論理的問題を解消するためには、(命題1)(命題2)(命題3)

の少なくとも一つを改変しなければならない、と言う。即ち、「神は全能ではない」

或いは「神は全善ではない」或いは「悪(と思われているもの)は存在しない」と考

えない限り、整合性は得られないというのである 。

2-b. 自由意志による弁護論(Free Will Defense)

このような攻撃に対して有神論者は、全知・全能・全善なる神の存在と悪の存在が

論理的に共立可能であることを論じる必要がある。この課題に対するプランティンガ

の応答を、やはりかなり簡略化した形で見てみよう。彼はこの問題について、比較的

初期の著作である『神と他者の心 神への信仰の合理的正当化についての研究』

(God and Other Minds:A Study of the Rational Justification of Belief in God)や

『神と自由と悪と』(God, Freedom, and Evil)から最近の『保証されたキリスト教信

仰』(Warranted Christian Belief)に至るまで様々な著作において論じている。それ

らの議論の間には若干の相違は見られるものの、大筋には変化がないので、以下の論

述においては微細な相違にはこだわらないことにする 。

さて、プランティンガは上記の(命題4)(命題5)は正しくないと主張する。

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基督教研究 第67巻 第2号

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まず(命題4)について言えば、或る悪い事態がそれを凌駕する善い事態に含まれ

ている場合、即ち或る悪を排除するためにはそれを凌ぐ善をも排除しなければならな

い場合、全善者といえどもその悪を排除しない、と思われる。

また、(命題5)に関して言えば、全能者といえども論理的な矛盾を犯すことはで

きない、と考えられる。例えば四角い円を創造することや「7+5=75」にすること

は全能者にとっても不可能である。それ故、(命題6)も正しくない。正しいのはせ

いぜい

(命題6’)全善・全能者は、論理的な限界内で、より大きな善を排除することなしに

排除できる悪を完全に排除する。

といった命題であろう。

そこで(命題1)(命題2)(命題6’)から導かれるのは

(命題3’)全善・全能者が論理的な限界内でより大きな善を排除することなしに排除

できるような悪は存在しない。

という結論であり、これはこの世界に悪が存在しているという事実と全く矛盾しない。

こうして(命題1)(命題2)(命題3)は論理的に共立不可能であるというマッキ

ーの主張は否定された 。

しかし、ここまでの議論で明らかになったのは、(命題1)(命題2)(命題3)が

非整合的であるとは未だ証明されていない、ということのみである。より積極的に、

(命題1)(命題2)(命題3)が整合的であり得ると示すことは可能であろうか。こ

の課題に対してプランティンガは

(命題1’)神は全知・全能・全善である。

と組み合わせることによって必然的に

(命題3)悪が存在する。

を導き出せるような命題を見出そうとする。そうした命題に成り得る命題としては、

次のようなものが考えられる。

(命題7)神は悪を含む世界を創造し、かつそうすることには十分な理由がある。

(命題1’)と(命題7)を組み合わせることによって必然的に(命題3)が導き出さ

れる。

それでは、(命題7)に述べられている十分な理由、しかるべき理由、もっともな

理由としてはどのようなものが考えられるだろうか。ここで、アウグスティヌス以来、

キリスト教思想において主流となってきた「自由意志による弁護論」が展開される。

自由意志による弁護論の核心は「道徳上の悪を含んだ世界を創造することなしに、道

徳上の善を含んだ世界を創造することは、神の力の及ぶ範囲内にはなかった」という

主張が可能であると示すことにある 。

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改革派認識論と悪の論理的問題

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神は悪そのものを創造したのではない。今、悪を、人間の作り出す悪、即ち「道徳

