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154. メタボリック症候群に対する漢方臨床研究 若杉 安希乃 Key words:漢方薬,メタボリック症候群,臨床試験, 漢方医学的所見 北里大学 東洋医学総合研究所 EBMセンター メタボリック症候群は,心血管病の強い危険因子であることが明らかとなっており 1) ,40 歳から 64 歳の日本人男性の 4 人に 1 人はメタボリック症候群であると報告されている 2) .その治療に関して西洋薬に対する国民の嫌悪感や,製薬企業の巧みな広 告などの影響によりメタボリック症候群に効果があるとされる市販漢方薬の人気が高まっている.また,医療機関においても医療 用漢方製剤が処方されており,処方数はかなりの数に上ることが推定される.しかし,漢方薬のメタボリック症候群に対する有用 性を示した実質的な Evidence は存在しないにもかかわらず,有用であることを前提に漢方薬が安易に使用されている現状は非 常に問題である.さらにこのような現状は「漢方製剤による副作用を防止するためには,「証(漢方医学的診断)」に基づいて 処方をすることが大切である」とする,1997 年に旧厚生省から出された医薬品副作用情報(No.143)にも反する.患者の利 益を考慮すればメタボリック症候群に対する漢方薬の有用性の有無や漢方医学的所見との関連性を科学的に検証する必要性が ある.そこで,我々は,メタボリック症候群に対する代表的漢方薬である防風通聖散の有用性を,漢方医学的観点も取り入れ ながら検証することを目的としたランダム化比較試験を実施した. 被験者の募集は,港区コミュニティ情報誌・地下鉄情報誌・ポスター・ホームページを活用した.日本内科学会などが作成した 基準により,メタボリック症候群と診断された男女 180 例を対象とした.十分な説明の下,書面による同意を取得した後に実薬 (防風通聖散エキス錠)服用群とプラセボ服用群にランダム割り付けを行った.服用前に漢方医学的診察の他,身体検査,血 圧(診察室血圧)測定,血液検査,質問票調査などの評価を行った.試験薬服用期間は 6 ヶ月とし,服用前評価と同様 (漢方医学的所見は除く)のデータを採取する.一次評価項目は体重(BMI)とした.二次評価項目は腹囲,血圧(家庭血 圧),脂質関連項目(HDL, LDL, TG),糖尿病関連項目(血中HbA1c 濃度,空腹時血糖値,HOMA-IR (homeostasis model assessment insulin resistance)),動脈硬化指標(高感度CRP,CAVI (cardio-ankle vascular index)),生 活全般 QOL 指標(SF-36),有害事象の発生とした.評価項目の群間比較に際しては ANNOVA法を中心にして必要な統 計学的検討を行う予定である.漢方医学的所見の有無と効果,安全性の関連については,Cox 比例ハザードモデル等を用い て検討する予定である.本試験に用いる試験薬(防風通聖散)は 12 世紀の中国の書物,「宣明論」を原典とする処方であ る.漢方医学的には肥満性卒中体質者に用いられることが多く,体内に食毒・水毒・梅毒・風毒など一切の自家中毒物がうっ滞 しているものを,皮膚・泌尿器・消化器を通じて排泄し,解毒する作用があるとされる.俗にいう太鼓腹・重役腹といわれる腹証 を呈し,便秘がちで,脈腹ともに充実して力がある者の高血圧,脳卒中,皮膚病等に用いる処方である 3) 結果および考察 本研究は平成 21 年度に準備を開始し,試験を開始したが,症例の登録が予定通り進まず,平成 23 年 4 月末の時点で, 目標症例数 180 例に対して登録は 45 例に留まっていた.その後,情報媒体を工夫し,被験者募集に力を注いだ結果,平成 24 年 4 月現在,127 例にまで増加した.着実に被験者数の増加はしているが,試験終了までは,なおしばらくの期間が必要 である.二重盲検比較試験の性質上,目標症例数の試験が終了するまで結果の解析を行うことは不可能である.このため本 報告書では,登録された 127 例の背景を分析するに留める. 上原記念生命科学財団研究報告集, 26 (2012) 1