悪」と、自然現象に存在する悪、即ち「自然悪」に分けて考えると、まず道徳悪は、

自由意志を与えられた人間の罪から生じる。では、そもそも神はなぜ人間に自由意志

を与えたのか。それは、罪を犯すこともあるが自由意志を備えた存在者のいる世界の

方が、罪を犯さないが自由意志を持たない存在者だけの世界よりも、全体として優れ

ているからである。つまり、悪をなすこともあるが自らの意志で善を選び取り自発的

に神を賛美する人間のいる世界の方が、自動人形だけの世界よりも、全体として優れ

ているわけである。

ここで、全能者ですら論理的な矛盾を犯すことはできないというさきほどの指摘を

思い起こす必要がある。自由意志とは、道徳的に意味のある行為において自らの意志

で善か悪のどちらかを選び取る能力である。神が人間に自由意志を与えたということ

は、悪を選び取る可能性も与えたということを意味する。如何に神といえども、四角

い円を作り出せないのと同様に、人間を自由な存在者として造り、かつ常に善を選び

取るようにさせることはできない。それは強制であり、自由ではなくなってしまう。

以上のような自由意志による弁護論に対して、神は自由意志を与えられたすべての

人間があらゆる決断において善を選び取るような世界を創造することもできたはずで

はないか、という反論が加えられてきた 。この反論に対し、プランティンガは可能

世界論を用いて反論する。「可能世界」(possible world)とは「物事がそうであり得

たあり方」(a way things could have been)であり、「事態」(affairs)の総体である 。

プランティンガまず、神がどのような可能世界でも創造できたと考えるのは誤りで

ある、と述べる。極端な例を挙げれば、神は「神が存在しない可能世界」を現実化す

ることはできない。ちなみに、プランティンガによれば、ライプニッツ(Gottfried

Wilhelm Leibniz、1646―1716)は神がどのような可能世界でも創造できると考えたが、

この過誤を「ライプニッツの誤謬」(Leibniz’s Lapse)と呼ぼう、と言う。しかし、

プランティンガのこの主張は必ずしも正しくない。ライプニッツにも「可能性」

(possibilitas)や「共存可能なもの」(compossibilia)といった概念が見られ、彼も論

理的に共存可能なものだけが現実化され得ると考えていたことは明らかだからであ

る 。

さて、ただ一つの事態を除いてはあらゆる点で同様である二つの可能世界WとW’

を考えてみる。プランティンガの用いている例 を挙げれば、ボストン市長のカーリ

ー・スミス(彼は自由意志を与えられており、即ち、道徳的に有意味な行為において

自らの意志で善を選ぶことも悪を選ぶこともできる)が高速道路管理者のL・B・ス

ミーズから賄賂を贈られたとき、カーリーはWにおいては賄賂を受け取り、W’にお

いては受け取らない。ここでS’を次のような極大な部分世界(世界から一つの事態

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基督教研究 第67巻 第2号

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だけを差し引いたもの)とする。(1)S’はカーリーが賄賂を贈られたことを含む。

(2)S’はカーリーが賄賂を受け取ることも拒絶することも含まない。(3)S’はその他

の点では現実世界と同様である。さらに、次の命題が真であると仮定する。

(命題8)もしS’が現実であれば、カーリーは賄賂を受け取ったであろう。

すると、神がS’を現実化すれば、神の創造する世界はWになり、W’は創造できない

ことになる。

ちなみに、もちろん、(命題8)の代わりに

(命題8’)もしS’が現実であれば、カーリーは賄賂を拒絶したであろう。

が真であると仮定すれば、神がS’を現実化した場合、神の創造する世界はW’になり、

Wは創造できないことになる。

この議論でプランティンガが言わんとしているのは、神がどのような可能世界を現

実化できるかは、或る程度まで自由意志を与えられた存在者にも懸かっているという

ことである。可能世界の現実化は神と自由意志を与えられた存在者の共同作業である

とも言えよう 。カーリーが賄賂を受け取れば、彼が賄賂を拒絶する可能世界は神と

いえども現実化することができないのである。

プランティンガは、自由意志を与えられた人間がどのような可能世界においても少

なくとも1回は悪を選び取り(これを「貫世界的堕落」〔transworld depravity〕と呼

ぶ)、しかもすべての人間の本質が貫世界的堕落の状態にあると仮定することは可能

だと述べている。この前提に立てば、すべての人間があらゆる状況において善だけを

選び取るような世界を創造することは神にもできなかったことになる。従って、貫世

界的堕落を前提すれば、「神は自由意志を与えられたすべての人間があらゆる決断に

おいて善を選び取るような世界を創造することもできたはずではないか」という反論

は成り立たなくなる 。

次に、自然悪が存在するのはどのような理由によるのだろうか。これはプランティ

ンガが数多くの批判を受けた点だが、やはりアウグスティヌスに倣い、自然悪を悪魔

の仕業であると説明している。悪魔は伝統的に堕罪した天使であるとみなされてきた。

天使は神によって自由意志を与えられた純粋に精神的な存在者である。そうすると、

自然悪に関しても、さきほどと同じように自由意志による弁護論を展開することがで

きるわけである 。

さて、ここで思い出す必要があるのは、プランティンガの主張しているのが弁護論

であって神義論ではないということである。即ち、彼は(命題1’)や(命題7)、ま

た自由意志や貫世界的堕落や悪魔に関する諸命題が真であると主張しているのではな

い。これらの命題の内容が真であるか偽であるかについては何の判断もなされていな

い(もちろんプランティンガ自身はこれらの命題が真であると信じているが)。弁護

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改革派認識論と悪の論理的問題

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論の主張しているのは、これらの命題が論理的に共立可能だということ、つまりすべ