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154. メタボリック症候群に対する漢方臨床研究

若杉 安希乃

Key words:漢方薬,メタボリック症候群,臨床試験,  漢方医学的所見

   北里大学 東洋医学総合研究所   EBMセンター

緒 言

 メタボリック症候群は,心血管病の強い危険因子であることが明らかとなっており 1),40 歳から 64 歳の日本人男性の 4 人に1 人はメタボリック症候群であると報告されている 2).その治療に関して西洋薬に対する国民の嫌悪感や,製薬企業の巧みな広告などの影響によりメタボリック症候群に効果があるとされる市販漢方薬の人気が高まっている.また,医療機関においても医療用漢方製剤が処方されており,処方数はかなりの数に上ることが推定される.しかし,漢方薬のメタボリック症候群に対する有用性を示した実質的な Evidence は存在しないにもかかわらず,有用であることを前提に漢方薬が安易に使用されている現状は非常に問題である.さらにこのような現状は「漢方製剤による副作用を防止するためには,「証(漢方医学的診断)」に基づいて処方をすることが大切である」とする,1997 年に旧厚生省から出された医薬品副作用情報(No.143)にも反する.患者の利益を考慮すればメタボリック症候群に対する漢方薬の有用性の有無や漢方医学的所見との関連性を科学的に検証する必要性がある.そこで,我々は,メタボリック症候群に対する代表的漢方薬である防風通聖散の有用性を,漢方医学的観点も取り入れながら検証することを目的としたランダム化比較試験を実施した.

方 法

 被験者の募集は,港区コミュニティ情報誌・地下鉄情報誌・ポスター・ホームページを活用した.日本内科学会などが作成した基準により,メタボリック症候群と診断された男女 180 例を対象とした.十分な説明の下,書面による同意を取得した後に実薬(防風通聖散エキス錠)服用群とプラセボ服用群にランダム割り付けを行った.服用前に漢方医学的診察の他,身体検査,血圧(診察室血圧)測定,血液検査,質問票調査などの評価を行った.試験薬服用期間は 6 ヶ月とし,服用前評価と同様(漢方医学的所見は除く)のデータを採取する.一次評価項目は体重(BMI)とした.二次評価項目は腹囲,血圧(家庭血圧),脂質関連項目(HDL, LDL, TG),糖尿病関連項目(血中HbA1c 濃度,空腹時血糖値,HOMA-IR (homeostasismodel assessment insulin resistance)),動脈硬化指標(高感度 CRP,CAVI (cardio-ankle vascular index)),生活全般 QOL 指標(SF-36),有害事象の発生とした.評価項目の群間比較に際しては ANNOVA法を中心にして必要な統計学的検討を行う予定である.漢方医学的所見の有無と効果,安全性の関連については,Cox 比例ハザードモデル等を用いて検討する予定である.本試験に用いる試験薬(防風通聖散)は 12 世紀の中国の書物,「宣明論」を原典とする処方である.漢方医学的には肥満性卒中体質者に用いられることが多く,体内に食毒・水毒・梅毒・風毒など一切の自家中毒物がうっ滞しているものを,皮膚・泌尿器・消化器を通じて排泄し,解毒する作用があるとされる.俗にいう太鼓腹・重役腹といわれる腹証を呈し,便秘がちで,脈腹ともに充実して力がある者の高血圧,脳卒中,皮膚病等に用いる処方である 3).

結果および考察

 本研究は平成 21 年度に準備を開始し,試験を開始したが,症例の登録が予定通り進まず,平成 23 年 4 月末の時点で,目標症例数 180 例に対して登録は 45 例に留まっていた.その後,情報媒体を工夫し,被験者募集に力を注いだ結果,平成24 年 4 月現在,127 例にまで増加した.着実に被験者数の増加はしているが,試験終了までは,なおしばらくの期間が必要である.二重盲検比較試験の性質上,目標症例数の試験が終了するまで結果の解析を行うことは不可能である.このため本報告書では,登録された 127 例の背景を分析するに留める.

 上原記念生命科学財団研究報告集, 26 (2012)

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  127 例の性別,平均年齢,漢方服用歴,生活習慣(飲酒歴,喫煙歴,食生活,運動)を表 1 に示す.性別比率は,一般的に男性は女性の 2~7 倍の罹患率とされていることからすれば,妥当と考えられる.平均年齢は男女ほぼ同じである.漢方薬服用歴は,ほとんどない.飲酒歴は,一般的な習慣的飲酒者割合(男性 49%,女性 8.5%)に比較して多い印象である.喫煙歴は,一般的な喫煙者割合(男性 37%,女性 12%)に比較して少ない印象である.食生活習慣は,規則的な食生活をしている患者が比較的多い印象である.運動習慣は,運動する者としない者とに二分された. 