てを同時に真であると信じても認識論上の過誤を犯していないということだけである。

2-c. 自由意志による弁護論の問題点

以上、悪の論理的問題に対する改革派認識論の対応を見てきたが、問題点を幾つか

指摘しておこう。

まず、改革派認識論が神義論と弁護論を峻別し、弁護論のみに徹したことは、「自

由意志による神義論」に対するあらゆる批判を回避し得た巧みな戦術であった。例え

ば、「自然悪は悪魔の仕業である」という命題を真であると主張すれば、現代社会に

おいては集中砲火を浴びることだろう。しかし、弁護論の主張しているのは、「自然

悪は悪魔の仕業である(それが真であるかどうかは分からないが)と考えれば、自然

悪の存在にも拘らず、有神論的諸信念の間に非整合性(矛盾)は生じず、従って、有

神論を抱き続けても何ら認識論上の過誤を犯していることにはならない」というもの

である。その点、弁護論は、神義論とは異なり、神義論に向けられた批判に対してい

わば「免疫」ができているとみなし得る。

しかし、自由意志による弁護論の有効性は、幾つかの前提を受け入れるかどうかに

懸かっているとも言える。例えば、自由意志による弁護論は、如何に神といえども論

理的な矛盾を犯すことはできないと前提する。しかし、神が創造主であるとは論理す

らも神の被造物だということを意味しているのであるから、神は私たち人間の知って

いる論理とは全く異なった論理を作り出し得たと考えることも可能である。私たちに

は想像もできないが、四角い円を創造することや「7+5=75」にすることや人間に

自由意志を与えると同時に善のみを選び取らせるといったことである。全能者に対す

る論理的限界という前提を受け入れたときに初めて自由意志による弁護論は成功して

いると考えられる。その点、自由意志による弁護論は神の「全能性」を緩和している

とも言えるのである。こうした事情をマッキーは「全能性のパラドックス」(Paradox

of Omnipotence)と呼び、「全能者は彼が後にコントロールできなくなるようなもの

を作るだろうか」「全能者は自分自身を縛るような規則を作るだろうか」と問うてい

る 。

その他にも、神は同時に二つ以上の可能世界を現実化することはできないといった

仮定や、悪をもなし得る自由意志は善のみを行う自動装置よりも優れているといった

価値判断が、無条件で前提されている。さらに興味深いのは、(神は全知であるから)

自由意志を与えられた存在者が悪を犯すと予め分かっているとき、神はそもそも世界

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を創造する危険を冒すだろうかという疑問である。神は如何なる世界も創造しないと