表 1.127 例の性別,平均年齢,漢方服用歴,生活習慣(飲酒歴,喫煙歴,食生活,運動) 

食生活習慣は,規則的な食生活をしている患者が比較的多い印象である.  図 1 には,臨床検査値を示す.①BMI は,標準をわずかに上まわる程度の肥満が一番多かった.②男性腹囲は,組み入れ基準(85 cm以上)を反映していた.③女性腹囲は,組み入れ基準(90 cm以上)を反映していた.④中性脂肪に関しては,約 8割の被験者は基準(150 mg/dl 以上)を超えた.⑤HDL コレステロールに関しては,基準(40 mg/dl 未満)を下まわった被験者は全体の 5 分の 1 以下である.⑥診察室収縮期血圧は 130 mmHg 台が多かったが,極度に高い被験者も散見される.⑦診察室拡張期血圧は90 mmHg台が多かった.⑧空腹時血糖値については,基準(110 mg/dl 以上)を下まわった被験者は約 8割である.

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 図 1. 127 例の臨床検査値.

①BMI:28.3 ± 3.5,標準をわずかに上まわる程度の肥満が一番多かった.②男性腹囲:99.5 ± 8.0,組み入れ基準(85 cm以上)を反映していた.③女性腹囲:103.9 ± 7.4,組み入れ基準(90 cm以上)を反映していた.④中性脂肪:206.8 ± 183.6,約 8割の被験者は基準(150 mg/dl 以上)を超えた.⑤HDL コレステロール:48.0 ±10.5,基準(40 mg/dl 未満)を下まわった被験者は全体の 5 分の 1 以下である.⑥診察室収縮期血圧:143.5 ±17.8,130 mmHg台が多かったが,極度に高い被験者も散見される.⑦診察室拡張期血圧:94.2 ± 11.9,90 mmHg台が多かった.⑧空腹時血糖値:103.8 ± 25.4,基準(110 mg/dl 以上)を下まわった被験者は約 8割である.

   表 2 には,漢方医学的他覚所見の結果を示す.舌診において,漢方医学的に瘀血の徴候とされる舌下の静脈怒張所見が陽性の患者は 10%未満と少なかった.脈診では,沈の所見を呈する患者が 3 割と多かった.緩の所見を呈する患者も 17%と比較的多かった.漢方医学的には慢性でゆっくりとした病勢の反映と考えられる.腹診では,腹力が実の患者は 2 割に満たな

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かった.小腹不仁の所見を呈する患者はいなかった.漢方医学的に瘀血の徴候とされる下腹部圧痛の所見を呈する患者が 5分の 1存在した. 

表 2.127 例の漢方医学的他覚所見 

漢方医学的には瘀血の徴候とされる所見を呈する患者が存在した.  以上より,メタボリック症候群は生活習慣病の代表であるが,現在までに登録された 127 例は生活習慣に大きな問題があるとは考えがたかった.この点は,メタボリック症候群に対する薬剤治療がなされていない症例,つまり比較的軽症の症例を対象にしたことの影響が大きいと考える.血圧(診察室血圧)値と中性脂肪値の基準を超えて組み入れられる患者が最も多かった.漢方医学的には瘀血の病態との結びつきが示唆されたが,漢方医学的所見の解析結果からは強い関連があるとは考えにくい. 本研究により,「漢方薬の有用性を実効あらしめるには漢方医学的観点の導入が必要である」という結果が示されれば,漢方薬を適正に使用するための条件整備が促進され,漢方医療に期待する国民の健康増進に寄与するものと考える.さらに本試験は,漢方医学の特性を生かした漢方医学臨床試験デザインを構築する上で重要な一歩となると期待される.  

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共同研究者

本研究の共同研究者は,北里大学東洋医学総合研究所の小田口浩,猪 健志,土谷真佐枝,富内照子,加藤耕平,藤井琴美,堀 厚,石毛達也,川鍋伊晃である.

文 献

1) Iso, H., Sato, S., Kitamura, A., Imano, H., Kiyama, M., Yamagishi, K., Cui, R., Tanigawa, T. &Shimamoto, T.:Metabolic syndrome and the risk of ischemic heart disease and stroke amongJapanese men and women. Stroke, 38:1744-1751, 2007.

2) Takeuchi, H., Saitoh, S., Takagi, S., Ohnishi, H., Ohhata, J., Isobe, T. & Shimamoto, K.:Metabolicsyndrome and cardiac disease in Japanese men:applicability of the concept of metabolic syndromedefined by the National Cholesterol Education Program-Adult Treatment Panel III to Japanese men-the Tanno and Sobetsu Study. Hypertens. Res., 28:203-208, 2005.

3) 矢数道明:臨床応用漢方処方解説. 創元社, 大阪, pp761, 1981.

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