決断することもできたはずである。神が世界を創造しないことを選ばす、世界を創造

したということは、この世界における善の最終的な質・量が悪の最終的な質・量を

(神の目から見て満足の行く程度にまで)凌駕するという前提抜きには考えられな

い 。この点を認め、(プランティンガの理論を受け継いだ)デイヴィスは「自由意

志による弁護論者は、第一に、最終的に存在するであろう悪の量は最終的な善の量に

よって凌駕されるであろうということ、第二に、悪に対する善のこの好ましいバラン

スは神によって他の方法では得られなかったということ、を主張しなければならな

い」と述べている 。

また、或る種の概念の形成には価値や情緒が必然的に絡み付いているので、そうし

た概念に関しては純粋に論理的な議論は適切ではない、という批判がなされることも

ある。例えば、「或る悪い事態がそれを凌駕する善い事態に含まれている場合、即ち

或る悪を排除するためにはそれを凌ぐ善をも排除しなければならない場合、全善者と

いえどもその悪を排除しない」という主張は、多少の悪は全体的な善を増すために必

要であるという考えに至るが、これは悪の道具主義的な理解であり、許されるべきで

はないと論じられる 。

ところで、自由意志による弁護論は、悪が論じられる際に真に問題とされている

「運命と功績の不一致」 、即ち「因果応報の破綻」(この世界は善因善果・悪因悪果

の法則が支配すべきであるのに、実際にはい・わ・れ・の・な・い・苦難が存在するという謎)に

は全く触れていない。恐らくは「ヨブ記」が執筆される遥か以前から、人類が問い続

けてきたのは、「なぜ悪が存在するのか」よりも、「なぜ善人が苦しむのか」という問

いである(悪人が苦しんでも、誰も疑義を呈さない)。有神論的信念の合理性の弁護

のみを目指す改革派認識論は、この問題を取り上げない。もし私たちが自由意志によ

る弁護論にフラストレーションを覚えるとすれば、一つにはそれが原因であろう。し

かし、これについては稿を改めて論じることにする。

いずれにせよ、英語圏の宗教哲学界においては、自由意志による弁護論はマッキー

などの主張する悪の論理的問題を効果的に解決したとみなされており、全知・全能・

全善なる神の存在と悪の存在が論理的に共立不可能であるという議論は現在では殆ど

なされなくなっている。議論の焦点は、この世界における悪の存在や質・量が神の存

在する確率を著しく減少させるという疑義、即ち悪の「証拠的」ないし「確率論的」

問題や、悪の存在が有神論的信念を基本的・直接的に打ち砕くという批判、即ち悪の

「非議論的」問題に移ってきていると言えよう。

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改革派認識論と悪の論理的問題

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1 本論の執筆に当たっては平成17年度科学研究費補助金の交付を受けている。また本論は、2005年9月23

日に関西学院大学で開催された日本基督教学会第53回学術大会における研究発表を修正したものである。

2 Stephen T. Davis (ed.), Encountering Evil: Live Options in Theodicy, A New Edition, Westminster John

Knox Press,2001.

3 スティーヴン・T・デイヴィス(編)、本多峰子(訳)『神は悪の問題に答えられるか 神義論をめぐ

る五つの答え』、教文館、2002年7月5日発行。

4 このうち、オールストンは米国監督教会に属しているが、改革派認識論を主張するためには改革派に属

している必要はない。

5 Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief,Oxford University Press,2000,pp.460-462.

6 Ibid.,pp.462-481.

7 Ibid.,pp.481-498.

8 拙論「宗教的哲学としての改革派認識論 有神論的信念の認識論的地位を巡って」、『基督教研究』第

65巻第1号、2003年9月、59-78頁。

9 Nicholas Wolterstorff,“Reformed Epistemology”in D.Z.Phillips and Timothy Tessin (eds.),Philosophy of

Religion in the 21st Century,Palgrave,2001,p.45.

10 Alvin Plantinga,“Reason and Belief in God”in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff(eds.),Faith and

Rationality:Reason and Belief in God,p.59.

11 Ibid.,pp.78-82. ここまでに述べた諸点に関しては注8の拙論を参照のこと。

12 Ibid.,pp.82-87.

13 Idem.

14 Plantinga,Warranted Christian Belief,pp.374-457.

15 J.L.Mackie,“Evil and Omnipotence”in William L.Rowe (ed.),God and the Problem of Evil, Blackwell,

2001,pp.77-90.

16 Ibid.,p.78.

17 Ibid.,pp.78,89f.

18 Alvin Plantinga,The Nature of Necessity,Oxford University Press,1974,pp.164-195.Alvin Plantinga,God,

Freedom,and Evil,Eerdmans,1974,pp.7-64.

19 Plantinga,God,Freedom,and Evil,pp.12-24.

20 Ibid.,pp.31,54.

21 Mackie,Ibid.,p.86.

22 Plantinga,God,Freedom,and Evil,p.34.

23 ライプニッツ「形而上学叙説」「モナドロジー」「事物の根本的起原」などを参照のこと。『ライプニッ

ツ著作集』第6-9巻。工作舎、1989-91年。

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24 Plantinga,God,Freedom,and Evil,pp.45-49.

25 Cf. Nelson Pike, “Plantinga on Free Will and Evil”in Religious Studies, Vol.15, Cambridge University

Press,1979,p.451.

26 Ibid.,p.53.

27 Ibid.,pp.57-59.

28 Mackie,Ibid.,p.87.

29 Cf.Pike,Ibid.,pp.454-457.

30 Stephen T. Davis, “Free Will and Evil”in Stephen T. Davis (ed.), Encountering Evil: Live Options in

Theodicy,p.76.

31 D. Z. Phillips,“Critique by D. Z. Phillips”in Stephen T. Davis (ed.), Encountering Evil: Live Options in

Theodicy,pp.89-91.

32 Max Weber Gesamtausgabe, /19,J.C.B.Mohr(Paul Siebeck):Tubingen,S.95.

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